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ー/ー安立と萱島の捜査は、麻生の身辺よりも、遠野の調査に比重が傾きつつあった。萱島も安立も口数が自然となくなってしまうのは、遠野の存在が夜の帳(とばり)のように二人を覆っているから。
釣鐘から遠野の給与振込先から大阪府警察信用での借入金履歴まで記載されてあった。すでに遠野は被疑者だと頭では理解していが、懐具合を盗み見ている気がして、気分がどうしても重くなる。萱島も同じに感覚になって思っている心持ちが伝わってくる。
信用照会を取寄せて分かったのは、一度ブラックリストに載っていた点だった。遠野には子供もいないし、特に贅沢をしている風にも見受けられなかったから、なお驚いた。
「遠野さん、そんなに捜査費を必要としているようにも見えへんかった……」
萱島から零(こぼ)れた言葉だった。まだ夜の会議までは時間がある。
「文ちゃん、遠野の家に行くで」
「え? 大丈夫なんですか?」
「近くまで来たからとか言えば、何とかなるやろう。それに、遠野の奥さんである幸(ゆき)美(み)さんとは何度か会ってるしな」
「分かりました」
本部からは下道を車で走っても三十分ほどで着く。車内は静かで、やけに車のエンジン音が耳に入ってくるだけで、安立も萱島も気配を消している。道は混み出していて、気持ちに比例するかのように前に進まない。
遠野家のある加島に着いた頃には、空が鮮やかな朱の隙間から恨めしそうに残る青と、空を一面に染めようとする紺青色が入り乱れていた。加島駅から路地にゆっくりと入っていく。駅周辺はマンションが目立つが、奥に進むと道幅も広くて戸建の家が目立ってきた。小綺麗な低層の賃貸マンションやアパートも多い。
「この辺りですよね」
「その筋を曲がったところやけど、車は家を通り過ぎた先が、広めの道になってるから、その路肩に駐めたらええ」
「家にも来たことがあったんですか?」
「新築祝いでな」
ハウスメーカーで建てた家は四角で、壁がレンガ色のタイル。車を二台駐車できるスペースが確保されている。車を路肩に止め、安立が先頭になって歩いた。遠野の文字が鉄のプレートにローマ字で書かれている。
家の一階部分からは光が漏れているので、留守ではない。安立はインターホンを押した。
「はい」
「お久しぶりです。安立です」
「え? え? ちょっとお待ちください」
突然の、それも夫の上司の来訪にかなり驚いている様相が伝わってきた。
「本当は、女の人は色々準備があるから、連絡を入れてあげらよかったかもしれませんよ」
「それやったら、意味がないやろ」
「ですよねえ」と萱島と話していると、張りつめた気持ちが楽になった。
「すみません。お待たせしました。どうぞどうぞ」
以前に会った時はショートだった幸美の髪は伸びていた。髪を一つに纏め、細身のジーンズに上は紺色のシャツ。腰にはカフェ店員みたいなエプロンをしていて、年齢よりは若く見える。
「突然、押しかけて、すみませんね」
二人は玄関で靴を脱ぎ、そのままリビングに通された。以前に来た時よりも物が増えている。部屋の端には健康器具がいくつか置かれていた。
「お久しぶりですね。新築祝いで来てもらって以来ちゃいますか?」
「本部でちょっと顔を合わせましたよ」
「ああ、主人の着替えを持って行ったときですね。冷たいお茶でいいですか?」
「いえいえ。たまたま捜査で近くを通っただけで。直ぐにお暇(いとま)しますんで」
「そう言わずに。冷たいお茶を淹れますから」
幸美が対面式のキッチン・カウンターでお茶を淹れ始めた。
「最近、何かまた忙しいみたいですね」
「すみません。遠野を早く帰してやれんで」
「責めてるんとちゃうから、そんなこと言わんといてくださいよ」
「遠野は家では、どうですか?」
幸美がガラステーブルにお茶を置いた。カランと氷がグラスに当り、涼しげな音が漏れる。
