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5/40 銀行のシャッターが閉まる頃だった。宮本が最後の顧客先に向かう途中、汗で湿ったスーツの内ポケットが震えてバイクを停めた。
鳴っていたのは個人用の携帯で、着信表示には「麻生」とあった。一瞬、誰だったか思い出せないまま、習慣で電話に出た。
「宮本?」
「麻生さん?」
「何や、余所余所しいな。久しぶりやな。元気してるか?」
「まあまあやな」
宮本は中々思い出せず、オレオレ詐欺にでも遭っている心情だった。
「そっちは、どうやねん」
「融資課におるんやけど、それなりに忙しいで。宮本は何してるん?」
宮本は、やっと思い出した。同じ文化史科のゼミを取っていた麻生(あそう)正隆(まさたか)だ。
目鼻立ちがハッキリとしていて、笑うと芸能人のように白い歯があった。何より、女にモテて、ひっきりなしに替えていた男だ。
麻生の隣に立つと、大概の男は引き立て役になった。宮本の働くアーバネット銀行の親会社である美井銀行に就職していた。
レベルが同じ程度の奴なら何とも思わなかっただろう。だが、見た目がすでに高スペックなのに、メガバンクに就職が決まったと聞いた時は、信じていない神を恨んだ記憶がある。メガバンクの融資課と聞いただけで、自分が見窄(みすぼ)らしく思えた。
「今は取引先課長してるわ。今からまだ、顧客のところに行かなアカンねん」
「暑いのに、大変やな」
宮本は馬鹿にされた気がした。
「急に電話を架けてきて、何の用やねん」
こうして立ち止まっている間にも、靴の底を通り越して、足裏に熱がじわじわと侵入してくる。
「久々に会えへんか?」
「は? ほんまに急やな。いつ?」
「今夜やけど、どうや?」
麻生は大学時代も結構、思いつきで行動していた奴だった。宮本は劣等感を抱きながらも、メガバンクでの仕事にも興味があって、麻生の誘いを受けることにした。
金融業界を目指していた宮本とは違い、麻生は特に希望していた業界はなかった。宮本が金融業界に絞っていると聞いたから、受けてみようかと軽い気持ち受けたと言っていた。
宮本が受かりたくても受からなかった銀行に、あっさり決まって入行した。宮本は結局、何流も下にある銀行しか受からなかった。
元々の動機が、流されて入ったようなものだったから、奴が長く続くはずはないし、続いていても出世もできない社員になっているんじゃないだろうか。
メガバンクの肩書だけのくだらない男になっているに違いない。宮本は淡い期待を抱いていた。
八月に入り、容赦なくアスファルトを照りつけていた日中の名残は、夜になっても引くことはない。外へ出ると毛穴から一気に汗が吹き出してくる。
宮本は早めに支店を出て、麻生と約束した北新地の店に向かった。支店の最寄り駅の京阪香里ケ丘駅から急行で京橋まで出て、JRに乗り換え、そのまま東西線のホームに向かう。
ピークの帰宅時間は過ぎていても、人の乗降は多い。東西線のホームで立っていると、数メートル先にピンヒールを履いている女の香水が、風に乗って宮本のところにまで漂ってくる。
電車が機械の熱と生温い風を、ホームに立つ乗客たちに勢いよく押し付けて入ってきた。
京橋から北新地までは五分ほどで着く。電車に乗り込んだ宮本は、同伴らしき二人を見ながら扉の直ぐ側に立った。
駅に着いて地上に出た宮本は、オフィス・ビルと飲食店が混在した道を歩いた。女たちが蝶の羽根のようにドレスの裾を靡かせ、カツンカツンと音を響かせながら颯爽(さっそう)と宮本の横を通り過ぎていった。
待ち合わせの店は、正面がガラス張りになっているビルの三階にあった。暖簾(のれん)を潜(くぐ)り、麻生の名を出した。
中は日本庭園を凝縮した造りになっていて、枯山水や燈籠があり、壁には茶室に見立てられた飾り戸があった。ここがビルだとは思えない見栄えだった。
池があって鯉も泳いでいる。宮本は石庭の上に架かっている橋を渡って奥へと進んでいく。
案内をされたのは個室で、中ではすでに麻生が座って待っていたが、隣には見知らぬ男もいた。男はくっきりとした目元をしていて、表情も柔らかい。紺のスリーピースのスーツを着こなし、ファッション雑誌にも載っていそうな見栄えだった。
「久しぶりやな、宮本」
十数年とは思えない、数ヶ月ぶりに会ったかのような挨拶だった。麻生の親しみやすい感じは、今も昔も変わってはいなかったし、見た目も年を重ねて、男の色気のようなものを漂わせている。
昼間に持った宮本の淡い期待は潰(つい)えた気がした。目にした麻生からは、宮本とは違った、自信と充実感を嫌でも感じずにはいられなかった。
「ほんまやわ。それで、そちらは?」
宮本は麻生の隣に座る男に視線を合わせていた。
「青山さん。まあ、同業者みたいなもんや。青山さん。大学の同期で、今はアーバネット銀行にいる宮本です」
青山は襟を正し、宮本と向き合った。
「青(あお)山平(やまひら)継(つぐ)と申します。今日は、よろしくお願いします」
宮本は慌てて名刺を取り出した。
「宮本正守です。よろしくお願いします」
