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友だちとトラウマ

ー/ー




 その日、私は志田さんからもらったウサギのぬいぐるみをカバンに付けて登校した。

 教室に入ると、先に登校して席にいた志田さんと、ぱたりと目が合う。
「あっ」
 志田さんの目が、私からカバンに付いているぬいぐるみに流れた。
「榛名さん! それ、付けてくれたの!?」
 志田さんは目を輝かせて私に駆け寄ってくる。

「……うん。可愛かったから」
 ちょっとキモいけど、と心の中で付け足して。
「嬉しい!」

 きゃらきゃらと風鈴が鳴ったような声で志田さんは笑う。
 風が吹いたかと錯覚するような、涼やかさだ。彼女の声は澄んでいて、優しく空気を震わせる。

「……あの、志田さん」
「うん、なになに?」
 くっきりとした大きな瞳が私を映し出している。
「えっと……」
 目が合って、慣れない私は頭が真っ白になった。

 こんなふうに、まっすぐ見つめられるのはいつぶりだろう。事故のあと、みんな私から目を逸らすようになったのに。
 まっすぐに澄んだ瞳。でも、この瞳……。私はこの瞳を、最近どこかで……。
 ふと、脳裏に夕焼けと男の子の優しい笑顔が浮かんだ。
 そうだ。綺瀬くんだ。綺瀬くんも、まっすぐに私を見つめてきてくれた。
 今度こそ、私も……。

「……あの、……水波でいいよ、呼び方」
 志田さんは大きな瞳をさらに大きくして、瞬きをした。次の瞬間、ばっと私の手を取ると、私のほうへ身を乗り出して言う。
「水波っ!」 
「わっ、な、なに?」
「嬉しい、水波! 私のことも朝香って呼んで!」
「……あ、う、うん」
 勢いに押されながら頷いた。

 にこにことして私を見る朝香を横目に、私は自分の机にカバンを置いて、椅子に座る。すると朝香は当たり前のように前の席に座って、私のほうを向き、きゃらきゃらと弾けた声で、話しかけてくる。

「私、ずっと水波と話してみたかったんだよね! 水波ってなんか不思議な雰囲気してたからさ!」
「そ、そう?」
「そうだよ! なんていうか、妖精みたいっていうか……。あ、変な意味じゃなくてね。そうだ、今日の放課後、駅前のドーナツ食べていかない? 私、あそこのドーナツまだ食べたことなくてー。それから駅ナカのアイスクリーム屋さんにも行ってみたい! 今度新しく開店するんだって!」

 その日から、私の日常には朝香がいる。

 しばらく彼女と一緒に過ごして、思った。朝香はおしゃべりだ。けれど、決してだれかの悪口を言うようなことはない。

 いつも明るい話――たとえば好きなアイドルの話だとか、今ハマってるアニメやコスメの話だとか、あそこのアイスが美味しいとか、何組のだれがイケメンだとか――をした。

 私はほとんど黙って朝香の話を聞いているだけだったけれど、それでも朝香は楽しそうにいろんな話題を振ってくれた。

 私は、その笑顔にとても救われた。

 ずっと、息をひそめるようにしていた学校生活。
 つまらなかった毎日が、朝香の「おはよう」というセリフひとつでまるっと変わった。

 寂しくて死にそうだったのに、彼女の声を聴いていると、まるで世界の中心に立ったような気分になる。

「ねぇ、朝香」
「なに? 水波」

 名前を呼ぶだけで、心の垢が剥がれていくようだった。
 まるで、来未と出会ったあの日のようだと思った。


 ***


 九月の半ば。

 遠く、空のずっと向こうにあったと思っていた雲は、落ちてくるんじゃないかと思うほどに低く、近くに浮かんでいる。

 窓から入ってくる風はからりとして、ついこの間まで空気の中に混じっていた水気はいつの間にやらどこかにいってしまったようだ。

「えーそれでは、今年の二年四組の文化祭は巫女カフェをやるということで決定しました」

 一限目のロングホームルーム。
 今日の議題は、今月末にやる文化祭について。文化祭実行委員が主体となって、出し物を決めている最中だ。

 クラス全員で大いに盛り上がっているが、私にはあまり関係のない話である。南高の文化祭は、基本自由参加だから、私は昨年同様今年も出るつもりはない。

「異議はありますか?」
「さんせーい」
「えー待て待て。女子はいいけどさぁ、俺たちなにやるんだよ」
「巫女だよ」
「女装すんの!?」
「ほかになにやんのよ。お決まりでしょー」
「えー俺やだよ」
「はーい、静かに。異論は手を挙げてからお願いしまーす」

 ガヤガヤと浮き足立つ教室の隅で、私は窓の向こうの空を見上げ、息をついた。

 秋の背中が見え始めている。
 夕立が傘を鳴らす日が一日、また一日と減り、夏の暑さが弱まってくると学校はすぐに節電をうたい、冷房を切る。そうなると学生たちは窓を開けて暑さに対抗するわけだが、それが私は苦手だった。

 暑いのが、ではなく、窓から吹き込む少しひんやりした秋風が苦手なのである。

 午前中の授業が終わって昼休みになり、私と朝香はいつものように教室の机を向かい合わせて、お弁当を広げた。

 私はお母さんが作ってくれたお弁当。朝香は購買のパンだ。焼きそばパンと、プリンあんまん。これが彼女の毎日のお昼ご飯。
 ちなみに前者はいいとして、プリンあんまんはなかなか攻めたパンである。
 朝香があまりに美味しそうに食べるものだから、じっと見ていたら、この前ひとくち食べる? と聞かれた。
 食べたらまぁ、想像通りの味だった。不味くはないけど……うん。もういらないかも。
 朝香いわく、革命的な味でしょ! やみつきになるでしょ! ……とのことだ。
 私はやみつきになる前に断念した。

「プリンあんまん、食べる?」

 今日も今日とて熱心にプリンあんまんを推してくる朝香をやんわり断りながら、私もじぶんのご飯を食べ始めた。

 しばらく昨日のドラマの話で盛り上がったあと、ふと朝香が思い出したように言った。
「夏もそろそろ終わりだねぇ。やっと涼しくなるよ」

 朝香の視線につられるように、私も窓のほうへ視線を向ける。
 窓の向こうには、燦々とした太陽がある。あらためて、夏が終わり秋が近付いていると実感する。

 少しひんやりとした風が、頬を撫でる。秋色が滲む風に、知らずと冷や汗が出た。


 二年前、私はあの事故のあとしばらく沖縄の病院に入院していた。
 フェリーから助け出された私は、額を数針縫う怪我をしたけれど、それ以外に目立った外傷はなかった。しかし、念の為ということで、脳波とか心臓とか、とにかくいろいろと検査を受けた。

 警察や病院の先生にも、事故のことをいろいろと聞かれた。あの頃の私はまだ、事故について思い出すのは辛くて、その人たちのことがあまり好きではなかった。
 病室を出ると事故について調べている記者や、私が事故の被害者であることを知っている人たちの視線をいつも感じて、トイレに行くことすら怖くなった。

『あの子が助かった子?』
『運のいい子ね』
『あのフェリー、今も引きあげられてないんでしょ?』
『あんな事故で助かるなんて、奇跡だわ』

 あちこちで、いろいろな声が囁かれた。

 テレビは見れなかった。というより、お母さんとお父さんが見させてくれなかったのだ。
 たぶん、事故に関してのニュースがいたるところで報道されていて、お母さんもお父さんも、私の心を心配してくれていたのだと思う。

 そのときはまだ、私は私以外の人が助からなかったということを知らなかったから。

『水波ちゃん……水波ちゃんっ』

 あるとき、知らないおばさんが私に会いに来た。
 そのおばさんは、私を見るなりぎゅっと抱きついてきた。最初は優しかったその腕は、次第に強くなって、ぎりぎりと私を締め上げ始めた。

 その人は、泣きながら私を強く強く抱き締めて、耳元で囁いた。

『どうして? どうしてあなたは生きているの? どうしてあの子はいないの? ねぇ、一緒にいたはずよね? あの子はどこ? ねぇ、答えなさいよ。ねぇ!』

 腕が千切れるかと思うほど、強い力だった。剥き出しの歯が、血走った目が、恐ろしかった。

『落ち着いてください、この子はなにも悪くない。まだ話をできるような状態じゃないんですよ』
『お気持ちは分かりますが、お引き取りください』
『待って! まだ話は終わってないのよ! 離して! 離しなさい!』

 その人は医師や看護師の言うことも聞かず、ただまっすぐに私を睨みつけて、呪詛のように『あの子を返せ』と呟いていた。
 あれは、だれだったんだろう。
 分からない。いくら考えても、思いだせない。

 けれど、ひとつだけ分かっていることがある。
 彼女は、私をすごく恨んでいた。生き残った私を、憎んでいた。

 医師たちが慌てて私から引き剥がそうとすると、女性は泣き叫びながら暴れた。まるで、子供のように。

『放して! 放しなさい! この子があの子を殺したのよ! この子が私の子を奪ったの! この鬼! 悪魔!』
『お願いやめて!』
『この子はまだ目覚めたばかりなんですよ! お願いします! これ以上この子を怖がらせないでっ!』

 お母さんとお父さんが、慌てて私を庇うように抱き締める。私は怖くて声も出せなかった。全身が震えて、息を忘れた。

 あのときの彼女は化粧もしていない顔をぐしゃぐしゃにして、泣き叫んでいた。その姿がとても痛々しくて、当時の私は、それがすごくショックだった。

 なにかが割れる音。叫び声。すすり泣く声。

 秋風は、あの日の曖昧な記憶を乗せてやってくる。
 事故のあと、たった一度だけ会ったあの人は……。

 あの人は、だれ?

 窓の外を眺めながら呆然と考えていると、
「水波? ぼーっとして、大丈夫?」
「え? あ……」
 心配そうな顔をした朝香と目が合って、ハッとする。


「ごめん、ぼーっとしてた」
「なにか悩みごと? お腹痛い? お腹減った? それならこれ食べて。美味しいよ」
「……じゃあ、焼きそばパンのほうがいい」
「おっと? 私のプリンあんまんはいらないだと?」

 そんなこと言って、朝香が最近プリンあんまんに飽きてきていることを私は知っている。
「やみつきになるから、ほら〜」
 私は朝香が持っていたプリンあんまんじゃないほう――焼きそばパンに隙をついて齧りついた。

「あぁっ!! 私の焼きそばパンがっ!」
「ふふん。やっぱりこっちのが美味しいよ」
「ぬぉー! なんだとーっ! プリンあんまんに謝れ!」
「わっ! もう危ないってば〜」
 朝香とじゃれ合っていると、どこからかギターらしき音が聴こえてきた。

「……うち、軽音部なんてあったっけ?」

 首を傾げていると、朝香が、
「あぁ、あれは文化祭ライブの練習じゃない?」
 そういえば、昇降口前の掲示板に、体育館に出演する団体を募集するチラシが貼ってあったような。

「文化祭かぁ……」

 ぎこちないギターの音色を聴きながら、私は腕をさする。

「ねぇ水波。今年は文化祭、出るでしょ?」
「えっ?」
「一緒に回らない?」
「あ……うん、考えてみる」
 つい、間の抜けた返事をしてしまう。
「水波?」
「…………」

 ふと、気が遠くなった。
 さわさわと葉の擦れる音がして、私と朝香の間を風が吹き抜けていく。

『人殺し』
『あの子を返して』
『じぶんだけ助かるなんて』
『許せない』
『許せない』
『許せない!』

 カーテンが揺れる。頭痛がひどくなり、目を瞑った。

『私の手を離したくせに』

 ドクン、と心臓が脈を打った。

「水波?」
「……ごめん。窓、閉めていいかな?」
「え? でも、暑くない? みんなも暑そうにしてるし……」

 私は朝香の言葉を無視して、窓をぴしゃりと閉めた。思いの外、大きな音が出てしまった。

「水波……? どうしたの?」
「……なにが? 私はただ、寒かったから閉めただけだよ」

 ちょっとキツい言い方になってしまった。言ってからハッとして朝香を見ると、彼女は俯いていた。その悲しそうな顔に、胸がちりりとした。

「あの……ごめん。ごめんね、朝香」
「ううん……」

 朝香に苛立ったわけじゃない。
 ただ、この季節はどうしても、気分が沈む。

 秋は嫌いだ。事故が起こった、夏よりも。
 あの日を……事故のあと、目が覚めた日のことを思い出すから。
 でも、そんなことを知らない朝香は、私が苛立った意味をきっと探している。自分がなにか気に触るようなことを言ってしまったのかもしれないと、気にしている。

「もしかして、文化祭……出たくない? それなら無理には……」
「違う。そうじゃないよ」

 本当に違う。けれど、ほかになんと言ったらいいのか、言葉が見つからない。

「じゃあ、なに?」
「それは……」
 なんと言えばいいのだろう。なんと言えば、伝わるだろう。
 ……伝わるわけない。朝香は、私とは違うんだから。

「ごめん。これは……私の問題だから」
 小さく息を吐くように言うと、朝香が私を見た。朝香は、なにか言いたげに口を開くけれど、結局なにも言わずに閉じた。

「……そっか。ごめん」

 俯いた朝香の表情は、影になっていてよく見えない。

 やっぱり、こうなるんだ。私がだれかといると、こういう空気になってしまう。

「私こそ……気を悪くしたよね。ごめん」

 俯いたまま謝ると、朝香が突然「よしよし」と私の頭を撫で始めた。

 顔を上げると、朝香は微笑みながら私の頭を撫でていた。
「朝香?」
 どうして笑っているの? 私は、あなたを傷つけたのに。
 訳がわからず瞬きをしていると、
「……水波のクセだよ。すぐ下向くの」
 優しくそう言われ、私は顔を真っ赤にした。
「……そ、そんなことは」

 ないよ、と言いながらまた下を向きかけて、慌てて顔を上げる。私と目が合うと、朝香はくすっと笑った。

「……朝香、怒ってないの?」
「なんで怒るのさ。……ねぇ、知ってた? 水波ってさ、目が合うといつも逸らすんじゃなくて俯くの。私ね、思ってたんだ。この子、顔を上げてればすごく可愛いのになって」
「い、いきなりなによ」
「だからさ、水波は悪いことなんてなにもしてないんだから、顔を上げてていいんだよってこと。今のは踏み込み過ぎた私が悪いんだ」
「そっ、そんなことない! 私が悪いんだよ。私、また朝香に気を遣わせて……ごめん」

