壊れた心と家族の手
ー/ー来未と仲良くなったのは、中学二年生のときだった。
昔から、私は人と馴染むことが得意ではなくて、いつもひとりでいた。
なにをやるにもどんくさくて、決して怠けているわけではないのに、先生にはいつもサボるなと怒られた。
それに対して、もちろん言い返す度胸なんて私は持っていなくて、だから私は先生から疎まれていた。先生に疎まれると、クラスでも浮く。
次第にクラスメイトたちは私に話しかけてくることをやめた。
少しづつ、少しづつ、私は名前を失くしていった。
進級して、クラス替えをした四月。
そんな春の真ん中で、私は来未と出会った。
進級してクラスが変わっても、私の立ち位置は変わっていなかった。
名前のないクラスメイト。それが、私の名前だった。
出席番号の関係でたまたま隣の席になった来未が私に声をかけてきたのは、二年生になったその日のこと。
その瞬間、教室中の空気がピリッと張り詰めたのを覚えている。
声が大きくて、空気を読まない変わり者。
授業中ですら大きな声で話しかけてきて、わたしは最初は来未のことを迷惑に思っていた。
でもあるとき、影で私の悪口を言っていたクラスメイトに、来未が言ったのだ。
『喧嘩するのはいいけどさ、悪口ってかっこ悪いよ。不満があるなら、本人に直接言えばいいじゃない。でもさ、嫌なことをなんにもされてないのにもしそういうこと言ってるなら、それはただのいじめだよ』
べつに、気にしてなかった。
教科書を破られるわけでも、靴を隠されるわけでもなかったし、ただ、無視されるだけ。だから、じぶんがいじめられてるだなんて思ってなかった。
……いや、思いたくなかったのだ。だっていじめだと理解してしまったら、学校に通うことが怖くてたまらなくなってしまうから――。
その日、私は泣いてしまった。
ずっとなにも感じないように頑丈にしてきた心が来未の叫んだひとことでヒビが入り、ぱりんと割れてダムが決壊したように感情が溢れた。
私が泣いたことでちょっとした騒ぎになり、先生も駆けつけた。先生は私を見ると、あからさまにため息をついた。
そんな先生に、来未は言った。
『今の、なに?』
『なんでため息ついたの? 先生、絶対気付いてたよね。水波が無視されてるの、気付いてて放っておいたんでしょ。それって、先生もあの子たちと一緒になって水波をいじめたってことだよね。先生って、なんなの? 正しいことを教えることが先生なんじゃないの? 先生が生徒を追い詰めてどーすんの?』
その言葉に、さらに涙が溢れた。
来未は泣きじゃくる私を抱き締めて、笑いながら言った。
『まったくバカだなぁ。こんなこと、我慢するようなことじゃないのに。……でも、今までひとりでよく頑張ったね。えらいえらい』
それが、初めて聞いた来未の『バカだなぁ』だった。
それから私たちはふたりでよく一緒にいるようになって、あっという間に仲良くなった。
学校帰り、コンビニに寄ってアイスの買い食いをはじめてした。お昼をだれかと一緒に食べるのもはじめて。休みの日に待ち合わせをしてカフェに行って、ショッピングをしたのも来未がはじめて。
はじめての友達。はじめての親友。来未は間違いなく、私のヒーローだった。
来未と仲良くなってから、私の世界は変わった。
薄汚れた灰色の世界にいた私の瞳の中に、七色のクレヨンで描いたようなきれいな虹が生まれた。
来未との思い出や来未からもらった言葉なんかがころころとした宝石や砂のように混ざっていて、私の瞳はいつの間にか、万華鏡に変わっていたのだった。
来未と一緒に見る世界は、道端に落ちたガラクタすら輝いて見えた。
来未以外のクラスメイトと話すことも増えて、無視されるということはなくなった。先生からは特に謝罪などはなかったけれど、ただ私に対してあからさまに態度を変えるということをやめた。
ぜんぶ、来未のおかげ。
『まったくバカだなぁ』
あの口癖を最後に聞いたのは、いつだったっけ。
ずっと聞けると思っていた。高校生になっても、大人になっても。あの声を、この先もずっとずっと聞けると思っていた。
それなのに、あの、旅行の日。
沖縄で予約していたフェリーで、私は来未と喧嘩してしまった。そして、仲直りする前に、あの事故が起きた。
あれ。私、あのときなんで来未と喧嘩したんだっけ……。
思い出そうとしたとき、ずきんと頭が割れるように響いた。
小さく呻き声を上げ、頭を抱える。
『水波』
来未……。
『水波』
私を呼ぶ声が、どろんと水の中に落ちていく。来未の姿は波に呑まれて見えない。ただ、海面から苦しげに大きく広げた手だけが伸びていた。
やだ、待って。行かないで。行かないでよ、来未……っ!
「……なみ、水波っ!」
大きな声で名前を呼ばれて、ハッと目が覚めた。
すぐ目の前に、お母さんの顔がある。心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「あ……お母さん」
「水波、ごめんね。うなされてたから起こしたんだけど……最近よくうなされてるみたいだけど、ちゃんと眠れてるの?」
大きく息を吐きながら、額に張り付いた前髪をかきあげる。
「……うん、大丈夫」
お母さんから目を逸らし、小さく答える。よろよろと起き上がると、背中がぐっしょりと汗で濡れていた。気持ち悪い。
「でも水波……」
「大丈夫だから。着替えるから、出てって」
お母さんの言葉を遮るように言うと、お母さんは困ったように口を噤んで、部屋を出ていった。
お母さんが出ていった扉を見つめて、もう一度ため息をつく。
お母さんとお父さんの寝室は、私の部屋のとなりだ。そこまでうなされていた声が聞こえていたのだろうか。気をつけなくちゃ、と思いながら、もう一度息を吐いた。
時計を見ると、深夜の二時。
起きるには早すぎる時間だけれど、もう一度眠る気にはなれなかった。とはいえどうやって暇を潰そう。
汗のせいで肌寒さを感じたとき、ふと彼の顔が浮かんだ。
彼は今、どうしているだろう。
会いたい。
思ったら、もう止められない。ティーシャツとジーンズに着替えて、足音を立てないように階段を降りる。
一階に降りるとリビングに灯りがついていた。キッチンを覗くと、お母さんがいた。目が合い、しまったと思う。
「あ、水波。今ホットミルク作ってるから……って、その格好外着じゃない」
引き止められる前に、と、急いで玄関に向かう。
「ちょっとどこに行くの! こんな時間に……」
「……ちょっと、散歩」
「ダメよ、今何時だと思ってるの! 危ないでしょう!」
強く腕を掴まれ、私はその手を力任せに振り払った。
「放してよ!」
「水波!」
「夜だからなに!? 私はただ、勝手に人の部屋に入ってくるような人がいるこの家にいたくないの!」
お母さんがハッとした顔をする。
「ごめんなさい……でも、落ち着いて水波」
「落ち着いてって、なに」
「怖い夢を見たなら、明日先生にそのことを言おう。きっと良くなるお薬もらえるから。不安なら、お母さんも一緒についてくから」
「うるさい! 薬なんていらない! そういうことじゃないの!」
「水波……」
「結局、お母さんには私の気持ちなんて分からないんだよね。……お願いだから、放っておいて」
無表情で告げると、お母さんが泣きそうな顔をした。
「……水波」
あの日、事故で頭に傷を負った私は、病院で目を覚ました。
なんで、私は生きているのだろう。
私はひとりだった。
なんで、だれもいないのだろう。
『大変だったね。今はとにかく、ゆっくり休みなさい』
ねぇ、来未は? ほかのみんなは?
『とにかく、水波が無事でよかったわ』
ここはどこ?
