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ー/ー九月上旬、残暑は厳しく、宮本が外回りをする日中は、相変わらず日差しが強かった。
支店に戻って事務作業をしている宮本に、青山から電話が入った。さもそれらしく話しながら、慌てて二階にある食堂の隅へと移動した。
「どうもどうも宮本さん。今、ちょっといいですか?」
青山の軽いノリに、悪い電話ではない予感はあった。
「久しぶりです。少しだけなら、大丈夫ですわ」
「今夜、会えますか?」
青山はいつも急な誘いをしてくる。男を振り回す女のようだと宮本は苦笑した。実際に振り回されているが、オッサンなのが実に残念だった。
七時過ぎには支店を出られると伝え、青山の指定する、梅田スカイビル内にある中華店に向かった。
JR大阪駅を降りて、人混みが集中する大型電気店を通り過ぎる。
中が煌(きら)びやかなグランフロント前を通った時、くたびれたスーツを着ている宮本には、敷居が高く感じられた。
平日の夜なのに、人が多かった。どうやら海外からのツアー客がほとんどで、中国語や英語、他の言語が耳に入ってくる。下から見上げるスカイビルは、円盤が建物に挟まっているみたいで面白い。
エレベーターで三十九階まで上がるとき、耳がキーンとした。エレベーターを降りた目の前には、円になっているガラスがあり、下を覗くと、玉が縮むほどの高さだ。
店の前で立ち止まると、兵馬俑(へいばよう)の置物があるにもかかわらず、高い天井と広めに取られた通路で、大きさを感じられない。
受付で青山の名前を出して、中に案内される。天井が高いと、空間は贅沢になるのかと感心した。熱帯魚が泳ぐ水槽の前を通り過ぎ、個室へと通された。
大きな円形の窓が、宮本の目に一番に飛び込んできた。窓から視線をズラして、やっと青山を確認した。
「ええでしょ? 宇宙船の窓みたいで、見えるのは地球の光。気に入ってるんですわ」
先に座って待っていた青山が、うっとりした顔で窓の外を眺めている。間違いなく高級中華の店だ。
今日もいいメシがただで食える。青山から呼び出される度に美味いものが食えるなら、いつでも呼んでもらいたと、浅ましい考えが宮本に定着しつつあった。
「コースを頼んでますが、他に食べたいもんがあったら、どんどん注文してください」
「青山さんが誘ってくれる店は、いつも高級やから、気が引けますわ」
「ちゃんとした相手には、ちゃんとしたおもてなしをしてるだけですわ」
盃を分け合った、親密な関係だと言われた気がして、女みたいに頬を赤らめそうになる。
お世辞だと分かっていても、気分は悪くならない。
運ばれてきたコース料理に舌鼓を打ちながら、昨今の金融業界の話をした。大手銀行のボーナスは上がっているが、第二地銀で働く宮本には恩恵などほとんどどない。
「確かに経済ってのは、大きな都市、会社から恩恵が始まって、地方、中小に染みてくるまでは、かなり時間が掛かりますからな」
「そうなんですわ。波が来たかな? って思った頃に、また景気が悪くなったりする場合もありますし……どちらにせよ、感じ始めた頃には、上が食い散らかしたカスで喜んでるもんですわ」
宮本は北京ダックを頬張った。がつがつ食べる宮本とは対照的に、ゆったりとした動作で箸を進める青山を見ていると、貴族と平民の言葉が当てはまる。
我に返った宮本も、前のめりになっていた姿勢を正し、青山を真似る。
「宮本さん。お願いがあるんですわ」
青山はテーブルに両肘を突いて、掌を組んだ。
テーブルには料理が並び、青山の姿は、映画のワンシーンを刳り抜いたみたいに、男の宮本でも惚れ惚れするほど様になっていた。
「青山さんのお願いやったら、って言いたいところやけど、できることと、でけへんことがありますよ」
青山は色んな顔がある。紳士的だと思ったら、強面(こわもて)のヤクザみたいな雰囲気だったりと、掴めない。
しかし、それが宮本には非常に魅力的だった。
「三億が必要なんですわ」
青山は、たった一言だけを放った。部屋の空気は青山一色に染まり、宮本の体をしっかりと掴んで離さない。
しかし、流れる妙な緊張感は、日常では味わえない感覚で心地がいい。
宮本は手を止めて、青山を見つめた。視線が一直線に繋がっているのを感じ、頭の中では言葉の意味を考えていた。
