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重厚なテーブルに、革張りのソファが部屋ギリギリに押し込まれている。奥にあるサイドボードには、派手な陶磁器と酒が並んでいた。

「ちょっとお待ち下さい」

小林の妻が、家の奥にいったん戻っていった。

「何か、息苦しいですね」

安立は萱島の言葉に同調した。

「お待たせしました」

 わざわざお茶の用意をしてくれていたのかと、安立はありがたく出されたお茶を飲んだ。

「夫は見つかったんですよね?」

唐突な問い掛けに、安立と萱島は互いに顔を見合わせた。

「申し訳ありません奥さん。えっと」
「雅恵です。小林(こばやし)雅(まさ)恵(え)です。主人が見つかったんじゃないんですか?」
「すみません。今日は違う件でお伺いしたんです。見つかったって、どういうことですか?」

安立は、雅恵にできるだけ不快感を覚えさえないために、下手に出た。

「捜索願を出してるからですよ」

弱って見えていた雅恵の目が釣り上がり始めた。

「八月の中旬。盆が明けた頃から家に帰ってこうへんようになったんです。ちょっと大きい案件が入って、地方を回るとかで。電話は繋がってたんですけど、だんだん繋がらんようになって。しまいには完全に連絡が取れへんようになって捜索願いを出したんです。そやのに、家出ですかって」

雅恵は見た目とは違い、気の強い女だった。話も苛立ちが隠せずに、怒気を含んでいる。

「何か、心当たりでも?」

 なるべく刺激をせずに話を進めたいが、この手のタイプは、勝手にヒステリーを起こす可能性がある。

「どうもコソコソと家に戻ってきてたみたいで、貴重品やら服とかがなくなってたんです。おまけにタンスの下着入れに、探さんといてくれって、一言だけの紙があって。ピン! と来ましたよ。女やって。こそこそと電話してた時もあったし。でも携帯を取り上げてみても、履歴がないんですよ。でも絶対に女や。警察でしょ? 早く探し出してくれへん?」

最初に別件できたと伝えたのを、すでに忘れているらしい。しかし雅恵の話から、女癖が悪かったのは、わかった。

「奥さん、苦労されたんちゃいますか?」

萱島が雅恵に問い掛ける。

「そんなことはないですよ。家にお金さえ入れてくれてたら」

 要は夫の小林が居なくなって、金に困っているのだ。

「ところで、最後に姿を見たのは?」

雅恵は、萱島に膝を向けて座り直している。

「盆前に、私は実家に帰ったんで、その時かな」
「変わった様子は?」

雅恵の釣り上がっていた目が、徐々に戻ってきている。
おっさんの安立と話すよりは、若い子犬の萱島と話すのがいいらしい。

「電話以外は、特に。夜も、店を閉めてから何処かで食べてくるのがほとんどやったし」

話を聞いていて、安立は少し小林が気の毒に思えた。いつからなのかは判断しかねるが、もう長い間、夫婦らしい生活はしていないらしい。

「お子さんは?」

萱島が質問を続ける。

「娘がいますが、今は結婚して兵庫県にいます」
「遠くはないですね。旦那さんが娘さんの家に顔を出してた、というのはなかったですか?」

安立は萱島の質問を引き継いだ。

「電話をしたけど、来てないって。そもそも、娘も娘なんですよ。近いのに、帰ってもこうへんし、連絡もこっちからせえへんかったらないし」

雅恵はどうやら、完璧な母親、妻だと自分で思っている節がある。雅恵から見える娘の態度から推測すると、実の子供から匙を投げられても仕方がない。何にせよ、雅恵からは有力な情報を得られそうになかった。

「旦那さんの写真があれば頂けますか? あと、よかったら、書斎、部屋を見せてもらえないですか?」

写真はいいとして、部屋の立ち入りをダメもとで聞いてみた。

「どうぞどうぞ」

雅恵は立ち上がって、書斎に案内をしてくれた。あとは好きにしてくれと言わんばかりだった。

「そういえば、なんで来はったんでしたっけ?」

雅恵が不思議そうに聞いてきた。



     
小林の家を出たのは十一時を回っていた。雅恵が友人とランチに行く予定だと言い出したので、手帳、メモ帳、走り書き、几帳面に纏めてあった年賀状の束を貸し出してもらった。

