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9.猛き狼の啼哭-3

ー/ー



 淡い明かりによって、白く浮かび上がる展望塔。その入り口の草地に、リュイセンは膝から崩れ落ちた。
 かくりと頭が(かし)ぎ、(そろ)えられた髪が肩を撫でる。しかし、他はどこも動かない。すべての力が抜け落ちてしまったかのように。
『リュイセン?』
 携帯端末から、ミンウェイの声が響く。
 端末を握っている(おのれ)の手の感覚はあやふやなのに、聴覚だけは鋭敏で、流れてくる彼女の声を、言葉を、吐息を、リュイセンは必死に求める。
『リュイセン、どうしたの? お願い、返事をして!』
 彼女に応えなければ。
 彼女が心配している。彼女が不安がっている。
 柳眉を下げ、綺麗な(べに)の唇が震えている。――見えなくても分かる。どうか、そんな顔をしないでほしい。
「ミンウェイ……」
 やっとのことで、一番、大切な言葉を口にした。
 だが、それ以上の声は出ず、頭も働かない。
『リュイセン!』
 彼女が、彼の名前を呼ぶ。
 それだけで、幸せだと思った。
 その瞬間、彼は意識を手放した。


 リュイセンが再び目を開けたとき、そこはメイシアに割り当てられている、ふたつの半円形の展望室のうち、食事に使うほうの部屋だった。
 すべすべとした革の感触が頬を撫でた。どうやら負傷した背中に負担が掛からないよう、ソファーの背もたれを支えにして、横向きに寝かされているらしい。
「リュイセン! よかったぁ!」
 すぐそばにいたファンルゥが彼に飛びつこうとして、すんでのところで(とど)まった。
 彼女はぶんぶんと首を振り、太い眉をぎゅっと寄せる。『リュイセンは怪我人なの。そっとしておかなきゃ駄目だって、ファンルゥ、知っているもん』という意味なのだが、残念ながら、リュイセンの目には謎の行動としか映らなかった。
 そんな娘の背後から、父親のタオロンがぬっと顔を出した。
「刃は抜いたぞ。幸い、後遺症が残るような部位ではなかったから、安心してくれ」
 タオロンは目を細め、安堵の息を吐く。
 リュイセンはゆっくりと体を起こし、自分の状況を確認した。
 上半身は裸で、シーツを裂いて作ったと思しき包帯がきつく巻かれていた。体は綺麗に拭かれているものの、周りの絨毯は血の吹き出したような跡で真っ赤に染まっている。気の弱い者なら卒倒しかねない惨状だ。あの刃を引き抜けば当然だろう。
 そして、血臭もさることながら、酒の匂いが鼻につき、見るからに高級そうな酒瓶が転がっている。この部屋にあった、王の秘蔵の逸品を傷の消毒に使ったのだ。置き去りにされていたのだから構わないだろうが、世界一高価な消毒薬だったに違いない。
「お前が気を失っていたのは、せいぜい三十分ほどだ。それから、塔の見張りは、縛り上げて階段に転がしておいた」
「タオロン。いろいろ、すまない。ありがとう」
「感謝するのは俺のほうだ。……よかった、本当によかった」
 何かに耐えるように歯を食いしばり、タオロンは肩を震わせる。愛娘のために負傷した恩人が昏倒したのだ。さぞや責任を感じていたのだろう。
 リュイセンは申し訳ない気持ちになった。
 倒れたのは、どちらかというと怪我のせいではなく、心労のためだ。ミンウェイの声を聞き、張り詰めていた精神の均衡が崩れた。
 リュイセンの口から、細く長い息が漏れる。
 黄金比の美貌が冴え渡り、澄み切った双眸が静かに凪ぐ。
 これから彼のやるべきことが、理屈ではなく、直感で浮かび上がる……。