『もう大丈夫だからね』
だれか、だれか教えてよ。
だれも答えてくれない。だれも、本当のことを私に言わない。
だから私は、来未の葬儀にすら行っていない。来未の最期を見ていないし、来未とちゃんとしたお別れをしていない。
「……お母さんの顔なんか、見たくない」
そう言い捨てた瞬間、お母さんの顔がガラスにヒビが入るようにピキッと強ばったのが分かった。
私はこれ以上お母さんの傷付いた顔を見るのが怖くて、家を飛び出した。
***
ふらふらと、夜の街を歩く。
空に輝く満天の星は、カーブミラーやビルの窓ガラスの枠の中に落ちていて、きらきらと私のゆく道を照らしてくれている。
どこからか、夜色の蝶がひらひらと飛んできた。まるで私に寄り添うように近くを飛び続ける。
「君もひとり?」
言葉を持たない蝶に話しかけながら、静謐な空気を裂くように歩く。
街灯がチカチカと頼りなく揺れている。
八月の夜風はなまあたたかく、私の肌にねっとりとまとわりつく。
しばらく歩いていると、突然暗闇が薄れたような気がした。顔を上げると、ゆらゆらと赤色の提灯が揺れている。
あの場所だ。
石段を登り、神社を抜けて、また石段を登る。
登りながら、ぼんやりと考える。
私はどうして、あそこに向かってるんだろう。
こんな真夜中に、いるわけないのに。
じんわりと汗をかいてきた。ティーシャツが肌に張り付き、息が切れる。それでも、心は一心に彼の名前を呼んでいた。
会いたい。綺瀬くんに、会いたい。
もう心が限界だった。
「綺瀬くん……!」
頂上が見え始める頃にはもう、走っていた。石段を駆け上がり、広場に出てベンチを見る。
いた!
そっとそばにいくと、綺瀬くんは小さく寝息を立てて眠っていた。その寝顔に、わけもなく泣きそうになる。
起こさないようにとなりに座って、息をする。
ねぇ、あなたは何者なの? こんな時間になにしてるの? 家は?
そっと手を握ると、その手はやはりひんやりとしていた。凍えそうなほど冷たい手のひらを、私は優しく両手で包む。
……と。
「……ん……あ、あれ?」
綺瀬くんが目を開ける。となりに私がいることに気付くと、ぎょっとした顔をする。
「えっ!? なに!? なんで水波がいるの!?」
「……あ、ごめんね、起こして。なんかちょっと、会いたくなっちゃって……」
沈んだ声を出した私を、綺瀬くんは静かに見つめて微笑んだ。
「……ん、そっか。俺もひとりで寂しかったから、来てくれて嬉しい」
そう言って綺瀬くんは私の手を握り返してくれた。たったそれだけのことがすごく嬉しい。
「手、冷たいね」
「……うん、ちょっと寒いんだ」
綺瀬くんは、会うたび寒いという。寒いというのは、彼の口癖なのかもしれない。
だって、今は真夏だ。夜とはいえ、体感的にはものすごく暑い。
なら、なにが寒いのだろう。心のことだろうか。分からない。分かりたい。でも、その一歩を踏み込むのが怖かった。
「……私もね、眠いんだ。でも眠れなくて」
「そっか。じゃあ一緒に寝よう」
綺瀬くんは当たり前のように私にもたれかかって目を閉じた。私も目を閉じる。
まだ数回しか会っていないというのに、この安心感はなんなのだろう。
触れ合った手から伝わるぬくもりがあたたかくて、優しくて、ぎゅっと目を閉じると涙が流れる。
……あたたかい。
声を殺してすすり泣く私に、綺瀬くんはなにも言わなかった。ただ静かに寝たふりをして、寄り添ってくれていた。
次に目が覚めたとき、綺瀬くんはいなくなっていた。でも、ベンチにはまだ綺瀬くんの香りが残っていて、ついさっきまでそこにいてくれてたんだな、と心があたたかくなった。
***
夏休みが明け、学校が始まった。
私は、家から徒歩十数分のところにある県立南ヶ丘高校、通称南高という高校に通っている。
最近、老朽化がひどくて校舎を建て替えるという話が出ているくらい古い歴史のある学校だ。
高校での私は、来未と出会う前の私だ。だれとも喋らず、ただ机に向かってノートとにらめっこして、街をふらふらして時間を潰してから帰る。
学校のだれも、私に話しかけてこない。空気のように扱う。けれど、中学のときのような、変に気を遣われる空気よりは今のほうが幾分マシだった。
私はもう、友達を作る気はない。どうせ卒業したら疎遠になるのだし、そもそも人と関わるのは面倒だ。
……それに、あんな思いをするのはもういやだから。
バッグから文庫本を取り出し、開いたときだった。
「榛名さん、おはよう!」
突然挨拶され、顔を上げると女の子が立っていた。長い黒髪の毛先は丁寧に切りそろえられていて、前髪もいわゆるパッツン前髪。
目鼻立ちがはっきりした女の子だ。
「……おはよう」
挨拶を返しながらも、内心戸惑う。だれだっけ。クラスメイトなのは分かるが、名前が分からない。彼女は私の前の席に座ると、くるりとこちらを向いて話しかけてきた。
「榛名さん、夏休みはどこか行った?」
「……ううん、特には」
「そっか」
「…………」
「…………」
しばらくお互い無言だった。女の子は気まずそうに瞬きをしながら視線を泳がせている。
まったく、用がないなら私なんかに話しかけてこなければいいのに、と思う。
「あっ、そうだ!」
ふと、思い出したようにカバンを漁り出した。
「あのね、榛名さん。これ、あげる」
と、女の子は、私に手のひらサイズのウサギのぬいぐるみを差し出した。
「え……?」
戸惑いがちに女の子を見る。
すると女の子はちょっと恥ずかしそうに頬を紅潮させながら、落ち着かない様子で私を見ている。私はぬいぐるみに視線を落とした。
渡されたぬいぐるみは、仮面舞踏会のようなゴージャスな仮面を付けていて、
「可愛い」
そう。可愛かった。
「微妙にキモいけど」
呟くと、彼女はパッと表情を明るくした。
「ほんと!? これね、ご当地ぬいぐるみなんだ。お盆に実家に帰ったときにたまたま見つけたんだけど、なんとなく榛名さんに似てて、可愛いなって思って」
「……え、私に似てるの?」
今私、キモかわいいって言ったんだけど。じっとぬいぐるみを見つめていると、女の子が慌て出す。
「あ、へ、へんな意味じゃないよ!? ただ、可愛いなって。ほら、おそろい」と、女の子は自分のカバンを見せてきた。そこには私にくれたものと同じ仮面をつけたネコバージョンのぬいぐるみキーホルダーがある。
「……ありがとう」
ぬいぐるみを見つめ、考える。彼女はどうして、私にこれをくれたのだろう。友達でもなんでもないのに。私なんて、あなたの名前も知らないのに。
「夏休み明けちゃってちょっとダルいけど、今月は文化祭だし楽しみだよね! これからまたよろしくね!」
「うん……」
無邪気な笑顔を向けてくる女の子に、私は目を細める。眩しく感じた。まるで太陽のようだ、と思う。
ちらりと覗いた教科書から、志田朝香という名前が見えた。
志田さんというのか。
ほんの少し、声が来未に似ている気がする。
「……よろしく」
志田さんがからりと笑う。
その笑顔が来未の笑顔とダブったのか、私の心は妙に胸がざわついていた。
その日の放課後、私は綺瀬くんに会いに行った。
帰り道に駅前に新しくできたドーナツ屋さんで買ってきたドーナツを食べながら、私は学校でのできごとを綺瀬くんに話した。
今朝、突然とあるクラスメイトに話しかけられたこと。それからその子にぬいぐるみをもらったこと。あまりに突然のことで、彼女の意図が分からない、といった相談だった。
ドーナツをもぐもぐしながら話を聞いていた綺瀬くんは、ごくんと喉を鳴らしてドーナツを飲み込むと、小さく笑った。
「それはもちろん、水波と仲良くしたいからじゃない?」
「でも私、同じクラスっていっても志田さんとぜんぜん話したことないし、友達になりたいなんて思ってもらえるようななにかをした記憶もないよ」