「相変わらずですよ。無口やし、ほとんど愛想もないし」
「奥さんは、なんで遠野さんと結婚したんですか?」
「何を聞いてんねん、お前は」
「いいんですよ。主人とはお見合いやったんですよ。真面目な人やし、警察官で身元も固かったから。でもね……」
明るかった幸美の声のトーンが下がり、幸美の目が部屋の中を泳いだ。
「どうか、しはったんですか?」
「いえ、別に」と何か歯切れが悪い。
「主人は職場では、どうですか?」
安立にあやふやに答えた幸美が、今度は反対に質問をぶつけてくる。
「真面目にやってますよ。口数は、相変わらずですけどね。何か、気になることでもありましたか?」と軌道を戻しつつ、嘯いた。
幸美は視線を落とした。外もだいぶ薄暗くなっていた。
「何か、あんまり元気がないというか、凄い疲れてるように見えるというか……夏バテかなって最初は思ったんですけど、ちゃう気がするんです」
さすがに夫婦だと安立は感心した。幸美よりも職場にいる時間、過ごした時間は安立が長いといえる。それなのに家に帰ってきた短い時間で遠野の変化を察知するのは、やはり夫婦の愛情なのかと思わずにはいられないし、羨ましいと素直に思える。
「いやあ、遠野には、よう働いてもらってるから。すんません」
「いやだ。いいんですよ。昔から、いうじゃないですか。亭主元気で留守がいい、って」
「ほんだら、そろそろお暇しますわ。どうも急に、すみませんでした」
「いえ。また寄って下さい」
幸美が玄関の外まできて見送ってくれ、そのまま深々と頭を下げていた。
「あの安立さん。どうか主人を、よろしくお願いいたします」
安立は任せて下さいとも、わかりましたとも言えなかった。
返事をすれば幸美に嘘を吐くことになる。萱島はすでに幸美を見ているようで見ていない。二人は頭を下げて、車に戻った。
「仕事柄、ハッタリとか馴れてるのに、身内ってだけで、めちゃくちゃ辛いです」
いつもは冷静な萱島が、ハンドルに顔を埋めて弱気になっていた。
「それも含めて、刑事や。ええか。警察を続けるんやったら、馴れるんや。遠野みたいになる刑事は、珍しくないんやから」
萱島はまだ顔を上げない。
「分かってます。分かってるんですけど……ちょっと待ってください」
安立も、黒く渦を巻く積乱雲のような塊を大きく吐いてから、発散するように萱島の頭をグシャグシャに撫で回した。萱島からいつもの反応がなく、顔を上げるまで安立は頭を撫で回した。
釣鐘から、集合時間より早めに本部に戻るようにと言われていたのに、本人は急な打合せまだ少し時間が掛かるからと連絡が入った。
「萱島。まだ引きずってんのか。もうちょっとマシな顔をせえよ」
「すみません。ちょっと顔を洗ってきます」
安立はまだ青いなと思いつつ、トイレに行く萱島の背中を見た。
携帯が鳴り、釣鐘からと思って電話に出た。
「安立です」
「分かっとるわ」
甲高い声の高石だった。気持ちが釣鐘とはまた違う、戦闘体勢に入る。
「お疲れ様です」
「ほんま疲れとるわ。相変わらず知捜はフラフラとしとるだけか?」
電話越しの声は、直で話すよりもより響くから、携帯を少し耳から話した。相変わらず憎まれ口を叩くなと、安立は半ば呆れる。
「何の用ですか?」
「何にスカしとんねん。まあ、ええわ。本部におるけど、お前は、どこにおる」
「自分も本部におります」
「ほんだら、食堂に来い。今すぐにや」
戻ってきた萱島は「髪が!」と文句を言っていた。安立は萱島の文句を無視をして、すぐに戻るからと上階の食堂に向かった。
釣鐘から遠野の給与振込先から大阪府警察信用での借入金履歴まで記載されてあった。すでに遠野は被疑者だと頭では理解していが、懐具合を盗み見ている気がして、気分がどうしても重くなる。萱島も同じに感覚になって思っている心持ちが伝わってくる。