(ムスカ)〉との決着は、今夜中につける。
 だが、その前に、鷹刀に――ルイフォンとメイシアに、義を尽くす。

 先ほど、タオロンは『メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』と言っていた。
 そして、囚われのはずのメイシアが、何故か携帯端末を持っていて、その端末がミンウェイと繋がっていた。聡明なメイシアは、水面下で着々と脱出の準備を進めていたのだ。
 その計画の中には、リュイセンも含まれているのだろう。しかし、それは丁重に断らねばならない。リュイセンは道を(たが)えたのだから。
 彼は、ぐるりと瞳を巡らせ、姿の見当たらない彼女の所在をタオロンに尋ねる。
「メイシアはどこにいる?」
「向こうの部屋で、お前の着替えになりそうなものを見繕っている」
「ありがとう」
 立ち上がろうとしたリュイセンを、タオロンが慌てて押し止めた。
「お前は、できるだけ体力を温存しろ! あとで動けなくなるぞ」
 怒鳴りつけるような言い方にリュイセンは軽く目を見張り、それからタオロンの気遣いに相好を崩す。
「……ああ。そうだな」
 ふたりとも、分かっていた。リュイセンの怪我の具合いからすれば、無理は禁物。平時であれば、しばらく安静にすべき重傷だ。
 けれど、今宵は行動のとき。怪我を押してでも動かねばならぬ。
 長い夜は、まだこれからなのだと、交わされた視線が暗黙の了解を成立させる。
「メイシアは俺が呼んでくる」
「すまない。……一刻も早く、鷹刀と連絡を取りたい」
「そうか」
 リュイセンの言葉に、タオロンの口元が緩む。
「俺は、向こうの部屋でファンルゥを寝かしつける。メイシアがベッドを貸してくれると言っていたんでな」
 だから、鷹刀の連中と腹を割って話せ。――太い眉がぐっと寄り、無言で告げる。
 リュイセンは、苦い思いを呑み込んだ。
 タオロンは、リュイセンが一族と和解するものだと信じている。だが、申し訳ないが、その期待には応えられないのだ……。
「タオロン、……感謝する」
「感謝ならメイシアにしてくれ。俺は彼女の指示で動いただけだ。――さっきだって、お前の傷の治療は、貴族(シャトーア)のお嬢さんには刺激が強すぎるからと手伝いを断ったんだが、頑として譲らなくてな。蒼白になりながらも、必死に働いてくれた」
「メイシアが……。そうか、……ありがとな」
「だから、礼はメイシアに言えって」
 浅黒い肌の(いか)つい大男は、笑うと人懐っこい童顔が際立った。
 リュイセンの看病をするのだと、口を(とが)らせるファンルゥを抱え上げ、広い背中が去っていく。そういえば、タオロンとはいつの間に、こんなふうに口をきける間柄になったのだろうか。ずっと敵だったはずなのだが――。
「……ずっと、仲間だったのかもしれないな」
 ただ、すれ違っていただけで、心は響き合っていた。
 そして――。
 心は深く求めながらも裏切り、二度と相まみえることはあるまいと決別した血族。
 これから、彼らと対峙する。
 彼らとの、最後の言葉を交わす……。


『今、タオロンさんが来て、リュイセンが目を覚ましたと知らせてくれたの。傷は浅くはないけれど、とりあえず大丈夫だって。それで、リュイセンが『鷹刀と話をしたい』と言っていると――』
 メイシアからの連絡に、執務室が沸き立った。
「そうか、分かった」
 ルイフォンは短く返し、受話器をぐっと握りしめる。
 事態は二転三転し、予断を許さない状況が続いていたが、ようやくここまでたどり着いた。しかも、リュイセンのほうから対話を求めてきた。
 あと、もうひと息だ。
 リュイセンはまだ、ルイフォンがミンウェイの『秘密』を(あば)いたことを知らない。彼女が『母親』のクローンであったという事実を受け入れたことを知らない。
 それを知ったとき、リュイセンはどう思うのか。
 鼓動が高鳴る。緊張に体が強張る。次の指示を出さなければと思っているのに、喉が詰まって声にならない。
 そんなルイフォンの様子は、最愛のメイシアにはお見通しなのだろう。彼女の声が、そっと寄り添い、彼に覇気を吹き込んだ。
『ルイフォン。リュイセンは大丈夫』
「……ああ。――あいつなら、大丈夫だな」
 彼女に導かれ、重ねるように唱えた。すると、(たかぶ)る鼓動に変わりはないのに、不思議と思考が明瞭になる。
 ルイフォンは穏やかに微笑み、メイシアに告げた。
「互いに顔が見えたほうがいいよな? 会議システムに切り替えるから、メイシアも準備してくれ」
『はい』
 そして、一度、メイシアとの通話を切る。 
 そのとき、シュアンが唐突に「便所に行ってくる」と立ち上がった。
「晩に食った弁当が、どうも古かったみたいでな。さっきから腹が痛くてたまらないのさ」
 当分、帰ってくるつもりはないと暗に言う。
 無論、腹痛は席を外すための方便だろう。リュイセンに蛇蝎の如く嫌われている彼の姿が見えれば、まとまる話もまとまらなくなると、気を遣ってくれたのだ。
「緋扇さん……」
 ミンウェイが申し訳なさそうな顔で見上げると、シュアンは口元を緩めた。笑い掛けたつもりなのだろうが、歪んだ口の端と細められた三白眼は、どこまでも悪人面でしかない。
 彼は、ひょいとかがんで、ミンウェイの膝に置き去りにされていた、警察隊の制帽を取り上げた。その際に彼女の肩に手を載せて、ルイフォンが準備しているモニタ画面のほうへと、そっと押し出す。――まるで送り出すかのように。
「あとは頼んだぞ」
 わざとらしく腹をさすりながら身を翻し、制帽を載せたぼさぼさ頭は執務室から消えていった。


