「ここは思った通り、それほど汚れていませんね」
「そうだね」
それは、なんとなくわかっていた。だから今重要なのは、きれいにすることではなく……
「あのね、聞きたい事があるんだけど」
「何ですか?」
「さっき言ってたことなんだけど」
「さっき?」
「こんな雰囲気を変えられない僕は、『尚也』ではないって、言ってたよね」
「ああ……聞こえていたんですね」
ナオヤくんは、そっと目を逸らせた。
「気にしないでください」
「聞いちゃった以上は無理。私には、そう思う気持ちもわかるから」
たぶん、ナオヤくんの気持ちを理解できるのは、私しかいないと思う。だから、言わなきゃいけない。
「ナオヤくんは、私に実験をやめてもいいって言ったけど、ナオヤくんも、じゃないの?」
「何故ですか?」
間髪入れずに、そう返って来る。不思議そうな視線と共に。
「何て言うのか……息苦しそうに見えるから」
「今のところ、呼吸に支障はありません」
「そうじゃなくて! 精神的にって言うか……?」
「……『精神的に』『息苦しそう』……」
はて、と言ってナオヤくんは考え込んでしまった。また難しい思考回路を巡らせているんだろうか。しばらく沈黙が流れた後、急にナオヤくんはこちらを向いた。
「もしや……昨日僕が言ったあなたの状況と同じだと言いたいのですか?」
「えぇと……まぁ、そうかな」
昨日、ナオヤくんは言ってくれた。私が実験を続ける必要はないんじゃないかって。私たちにとって実験を続けるということは、オリジナルに近づくこと。だけどオリジナルに近づいて喜ぶのは自分じゃなくて、愛と
ヒトミを取り違えているお母さん。
ナオヤくんたちはお母さんの態度に憤慨していた。お母さんのためだけにオリジナルを目指すなら、それで私が傷つくなら、実験なんてやめていい。そう、言ってくれた。
だけどそれは、ナオヤくんにだって当てはまるんじゃないだろうか。
オリジナルの深海くんとの差にあんなにも苦しむくらいなら、いっそ近づこうとしなくていいんじゃないか。そう思ったのだけど……目の前のナオヤくんは、首を横に振っていた。
「それは無理な提案です」
「無理ってことはないんじゃ……」
「いいえ、無理です。それは僕の存在意義に関わることなので。『深海尚也』ではない僕には、何の価値もない」
尚也くんは、きっぱりと、そう言い切った。
「価値って……」
「僕のクローン管理番号はAS655112-708。下三桁をとってナオヤと呼んでくださいと、言いましたね」
「え?」
確かにその話は覚えているけれど……なんだろう、いきなり?
「僕はこの番号で良かったと心から思っています。だって『ナオヤ』になれるのですから。そして、100番違いだったとしたら……僕は『808』の『ヤオヤ』になってしまいます」
「ぶっ!?」
思わず噴き出してしまった。お腹の底からこみ上げてくる笑いを堪えきれなくて、くつくつ笑ってしまい、結局大声で笑ってしまった。
「アハハハハ! やめてよ、何いきなり!?」
「渾身の冗談です。笑ってもらえて良かった」
「こ、渾身て……」
まさかいつこのネタを言おうかとずっと抱えていたんだろうか。真面目な表情の裏でそんなことを考えていたのかと想像すると……ダメだ、また笑いが止まらなくなる。
「そんなわけで、僕は『ナオヤ』以外ではありえないのです。気遣って頂いてことには感謝しますが、それ以上の提案は無用です」
なんだか、こじつけみたいな言葉であっさり幕引きをされてしまった。そう言われてしまうと、それ以上の追求はできない。
更には、私の笑い声をききつけた弓槻さんが駆けつけて、何が起こったのか話すことになった。するとナオヤくんの珍しい『冗談』に話題が移って、完全にそれ以上を聞く事なんて、できなくなってしまったのだった。