雅恵は「どうせゴミになるんや。好きなだけ持って帰ってください」と、かなり投げやりだった。
安立が会社の中も見せて欲しいと伝えた。

「スペア渡しときます。警察の人やねんから、大丈夫でしょ?」

これも、すんなりと預からせてもらえた。結局、小林宅には、一時間弱の滞在だった。

「何か、あれ、ですね……」

車のハンドルを握っている萱島の顔は、苦笑している。

「何や。変なところで切るな」
「いや、結婚って人生の墓場って、ほんまやな、って」
「そやで」
「あ、ちゃうんです。いや、すみません」

萱島の慌てっぶりが安立には愉快だった。
安立の場合、墓場とは感じた経験はなかった。可愛い娘も生まれて、仕事も無性に楽しかった。家に帰れば「お帰り」と出迎えてくれる家族がいる。人並みの家庭を築いていると自負していた。

しかし、幸せだと感じていたのは安立だけで、相手の笙子(しょうこ)には墓場だったとは、思いもしていなかった。
今でも、はっきりと覚えている。桜の花が開き始めたばかりの春先だった。昼に降った雨で打たれた桜の蕾が、地面に落ちて薄汚くなっていた。あの頃はまだ公務員住宅暮らしだった。

疲れても家に帰れば、三歳になる娘の桜子の顔を見られる。舌足らずで、話す言葉を真似る仕草は愛らしく、まさに疲れがポロポロと剥がれ落ちた。
育児には仕事柄、深くは関わってはいなかった。それでも安立なりにオムツを替えたり、一緒に入れる時は風呂の世話もした。笙子も安立に対して文句を言うこともなかったし、どちらかと言えば微笑ましいといった様子で見ていた。だから青天の霹靂だった。

アスファルトに雨の名残が色濃くあり、夜気には地面の湿気臭いが混ざっていた。扇型で三階建ての公務員住宅の二階の部屋を借りていた安立はその日、部屋の電気が点いていないことを不思議に思った。

いつもなら電気が点いて入る時間だった。今日は何かに疲れて、早く布団にでも入っているのかもしれない。安立は薄暗い階段を上り、左右には四部屋ずつある左に続く通路を歩いた。

曲がって二つ目の玄関扉には、木版に、ピンクで塗られたローマ字の名前が綴られた表札が掛かっている。笙子が雑貨屋で買ってきて作った物だった。
鍵を差し込むと、カチャンと冷えた音がした。玄関扉を開けると中は暗くて、かろうじて玄関から直線上にあるベランダから入ってくる街灯の明かりが、うっすらと差していた。

「ただいま」と、安立は靴を脱いだ。
玄関を上がって左にトイレ、右に風呂場がある。三歩進んで扉があり、開けるとリビングになっていた。

寝ている桜子を起こさないように、物音に注意して立て中に入った。リビング左手には和室が二間。リビングの左手手前にはキッチンがある。
安立は勝手知るリビングのスイッチを押した。
急に明るくなった部屋に、瞬間、目が眩んだ。直ぐに持ち直した目には、テーブルの下で寝ている桜子の姿が飛び込んできた。この時ほど安立の心臓が縮んだことはなかった。

「桜子!」

抱きかかえると、ぐっすりと眠っている。ただかなり泣いていたのか、頬には乾いた涙が塩の道を何本も作っていた。髪は汗でぐっしょりと濡れていて、服も首から背中にかけて湿っていた。

安立は桜子を抱いたまま、笙子の姿を探した。探すと言ってもたった二部屋とリビング、トイレと風呂しかない。しかしどの場所を見ても笙子の姿はなかった。

テーブルには子供用のストローが刺さったマグカップ。中身は空。桜子が飲み干したのだろう。
視線が慌ただしく動いて、キッチンに目が行った。冷蔵庫の上部に、白い封筒が貼り付けられてあった。抱いていた桜子が目を覚まして、寝起きとは思えない声で泣き始めた。

桜子の声が擦れているのに気がついた。桜子を抱きながら封筒を冷蔵庫から剥ぎ取り、中身を取り出した。この時、三歳の娘を声が嗄れるまで放っている笙子に強い憤りを感じていた。

手紙には『あなたとはやってはいけません。離婚してください。子供は邪魔になるので引き取ってください。離婚届を同封しているので、記入して出しておいてください。さようなら』たったそれだけしか書かれていなかった。
あまりの出来事に初めて、周りの音が聞こえなくなる体験をした。

それからが大変だった。笙子の両親は亡くなっていて、姉は結婚して北海道に住んでいた。電話をしても、相手も驚くばかりで、どこに行ったのか、さっぱりだった。
同時に愕然ともした。安立は笙子の友人などの名前や連絡先も何一つ知らなかった。押し入れに仕舞っていた年賀状も消えていて、連絡のとりようもなかった。