 そして――。
 切れかけた絆を結ぶように、回線が繋がる……。


 その瞬間、スピーカーを低く震わせたのは、内に静かな高温を秘めた、熱した(はがね)のようなリュイセンの謝罪だった。
『ルイフォン、メイシア。お前たちに深く詫びる。ルイフォンに刃を向け、メイシアを〈(ムスカ)〉のもとへさらっていき、すまなかった』
 罪を口にして、頭が下げられた。肩を()いだ黒髪が綺麗に(そろ)ったまま、モニタ画面の中で静止する。本当は、床に手を付こうとしていたのだが、動いては傷に障ると血相を変えたメイシアに止められたのだ。
 まっすぐな姿勢に、ルイフォンは面食らった。
 彼としては、いつの間にか、メイシアと鷹刀一族の連携が取れていることに関して、まずは詰問されると思っていた。しかし、よく考えれば、あらゆる情報を手に入れていたルイフォンとは違い、閉ざされた空間にいたリュイセンは、いまだ決別したあの時点に取り残されたままだったのだ。
「……」
 ルイフォンは、リュイセンの想いを踏みにじるようにミンウェイの『秘密』を(あば)いたが、リュイセンも、ルイフォンの想いを引き裂くようにメイシアを奪っていった。
 あのときの絶望は、忘れたわけではない。
 リュイセンを取り戻すと決めたあとも、自分を裏切った相手と、いざ再び顔を突き合わせたとき、どんな感情を(いだ)くのか不安に思ったこともある。
 本当に、彼を許せるのだろうか――と。
「リュイセン」
 長いこと、呼びかけていなかった名前を口にする。
 どこまでも律儀で、(かたく)なで、(スジ)を通さねばすまない、頼もしい兄貴分。
 本当は、今すぐにでも〈(ムスカ)〉にとどめを刺しに行きたいのだろうに、ルイフォンと連絡がついたからには、きっちりと頭を下げずにはいられなかったのだ。
 ――こいつを失うなんて、考えられないだろ……。
 ルイフォンは前髪を掻き上げ、猫の目を好戦的に光らせる。その動きに合わせて、背中で金の鈴が跳ねる。
「俺は〈(フェレース)〉。天才クラッカーにして、情報屋だ」
 テノールを響かせ、ルイフォンは――〈(フェレース)〉は、不敵な笑みを浮かべる。
「〈(フェレース)〉は、すべてを知っている。お前の身に起きたことの『すべて』を、だ」
『――!?』
 リュイセンは反射的に顔を上げ、ルイフォンを凝視した。
 驚愕と疑念の混じる兄貴分の双眸に、ルイフォンは不遜なまでの自信過剰を見せつける。それが〈(フェレース)〉だと知らしめる。
「鷹刀の後継者」
『!?』
「情報を共有しよう。――そして、俺の手を取れ!」


 時々、雑音の混ざる音質と、揺れて途切れる映像。
 不安定な通信を補うように。
 千切れそうな絆を()り合わせるように。
 情報(言葉)を送り出す――…………――受け止める。


 もたらされた情報に、リュイセンは愕然とした。
 彼が必死に守ろうとしていたミンウェイの『秘密』は、とっくに彼女に伝わっていた。
「俺はいったい、なんのために……」
 ぽつりと呟く。乾いた笑いすらも出てこない。
 余計なことをしたルイフォンに憤りを覚える。
 だが、それ以上に惨めだった。
 自分のすべてと引き換えにしてでも守りたかったものを、守ることができなかった。
 わなわなと震える両手で、リュイセンは自分の頭を掻きむしる。いつの間にか荒くなっていた呼吸が、まるで他人のものに感じられる。
 ……無論、理解はしている。
 ルイフォンは、リュイセンのためを思って行動したのだと。それが、リュイセンにとって如何(いか)に腹立たしいことであるかも含めて、すべて承知の上で。
「……」
 リュイセンは唇を噛みしめた。口の中に血の味が広がる。
 そのとき。
『リュイセン』――と。
 (つや)やかな美声が、耳朶を打った。
 はっと顔を上げると、小さな携帯端末の画面の中から、彼女が見つめている。
 波打つ黒髪の絶世の美女。二度と目にすることは叶わないと思っていた愛しい(ひと)
「ミンウェイ……」
『私の『過去』を守るために、ありがとう。……私がいつまでも、お父様に囚われていたから、あなたが苦しむことになってしまったの。――ごめんなさい』
「ミンウェイが謝る必要はない!」
 彼女は何も悪くない。
 すべては、あの悪魔のせいだ。
『ううん。私のせいよ』
 ミンウェイが緩やかに首を振る。離れていても、草の香が漂うのが分かる。
 リュイセンが重ねて『違う!』と叫ぼうとしたとき、それより早く、語勢を強めた彼女の声が響いた。
『でも、私! 結果として、自分が何者なのかを知ることができて良かったと思っているわ。だって、『過去』があやふやだったから、『現在』に引きずってしまったんだもの!』
 綺麗に(べに)の引かれた唇が、きゅっと上がった。強気の笑顔が、輝く。
「――!?」
 ミンウェイが笑っている。とても、生き生きと。
 リュイセンは(おのれ)の目を疑った。
 あの『秘密』を知れば、彼女は傷つくものと思っていた。どうすることもできない事実に打ちひしがれ、永遠に抜け出すことのできない闇に囚われてしまうのだと信じていた。
 思考が凍りついた彼に、彼女が穏やかに語りかける。
『ねぇ、リュイセン。いつだったか、あなたがお祖父様に『『過去』より『未来』のほうが大切だ』と啖呵を切ったのを覚えている?』
「あ、ああ……」
 覚えている。忘れるわけがない。
 一族の総帥たる祖父に、あれほど真っ向から意見を叩きつけたのは初めてだった。
 あれも、ミンウェイのためだった。煮え切らない態度を取る祖父に対し、彼女を苦しめる〈(ムスカ)〉は一刻も早く捕らえるべきだと主張し、彼女の憂いを取り除こうと……。
『あなたの言う通りだと思うの。――私、ちゃんと『未来』を生きたいわ』
 夢見る少女のように微笑みながら、切れ長の瞳は、あくまでも冷静に前を見据えていた。その視線に、揺らぎのない強さを感じる。
 今までの彼女は、一族からの信頼の(あつ)い、姉御肌のしっかり者だった。けれど、どこかに無理があった。誰かのために尽くさなければという、気負いがあった。
 それが、目の前の彼女は、極めて自然で、そして自由だ。
『お父様とお母様の思いを知った上で、私は、『私』として、未来(これから)を生きたい』
 そこでミンウェイは、言葉を一度、切る。
 白い喉がこくりと動いた。唾を呑んだのだ。
『……そのために、あなたの力を貸してほしいの』
「俺の力?」
 リュイセンは訝しみながら言葉を転がし、ふと思い出した。
 彼が展望塔の入り口で倒れる直前にも、ミンウェイは『あなたの力が必要』と言っていた。あのときは、メイシアの脱出に協力してほしいという意味だと思ったのだが、違うのだろうか。
 疑問を(いだ)く彼に、彼女が『リュイセン』と呼びかける。
『ここから先の話は、私の我儘よ。聞いてくれるかしら?』
 強気の口調は崩さず、けれど、語尾が震えている。
 緊張しているのだ。
 その証拠に、彼女の美貌は強張っている。不穏を感じ、リュイセンは胸騒ぎを覚える。
「俺に……、何を求める?」
 彼の声もまた、緊張にかすれていた。
 ミンウェイの瞳が惑うように揺れる。けれど、意を決したように(くれない)の唇が動く。
『〈(ムスカ)〉を捕獲して、鷹刀の屋敷まで連れてきてほしいの』
「なっ……!?」
 一瞬にして、リュイセンの(まなじり)が大きく吊り上がった。
「さっきのルイフォンの話では、メイシアが、セレイエの記憶を得た以上、〈(ムスカ)〉は用済みだと……!」
『間違えないで! 〈(ムスカ)〉の助命を乞うているのではないわ。最終的に〈(ムスカ)〉に与えるべきものは『死』。それは絶対の一族の意志。私も同意しているわ』
「ならば、何故……?」
『でも、その前に、私は〈(ムスカ)〉と――『お父様の記憶を持つ者』と話をしたい。きちんと向き合うことのできなかったお父様と、最後に向き合いたい。――そして、きちんと『過去』に別れを告げたい』
 鮮やかな緋色の衣服を誇張するように、ミンウェイが胸を張る。
「ミンウェイ……」
『あなたが納得できないなら、今の話は取り消し! ……だって、お父様は『過去』だもの』
 高い鼻梁をつんと上げ、ミンウェイがきっぱりと言い切る。
 その切れ長の瞳の奥に、小さな女の子が見え隠れする。
 置き去りにされたままの、過去のミンウェイ。
 いつも脅えていたあの子が、はにかむように笑っていた……ような気がした。
「――――!」