青山を喜ばしたい。男にしてくれた青山の期待に添いたい。宮本は母親を喜ばせようとする子供のようであり、新地の女に貢ごうとする男のようでもあった。
「小林不動産の二億は、来月か再来月には飛びます。三億が必要って言うても、内の一億は宮本さんに渡して、アジアで余生を過ごしてくれはったらええんちゃうかなって、思てます」
本当に青山の話す言葉は、どんなことでもできてしまう魔法の言葉に聞こえる。それに危険を冒す宮本を気遣って、予後のプランまで考えてくれているではないか。青山は宮本にとって、幸せを運んできてくれる、人間に化けている青い鳥だとさえ思えてくる。
宮本は身を乗り出した。
「どうしたらええんですか?」
「手っ取り早いのは、現金輸送車の強奪。銀行は、だいたい決まった時間に、支店の金を集めはるやろ? 最終支店に向かう前に襲うか、回収してから襲うか」
「でも、うちの銀行は、大手みたいに何億も載ってないと思いますけど」
「月曜日やったら、夜間金庫分もあるし、各支店分を集めたらあるんちゃいます?」
確かに夜間金庫分の入金はある。しかし香里ケ丘支店でも、週によって金額がまちまちで均一ではない。
宮本はしばらく考えて、現金輸送車で思い出した。今度は青山が身を乗り出す番になった。
「青山さん。三億やなくて、四億なら、何とかなりますわ」
「多ければ多いほうがええ。でも、さっき億単位も載ってへんって」
「葬式です。七月二十六日に死にはった坊さんの葬式が、九月一二日にあるんですわ。宗派の僧侶だけを集めての葬式で、集まる金が四億にはなるって。だから、現金輸送車を手配してるんですわ」
「それや! 宮本さん。プランは私が立てますわ。波が来てますわ」
歯を見せて喜ぶ青山を見て、ホッとした。何とか嫌われずにすんだと、宮本も釣られて笑顔になる。
青山は姿勢を崩してだらしなく椅子に凭れ、酒の入ったグラスを頭上まで上げた。宮本も釣られてグラスを持ち上げる。部屋の明かりが差し込んだビールは、黄金色に輝いている。
宮本はもう、アーバネット銀行に未練は一欠片(ひとかけら)も残ってはいなかった。
支店に戻って事務作業をしている宮本に、青山から電話が入った。さもそれらしく話しながら、慌てて二階にある食堂の隅へと移動した。
長年に渡って染みついた食べ物の匂いが、何となく懐かしく感じる。
「どうもどうも宮本さん。今、ちょっといいですか?」
青山の軽いノリに、悪い電話ではない予感はあった。
「久しぶりです。少しだけなら、大丈夫ですわ」
「今夜、会えますか?」
青山はいつも急な誘いをしてくる。男を振り回す女のようだと宮本は苦笑した。実際に振り回されているが、オッサンなのが実に残念だった。
七時過ぎには支店を出られると伝え、青山の指定する、梅田スカイビル内にある中華店に向かった。
JR大阪駅を降りて、人混みが集中する大型電気店を通り過ぎる。
中が煌(きら)びやかなグランフロント前を通った時、くたびれたスーツを着ている宮本には、敷居が高く感じられた。
平日の夜なのに、人が多かった。どうやら海外からのツアー客がほとんどで、中国語や英語、他の言語が耳に入ってくる。下から見上げるスカイビルは、円盤が建物に挟まっているみたいで面白い。
エレベーターで三十九階まで上がるとき、耳がキーンとした。エレベーターを降りた目の前には、円になっているガラスがあり、下を覗くと、玉が縮むほどの高さだ。
店の前で立ち止まると、兵馬俑(へいばよう)の置物があるにもかかわらず、高い天井と広めに取られた通路で、大きさを感じられない。
受付で青山の名前を出して、中に案内される。天井が高いと、空間は贅沢になるのかと感心した。熱帯魚が泳ぐ水槽の前を通り過ぎ、個室へと通された。
大きな円形の窓が、宮本の目に一番に飛び込んできた。窓から視線をズラして、やっと青山を確認した。
「ええでしょ? 宇宙船の窓みたいで、見えるのは地球の光。気に入ってるんですわ」
先に座って待っていた青山が、うっとりした顔で窓の外を眺めている。間違いなく高級中華の店だ。
今日もいいメシがただで食える。青山から呼び出される度に美味いものが食えるなら、いつでも呼んでもらいたと、浅ましい考えが宮本に定着しつつあった。