慌てて安立の実家に連絡を入れて、事の成り行きを説明すると、母親は飛んでやってきた。
姿を消した笙子に対して文句を言うわけでもなかったが、一言だけ息子の安立に言った言葉が、「どうせ、あんたは何も見てへんかったんやろ。あんたが目にしてるんわ、仕事だけやからな」安立は何も言い返せはしなかった。

枚方市駅にある小林不動産に戻り、手袋をして雅恵から預かってきた鍵で中に入った。入って左側、道路に面した場所にはガラステーブルとソファ。奥にはパーティションで区切られただけの応接室があって、一応は隔離された細やかな社長室。小さな炊事場とトイレ。壁に沿って、白いキャビネットに並べられたファイルには、パソコンで打ち出されたラベルが綺麗に張られていた。

萱島はゴミ箱に残っている紙類を、安立は社長の机の抽斗(ひきだし)の中身を丹念に調べる。顧客名簿もあったが日付も古く、ページは黄ばんでいて長期間ずっと動きがないと物語っていた。机の上のメモ帳も見たが、筆圧も残ってはいない。

「何か、あったか?」
「ゴミはそのまんまみたいですけど、何もないですね。あーあ、今日は五番目に気に入ってるスーツやったのに」

 五番目は、気に入っている内に入るのかの疑問は、口には出さなかった。
事務所にゴミ箱は二つ。入ってすぐ左の応接にゴミ箱と社長机の横に置かれている、大きめの物。

「ほんだら、パソコン点けてみるか」

安立は社長用にしては安物の椅子に座って電源を入れた。
ファンの回る音が止んで、画面が現れる。
顧客名簿のファイルがあって開いてみるが、中身は年賀状の送り先だった。売上資料も開けてはみるが、大した内容ではない。ゴミ箱のフォルダには、アダルト・サイトが入っているだけだった。

「消したんでしょうか?」

横から覗きていた萱島の息が、頬に当たった。

「パソコンは持ち帰って調べるか。ちょっとトイレ行ってくるわ」

安立は奥にあるトイレで水が流れるかを確認してから、手袋を取って用を足した。
炊事場で手を洗っていた安立の視線の先に、細いスキマを埋めている大きめのゴミ箱があった。

事務所のゴミを一つに纏めていたのか、紙類も入ってはいるが、茶ガラも混じっている。手袋を再装着してから戸棚からゴミ袋を探し出した。ゴミ袋の両端を切った物を二枚テープで合わせて、その上にゴミをひっくり返した。



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「ちょっとお待ち下さい」

小林の妻が、家の奥にいったん戻っていった。

「何か、息苦しいですね」

安立は萱島の言葉に同調した。

「お待たせしました」

 わざわざお茶の用意をしてくれていたのかと、安立はありがたく出されたお茶を飲んだ。

「夫は見つかったんですよね?」

唐突な問い掛けに、安立と萱島は互いに顔を見合わせた。

「申し訳ありません奥さん。えっと」
「雅恵です。小林(こばやし)雅(まさ)恵(え)です。主人が見つかったんじゃないんですか?」
「すみません。今日は違う件でお伺いしたんです。見つかったって、どういうことですか?」

安立は、雅恵にできるだけ不快感を覚えさえないために、下手に出た。

「捜索願を出してるからですよ」

弱って見えていた雅恵の目が釣り上がり始めた。

「八月の中旬。盆が明けた頃から家に帰ってこうへんようになったんです。ちょっと大きい案件が入って、地方を回るとかで。電話は繋がってたんですけど、だんだん繋がらんようになって。しまいには完全に連絡が取れへんようになって捜索願いを出したんです。そやのに、家出ですかって」

雅恵は見た目とは違い、気の強い女だった。話も苛立ちが隠せずに、怒気を含んでいる。

「何か、心当たりでも?」

 なるべく刺激をせずに話を進めたいが、この手のタイプは、勝手にヒステリーを起こす可能性がある。

「どうもコソコソと家に戻ってきてたみたいで、貴重品やら服とかがなくなってたんです。おまけにタンスの下着入れに、探さんといてくれって、一言だけの紙があって。ピン! と来ましたよ。女やって。こそこそと電話してた時もあったし。でも携帯を取り上げてみても、履歴がないんですよ。でも絶対に女や。警察でしょ? 早く探し出してくれへん?」

