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『佐治恭介に恋をしていた過去なんて要らない』
要約するとそう読み取れるタイムラインを眺めながら、誰も通らない歩道をコンビニに向かって歩く。
それくらい私に頼みなさい。雑用もマネージャーの仕事なんだからと空音さんは言ってくれたけど、さすがに深夜のコンビニへ女性を行かせることはできなかった。空音さんは見た目だけでは三十歳過ぎとわからない童顔低身長だから尚更。それに俺だって、事務所にカンヅメになっているだけでは息が詰まる。念のためマスク、野球帽、色眼鏡がちゃんと自分についているか手で触って確かめる。
生誕祭まであと三日。俺は一週間前から事務所で寝泊りをしている。事前準備が忙しいこともあるが、一番は俺の安全確保のためだった。
「業界人は大丈夫。みーんな芸能人がどこに住んでいるか知ってるけど、ファンに漏れてないでしょ? お互いに信用で成り立ってるんだから不用意なことはしないわ。一線を越えてくるのはいつだってファンよ」
そんな保護されている状態でコンビニはマズイとは思うが、腹が減ったから仕方がない。それもこれもさっきの打ち合わせが悪い。日を跨ぐまで押した会議の内容は、先日クランクアップした東京デイズの公開時期についてだった。迂遠な言い回しで「おたくの俳優がいらんことをしてくれた。不利益があればそちらの責任です」と伝えてくる配給会社の人間二人と、映画の公開時期に影響はないと慇懃無礼に伝え続ける空音さんのやり取りを横で見るのは骨が折れた。本来は俳優が同席するなんて考えられないらしいけど、俺がそうしたくて空音さんに頼み込んだ。信用で成り立っているなら当の本人がいた方が向こうの勢いを削げるんじゃないかと考え、上司にあたる方の目をずっと見据えていた。
最後は空音さんが「ただ騒ぎたいだけの奴らは、直近のイベントを潰せるかどうかまでしか興味がないの。喉元過ぎればなんとやらよ。インスタライブは食わせてやったんだから、生誕祭は何が何でもやる。そこでこの話は収束するんだから映画にまで影響なんか出さないわよ!」と爆発して二人を追い返して終わった。きっちり終電がなくなる時間まで耐えた時限式爆弾だったなぁ、と時計を確認して思う。
「こういう時、事務所側が強気に出ていいの?」
「良いわけないでしょ!」
もう破裂した風船だし大丈夫かと突っついてみたらきっちり怒られた。
「でも俺は悪いことはしてない。あのディレクターがいる番組には絶対に出ない」
「わかってる。私もあいつのことは二度と忘れない。婿養子に入って苗字が変わろうと気付いてやるわ」
玲奈の部分が顔出しで放送されるとは思っていなかった。事前にわかっていたら絶対に止めていた。編集で【Aさん】として顔を隠すなりなんなり方法はあったはずだ。既婚者である玲奈にこんな言葉で形容するのは申し訳ないけど、彼女は昔と変わらず綺麗だった。だから顔出ししてやろうとディレクターが考えた、と思えるほどに。
俺から玲奈に連絡を取ることもできないので、対応は空音さんに一任している。一応向こうのご家族には謝罪を行い、必要であれば火が落ち着くまで簡単な周辺警備の手回しをする話までしてきたと報告を受けていた。玲奈は「正直嬉しいこともあったし、どうせTVに出るなら顔が出ないとこっちも嫌なんで、大丈夫です。思ったより批判は多くてびっくりしましたけどね」と笑っていたらしいけど。
「あと、あんた宛の伝言を預かってる。『変わってなくて安心した』だってさ」
その言葉を聞いて俺は、曖昧に笑うしかなかった。
シーチキンと昆布のおにぎり、あとは適当にインスタントラーメンを買う。この時間帯は留学生がシフトに入っていることが多く、俺に興味を示してこないので助かっている。徒歩三分間の脱獄が、今の俺が得られる唯一の自由だ。空調でガンガンに冷やされた空気と外気の衝突を感じながらコンビニを出て、また誰もいない道を帰っていく。
俺は、変わっていないのだろうか。
俳優業を始めてから、いや、売れ出してから特にそう考えるようになった。(いつの俺を基準にして?)(変わるのが人間なのに?)と、俺の意志とは関係なく吹き出しに囲まれた言葉が頭の中に溜まっていく。
歩道の一角に設置された駐輪場の横を通ると、コンビニへ向かう時にも鳴っていたカッチッカッチッという音が気になった。横目で見ると、一台の自転車の前輪が中途半端に浮いていてハマっていないらしい。駐輪代を払いたくない人のズルか。そう思った瞬間、何故かグワッと心の奥から沸き立つ何かが頭まで突き抜けた。自転車へ近付き、後ろから蹴飛ばして押し込んでやろうと足を上げたところで、吹き出しが頭の中に落ちる。
(佐治恭介は、そんなことをするのか?)