 すると、朝香は「謝らないでよ。こっちこそ、気を遣わせてごめんって」と笑った。

「あのさ、水波こそ私といてもいつも遠慮してるでしょ。それもクセ? それとも性格? よく分かんないけどさ……話したいことがあるなら聞くよ。でも、無理には聞かない。水波が話したくなったらでいい。私に話して楽になるなら、なにかを我慢しなくてよくなるなら、いつでも聞くから言ってね」

 手をぎゅっと握り込む。
「……う」

 朝香のあたたかくて心がこもった言葉に、力を入れていないと涙がこぼれてしまいそうだった。

「あーもう、唇噛まないの。切れて血が出ちゃうよ」
 朝香は幼い子供をあやすように言う。
「……ごめん……っ」
「ん。いいよ」
 朝香に背中を撫でられ、私はまた後悔していた。

『いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。それまで、諦めないで』

 綺瀬くんにああ言われたばかりなのに。
 私はまた、向き合うことを避けていた。

 言われるまま唇の力を緩めてみたら、喉まで緩んでしまったみたいだった。

「話、したい」
「え?」
「……話、してもいいかな」

 私は朝香を見上げ、ぽつりと訊ねる。

「もちろん。……あ、場所変えよっか。体育館行く?」
 朝香はちらりと周りを見て言った。
「……うん。助かる」
 私たちは食べかけのお弁当を持って教室を出た。

 昼休みの体育館はがらんとしていて、私たちはふたりで舞台に足を投げ出して並んで座った。
 食べかけのお弁当を食べながら、私はなかなか言い出せなくて、口を開いては閉じて、喉からせり上がってくるものをご飯で無理やり流し込んでを繰り返した。

 朝香はそんな私を急かすようなことはせず、ひとりごとともとれる何気ない話をしながら、パンをかじっていた。

 お弁当を食べ終えると、朝香は転がっていたバスケットボールを手に取り、ボール遊びを始めた。私は舞台に座ったまま、ぼんやりとそれを眺める。

 ダンダン、とバスケットボールが弾む音だけが響く体育館。
 私はようやく、ぽつぽつと事故のことを話し出した。
「……私が二年前のフェリー事故の被害者だってことは知ってると思うんだけど」
 朝香は一瞬驚いた顔をして私を見たあと、小さく「うん」と頷いた。

「あの事故のあとから、私……夜ぜんぜん眠れなくなって。夜っていうか、まぁ昼間でも眠れないんだけど。いつも夢を見るんだ。傾いていくフェリーを滑り落ちながら、親友が助けてって手を伸ばしてくる夢。でもね、夢の中でも私は一度もその子を助けられたことがないんだ」

 一度言葉を止めると、朝香は今にも泣きそうな顔をして私を見つめていた。

「あ……ごめんね、こんな重い話。やっぱりやめようか」
 慌てて言うと、朝香は潤んだ瞳をまっすぐ私に向けて、首を横に振った。

「ううん、続けて。……さっきは話したくなったらでいいって言ったけど、やっぱり聞きたい」
「……うん」

 頷いて、再び口を開く。

「……事故のあと、みんなよそよそしくなったんだ。お母さんもお父さんも、友達も。仕方ないよね。私以外みんな死んじゃってるんだし。同じフェリーに乗ってた私にも、どう接していいか分からなかったんだと思う。でもね、その窺うような視線がいやで、話すことをやめたんだ。私が話しかけに行くと、みんな笑顔を引き攣らせるから……そういう顔を見たくなくて」

 だからもう、ひとりでいいやって諦めた。

 これは罰。私だけ生き残ってしまった罰。親友を助けられなかった罰なのだとじぶんに言い聞かせた。

「……私、この前死のうとしたんだ」
「え……?」
 朝香が息を呑む音がした。

「親友の命日の日、その子のお母さんに、あなたが死ねばよかったのにって言われて、私は生きてちゃいけないんだって気付いた。……ううん。本当は最初から気付いてた。でも、気付かないふりをしてたの。だけど、気付かないふりをするのももう限界で」

 八月九日。私は、じぶんで人生を終わらせようとした。
 だけど。その日、私は運命に出会った。
 耳の奥で、あの日聴いたお囃子の音が響く。

「……だけど、死のうとした日にね、ある男の子に出会ったんだ」
「男の子?」
「うん。その子も大切な人を失っていてね。泣きながら、私にそばにいてって言ってくれたの。私がずっと言いたくて言えなかった言葉を、その子が代わりに言ってくれたんだ」

 朝香は柔らかい顔で私を見つめてくれていた。

「それでね、あとでその子に言われたの。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは分からないよって。いくら仲のいい友達でも、ましてや家族だって、心の中までは分からない。だから、ちゃんと話さないとダメだよって」

 顔を上げて、朝香を見る。
 もう友達なんていらないと思っていた。

 でも、綺瀬くんと出会って、だれかと向き合うことの大切さを教えてもらって。本当はじぶんが、なによりそういう存在を求めていたことに気付いた。

「……私ね、これからも朝香にいろいろ気を遣わせちゃうと思う。迷惑もかけるだろうし……喧嘩もするかも。でも、それでも私、朝香が好き。朝香の笑い声も、朝香とのおしゃべりも大好き。……だから、これからも友達でいたい」

 見ると、朝香は静かに涙を流していた。思わずぎょっとする。

「えっ……あ、あの」
 どうしよう、とおろおろしていると、朝香がガバッと私に抱きついてきた。
「!」
「水波っ! 話してくれてありがとう……」
 朝香は私を抱き締めたまま、私に言う。
「今まで辛かったね。よく頑張ったね」と、朝香は私の背中を撫でながら何度もそう言ってくれた。
 朝香のセリフに感極まって泣き出した私を、朝香はさらにぎゅっと抱き締めた。
「私、決めたよ。一生水波と一緒にいる」
「え……?」
「私、一生水波と一緒にいる」

 朝香は私の肩を掴み、まっすぐに私を見つめて言った。

「水波はこれまで、ひとりぼっちで寂しかったんでしょ? 事故の前はその子がいたけど、事故で失って……ううん。きっと水波、自分のせいでその子が死んだって思ってるんだよね。だからそんな夢を見るんだ。親にも心配かけたくなくて言えなかったんだよね。……でも、その男の子に言ったら楽になったんでしょ? 状況が少し変わったんでしょ? なら、私もその役やるよ」

 掴まれた肩がちょっと痛い。朝香が決意が伝わるようだった。
「私はその男の子みたいにいいこととかアドバイスとかは言えないけど……一緒にいることならできる。水波がひとりぼっちにならないようにすることだけはできる。あの事故は水波のせいなんかじゃないって、何回だって言ってあげる。だから、今のは決意表明だよ」
「朝香……」
「……ふふ。私、その男の子にお礼が言いたいな」
「え?」
「だって、その子がいなかったら私、水波とこうやって話せてなかったよ。友達にもなれてかった。とにかく、水波が生きててくれてよかった」

 朝香の頬をつたう透き通った涙を見て、私は頷く。

「私も、あの日死ななくてよかった。朝香とこうして友達になれてよかった。ありがとう……」
「もうっ! 泣くなー!」
 朝香は私以上にぽとぽと涙を落としながら、昼休みが終わるまでずっと抱き締めてくれていた。

 綺瀬くん。綺瀬くん。綺瀬くん。
 心の中で綺瀬くん、と何度も彼の名前を叫ぶ。
 綺瀬くんの言う通りだったよ。話してみなきゃ、分からないんだね。話して救われることもあるんだね。ぜんぶ、綺瀬くんのおかげだよ。ありがとう。

 会いたいな。公園にいるかな。いますように。

 祈りながら、私は石段を駆け上がる。
 山の上にある神社の、さらに上。街が見渡せる広場のベンチ。
 そこに、綺瀬くんはいた。
「綺瀬くんっ!」

 石段を登り切る前に綺瀬くんの姿が見えて、私は綺瀬くんの名前を呼びながら石段を駆け上がった。

「水波! 久しぶり」
 綺瀬くんは、私を見るとにっこりと笑う。
「綺瀬くん!」
 一週間ぶりに会った綺瀬くんはやっぱり夏と切り離されたように涼しげで、少し現実離れしている。
 私は目が合うなり駆け出し、勢いよく綺瀬くんに抱き着いた。
「わっ……ど、どうしたの水波」

 綺瀬くんは戸惑いながらも私を優しく受け止める。
「会いたかった……」
 ぎゅうっと抱きつくと、綺瀬くんは優しく抱き締め返してくれる。
「ん。俺も」

 あたたかい。あたたかくて、涙が出そう。

 しばらくすると、綺瀬くんは身体を離して私の顔を覗き込んだ。
「……なんかあった?」
「うん」
 私は綺瀬くんの胸に顔を押し付けたまま、
「お母さんとお父さんとちゃんと話せたよ」
「うん」
「ふたりとも、すごくすごく私のこと考えてくれてた」
「そっか」
「夜の外出は八時までって言われたけど」
「……うん、まぁ、そうだよね。それがいい。危ないから」
「えー」
「ふふ」
 綺瀬くんが苦笑する。そこはもっと落ち込んでほしかった。
「それで?」
「……それからね、友達ができたよ」
「えっ?」
 顔を上げてはにかみながら言うと、綺瀬くんはきょとんとした。
「向き合うの怖かったけど……でも向き合ってよかった。友達になりたいって言えてよかった」

 綺瀬くんの顔に、じわじわと笑みが広がっていく。

「……そっか。なんだ、そっか……。よかった」と、綺瀬くんは柔らかく笑った。
「良かったね」
「うん。ぜんぶ綺瀬くんのおかげだよ」
「そんなことないよ。水波が勇気出したからだよ」
 じんわりと心があたたまっていく。
「ねぇ、手繋いでくれる?」
「ん」

 綺瀬くんが手を差し出す。その手を取って、ベンチに並んで座る。街並みを見下ろしながら、私たちは何気ない話をする。

「あ、そうだ、これ。綺瀬くんにお礼しようと思って、うちの名物のプリンあんまん買ってきた。あげる」
 カバンから、朝香お気に入りの購買パンを出すと、綺瀬くんの瞳が輝いた。

「ちょうどお腹減ってたんだ。ありがとう」
「美味しくないから覚悟してね」
「えっ、美味しくないの?」

 ぽーんと目を丸くした綺瀬くんの顔がおかしくて、つい笑ってしまった。「冗談だよ」と付け足すと、綺瀬くんは拍子抜けしたように微笑んだ。
「じゃあ、半分こね。水波ほっそいからちゃんと食べろよ」
「えーでも、これでカロリー取るのはなぁ。どうせならドーナツとか」
「文句を言うんじゃありません」
「ハイ」

 プリンあんまんの片割れを綺瀬くんから受け取ると、同時に訊かれた。
「学校は楽しい?」

 綺瀬くんはプリンあんまんを咥えながら、優しい眼差しで私を見た。

「うん。楽しい。あのね、もうすぐ文化祭なんだ。朝香から、今年は一緒に回ろうって誘われてて……」
「おっ。それは楽しみだね」
 綺瀬くんはいつもよりのんびりとした声で言った。
「いいなぁ。文化祭かぁ……」
 綺瀬くんは、どこか遠い目をして呟いた。
「綺瀬くんは、文化祭出たことある?」
「うん、あるよ」

 まるで用意しておいた答えのように綺瀬くんはそう言った。

「文化祭は高校生限定のイベントだからね。絶対サボっちゃダメだからね?」
「……うん。あのさ……」

 綺瀬くんは、どこの学校に行っているの? 何年生?
 聞きたいけれど、聞いたら答えてくれるのだろうか。もしも言いたくないことだったら、迷惑になる。

 ……それに、なんでだろう、聞くのが少しだけ怖い。

 ざわ、と風が吹いた。綺瀬くんのにおいと、秋の気配。どこか懐かしさを感じる横顔。

 でも、なぜ?