最初に別件できたと伝えたのを、すでに忘れているらしい。しかし雅恵の話から、女癖が悪かったのは、わかった。

「奥さん、苦労されたんちゃいますか?」

萱島が雅恵に問い掛ける。

「そんなことはないですよ。家にお金さえ入れてくれてたら」

 要は夫の小林が居なくなって、金に困っているのだ。

「ところで、最後に姿を見たのは?」

雅恵は、萱島に膝を向けて座り直している。

「盆前に、私は実家に帰ったんで、その時かな」
「変わった様子は?」

雅恵の釣り上がっていた目が、徐々に戻ってきている。
おっさんの安立と話すよりは、若い子犬の萱島と話すのがいいらしい。

「電話以外は、特に。夜も、店を閉めてから何処かで食べてくるのがほとんどやったし」

話を聞いていて、安立は少し小林が気の毒に思えた。いつからなのかは判断しかねるが、もう長い間、夫婦らしい生活はしていないらしい。

「お子さんは?」

萱島が質問を続ける。

「娘がいますが、今は結婚して兵庫県にいます」
「遠くはないですね。旦那さんが娘さんの家に顔を出してた、というのはなかったですか?」

安立は萱島の質問を引き継いだ。

「電話をしたけど、来てないって。そもそも、娘も娘なんですよ。近いのに、帰ってもこうへんし、連絡もこっちからせえへんかったらないし」

雅恵はどうやら、完璧な母親、妻だと自分で思っている節がある。雅恵から見える娘の態度から推測すると、実の子供から匙を投げられても仕方がない。何にせよ、雅恵からは有力な情報を得られそうになかった。

「旦那さんの写真があれば頂けますか? あと、よかったら、書斎、部屋を見せてもらえないですか?」

写真はいいとして、部屋の立ち入りをダメもとで聞いてみた。

「どうぞどうぞ」

雅恵は立ち上がって、書斎に案内をしてくれた。あとは好きにしてくれと言わんばかりだった。

「そういえば、なんで来はったんでしたっけ?」

雅恵が不思議そうに聞いてきた。



     
小林の家を出たのは十一時を回っていた。雅恵が友人とランチに行く予定だと言い出したので、手帳、メモ帳、走り書き、几帳面に纏めてあった年賀状の束を貸し出してもらった。

雅恵は「どうせゴミになるんや。好きなだけ持って帰ってください」と、かなり投げやりだった。
安立が会社の中も見せて欲しいと伝えた。

「スペア渡しときます。警察の人やねんから、大丈夫でしょ?」

これも、すんなりと預からせてもらえた。結局、小林宅には、一時間弱の滞在だった。

「何か、あれ、ですね……」

車のハンドルを握っている萱島の顔は、苦笑している。

「何や。変なところで切るな」
「いや、結婚って人生の墓場って、ほんまやな、って」
「そやで」
「あ、ちゃうんです。いや、すみません」

萱島の慌てっぶりが安立には愉快だった。
安立の場合、墓場とは感じた経験はなかった。可愛い娘も生まれて、仕事も無性に楽しかった。家に帰れば「お帰り」と出迎えてくれる家族がいる。人並みの家庭を築いていると自負していた。

しかし、幸せだと感じていたのは安立だけで、相手の笙子(しょうこ)には墓場だったとは、思いもしていなかった。
今でも、はっきりと覚えている。桜の花が開き始めたばかりの春先だった。昼に降った雨で打たれた桜の蕾が、地面に落ちて薄汚くなっていた。あの頃はまだ公務員住宅暮らしだった。

疲れても家に帰れば、三歳になる娘の桜子の顔を見られる。舌足らずで、話す言葉を真似る仕草は愛らしく、まさに疲れがポロポロと剥がれ落ちた。
育児には仕事柄、深くは関わってはいなかった。それでも安立なりにオムツを替えたり、一緒に入れる時は風呂の世話もした。笙子も安立に対して文句を言うこともなかったし、どちらかと言えば微笑ましいといった様子で見ていた。だから青天の霹靂だった。

アスファルトに雨の名残が色濃くあり、夜気には地面の湿気臭いが混ざっていた。扇型で三階建ての公務員住宅の二階の部屋を借りていた安立はその日、部屋の電気が点いていないことを不思議に思った。

いつもなら電気が点いて入る時間だった。今日は何かに疲れて、早く布団にでも入っているのかもしれない。安立は薄暗い階段を上り、左右には四部屋ずつある左に続く通路を歩いた。

曲がって二つ目の玄関扉には、木版に、ピンクで塗られたローマ字の名前が綴られた表札が掛かっている。笙子が雑貨屋で買ってきて作った物だった。
鍵を差し込むと、カチャンと冷えた音がした。玄関扉を開けると中は暗くて、かろうじて玄関から直線上にあるベランダから入ってくる街灯の明かりが、うっすらと差していた。