信用照会を取寄せて分かったのは、一度ブラックリストに載っていた点だった。遠野には子供もいないし、特に贅沢をしている風にも見受けられなかったから、なお驚いた。
「遠野さん、そんなに捜査費を必要としているようにも見えへんかった……」
萱島から零(こぼ)れた言葉だった。まだ夜の会議までは時間がある。
「文ちゃん、遠野の家に行くで」
「え? 大丈夫なんですか?」
「近くまで来たからとか言えば、何とかなるやろう。それに、遠野の奥さんである幸(ゆき)美(み)さんとは何度か会ってるしな」
「分かりました」
萱島は資料に書かれた遠野の家の住所を登録した。
家は淀川区の加島にある。通勤ではJR東西線の加島駅から京橋で乗り換えて、森ノ宮で下りてから歩いて出勤している。
家は淀川区の加島にある。通勤ではJR東西線の加島駅から京橋で乗り換えて、森ノ宮で下りてから歩いて出勤している。
本部からは下道を車で走っても三十分ほどで着く。車内は静かで、やけに車のエンジン音が耳に入ってくるだけで、安立も萱島も気配を消している。道は混み出していて、気持ちに比例するかのように前に進まない。
遠野家のある加島に着いた頃には、空が鮮やかな朱の隙間から恨めしそうに残る青と、空を一面に染めようとする紺青色が入り乱れていた。加島駅から路地にゆっくりと入っていく。駅周辺はマンションが目立つが、奥に進むと道幅も広くて戸建の家が目立ってきた。小綺麗な低層の賃貸マンションやアパートも多い。
「この辺りですよね」
萱島が、前のめりになって表札を探している。
「その筋を曲がったところやけど、車は家を通り過ぎた先が、広めの道になってるから、その路肩に駐めたらええ」
「家にも来たことがあったんですか?」
「新築祝いでな」
ハウスメーカーで建てた家は四角で、壁がレンガ色のタイル。車を二台駐車できるスペースが確保されている。車を路肩に止め、安立が先頭になって歩いた。遠野の文字が鉄のプレートにローマ字で書かれている。
家の一階部分からは光が漏れているので、留守ではない。安立はインターホンを押した。
「はい」
直ぐに遠野の妻である幸美が出た。
「お久しぶりです。安立です」
「え? え? ちょっとお待ちください」
突然の、それも夫の上司の来訪にかなり驚いている様相が伝わってきた。
「本当は、女の人は色々準備があるから、連絡を入れてあげらよかったかもしれませんよ」
「それやったら、意味がないやろ」
「ですよねえ」と萱島と話していると、張りつめた気持ちが楽になった。
「すみません。お待たせしました。どうぞどうぞ」
以前に会った時はショートだった幸美の髪は伸びていた。髪を一つに纏め、細身のジーンズに上は紺色のシャツ。腰にはカフェ店員みたいなエプロンをしていて、年齢よりは若く見える。
「突然、押しかけて、すみませんね」
二人は玄関で靴を脱ぎ、そのままリビングに通された。以前に来た時よりも物が増えている。部屋の端には健康器具がいくつか置かれていた。
「お久しぶりですね。新築祝いで来てもらって以来ちゃいますか?」
「本部でちょっと顔を合わせましたよ」
安立は和やかに答えた。
「ああ、主人の着替えを持って行ったときですね。冷たいお茶でいいですか?」
「いえいえ。たまたま捜査で近くを通っただけで。直ぐにお暇(いとま)しますんで」
「そう言わずに。冷たいお茶を淹れますから」
幸美が対面式のキッチン・カウンターでお茶を淹れ始めた。
「最近、何かまた忙しいみたいですね」
「すみません。遠野を早く帰してやれんで」
「責めてるんとちゃうから、そんなこと言わんといてくださいよ」
幸美は可笑しそうに声を立てた。
「遠野は家では、どうですか?」
幸美がガラステーブルにお茶を置いた。カランと氷がグラスに当り、涼しげな音が漏れる。
「相変わらずですよ。無口やし、ほとんど愛想もないし」
「奥さんは、なんで遠野さんと結婚したんですか?」
萱島が無粋な質問をした。
「何を聞いてんねん、お前は」