俺は足を降ろす。そんな問いがずっと、ずっと、緩んだ蛇口から滴り続ける雫のように俺を蝕んでいた。
「恭介。あなた、明日おじいさんに会っておきなさい」
黙ってコンビニに行ったことを詰められると思っていたのに、空音さんは一言目にそう言った。
「空音さんが言うと怖いっすよ。もしかしてじいちゃんに何かあるんすか」
「虫の知らせじゃないわよ。あなたはあと、前日のリハだけで大丈夫だから。明日、ていうか今日か。オフにしといたから行ってきなさい」
それって今日のことは全部私に任せて、の部分が省略されてるでしょ。目だけでそう訴えると空音さんは勝手知ったるという風に、
「モンスター奢ってよ。ビンの方」
と言った。
「……わかりましたよ。正直、たった210円ぽっちで相殺できるとは思ってませんけど」
「バカ。相殺じゃない。いつも言ってるでしょ、あんたをこっちの世界に引きずり込んだ時点で私たちは対等だって」
――俺が演技で大成する? まさか。
空音さんと、当時はうちのスカウト兼事務全般を担っていた赤毛さんに声を掛けられた日のことを思い出す。新宿西口のルノアールで、照り焼きチキンとマスタードのサンドイッチを頬張りながら俺はそう返していた。高二の夏のことだった。
「でもこっちの成人男性が、君から目が離せなかったって言ってるのよ」
「怖いっすね」
「でもこいつの勘が外れたことはない。だからうちの事務所はたった三年でそこそこの地位を獲得できてる」
いくつか挙げられた芸能人の名前はどれも聞き覚えがあった。なるほど確かに、と思う。
「君にやってみたい意思さえあれば、後のことは全部私達が何とかする。親御さんの説得から、君がスターとして世に出るまでの算段まで」
「至れり尽くせりですね」
「国語が好きなの? 頭が良いっていうのもこの世界では結構な武器になるわよ。持ち帰ってもいいから考えてみて」
正直、あまり悩んではいなかった。二人からは人を貶めてやろうという胡散臭さがなかったし。芸能界にちょっと興味はあったし。あとは、食べていたサンドイッチが美味しかったこともあるかもしれない。
「やってみたいっす。うちの親はミーハーだから説得はそんなに困らないと思いますよ。唯一堅物なおじいちゃんは、俺が説得するんで」
俺がそう言うと、赤毛さんは早々に席を立って電話をかけ始めた。空音さんはズズズ、と残り少ないコーヒーをストローで飲み切り、手を差し出してきた。
「じゃあ、佐治香介君。今日から私達は対等な関係よ。特に私はマネージャーとして、これからあなたに尽くすように働く。けどそれはあなたのためじゃない。だからどうか恩義に感じないで。私達はあなたから搾取する代わり、あなたに尽くす。これを社会では対等と言うの」
「うわぁ。社会って嫌なとこっすね」
「まぁね。だから私があなたに、そんな社会でもやっていける、壊れない生き方を教えてあげるわ。私の目が黒い内は、あなたは潰させない――」
「あの頃の空音さんは若かったなぁ」
「今も若いわ。それにあんただってあの頃はちんちくりんだったじゃない」
空音さんが俺に肩パンしてくる。空音さんがあの日言った対等に、俺達はなれてるんだろうか。
「今回の炎上は私の所為でもあるからね。ちゃんと育てた責任は取るわよ」
「育て方を間違ったとは思わない?」
「バカ言わないで。私がタレントの育成に失敗するわけないでしょ」
そうかなぁと笑いながら、俺は事務室を出て廊下の奥にある自販機へ向かった。小銭が500円玉しか無く使いたくなかったので、仕方なく1000円札を自販機へ入れてビンのモンスターを買う。
空音さんが自信を失わないことが、俺自身が佐治恭介を疑わない理由の大部分だ。あの人のおかげで、佐治恭介は生きている。
(じゃあ、佐治香介は誰に生かされている?)