「そんなこと関係ないよ。その子はただ、この子可愛いな、友達になりたいなって思っただけじゃない?」
「か、可愛い?」
「え、うん。可愛いよ、水波は」
ぼぼっと顔が熱くなるのを感じた。綺瀬くんはときどき、唐突にそういう言葉を吐くので反応に困る。
「そ、そんなことないから……」
ない。まず有り得ない。学校での私はぜんぜん愛想なんてよくないし、話しかけるなオーラ全開だし。
……でも。
「友達……か」
ちらりと綺瀬くんを見る。
もし、友達を作るのなら、まずは綺瀬くんとそういう関係になりたいと思う。というか、今の私たちの関係ってなんなのだろう。
友達じゃないし、恋人でもない。ということは、お互いの傷を癒すためのただの手繋ぎ要員、といったところだろうか。
私たちはお互い孤独で、それぞれ胸にぽっかりと空いた穴を埋めるためだけに一緒にいる。
「ん?」
私の視線に気付いた綺瀬くんがこちらを見る。カチッと目が合って、私は思わずばっと顔ごと逸らした。
「……どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
訝しげに訊ねてくる綺瀬くんに笑みを返すと、綺瀬くんはなぜだかムッとした顔をした。
「まったく。水波はいつもそうやって言葉を飲み込む。それ、あんまりよくないよ。飲み込んだ言葉は消えない。埃みたいにどんどん積もっていく」
そしていつか、じぶんで溜め込んだ言葉に窒息するんだ、と綺瀬くんは言った。
「俺には我慢しなくていいんだよ」
……我慢。
私はなにを我慢しているのだろう。それすら今はよく分からないけれど……。
でも、疑問はある。
「……綺瀬くんは、どうして私のそばにいてくれるの?」
見ず知らずの私に、なんの関係もない私に、どうしてここまでしてくれるの? ただ優しいだけ? ううん、そんなはずはない。きっと、なにかあるのだ。
たとえばそう……私が、綺瀬くんの大切だった人に似ているとか。
少し早口で訊ねると、綺瀬くんは茜色の空を見上げた。
「なんで、かぁ。うーん…… なんていうか、放っておけないから? 放っておきたくないっていうか、気になるっていうか」
「気になる?」
「簡単に言うと、よく思われたいから?」
綺瀬くんは燃え盛る夕焼けから視線を流し、私を見た。赤い陽が、その横顔を神聖な彫刻のように浮かび上がらせている。
「それって……私のこと、好きってこと?」
「直球だな」と綺瀬くんは苦笑する。
「でもまぁ、そういうこと……かな?」
珍しく私から視線を逸らす綺瀬くんをまじまじと見つめる。さっきより、顔が赤い気がするのは気のせいだろうか。
「……もしかして綺瀬くん、照れてる?」
「ちょっと黙んなさいって」
「わっ」
頭を掴まれ、ぐりんと無理やり回されてしまった。少し雑な触れ方のあと、すぐに優しく頭に手が置かれて、顔が熱くなる。
「だって、そうじゃなきゃふつう手なんて握らないでしょ。ましてや一緒に眠るなんて絶対しないから」
「……でも初対面だったし、しかも私死のうとしてたんだよ?」
そもそも綺瀬くんには好きな人がいるはずだ。ずっと忘れられなくて、心にぽっかりと穴が空いてしまうくらい愛している人が。
いつの間にか、綺瀬くんは私を見つめていた。澄んだ瞳と目が合う。
「……面影が、重なったから」
綺瀬くんの大切な人と、ということだろうか。
「今の俺は、どうやったって彼女に手は届かない。いや、手を伸ばしちゃいけないんだ」
「……じゃあ、私はその人の代わりってこと?」
聞いてから後悔した。そうだよ、と言われたらどうしよう。答えを聞きたくなくて、思わず俯いた。
「違うよ。君は君だ。だれの代わりでもない」
しんとした声で、綺瀬くんが否定した。顔を上げ、綺瀬くんを見る。
「……いつも思うんだ。思い出だけで、生きていければいいのになって」
少しだけ、綺瀬くんの声が潤んでいるような気がした。
「いや、生きていけるって思ってた。ずっと、あの子との思い出があれば、もうなにもいらないと思ってた。でも、いつの間にか、君との思い出をほしがってるじぶんがいる。勝手だよな、心って」
「綺瀬くん……」
「どうしようもなく、君に会いたくなる夜がある。寂しくて、怖くて泣き叫びたい夜でも、君の声を聞くと心が凪ぐ。すごく、ホッとするんだ」
ひどく切ない声に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
綺瀬くんが自嘲気味に笑う。
その気持ちは、私にも分かる。
だって、私だって今日までは友達なんていらないと思っていた。
それなのに、ただの一度クラスメイトに話しかけられただけで、来未との学生生活を思い出してしまった。どうしようもなく懐かしくて、またあの頃のような毎日を、と焦がれてしまった。
「……私もそうだよ。私も、綺瀬くんと同じ」
私たちはきっと、死んだ人を思い続けて、それだけで生きていけるほど強くない。弱くて脆くて、不完全な人間だから、どうしたって目先のぬくもりに手を伸ばしてしまう。
綺瀬くんの気持ちは、痛いほどよく分かる。
「……私も、綺瀬くんを来未の代わりだなんて思ってない。でも、そばにいたい」
きっと、そういうことだ。
呟くように言って綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは一瞬驚いたように私を見て、あの日私が越えた転落防止用の柵へ視線を流した。
「……あの日、あの柵の向こう側に立つ水波を見たとき、怖くて怖くてたまらなかった。どうにかして繋ぎ止めたいって思ったんだ」
綺瀬くんは顔を上に向けて空を見上げた。
その面差しは、大切な人を思っているときのそれだった。助けられなかったその人を思い出しているのかもしれない。
「ねぇ水波。俺はね、君に今日そのぬいぐるみをくれた子の気持ちがすごくよく分かるんだ。その子はただ、君と仲良くなりたいんだ。君をもっと知りたいんだ。そのきっかけが、このウサギのぬいぐるみだったんだと思う」
綺瀬くんは私の膝の上にちょんと座るぬいぐるみを見て、優しく微笑んだ。
「思いっていうのは、共鳴するのかもしれないね。俺も、水波ともっと仲良くなりたい」
「綺瀬くん……」
まっすぐな思いに、胸がじんわりとあたたまっていく。
こんな感情は知らない。
……いや、知っている。
久しくなかったけれど、来未が話しかけてきたとき、私はたしかにこのあたたかさを知った。そして今日、彼女の笑みにも同じ感情を抱いた。
「水波は?」
綺瀬くんは優しい眼差しで、ゆっくりと瞬きをする。
「……私も、綺瀬くんともっと仲良くなりたい」
すると、綺瀬くんは嬉しそうに表情を綻ばせた。私も思いを受け止めてもらえて嬉しいはずなのに、うまく笑えない。泣き笑いのようになってしまう。
綺瀬くんはそんな私の頭をよしよしと撫でてくれる。おかげで私は少しづつ落ち着いていく。
「まったく、水波は泣き虫だな」
まるで、ずっと前から知っているみたいにそばにいるのが当たり前のような気がする。
「ふだんは我慢してるもん」
「俺の前だけ?」
涙を拭いながら頷く。すると、綺瀬くんは嬉しそうにはにかんだ。
「じゃあ、その子はどうかな?」
「え?」
「その子と向き合える気はする?」
黙り込んで考えて、首を横に振る。
「……分からない。学校の子は、みんな私があの事故の被害者だって知ってるから、どこか気を遣って遠ざけてる気がするし、そうすると私も身構えちゃう。不幸な子でいなきゃいけないんだって思っちゃう」
私は可哀想だから、人殺しだから、笑っちゃいけない。みんなのように楽しそうにしてはいけないのだとみんなの視線に言われている気がして、息が苦しくなる。
「本当にそうなのかな?」
「え?」
