12
12/40翌日、家で娘の桜子と、夕食の準備をしていた安立の携帯が鳴った。
「安立さん、ですか?」
「安立です。昨日の、ですね」
「はい。昨日、言われた物があるんですが、どうしたらいいです?」
安立は、女の行動の早さに感心した。
「ありがとうございます。どうでしょう? 今から会えるんやったら、指定される場所に向かいますが」
安立は、女が作る沈黙が好きではなかった。
「ほんだら枚方市駅にある、っていう居酒屋でもいいですか? 今日は、平日のど真ん中やし、個室も空いてると思うんで」
「分かりました。何時ごろにしましょ?」
「七時に待ってます。多分、私のほうが着くの早いと思うから、先に入ってます。大垣って、受付で言って下さい」
安立は返事をして、電話を切った。
「え? お父さん出掛けるん? 晩御飯どうするん」
元々、切れ長の涼しい目元の桜子の目は、安立に睨みを利かして迫力があった。
「ごめん。仕事が入ったんや。今から人と会うことになって。ほんまごめん」
安立は桜子に手を合わせて、謝った。職場の人間には見せられない姿だ。
「しゃあないな。おばあちゃんと二人で食べるわ。お父さんの分は、一応冷蔵庫に入れとくから、頑張って」
打って変わって笑顔になった桜子を、抱きしめようとしたが、サッと避けられてしまい、自分を抱きしめた格好になった。
安立は女の名前を頭に刻み込み、同じく当直明けで非番の萱島に電話を架ける。
「文(あや)ちゃん。今日は飯でも一緒に行こか」
「え? おごりやったら、行きますけど」
「ちょうど夕食の準備を終えて桜子と食べるからつもりやったから、タッパーに入れて行ったる」
「桜子ちゃんと食べてください。遠慮しときますんで」
「そうか。ほんだら、昨日の電話の相手と、二人で食べてくるわ」
萱島は一気に覚醒(かくせい)したのか、嬉しそうに時間と場所を聞いてきた。
安立は娘の桜子にもう一度謝罪して、スーツに身を包んで六時半前に家を出た。
桜子は中学三年になるが、刑事の父親のせいか、まるで刑事の妻の鏡みたいにいつも安立を送り出してくれる。
マンションから最寄りの京阪森小路駅まで歩く。まだ暑いとはいえ、八月に比べて太陽の沈む時間は早くなっている。赤い空からのライトで、家々の屋根を赤く染めて、哀愁(あいしゅう)を感じ、何だか寂しい気分にさせられる。
普通電車で四駅先の守口市駅で急行に乗り換えて、枚方市駅まで三〇分も掛からない。しかし帰宅ラッシュで、急行の電車内は人が多い。
「安立さん」
「早かったな」
「京橋から、特急に乗れたんで」
「安立さん、お腹が空きました」萱島がお腹を擦る。
「何や、ぽんぽん痛いんか? ほんだら、何も食べられへんやん」
「お腹が空き過ぎて痛いんですよ」
揃ったところで、店のある出口からバス・ロータリーを渡って、雑居ビルの四階にある居酒屋に入った。
「すんません。大垣の連れです」
男性店員が、待ってましたとばかりに案内をしてくる。水曜日なのに結構な客が入っていて、花火が上がった時のような、一瞬の爆笑が聞こえてきた。
「おしゃれな居酒屋ですね。これで相手がブサイクなら、ええのに」
「なんでやねん。男でも女でも、美人がええやろ」
「男でも女でも、俺の引き立て役になってくれたらいいんで」
「お連れ様をご案内しました」
店員が障子を開けて中に入った。安立は詫びを一言入れて、掘り炬燵(ごたつ)に萱島と並んで座った。店員が先に飲み物の注文を聞いてきた。
「ビールでいいですか?」と大垣が聞いてきたので、安立がそのまま店員にビールを三つ注文した。
「初めまして知能犯特別捜査係の安立剣剛と萱島文都です」
改めて自己紹介をし、警察手帳を提示すると、大垣香奈恵も慌てて姿勢を正した。照明のせいなのか、まだ飲んでいないはずなのに、香奈恵の顔が赤く見えた。
「大垣香奈恵です。よろしくお願いします」暖色系の明かりの中、ショートボブの香奈恵の色白い首筋が艶めかしく見えた。
耳にはダイヤのピアスが光って、短い髪型に似合っていた。香奈恵はそれっきり口を開かず、何度も水の入ったコップに口を付けていた。
個室と言っても完璧な造りではなく、仕切りが外れるので、天井が隣の部屋と繋がっている。しかし隣室に客が入っていないのか、離れた場所から聞こえてくるサラリーマンの声と笑い声だけが、静まり返っている部屋に響いてくる。