 綺瀬くんとは会ったばかりなのに。懐かしいと感じるほど、よく知らないはずなのに。

 心がざわつく。
 突然黙り込んだ私を、綺瀬くんが覗き込んでくる。
「どうした?」
 静かに首を振る。
「……ううん。なんでもない」
 心の戸惑いを誤魔化すように曖昧に微笑み、私はプリンあんまんをかじった。


 それから半月後。数日後には衣替えとは思えないほど濃い陽の下、文化祭は開幕した。

 文化祭は、私の想像を遥かに越えていた。

 私たちの出し物である巫女カフェは、教室を使用しており、パーテーションで半分に区切り、半分をカフェ風に、もう半分はスタッフルームだ。

 接客担当はおそろいで作った紅白の巫女風の衣装を着て、その他の生徒たちはこれまたおそろいで作ったクラスティーシャツを着る。

 私たちのクラスの出し物は、二年の中でもかなり大盛況なようだった。

 提供するのは、缶ジュースと事前に焼いておいたカップケーキ。

 調理系のものは許可を取ることが難しいらしく、普通科はそう簡単に提供することはできないため、簡単なカップケーキを販売することになったのだ。
 その代わりラッピングに少しこだわり、和風の千鳥柄や市松模様で、紙も和紙風の手触りのものにした。

 目にも可愛い、そして美味しいがウチの売り……らしい。

 宣伝担当となった私は、制服のスカートはそのままにクラスティーシャツを着て、手作り感満載のダンボール製のプラカードを持って構内を歩いていた。

 構内は、遊園地になったのではと錯覚するほど賑やかで、あちこちから華やかな声が聞こえてくる。

 薄ぼやけていたはずの教室や廊下が、今はカラフルに色付いている。

 赤色や黄色のペンキで丁寧にダンボールに塗られた文字。七色の風船。わいわいと楽しげなさざめき声も、それぞれの色をまとって学校を彩っている。

 小学校の運動会に少し雰囲気が似ている、と思った。

 しばらく構内を練り歩いていると、
「水波ちゃん、宣伝お疲れ様! 交代するね!」
 と、ピンク色のぽんぽんを持ったクラスメイトが、私に声をかけながら駆け寄ってきた。

 背が低くて、ふわふわとしたくせ毛がどことなくうさぎを思わせる、愛くるしい、という表現がぴったりな子だった。
 名前はたしか、松本(まつもと)歩果(あゆか)ちゃんだ。
「あ、うん。お願いします」

 プラカードを渡そうとすると、歩果ちゃんはぽんぽんを片手で持とうとする。しかし、手が小さいせいでぽとりと落としてしまった。

「わわっ」
「大丈夫?」
「うん、ご、ごめんね」

 歩果ちゃんは生徒や来場者が激しく往来するなかでぽんぽんを落としたことが恥ずかしかったのか、頬を赤くしながら慌てて拾う。
 そんなに慌てなくても、と思いながら私はその様子を微笑ましく見守った。

 そのあとも、歩果ちゃんは何度かわたわたと、拾っては落としてを繰り返していた。見兼ねた私は、控えめに口を開く。

「……よかったら、それ持ってようか?」
「えっ? あっ、ありがとう」

 歩果ちゃんからぽんぽんを受け取り、プラカードを渡す。

「それで、これはどこに持っていけばいい――」

 じっと視線を感じて歩果ちゃんを見ると、はたと目が合った。首を傾げる。

「……歩果ちゃん?」
 歩果ちゃんはハッと我に返ったように、早口で言った。

「あっ……ごめんね! 水波ちゃんって、本当に綺麗な顔してるなって思ってつい魅入っちゃった」
「えっ……!?」
 突然!?
「ぽんぽんすごく似合うね……」
 歩果ちゃんは、ぽ〜っとした顔をして私を見つめている。
「えっと……ありがとう?」

 お礼を言うのが正しいのか分からないけれど、とりあえず言っておく。

 ……歩果ちゃんとはほとんど話したことないけど、そういえばクラスでよく天然だと言われている子だった。と、そこまで思って、彼女がひとりでいることに気付き、首を傾げる。

 いつもなら、彼女のそばには必ず花野(はなの)琴音(ことね)ちゃんという親友がいる。歩果ちゃんとは正反対の、背が高くてサバサバした感じの子だ。

「そういえば、今日は琴音ちゃんと一緒じゃないんだね」
 会話の種にと思って何気なく訊くと、歩果ちゃんが言葉に詰まった。私から目を逸らし、小さく「うん」と頷く。
 今にも消え入りそうな声に、しまったと思う。聞いてはいけないことだったかもしれない。

 微妙な空気になってしまって、私は一歩後退った。

「……あ、えっと……じゃあ」
 しれっと踵を返して歩き出す。すると、制服の裾を掴まれた。

「――?」

 振り返ると、歩果ちゃんが控えめに私のティーシャツを掴んでいる。
「歩果ちゃん?」
「あの……水波ちゃん。もうちょっとだけ、私と一緒にいてくれないかな?」
「え?」

 歩果ちゃんはもじもじしながら、
「私、人混みが苦手で……いつもは、琴音ちゃんが守ってくれるんだけど、今日はその……喧嘩しちゃって」と言う。

 なるほど。そういうことだったのか。

 事情を察し、私は近くの教室の時計を見る。朝香との約束の時間まではまだ少しある。

「うん、いいよ」
 頷くと、歩果ちゃんの表情がぱあっと明るくなった。

 それから、私はしばらくプラカードを持った歩果ちゃんと一緒に構内を歩いた。

 これまで歩果ちゃんとは話したことはほとんどなかったけれど、穏やかな性格の子だった。喋り方もおっとりしていて、笑うと花のように可愛い。

 正直、とてもだれかと衝突するような気の強い子には思えない。歩果ちゃんは、どうして琴音ちゃんと喧嘩してしまったのだろう。

「ねぇ、水波ちゃん」
 ちょいちょいと歩果ちゃんに袖を引かれた。

「ん?」
「あれ食べない?」
 歩果ちゃんが指で指し示したのは、校門前にある屋台。
「……牛串?」

 屋台には、大きく『牛』の文字と絵がある。

 そういえば、うちの高校は普通科のほかにいくつか専門学科がある。農業科や調理科はいつもお店顔負けの()った出し物をするので、そこがうちの売りでもあったりする。

「宣伝付き合ってくれたお礼に奢るよ」
「えっ、いいよ……って、ちょっと歩果ちゃん!」

 歩果ちゃんは私の声も聞かず、屋台へ一目散に走っていく。牛串を二本買うと、私の元へ戻ってきた。買ったうちの一本をグイッと私に差し出し、微笑む。

「はいっ!」
 買われてしまっては、受け取らないわけにはいかない。このところ、奢ってもらう機会が増えたな、なんて思う。

「ありがとう……」
 礼を言いながら受け取ると、歩果ちゃんは嬉しそうに牛串にかじりついた。
 私も牛串にかじりつく。その瞬間、じゅわっと肉汁が口の中に広がった。

「!」

 私たちが今食べているこの子は、この日のために農業科が愛情たっぷりに育てた『ヨシヒコ』くんだという。一から育てた子牛をこうしてお肉にしてお客さんに提供までする農業科は、あらためてすごい科だと思う。

 ……気分的には、ちょっと食べづらいけど。

「美味しいね!」
「うん」

 屋台の端に寄ってふたりで牛串を食べていると、体育館前でたむろする女子の集団が目に入った。見覚えのある集団だった。

 あれは、たしか……。

 その集団は、バスケ部の子たちだった。中には琴音ちゃんの姿もある。

 すらりとした体躯に、さっぱりとしたショートカット。綺麗な二重の猫目で、長いまつ毛が瞬きのたびに揺れているのがここからでもよく分かる。

 ぱたりと目が合った。すぐに視線がわずかに逸れる。となりにいる歩果ちゃんに気付いたらしく、琴音ちゃんは驚いた顔のまま固まった。

 ちらりと歩果ちゃんを見ると、彼女もまた琴音ちゃんを見つめて、ぼんやりとしていた。琴音ちゃんはグループの子になにかを耳打ちすると、こちらへ駆け寄ってきた。

 話す気があるらしいと分かり、ホッとする。早々に仲直りできそうだ。

 しかし、
「……行こ、水波ちゃん」
「え?」

 歩果ちゃんのほうは琴音ちゃんが駆け寄ってきていることに気付いていないのか、歩き出してしまった。

「あ……歩果ちゃん! 琴音ちゃん、こっちにきてるみたいだけど、話したいことがあるんじゃないかな」

 校舎の中に入っていこうとする歩果ちゃんに、私は慌てて声をかける。

「いいから、行こっ」
「えっ、でも……」
 それでも歩果ちゃんは私の声を無視して、ずんずんと歩いていく。聞こえていないわけではないだろうに。

 仕方なく歩果ちゃんを追いかけ、校舎に入る。

 歩果ちゃんは、その後もずっとムスッとした顔をして歩いていた。口数も少ない。

 ……これはどうしたものか。

 少し喧騒が落ち着いた渡り廊下に出たところで、私は歩果ちゃんに「ねぇ」と声をかけた。

「……あのさ、歩果ちゃん。聞いてもいいかな」
「……なぁに?」
 くるりと振り向いた歩果ちゃんは、不機嫌な感じはしない。
「琴音ちゃんとどうして喧嘩しちゃったの?」

 私の問いに、歩果ちゃんは少しだけ目を泳がせた。
「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけど、ふたりってすごく仲良しだったから、ちょっと気になって」
「……こっち、きて」
 そう言うと、歩果ちゃんは廊下の端に寄り、プラカードを手すりに立てかけた。私も歩果ちゃんのとなりに並ぶ。
 歩果ちゃんは手すりに寄りかかり、行き交う学生や父兄を見つめながら、小さな声で話し始めた。

「……今日の文化祭ね、ずっと前から琴ちゃんと一緒に回ろうねって約束してたの。でも、先週になっていきなり琴ちゃんが、別のクラスのバスケ部の子も誘っていいかなって言ってきたんだよ。私が人見知りなの、琴ちゃん知ってるのに」
「……それで、喧嘩しちゃったの?」

 歩果ちゃんはこくりと頷く。

「私、琴ちゃんとふたりで回れるってすごく楽しみにしてたんだ。昨年はべつのクラスで、スケジュールが合わなくてあんまり一緒にいられなかったから。それなのに……琴ちゃんはぜんぜんそんな気なかったみたいで……そう思ったら、なんかすごく寂しくて」

 小さな声で言いながら、歩果ちゃんは不貞腐れたように頬をふくらませた。
 元々白くてふくふくしている頬が、さらにぷくっとした。
 歩果ちゃんは続ける。

「……だから、やだって言ったの。ふたりで回る約束でしょって。……そしたら、琴ちゃん怒っちゃって…… じゃあ歩果とは回らないって。それから、話してくれなくなっちゃったんだ」

 歩果ちゃんはぎゅっと唇を引き結んで、涙をこらえている。
「……そっか」
 親友と喧嘩してしまったことを後悔し、瞳をうるませる歩果ちゃんの様子に、私は懐かしさに似た感情を覚えた。

 私も、来未といた頃はよく喧嘩をしていた。
 いつもはっきり物事を言う来未と違って、私はうじうじ悩むタイプだったから。来未の自己主張に対して、それに言い返すこともできない私は余計に来未を怒らせていた。

 でも、喧嘩をすると、いつもあの子が間に入ってくれたから、なんとか仲直りできていたのだ。
 ……あれ?
 かつての思い出を回想するうち、かすかな違和感を覚える。
 あの子って、だれだっけ……?