「たしかに、中には水波に話しかけづらいなって思ってる人もいるかもしれない。けど、みんながみんなそうじゃないんじゃないかな」
「そんなことない! だって、お母さんですら私を見ようとしてくれない」
言ってから、私はハッと口を噤む。
「……ごめん」
綺瀬くんは優しく微笑んで、私を促した。
「いいよ。我慢しないで、言ってみて」
「…………っ」
綺瀬くんの優し過ぎる声が、トリガーだった。
心の器にこびりついたようにたまっていたものが、ぽろぽろととめどなく零れ出す。
「……事故のあとから、家族すら私に遠慮するようになった」
「うん」
「お母さん、今までみたいな小言を一切言わなくなったんだ。まるで親戚の子を相手するみたいに遠慮するようになった」
泣くとすぐに病院に行こうと言われるようになった。うなされていると、病人扱いされるようになった。
「事故の後、私はきっともうあの人の子供じゃなくなったんだよ。娘と同じ顔をしただけの事故の被害者っていう赤の他人になったんだ」
だから、どこかよそよそしい。
私は、お母さんが私の見えないところで、大きなため息をついていることを知っている。泣いていることを知っている。
きっと私は、死んでいたほうがお母さんもお父さんも楽だった。
仏壇の前で嘆くだけなら、きっと今より心の負担はなかっただろう。
言い終わって黙り込んだ私を、綺瀬くんが優しく抱き締めた。
「……バカだなぁ。そんなこと思うわけないって、分かってるくせに」
「でも……っ」
綺瀬くんは優しく私の背中を撫でながら、
「前に言ったでしょ。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも」
綺瀬くんは少し身体を離し、私と視線を合わせて「大丈夫」と優しく微笑んだ。
「ふたりはきっと、どうしたら水波が笑ってくれるかを考えてるんだ。ただただずっと、可愛い水波のことを考えてるんだよ」
「……そんなことない。お母さんもお父さんも、きっともう私を面倒としか思ってない」
あれから私は、ずっと嫌な子供のまま。この前だって、酷い言葉を言ってしまった。
「そんなの、思春期の子供を持つ親ならちゃんと分かってるよ」
綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて微笑んだ。
「あのね、水波。親だって、人間なんだ。分からないことだってあるよ。娘のことをいくら思ってても、空回りして間違えることだってあるんだ」
俺の親もそうだった、と綺瀬くんは言う。
「綺瀬くんの?」
「俺のお母さんもふだんは優しい人なんだけどね……」
そう言って、綺瀬くんは目を伏せた。目を開け、私を見る。
「親は、子供のためならなんだってするんだ。……時には、間違ったことだって」
綺瀬くんがするりと私の手をとった。そのぬくもりにハッとする。
「俺たちは大切な人を失って、恐ろしい孤独を味わってる。命の儚さを人よりずっとよく分かっているだろ?」
綺瀬くんに優しく問われ、頷く。すると、綺瀬くんがにこりと微笑む。
「たらればを考えたってなんにもならない。そんな暇があるなら、今生きてる人たちと向き合うんだ。言葉は、生きているうちしか伝えられないんだから」
あの日、もしあのフェリーに乗っていなければ。
あの日、もし旅行になんて行っていなければ。
……喧嘩なんてしていなかったら。
あの日からずっと、もしものことばかり想像した。祈った。
でも、どれだけ悔やんでも、過去が変わることはない。死んだ人は戻ってこない。今さら来未の気持ちを聞くことはできないのだ。
……だけど、今は変えられる。
「俺たちは、未来に後悔を持ち込まないようにできるだけじぶんで努力するしかないんだ」
涙ぐみながら、綺瀬くんを見上げる。唇から、声とも言えない吐息が漏れる。
「大丈夫。水波はひとりぼっちなんかじゃないよ」
綺瀬くんが優しい言葉をくれるたび、私の心は灯火が灯るようにあたたかくなっていく。
「……お母さんと、話してみる。それから、志田さんとも」
すると、綺瀬くんはなにやら考え込む仕草をした。
「……あ、でもね、ひとつだけ忠告」
「ん?」
「友達については、最大限努力してダメだったなら、仲良くしなくていいと思う」
「えっ?」
なんだそれ、と綺瀬くんを見る。せっかく頑張る気になったのに。
「世の中にはたくさん人がいる。その中で、合わない人がいるのは当然だよ。一回親しくなったからって、ずっと友達でいなきゃいけないわけじゃない。無理に自分を殺して合わせる必要なんてないんだ。合わない人たちとは、無理に付き合わなくていい。いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。だからさ、それまで、どうか諦めないで。……大丈夫。俺はいつだって、水波の味方だよ」
「……うん」
どうして、この人はこんなにも私が欲しい言葉をくれるのだろう。
まるで、会ったばかりのはずなのに、ずっと前から知っているみたいだ。
綺瀬くんの言う運命の子というのが、今目の前にいる彼自身だったらいいのに、と思う。
だって、綺瀬くんがとなりにいてくれるだけで、私はこんなにも心が安らぐ。飾らないじぶんでいられる。
私は綺瀬くんのとなりで、安心して目を閉じた。
その日、家に着いたのは、夜の九時過ぎだった。
そっと玄関の扉を開けると、物音に気付いたお母さんがリビングから駆けてくる。
「水波!」
「……ただいま」
お母さんは私を見ると、一瞬泣きそうに顔を歪ませて口を開いた。けれどすぐ口を閉じ、なにかを飲み込むように黙り込む。
そして、小さく「おかえり」と言った。
その顔を見て、やっぱりお母さんは私に気を遣っているのだと実感する。
「……今、ご飯用意するからね」
ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンのほうへ入っていくお母さんの背中を見つめ、唇を引き結ぶ。
意を決して「お母さん」と口を開いた。
「なに?」とお母さんが振り返る。お母さんはすっかり穏やかな笑みを張り付けていた。それは、事故のあと見るようになった作った笑顔だった。
「……あの……」
首が締められたように言葉が喉で絞られて、声が出なくなる。
黙り込んで俯くと、お母さんが心配そうにそばへ寄ってくる。
「水波? どうしたの? 頭痛い?」
首を振る。
「そうじゃなくて……」
言葉に詰まり、俯いた。その瞬間、綺瀬くんの言葉が脳裏を掠める。
『俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも』
そうだ。心は見えない。だから、ちゃんと言葉にして伝えなくちゃ。
顔を上げて、お母さんを見る。
「あの……あのね、お母さん。私、苦しいの。ずっとずっと、苦しい。事故のあと、お母さんもお父さんも私を本気で怒らなくなって、すごく、私に気を遣っているのが分かって……家にいるのに、ずっと他所の……だれかの家にいるみたいで、苦しいの」
「水波……」
お母さんがハッとしたように私を見る。私は震える声で続ける。
「でも、泣くとお母さんとお父さんが心配するから、病院に連れていかなくちゃって言われるから、ずっと我慢してた。私は病院に連れて行ってほしいわけじゃないから……。……夜も、本当はぜんぜん眠れない。毎日あの事故の悪夢を見て、うなされて目が覚めるの」
本当は、夜、ベッドに入って目を瞑るのがすごく怖い。
目が覚めたら、だれもいなくなっちゃったんじゃないかって思うと、怖くてたまらない。
ようやく寝付けたと思っても、すぐに悪夢でうなされて目が覚める。
それの繰り返し。
「でも、そんなこと言ったらお母さんは余計に心配しちゃうから、ずっと言えなかった……本当は、ぜんぶ聞いてほしかった。大丈夫って言ってほしかった。なにも変わらなくてもいいから、ただ言いたかった……!」
顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、私はずっと喉の奥に詰まらせていた言葉を吐き出す。
「だけど、私のせいで悲しむふたりを見るのが辛くて……ずっと言えなかった。思ってないことばかり、言ってた。今まで、いやなことたくさん言ってごめんなさい。ずっと心配かけてごめんなさい。今までずっと謝れなくてごめんなさい。……あの日からずっと、じぶんでじぶんの心もよく分からなくなってて、それで……ずっと考えてた。こんなことなら私、生き残らないほうがよかったのかなって……」
お母さんが私を抱き締めた。
「そんなわけないでしょう!」
そう叫んだお母さんの声は潤んでいた。
「バカなこと言わないで! 生き残らないほうがよかったなんて……そんな悲しいこと言わないで。……ごめんなさい……私こそ、あなたを苦しめてるなんてぜんぜん思ってなくて……傷ついた水波を見てどうしたらいいのか、どうしたら元気になってくれるのか分からなくて……ごめんね。水波。お母さん、水波のこと追い詰めてたんだね。気付いてあげられなくて、ごめんね……」
震えるお母さんの声と指先に、涙が溢れて止まらない。私はお母さんにぎゅっと抱きついた。
綺瀬くんの言う通りだ。ただ心で思っているだけじゃ、なにも伝わらない。
「話してくれてありがとうね……」
「……うん」
お母さんに抱き締められて、お母さんの心の内を聞いて、少しだけ心が軽くなった気がした。
お母さんも、迷っていたんだ。恐ろしい事故に遭って、親友を亡くした娘にかける言葉を探して探して、でも分からなくて、悩んでいた。
「……お母さん、ありがとう。話、聞いてくれて」
お母さんはぶんぶんと首を振って、私の両頬に手を添える。
「水波にはお母さんもお父さんもいるから大丈夫。絶対ひとりになんてしないから。だからね、水波……お願いだからもう、ひとりで抱え込もうとしないで。一緒に乗り越えていこう」
力強く言うお母さんを、私は口をぎざぎざにして見上げ、こくこくと頷く。
「うん……っ!」
お互いに気を遣い過ぎていたんだ。
玄関で泣きじゃくる私を、お母さんはなにも言わずに抱き締めてくれていた。
その日の夜は、久しぶりにお母さんとお父さんと三人で並んで眠った。
それでもやっぱり悪夢は見てしまって、ほとんど眠れなかったけれど、私がうなされているとお母さんがすぐに起こしてくれて、そっと手を握ってくれた。
私は浅い眠りを繰り返しながらも、以前より少しだけ、眠るのが怖くはなくなった。
三人で並んで眠った翌日の朝、私は朝食を食べながら、キッチンに立つお母さんへ訊ねた。
「お母さん。聞きたいことがあるの」
「なに?」
お母さんは忙しなくお弁当用の唐揚げを揚げながら、ちらりと私を見る。
「私って、どこかおかしいのかな?」
「……え?」
お母さんは火を止めて、戸惑いがちに私を見る。それまで新聞を読んでいたお父さんも顔を上げ、私を見た。
「どうしたんだ、急に」
「……そのよく分からないけど、事故からしばらく経つのに、未だに病院に連れていかれるし……検査とかもあるし……私、もしかしたら後遺症とかがあって、どこか悪いのかなって」
身体はなんともない。自覚症状なんてものもない。でも、自分では分からないこともある。自覚してないだけで、身体の中でなにかが起こっていてもおかしくはない。
「私、病気なの?」
恐る恐る訊ねると、お母さんとお父さんは戸惑いがちに顔を見合わせた。意味深な目配せが、さらに私の心を乱した。
どくどくと心臓の音が大きくなったように感じた。
「……隠すのは、水波のためじゃないんだよな」
「そうね……辛いかもしれないけど、水波のためにも黙っておくべきじゃないのよね」
やっぱり、と思う。やっぱり私はなにかあるんだ。
お母さんはエプロンで手を拭って、お父さんのとなりに座った。なんとなく姿勢を正してお母さんを見る。
「水波はね、身体はなんともないの。これは本当。でもね、ちょっと記憶に障害があるのよ」
「……え?」
記憶?
「事故のとき、浸水したフェリーの中であなたは意識を失った状態で発見されてね。幸いにもかすかに空気が残った空間に取り残されていたから水はほとんど飲まずに救助された。……ただ、目が覚めたあと当時の記憶を訊ねたら、記憶が曖昧であることが分かったの。それで、要通院と判断されたのよ。心当たりあるかしら?」
お母さんが優しく言う。私は少し考えて、首を横に振った。
「もちろん、当時のことを思い出してほしいなんて私もお父さんも思ってないわ。でも、もしなにかの拍子で当時の記憶を思い出してしまったとき、あなたがまた苦しむんじゃないかって怖くて……だから、今でも定期的に脳の検査と心療内科に行ってもらってるのよ」
「……そっ……か」
記憶がない。
ないものは、いくら考えたところでなにも分からない。私はなにを忘れているのだろう。覚えていない自覚すらないのに、お母さんもお父さんも、どうして私に記憶障害があると分かるのだろう。
私が覚えているものはなに? あの夢はなに?
ハッとした。
「それじゃあ、来未が死んじゃったのは……?」
かすかな願いを込めて、訊ねる。お母さんが目を伏せた。
「……それは本当よ。残念だけど」
「……だよね」
頷く。
知ってる。今年、命日に来未のお墓に行ったし、墓石には来未の名前がちゃんと書かれていた。それに、来未のお母さんに投げつけられた言葉もちゃんと覚えている。
「……じゃあ私は、なにを忘れているの?」
思い切って訊ねると、お母さんもお父さんも優しく微笑んだ。
「病院の先生はね、無理に思い出すのはダメって言ってたわ。心に負担がかかっちゃうから」
「そうだ、水波。それにな、こういうことは思い出そうとして思い出せるものじゃない。水波はいつもどおりにしていればいいんだよ」
そんなこと言われても、気になるものは気になる。必死に思い出そうとしたら、ずきんと脳が痺れた。額を押さえる。
「水波! お願いだから無理しないで」
……私は、失くしたものを取り戻す術すら持たないのか。
「水波。なにか思うことがあったら、すぐに言ってね?」
お母さんの言葉に、私は小さく頷いた。
「……分かった。教えてくれてありがとう」
「大丈夫か? 今日は学校まで送っていこうか?」
お父さんの言葉に、私は「大丈夫」と首を横に振る。
「……あとね、水波」
控えめに口を開いたお母さんを振り返る。
「なに?」
「最近、帰りが遅いようだけど、あなたどこに行ってるの?」
お母さんは心配そうな顔をして私を見つめてくる。
「えっと……友達……のところだけど」
「友達って?」
「学校の子じゃないんだけど……夏祭りのときに知り合って、それからたまに放課後に会ってる」
綺瀬くんのことを言いたくないわけではないけれど、男の子と会っていると言ったらいらぬ誤解をされそうだ。
「……そう」
それ以上なにも言わない私に、お母さんは言った。
「友達と会うこと自体はなにも言わないけれど、最低でも夜の八時には帰ってきなさい。あなたはまだ高校生なんだからね」
ずっと私に気を遣っていたお母さんが少し強い口調で言った。
「……分かった」
私は素直に頷き、「八時までには帰るようにする」と返して家を出た。
帰り道に駅前に新しくできたドーナツ屋さんで買ってきたドーナツを食べながら、私は学校でのできごとを綺瀬くんに話した。
今朝、突然とあるクラスメイトに話しかけられたこと。それからその子にぬいぐるみをもらったこと。あまりに突然のことで、彼女の意図が分からない、といった相談だった。
ドーナツをもぐもぐしながら話を聞いていた綺瀬くんは、ごくんと喉を鳴らしてドーナツを飲み込むと、小さく笑った。