「ただいま」と、安立は靴を脱いだ。
玄関を上がって左にトイレ、右に風呂場がある。三歩進んで扉があり、開けるとリビングになっていた。

寝ている桜子を起こさないように、物音に注意して立て中に入った。リビング左手には和室が二間。リビングの左手手前にはキッチンがある。
安立は勝手知るリビングのスイッチを押した。
急に明るくなった部屋に、瞬間、目が眩んだ。直ぐに持ち直した目には、テーブルの下で寝ている桜子の姿が飛び込んできた。この時ほど安立の心臓が縮んだことはなかった。

「桜子!」

抱きかかえると、ぐっすりと眠っている。ただかなり泣いていたのか、頬には乾いた涙が塩の道を何本も作っていた。髪は汗でぐっしょりと濡れていて、服も首から背中にかけて湿っていた。

安立は桜子を抱いたまま、笙子の姿を探した。探すと言ってもたった二部屋とリビング、トイレと風呂しかない。しかしどの場所を見ても笙子の姿はなかった。

テーブルには子供用のストローが刺さったマグカップ。中身は空。桜子が飲み干したのだろう。
視線が慌ただしく動いて、キッチンに目が行った。冷蔵庫の上部に、白い封筒が貼り付けられてあった。抱いていた桜子が目を覚まして、寝起きとは思えない声で泣き始めた。

桜子の声が擦れているのに気がついた。桜子を抱きながら封筒を冷蔵庫から剥ぎ取り、中身を取り出した。この時、三歳の娘を声が嗄れるまで放っている笙子に強い憤りを感じていた。

手紙には『あなたとはやってはいけません。離婚してください。子供は邪魔になるので引き取ってください。離婚届を同封しているので、記入して出しておいてください。さようなら』たったそれだけしか書かれていなかった。
あまりの出来事に初めて、周りの音が聞こえなくなる体験をした。

それからが大変だった。笙子の両親は亡くなっていて、姉は結婚して北海道に住んでいた。電話をしても、相手も驚くばかりで、どこに行ったのか、さっぱりだった。
同時に愕然ともした。安立は笙子の友人などの名前や連絡先も何一つ知らなかった。押し入れに仕舞っていた年賀状も消えていて、連絡のとりようもなかった。

慌てて安立の実家に連絡を入れて、事の成り行きを説明すると、母親は飛んでやってきた。
姿を消した笙子に対して文句を言うわけでもなかったが、一言だけ息子の安立に言った言葉が、「どうせ、あんたは何も見てへんかったんやろ。あんたが目にしてるんわ、仕事だけやからな」安立は何も言い返せはしなかった。

枚方市駅にある小林不動産に戻り、手袋をして雅恵から預かってきた鍵で中に入った。入って左側、道路に面した場所にはガラステーブルとソファ。奥にはパーティションで区切られただけの応接室があって、一応は隔離された細やかな社長室。小さな炊事場とトイレ。壁に沿って、白いキャビネットに並べられたファイルには、パソコンで打ち出されたラベルが綺麗に張られていた。

萱島はゴミ箱に残っている紙類を、安立は社長の机の抽斗(ひきだし)の中身を丹念に調べる。顧客名簿もあったが日付も古く、ページは黄ばんでいて長期間ずっと動きがないと物語っていた。机の上のメモ帳も見たが、筆圧も残ってはいない。

「何か、あったか?」
「ゴミはそのまんまみたいですけど、何もないですね。あーあ、今日は五番目に気に入ってるスーツやったのに」

 五番目は、気に入っている内に入るのかの疑問は、口には出さなかった。
事務所にゴミ箱は二つ。入ってすぐ左の応接にゴミ箱と社長机の横に置かれている、大きめの物。

「ほんだら、パソコン点けてみるか」

安立は社長用にしては安物の椅子に座って電源を入れた。
ファンの回る音が止んで、画面が現れる。
顧客名簿のファイルがあって開いてみるが、中身は年賀状の送り先だった。売上資料も開けてはみるが、大した内容ではない。ゴミ箱のフォルダには、アダルト・サイトが入っているだけだった。

「消したんでしょうか?」

横から覗きていた萱島の息が、頬に当たった。

「パソコンは持ち帰って調べるか。ちょっとトイレ行ってくるわ」

安立は奥にあるトイレで水が流れるかを確認してから、手袋を取って用を足した。
炊事場で手を洗っていた安立の視線の先に、細いスキマを埋めている大きめのゴミ箱があった。

事務所のゴミを一つに纏めていたのか、紙類も入ってはいるが、茶ガラも混じっている。手袋を再装着してから戸棚からゴミ袋を探し出した。ゴミ袋の両端を切った物を二枚テープで合わせて、その上にゴミをひっくり返した。



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