「コースを頼んでますが、他に食べたいもんがあったら、どんどん注文してください」
「青山さんが誘ってくれる店は、いつも高級やから、気が引けますわ」
「ちゃんとした相手には、ちゃんとしたおもてなしをしてるだけですわ」
盃を分け合った、親密な関係だと言われた気がして、女みたいに頬を赤らめそうになる。
お世辞だと分かっていても、気分は悪くならない。
運ばれてきたコース料理に舌鼓を打ちながら、昨今の金融業界の話をした。大手銀行のボーナスは上がっているが、第二地銀で働く宮本には恩恵などほとんどどない。
「確かに経済ってのは、大きな都市、会社から恩恵が始まって、地方、中小に染みてくるまでは、かなり時間が掛かりますからな」
「そうなんですわ。波が来たかな? って思った頃に、また景気が悪くなったりする場合もありますし……どちらにせよ、感じ始めた頃には、上が食い散らかしたカスで喜んでるもんですわ」
宮本は北京ダックを頬張った。がつがつ食べる宮本とは対照的に、ゆったりとした動作で箸を進める青山を見ていると、貴族と平民の言葉が当てはまる。
我に返った宮本も、前のめりになっていた姿勢を正し、青山を真似る。
「宮本さん。お願いがあるんですわ」
青山はテーブルに両肘を突いて、掌を組んだ。
テーブルには料理が並び、青山の姿は、映画のワンシーンを刳り抜いたみたいに、男の宮本でも惚れ惚れするほど様になっていた。
「青山さんのお願いやったら、って言いたいところやけど、できることと、でけへんことがありますよ」
青山は色んな顔がある。紳士的だと思ったら、強面(こわもて)のヤクザみたいな雰囲気だったりと、掴めない。
しかし、それが宮本には非常に魅力的だった。
「三億が必要なんですわ」
青山は、たった一言だけを放った。部屋の空気は青山一色に染まり、宮本の体をしっかりと掴んで離さない。
しかし、流れる妙な緊張感は、日常では味わえない感覚で心地がいい。
宮本は手を止めて、青山を見つめた。視線が一直線に繋がっているのを感じ、頭の中では言葉の意味を考えていた。
青山を喜ばしたい。男にしてくれた青山の期待に添いたい。宮本は母親を喜ばせようとする子供のようであり、新地の女に貢ごうとする男のようでもあった。
「小林不動産の二億は、来月か再来月には飛びます。三億が必要って言うても、内の一億は宮本さんに渡して、アジアで余生を過ごしてくれはったらええんちゃうかなって、思てます」
本当に青山の話す言葉は、どんなことでもできてしまう魔法の言葉に聞こえる。それに危険を冒す宮本を気遣って、予後のプランまで考えてくれているではないか。青山は宮本にとって、幸せを運んできてくれる、人間に化けている青い鳥だとさえ思えてくる。
宮本は身を乗り出した。
「どうしたらええんですか?」
「手っ取り早いのは、現金輸送車の強奪。銀行は、だいたい決まった時間に、支店の金を集めはるやろ? 最終支店に向かう前に襲うか、回収してから襲うか」
「でも、うちの銀行は、大手みたいに何億も載ってないと思いますけど」
「月曜日やったら、夜間金庫分もあるし、各支店分を集めたらあるんちゃいます?」
確かに夜間金庫分の入金はある。しかし香里ケ丘支店でも、週によって金額がまちまちで均一ではない。
宮本はしばらく考えて、現金輸送車で思い出した。今度は青山が身を乗り出す番になった。
「青山さん。三億やなくて、四億なら、何とかなりますわ」
「多ければ多いほうがええ。でも、さっき億単位も載ってへんって」
「葬式です。七月二十六日に死にはった坊さんの葬式が、九月一二日にあるんですわ。宗派の僧侶だけを集めての葬式で、集まる金が四億にはなるって。だから、現金輸送車を手配してるんですわ」
「それや! 宮本さん。プランは私が立てますわ。波が来てますわ」
歯を見せて喜ぶ青山を見て、ホッとした。何とか嫌われずにすんだと、宮本も釣られて笑顔になる。
青山は姿勢を崩してだらしなく椅子に凭れ、酒の入ったグラスを頭上まで上げた。宮本も釣られてグラスを持ち上げる。部屋の明かりが差し込んだビールは、黄金色に輝いている。
宮本はもう、アーバネット銀行に未練は一欠片(ひとかけら)も残ってはいなかった。
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