『俺は、やるべきことをやるだけだ』

 それが、リュイセンの口癖だ。
 そして、理屈ではなく直感で、一足飛びに真理までたどり着くリュイセンには、自分のやるべきことがなんであるか理解してしまった。
「畜生……」
 ミンウェイの願いは、真実の気持ちだろう。
 だが、分かっている。シナリオを書いているのはルイフォンだ。あの賢い弟分は、はっきりと『俺の手を取れ!』と言ったのだから。
 ルイフォンは、リュイセンの想いを踏みにじった。リュイセンの覚悟を無にした。――そのほうが、誰もが幸せになれる、正しい道だと信じたから。
 すべてがお膳立てされた中で、ルイフォンの手を取るのは屈辱だ。不愉快だ。
 けれど――。
 リュイセンは携帯端末を覗き込み、ミンウェイの後ろに小さく映っているルイフォンの目を見た。
「〈(フェレース)〉」
 どんなに悔しかろうが、どんなに情けなかろうが、ここで〈(フェレース)〉の手を取らないのは、醜悪な愚か者でしかない。
「お前の策に乗ってやる」
『リュイセン!?』
 音質の悪い回線の中でも、弾かれたようなテノールがしっかりと聞こえた。
「お前が策を立て、俺が実行するのが、俺たちのやり方だ。やってやる。――俺が〈(ムスカ)〉を捕獲する」
『本当か!』
「ああ」
『お前、怪我は大丈夫なのか?』
「正直なところ、万全とは言い難い。だが、俺がやらなきゃ、(スジ)が通らねぇだろう?」
 単に〈(ムスカ)〉を捕獲するだけなら、タオロンに頼むことだってできる。だが、これはリュイセンがやるべきことだ。
 ルイフォンが瞳を瞬かせ、『感謝する』と頭を下げる。
 普段はいい加減なくせに、こんなときだけ礼儀正しい台詞を吐くのが、この弟分だ。
「馬鹿野郎! 感謝すべきは、俺のほうだろう!」
『ま、それもそうか』
 ルイフォンが、にやりと笑う。そうだ、それでいい。
 不意に、ルイフォンが真顔になった。
『けど、さすがにお前ひとりじゃ危険だから、鷹刀の総帥と〈(フェレース)〉の名において、タオロンに補佐を頼む。それは、いいよな?』
「上等だ」
 リュイセンとルイフォンの、目と目が合った。
 そして、どちらからともなく、笑みを浮かべる。
『リュイセン』
「なんだ?」
 首をかしげたリュイセンに向かい、ルイフォンが右手の『掌』を差し出した。
 リュイセンは息を呑んだ。
 それは、ふたりの間で通じる、特別な儀式。
 握手ではなく、『掌』と『拳』を打ち合わせ……。

