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11/40小腹が空き始めた夕方の六時頃だった。大阪府警捜査二課知能犯特別捜査係の内線電話が鳴った。
食べ終えたチョコレートの後、お茶を飲んで口直しをしていた知能犯特別捜査係警部補の安立(あんりゅう)剣(けん)剛(ごう)は、電話を取った。
「捜査二課知捜案件の電話が入っていますので、応対よろしくお願いします」と機械的なトーンで、電話は切り替えられた。
「捜査二課知能犯特別捜査係の安立剣剛です。どうしましたか?」
しかし電話の向こうからは何も聞こえてはこない。電話の繋ぎが上手くいかずに途切れてしまったかと、何度か呼び掛けた。
「あの……横領事件の捜査をしてくるところですか?」
電話の声は女だった。訝しげな声の相手に安立は、自分の意思で警察に電話をしているんじゃないかと言いたくなるのを抑えた。
「横領以外にも、贈収賄とかも取り締まってますよ。横領の通報みたいですが、近くの署へ相談は?」
「そんなん、でけへんから、電話してるんですよ」
安立に警戒しつつも、口調は責めている。案外、気の強い女で、三〇歳前後かと安立は予想をした。
「そうですか。ほんだら、このまま話を聞いてもいいですか?」
「聞いたら、捜査とかしてくれはります?」
「直ぐに、とはいきません。ちゃんと裏を取ってからになります。横領ってことは、会社勤めですかね?」
女は黙ったまま、何も答えない。多分、派遣や契約社員ではなく正社員。だから最寄りの署にも行かなかった。安立は素早く相手の事情を読み取った。
「大丈夫ですよ。誰が通報したかは、わかりませんし、絶対に漏らしません」
「――ほんまですか? 絶対にですか?」
「信用してくだい。我々には守秘義務がありますんで」
電話の向こうで小さく笑った声は聞こえた。
守秘義務と、よく耳にするが、どこかで人は口にする。友達や家族に愚痴としてや、例え話として。
中には本当に話さない人間もいるが、完璧な人間は、果たして一握(ひとにぎ)りもいるかどうかと安立は思っている。電話の女も、猜疑心(さいぎしん)があるから笑ったに違いない。
「私、銀行で働いてるんですが、支店の外回りの課長が、顧客の通帳から預金を勝手に下ろしてるみたいなんです。他の窓口は気づいていないみたいやけど」
銀行員だから、守秘義務で笑ったのかと、安立は納得した。
勢いがよかった女の声が、最後にはほとんど聞き取れなくなった。確信はあるが、言葉に出すと自信がなくなってくる通報者も多い。横領の密告があっても、勘違いだった案件も多い。
「もしよかったら、あなたが疑う切っ掛け、確信した物を貰えると、有難いんですが」
「証拠を」と口に出すと、ハードルが上がる。通報者が協力しやすく、投げて逃げ出してしまわないための、安立なりの常套(じょうとう)だった。
「わかりました。何とかします。手にしたら連絡は、どこにしたらいいです?」
「私の携帯番号にお願いします」
安立は敢えて相手の名前を聞かず、携帯番号を伝えて電話を切った。
「安立さん。何の電話やったんですか?」
いつの間にか後ろに立っていた、萱島(かやしま)文(あや)都(と)巡査長がいた。相変わらず手鏡を持って、髪を触って、跳ねる角度を調節している。
萱島は二十八歳だが、見た目は二十前後に見える。身長も一七〇センチほどで、一八〇センチある安立と話す時は、見上げる姿勢になる。何より自分が大好きで、暇があれば、風が吹けば鏡を取り出して、髪の乱れを調節している男だ。
目がアイドルみたいに丸い萱島から見上げられると、どうしても子犬が尻尾を振っているようにしか見えない。きっと安立だけではなく、ほかの捜査員も同じことを思っているに違いない。そんな萱島は知捜では可愛がられている。全身の無駄毛処理をしている男でも。
「久々に大きな波が来るかもしれへん」
「さっきの電話ですか? でも、どうせナンバーの仕事ちゃうんですか?」
萱島は、髪のハネ具合が重要だと言わんばかりに、投げやりだった。
「ちゃう。うちでやる案件や。まだ上には言うたらあかんで。固めてからや」
萱島はナンバーと呼んでいる数字の付いた知能犯係ではなく、特別捜査係の案件に喜び、何度も小さなガッツポーズを繰り返していた。
子犬が喜ぶので、安立が萱島の髪を鷲掴みにして撫でてやった。
「あーーっ! だから頭は止めてって、言ってるじゃないですかーーー!」
