死に際の出会い

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 八月九日、夕方。
 夏の盛りを過ぎた陽射しの下。

 私は、ふらふらと街の中を彷徨(さまよ)っていた。手から垂れた仏花は暑さのせいか、色を失ったようにくすんでいる。

 まるで私の心みたいだと、視線を仏花に落として、ぼんやりと思った。

 歩く私のすぐ真横を通り過ぎていく車が、けたたましくクラクションを鳴らす。
 耳をつんざくような不快なその音に、ふとさっきのできごとがフラッシュバックした。

 親友が眠るお墓の前だった。
『なんであなたは生きてるの』
 この数年で、見違えるほど老け込んだ親友の母親に浴びせられた言葉。

 頭を殴られたような衝撃を受け、我に返る。

 本当だ。私は、なんで生きているんだろう……。

『あなたが死ねばよかったのに』
 うん、そうだよね。私も、そう思う。

『あの子を返して』
 あの子が帰ってきてくれるなら、私はなんだってするよ。だって……私だって会いたいんだから。

 頭の中を、ぶつけられた言葉がぐるぐる巡っている。
 それらの言葉は、私を殴るだけ殴ったあとも、そのまま背後霊のようにくっついてきていた。

『この悪魔』
 ……あぁ、そうだ。私は悪魔だったんだ。あの子の命を奪った悪魔だったんだ。
 だからきっと、あの子は私をひとり置き去りにして()ってしまったのだ。

 突然、どん、と太鼓の音がして顔を上げる。

 街の中央にある小高い山の上に、小さな神社が見えた。
 神社へ続く長い石段の両脇には、赤色の提灯(ちょうちん)が整然と並んでいる。

 それはまるで鬼火のように、淡く、怪しくゆらゆらと揺れていた。

 どん、どん。

 お囃子(はやし)の音色に誘われるように、私はその場所へ足を向ける。

 金魚の(ひれ)のような鮮やかな袖や帯飾りが、視界のあちこちで優雅にひるがえる。
 私はそれら揺らめく影の波を、縫うように歩いた。

 つーっと、汗が首筋をつたう。

 石段が途切れると、目の前に大きな朱色(しゅいろ)鳥居(とりい)が現れた。
 くぐり抜けると、広場の中央に(やぐら)が建っている。その櫓を取り囲み、浴衣を着た人たちが楽しげに盆踊りを踊っていた。

 戦隊もののキャラクターのお面を付けて踊る子供。
 ゆったりと優雅に舞う老人。
 親子で、友達同士で、カップルで。それぞれ楽しそうに笑いながら櫓の周りを回る人たち。

 ……楽しそう。
 そう思うけれど、その中に入ろうという気にはならない。

 屋台のりんご飴も、かき氷も、お好み焼きも、食べたいと思わない。
 今、私の中にある欲求はただひとつ。

 死にたい。

 それだけだった。

 お祭りが催されている広場を抜け、神社の後ろ側へ行くと、またさらに石段が現れた。

 こんな場所あったんだ……。

 地元だけれど、初めて来る場所だ。いったいこの石段はどこまで続いているのだろう。

 両脇の木が、石段を覆うように青々と繁っている。
 木々がざわめくその石段を、私はなにかに誘われるように、ただひたすら昇った。

 どれくらい昇っただろう。いつの間にか、お囃子の音はほとんど聞こえなくなっていた。

 石段を昇り切ると、突然視界が明るくなった。
 それまで生い茂っていた木々はすべて切り倒されていて、そこだけぽっかりと開けた空間が現れる。

 進むと、燃えるような夕焼けと喧騒(けんそう)にまみれた見慣れた街の景色が広がっていた。
 街の向こうにある大きな山と、さらにその向こうにあるオレンジ色の大きな太陽、分厚い入道雲(にゅうどうぐも)