「いいんですよ。主人とはお見合いやったんですよ。真面目な人やし、警察官で身元も固かったから。でもね……」
明るかった幸美の声のトーンが下がり、幸美の目が部屋の中を泳いだ。
「どうか、しはったんですか?」
前のめりになる気持ちを、安立は抑えた。
「いえ、別に」と何か歯切れが悪い。
「主人は職場では、どうですか?」
安立にあやふやに答えた幸美が、今度は反対に質問をぶつけてくる。
「真面目にやってますよ。口数は、相変わらずですけどね。何か、気になることでもありましたか?」と軌道を戻しつつ、嘯いた。
幸美は視線を落とした。外もだいぶ薄暗くなっていた。
「何か、あんまり元気がないというか、凄い疲れてるように見えるというか……夏バテかなって最初は思ったんですけど、ちゃう気がするんです」
さすがに夫婦だと安立は感心した。幸美よりも職場にいる時間、過ごした時間は安立が長いといえる。それなのに家に帰ってきた短い時間で遠野の変化を察知するのは、やはり夫婦の愛情なのかと思わずにはいられないし、羨ましいと素直に思える。
「いやあ、遠野には、よう働いてもらってるから。すんません」
「いやだ。いいんですよ。昔から、いうじゃないですか。亭主元気で留守がいい、って」
幸美は楽しそうに笑う。
隣に座っている萱島が、気まずさから逃げるみたいに、出されたお茶を飲んだ。
隣に座っている萱島が、気まずさから逃げるみたいに、出されたお茶を飲んだ。
「ほんだら、そろそろお暇しますわ。どうも急に、すみませんでした」
「いえ。また寄って下さい」
幸美が玄関の外まできて見送ってくれ、そのまま深々と頭を下げていた。
「あの安立さん。どうか主人を、よろしくお願いいたします」
安立は任せて下さいとも、わかりましたとも言えなかった。
返事をすれば幸美に嘘を吐くことになる。萱島はすでに幸美を見ているようで見ていない。二人は頭を下げて、車に戻った。
「仕事柄、ハッタリとか馴れてるのに、身内ってだけで、めちゃくちゃ辛いです」
いつもは冷静な萱島が、ハンドルに顔を埋めて弱気になっていた。
「それも含めて、刑事や。ええか。警察を続けるんやったら、馴れるんや。遠野みたいになる刑事は、珍しくないんやから」
萱島はまだ顔を上げない。
「分かってます。分かってるんですけど……ちょっと待ってください」
安立も、黒く渦を巻く積乱雲のような塊を大きく吐いてから、発散するように萱島の頭をグシャグシャに撫で回した。萱島からいつもの反応がなく、顔を上げるまで安立は頭を撫で回した。
釣鐘から、集合時間より早めに本部に戻るようにと言われていたのに、本人は急な打合せまだ少し時間が掛かるからと連絡が入った。
「萱島。まだ引きずってんのか。もうちょっとマシな顔をせえよ」
「すみません。ちょっと顔を洗ってきます」
安立はまだ青いなと思いつつ、トイレに行く萱島の背中を見た。
携帯が鳴り、釣鐘からと思って電話に出た。
「安立です」
「分かっとるわ」
甲高い声の高石だった。気持ちが釣鐘とはまた違う、戦闘体勢に入る。
「お疲れ様です」
いつでも喧嘩を買う心づもりで、挨拶を入れた。
「ほんま疲れとるわ。相変わらず知捜はフラフラとしとるだけか?」
電話越しの声は、直で話すよりもより響くから、携帯を少し耳から話した。相変わらず憎まれ口を叩くなと、安立は半ば呆れる。
「何の用ですか?」
相手にするのも面倒くさくなってくるが、無下にもできない。
「何にスカしとんねん。まあ、ええわ。本部におるけど、お前は、どこにおる」
「自分も本部におります」
あの高石が安立の呼び出しを懸けていたことに、期待が沸いた。
「ほんだら、食堂に来い。今すぐにや」
戻ってきた萱島は「髪が!」と文句を言っていた。安立は萱島の文句を無視をして、すぐに戻るからと上階の食堂に向かった。
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