その言葉は、落ちてきたビンの音よりも大きく頭の中に鳴り響いた。
「じいちゃん、体調はどう?」
昼過ぎ。大学病院にほど近い特別養護老人ホームまほろばへじいちゃんを訪ねる。大事なイベント前や映画のクランクイン前、俺はよくじいちゃんを訪ねている。俺に箸の持ち方から教えてくれた人だからこそ、会うと襟を正されるような心持ちになるからだ。
消毒液と埃とじいちゃんの匂いが混ざった部屋の中で、じいちゃんはワイドショーを観ていた。
「おう香介。お前、最近テレビでよく見るようになったな」
「お、じいちゃんの目にも入るくらい大きくなったかな俺」
「阿呆。テレビで一般の子に好きだったどうだったと伝えるバカな俳優をよく見ると言っとるんだ」
「なんだそっちか」
買ってきたフィナンシェを二個、掛け布団の上に置く。箱で買うと「食べきれないでしょう」と言って勝手にいくつか持っていく職員さんがいるらしい。
持ってきた飲料水をポットに注いでお湯を沸かす準備をしている間も、じいちゃんはワイドショーを観ていた。閉め切った窓の外から聞こえるセミの声はどこか遠く、この部屋だけが外界から隔離されているようにも思えた。
「ごめん、じいちゃん」
「何で謝る。悪いことはしとらんだろう」
「でも、ほら、お孫さんがどうとか言われるでしょ」
「他人がわしの孫をどう言おうと知ったことか」
緑茶を作ってベッドの台に置くと、じいちゃんはフィナンシェの封を開けて食べ始めた。俺も自分の分を開ける。
「やけに口籠るな。何か聞きたくて来たんだろう」
「いやまぁ、そうなんだけど。何と言えばいいもんだか」
じいちゃんには全てを見透かされているような気がした。共働きの両親に変わって、優しさも怖さも全てを俺に与えてくれたのがじいちゃんだ。これまでも演技に自信が持てないだとか、ファンとの距離感がわからないだとかを話したことはあった。じいちゃんはその都度「お前は大丈夫だ」と言ってくれたけど、今回の質問は根幹に関わることだ。「何を言っているかわからん」と言われても「もう違うな」と言われても立っていられる気がしない。
中々踏ん切りがつかなかったけど、じいちゃんがフィナンシェを食べきってこっちをじっと見据えるので仕方なく俺はそれを口にした。
「じいちゃん、俺、まだちゃんと香介かな」
佐治恭介としての生き方は空音さんから教わった。今思えばあの人は、佐治香介を守るためにも佐治恭介を育てたんだとわかる。でも、守ってきたはずのそれが立ち消えそうになることが増えた。(佐治香介は佐治恭介の一部となって今も生き続けている)というご都合主義な言葉が頭の中に落ちる。
俺はもう、自分が誰なのかを判断できない。
「何を言うかと思えば。お前は、産まれた瞬間から今まで何も変わっとらんよ。橙色の綺麗な魂だ。綺麗なだけじゃなく強く熱い色のな」
じいちゃんは俺の頭に手をのせて撫でてくれた。俺は涙が出そうになった。力強い言葉と、昔よりやけに軽くなった手。俺の心の中に、久しぶりに佐治香介だけに流れる感情が放流されたように感じる。
「香介。お前は大きな勘違いをしている。曲がったり立ち止まったりしては香車ではないと思っているようだが」
「それは間違いじゃないでしょ」
「阿呆。人生が真っ直ぐな道ばっかりで出来ていてたまるか。回り道や間違いの連続、道なき道の方が多い。その途上で悩み苦しみ、自分を捨ててしまったかのような選択があったってワシは構わないと思っている。いいか、お前が向いている方向、それが前だ。前を見据えて進もうとしている限り、お前は香介で、ワシの自慢の孫だ」
ゆっくり、じいちゃんの手を跳ね除けてしまわないように顔を上げる。無性に目が見たかった。
俺は人の目を見るのが好きだ。その人が俺に向けている感情と意志の全てがそこには宿っている。
あの日。数年ぶりに玲奈と対面して見つめあったあの日。昨日のことのように京都の思い出が鮮明に蘇ったあの日、思い出したのはフラペチーノの思い出だけじゃなかった。
俺と玲奈を二人きりにしてくれた高村と飯塚、お土産を持ち帰ったら喜んでくれたじいちゃん、そして、五百円を貸してくれた紗那。