 車のクラクション。信号機の音。だれかの笑い声。
 ぜんぶが、遠い。街も、人も、未来も……過去すら――。

 かさりと音がした。
 音のしたほうへ目を向けると、少し先に転落防止用の柵があった。錆びて色が変わり、傾いている様子は心もとない。

 そっと足を踏み出して、そこへ向かう。下を覗くと、その高さに目眩(めまい)がした。

 ふと、思う。

 ここから落ちたら、死ねるだろうか。死んだら、あの子に会えるだろうか。私が死んだら、あの子の心は、あの人は救われるだろうか……。

 私も……楽に、なれるだろうか。

 足が動く。さっきまでと違って、足取りは驚くほど軽い。
 柵を越える。

 そっか。私は、ずっとこうしたかったんだ。

 この先には、きっと私にしか行けない道があるんだ。
 そこはきっと私が楽になれる場所。あの子に会える場所。あの視線から、ため息から開放される安らかな場所。

 足を前に踏み出した。

 足場のない空間に浮いた足は、重力に沿って落ちていく。目を瞑って、すべてを遮断する。

 風が私の体を包み込もうとした、次の瞬間。
「なにしてるの!」
 突然、腕に痛みが走った。
 驚いて目を開く。振り返る間もなく、ぐっと乱暴に腕を引かれ、息を詰める。

 キィ、と錆びた柵が音を立てた。

 その場に倒れ込んだ私は、呆然と顔を上げた。そこには藍色の浴衣を着た男の子がいた。赤色の狐のお面を被っているため、顔は分からない。

「……だれ?」

 訊ねると、男の子の喉仏がわずかに上下して、掴んだ腕の力をゆるめた。けれど、ここが柵の外側であることを思い出したのか、すぐに力がこもる。

 男の子は私の腕を掴んだまま、仮面を少し横にずらした。

 目が合う。

 仮面の下から半分だけ覗いた素顔は、ハッとするほど整っていた。切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋。上品な唇はきつくきゅっと引き結ばれていた。
 さらさらとした黒髪が夏風に揺れている。

 同い年くらいだろうか。たぶん知らない子だ。私は眉を寄せて、睨むようにその子を見返した。

「なに? 手、痛いんだけど」
 強く抗議するが、しかし、男の子の手の力が緩まる気配はない。
「とにかく、こっちきて」
「あっ……ちょっと!」

 さらに強い力で、半ば引きずるように柵の内側へ引っ張られた。そのまま地べたに落ちると、男の子はようやく私から手を離した。

 掴まれていたところがじんじんとして、私は思わず、男の子をキッと睨んだ。
「ちょっと、なにするのよ!」
「なにじゃない! 危ないだろ!」

 容赦のない怒鳴り声が私の耳を貫き、無性に涙が込み上げてくる。けれど、知らない人の前で泣くのが嫌で、懸命に唇を噛み締めてこらえた。

「あなたには関係ないでしょ!」
 震える声を誤魔化すように強く言い返すと、
「じぶんがなにしようとしたか分かってるの!? 落ちてたら、死んでたんだよ!」と、さらに怒鳴りつけられた。

 耳がきぃんとして、思わず耳を押さえた。

 なにも知らないくせに。
 下腹のほうから、苛立ちがふつふつと湧き上がってきた。

「あなたこそ、いきなりなんなのよ!? 分かってるよ! 見れば分かるでしょ! 死のうとしてたの! 死にたいからここにいたの! 放っておいてよ!」

 強い口調で言い返しながら、なんで他人にこんなことを言わなきゃならないのだと、余計に腹が立ってくる。
 その意思を込めてぎゅっと唇を引き結んだままでいると、男の子が呆れたようなため息をついた。

「放っておけるわけないだろ。目の前で死のうとしてる奴がいたら、だれだって助けるよ」

 当たり前のように言われ、じぶんの顔がこわばるのが分かった。

「……助けるってなによ。もしかして、自殺を止めることが私を助けることだとか思ってるの? だったら間違い。そんなの、あなたの勝手な自己満足でしかない。私を助けたいなら、素直に死なせて」
「……いやだ」

 男の子は、迷いのない瞳で私を見下ろしている。

 ……違う。
 彼の言うとおりだ。目の前でだれかが苦しんでいたら、助けるのが当たり前。

 その当たり前ができないのは、私だ。私は、来未を……。
 青白い手を見下ろす。手首には、男の子に掴まれた跡がくっきりと残っていた。こんなに跡が残るなんて、ずいぶん強く握られていたらしい。