沈黙が息苦しいのか、萱島が何度も肘で安立の腕を押してきた。我慢しきれなくなったのか、メニューを捲り始める。沈黙に割り込んできたのは、店員の「飲み物をお持ちいたしました」の声だった。
「適当に注文しますんで」と、萱島が迷いもなく料理を幾つか注文した。
店員が出て行って直ぐ、香奈恵がビールを一気に飲み始めた。安立は驚かなかったが、萱島が隣で「おお!」と声を出している。
空になった生チュウのグラスを置いた香奈恵が、やっと安立たちを正面に見据え、口を開いた。
「ほんまに課長、絶対に横領してるわ」香奈恵は手の甲で口を拭う仕草をした。
組織の人間が何か密告する時は、立場と正義感の狭間で揺れ動くものだ。
「大垣さんは、何で、そこまで確信してはるんですか?」
「これ、伝票です。見てください」
香奈恵が、小さく折り畳まれた紙をテーブルに置いた。
安立は小さくなった紙を広げていく。萱島も隣から覗き込んできた。三枚の紙が重ねられていて、バラバラにした紙を並べてみた。
一枚目と二枚は、同じ会社名が入った伝票。三枚目は同じ人物が書いていると思われる、数字が記載されている帳簿のコピーだった。香奈恵は何も言わず、安立と萱島の表情の変化を見逃さないとばかりに、凝視している。
企業名は二枚とも判子で、金額は手書き。記入されている数字も同じに見える。帳簿の数字に視線を移した。
伝票に書かれている数字の癖とは全く違う。しかし、香奈惠は横領の証拠だと思って、こうして持ってきている。
店員が頼んだ料理を持ってきた。香奈惠は、生ビールのお代わりを注文した。安立は眼球を左右に何度も動かし、見えない間違いを探した。
安立はある特徴に気がついた。
「大垣さん、もしかして、1の数字ですか?」
顔を上げると、香奈惠の顔の筋肉が緩んだ。
「そうです! 分かってくれはりました? 下が払うように終わってるのが、お客さんの1で、終わり方は同じにしてるけど、頭が少しだけ折れてるのが、課長の1です」
帳簿の1は、ほんの少しだけ上が折れている。しかし、言われて分かる程度の折れだ。
「伝票のお客さんなんですが、小銭の入金が多かったりするんです。他にも、そんなお客さんを何件か持ってはって、入金し終えた前後に必ず、数万ほど引き出す手続きを課長が持ってくるんです。でも、通帳を見ても、以前はそんなことなかったみたいで」
「それで、おかしい、と?」
香奈惠はやっと秘密を吐き出せた開放感と、安立が食いついてきてくれたのが嬉しいみたいだった。
「数字って似せて書いても、無理やと思うんです。四角の小さいスペース書かれた数字の統一感っていうか、バランスが見てる人間に不快感を与えるっていうか。気にならへん程度やねんけど、違和感があるんです」
香奈惠の感覚的な話を聞いて、分からなくもなかった。香奈惠から電話を受けた時に、泉が体のどこかで湧き始めた感覚。事件にできる確信と同じではないだろか。
「言われてみれば、違いますね。でも、ようわかりましたね」
萱島が紙を目の前に置いて、感心しながら見比べている。
「大垣さんは、俺たちより数字のプロや。プロの感覚は鋭いんや。すんません、大垣さん」
「そんなプロやなんて」香奈惠はテーブルに並んだ料理に箸を付けた。
「でも大垣さん、銀行を辞めはるつもりとちゃいますか?」
香奈惠は切れ長の目を大きく見開いて、動きを止めた。
「そこまで調べてはるんですか?」
香奈恵の顔は、眉間に皺を寄せて、怪訝(けげん)な表情になった。
「銀行の支店ていう、狭い中での不正の密告ですからね。ずっといる予定の人間は、まず電話はしてこうへんかと」
香奈恵は視線を落としたまま黙り込んだ。
安立は話を戻して、課長の特徴や支店内での席を尋ね、ペンと紙を渡した。香奈惠は支店内の机の配置と課長の特長を書き出し始めた。
最後に課長の似顔絵を、文字を書くようにさらっと描いてくれた。
「絵、上手ですね」まだ生で顔を拝んではいないが、香奈惠の絵は特徴を捉えている気がした。
「ありがとうございます」と口にした後、ぽつりと話を始めた。
「さっき辞めはるんかって聞きはりましたよね? 私、二十七歳なんです。潰しが利かへん行員を辞めて、ずっと習っていたイラスト関係の会社に転職が決まったんです。だから最後の嫌がらせです」