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誤字報告


 その日、私は志田さんからもらったウサギのぬいぐるみをカバンに付けて登校した。
 教室に入ると、先に登校して席にいた志田さんと、ぱたりと目が合う。
「あっ」
 志田さんの目が、私からカバンに付いているぬいぐるみに流れた。
「榛名さん! それ、付けてくれたの!?」
 志田さんは目を輝かせて私に駆け寄ってくる。
「……うん。可愛かったから」
 ちょっとキモいけど、と心の中で付け足して。
「嬉しい!」
 きゃらきゃらと風鈴が鳴ったような声で志田さんは笑う。
 風が吹いたかと錯覚するような、涼やかさだ。彼女の声は澄んでいて、優しく空気を震わせる。
「……あの、志田さん」
「うん、なになに?」
 くっきりとした大きな瞳が私を映し出している。
「えっと……」
 目が合って、慣れない私は頭が真っ白になった。
 こんなふうに、まっすぐ見つめられるのはいつぶりだろう。事故のあと、みんな私から目を逸らすようになったのに。
 まっすぐに澄んだ瞳。でも、この瞳……。私はこの瞳を、最近どこかで……。
 ふと、脳裏に夕焼けと男の子の優しい笑顔が浮かんだ。
 そうだ。綺瀬くんだ。綺瀬くんも、まっすぐに私を見つめてきてくれた。
 今度こそ、私も……。
「……あの、……水波でいいよ、呼び方」
 志田さんは大きな瞳をさらに大きくして、瞬きをした。次の瞬間、ばっと私の手を取ると、私のほうへ身を乗り出して言う。
「水波っ!」 
「わっ、な、なに?」
「嬉しい、水波! 私のことも朝香って呼んで!」
「……あ、う、うん」
 勢いに押されながら頷いた。
 にこにことして私を見る朝香を横目に、私は自分の机にカバンを置いて、椅子に座る。すると朝香は当たり前のように前の席に座って、私のほうを向き、きゃらきゃらと弾けた声で、話しかけてくる。
「私、ずっと水波と話してみたかったんだよね! 水波ってなんか不思議な雰囲気してたからさ!」
「そ、そう?」
「そうだよ! なんていうか、妖精みたいっていうか……。あ、変な意味じゃなくてね。そうだ、今日の放課後、駅前のドーナツ食べていかない? 私、あそこのドーナツまだ食べたことなくてー。それから駅ナカのアイスクリーム屋さんにも行ってみたい! 今度新しく開店するんだって!」
 その日から、私の日常には朝香がいる。
 しばらく彼女と一緒に過ごして、思った。朝香はおしゃべりだ。けれど、決してだれかの悪口を言うようなことはない。
 いつも明るい話――たとえば好きなアイドルの話だとか、今ハマってるアニメやコスメの話だとか、あそこのアイスが美味しいとか、何組のだれがイケメンだとか――をした。
 私はほとんど黙って朝香の話を聞いているだけだったけれど、それでも朝香は楽しそうにいろんな話題を振ってくれた。
 私は、その笑顔にとても救われた。
 ずっと、息をひそめるようにしていた学校生活。
 つまらなかった毎日が、朝香の「おはよう」というセリフひとつでまるっと変わった。
 寂しくて死にそうだったのに、彼女の声を聴いていると、まるで世界の中心に立ったような気分になる。
「ねぇ、朝香」
「なに? 水波」
 名前を呼ぶだけで、心の垢が剥がれていくようだった。
 まるで、来未と出会ったあの日のようだと思った。
 ***
 九月の半ば。
 遠く、空のずっと向こうにあったと思っていた雲は、落ちてくるんじゃないかと思うほどに低く、近くに浮かんでいる。
 窓から入ってくる風はからりとして、ついこの間まで空気の中に混じっていた水気はいつの間にやらどこかにいってしまったようだ。
「えーそれでは、今年の二年四組の文化祭は巫女カフェをやるということで決定しました」
 一限目のロングホームルーム。
 今日の議題は、今月末にやる文化祭について。文化祭実行委員が主体となって、出し物を決めている最中だ。
 クラス全員で大いに盛り上がっているが、私にはあまり関係のない話である。南高の文化祭は、基本自由参加だから、私は昨年同様今年も出るつもりはない。
「異議はありますか?」
「さんせーい」
「えー待て待て。女子はいいけどさぁ、俺たちなにやるんだよ」
「巫女だよ」
「女装すんの!?」
「ほかになにやんのよ。お決まりでしょー」
「えー俺やだよ」
「はーい、静かに。異論は手を挙げてからお願いしまーす」
 ガヤガヤと浮き足立つ教室の隅で、私は窓の向こうの空を見上げ、息をついた。
 秋の背中が見え始めている。
 夕立が傘を鳴らす日が一日、また一日と減り、夏の暑さが弱まってくると学校はすぐに節電をうたい、冷房を切る。そうなると学生たちは窓を開けて暑さに対抗するわけだが、それが私は苦手だった。
 暑いのが、ではなく、窓から吹き込む少しひんやりした秋風が苦手なのである。
 午前中の授業が終わって昼休みになり、私と朝香はいつものように教室の机を向かい合わせて、お弁当を広げた。
 私はお母さんが作ってくれたお弁当。朝香は購買のパンだ。焼きそばパンと、プリンあんまん。これが彼女の毎日のお昼ご飯。
 ちなみに前者はいいとして、プリンあんまんはなかなか攻めたパンである。
 朝香があまりに美味しそうに食べるものだから、じっと見ていたら、この前ひとくち食べる? と聞かれた。
 食べたらまぁ、想像通りの味だった。不味くはないけど……うん。もういらないかも。
 朝香いわく、革命的な味でしょ! やみつきになるでしょ! ……とのことだ。
 私はやみつきになる前に断念した。
「プリンあんまん、食べる?」
 今日も今日とて熱心にプリンあんまんを推してくる朝香をやんわり断りながら、私もじぶんのご飯を食べ始めた。
 しばらく昨日のドラマの話で盛り上がったあと、ふと朝香が思い出したように言った。
「夏もそろそろ終わりだねぇ。やっと涼しくなるよ」
 朝香の視線につられるように、私も窓のほうへ視線を向ける。
 窓の向こうには、燦々とした太陽がある。あらためて、夏が終わり秋が近付いていると実感する。
 少しひんやりとした風が、頬を撫でる。秋色が滲む風に、知らずと冷や汗が出た。
 二年前、私はあの事故のあとしばらく沖縄の病院に入院していた。
 フェリーから助け出された私は、額を数針縫う怪我をしたけれど、それ以外に目立った外傷はなかった。しかし、念の為ということで、脳波とか心臓とか、とにかくいろいろと検査を受けた。
 警察や病院の先生にも、事故のことをいろいろと聞かれた。あの頃の私はまだ、事故について思い出すのは辛くて、その人たちのことがあまり好きではなかった。
 病室を出ると事故について調べている記者や、私が事故の被害者であることを知っている人たちの視線をいつも感じて、トイレに行くことすら怖くなった。
『あの子が助かった子?』
『運のいい子ね』
『あのフェリー、今も引きあげられてないんでしょ?』
『あんな事故で助かるなんて、奇跡だわ』
 あちこちで、いろいろな声が囁かれた。
 テレビは見れなかった。というより、お母さんとお父さんが見させてくれなかったのだ。
 たぶん、事故に関してのニュースがいたるところで報道されていて、お母さんもお父さんも、私の心を心配してくれていたのだと思う。
 そのときはまだ、私は私以外の人が助からなかったということを知らなかったから。
『水波ちゃん……水波ちゃんっ』
 あるとき、知らないおばさんが私に会いに来た。
 そのおばさんは、私を見るなりぎゅっと抱きついてきた。最初は優しかったその腕は、次第に強くなって、ぎりぎりと私を締め上げ始めた。
 その人は、泣きながら私を強く強く抱き締めて、耳元で囁いた。
『どうして? どうしてあなたは生きているの? どうしてあの子はいないの? ねぇ、一緒にいたはずよね? あの子はどこ? ねぇ、答えなさいよ。ねぇ!』
 腕が千切れるかと思うほど、強い力だった。剥き出しの歯が、血走った目が、恐ろしかった。
『落ち着いてください、この子はなにも悪くない。まだ話をできるような状態じゃないんですよ』
『お気持ちは分かりますが、お引き取りください』
『待って! まだ話は終わってないのよ! 離して! 離しなさい!』
 その人は医師や看護師の言うことも聞かず、ただまっすぐに私を睨みつけて、呪詛のように『あの子を返せ』と呟いていた。
 あれは、だれだったんだろう。
 分からない。いくら考えても、思いだせない。
 けれど、ひとつだけ分かっていることがある。
 彼女は、私をすごく恨んでいた。生き残った私を、憎んでいた。
 医師たちが慌てて私から引き剥がそうとすると、女性は泣き叫びながら暴れた。まるで、子供のように。
『放して! 放しなさい! この子があの子を殺したのよ! この子が私の子を奪ったの! この鬼! 悪魔!』
『お願いやめて!』
『この子はまだ目覚めたばかりなんですよ! お願いします! これ以上この子を怖がらせないでっ!』
 お母さんとお父さんが、慌てて私を庇うように抱き締める。私は怖くて声も出せなかった。全身が震えて、息を忘れた。
 あのときの彼女は化粧もしていない顔をぐしゃぐしゃにして、泣き叫んでいた。その姿がとても痛々しくて、当時の私は、それがすごくショックだった。
 なにかが割れる音。叫び声。すすり泣く声。
 秋風は、あの日の曖昧な記憶を乗せてやってくる。
 事故のあと、たった一度だけ会ったあの人は……。
 あの人は、だれ?
 窓の外を眺めながら呆然と考えていると、
「水波? ぼーっとして、大丈夫?」
「え? あ……」
 心配そうな顔をした朝香と目が合って、ハッとする。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「なにか悩みごと? お腹痛い? お腹減った? それならこれ食べて。美味しいよ」
「……じゃあ、焼きそばパンのほうがいい」
「おっと? 私のプリンあんまんはいらないだと?」
 そんなこと言って、朝香が最近プリンあんまんに飽きてきていることを私は知っている。
「やみつきになるから、ほら〜」
 私は朝香が持っていたプリンあんまんじゃないほう――焼きそばパンに隙をついて齧りついた。
「あぁっ!! 私の焼きそばパンがっ!」
「ふふん。やっぱりこっちのが美味しいよ」
「ぬぉー! なんだとーっ! プリンあんまんに謝れ!」
「わっ! もう危ないってば〜」
 朝香とじゃれ合っていると、どこからかギターらしき音が聴こえてきた。
「……うち、軽音部なんてあったっけ?」
 首を傾げていると、朝香が、
「あぁ、あれは文化祭ライブの練習じゃない?」
 そういえば、昇降口前の掲示板に、体育館に出演する団体を募集するチラシが貼ってあったような。
「文化祭かぁ……」
 ぎこちないギターの音色を聴きながら、私は腕をさする。
「ねぇ水波。今年は文化祭、出るでしょ?」
「えっ?」
「一緒に回らない?」
「あ……うん、考えてみる」
 つい、間の抜けた返事をしてしまう。
「水波?」
「…………」
 ふと、気が遠くなった。
 さわさわと葉の擦れる音がして、私と朝香の間を風が吹き抜けていく。
『人殺し』
『あの子を返して』
『じぶんだけ助かるなんて』
『許せない』
『許せない』
『許せない!』
 カーテンが揺れる。頭痛がひどくなり、目を瞑った。
『私の手を離したくせに』
 ドクン、と心臓が脈を打った。
「水波?」
「……ごめん。窓、閉めていいかな?」
「え? でも、暑くない? みんなも暑そうにしてるし……」
 私は朝香の言葉を無視して、窓をぴしゃりと閉めた。思いの外、大きな音が出てしまった。
「水波……? どうしたの?」
「……なにが? 私はただ、寒かったから閉めただけだよ」
 ちょっとキツい言い方になってしまった。言ってからハッとして朝香を見ると、彼女は俯いていた。その悲しそうな顔に、胸がちりりとした。
「あの……ごめん。ごめんね、朝香」
「ううん……」
 朝香に苛立ったわけじゃない。
 ただ、この季節はどうしても、気分が沈む。
 秋は嫌いだ。事故が起こった、夏よりも。
 あの日を……事故のあと、目が覚めた日のことを思い出すから。
 でも、そんなことを知らない朝香は、私が苛立った意味をきっと探している。自分がなにか気に触るようなことを言ってしまったのかもしれないと、気にしている。
「もしかして、文化祭……出たくない? それなら無理には……」
「違う。そうじゃないよ」
 本当に違う。けれど、ほかになんと言ったらいいのか、言葉が見つからない。
「じゃあ、なに?」
「それは……」
 なんと言えばいいのだろう。なんと言えば、伝わるだろう。
 ……伝わるわけない。朝香は、私とは違うんだから。
「ごめん。これは……私の問題だから」
 小さく息を吐くように言うと、朝香が私を見た。朝香は、なにか言いたげに口を開くけれど、結局なにも言わずに閉じた。
「……そっか。ごめん」
 俯いた朝香の表情は、影になっていてよく見えない。
 やっぱり、こうなるんだ。私がだれかといると、こういう空気になってしまう。
「私こそ……気を悪くしたよね。ごめん」
 俯いたまま謝ると、朝香が突然「よしよし」と私の頭を撫で始めた。
 顔を上げると、朝香は微笑みながら私の頭を撫でていた。
「朝香?」
 どうして笑っているの? 私は、あなたを傷つけたのに。
 訳がわからず瞬きをしていると、
「……水波のクセだよ。すぐ下向くの」
 優しくそう言われ、私は顔を真っ赤にした。
「……そ、そんなことは」
 ないよ、と言いながらまた下を向きかけて、慌てて顔を上げる。私と目が合うと、朝香はくすっと笑った。
「……朝香、怒ってないの?」
「なんで怒るのさ。……ねぇ、知ってた? 水波ってさ、目が合うといつも逸らすんじゃなくて俯くの。私ね、思ってたんだ。この子、顔を上げてればすごく可愛いのになって」
「い、いきなりなによ」
「だからさ、水波は悪いことなんてなにもしてないんだから、顔を上げてていいんだよってこと。今のは踏み込み過ぎた私が悪いんだ」
「そっ、そんなことない! 私が悪いんだよ。私、また朝香に気を遣わせて……ごめん」
 すると、朝香は「謝らないでよ。こっちこそ、気を遣わせてごめんって」と笑った。
「あのさ、水波こそ私といてもいつも遠慮してるでしょ。それもクセ? それとも性格? よく分かんないけどさ……話したいことがあるなら聞くよ。でも、無理には聞かない。水波が話したくなったらでいい。私に話して楽になるなら、なにかを我慢しなくてよくなるなら、いつでも聞くから言ってね」
 手をぎゅっと握り込む。
「……う」
 朝香のあたたかくて心がこもった言葉に、力を入れていないと涙がこぼれてしまいそうだった。
「あーもう、唇噛まないの。切れて血が出ちゃうよ」
 朝香は幼い子供をあやすように言う。
「……ごめん……っ」
「ん。いいよ」
 朝香に背中を撫でられ、私はまた後悔していた。
『いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。それまで、諦めないで』
 綺瀬くんにああ言われたばかりなのに。
 私はまた、向き合うことを避けていた。
 言われるまま唇の力を緩めてみたら、喉まで緩んでしまったみたいだった。
「話、したい」
「え?」
「……話、してもいいかな」
 私は朝香を見上げ、ぽつりと訊ねる。
「もちろん。……あ、場所変えよっか。体育館行く?」
 朝香はちらりと周りを見て言った。
「……うん。助かる」
 私たちは食べかけのお弁当を持って教室を出た。
 昼休みの体育館はがらんとしていて、私たちはふたりで舞台に足を投げ出して並んで座った。
 食べかけのお弁当を食べながら、私はなかなか言い出せなくて、口を開いては閉じて、喉からせり上がってくるものをご飯で無理やり流し込んでを繰り返した。
 朝香はそんな私を急かすようなことはせず、ひとりごとともとれる何気ない話をしながら、パンをかじっていた。
 お弁当を食べ終えると、朝香は転がっていたバスケットボールを手に取り、ボール遊びを始めた。私は舞台に座ったまま、ぼんやりとそれを眺める。
 ダンダン、とバスケットボールが弾む音だけが響く体育館。
 私はようやく、ぽつぽつと事故のことを話し出した。
「……私が二年前のフェリー事故の被害者だってことは知ってると思うんだけど」
 朝香は一瞬驚いた顔をして私を見たあと、小さく「うん」と頷いた。
「あの事故のあとから、私……夜ぜんぜん眠れなくなって。夜っていうか、まぁ昼間でも眠れないんだけど。いつも夢を見るんだ。傾いていくフェリーを滑り落ちながら、親友が助けてって手を伸ばしてくる夢。でもね、夢の中でも私は一度もその子を助けられたことがないんだ」
 一度言葉を止めると、朝香は今にも泣きそうな顔をして私を見つめていた。
「あ……ごめんね、こんな重い話。やっぱりやめようか」
 慌てて言うと、朝香は潤んだ瞳をまっすぐ私に向けて、首を横に振った。
「ううん、続けて。……さっきは話したくなったらでいいって言ったけど、やっぱり聞きたい」
「……うん」
 頷いて、再び口を開く。
「……事故のあと、みんなよそよそしくなったんだ。お母さんもお父さんも、友達も。仕方ないよね。私以外みんな死んじゃってるんだし。同じフェリーに乗ってた私にも、どう接していいか分からなかったんだと思う。でもね、その窺うような視線がいやで、話すことをやめたんだ。私が話しかけに行くと、みんな笑顔を引き攣らせるから……そういう顔を見たくなくて」
 だからもう、ひとりでいいやって諦めた。
 これは罰。私だけ生き残ってしまった罰。親友を助けられなかった罰なのだとじぶんに言い聞かせた。
「……私、この前死のうとしたんだ」
「え……?」
 朝香が息を呑む音がした。
「親友の命日の日、その子のお母さんに、あなたが死ねばよかったのにって言われて、私は生きてちゃいけないんだって気付いた。……ううん。本当は最初から気付いてた。でも、気付かないふりをしてたの。だけど、気付かないふりをするのももう限界で」
 八月九日。私は、じぶんで人生を終わらせようとした。
 だけど。その日、私は運命に出会った。
 耳の奥で、あの日聴いたお囃子の音が響く。