しかし青山は宮本の名刺を受け取っただけで、交換をすることはなかった。
鳴っていたのは個人用の携帯で、着信表示には「麻生」とあった。一瞬、誰だったか思い出せないまま、習慣で電話に出た。
「宮本?」
「麻生さん?」
「何や、余所余所しいな。久しぶりやな。元気してるか?」
「まあまあやな」
宮本は中々思い出せず、オレオレ詐欺にでも遭っている心情だった。
「そっちは、どうやねん」
「融資課におるんやけど、それなりに忙しいで。宮本は何してるん?」
宮本は、やっと思い出した。同じ文化史科のゼミを取っていた麻生(あそう)正隆(まさたか)だ。
目鼻立ちがハッキリとしていて、笑うと芸能人のように白い歯があった。何より、女にモテて、ひっきりなしに替えていた男だ。
麻生の隣に立つと、大概の男は引き立て役になった。宮本の働くアーバネット銀行の親会社である美井銀行に就職していた。
レベルが同じ程度の奴なら何とも思わなかっただろう。だが、見た目がすでに高スペックなのに、メガバンクに就職が決まったと聞いた時は、信じていない神を恨んだ記憶がある。メガバンクの融資課と聞いただけで、自分が見窄(みすぼ)らしく思えた。
「今は取引先課長してるわ。今からまだ、顧客のところに行かなアカンねん」
「暑いのに、大変やな」
宮本は馬鹿にされた気がした。
「急に電話を架けてきて、何の用やねん」
こうして立ち止まっている間にも、靴の底を通り越して、足裏に熱がじわじわと侵入してくる。
「久々に会えへんか?」
「は? ほんまに急やな。いつ?」
「今夜やけど、どうや?」
麻生は大学時代も結構、思いつきで行動していた奴だった。宮本は劣等感を抱きながらも、メガバンクでの仕事にも興味があって、麻生の誘いを受けることにした。
金融業界を目指していた宮本とは違い、麻生は特に希望していた業界はなかった。宮本が金融業界に絞っていると聞いたから、受けてみようかと軽い気持ち受けたと言っていた。
宮本が受かりたくても受からなかった銀行に、あっさり決まって入行した。宮本は結局、何流も下にある銀行しか受からなかった。
元々の動機が、流されて入ったようなものだったから、奴が長く続くはずはないし、続いていても出世もできない社員になっているんじゃないだろうか。
メガバンクの肩書だけのくだらない男になっているに違いない。宮本は淡い期待を抱いていた。
八月に入り、容赦なくアスファルトを照りつけていた日中の名残は、夜になっても引くことはない。外へ出ると毛穴から一気に汗が吹き出してくる。
宮本は早めに支店を出て、麻生と約束した北新地の店に向かった。支店の最寄り駅の京阪香里ケ丘駅から急行で京橋まで出て、JRに乗り換え、そのまま東西線のホームに向かう。
ピークの帰宅時間は過ぎていても、人の乗降は多い。東西線のホームで立っていると、数メートル先にピンヒールを履いている女の香水が、風に乗って宮本のところにまで漂ってくる。
電車が機械の熱と生温い風を、ホームに立つ乗客たちに勢いよく押し付けて入ってきた。
京橋から北新地までは五分ほどで着く。電車に乗り込んだ宮本は、同伴らしき二人を見ながら扉の直ぐ側に立った。
駅に着いて地上に出た宮本は、オフィス・ビルと飲食店が混在した道を歩いた。女たちが蝶の羽根のようにドレスの裾を靡かせ、カツンカツンと音を響かせながら颯爽(さっそう)と宮本の横を通り過ぎていった。
待ち合わせの店は、正面がガラス張りになっているビルの三階にあった。暖簾(のれん)を潜(くぐ)り、麻生の名を出した。
中は日本庭園を凝縮した造りになっていて、枯山水や燈籠があり、壁には茶室に見立てられた飾り戸があった。ここがビルだとは思えない見栄えだった。
池があって鯉も泳いでいる。宮本は石庭の上に架かっている橋を渡って奥へと進んでいく。
案内をされたのは個室で、中ではすでに麻生が座って待っていたが、隣には見知らぬ男もいた。男はくっきりとした目元をしていて、表情も柔らかい。紺のスリーピースのスーツを着こなし、ファッション雑誌にも載っていそうな見栄えだった。
「久しぶりやな、宮本」
十数年とは思えない、数ヶ月ぶりに会ったかのような挨拶だった。麻生の親しみやすい感じは、今も昔も変わってはいなかったし、見た目も年を重ねて、男の色気のようなものを漂わせている。
昼間に持った宮本の淡い期待は潰(つい)えた気がした。目にした麻生からは、宮本とは違った、自信と充実感を嫌でも感じずにはいられなかった。
「ほんまやわ。それで、そちらは?」
宮本は麻生の隣に座る男に視線を合わせていた。
「青山さん。まあ、同業者みたいなもんや。青山さん。大学の同期で、今はアーバネット銀行にいる宮本です」
青山は襟を正し、宮本と向き合った。
「青(あお)山平(やまひら)継(つぐ)と申します。今日は、よろしくお願いします」
宮本は慌てて名刺を取り出した。
「宮本正守です。よろしくお願いします」
しかし青山は宮本の名刺を受け取っただけで、交換をすることはなかった。
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