「この課長さんに、ですか?」伝票の担当者欄に付かれてある印鑑の名前だった。
香奈恵は首を振って「銀行に」とだけ呟いた。安立も萱島も、香奈恵の言葉に特別驚きはしなかった。
香奈恵は少しだけ料理に箸を付け、横領の疑いがある課長の名刺を出した。名刺にはアーバネット銀行香里ヶ丘支店課長、宮本正守と記載されていた。
香奈惠は「参考に渡しときます。安立さん、あの……」と立ち上がり、言葉をつまらせたまま、アルコールで潤んだ瞳で安立を見据えてきた。でも直ぐにに用事があるからと帰っていった。
「女は怖いですね」
「その嫌がらせのおかげで、行員の横領が浮かんできたんや。知ってるか? 行員による横領は出てこうへんだけで全国で数百件はあるって言われてる。額の小さいもんから数千万円までや。でも、表に出たら信用問題やから、内々で処理してしまうんや」
「聞いた覚えがあります。でも、何で顧客は訴えたり、通報しないんですかね?」
「金が人質みたいなもんやからな。それに横領する奴は鼻がやたら利くから、騒がへん顧客からしか、くすねへんわ。おまけに銀行は、少額の横領やったら首を切らんと、関連会社に出向させて、頃合いを見て、また銀行に戻したりしよるからな」
「ほんまですか? 腐ってますやん」
「何にしても安立さん。女性には気をつけて下さいよ。協力者なんですから」
萱島は鏡を取り出して、口元をチェックしている。
空になったコップを机に置いたのを合図に、安立は立ち上がった。
「何も、せえへんわ。それより明日からは休みがなしになる。家に帰って、体をたっぷり休ませときや」と萱島に軽く喝を入れて店を出た。
「安立さん、ですか?」
「安立です。昨日の、ですね」
「はい。昨日、言われた物があるんですが、どうしたらいいです?」
安立は、女の行動の早さに感心した。
「ありがとうございます。どうでしょう? 今から会えるんやったら、指定される場所に向かいますが」
安立は、女が作る沈黙が好きではなかった。
「ほんだら枚方市駅にある、っていう居酒屋でもいいですか? 今日は、平日のど真ん中やし、個室も空いてると思うんで」
「分かりました。何時ごろにしましょ?」
「七時に待ってます。多分、私のほうが着くの早いと思うから、先に入ってます。大垣って、受付で言って下さい」
安立は返事をして、電話を切った。
「え? お父さん出掛けるん? 晩御飯どうするん」
元々、切れ長の涼しい目元の桜子の目は、安立に睨みを利かして迫力があった。
「ごめん。仕事が入ったんや。今から人と会うことになって。ほんまごめん」
安立は桜子に手を合わせて、謝った。職場の人間には見せられない姿だ。
「しゃあないな。おばあちゃんと二人で食べるわ。お父さんの分は、一応冷蔵庫に入れとくから、頑張って」
打って変わって笑顔になった桜子を、抱きしめようとしたが、サッと避けられてしまい、自分を抱きしめた格好になった。
安立は女の名前を頭に刻み込み、同じく当直明けで非番の萱島に電話を架ける。
「文(あや)ちゃん。今日は飯でも一緒に行こか」
「え? おごりやったら、行きますけど」
萱島は寝ていたのか、電話口で欠伸(あくび)をしているのが聞こえる。
「ちょうど夕食の準備を終えて桜子と食べるからつもりやったから、タッパーに入れて行ったる」
「桜子ちゃんと食べてください。遠慮しときますんで」
「そうか。ほんだら、昨日の電話の相手と、二人で食べてくるわ」
萱島は一気に覚醒(かくせい)したのか、嬉しそうに時間と場所を聞いてきた。
安立は娘の桜子にもう一度謝罪して、スーツに身を包んで六時半前に家を出た。
桜子は中学三年になるが、刑事の父親のせいか、まるで刑事の妻の鏡みたいにいつも安立を送り出してくれる。
マンションから最寄りの京阪森小路駅まで歩く。まだ暑いとはいえ、八月に比べて太陽の沈む時間は早くなっている。赤い空からのライトで、家々の屋根を赤く染めて、哀愁(あいしゅう)を感じ、何だか寂しい気分にさせられる。
普通電車で四駅先の守口市駅で急行に乗り換えて、枚方市駅まで三〇分も掛からない。しかし帰宅ラッシュで、急行の電車内は人が多い。
「安立さん」
先に着いていた萱島は、嬉しそうに軽く手を上げている。
「早かったな」
「京橋から、特急に乗れたんで」
萱島は森ノ宮に住んでいて、JRから京橋で京阪電車に乗り換えてやってきた。