 ……助けるなら私じゃなくて、あの子を助けてほしかった。あのときだって、あの子は必死に助けてって叫んでいたのに。

 助けるだなんて簡単に言ってしまえるこの人が羨ましい。私を柵の内側へあっさり引き戻してしまうその手が羨ましい。

 ぎゅっと拳を握り、男の子の大きな手を見つめる。

 大きくて、骨張った、男らしい手。なんでも守れそうな力強い手だった。この手があれば、私にもあの子を助けることができたのだろうか。

「……あなたは、いいなぁ」
「え?」

 あの子はもういないのだから、今さら後悔したって遅いのだ。それでも思わずにはいられない。

「……とにかく、あなたには悪いけど、私には救われる資格なんてないの。だからもう、どこかへ行って。お願いだから、ひとりにして」

 そう呟いて、私は男の子を拒むように顔を背けた。

「……よく分かんないけどさ、そばにいるよ」

 その場で座り込んだまま項垂れる私に、男の子がしっとりとした声で言った。

「……なんで?」
「……だって、俺がいなくなったら君、また自殺しようとするでしょ」
「だったらなによ。私の命なんだから、どうしようが私の勝手でしょ」

 それこそ、赤の他人のあなたには関係のないことだ。

「うわ、なにその言い草、可愛くない。それに、それこそ無責任だと思うけど」
「あぁ、もううるさいな……なにも知らないくせに」
 力なく言い返すと、男の子は静かに、でも強い口調で続けた。
「知らないよ。けど、それでもいやなんだよ」

 ……変わった人。

 いなくなる気配のない男の子に、私は諦めのため息を漏らす。完全に死ぬタイミングを逃してしまった気がするけれど、私の正体を知れば、さすがに消えてくれるだろうか。

「……じゃあ、私が人殺しだって言っても助けてくれるの?」
「……は? 人、殺し……?」

 男の子があからさまに動揺する。

「そうよ。私が人殺しだって知っても、あなたはまた助けてくれるの?」

 男の子は私を見つめたまま、黙り込んだ。

 当たり前の反応だ。私に、悲しむ資格なんてない。

 その反応に、ほんの少しだけショックを受けているじぶんがいることに気付いて、呆れた。
 こんな状況でも、私はまだ救われようとしているのか、と。

 ダメだよ、現実を、目の前の表情を見て。
 私の正体を知った人はみんな、こういう顔をするんだ。
 こういう目で、私を見るんだから。

 やっぱり私は、存在するべきじゃないんだ。

 男の子の表情に、私は再び覚悟を決めた。

 ……ただ。
 ただ、ひとつだけ言いたいことがあるとすれば、後悔するなら最初から関わらなければいいのにとだけ思った。

 勝手に助けて、勝手に後悔して、バカみたい。

「……もう迷惑だから、あっち行って」

 目を伏せる。
 次に目を開けたときには、きっと男の子はいなくなっているだろう。
 それでいい。
 そうしたら、またあの柵を乗り越えてしまおう。今度こそそれで、すべてが終わるのだ――。


 風が動いた。
 心が揺れないように、必死に感情を凍らせて、風が消えるのをじっと待つ。
 と、頭の上にぬくもりを感じた。目を開くと、なぜだか男の子の手が、私に向かって伸びていた。

 頭にはあたたかくて、優しい感触。
 これは、なに……?

 目を瞬かせて男の子を見る。
 男の子は私の頭に手を置いたまま、視線を合わせてきた。

「……助けるよ。目の前で死のうとしてたら、何回だって助ける」
 目の奥や胸の辺りが燃えるように熱くなった。
「……どうして?」
 震える声で訊ねると、男の子は柔らかく微笑んだ。
「だって、手が届くから」

 男の子はどこか遠くを見つめ、しんみりとした声で言った。

「俺さ、大好きな人がいるんだ。すごく優しくて、素直で、可愛い子でさ……」

 その顔はどこか、私が来未を想うときに似ているような気がした。
 男の子は寂しげに笑い、私を見る。

「だけど、その人とはもう、一緒にはいられなくなっちゃったんだ」
「え……?」
 不意のやるせなさげなその顔に、どきりとする。
「どうして……?」
 訊ねても、男の子は私の問いには答えなかった。