「それはもちろん、水波と仲良くしたいからじゃない?」
「でも私、同じクラスっていっても志田さんとぜんぜん話したことないし、友達になりたいなんて思ってもらえるようななにかをした記憶もないよ」
「そんなこと関係ないよ。その子はただ、この子可愛いな、友達になりたいなって思っただけじゃない?」
「か、可愛い?」
「え、うん。可愛いよ、水波は」
ぼぼっと顔が熱くなるのを感じた。綺瀬くんはときどき、唐突にそういう言葉を吐くので反応に困る。
「そ、そんなことないから……」
ない。まず有り得ない。学校での私はぜんぜん愛想なんてよくないし、話しかけるなオーラ全開だし。
……でも。
「友達……か」
ちらりと綺瀬くんを見る。
もし、友達を作るのなら、まずは綺瀬くんとそういう関係になりたいと思う。というか、今の私たちの関係ってなんなのだろう。
友達じゃないし、恋人でもない。ということは、お互いの傷を癒すためのただの手繋ぎ要員、といったところだろうか。
私たちはお互い孤独で、それぞれ胸にぽっかりと空いた穴を埋めるためだけに一緒にいる。
「ん?」
私の視線に気付いた綺瀬くんがこちらを見る。カチッと目が合って、私は思わずばっと顔ごと逸らした。
「……どうしたの?」
「……ううん。なんでもない」
訝しげに訊ねてくる綺瀬くんに笑みを返すと、綺瀬くんはなぜだかムッとした顔をした。
「まったく。水波はいつもそうやって言葉を飲み込む。それ、あんまりよくないよ。飲み込んだ言葉は消えない。埃みたいにどんどん積もっていく」
そしていつか、じぶんで溜め込んだ言葉に窒息するんだ、と綺瀬くんは言った。
「俺には我慢しなくていいんだよ」
……我慢。
私はなにを我慢しているのだろう。それすら今はよく分からないけれど……。
でも、疑問はある。
「……綺瀬くんは、どうして私のそばにいてくれるの?」
見ず知らずの私に、なんの関係もない私に、どうしてここまでしてくれるの? ただ優しいだけ? ううん、そんなはずはない。きっと、なにかあるのだ。
たとえばそう……私が、綺瀬くんの大切だった人に似ているとか。
少し早口で訊ねると、綺瀬くんは茜色の空を見上げた。
「なんで、かぁ。うーん…… なんていうか、放っておけないから? 放っておきたくないっていうか、気になるっていうか」
「気になる?」
「簡単に言うと、よく思われたいから?」
綺瀬くんは燃え盛る夕焼けから視線を流し、私を見た。赤い陽が、その横顔を神聖な彫刻のように浮かび上がらせている。
「それって……私のこと、好きってこと?」
「直球だな」と綺瀬くんは苦笑する。
「でもまぁ、そういうこと……かな?」
珍しく私から視線を逸らす綺瀬くんをまじまじと見つめる。さっきより、顔が赤い気がするのは気のせいだろうか。
「……もしかして綺瀬くん、照れてる?」
「ちょっと黙んなさいって」
「わっ」
頭を掴まれ、ぐりんと無理やり回されてしまった。少し雑な触れ方のあと、すぐに優しく頭に手が置かれて、顔が熱くなる。
「だって、そうじゃなきゃふつう手なんて握らないでしょ。ましてや一緒に眠るなんて絶対しないから」
「……でも初対面だったし、しかも私死のうとしてたんだよ?」
そもそも綺瀬くんには好きな人がいるはずだ。ずっと忘れられなくて、心にぽっかりと穴が空いてしまうくらい愛している人が。
いつの間にか、綺瀬くんは私を見つめていた。澄んだ瞳と目が合う。
「……面影が、重なったから」
綺瀬くんの大切な人と、ということだろうか。
「今の俺は、どうやったって彼女に手は届かない。いや、手を伸ばしちゃいけないんだ」
「……じゃあ、私はその人の代わりってこと?」
聞いてから後悔した。そうだよ、と言われたらどうしよう。答えを聞きたくなくて、思わず俯いた。
「違うよ。君は君だ。だれの代わりでもない」
しんとした声で、綺瀬くんが否定した。顔を上げ、綺瀬くんを見る。
「……いつも思うんだ。思い出だけで、生きていければいいのになって」
少しだけ、綺瀬くんの声が潤んでいるような気がした。
「いや、生きていけるって思ってた。ずっと、あの子との思い出があれば、もうなにもいらないと思ってた。でも、いつの間にか、君との思い出をほしがってるじぶんがいる。勝手だよな、心って」
「綺瀬くん……」
「どうしようもなく、君に会いたくなる夜がある。寂しくて、怖くて泣き叫びたい夜でも、君の声を聞くと心が凪ぐ。すごく、ホッとするんだ」
ひどく切ない声に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
綺瀬くんが自嘲気味に笑う。
その気持ちは、私にも分かる。
だって、私だって今日までは友達なんていらないと思っていた。
それなのに、ただの一度クラスメイトに話しかけられただけで、来未との学生生活を思い出してしまった。どうしようもなく懐かしくて、またあの頃のような毎日を、と焦がれてしまった。
「……私もそうだよ。私も、綺瀬くんと同じ」
私たちはきっと、死んだ人を思い続けて、それだけで生きていけるほど強くない。弱くて脆くて、不完全な人間だから、どうしたって目先のぬくもりに手を伸ばしてしまう。
綺瀬くんの気持ちは、痛いほどよく分かる。
「……私も、綺瀬くんを来未の代わりだなんて思ってない。でも、そばにいたい」
きっと、そういうことだ。
呟くように言って綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは一瞬驚いたように私を見て、あの日私が越えた転落防止用の柵へ視線を流した。
「……あの日、あの柵の向こう側に立つ水波を見たとき、怖くて怖くてたまらなかった。どうにかして繋ぎ止めたいって思ったんだ」
綺瀬くんは顔を上に向けて空を見上げた。
その面差しは、大切な人を思っているときのそれだった。助けられなかったその人を思い出しているのかもしれない。
「ねぇ水波。俺はね、君に今日そのぬいぐるみをくれた子の気持ちがすごくよく分かるんだ。その子はただ、君と仲良くなりたいんだ。君をもっと知りたいんだ。そのきっかけが、このウサギのぬいぐるみだったんだと思う」
綺瀬くんは私の膝の上にちょんと座るぬいぐるみを見て、優しく微笑んだ。
「思いっていうのは、共鳴するのかもしれないね。俺も、水波ともっと仲良くなりたい」
「綺瀬くん……」
まっすぐな思いに、胸がじんわりとあたたまっていく。
こんな感情は知らない。
……いや、知っている。
久しくなかったけれど、来未が話しかけてきたとき、私はたしかにこのあたたかさを知った。そして今日、彼女の笑みにも同じ感情を抱いた。
「水波は?」
綺瀬くんは優しい眼差しで、ゆっくりと瞬きをする。
「……私も、綺瀬くんともっと仲良くなりたい」
すると、綺瀬くんは嬉しそうに表情を綻ばせた。私も思いを受け止めてもらえて嬉しいはずなのに、うまく笑えない。泣き笑いのようになってしまう。
綺瀬くんはそんな私の頭をよしよしと撫でてくれる。おかげで私は少しづつ落ち着いていく。
「まったく、水波は泣き虫だな」
まるで、ずっと前から知っているみたいにそばにいるのが当たり前のような気がする。
「ふだんは我慢してるもん」
「俺の前だけ?」
涙を拭いながら頷く。すると、綺瀬くんは嬉しそうにはにかんだ。
「じゃあ、その子はどうかな?」
「え?」
「その子と向き合える気はする?」
黙り込んで考えて、首を横に振る。
「……分からない。学校の子は、みんな私があの事故の被害者だって知ってるから、どこか気を遣って遠ざけてる気がするし、そうすると私も身構えちゃう。不幸な子でいなきゃいけないんだって思っちゃう」