「安立さん、お腹が空きました」萱島がお腹を擦る。
「何や、ぽんぽん痛いんか? ほんだら、何も食べられへんやん」
「お腹が空き過ぎて痛いんですよ」
揃ったところで、店のある出口からバス・ロータリーを渡って、雑居ビルの四階にある居酒屋に入った。
「すんません。大垣の連れです」
男性店員が、待ってましたとばかりに案内をしてくる。水曜日なのに結構な客が入っていて、花火が上がった時のような、一瞬の爆笑が聞こえてきた。
「おしゃれな居酒屋ですね。これで相手がブサイクなら、ええのに」
「なんでやねん。男でも女でも、美人がええやろ」
「男でも女でも、俺の引き立て役になってくれたらいいんで」
萱島は、何故か満面の笑顔だった。
安立は相手が女だと、萱島には言ってはいなかったが、関係ないかと肩を落とした。個室が並ぶ通路を案内される前に一度、靴を脱がされ、畳の廊下を歩いて行く。
安立は相手が女だと、萱島には言ってはいなかったが、関係ないかと肩を落とした。個室が並ぶ通路を案内される前に一度、靴を脱がされ、畳の廊下を歩いて行く。
「お連れ様をご案内しました」
店員が障子を開けて中に入った。安立は詫びを一言入れて、掘り炬燵(ごたつ)に萱島と並んで座った。店員が先に飲み物の注文を聞いてきた。
「ビールでいいですか?」と大垣が聞いてきたので、安立がそのまま店員にビールを三つ注文した。
「初めまして知能犯特別捜査係の安立剣剛と萱島文都です」
改めて自己紹介をし、警察手帳を提示すると、大垣香奈恵も慌てて姿勢を正した。照明のせいなのか、まだ飲んでいないはずなのに、香奈恵の顔が赤く見えた。
「大垣香奈恵です。よろしくお願いします」暖色系の明かりの中、ショートボブの香奈恵の色白い首筋が艶めかしく見えた。
耳にはダイヤのピアスが光って、短い髪型に似合っていた。香奈恵はそれっきり口を開かず、何度も水の入ったコップに口を付けていた。
個室と言っても完璧な造りではなく、仕切りが外れるので、天井が隣の部屋と繋がっている。しかし隣室に客が入っていないのか、離れた場所から聞こえてくるサラリーマンの声と笑い声だけが、静まり返っている部屋に響いてくる。
沈黙が息苦しいのか、萱島が何度も肘で安立の腕を押してきた。我慢しきれなくなったのか、メニューを捲り始める。沈黙に割り込んできたのは、店員の「飲み物をお持ちいたしました」の声だった。
「適当に注文しますんで」と、萱島が迷いもなく料理を幾つか注文した。
店員が出て行って直ぐ、香奈恵がビールを一気に飲み始めた。安立は驚かなかったが、萱島が隣で「おお!」と声を出している。
空になった生チュウのグラスを置いた香奈恵が、やっと安立たちを正面に見据え、口を開いた。
「ほんまに課長、絶対に横領してるわ」香奈恵は手の甲で口を拭う仕草をした。
組織の人間が何か密告する時は、立場と正義感の狭間で揺れ動くものだ。
「大垣さんは、何で、そこまで確信してはるんですか?」
「これ、伝票です。見てください」
香奈恵が、小さく折り畳まれた紙をテーブルに置いた。
安立は小さくなった紙を広げていく。萱島も隣から覗き込んできた。三枚の紙が重ねられていて、バラバラにした紙を並べてみた。
一枚目と二枚は、同じ会社名が入った伝票。三枚目は同じ人物が書いていると思われる、数字が記載されている帳簿のコピーだった。香奈恵は何も言わず、安立と萱島の表情の変化を見逃さないとばかりに、凝視している。
企業名は二枚とも判子で、金額は手書き。記入されている数字も同じに見える。帳簿の数字に視線を移した。
伝票に書かれている数字の癖とは全く違う。しかし、香奈惠は横領の証拠だと思って、こうして持ってきている。
店員が頼んだ料理を持ってきた。香奈惠は、生ビールのお代わりを注文した。安立は眼球を左右に何度も動かし、見えない間違いを探した。
安立はある特徴に気がついた。
「大垣さん、もしかして、1の数字ですか?」
顔を上げると、香奈惠の顔の筋肉が緩んだ。
「そうです! 分かってくれはりました? 下が払うように終わってるのが、お客さんの1で、終わり方は同じにしてるけど、頭が少しだけ折れてるのが、課長の1です」
帳簿の1は、ほんの少しだけ上が折れている。しかし、言われて分かる程度の折れだ。