「俺が君を助けた理由はね、君が俺の手が届くところにいたからだよ、――水波(みなみ)
 目を瞠る。
「……なんで私の名前……」

 きぃん、と頭の奥でなにかが響く。
 脳の中心に、瞬間的に長い光の針を差し込まれたような、鋭い痛みだ。
 突然目眩がして、私は咄嗟に頭を押さえた。

「大丈夫?」
「……うん、大丈夫」

 額を押さえたまま顔を上げ、男の子を見る。目が合うと、男の子はやはり私を見て優しく微笑んだ。

 あどけないその笑顔に、心臓が大きく弾んだ。

「……とにかく、水波が生きててよかったよ」
「……あなた、何者? なんで私の名前を知ってるの?」
 男の子はにこりと笑うと、私の手を取った。

「こっちきて!」

 ぐっと手を引かれた勢いで立ち上がり、柵のすぐそばにあったベンチに座らせられる。
 そして男の子は仮面を被り直すと、「ここでちょっと待ってて」と言って去っていく。

「え? えっ、ちょっ……!」
 取り残された私は、困惑してその背中を見つめた。

 男の子は振り返りながら、「ちゃんと待ってろよ! どこにも行くなよ!」と何度も言って、軽やかに石段を降りていった。

「……なんなの」

 ひとり取り残された私はベンチに座ったまま、ぼんやりと夕暮れの街並みを眺めた。

 赤紫色に滲んだ空には、まるで絵に描いたような入道雲。家屋もビルも学校も、街全体が燃えるような赤に染まっている。

 あまりの眩しさに目を細める。

 蝉の声がジリジリと暑さを誇張(こちょう)する。髪が頬に張り付いて煩わしい。

 ……暑い。肌が焼かれるようだ。
 カラスの鳴き声や人々の生活音がする。ついさっきまで、まるで耳に入ってこなかった雑音たちが、今さらになって迫ってくるようだった。

 急に現実に引き戻されたような心地になる。

 ……まったく、なんだったのだろう。

 まるで台風のような男の子だった。
 初対面なのに、土足で私の心に踏み込んできて。あっという間に私を死の淵から連れ戻してしまった。
 一瞬のできごとだったように思う。
 柵を越えたことも、腕を掴まれたことも、あの、男の子のぬくもりも……。

 蝉の声が聞こえてくる。

 もしかして、暑さが見せた白昼夢だったのではと思い始めた頃、例の男の子が戻ってきた。

 男の子は手に、りんご飴とかき氷を持っていた。かき氷の山のてっぺんには可愛らしいピンク色が乗っている。イチゴ味だろう。
「はい!」
 男の子は私に両方差し出してくる。

「……え? 私に?」
 私は目を瞬かせた。

 戸惑いがちに、男の子と食べ物を交互に見る私を見て、
「ほかにだれがいるの?」
 と、男の子は笑う。

「……いらない。私、今お金持ってないし」
 なにせ死ぬ気だったから食欲だってない。

「いらないよ、そんなの。ほら、食べな」
 と、ぐいっと手を突き出してくる男の子。

 目の前に差し出されたふたつを見て、迷いながらも「ありがとう」と言ってりんご飴を受け取った。
 男の子は私のとなりに座って、私が受け取らなかったほうのかき氷を、プラスチックのスプーンでしゃくしゃくと突き刺して食べ始めた。

 そんな彼の様子を見て、なんというか、やっぱり不思議な人だな、と思った。

 りんご飴の舌に絡む独特の甘さに、こんなに甘かったっけと思う。

 表面に歯を立てると、飴がパキッと割れた。砕けた飴をかじりながら、そういえば、幼い頃はりんご飴をかじった瞬間が好きだったな、なんてしょうもないことを思い出した。

 りんご飴の味自体は特に好きでもなんでもなかったのだけれど、透き通った硝子にひびが入っていくような感じがなんとなく好きだったのだ。

 ……なんて、一度死を覚悟したからだろうか。
 とりわけ好きでもなかったはずのりんご飴なのに、「おいしい」と思うだなんて。

 なにかをおいしいと思うのは、どれくらいぶりだろう。そういえば、事故後、味を感じたことがあっただろうか。たぶん、ない。そんな余裕はなかった。

 甘くてぬるくて、重い味が舌に絡まる。しばらく無心で舐め続けた。

「……ねぇ、なんで死のうとしてたのか、聞いてもいい?」
 りんご飴を食べ終わって、ぼんやり街の景色を眺めていると、不意に静かな声で、男の子が訊ねてきた。

 言いたくないわけじゃないけれど、すんなり答えるのもどうかと思い、私は咄嗟に「名前、教えてくれたらね」と返す。

 すると、
「俺は綺瀬(あやせ)
 男の子が名乗った。

「アヤセ? それって苗字? 名前?」
「名前。苗字は紫咲(しざき)。紫咲綺瀬だよ」
「ふぅん……」
 珍しい、きれいな名前だと思った。

 男の子改め、綺瀬くんが、私を「君は?」という視線で見つめる。

「……私は榛名(はるな)水波。ねぇ、紫咲くんはなんで私の名前知ってたの?」
「えー、そこは綺瀬って呼んでよ。だから苗字言わなかったのに」

 ……ため息を漏らす。
 と同時に、この人案外めんどくさい性格だな、と思った。

「……ハイハイ、じゃあ綺瀬くん。綺瀬くんは、なんで私の名前を知ってたんですか」
「図書館で何度か見かけたことがあったんだ。君のこと。それで、君と同じ南高(みなみこう)の人がキミの噂話をしてて、名前を知ったの。南高の水波ちゃんって覚えやすくない?」
「え……綺瀬くんってもしかして」