 ――共に行こうと、相手を迎える――。

『おかえり』
 抜けるような青空の笑顔で、ルイフォンがテノールを響かせる。
 だからリュイセンは『拳』にした右手を、滲んだ画面に向かって突き出した。
「……ただいま」


~ 第八章 了 ~


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「ミンウェイ……」
 やっとのことで、一番、大切な言葉を口にした。
 だが、それ以上の声は出ず、頭も働かない。
『リュイセン!』
 彼女が、彼の名前を呼ぶ。
 それだけで、幸せだと思った。
 その瞬間、彼は意識を手放した。
 リュイセンが再び目を開けたとき、そこはメイシアに割り当てられている、ふたつの半円形の展望室のうち、食事に使うほうの部屋だった。
 すべすべとした革の感触が頬を撫でた。どうやら負傷した背中に負担が掛からないよう、ソファーの背もたれを支えにして、横向きに寝かされているらしい。
「リュイセン! よかったぁ!」
 すぐそばにいたファンルゥが彼に飛びつこうとして、すんでのところで|留《とど》まった。
 彼女はぶんぶんと首を振り、太い眉をぎゅっと寄せる。『リュイセンは怪我人なの。そっとしておかなきゃ駄目だって、ファンルゥ、知っているもん』という意味なのだが、残念ながら、リュイセンの目には謎の行動としか映らなかった。
 そんな娘の背後から、父親のタオロンがぬっと顔を出した。
「刃は抜いたぞ。幸い、後遺症が残るような部位ではなかったから、安心してくれ」
 タオロンは目を細め、安堵の息を吐く。
 リュイセンはゆっくりと体を起こし、自分の状況を確認した。
 上半身は裸で、シーツを裂いて作ったと思しき包帯がきつく巻かれていた。体は綺麗に拭かれているものの、周りの絨毯は血の吹き出したような跡で真っ赤に染まっている。気の弱い者なら卒倒しかねない惨状だ。あの刃を引き抜けば当然だろう。
 そして、血臭もさることながら、酒の匂いが鼻につき、見るからに高級そうな酒瓶が転がっている。この部屋にあった、王の秘蔵の逸品を傷の消毒に使ったのだ。置き去りにされていたのだから構わないだろうが、世界一高価な消毒薬だったに違いない。
「お前が気を失っていたのは、せいぜい三十分ほどだ。それから、塔の見張りは、縛り上げて階段に転がしておいた」
「タオロン。いろいろ、すまない。ありがとう」
「感謝するのは俺のほうだ。……よかった、本当によかった」
 何かに耐えるように歯を食いしばり、タオロンは肩を震わせる。愛娘のために負傷した恩人が昏倒したのだ。さぞや責任を感じていたのだろう。
 リュイセンは申し訳ない気持ちになった。
 倒れたのは、どちらかというと怪我のせいではなく、心労のためだ。ミンウェイの声を聞き、張り詰めていた精神の均衡が崩れた。
 リュイセンの口から、細く長い息が漏れる。
 黄金比の美貌が冴え渡り、澄み切った双眸が静かに凪ぐ。
 これから彼のやるべきことが、理屈ではなく、直感で浮かび上がる……。
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 だが、その前に、鷹刀に――ルイフォンとメイシアに、義を尽くす。
 先ほど、タオロンは『メイシアと鷹刀は、とっくに連携している』と言っていた。
 そして、囚われのはずのメイシアが、何故か携帯端末を持っていて、その端末がミンウェイと繋がっていた。聡明なメイシアは、水面下で着々と脱出の準備を進めていたのだ。
 その計画の中には、リュイセンも含まれているのだろう。しかし、それは丁重に断らねばならない。リュイセンは道を|違《たが》えたのだから。
 彼は、ぐるりと瞳を巡らせ、姿の見当たらない彼女の所在をタオロンに尋ねる。
「メイシアはどこにいる?」
「向こうの部屋で、お前の着替えになりそうなものを見繕っている」
「ありがとう」
 立ち上がろうとしたリュイセンを、タオロンが慌てて押し止めた。
「お前は、できるだけ体力を温存しろ! あとで動けなくなるぞ」
 怒鳴りつけるような言い方にリュイセンは軽く目を見張り、それからタオロンの気遣いに相好を崩す。
「……ああ。そうだな」
 ふたりとも、分かっていた。リュイセンの怪我の具合いからすれば、無理は禁物。平時であれば、しばらく安静にすべき重傷だ。
 けれど、今宵は行動のとき。怪我を押してでも動かねばならぬ。
 長い夜は、まだこれからなのだと、交わされた視線が暗黙の了解を成立させる。
「メイシアは俺が呼んでくる」
「すまない。……一刻も早く、鷹刀と連絡を取りたい」
「そうか」
 リュイセンの言葉に、タオロンの口元が緩む。
「俺は、向こうの部屋でファンルゥを寝かしつける。メイシアがベッドを貸してくれると言っていたんでな」
 だから、鷹刀の連中と腹を割って話せ。――太い眉がぐっと寄り、無言で告げる。
 リュイセンは、苦い思いを呑み込んだ。