「伝票のお客さんなんですが、小銭の入金が多かったりするんです。他にも、そんなお客さんを何件か持ってはって、入金し終えた前後に必ず、数万ほど引き出す手続きを課長が持ってくるんです。でも、通帳を見ても、以前はそんなことなかったみたいで」
「それで、おかしい、と?」
香奈惠はやっと秘密を吐き出せた開放感と、安立が食いついてきてくれたのが嬉しいみたいだった。
「数字って似せて書いても、無理やと思うんです。四角の小さいスペース書かれた数字の統一感っていうか、バランスが見てる人間に不快感を与えるっていうか。気にならへん程度やねんけど、違和感があるんです」
香奈惠の感覚的な話を聞いて、分からなくもなかった。香奈惠から電話を受けた時に、泉が体のどこかで湧き始めた感覚。事件にできる確信と同じではないだろか。
「言われてみれば、違いますね。でも、ようわかりましたね」
萱島が紙を目の前に置いて、感心しながら見比べている。
「大垣さんは、俺たちより数字のプロや。プロの感覚は鋭いんや。すんません、大垣さん」
「そんなプロやなんて」香奈惠はテーブルに並んだ料理に箸を付けた。
「でも大垣さん、銀行を辞めはるつもりとちゃいますか?」
香奈惠は切れ長の目を大きく見開いて、動きを止めた。
「そこまで調べてはるんですか?」
香奈恵の顔は、眉間に皺を寄せて、怪訝(けげん)な表情になった。
「銀行の支店ていう、狭い中での不正の密告ですからね。ずっといる予定の人間は、まず電話はしてこうへんかと」
香奈恵は視線を落としたまま黙り込んだ。
安立は話を戻して、課長の特徴や支店内での席を尋ね、ペンと紙を渡した。香奈惠は支店内の机の配置と課長の特長を書き出し始めた。
最後に課長の似顔絵を、文字を書くようにさらっと描いてくれた。
「絵、上手ですね」まだ生で顔を拝んではいないが、香奈惠の絵は特徴を捉えている気がした。
「ありがとうございます」と口にした後、ぽつりと話を始めた。
「さっき辞めはるんかって聞きはりましたよね? 私、二十七歳なんです。潰しが利かへん行員を辞めて、ずっと習っていたイラスト関係の会社に転職が決まったんです。だから最後の嫌がらせです」
「この課長さんに、ですか?」伝票の担当者欄に付かれてある印鑑の名前だった。
香奈恵は首を振って「銀行に」とだけ呟いた。安立も萱島も、香奈恵の言葉に特別驚きはしなかった。
香奈恵は少しだけ料理に箸を付け、横領の疑いがある課長の名刺を出した。名刺にはアーバネット銀行香里ヶ丘支店課長、宮本正守と記載されていた。
香奈惠は「参考に渡しときます。安立さん、あの……」と立ち上がり、言葉をつまらせたまま、アルコールで潤んだ瞳で安立を見据えてきた。でも直ぐにに用事があるからと帰っていった。
「女は怖いですね」
萱島は、ほとんどの料理を一人で食べていた。
「その嫌がらせのおかげで、行員の横領が浮かんできたんや。知ってるか? 行員による横領は出てこうへんだけで全国で数百件はあるって言われてる。額の小さいもんから数千万円までや。でも、表に出たら信用問題やから、内々で処理してしまうんや」
「聞いた覚えがあります。でも、何で顧客は訴えたり、通報しないんですかね?」
「金が人質みたいなもんやからな。それに横領する奴は鼻がやたら利くから、騒がへん顧客からしか、くすねへんわ。おまけに銀行は、少額の横領やったら首を切らんと、関連会社に出向させて、頃合いを見て、また銀行に戻したりしよるからな」
「ほんまですか? 腐ってますやん」
腐ってない組織など果たしてあるのだろうか。
ビールと料理にほとんど手を付けていなかった安立は、汗を掻いて、テーブルにまで染みを作っている水を一気に飲み干した。
ビールと料理にほとんど手を付けていなかった安立は、汗を掻いて、テーブルにまで染みを作っている水を一気に飲み干した。
「何にしても安立さん。女性には気をつけて下さいよ。協力者なんですから」
萱島は鏡を取り出して、口元をチェックしている。
空になったコップを机に置いたのを合図に、安立は立ち上がった。
「何も、せえへんわ。それより明日からは休みがなしになる。家に帰って、体をたっぷり休ませときや」と萱島に軽く喝を入れて店を出た。
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