私は可哀想だから、人殺しだから、笑っちゃいけない。みんなのように楽しそうにしてはいけないのだとみんなの視線に言われている気がして、息が苦しくなる。
「本当にそうなのかな?」
「え?」
「たしかに、中には水波に話しかけづらいなって思ってる人もいるかもしれない。けど、みんながみんなそうじゃないんじゃないかな」
「そんなことない! だって、お母さんですら私を見ようとしてくれない」
言ってから、私はハッと口を噤む。
「……ごめん」
綺瀬くんは優しく微笑んで、私を促した。
「いいよ。我慢しないで、言ってみて」
「…………っ」
綺瀬くんの優し過ぎる声が、トリガーだった。
心の器にこびりついたようにたまっていたものが、ぽろぽろととめどなく零れ出す。
「……事故のあとから、家族すら私に遠慮するようになった」
「うん」
「お母さん、今までみたいな小言を一切言わなくなったんだ。まるで親戚の子を相手するみたいに遠慮するようになった」
泣くとすぐに病院に行こうと言われるようになった。うなされていると、病人扱いされるようになった。
「事故の後、私はきっともうあの人の子供じゃなくなったんだよ。娘と同じ顔をしただけの事故の被害者っていう赤の他人になったんだ」
だから、どこかよそよそしい。
私は、お母さんが私の見えないところで、大きなため息をついていることを知っている。泣いていることを知っている。
きっと私は、死んでいたほうがお母さんもお父さんも楽だった。
仏壇の前で嘆くだけなら、きっと今より心の負担はなかっただろう。
言い終わって黙り込んだ私を、綺瀬くんが優しく抱き締めた。
「……バカだなぁ。そんなこと思うわけないって、分かってるくせに」
「でも……っ」
綺瀬くんは優しく私の背中を撫でながら、
「前に言ったでしょ。俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも」
綺瀬くんは少し身体を離し、私と視線を合わせて「大丈夫」と優しく微笑んだ。
「ふたりはきっと、どうしたら水波が笑ってくれるかを考えてるんだ。ただただずっと、可愛い水波のことを考えてるんだよ」
「……そんなことない。お母さんもお父さんも、きっともう私を面倒としか思ってない」
あれから私は、ずっと嫌な子供のまま。この前だって、酷い言葉を言ってしまった。
「そんなの、思春期の子供を持つ親ならちゃんと分かってるよ」
綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて微笑んだ。
「あのね、水波。親だって、人間なんだ。分からないことだってあるよ。娘のことをいくら思ってても、空回りして間違えることだってあるんだ」
俺の親もそうだった、と綺瀬くんは言う。
「綺瀬くんの?」
「俺のお母さんもふだんは優しい人なんだけどね……」
そう言って、綺瀬くんは目を伏せた。目を開け、私を見る。
「親は、子供のためならなんだってするんだ。……時には、間違ったことだって」
綺瀬くんがするりと私の手をとった。そのぬくもりにハッとする。
「俺たちは大切な人を失って、恐ろしい孤独を味わってる。命の儚さを人よりずっとよく分かっているだろ?」
綺瀬くんに優しく問われ、頷く。すると、綺瀬くんがにこりと微笑む。
「たらればを考えたってなんにもならない。そんな暇があるなら、今生きてる人たちと向き合うんだ。言葉は、生きているうちしか伝えられないんだから」
あの日、もしあのフェリーに乗っていなければ。
あの日、もし旅行になんて行っていなければ。
……喧嘩なんてしていなかったら。
あの日からずっと、もしものことばかり想像した。祈った。
でも、どれだけ悔やんでも、過去が変わることはない。死んだ人は戻ってこない。今さら来未の気持ちを聞くことはできないのだ。
……だけど、今は変えられる。
「俺たちは、未来に後悔を持ち込まないようにできるだけじぶんで努力するしかないんだ」
涙ぐみながら、綺瀬くんを見上げる。唇から、声とも言えない吐息が漏れる。
「大丈夫。水波はひとりぼっちなんかじゃないよ」
綺瀬くんが優しい言葉をくれるたび、私の心は灯火が灯るようにあたたかくなっていく。
「……お母さんと、話してみる。それから、志田さんとも」
すると、綺瀬くんはなにやら考え込む仕草をした。
「……あ、でもね、ひとつだけ忠告」
「ん?」
「友達については、最大限努力してダメだったなら、仲良くしなくていいと思う」
「えっ?」
なんだそれ、と綺瀬くんを見る。せっかく頑張る気になったのに。
「世の中にはたくさん人がいる。その中で、合わない人がいるのは当然だよ。一回親しくなったからって、ずっと友達でいなきゃいけないわけじゃない。無理に自分を殺して合わせる必要なんてないんだ。合わない人たちとは、無理に付き合わなくていい。いつかきっと、相手の全部を好きになれなくても、どこか一部でも好きになれるところがあって、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会えるから。だからさ、それまで、どうか諦めないで。……大丈夫。俺はいつだって、水波の味方だよ」
「……うん」
どうして、この人はこんなにも私が欲しい言葉をくれるのだろう。
まるで、会ったばかりのはずなのに、ずっと前から知っているみたいだ。
綺瀬くんの言う運命の子というのが、今目の前にいる彼自身だったらいいのに、と思う。
だって、綺瀬くんがとなりにいてくれるだけで、私はこんなにも心が安らぐ。飾らないじぶんでいられる。
私は綺瀬くんのとなりで、安心して目を閉じた。
その日、家に着いたのは、夜の九時過ぎだった。
そっと玄関の扉を開けると、物音に気付いたお母さんがリビングから駆けてくる。
「水波!」
「……ただいま」
お母さんは私を見ると、一瞬泣きそうに顔を歪ませて口を開いた。けれどすぐ口を閉じ、なにかを飲み込むように黙り込む。
そして、小さく「おかえり」と言った。
その顔を見て、やっぱりお母さんは私に気を遣っているのだと実感する。
「……今、ご飯用意するからね」
ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンのほうへ入っていくお母さんの背中を見つめ、唇を引き結ぶ。
意を決して「お母さん」と口を開いた。
「なに?」とお母さんが振り返る。お母さんはすっかり穏やかな笑みを張り付けていた。それは、事故のあと見るようになった作った笑顔だった。
「……あの……」
首が締められたように言葉が喉で絞られて、声が出なくなる。
黙り込んで俯くと、お母さんが心配そうにそばへ寄ってくる。
「水波? どうしたの? 頭痛い?」
首を振る。
「そうじゃなくて……」
言葉に詰まり、俯いた。その瞬間、綺瀬くんの言葉が脳裏を掠める。
『俺たちはエスパーじゃないから、心の中までは見えないんだよ。たとえ家族でも』
そうだ。心は見えない。だから、ちゃんと言葉にして伝えなくちゃ。
顔を上げて、お母さんを見る。
「あの……あのね、お母さん。私、苦しいの。ずっとずっと、苦しい。事故のあと、お母さんもお父さんも私を本気で怒らなくなって、すごく、私に気を遣っているのが分かって……家にいるのに、ずっと他所の……だれかの家にいるみたいで、苦しいの」
「水波……」
お母さんがハッとしたように私を見る。私は震える声で続ける。
「でも、泣くとお母さんとお父さんが心配するから、病院に連れていかなくちゃって言われるから、ずっと我慢してた。私は病院に連れて行ってほしいわけじゃないから……。……夜も、本当はぜんぜん眠れない。毎日あの事故の悪夢を見て、うなされて目が覚めるの」
本当は、夜、ベッドに入って目を瞑るのがすごく怖い。