「……だけど、死のうとした日にね、ある男の子に出会ったんだ」
「男の子?」
「うん。その子も大切な人を失っていてね。泣きながら、私にそばにいてって言ってくれたの。私がずっと言いたくて言えなかった言葉を、その子が代わりに言ってくれたんだ」
 朝香は柔らかい顔で私を見つめてくれていた。
「それでね、あとでその子に言われたの。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは分からないよって。いくら仲のいい友達でも、ましてや家族だって、心の中までは分からない。だから、ちゃんと話さないとダメだよって」
 顔を上げて、朝香を見る。
 もう友達なんていらないと思っていた。
 でも、綺瀬くんと出会って、だれかと向き合うことの大切さを教えてもらって。本当はじぶんが、なによりそういう存在を求めていたことに気付いた。
「……私ね、これからも朝香にいろいろ気を遣わせちゃうと思う。迷惑もかけるだろうし……喧嘩もするかも。でも、それでも私、朝香が好き。朝香の笑い声も、朝香とのおしゃべりも大好き。……だから、これからも友達でいたい」
 見ると、朝香は静かに涙を流していた。思わずぎょっとする。
「えっ……あ、あの」
 どうしよう、とおろおろしていると、朝香がガバッと私に抱きついてきた。
「!」
「水波っ! 話してくれてありがとう……」
 朝香は私を抱き締めたまま、私に言う。
「今まで辛かったね。よく頑張ったね」と、朝香は私の背中を撫でながら何度もそう言ってくれた。
 朝香のセリフに感極まって泣き出した私を、朝香はさらにぎゅっと抱き締めた。
「私、決めたよ。一生水波と一緒にいる」
「え……?」
「私、一生水波と一緒にいる」
 朝香は私の肩を掴み、まっすぐに私を見つめて言った。
「水波はこれまで、ひとりぼっちで寂しかったんでしょ? 事故の前はその子がいたけど、事故で失って……ううん。きっと水波、自分のせいでその子が死んだって思ってるんだよね。だからそんな夢を見るんだ。親にも心配かけたくなくて言えなかったんだよね。……でも、その男の子に言ったら楽になったんでしょ? 状況が少し変わったんでしょ? なら、私もその役やるよ」
 掴まれた肩がちょっと痛い。朝香が決意が伝わるようだった。
「私はその男の子みたいにいいこととかアドバイスとかは言えないけど……一緒にいることならできる。水波がひとりぼっちにならないようにすることだけはできる。あの事故は水波のせいなんかじゃないって、何回だって言ってあげる。だから、今のは決意表明だよ」
「朝香……」
「……ふふ。私、その男の子にお礼が言いたいな」
「え?」
「だって、その子がいなかったら私、水波とこうやって話せてなかったよ。友達にもなれてかった。とにかく、水波が生きててくれてよかった」
 朝香の頬をつたう透き通った涙を見て、私は頷く。
「私も、あの日死ななくてよかった。朝香とこうして友達になれてよかった。ありがとう……」
「もうっ! 泣くなー!」
 朝香は私以上にぽとぽと涙を落としながら、昼休みが終わるまでずっと抱き締めてくれていた。
 綺瀬くん。綺瀬くん。綺瀬くん。
 心の中で綺瀬くん、と何度も彼の名前を叫ぶ。
 綺瀬くんの言う通りだったよ。話してみなきゃ、分からないんだね。話して救われることもあるんだね。ぜんぶ、綺瀬くんのおかげだよ。ありがとう。
 会いたいな。公園にいるかな。いますように。
 祈りながら、私は石段を駆け上がる。
 山の上にある神社の、さらに上。街が見渡せる広場のベンチ。
 そこに、綺瀬くんはいた。
「綺瀬くんっ!」
 石段を登り切る前に綺瀬くんの姿が見えて、私は綺瀬くんの名前を呼びながら石段を駆け上がった。
「水波! 久しぶり」
 綺瀬くんは、私を見るとにっこりと笑う。
「綺瀬くん!」
 一週間ぶりに会った綺瀬くんはやっぱり夏と切り離されたように涼しげで、少し現実離れしている。
 私は目が合うなり駆け出し、勢いよく綺瀬くんに抱き着いた。
「わっ……ど、どうしたの水波」
 綺瀬くんは戸惑いながらも私を優しく受け止める。
「会いたかった……」
 ぎゅうっと抱きつくと、綺瀬くんは優しく抱き締め返してくれる。
「ん。俺も」
 あたたかい。あたたかくて、涙が出そう。
 しばらくすると、綺瀬くんは身体を離して私の顔を覗き込んだ。
「……なんかあった?」
「うん」
 私は綺瀬くんの胸に顔を押し付けたまま、
「お母さんとお父さんとちゃんと話せたよ」
「うん」
「ふたりとも、すごくすごく私のこと考えてくれてた」
「そっか」
「夜の外出は八時までって言われたけど」
「……うん、まぁ、そうだよね。それがいい。危ないから」
「えー」
「ふふ」
 綺瀬くんが苦笑する。そこはもっと落ち込んでほしかった。
「それで?」
「……それからね、友達ができたよ」
「えっ?」
 顔を上げてはにかみながら言うと、綺瀬くんはきょとんとした。
「向き合うの怖かったけど……でも向き合ってよかった。友達になりたいって言えてよかった」
 綺瀬くんの顔に、じわじわと笑みが広がっていく。
「……そっか。なんだ、そっか……。よかった」と、綺瀬くんは柔らかく笑った。
「良かったね」
「うん。ぜんぶ綺瀬くんのおかげだよ」
「そんなことないよ。水波が勇気出したからだよ」
 じんわりと心があたたまっていく。
「ねぇ、手繋いでくれる?」
「ん」
 綺瀬くんが手を差し出す。その手を取って、ベンチに並んで座る。街並みを見下ろしながら、私たちは何気ない話をする。
「あ、そうだ、これ。綺瀬くんにお礼しようと思って、うちの名物のプリンあんまん買ってきた。あげる」
 カバンから、朝香お気に入りの購買パンを出すと、綺瀬くんの瞳が輝いた。
「ちょうどお腹減ってたんだ。ありがとう」
「美味しくないから覚悟してね」
「えっ、美味しくないの?」
 ぽーんと目を丸くした綺瀬くんの顔がおかしくて、つい笑ってしまった。「冗談だよ」と付け足すと、綺瀬くんは拍子抜けしたように微笑んだ。
「じゃあ、半分こね。水波ほっそいからちゃんと食べろよ」
「えーでも、これでカロリー取るのはなぁ。どうせならドーナツとか」
「文句を言うんじゃありません」
「ハイ」
 プリンあんまんの片割れを綺瀬くんから受け取ると、同時に訊かれた。
「学校は楽しい?」
 綺瀬くんはプリンあんまんを咥えながら、優しい眼差しで私を見た。
「うん。楽しい。あのね、もうすぐ文化祭なんだ。朝香から、今年は一緒に回ろうって誘われてて……」
「おっ。それは楽しみだね」
 綺瀬くんはいつもよりのんびりとした声で言った。
「いいなぁ。文化祭かぁ……」
 綺瀬くんは、どこか遠い目をして呟いた。
「綺瀬くんは、文化祭出たことある?」
「うん、あるよ」
 まるで用意しておいた答えのように綺瀬くんはそう言った。
「文化祭は高校生限定のイベントだからね。絶対サボっちゃダメだからね?」
「……うん。あのさ……」
 綺瀬くんは、どこの学校に行っているの? 何年生?
 聞きたいけれど、聞いたら答えてくれるのだろうか。もしも言いたくないことだったら、迷惑になる。
 ……それに、なんでだろう、聞くのが少しだけ怖い。
 ざわ、と風が吹いた。綺瀬くんのにおいと、秋の気配。どこか懐かしさを感じる横顔。
 でも、なぜ?
 綺瀬くんとは会ったばかりなのに。懐かしいと感じるほど、よく知らないはずなのに。
 心がざわつく。
 突然黙り込んだ私を、綺瀬くんが覗き込んでくる。
「どうした?」
 静かに首を振る。
「……ううん。なんでもない」
 心の戸惑いを誤魔化すように曖昧に微笑み、私はプリンあんまんをかじった。
 それから半月後。数日後には衣替えとは思えないほど濃い陽の下、文化祭は開幕した。
 文化祭は、私の想像を遥かに越えていた。
 私たちの出し物である巫女カフェは、教室を使用しており、パーテーションで半分に区切り、半分をカフェ風に、もう半分はスタッフルームだ。
 接客担当はおそろいで作った紅白の巫女風の衣装を着て、その他の生徒たちはこれまたおそろいで作ったクラスティーシャツを着る。
 私たちのクラスの出し物は、二年の中でもかなり大盛況なようだった。
 提供するのは、缶ジュースと事前に焼いておいたカップケーキ。
 調理系のものは許可を取ることが難しいらしく、普通科はそう簡単に提供することはできないため、簡単なカップケーキを販売することになったのだ。
 その代わりラッピングに少しこだわり、和風の千鳥柄や市松模様で、紙も和紙風の手触りのものにした。
 目にも可愛い、そして美味しいがウチの売り……らしい。
 宣伝担当となった私は、制服のスカートはそのままにクラスティーシャツを着て、手作り感満載のダンボール製のプラカードを持って構内を歩いていた。
 構内は、遊園地になったのではと錯覚するほど賑やかで、あちこちから華やかな声が聞こえてくる。
 薄ぼやけていたはずの教室や廊下が、今はカラフルに色付いている。
 赤色や黄色のペンキで丁寧にダンボールに塗られた文字。七色の風船。わいわいと楽しげなさざめき声も、それぞれの色をまとって学校を彩っている。
 小学校の運動会に少し雰囲気が似ている、と思った。
 しばらく構内を練り歩いていると、
「水波ちゃん、宣伝お疲れ様! 交代するね!」
 と、ピンク色のぽんぽんを持ったクラスメイトが、私に声をかけながら駆け寄ってきた。
 背が低くて、ふわふわとしたくせ毛がどことなくうさぎを思わせる、愛くるしい、という表現がぴったりな子だった。
 名前はたしか、|松本《まつもと》|歩果《あゆか》ちゃんだ。
「あ、うん。お願いします」
 プラカードを渡そうとすると、歩果ちゃんはぽんぽんを片手で持とうとする。しかし、手が小さいせいでぽとりと落としてしまった。
「わわっ」
「大丈夫?」
「うん、ご、ごめんね」
 歩果ちゃんは生徒や来場者が激しく往来するなかでぽんぽんを落としたことが恥ずかしかったのか、頬を赤くしながら慌てて拾う。
 そんなに慌てなくても、と思いながら私はその様子を微笑ましく見守った。
 そのあとも、歩果ちゃんは何度かわたわたと、拾っては落としてを繰り返していた。見兼ねた私は、控えめに口を開く。
「……よかったら、それ持ってようか?」
「えっ? あっ、ありがとう」
 歩果ちゃんからぽんぽんを受け取り、プラカードを渡す。
「それで、これはどこに持っていけばいい――」
 じっと視線を感じて歩果ちゃんを見ると、はたと目が合った。首を傾げる。
「……歩果ちゃん?」
 歩果ちゃんはハッと我に返ったように、早口で言った。
「あっ……ごめんね! 水波ちゃんって、本当に綺麗な顔してるなって思ってつい魅入っちゃった」
「えっ……!?」
 突然!?
「ぽんぽんすごく似合うね……」
 歩果ちゃんは、ぽ〜っとした顔をして私を見つめている。
「えっと……ありがとう?」
 お礼を言うのが正しいのか分からないけれど、とりあえず言っておく。
 ……歩果ちゃんとはほとんど話したことないけど、そういえばクラスでよく天然だと言われている子だった。と、そこまで思って、彼女がひとりでいることに気付き、首を傾げる。
 いつもなら、彼女のそばには必ず|花野《はなの》|琴音《ことね》ちゃんという親友がいる。歩果ちゃんとは正反対の、背が高くてサバサバした感じの子だ。
「そういえば、今日は琴音ちゃんと一緒じゃないんだね」
 会話の種にと思って何気なく訊くと、歩果ちゃんが言葉に詰まった。私から目を逸らし、小さく「うん」と頷く。
 今にも消え入りそうな声に、しまったと思う。聞いてはいけないことだったかもしれない。
 微妙な空気になってしまって、私は一歩後退った。
「……あ、えっと……じゃあ」
 しれっと踵を返して歩き出す。すると、制服の裾を掴まれた。
「――?」
 振り返ると、歩果ちゃんが控えめに私のティーシャツを掴んでいる。
「歩果ちゃん?」
「あの……水波ちゃん。もうちょっとだけ、私と一緒にいてくれないかな?」
「え?」
 歩果ちゃんはもじもじしながら、
「私、人混みが苦手で……いつもは、琴音ちゃんが守ってくれるんだけど、今日はその……喧嘩しちゃって」と言う。
 なるほど。そういうことだったのか。
 事情を察し、私は近くの教室の時計を見る。朝香との約束の時間まではまだ少しある。
「うん、いいよ」
 頷くと、歩果ちゃんの表情がぱあっと明るくなった。
 それから、私はしばらくプラカードを持った歩果ちゃんと一緒に構内を歩いた。
 これまで歩果ちゃんとは話したことはほとんどなかったけれど、穏やかな性格の子だった。喋り方もおっとりしていて、笑うと花のように可愛い。
 正直、とてもだれかと衝突するような気の強い子には思えない。歩果ちゃんは、どうして琴音ちゃんと喧嘩してしまったのだろう。
「ねぇ、水波ちゃん」
 ちょいちょいと歩果ちゃんに袖を引かれた。
「ん?」
「あれ食べない?」
 歩果ちゃんが指で指し示したのは、校門前にある屋台。
「……牛串?」
 屋台には、大きく『牛』の文字と絵がある。
 そういえば、うちの高校は普通科のほかにいくつか専門学科がある。農業科や調理科はいつもお店顔負けの|凝《こ》った出し物をするので、そこがうちの売りでもあったりする。
「宣伝付き合ってくれたお礼に奢るよ」
「えっ、いいよ……って、ちょっと歩果ちゃん!」
 歩果ちゃんは私の声も聞かず、屋台へ一目散に走っていく。牛串を二本買うと、私の元へ戻ってきた。買ったうちの一本をグイッと私に差し出し、微笑む。
「はいっ!」
 買われてしまっては、受け取らないわけにはいかない。このところ、奢ってもらう機会が増えたな、なんて思う。
「ありがとう……」
 礼を言いながら受け取ると、歩果ちゃんは嬉しそうに牛串にかじりついた。
 私も牛串にかじりつく。その瞬間、じゅわっと肉汁が口の中に広がった。
「!」
 私たちが今食べているこの子は、この日のために農業科が愛情たっぷりに育てた『ヨシヒコ』くんだという。一から育てた子牛をこうしてお肉にしてお客さんに提供までする農業科は、あらためてすごい科だと思う。
 ……気分的には、ちょっと食べづらいけど。
「美味しいね!」
「うん」
 屋台の端に寄ってふたりで牛串を食べていると、体育館前でたむろする女子の集団が目に入った。見覚えのある集団だった。
 あれは、たしか……。
 その集団は、バスケ部の子たちだった。中には琴音ちゃんの姿もある。
 すらりとした体躯に、さっぱりとしたショートカット。綺麗な二重の猫目で、長いまつ毛が瞬きのたびに揺れているのがここからでもよく分かる。
 ぱたりと目が合った。すぐに視線がわずかに逸れる。となりにいる歩果ちゃんに気付いたらしく、琴音ちゃんは驚いた顔のまま固まった。
 ちらりと歩果ちゃんを見ると、彼女もまた琴音ちゃんを見つめて、ぼんやりとしていた。琴音ちゃんはグループの子になにかを耳打ちすると、こちらへ駆け寄ってきた。
 話す気があるらしいと分かり、ホッとする。早々に仲直りできそうだ。
 しかし、
「……行こ、水波ちゃん」
「え?」
 歩果ちゃんのほうは琴音ちゃんが駆け寄ってきていることに気付いていないのか、歩き出してしまった。
「あ……歩果ちゃん! 琴音ちゃん、こっちにきてるみたいだけど、話したいことがあるんじゃないかな」
 校舎の中に入っていこうとする歩果ちゃんに、私は慌てて声をかける。
「いいから、行こっ」
「えっ、でも……」
 それでも歩果ちゃんは私の声を無視して、ずんずんと歩いていく。聞こえていないわけではないだろうに。
 仕方なく歩果ちゃんを追いかけ、校舎に入る。
 歩果ちゃんは、その後もずっとムスッとした顔をして歩いていた。口数も少ない。
 ……これはどうしたものか。
 少し喧騒が落ち着いた渡り廊下に出たところで、私は歩果ちゃんに「ねぇ」と声をかけた。
「……あのさ、歩果ちゃん。聞いてもいいかな」
「……なぁに?」
 くるりと振り向いた歩果ちゃんは、不機嫌な感じはしない。
「琴音ちゃんとどうして喧嘩しちゃったの?」
 私の問いに、歩果ちゃんは少しだけ目を泳がせた。
「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけど、ふたりってすごく仲良しだったから、ちょっと気になって」
「……こっち、きて」
 そう言うと、歩果ちゃんは廊下の端に寄り、プラカードを手すりに立てかけた。私も歩果ちゃんのとなりに並ぶ。
 歩果ちゃんは手すりに寄りかかり、行き交う学生や父兄を見つめながら、小さな声で話し始めた。
「……今日の文化祭ね、ずっと前から琴ちゃんと一緒に回ろうねって約束してたの。でも、先週になっていきなり琴ちゃんが、別のクラスのバスケ部の子も誘っていいかなって言ってきたんだよ。私が人見知りなの、琴ちゃん知ってるのに」
「……それで、喧嘩しちゃったの?」
 歩果ちゃんはこくりと頷く。
「私、琴ちゃんとふたりで回れるってすごく楽しみにしてたんだ。昨年はべつのクラスで、スケジュールが合わなくてあんまり一緒にいられなかったから。それなのに……琴ちゃんはぜんぜんそんな気なかったみたいで……そう思ったら、なんかすごく寂しくて」
 小さな声で言いながら、歩果ちゃんは不貞腐れたように頬をふくらませた。
 元々白くてふくふくしている頬が、さらにぷくっとした。
 歩果ちゃんは続ける。
「……だから、やだって言ったの。ふたりで回る約束でしょって。……そしたら、琴ちゃん怒っちゃって…… じゃあ歩果とは回らないって。それから、話してくれなくなっちゃったんだ」
 歩果ちゃんはぎゅっと唇を引き結んで、涙をこらえている。
「……そっか」
 親友と喧嘩してしまったことを後悔し、瞳をうるませる歩果ちゃんの様子に、私は懐かしさに似た感情を覚えた。
 私も、来未といた頃はよく喧嘩をしていた。
 いつもはっきり物事を言う来未と違って、私はうじうじ悩むタイプだったから。来未の自己主張に対して、それに言い返すこともできない私は余計に来未を怒らせていた。
 でも、喧嘩をすると、いつもあの子が間に入ってくれたから、なんとか仲直りできていたのだ。
 ……あれ?
 かつての思い出を回想するうち、かすかな違和感を覚える。
 あの子って、だれだっけ……?