 タオロンは、リュイセンが一族と和解するものだと信じている。だが、申し訳ないが、その期待には応えられないのだ……。
「タオロン、……感謝する」
「感謝ならメイシアにしてくれ。俺は彼女の指示で動いただけだ。――さっきだって、お前の傷の治療は、|貴族《シャトーア》のお嬢さんには刺激が強すぎるからと手伝いを断ったんだが、頑として譲らなくてな。蒼白になりながらも、必死に働いてくれた」
「メイシアが……。そうか、……ありがとな」
「だから、礼はメイシアに言えって」
 浅黒い肌の|厳《いか》つい大男は、笑うと人懐っこい童顔が際立った。
 リュイセンの看病をするのだと、口を|尖《とが》らせるファンルゥを抱え上げ、広い背中が去っていく。そういえば、タオロンとはいつの間に、こんなふうに口をきける間柄になったのだろうか。ずっと敵だったはずなのだが――。
「……ずっと、仲間だったのかもしれないな」
 ただ、すれ違っていただけで、心は響き合っていた。
 そして――。
 心は深く求めながらも裏切り、二度と相まみえることはあるまいと決別した血族。
 これから、彼らと対峙する。
 彼らとの、最後の言葉を交わす……。
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「そうか、分かった」
 ルイフォンは短く返し、受話器をぐっと握りしめる。
 事態は二転三転し、予断を許さない状況が続いていたが、ようやくここまでたどり着いた。しかも、リュイセンのほうから対話を求めてきた。
 あと、もうひと息だ。
 リュイセンはまだ、ルイフォンがミンウェイの『秘密』を|暴《あば》いたことを知らない。彼女が『母親』のクローンであったという事実を受け入れたことを知らない。
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 鼓動が高鳴る。緊張に体が強張る。次の指示を出さなければと思っているのに、喉が詰まって声にならない。
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 ルイフォンは穏やかに微笑み、メイシアに告げた。
「互いに顔が見えたほうがいいよな? 会議システムに切り替えるから、メイシアも準備してくれ」
『はい』
 そして、一度、メイシアとの通話を切る。 
 そのとき、シュアンが唐突に「便所に行ってくる」と立ち上がった。
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 当分、帰ってくるつもりはないと暗に言う。
 無論、腹痛は席を外すための方便だろう。リュイセンに蛇蝎の如く嫌われている彼の姿が見えれば、まとまる話もまとまらなくなると、気を遣ってくれたのだ。
「緋扇さん……」
 ミンウェイが申し訳なさそうな顔で見上げると、シュアンは口元を緩めた。笑い掛けたつもりなのだろうが、歪んだ口の端と細められた三白眼は、どこまでも悪人面でしかない。
 彼は、ひょいとかがんで、ミンウェイの膝に置き去りにされていた、警察隊の制帽を取り上げた。その際に彼女の肩に手を載せて、ルイフォンが準備しているモニタ画面のほうへと、そっと押し出す。――まるで送り出すかのように。
「あとは頼んだぞ」
 わざとらしく腹をさすりながら身を翻し、制帽を載せたぼさぼさ頭は執務室から消えていった。
 そして――。
 切れかけた絆を結ぶように、回線が繋がる……。
 その瞬間、スピーカーを低く震わせたのは、内に静かな高温を秘めた、熱した|鋼《はがね》のようなリュイセンの謝罪だった。
『ルイフォン、メイシア。お前たちに深く詫びる。ルイフォンに刃を向け、メイシアを〈|蝿《ムスカ》〉のもとへさらっていき、すまなかった』
 罪を口にして、頭が下げられた。肩を|薙《な》いだ黒髪が綺麗に|揃《そろ》ったまま、モニタ画面の中で静止する。本当は、床に手を付こうとしていたのだが、動いては傷に障ると血相を変えたメイシアに止められたのだ。
 まっすぐな姿勢に、ルイフォンは面食らった。
 彼としては、いつの間にか、メイシアと鷹刀一族の連携が取れていることに関して、まずは詰問されると思っていた。しかし、よく考えれば、あらゆる情報を手に入れていたルイフォンとは違い、閉ざされた空間にいたリュイセンは、いまだ決別したあの時点に取り残されたままだったのだ。
「……」
 ルイフォンは、リュイセンの想いを踏みにじるようにミンウェイの『秘密』を|暴《あば》いたが、リュイセンも、ルイフォンの想いを引き裂くようにメイシアを奪っていった。
 あのときの絶望は、忘れたわけではない。
 リュイセンを取り戻すと決めたあとも、自分を裏切った相手と、いざ再び顔を突き合わせたとき、どんな感情を|抱《いだ》くのか不安に思ったこともある。
 本当に、彼を許せるのだろうか――と。