目が覚めたら、だれもいなくなっちゃったんじゃないかって思うと、怖くてたまらない。
ようやく寝付けたと思っても、すぐに悪夢でうなされて目が覚める。
それの繰り返し。
「でも、そんなこと言ったらお母さんは余計に心配しちゃうから、ずっと言えなかった……本当は、ぜんぶ聞いてほしかった。大丈夫って言ってほしかった。なにも変わらなくてもいいから、ただ言いたかった……!」
顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、私はずっと喉の奥に詰まらせていた言葉を吐き出す。
「だけど、私のせいで悲しむふたりを見るのが辛くて……ずっと言えなかった。思ってないことばかり、言ってた。今まで、いやなことたくさん言ってごめんなさい。ずっと心配かけてごめんなさい。今までずっと謝れなくてごめんなさい。……あの日からずっと、じぶんでじぶんの心もよく分からなくなってて、それで……ずっと考えてた。こんなことなら私、生き残らないほうがよかったのかなって……」
お母さんが私を抱き締めた。
「そんなわけないでしょう!」
そう叫んだお母さんの声は潤んでいた。
「バカなこと言わないで! 生き残らないほうがよかったなんて……そんな悲しいこと言わないで。……ごめんなさい……私こそ、あなたを苦しめてるなんてぜんぜん思ってなくて……傷ついた水波を見てどうしたらいいのか、どうしたら元気になってくれるのか分からなくて……ごめんね。水波。お母さん、水波のこと追い詰めてたんだね。気付いてあげられなくて、ごめんね……」
震えるお母さんの声と指先に、涙が溢れて止まらない。私はお母さんにぎゅっと抱きついた。
綺瀬くんの言う通りだ。ただ心で思っているだけじゃ、なにも伝わらない。
「話してくれてありがとうね……」
「……うん」
お母さんに抱き締められて、お母さんの心の内を聞いて、少しだけ心が軽くなった気がした。
お母さんも、迷っていたんだ。恐ろしい事故に遭って、親友を亡くした娘にかける言葉を探して探して、でも分からなくて、悩んでいた。
「……お母さん、ありがとう。話、聞いてくれて」
お母さんはぶんぶんと首を振って、私の両頬に手を添える。
「水波にはお母さんもお父さんもいるから大丈夫。絶対ひとりになんてしないから。だからね、水波……お願いだからもう、ひとりで抱え込もうとしないで。一緒に乗り越えていこう」
力強く言うお母さんを、私は口をぎざぎざにして見上げ、こくこくと頷く。
「うん……っ!」
お互いに気を遣い過ぎていたんだ。
玄関で泣きじゃくる私を、お母さんはなにも言わずに抱き締めてくれていた。
その日の夜は、久しぶりにお母さんとお父さんと三人で並んで眠った。
それでもやっぱり悪夢は見てしまって、ほとんど眠れなかったけれど、私がうなされているとお母さんがすぐに起こしてくれて、そっと手を握ってくれた。
私は浅い眠りを繰り返しながらも、以前より少しだけ、眠るのが怖くはなくなった。
三人で並んで眠った翌日の朝、私は朝食を食べながら、キッチンに立つお母さんへ訊ねた。
「お母さん。聞きたいことがあるの」
「なに?」
お母さんは忙しなくお弁当用の唐揚げを揚げながら、ちらりと私を見る。
「私って、どこかおかしいのかな?」
「……え?」
お母さんは火を止めて、戸惑いがちに私を見る。それまで新聞を読んでいたお父さんも顔を上げ、私を見た。
「どうしたんだ、急に」
「……そのよく分からないけど、事故からしばらく経つのに、未だに病院に連れていかれるし……検査とかもあるし……私、もしかしたら後遺症とかがあって、どこか悪いのかなって」
身体はなんともない。自覚症状なんてものもない。でも、自分では分からないこともある。自覚してないだけで、身体の中でなにかが起こっていてもおかしくはない。
「私、病気なの?」
恐る恐る訊ねると、お母さんとお父さんは戸惑いがちに顔を見合わせた。意味深な目配せが、さらに私の心を乱した。
どくどくと心臓の音が大きくなったように感じた。
「……隠すのは、水波のためじゃないんだよな」
「そうね……辛いかもしれないけど、水波のためにも黙っておくべきじゃないのよね」
やっぱり、と思う。やっぱり私はなにかあるんだ。
お母さんはエプロンで手を拭って、お父さんのとなりに座った。なんとなく姿勢を正してお母さんを見る。
「水波はね、身体はなんともないの。これは本当。でもね、ちょっと記憶に障害があるのよ」
「……え?」
記憶?
「事故のとき、浸水したフェリーの中であなたは意識を失った状態で発見されてね。幸いにもかすかに空気が残った空間に取り残されていたから水はほとんど飲まずに救助された。……ただ、目が覚めたあと当時の記憶を訊ねたら、記憶が曖昧であることが分かったの。それで、要通院と判断されたのよ。心当たりあるかしら?」
お母さんが優しく言う。私は少し考えて、首を横に振った。
「もちろん、当時のことを思い出してほしいなんて私もお父さんも思ってないわ。でも、もしなにかの拍子で当時の記憶を思い出してしまったとき、あなたがまた苦しむんじゃないかって怖くて……だから、今でも定期的に脳の検査と心療内科に行ってもらってるのよ」
「……そっ……か」
記憶がない。
ないものは、いくら考えたところでなにも分からない。私はなにを忘れているのだろう。覚えていない自覚すらないのに、お母さんもお父さんも、どうして私に記憶障害があると分かるのだろう。
私が覚えているものはなに? あの夢はなに?
ハッとした。
「それじゃあ、来未が死んじゃったのは……?」
かすかな願いを込めて、訊ねる。お母さんが目を伏せた。
「……それは本当よ。残念だけど」
「……だよね」
頷く。
知ってる。今年、命日に来未のお墓に行ったし、墓石には来未の名前がちゃんと書かれていた。それに、来未のお母さんに投げつけられた言葉もちゃんと覚えている。
「……じゃあ私は、なにを忘れているの?」
思い切って訊ねると、お母さんもお父さんも優しく微笑んだ。
「病院の先生はね、無理に思い出すのはダメって言ってたわ。心に負担がかかっちゃうから」
「そうだ、水波。それにな、こういうことは思い出そうとして思い出せるものじゃない。水波はいつもどおりにしていればいいんだよ」
そんなこと言われても、気になるものは気になる。必死に思い出そうとしたら、ずきんと脳が痺れた。額を押さえる。
「水波! お願いだから無理しないで」
……私は、失くしたものを取り戻す術すら持たないのか。
「水波。なにか思うことがあったら、すぐに言ってね?」
お母さんの言葉に、私は小さく頷いた。
「……分かった。教えてくれてありがとう」
「大丈夫か? 今日は学校まで送っていこうか?」
お父さんの言葉に、私は「大丈夫」と首を横に振る。
「……あとね、水波」
控えめに口を開いたお母さんを振り返る。
「なに?」
「最近、帰りが遅いようだけど、あなたどこに行ってるの?」
お母さんは心配そうな顔をして私を見つめてくる。
「えっと……友達……のところだけど」
「友達って?」
「学校の子じゃないんだけど……夏祭りのときに知り合って、それからたまに放課後に会ってる」
綺瀬くんのことを言いたくないわけではないけれど、男の子と会っていると言ったらいらぬ誤解をされそうだ。
「……そう」
それ以上なにも言わない私に、お母さんは言った。
「友達と会うこと自体はなにも言わないけれど、最低でも夜の八時には帰ってきなさい。あなたはまだ高校生なんだからね」
ずっと私に気を遣っていたお母さんが少し強い口調で言った。
「……分かった」
私は素直に頷き、「八時までには帰るようにする」と返して家を出た。
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