 思わずげんなりして綺瀬くんを見る。

「いや、冗談だよ!? 冗談だからね!?」
「ここ、地元の人でもなかなか知らない穴場だよね。私も初めて来たし。そんな場所で偶然会うとかふつうじゃ……」
「いや、待って待って! 俺、べつに君のストーカーとかそういうわけじゃないから! 断じて!」

 冗談のつもりでまだ怪しむ視線を送ると、綺瀬くんはさらに慌てた様子で否定した。

「だから違うって! たまたま名前が耳に入ったから覚えてただけで……。それでなくたって君、いつもひとりで図書室にいるんだもん。目立つ容姿してるし、だれだって気になるでしょ!」

 綺瀬くんはわざとらしく『ひとり』の部分を強調した。
「…………」
 ムッとする。

「悪かったですね、変わり者で。いつもひとりで」
「……あ、もしかして怒った? ごめんごめん。ほら、このかき氷あげるから機嫌直してよ。ね?」
「もう溶けてるじゃん!」
「ジュースだと思って!」

 ため息をつく。
「……いらない。それから、べつに怒ってないし」
「怒ってるじゃん。ほら、もう。可愛い顔が台無しだよ? スマイルスマイル!」
 さらりとドン引くようなことを言う綺瀬くんに、げんなりする。

「水波は笑ってたほうが可愛いよ」
 綺瀬くんは膝に頬杖をつき、私を見上げている。
 目が合う。逸らしたら負けな気がするけれど、無理。逸らした。

 ……ふつう、初対面の異性にこういうこと言う?
 もしやこの人、タラシなのだろうか。……うん、きっとそうに違いない。となると、私としてはあんまり関わりたくないタイプかもしれない。

 黙り込んでいると、綺瀬くんは私が照れていると思ったのか、
「え、これも冗談だよ?」
 と、ケロリとした声で言った。
「はぁ!? 冗談!?」
「うん ……あれ? なんか水波、顔赤い?」
 自分でも顔が熱くなるのが分かった。
 伸びてきた綺瀬くんの手を振り払う。
「最低! 信じらんない! ふつうこういうこと冗談で言わないから!!」
「ごめんよ、そんな本気にすると思わなくて」
「ほ、本気になんてしてないってば!」
「ははっ! そっかそっか」
「もう帰る!」
 勢いよく立ち上がると、綺瀬くんが慌てて私の手をとった。

「ごめん、謝るから行かないでよ」
「…………じゃあ、離して」
 パッと綺瀬くんの手が離れる。
 服の皺を伸ばしてから座り直すと、綺瀬くんはホッとしたように表情をゆるめた。

 再び沈黙が落ちた。
 葉と葉が擦れる音が耳を支配する。

「……どうしてこんなことしたの?」

 もう一度、綺瀬くんが訊いた。
 心臓が、どくんと跳ねる。

「どうしてって……」
 それは。
 言葉に詰まり、ぎゅっと拳を握る。
「……言ったでしょ。私は人殺しだって」
「うん。だからそれ、どういうこと? 当たり前だけどさ、直接殺したとかそういうんじゃないんだろ?」
「…………」

 目を逸らし、不機嫌さを隠さずに告げる。

「……綺瀬くんは、なんでそんなこと知りたいの? べつに私のことなんて関係ない。どうだっていいじゃない」
「まぁ、たしかにさっきまではそうだったかもしれないけど。でも、今は君の恩人なんだから、聞く権利があると思わない?」
 にこやかに言われてしまった。

「……ちっ」
 ……めんどくさい人だ、やっぱり。
「……君って、舌打ちするのクセなの? それやめたほうがいいよ。キレイな顔で舌打ちって結構効くから」

 いや、ふだんはしないし。綺瀬くん限定だし。

「……まぁいいや。とにかくね、俺が君にかまうのは、君のことが気になるからだよ。とはいってももちろん興味本位じゃない。ただ理由が分かれば、君をちゃんと助けられるかもしれないから。だから聞きたい」