「リュイセン」
 長いこと、呼びかけていなかった名前を口にする。
 どこまでも律儀で、|頑《かたく》なで、|筋《スジ》を通さねばすまない、頼もしい兄貴分。
 本当は、今すぐにでも〈|蝿《ムスカ》〉にとどめを刺しに行きたいのだろうに、ルイフォンと連絡がついたからには、きっちりと頭を下げずにはいられなかったのだ。
 ――こいつを失うなんて、考えられないだろ……。
 ルイフォンは前髪を掻き上げ、猫の目を好戦的に光らせる。その動きに合わせて、背中で金の鈴が跳ねる。
「俺は〈|猫《フェレース》〉。天才クラッカーにして、情報屋だ」
 テノールを響かせ、ルイフォンは――〈|猫《フェレース》〉は、不敵な笑みを浮かべる。
「〈|猫《フェレース》〉は、すべてを知っている。お前の身に起きたことの『すべて』を、だ」
『――!?』
 リュイセンは反射的に顔を上げ、ルイフォンを凝視した。
 驚愕と疑念の混じる兄貴分の双眸に、ルイフォンは不遜なまでの自信過剰を見せつける。それが〈|猫《フェレース》〉だと知らしめる。
「鷹刀の後継者」
『!?』
「情報を共有しよう。――そして、俺の手を取れ!」
 時々、雑音の混ざる音質と、揺れて途切れる映像。
 不安定な通信を補うように。
 千切れそうな絆を|撚《よ》り合わせるように。
 |情報《言葉》を送り出す――…………――受け止める。
 もたらされた情報に、リュイセンは愕然とした。
 彼が必死に守ろうとしていたミンウェイの『秘密』は、とっくに彼女に伝わっていた。
「俺はいったい、なんのために……」
 ぽつりと呟く。乾いた笑いすらも出てこない。
 余計なことをしたルイフォンに憤りを覚える。
 だが、それ以上に惨めだった。
 自分のすべてと引き換えにしてでも守りたかったものを、守ることができなかった。
 わなわなと震える両手で、リュイセンは自分の頭を掻きむしる。いつの間にか荒くなっていた呼吸が、まるで他人のものに感じられる。
 ……無論、理解はしている。
 ルイフォンは、リュイセンのためを思って行動したのだと。それが、リュイセンにとって|如何《いか》に腹立たしいことであるかも含めて、すべて承知の上で。
「……」
 リュイセンは唇を噛みしめた。口の中に血の味が広がる。
 そのとき。
『リュイセン』――と。
 |艷《つや》やかな美声が、耳朶を打った。
 はっと顔を上げると、小さな携帯端末の画面の中から、彼女が見つめている。
 波打つ黒髪の絶世の美女。二度と目にすることは叶わないと思っていた愛しい|女《ひと》。
「ミンウェイ……」
『私の『過去』を守るために、ありがとう。……私がいつまでも、お父様に囚われていたから、あなたが苦しむことになってしまったの。――ごめんなさい』
「ミンウェイが謝る必要はない!」
 彼女は何も悪くない。
 すべては、あの悪魔のせいだ。
『ううん。私のせいよ』
 ミンウェイが緩やかに首を振る。離れていても、草の香が漂うのが分かる。
 リュイセンが重ねて『違う!』と叫ぼうとしたとき、それより早く、語勢を強めた彼女の声が響いた。
『でも、私! 結果として、自分が何者なのかを知ることができて良かったと思っているわ。だって、『過去』があやふやだったから、『現在』に引きずってしまったんだもの!』
 綺麗に|紅《べに》の引かれた唇が、きゅっと上がった。強気の笑顔が、輝く。
「――!?」
 ミンウェイが笑っている。とても、生き生きと。
 リュイセンは|己《おのれ》の目を疑った。
 あの『秘密』を知れば、彼女は傷つくものと思っていた。どうすることもできない事実に打ちひしがれ、永遠に抜け出すことのできない闇に囚われてしまうのだと信じていた。
 思考が凍りついた彼に、彼女が穏やかに語りかける。
『ねぇ、リュイセン。いつだったか、あなたがお祖父様に『『過去』より『未来』のほうが大切だ』と啖呵を切ったのを覚えている?』
「あ、ああ……」
 覚えている。忘れるわけがない。
 一族の総帥たる祖父に、あれほど真っ向から意見を叩きつけたのは初めてだった。
 あれも、ミンウェイのためだった。煮え切らない態度を取る祖父に対し、彼女を苦しめる〈|蝿《ムスカ》〉は一刻も早く捕らえるべきだと主張し、彼女の憂いを取り除こうと……。
『あなたの言う通りだと思うの。――私、ちゃんと『未来』を生きたいわ』
 夢見る少女のように微笑みながら、切れ長の瞳は、あくまでも冷静に前を見据えていた。その視線に、揺らぎのない強さを感じる。
 今までの彼女は、一族からの信頼の|篤《あつ》い、姉御肌のしっかり者だった。けれど、どこかに無理があった。誰かのために尽くさなければという、気負いがあった。
 それが、目の前の彼女は、極めて自然で、そして自由だ。
『お父様とお母様の思いを知った上で、私は、『私』として、|未来《これから》を生きたい』
 そこでミンウェイは、言葉を一度、切る。