変化

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前のエピソード 壊れた心と家族の手

友だちとトラウマ

ー/ー


 その日、私は志田さんからもらったウサギのぬいぐるみをカバンに付けて登校した。

 教室に入ると、先に登校して席にいた志田さんと、ぱたりと目が合う。
「あっ」
 志田さんの目が、私からカバンに付いているぬいぐるみに流れた。
「榛名さん! それ、付けてくれたの!?」
 志田さんは目を輝かせて私に駆け寄ってくる。

「……うん。可愛かったから」
 ちょっとキモいけど、と心の中で付け足して。
「嬉しい!」

 きゃらきゃらと風鈴が鳴ったような声で志田さんは笑う。
 風が吹いたかと錯覚するような、涼やかさだ。彼女の声は澄んでいて、優しく空気を震わせる。

「……あの、志田さん」
「うん、なになに?」
 くっきりとした大きな瞳が私を映し出している。
「えっと……」
 目が合って、慣れない私は頭が真っ白になった。

 こんなふうに、まっすぐ見つめられるのはいつぶりだろう。事故のあと、みんな私から目を逸らすようになったのに。
 まっすぐに澄んだ瞳。でも、この瞳……。私はこの瞳を、最近どこかで……。
 ふと、脳裏に夕焼けと男の子の優しい笑顔が浮かんだ。
 そうだ。綺瀬くんだ。綺瀬くんも、まっすぐに私を見つめてきてくれた。
 今度こそ、私も……。

「……あの、……水波でいいよ、呼び方」
 志田さんは大きな瞳をさらに大きくして、瞬きをした。次の瞬間、ばっと私の手を取ると、私のほうへ身を乗り出して言う。
「水波っ!」 
「わっ、な、なに?」
「嬉しい、水波! 私のことも朝香って呼んで!」
「……あ、う、うん」
 勢いに押されながら頷いた。

 にこにことして私を見る朝香を横目に、私は自分の机にカバンを置いて、椅子に座る。すると朝香は当たり前のように前の席に座って、私のほうを向き、きゃらきゃらと弾けた声で、話しかけてくる。

「私、ずっと水波と話してみたかったんだよね! 水波ってなんか不思議な雰囲気してたからさ!」
「そ、そう?」
「そうだよ! なんていうか、妖精みたいっていうか……。あ、変な意味じゃなくてね。そうだ、今日の放課後、駅前のドーナツ食べていかない? 私、あそこのドーナツまだ食べたことなくてー。それから駅ナカのアイスクリーム屋さんにも行ってみたい! 今度新しく開店するんだって!」

 その日から、私の日常には朝香がいる。

 しばらく彼女と一緒に過ごして、思った。朝香はおしゃべりだ。けれど、決してだれかの悪口を言うようなことはない。

 いつも明るい話――たとえば好きなアイドルの話だとか、今ハマってるアニメやコスメの話だとか、あそこのアイスが美味しいとか、何組のだれがイケメンだとか――をした。

 私はほとんど黙って朝香の話を聞いているだけだったけれど、それでも朝香は楽しそうにいろんな話題を振ってくれた。

 私は、その笑顔にとても救われた。

 ずっと、息をひそめるようにしていた学校生活。
 つまらなかった毎日が、朝香の「おはよう」というセリフひとつでまるっと変わった。

 寂しくて死にそうだったのに、彼女の声を聴いていると、まるで世界の中心に立ったような気分になる。

「ねぇ、朝香」
「なに? 水波」

 名前を呼ぶだけで、心の垢が剥がれていくようだった。
 まるで、来未と出会ったあの日のようだと思った。


 ***


 九月の半ば。

 遠く、空のずっと向こうにあったと思っていた雲は、落ちてくるんじゃないかと思うほどに低く、近くに浮かんでいる。

 窓から入ってくる風はからりとして、ついこの間まで空気の中に混じっていた水気はいつの間にやらどこかにいってしまったようだ。

「えーそれでは、今年の二年四組の文化祭は巫女カフェをやるということで決定しました」

 一限目のロングホームルーム。
 今日の議題は、今月末にやる文化祭について。文化祭実行委員が主体となって、出し物を決めている最中だ。

 クラス全員で大いに盛り上がっているが、私にはあまり関係のない話である。南高の文化祭は、基本自由参加だから、私は昨年同様今年も出るつもりはない。

「異議はありますか?」
「さんせーい」
「えー待て待て。女子はいいけどさぁ、俺たちなにやるんだよ」
「巫女だよ」
「女装すんの!?」
「ほかになにやんのよ。お決まりでしょー」
「えー俺やだよ」
「はーい、静かに。異論は手を挙げてからお願いしまーす」

 ガヤガヤと浮き足立つ教室の隅で、私は窓の向こうの空を見上げ、息をついた。

 秋の背中が見え始めている。
 夕立が傘を鳴らす日が一日、また一日と減り、夏の暑さが弱まってくると学校はすぐに節電をうたい、冷房を切る。そうなると学生たちは窓を開けて暑さに対抗するわけだが、それが私は苦手だった。

 暑いのが、ではなく、窓から吹き込む少しひんやりした秋風が苦手なのである。

 午前中の授業が終わって昼休みになり、私と朝香はいつものように教室の机を向かい合わせて、お弁当を広げた。

 私はお母さんが作ってくれたお弁当。朝香は購買のパンだ。焼きそばパンと、プリンあんまん。これが彼女の毎日のお昼ご飯。
 ちなみに前者はいいとして、プリンあんまんはなかなか攻めたパンである。
 朝香があまりに美味しそうに食べるものだから、じっと見ていたら、この前ひとくち食べる? と聞かれた。
 食べたらまぁ、想像通りの味だった。不味くはないけど……うん。もういらないかも。
 朝香いわく、革命的な味でしょ! やみつきになるでしょ! ……とのことだ。
 私はやみつきになる前に断念した。

「プリンあんまん、食べる?」

 今日も今日とて熱心にプリンあんまんを推してくる朝香をやんわり断りながら、私もじぶんのご飯を食べ始めた。

 しばらく昨日のドラマの話で盛り上がったあと、ふと朝香が思い出したように言った。
「夏もそろそろ終わりだねぇ。やっと涼しくなるよ」

 朝香の視線につられるように、私も窓のほうへ視線を向ける。
 窓の向こうには、燦々とした太陽がある。あらためて、夏が終わり秋が近付いていると実感する。

 少しひんやりとした風が、頬を撫でる。秋色が滲む風に、知らずと冷や汗が出た。


 二年前、私はあの事故のあとしばらく沖縄の病院に入院していた。
 フェリーから助け出された私は、額を数針縫う怪我をしたけれど、それ以外に目立った外傷はなかった。しかし、念の為ということで、脳波とか心臓とか、とにかくいろいろと検査を受けた。

 警察や病院の先生にも、事故のことをいろいろと聞かれた。あの頃の私はまだ、事故について思い出すのは辛くて、その人たちのことがあまり好きではなかった。
 病室を出ると事故について調べている記者や、私が事故の被害者であることを知っている人たちの視線をいつも感じて、トイレに行くことすら怖くなった。

『あの子が助かった子?』
『運のいい子ね』
『あのフェリー、今も引きあげられてないんでしょ?』
『あんな事故で助かるなんて、奇跡だわ』

 あちこちで、いろいろな声が囁かれた。

 テレビは見れなかった。というより、お母さんとお父さんが見させてくれなかったのだ。
 たぶん、事故に関してのニュースがいたるところで報道されていて、お母さんもお父さんも、私の心を心配してくれていたのだと思う。

 そのときはまだ、私は私以外の人が助からなかったということを知らなかったから。

『水波ちゃん……水波ちゃんっ』

 あるとき、知らないおばさんが私に会いに来た。
 そのおばさんは、私を見るなりぎゅっと抱きついてきた。最初は優しかったその腕は、次第に強くなって、ぎりぎりと私を締め上げ始めた。

 その人は、泣きながら私を強く強く抱き締めて、耳元で囁いた。

『どうして? どうしてあなたは生きているの? どうしてあの子はいないの? ねぇ、一緒にいたはずよね? あの子はどこ? ねぇ、答えなさいよ。ねぇ!』

 腕が千切れるかと思うほど、強い力だった。剥き出しの歯が、血走った目が、恐ろしかった。

『落ち着いてください、この子はなにも悪くない。まだ話をできるような状態じゃないんですよ』
『お気持ちは分かりますが、お引き取りください』
『待って! まだ話は終わってないのよ! 離して! 離しなさい!』

 その人は医師や看護師の言うことも聞かず、ただまっすぐに私を睨みつけて、呪詛のように『あの子を返せ』と呟いていた。
 あれは、だれだったんだろう。
 分からない。いくら考えても、思いだせない。

 けれど、ひとつだけ分かっていることがある。
 彼女は、私をすごく恨んでいた。生き残った私を、憎んでいた。

 医師たちが慌てて私から引き剥がそうとすると、女性は泣き叫びながら暴れた。まるで、子供のように。

『放して! 放しなさい! この子があの子を殺したのよ! この子が私の子を奪ったの! この鬼! 悪魔!』
『お願いやめて!』
『この子はまだ目覚めたばかりなんですよ! お願いします! これ以上この子を怖がらせないでっ!』

 お母さんとお父さんが、慌てて私を庇うように抱き締める。私は怖くて声も出せなかった。全身が震えて、息を忘れた。

 あのときの彼女は化粧もしていない顔をぐしゃぐしゃにして、泣き叫んでいた。その姿がとても痛々しくて、当時の私は、それがすごくショックだった。

 なにかが割れる音。叫び声。すすり泣く声。

 秋風は、あの日の曖昧な記憶を乗せてやってくる。
 事故のあと、たった一度だけ会ったあの人は……。

 あの人は、だれ?