萱島の遠吠えが、刑事部屋に木霊した。
食べ終えたチョコレートの後、お茶を飲んで口直しをしていた知能犯特別捜査係警部補の安立(あんりゅう)剣(けん)剛(ごう)は、電話を取った。
「捜査二課知捜案件の電話が入っていますので、応対よろしくお願いします」と機械的なトーンで、電話は切り替えられた。
「捜査二課知能犯特別捜査係の安立剣剛です。どうしましたか?」
しかし電話の向こうからは何も聞こえてはこない。電話の繋ぎが上手くいかずに途切れてしまったかと、何度か呼び掛けた。
「あの……横領事件の捜査をしてくるところですか?」
電話の声は女だった。訝しげな声の相手に安立は、自分の意思で警察に電話をしているんじゃないかと言いたくなるのを抑えた。
「横領以外にも、贈収賄とかも取り締まってますよ。横領の通報みたいですが、近くの署へ相談は?」
「そんなん、でけへんから、電話してるんですよ」
安立に警戒しつつも、口調は責めている。案外、気の強い女で、三〇歳前後かと安立は予想をした。
「そうですか。ほんだら、このまま話を聞いてもいいですか?」
「聞いたら、捜査とかしてくれはります?」
「直ぐに、とはいきません。ちゃんと裏を取ってからになります。横領ってことは、会社勤めですかね?」
女は黙ったまま、何も答えない。多分、派遣や契約社員ではなく正社員。だから最寄りの署にも行かなかった。安立は素早く相手の事情を読み取った。
「大丈夫ですよ。誰が通報したかは、わかりませんし、絶対に漏らしません」
「――ほんまですか? 絶対にですか?」
「信用してくだい。我々には守秘義務がありますんで」
電話の向こうで小さく笑った声は聞こえた。
守秘義務と、よく耳にするが、どこかで人は口にする。友達や家族に愚痴としてや、例え話として。
中には本当に話さない人間もいるが、完璧な人間は、果たして一握(ひとにぎ)りもいるかどうかと安立は思っている。電話の女も、猜疑心(さいぎしん)があるから笑ったに違いない。
「私、銀行で働いてるんですが、支店の外回りの課長が、顧客の通帳から預金を勝手に下ろしてるみたいなんです。他の窓口は気づいていないみたいやけど」
銀行員だから、守秘義務で笑ったのかと、安立は納得した。
勢いがよかった女の声が、最後にはほとんど聞き取れなくなった。確信はあるが、言葉に出すと自信がなくなってくる通報者も多い。横領の密告があっても、勘違いだった案件も多い。
「もしよかったら、あなたが疑う切っ掛け、確信した物を貰えると、有難いんですが」
「証拠を」と口に出すと、ハードルが上がる。通報者が協力しやすく、投げて逃げ出してしまわないための、安立なりの常套(じょうとう)だった。
「わかりました。何とかします。手にしたら連絡は、どこにしたらいいです?」
「私の携帯番号にお願いします」
安立は敢えて相手の名前を聞かず、携帯番号を伝えて電話を切った。
「安立さん。何の電話やったんですか?」
いつの間にか後ろに立っていた、萱島(かやしま)文(あや)都(と)巡査長がいた。相変わらず手鏡を持って、髪を触って、跳ねる角度を調節している。
萱島は二十八歳だが、見た目は二十前後に見える。身長も一七〇センチほどで、一八〇センチある安立と話す時は、見上げる姿勢になる。何より自分が大好きで、暇があれば、風が吹けば鏡を取り出して、髪の乱れを調節している男だ。
目がアイドルみたいに丸い萱島から見上げられると、どうしても子犬が尻尾を振っているようにしか見えない。きっと安立だけではなく、ほかの捜査員も同じことを思っているに違いない。そんな萱島は知捜では可愛がられている。全身の無駄毛処理をしている男でも。
「久々に大きな波が来るかもしれへん」
「さっきの電話ですか? でも、どうせナンバーの仕事ちゃうんですか?」
萱島は、髪のハネ具合が重要だと言わんばかりに、投げやりだった。
「ちゃう。うちでやる案件や。まだ上には言うたらあかんで。固めてからや」
萱島はナンバーと呼んでいる数字の付いた知能犯係ではなく、特別捜査係の案件に喜び、何度も小さなガッツポーズを繰り返していた。
子犬が喜ぶので、安立が萱島の髪を鷲掴みにして撫でてやった。
「あーーっ! だから頭は止めてって、言ってるじゃないですかーーー!」
萱島の遠吠えが、刑事部屋に木霊した。
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