「助ける……? どうして?」

 私には、助けられる資格なんてない。
 私には、助けを求める権利なんてない。

 それだけじゃない。
 だって私たちは、ついさっき会ったばかりなのだ。
 それなのに、綺瀬くんがここまでしてくれる理由はいったい……。

「……理由なんてないよ。あるとすれば、君ともっと仲良くなりたいから、今ここに繋ぎ止めておきたい。それだけだよ」

 綺瀬くんの言葉は、乾き切った私の胸に深く染み込んでいった。

「だからお願い。話して」
 あまりにもまっすぐな眼差しが、私を射抜いた。
「私は……」

 小さく息を吸ってから、口を開いた。


「……一昨年の沖縄の海難(かいなん)事故、知ってる?」
「……フェリーが岩場に座礁して、沈没したやつだよね?」

 少し黙り込んでから、綺瀬くんが答えた。
 私は静かに頷き、続ける。

「私ね、あれの被害者なの。一昨年の夏休みにね、親友とふたりで沖縄に旅行に行ってた。……それで、あのフェリーに乗って、事故に遭った。結果、私だけ助かって親友は死んだ。……まぁ、簡単に言ったらそういうこと」
「…………」

 綺瀬くんは黙り込んだ。

 当たり前だ。
 こんなの、他人からみたらあまりにも重過ぎる内容だし、私だって、本当に助けてほしくて話したわけじゃない。ただ、軽く説明すればいくら綺瀬くんでもそれ以上ツッコんではこないだろうと思ったから話した。

 沖縄のフェリー海難事故は、二年前の今日、八月九日に起こった。

 二○二五年、沖縄の沖合でフェリーが岩場に座礁し転覆、沈没する事故があった。
 その日は濃霧により視界が悪かったため、一時は欠航になるかと思われた。しかし、フェリーは一時間遅れで出航してしまった。

 ……もしあの日、あのまま欠航になっていれば、と何度思っただろう。

 出航してまもなく、視界不良による操縦ミスでフェリーは岩場に座礁。船体は横倒し状態のまましばらく海上を流れた。
 その後、損傷部から海水が船内に流入し、フェリーは乗客と乗員を乗せたままゆっくりと沈没を始めた。

 結果、フェリーに乗っていた二十二人の乗員乗客のうち二十人が死亡、うちひとりが今も行方不明のまま。多くの犠牲者を出し、ニュースにも大きく取り上げられた事故だった。

 あの事故で助かったのは、フェリーに取り残されて沈没直前に助け出された私だけ。
 海上保安庁の潜水士が私を助け出した直後、フェリーはひとりの乗員を取り残したまま、渦を巻いて海の中に消えていった。

 事故発生から、約一時間半後のことだった。

「あの日、私は来未と一緒に乗ってたんだ。でも、来未だけ海に落ちちゃって……ライフジャケットを着ていなかった来未は遠くまで流されて、発見されたときにはもう……。……結局、私だけ助かっちゃった」

 目を閉じると、今でも来未の声が聞こえてくるような気がする。涼やかな、夏の風鈴のような彼女の声が。

 もちろんそれはただ気がするだけで、実際には聞こえない。目を開いても、来未はどこにもいない。この世の、どこにも。

 指先が白くなるほど、手を握り込む。

「……今日、来未のお墓に行ったの」
 綺瀬くんが、柵の向こうに落ちている仏花をちらりと見る。
「そうしたら、来未のママと会っちゃって……あなたが死ねばよかったのにって言われたんだ。あの子を返してって、泣きながら私に詰め寄ってきた」