 白い喉がこくりと動いた。唾を呑んだのだ。
『……そのために、あなたの力を貸してほしいの』
「俺の力?」
 リュイセンは訝しみながら言葉を転がし、ふと思い出した。
 彼が展望塔の入り口で倒れる直前にも、ミンウェイは『あなたの力が必要』と言っていた。あのときは、メイシアの脱出に協力してほしいという意味だと思ったのだが、違うのだろうか。
 疑問を|抱《いだ》く彼に、彼女が『リュイセン』と呼びかける。
『ここから先の話は、私の我儘よ。聞いてくれるかしら?』
 強気の口調は崩さず、けれど、語尾が震えている。
 緊張しているのだ。
 その証拠に、彼女の美貌は強張っている。不穏を感じ、リュイセンは胸騒ぎを覚える。
「俺に……、何を求める?」
 彼の声もまた、緊張にかすれていた。
 ミンウェイの瞳が惑うように揺れる。けれど、意を決したように|紅《くれない》の唇が動く。
『〈|蝿《ムスカ》〉を捕獲して、鷹刀の屋敷まで連れてきてほしいの』
「なっ……!?」
 一瞬にして、リュイセンの|眦《まなじり》が大きく吊り上がった。
「さっきのルイフォンの話では、メイシアが、セレイエの記憶を得た以上、〈|蝿《ムスカ》〉は用済みだと……!」
『間違えないで! 〈|蝿《ムスカ》〉の助命を乞うているのではないわ。最終的に〈|蝿《ムスカ》〉に与えるべきものは『死』。それは絶対の一族の意志。私も同意しているわ』
「ならば、何故……?」
『でも、その前に、私は〈|蝿《ムスカ》〉と――『お父様の記憶を持つ者』と話をしたい。きちんと向き合うことのできなかったお父様と、最後に向き合いたい。――そして、きちんと『過去』に別れを告げたい』
 鮮やかな緋色の衣服を誇張するように、ミンウェイが胸を張る。
「ミンウェイ……」
『あなたが納得できないなら、今の話は取り消し! ……だって、お父様は『過去』だもの』
 高い鼻梁をつんと上げ、ミンウェイがきっぱりと言い切る。
 その切れ長の瞳の奥に、小さな女の子が見え隠れする。
 置き去りにされたままの、過去のミンウェイ。
 いつも脅えていたあの子が、はにかむように笑っていた……ような気がした。
「――――!」
『俺は、やるべきことをやるだけだ』
 それが、リュイセンの口癖だ。
 そして、理屈ではなく直感で、一足飛びに真理までたどり着くリュイセンには、自分のやるべきことがなんであるか理解してしまった。
「畜生……」
 ミンウェイの願いは、真実の気持ちだろう。
 だが、分かっている。シナリオを書いているのはルイフォンだ。あの賢い弟分は、はっきりと『俺の手を取れ!』と言ったのだから。
 ルイフォンは、リュイセンの想いを踏みにじった。リュイセンの覚悟を無にした。――そのほうが、誰もが幸せになれる、正しい道だと信じたから。
 すべてがお膳立てされた中で、ルイフォンの手を取るのは屈辱だ。不愉快だ。
 けれど――。
 リュイセンは携帯端末を覗き込み、ミンウェイの後ろに小さく映っているルイフォンの目を見た。
「〈|猫《フェレース》〉」
 どんなに悔しかろうが、どんなに情けなかろうが、ここで〈|猫《フェレース》〉の手を取らないのは、醜悪な愚か者でしかない。
「お前の策に乗ってやる」
『リュイセン!?』
 音質の悪い回線の中でも、弾かれたようなテノールがしっかりと聞こえた。
「お前が策を立て、俺が実行するのが、俺たちのやり方だ。やってやる。――俺が〈|蝿《ムスカ》〉を捕獲する」
『本当か!』
「ああ」
『お前、怪我は大丈夫なのか?』
「正直なところ、万全とは言い難い。だが、俺がやらなきゃ、|筋《スジ》が通らねぇだろう?」
 単に〈|蝿《ムスカ》〉を捕獲するだけなら、タオロンに頼むことだってできる。だが、これはリュイセンがやるべきことだ。
 ルイフォンが瞳を瞬かせ、『感謝する』と頭を下げる。
 普段はいい加減なくせに、こんなときだけ礼儀正しい台詞を吐くのが、この弟分だ。
「馬鹿野郎! 感謝すべきは、俺のほうだろう!」
『ま、それもそうか』
 ルイフォンが、にやりと笑う。そうだ、それでいい。
 不意に、ルイフォンが真顔になった。
『けど、さすがにお前ひとりじゃ危険だから、鷹刀の総帥と〈|猫《フェレース》〉の名において、タオロンに補佐を頼む。それは、いいよな?』
「上等だ」
 リュイセンとルイフォンの、目と目が合った。
 そして、どちらからともなく、笑みを浮かべる。
『リュイセン』
「なんだ?」
 首をかしげたリュイセンに向かい、ルイフォンが右手の『掌』を差し出した。
 リュイセンは息を呑んだ。
 それは、ふたりの間で通じる、特別な儀式。
 握手ではなく、『掌』と『拳』を打ち合わせ……。
 ――共に行こうと、相手を迎える――。
『おかえり』
 抜けるような青空の笑顔で、ルイフォンがテノールを響かせる。
 だからリュイセンは『拳』にした右手を、滲んだ画面に向かって突き出した。
「……ただいま」
~ 第八章 了 ~