 窓の外を眺めながら呆然と考えていると、
「水波? ぼーっとして、大丈夫?」
「え? あ……」
 心配そうな顔をした朝香と目が合って、ハッとする。


「ごめん、ぼーっとしてた」
「なにか悩みごと? お腹痛い? お腹減った? それならこれ食べて。美味しいよ」
「……じゃあ、焼きそばパンのほうがいい」
「おっと? 私のプリンあんまんはいらないだと?」

 そんなこと言って、朝香が最近プリンあんまんに飽きてきていることを私は知っている。
「やみつきになるから、ほら〜」
 私は朝香が持っていたプリンあんまんじゃないほう――焼きそばパンに隙をついて齧りついた。

「あぁっ!! 私の焼きそばパンがっ!」
「ふふん。やっぱりこっちのが美味しいよ」
「ぬぉー! なんだとーっ! プリンあんまんに謝れ!」
「わっ! もう危ないってば〜」
 朝香とじゃれ合っていると、どこからかギターらしき音が聴こえてきた。

「……うち、軽音部なんてあったっけ?」

 首を傾げていると、朝香が、
「あぁ、あれは文化祭ライブの練習じゃない?」
 そういえば、昇降口前の掲示板に、体育館に出演する団体を募集するチラシが貼ってあったような。

「文化祭かぁ……」

 ぎこちないギターの音色を聴きながら、私は腕をさする。

「ねぇ水波。今年は文化祭、出るでしょ?」
「えっ?」
「一緒に回らない?」
「あ……うん、考えてみる」
 つい、間の抜けた返事をしてしまう。
「水波?」
「…………」

 ふと、気が遠くなった。
 さわさわと葉の擦れる音がして、私と朝香の間を風が吹き抜けていく。

『人殺し』
『あの子を返して』
『じぶんだけ助かるなんて』
『許せない』
『許せない』
『許せない!』

 カーテンが揺れる。頭痛がひどくなり、目を瞑った。

『私の手を離したくせに』

 ドクン、と心臓が脈を打った。

「水波?」
「……ごめん。窓、閉めていいかな?」
「え? でも、暑くない? みんなも暑そうにしてるし……」

 私は朝香の言葉を無視して、窓をぴしゃりと閉めた。思いの外、大きな音が出てしまった。

「水波……? どうしたの?」
「……なにが? 私はただ、寒かったから閉めただけだよ」

 ちょっとキツい言い方になってしまった。言ってからハッとして朝香を見ると、彼女は俯いていた。その悲しそうな顔に、胸がちりりとした。

「あの……ごめん。ごめんね、朝香」
「ううん……」

 朝香に苛立ったわけじゃない。
 ただ、この季節はどうしても、気分が沈む。

 秋は嫌いだ。事故が起こった、夏よりも。
 あの日を……事故のあと、目が覚めた日のことを思い出すから。
 でも、そんなことを知らない朝香は、私が苛立った意味をきっと探している。自分がなにか気に触るようなことを言ってしまったのかもしれないと、気にしている。

「もしかして、文化祭……出たくない? それなら無理には……」
「違う。そうじゃないよ」

 本当に違う。けれど、ほかになんと言ったらいいのか、言葉が見つからない。

「じゃあ、なに?」
「それは……」
 なんと言えばいいのだろう。なんと言えば、伝わるだろう。
 ……伝わるわけない。朝香は、私とは違うんだから。

「ごめん。これは……私の問題だから」
 小さく息を吐くように言うと、朝香が私を見た。朝香は、なにか言いたげに口を開くけれど、結局なにも言わずに閉じた。

「……そっか。ごめん」

 俯いた朝香の表情は、影になっていてよく見えない。

 やっぱり、こうなるんだ。私がだれかといると、こういう空気になってしまう。

「私こそ……気を悪くしたよね。ごめん」

 俯いたまま謝ると、朝香が突然「よしよし」と私の頭を撫で始めた。

 顔を上げると、朝香は微笑みながら私の頭を撫でていた。
「朝香?」
 どうして笑っているの? 私は、あなたを傷つけたのに。
 訳がわからず瞬きをしていると、
「……水波のクセだよ。すぐ下向くの」
 優しくそう言われ、私は顔を真っ赤にした。
「……そ、そんなことは」

 ないよ、と言いながらまた下を向きかけて、慌てて顔を上げる。私と目が合うと、朝香はくすっと笑った。

「……朝香、怒ってないの?」
「なんで怒るのさ。……ねぇ、知ってた? 水波ってさ、目が合うといつも逸らすんじゃなくて俯くの。私ね、思ってたんだ。この子、顔を上げてればすごく可愛いのになって」
「い、いきなりなによ」
「だからさ、水波は悪いことなんてなにもしてないんだから、顔を上げてていいんだよってこと。今のは踏み込み過ぎた私が悪いんだ」
「そっ、そんなことない! 私が悪いんだよ。私、また朝香に気を遣わせて……ごめん」

 すると、朝香は「謝らないでよ。こっちこそ、気を遣わせてごめんって」と笑った。

「あのさ、水波こそ私といてもいつも遠慮してるでしょ。それもクセ? それとも性格? よく分かんないけどさ……話したいことがあるなら聞くよ。でも、無理には聞かない。水波が話したくなったらでいい。私に話して楽になるなら、なにかを我慢しなくてよくなるなら、いつでも聞くから言ってね」

 手をぎゅっと握り込む。
「……う」

 朝香のあたたかくて心がこもった言葉に、力を入れていないと涙がこぼれてしまいそうだった。

「あーもう、唇噛まないの。切れて血が出ちゃうよ」
 朝香は幼い子供をあやすように言う。
「……ごめん……っ」
「ん。いいよ」
 朝香に背中を撫でられ、私はまた後悔していた。

『いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。それまで、諦めないで』

 綺瀬くんにああ言われたばかりなのに。
 私はまた、向き合うことを避けていた。

 言われるまま唇の力を緩めてみたら、喉まで緩んでしまったみたいだった。

「話、したい」
「え?」
「……話、してもいいかな」

 私は朝香を見上げ、ぽつりと訊ねる。

「もちろん。……あ、場所変えよっか。体育館行く?」
 朝香はちらりと周りを見て言った。
「……うん。助かる」
 私たちは食べかけのお弁当を持って教室を出た。

 昼休みの体育館はがらんとしていて、私たちはふたりで舞台に足を投げ出して並んで座った。
 食べかけのお弁当を食べながら、私はなかなか言い出せなくて、口を開いては閉じて、喉からせり上がってくるものをご飯で無理やり流し込んでを繰り返した。

 朝香はそんな私を急かすようなことはせず、ひとりごとともとれる何気ない話をしながら、パンをかじっていた。

 お弁当を食べ終えると、朝香は転がっていたバスケットボールを手に取り、ボール遊びを始めた。私は舞台に座ったまま、ぼんやりとそれを眺める。

 ダンダン、とバスケットボールが弾む音だけが響く体育館。
 私はようやく、ぽつぽつと事故のことを話し出した。
「……私が二年前のフェリー事故の被害者だってことは知ってると思うんだけど」
 朝香は一瞬驚いた顔をして私を見たあと、小さく「うん」と頷いた。

「あの事故のあとから、私……夜ぜんぜん眠れなくなって。夜っていうか、まぁ昼間でも眠れないんだけど。いつも夢を見るんだ。傾いていくフェリーを滑り落ちながら、親友が助けてって手を伸ばしてくる夢。でもね、夢の中でも私は一度もその子を助けられたことがないんだ」

 一度言葉を止めると、朝香は今にも泣きそうな顔をして私を見つめていた。

「あ……ごめんね、こんな重い話。やっぱりやめようか」
 慌てて言うと、朝香は潤んだ瞳をまっすぐ私に向けて、首を横に振った。

「ううん、続けて。……さっきは話したくなったらでいいって言ったけど、やっぱり聞きたい」
「……うん」

 頷いて、再び口を開く。

「……事故のあと、みんなよそよそしくなったんだ。お母さんもお父さんも、友達も。仕方ないよね。私以外みんな死んじゃってるんだし。同じフェリーに乗ってた私にも、どう接していいか分からなかったんだと思う。でもね、その窺うような視線がいやで、話すことをやめたんだ。私が話しかけに行くと、みんな笑顔を引き攣らせるから……そういう顔を見たくなくて」

 だからもう、ひとりでいいやって諦めた。

 これは罰。私だけ生き残ってしまった罰。親友を助けられなかった罰なのだとじぶんに言い聞かせた。

「……私、この前死のうとしたんだ」
「え……?」
 朝香が息を呑む音がした。

「親友の命日の日、その子のお母さんに、あなたが死ねばよかったのにって言われて、私は生きてちゃいけないんだって気付いた。……ううん。本当は最初から気付いてた。でも、気付かないふりをしてたの。だけど、気付かないふりをするのももう限界で」

 八月九日。私は、じぶんで人生を終わらせようとした。
 だけど。その日、私は運命に出会った。
 耳の奥で、あの日聴いたお囃子の音が響く。

「……だけど、死のうとした日にね、ある男の子に出会ったんだ」
「男の子?」
「うん。その子も大切な人を失っていてね。泣きながら、私にそばにいてって言ってくれたの。私がずっと言いたくて言えなかった言葉を、その子が代わりに言ってくれたんだ」

 朝香は柔らかい顔で私を見つめてくれていた。

「それでね、あとでその子に言われたの。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは分からないよって。いくら仲のいい友達でも、ましてや家族だって、心の中までは分からない。だから、ちゃんと話さないとダメだよって」

 顔を上げて、朝香を見る。
 もう友達なんていらないと思っていた。

 でも、綺瀬くんと出会って、だれかと向き合うことの大切さを教えてもらって。本当はじぶんが、なによりそういう存在を求めていたことに気付いた。

「……私ね、これからも朝香にいろいろ気を遣わせちゃうと思う。迷惑もかけるだろうし……喧嘩もするかも。でも、それでも私、朝香が好き。朝香の笑い声も、朝香とのおしゃべりも大好き。……だから、これからも友達でいたい」

 見ると、朝香は静かに涙を流していた。思わずぎょっとする。

「えっ……あ、あの」
 どうしよう、とおろおろしていると、朝香がガバッと私に抱きついてきた。
「!」
「水波っ! 話してくれてありがとう……」
 朝香は私を抱き締めたまま、私に言う。
「今まで辛かったね。よく頑張ったね」と、朝香は私の背中を撫でながら何度もそう言ってくれた。
 朝香のセリフに感極まって泣き出した私を、朝香はさらにぎゅっと抱き締めた。
「私、決めたよ。一生水波と一緒にいる」
「え……?」
「私、一生水波と一緒にいる」

 朝香は私の肩を掴み、まっすぐに私を見つめて言った。

「水波はこれまで、ひとりぼっちで寂しかったんでしょ? 事故の前はその子がいたけど、事故で失って……ううん。きっと水波、自分のせいでその子が死んだって思ってるんだよね。だからそんな夢を見るんだ。親にも心配かけたくなくて言えなかったんだよね。……でも、その男の子に言ったら楽になったんでしょ? 状況が少し変わったんでしょ? なら、私もその役やるよ」

 掴まれた肩がちょっと痛い。朝香が決意が伝わるようだった。
「私はその男の子みたいにいいこととかアドバイスとかは言えないけど……一緒にいることならできる。水波がひとりぼっちにならないようにすることだけはできる。あの事故は水波のせいなんかじゃないって、何回だって言ってあげる。だから、今のは決意表明だよ」
「朝香……」
「……ふふ。私、その男の子にお礼が言いたいな」
「え?」
「だって、その子がいなかったら私、水波とこうやって話せてなかったよ。友達にもなれてかった。とにかく、水波が生きててくれてよかった」

 朝香の頬をつたう透き通った涙を見て、私は頷く。

「私も、あの日死ななくてよかった。朝香とこうして友達になれてよかった。ありがとう……」
「もうっ! 泣くなー!」
 朝香は私以上にぽとぽと涙を落としながら、昼休みが終わるまでずっと抱き締めてくれていた。

 綺瀬くん。綺瀬くん。綺瀬くん。
 心の中で綺瀬くん、と何度も彼の名前を叫ぶ。
 綺瀬くんの言う通りだったよ。話してみなきゃ、分からないんだね。話して救われることもあるんだね。ぜんぶ、綺瀬くんのおかげだよ。ありがとう。

 会いたいな。公園にいるかな。いますように。

 祈りながら、私は石段を駆け上がる。
 山の上にある神社の、さらに上。街が見渡せる広場のベンチ。
 そこに、綺瀬くんはいた。
「綺瀬くんっ!」

 石段を登り切る前に綺瀬くんの姿が見えて、私は綺瀬くんの名前を呼びながら石段を駆け上がった。

「水波! 久しぶり」
 綺瀬くんは、私を見るとにっこりと笑う。
「綺瀬くん!」
 一週間ぶりに会った綺瀬くんはやっぱり夏と切り離されたように涼しげで、少し現実離れしている。
 私は目が合うなり駆け出し、勢いよく綺瀬くんに抱き着いた。
「わっ……ど、どうしたの水波」

 綺瀬くんは戸惑いながらも私を優しく受け止める。
「会いたかった……」
 ぎゅうっと抱きつくと、綺瀬くんは優しく抱き締め返してくれる。
「ん。俺も」

 あたたかい。あたたかくて、涙が出そう。

 しばらくすると、綺瀬くんは身体を離して私の顔を覗き込んだ。
「……なんかあった?」
「うん」
 私は綺瀬くんの胸に顔を押し付けたまま、
「お母さんとお父さんとちゃんと話せたよ」
「うん」
「ふたりとも、すごくすごく私のこと考えてくれてた」
「そっか」
「夜の外出は八時までって言われたけど」
「……うん、まぁ、そうだよね。それがいい。危ないから」
「えー」
「ふふ」
 綺瀬くんが苦笑する。そこはもっと落ち込んでほしかった。
「それで?」
「……それからね、友達ができたよ」
「えっ?」
 顔を上げてはにかみながら言うと、綺瀬くんはきょとんとした。
「向き合うの怖かったけど……でも向き合ってよかった。友達になりたいって言えてよかった」