あの日以来俺が出来なくなったのはフラペチーノを飲むことだけじゃない。財布の中に必ず五百円玉がないと落ち着かなくなった。何で返せなかったのかはもう思い出せないけど、気付けば五百円は俺のお守りになっていた。五百円玉を見る度、フラペチーノを目にする度、じいちゃんと話をする度に佐治香介に帰ってこられるお守り。
「もう大丈夫だな。生誕祭、頑張ってきなさい」
一度として俺から「生誕祭」の言葉を使ったことはないのに、じいちゃんはそう言った。佐治恭介を佐治香介としても見てくれる人がいることを、俺は思い出せていた。
会場の様子は空音さんからの指示で見ないようにしていた。
「余計な前情報は入れないようにしなさい。あんたはいつだって、ぶっつけ本番の生の反応や言葉が映える」
インスタライブの仕掛け人でもある空音さんが、控室で俺にそう発破を掛けてくれた。その評価は嬉しいものだ。
ステージから見渡した県民ホールの約2,500席は、見事に埋まっていた。知った顔もちゃんといる。ナツメグさんも、インスタライブで悩み相談をしてくれた大学生の女の子も、去年も見た顔ぶれも、たくさん。その中に優花がいないのは、ナツメグさんの両横を見てすぐに分かった。そりゃそうだよな。あの子、俺に認知されるくらい強火のガチ恋だし。
「えー、えっと、ごめんね昨年に続き、俺アイドルじゃないからさ、派手な演出で登場とか柄じゃなくてできないんだ。ぬっと出てきてごめん」
客席で笑いが起きる。それでもまだ、昨年とは違う緊張感を感じる。
「えっ、と。何から話そうか。正直、これ以上ごめんは重ねたくないしなぁ……」
俺が言葉に詰まっていると、右端奥の方から女の子の高い声が響いた。
「佐治くんがんばれー!」
途端、俺の中でスイッチが入った。これまでは何となくだったバトンタッチが、ハッキリとイメージできる。
佐治恭介、あとはよろしく。
「ありがとう! 勇気のいる言葉だったよね、ちゃんと届いたよ。はい皆は必要以上に声の主を見ない。俺を見に来てくれたんでしょ?」
俺がそう言うと、今度は口々に「佐治君大好きー!」「生誕祭開いてくれてありがとー!」などの声が飛び交うようになった。音圧がステージに響く。そして、その中に「裏切者ー!」という声があったことも聞き逃さない。
ステージの袖を見る。空音さんがそこにいる。何も心配していないというあの目に、俺は救われる。
「ありがとう。ちゃんと皆の思い、届いてるからね。来れなかった人の励まし、応援、もちろんお叱りもちゃんと届いてる。でもごめん。ここに来る気もなかった上にキツイ言葉を投げてくるだけの匿名さんの声は拾ってあげられないかも」
会場内で小さな笑いとどよめきが起きる。笑ってくれた人は、きっとさらに俺に近い位置にいてくれる人だろう。ちらっと見えたナツメグさんも笑っていた。仕方がないなこの子は、って感じだろうか。
「俺はこれからも、ありのままの俺を届けて行こうと思う。どこまで付いてきてくれるかを、俺は皆に委ねるしかないけど」
スカウトを受けて空音さんと握手した日、あの会話にはまだ続きがあった。
――今後、私もファンも、きっとあなたを分かってあげられない。佐治香介くん。あなたのことを分かってあげられないの。そして、俳優やタレントとしてのあなたにも皆は理想を押し付ける。ぶち壊してやりなさい。あなたはあなただって表現し続けなさい。どんなに泥臭くたって良い。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと表現しなさい。私達は、あなたが表現したことは受け取らざるを得ない。それがあなたが、最も輝く方法だと私は信じている。私が信じている限り、あなたも信じ続けなさい――
深呼吸する。ろうそくの火を吹き消す前のように、精一杯息を吸って、俺は口を開いた。
「皆がいてくれるから、俺は佐治恭介でいられる。佐治香介でいられるんだ。生まれ変わった気持ちになんてなったりしない。今日は俺の二十四回目の誕生日だ。さじきょー生誕祭、今年も始まります!」
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