 綺瀬くんの顔に、じわじわと笑みが広がっていく。

「……そっか。なんだ、そっか……。よかった」と、綺瀬くんは柔らかく笑った。
「良かったね」
「うん。ぜんぶ綺瀬くんのおかげだよ」
「そんなことないよ。水波が勇気出したからだよ」
 じんわりと心があたたまっていく。
「ねぇ、手繋いでくれる?」
「ん」

 綺瀬くんが手を差し出す。その手を取って、ベンチに並んで座る。街並みを見下ろしながら、私たちは何気ない話をする。

「あ、そうだ、これ。綺瀬くんにお礼しようと思って、うちの名物のプリンあんまん買ってきた。あげる」
 カバンから、朝香お気に入りの購買パンを出すと、綺瀬くんの瞳が輝いた。

「ちょうどお腹減ってたんだ。ありがとう」
「美味しくないから覚悟してね」
「えっ、美味しくないの?」

 ぽーんと目を丸くした綺瀬くんの顔がおかしくて、つい笑ってしまった。「冗談だよ」と付け足すと、綺瀬くんは拍子抜けしたように微笑んだ。
「じゃあ、半分こね。水波ほっそいからちゃんと食べろよ」
「えーでも、これでカロリー取るのはなぁ。どうせならドーナツとか」
「文句を言うんじゃありません」
「ハイ」

 プリンあんまんの片割れを綺瀬くんから受け取ると、同時に訊かれた。
「学校は楽しい?」

 綺瀬くんはプリンあんまんを咥えながら、優しい眼差しで私を見た。

「うん。楽しい。あのね、もうすぐ文化祭なんだ。朝香から、今年は一緒に回ろうって誘われてて……」
「おっ。それは楽しみだね」
 綺瀬くんはいつもよりのんびりとした声で言った。
「いいなぁ。文化祭かぁ……」
 綺瀬くんは、どこか遠い目をして呟いた。
「綺瀬くんは、文化祭出たことある?」
「うん、あるよ」

 まるで用意しておいた答えのように綺瀬くんはそう言った。

「文化祭は高校生限定のイベントだからね。絶対サボっちゃダメだからね?」
「……うん。あのさ……」

 綺瀬くんは、どこの学校に行っているの? 何年生?
 聞きたいけれど、聞いたら答えてくれるのだろうか。もしも言いたくないことだったら、迷惑になる。

 ……それに、なんでだろう、聞くのが少しだけ怖い。

 ざわ、と風が吹いた。綺瀬くんのにおいと、秋の気配。どこか懐かしさを感じる横顔。

 でも、なぜ?

 綺瀬くんとは会ったばかりなのに。懐かしいと感じるほど、よく知らないはずなのに。

 心がざわつく。
 突然黙り込んだ私を、綺瀬くんが覗き込んでくる。
「どうした?」
 静かに首を振る。
「……ううん。なんでもない」
 心の戸惑いを誤魔化すように曖昧に微笑み、私はプリンあんまんをかじった。


 それから半月後。数日後には衣替えとは思えないほど濃い陽の下、文化祭は開幕した。

 文化祭は、私の想像を遥かに越えていた。

 私たちの出し物である巫女カフェは、教室を使用しており、パーテーションで半分に区切り、半分をカフェ風に、もう半分はスタッフルームだ。

 接客担当はおそろいで作った紅白の巫女風の衣装を着て、その他の生徒たちはこれまたおそろいで作ったクラスティーシャツを着る。

 私たちのクラスの出し物は、二年の中でもかなり大盛況なようだった。

 提供するのは、缶ジュースと事前に焼いておいたカップケーキ。

 調理系のものは許可を取ることが難しいらしく、普通科はそう簡単に提供することはできないため、簡単なカップケーキを販売することになったのだ。
 その代わりラッピングに少しこだわり、和風の千鳥柄や市松模様で、紙も和紙風の手触りのものにした。

 目にも可愛い、そして美味しいがウチの売り……らしい。

 宣伝担当となった私は、制服のスカートはそのままにクラスティーシャツを着て、手作り感満載のダンボール製のプラカードを持って構内を歩いていた。

 構内は、遊園地になったのではと錯覚するほど賑やかで、あちこちから華やかな声が聞こえてくる。

 薄ぼやけていたはずの教室や廊下が、今はカラフルに色付いている。

 赤色や黄色のペンキで丁寧にダンボールに塗られた文字。七色の風船。わいわいと楽しげなさざめき声も、それぞれの色をまとって学校を彩っている。

 小学校の運動会に少し雰囲気が似ている、と思った。

 しばらく構内を練り歩いていると、
「水波ちゃん、宣伝お疲れ様! 交代するね!」
 と、ピンク色のぽんぽんを持ったクラスメイトが、私に声をかけながら駆け寄ってきた。

 背が低くて、ふわふわとしたくせ毛がどことなくうさぎを思わせる、愛くるしい、という表現がぴったりな子だった。
 名前はたしか、松本(まつもと)歩果(あゆか)ちゃんだ。
「あ、うん。お願いします」

 プラカードを渡そうとすると、歩果ちゃんはぽんぽんを片手で持とうとする。しかし、手が小さいせいでぽとりと落としてしまった。

「わわっ」
「大丈夫?」
「うん、ご、ごめんね」

 歩果ちゃんは生徒や来場者が激しく往来するなかでぽんぽんを落としたことが恥ずかしかったのか、頬を赤くしながら慌てて拾う。
 そんなに慌てなくても、と思いながら私はその様子を微笑ましく見守った。

 そのあとも、歩果ちゃんは何度かわたわたと、拾っては落としてを繰り返していた。見兼ねた私は、控えめに口を開く。

「……よかったら、それ持ってようか?」
「えっ? あっ、ありがとう」

 歩果ちゃんからぽんぽんを受け取り、プラカードを渡す。

「それで、これはどこに持っていけばいい――」

 じっと視線を感じて歩果ちゃんを見ると、はたと目が合った。首を傾げる。

「……歩果ちゃん?」
 歩果ちゃんはハッと我に返ったように、早口で言った。

「あっ……ごめんね! 水波ちゃんって、本当に綺麗な顔してるなって思ってつい魅入っちゃった」
「えっ……!?」
 突然!?
「ぽんぽんすごく似合うね……」
 歩果ちゃんは、ぽ〜っとした顔をして私を見つめている。
「えっと……ありがとう?」

 お礼を言うのが正しいのか分からないけれど、とりあえず言っておく。

 ……歩果ちゃんとはほとんど話したことないけど、そういえばクラスでよく天然だと言われている子だった。と、そこまで思って、彼女がひとりでいることに気付き、首を傾げる。

 いつもなら、彼女のそばには必ず花野(はなの)琴音(ことね)ちゃんという親友がいる。歩果ちゃんとは正反対の、背が高くてサバサバした感じの子だ。

「そういえば、今日は琴音ちゃんと一緒じゃないんだね」
 会話の種にと思って何気なく訊くと、歩果ちゃんが言葉に詰まった。私から目を逸らし、小さく「うん」と頷く。
 今にも消え入りそうな声に、しまったと思う。聞いてはいけないことだったかもしれない。

 微妙な空気になってしまって、私は一歩後退った。

「……あ、えっと……じゃあ」
 しれっと踵を返して歩き出す。すると、制服の裾を掴まれた。

「――?」

 振り返ると、歩果ちゃんが控えめに私のティーシャツを掴んでいる。
「歩果ちゃん?」
「あの……水波ちゃん。もうちょっとだけ、私と一緒にいてくれないかな?」
「え?」

 歩果ちゃんはもじもじしながら、
「私、人混みが苦手で……いつもは、琴音ちゃんが守ってくれるんだけど、今日はその……喧嘩しちゃって」と言う。

 なるほど。そういうことだったのか。

 事情を察し、私は近くの教室の時計を見る。朝香との約束の時間まではまだ少しある。

「うん、いいよ」
 頷くと、歩果ちゃんの表情がぱあっと明るくなった。

 それから、私はしばらくプラカードを持った歩果ちゃんと一緒に構内を歩いた。

 これまで歩果ちゃんとは話したことはほとんどなかったけれど、穏やかな性格の子だった。喋り方もおっとりしていて、笑うと花のように可愛い。

 正直、とてもだれかと衝突するような気の強い子には思えない。歩果ちゃんは、どうして琴音ちゃんと喧嘩してしまったのだろう。

「ねぇ、水波ちゃん」
 ちょいちょいと歩果ちゃんに袖を引かれた。

「ん?」
「あれ食べない?」
 歩果ちゃんが指で指し示したのは、校門前にある屋台。
「……牛串?」

 屋台には、大きく『牛』の文字と絵がある。

 そういえば、うちの高校は普通科のほかにいくつか専門学科がある。農業科や調理科はいつもお店顔負けの()った出し物をするので、そこがうちの売りでもあったりする。

「宣伝付き合ってくれたお礼に奢るよ」
「えっ、いいよ……って、ちょっと歩果ちゃん!」

 歩果ちゃんは私の声も聞かず、屋台へ一目散に走っていく。牛串を二本買うと、私の元へ戻ってきた。買ったうちの一本をグイッと私に差し出し、微笑む。

「はいっ!」
 買われてしまっては、受け取らないわけにはいかない。このところ、奢ってもらう機会が増えたな、なんて思う。

「ありがとう……」
 礼を言いながら受け取ると、歩果ちゃんは嬉しそうに牛串にかじりついた。
 私も牛串にかじりつく。その瞬間、じゅわっと肉汁が口の中に広がった。

「!」

 私たちが今食べているこの子は、この日のために農業科が愛情たっぷりに育てた『ヨシヒコ』くんだという。一から育てた子牛をこうしてお肉にしてお客さんに提供までする農業科は、あらためてすごい科だと思う。

 ……気分的には、ちょっと食べづらいけど。

「美味しいね!」
「うん」

 屋台の端に寄ってふたりで牛串を食べていると、体育館前でたむろする女子の集団が目に入った。見覚えのある集団だった。

 あれは、たしか……。

 その集団は、バスケ部の子たちだった。中には琴音ちゃんの姿もある。

 すらりとした体躯に、さっぱりとしたショートカット。綺麗な二重の猫目で、長いまつ毛が瞬きのたびに揺れているのがここからでもよく分かる。

 ぱたりと目が合った。すぐに視線がわずかに逸れる。となりにいる歩果ちゃんに気付いたらしく、琴音ちゃんは驚いた顔のまま固まった。

 ちらりと歩果ちゃんを見ると、彼女もまた琴音ちゃんを見つめて、ぼんやりとしていた。琴音ちゃんはグループの子になにかを耳打ちすると、こちらへ駆け寄ってきた。

 話す気があるらしいと分かり、ホッとする。早々に仲直りできそうだ。

 しかし、
「……行こ、水波ちゃん」
「え?」

 歩果ちゃんのほうは琴音ちゃんが駆け寄ってきていることに気付いていないのか、歩き出してしまった。

「あ……歩果ちゃん! 琴音ちゃん、こっちにきてるみたいだけど、話したいことがあるんじゃないかな」

 校舎の中に入っていこうとする歩果ちゃんに、私は慌てて声をかける。

「いいから、行こっ」
「えっ、でも……」
 それでも歩果ちゃんは私の声を無視して、ずんずんと歩いていく。聞こえていないわけではないだろうに。

 仕方なく歩果ちゃんを追いかけ、校舎に入る。

 歩果ちゃんは、その後もずっとムスッとした顔をして歩いていた。口数も少ない。

 ……これはどうしたものか。

 少し喧騒が落ち着いた渡り廊下に出たところで、私は歩果ちゃんに「ねぇ」と声をかけた。

「……あのさ、歩果ちゃん。聞いてもいいかな」
「……なぁに?」
 くるりと振り向いた歩果ちゃんは、不機嫌な感じはしない。
「琴音ちゃんとどうして喧嘩しちゃったの?」

 私の問いに、歩果ちゃんは少しだけ目を泳がせた。
「言いたくなかったら言わなくてもいいんだけど、ふたりってすごく仲良しだったから、ちょっと気になって」
「……こっち、きて」
 そう言うと、歩果ちゃんは廊下の端に寄り、プラカードを手すりに立てかけた。私も歩果ちゃんのとなりに並ぶ。
 歩果ちゃんは手すりに寄りかかり、行き交う学生や父兄を見つめながら、小さな声で話し始めた。

「……今日の文化祭ね、ずっと前から琴ちゃんと一緒に回ろうねって約束してたの。でも、先週になっていきなり琴ちゃんが、別のクラスのバスケ部の子も誘っていいかなって言ってきたんだよ。私が人見知りなの、琴ちゃん知ってるのに」
「……それで、喧嘩しちゃったの?」

 歩果ちゃんはこくりと頷く。

「私、琴ちゃんとふたりで回れるってすごく楽しみにしてたんだ。昨年はべつのクラスで、スケジュールが合わなくてあんまり一緒にいられなかったから。それなのに……琴ちゃんはぜんぜんそんな気なかったみたいで……そう思ったら、なんかすごく寂しくて」

 小さな声で言いながら、歩果ちゃんは不貞腐れたように頬をふくらませた。
 元々白くてふくふくしている頬が、さらにぷくっとした。
 歩果ちゃんは続ける。

「……だから、やだって言ったの。ふたりで回る約束でしょって。……そしたら、琴ちゃん怒っちゃって…… じゃあ歩果とは回らないって。それから、話してくれなくなっちゃったんだ」

 歩果ちゃんはぎゅっと唇を引き結んで、涙をこらえている。
「……そっか」
 親友と喧嘩してしまったことを後悔し、瞳をうるませる歩果ちゃんの様子に、私は懐かしさに似た感情を覚えた。

 私も、来未といた頃はよく喧嘩をしていた。
 いつもはっきり物事を言う来未と違って、私はうじうじ悩むタイプだったから。来未の自己主張に対して、それに言い返すこともできない私は余計に来未を怒らせていた。

 でも、喧嘩をすると、いつもあの子が間に入ってくれたから、なんとか仲直りできていたのだ。
 ……あれ?
 かつての思い出を回想するうち、かすかな違和感を覚える。
 あの子って、だれだっけ……?



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