 足が竦んだ。怖くて怖くて、たまらなかった。
 視界が滲む。俯き、一度瞬きをすると、雫が膝の上にぽっと落ちる。

「私……怖くて……だって、来未のママのあんな顔初めて見たの。事故の前まではすごく優しい人で、声を荒らげるところなんて、一度も見たことなかったのに……」

 あそこまでだれかに恨まれるのははじめてだった。

 血走った目。わなわなと震える拳。

 穏やかでいつもニコニコしていた来未のママが、あんな顔をするだなんて、あんなふうに怒鳴るだなんて信じられなかった。

「来未のママにあそこまで憎まれているだなんて、今日までぜんぜん知らなかった。でも、考えたら来未のママの態度は当然のことだよね」

 だって、なにより大切な娘を失ったのだ。
 来未のママにとって、私は娘を奪った人間。娘を殺した人間。私は、殺したいほど憎まれて当然の人間なのだ。

「……だから、死のうとしたの?」
 目を伏せ、頷く。また雫がぽろっと落ちた。

 こんなに苦しいのなら、助からなきゃよかった。あのとき、来未と一緒に死んでしまえばよかったんだ。
 そうしたら、こんな苦しまずに済んだのに。

「……もう、終わりにしたかった。死んだら、楽になれると思ったの」

 逃げたかった。でも、生きている限りこの現実は変わらない。
 ……ならば。
 どこに行ったって、逃げ場所がないのなら、もう死ぬしかないではないか。

「……まったくバカだなぁ」
 空に向かって、あの子の真似をして大きな声で言う。
「え……?」
 綺瀬くんが、戸惑いがちに私を見た。
「……来未の口癖だったの。私が落ち込むと、いつもとなりでバカだなぁって言って笑ってた。笑って、気にするなって言ってくれたんだ。そうしたら私も笑って、うん、そうだねって笑い飛ばすことができたの」

 でも……ここにはもう、そう言ってくれる親友はいない。来未は私のせいで、死んだ。

「私、なんで生きてるんだろ……」

 再び目の奥がじんわりと熱くなる。

 生きることがこんなに辛いだなんて思いもしなかった。
 あの事故がなければ、こんな感情は知らずに生きられたのに。
 幸せに笑っていられたのに。
 ……あの事故をなかったことにできたら、どれだけよかっただろう。
 そんなことはできない。分かっている。だから、私は。

「……死にたい」

 荒波のように迫り来る孤独に耐えるようにぎゅっと目を瞑る。すべてを遮断しようとしたとき、頭上から、ふと光の雨のような声が降ってきた。

「それは違うよ」

 顔を上げると、綺瀬くんが私の手をそっと握った。
「君は死にたいんじゃなくて、この苦しみから逃れたいだけだよ」

 この……苦しみから。

「……でも、生きてる限りそんなの無理だよ……っ!」
「そうかな? そんなこと、ないんじゃないかな」
「どういうこと……?」

 首を傾げると、綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて言った。
「だって君は、助けられたから生きてるんだよ」
「助けられたから……生きてる……?」

 優しい顔で私を見る綺瀬くんがいる。吸い込まれそうなほど、澄んだ瞳をしていた。まるで、水の惑星そのものを閉じ込めてしまったかのような。

「……せっかく助けられた命なんだから、無駄にしちゃダメじゃん」

 ドラマやなんかでよく聞くような、ありきたりなセリフだと思う。けれど、その言葉はなによりもあたたかく、私の胸にじわじわと沁みていく。

「でも、やっぱり話を聞いてよかったよ」
「……え?」

「君はただ、苦しみから逃げたかっただけ。君にとって、苦しみから逃れるための選択肢のひとつに、死ぬことがあって、君は間違ってそれを選んでしまっただけなんだ」
「選択肢……?」
「そうだよ。でも、死なずに君の苦しみが消える方法だってきっとあるはず。それを一緒に探そう」

 爽やかな微笑みをたたえて、綺瀬くんが告げる。
 その笑顔に、思わず言葉を失って見惚れる。
 返す言葉も忘れて呆然としていると、綺瀬くんはかき氷のカップを傾け、溶けたそれを喉に流し込んだ。

「ひゃ〜っこいっ!! 頭がぁっ!」
 かき氷を食べたとき特有の頭痛に叫ぶ綺瀬くんを、呆れて見つめる。
「一気に飲むからだよ」
「んーっ、でもうまい!」

 痛みが落ち着いたのか、綺瀬くんはからりと笑った。

「……まったく、子供みたい」
「ははっ。ねぇ、俺の舌どうなってる? 赤くなったでしょ?」
 と、綺瀬くんは私に顔を近付け、舌を出した。
「ちょ、なに。いきなり近っ……」
 咄嗟に身を後方へ避けると、バランスを崩した。
「わっ……!」

 バランスを崩し、ベンチから落ちそうになる私を、綺瀬くんが掴み、抱き寄せる。

「……大丈夫?」
 すぐ耳元で声がして、うわ、と思う。
 私は、綺瀬くんに抱き締められていた。
「……だ、大丈夫。ありがと」
 身体を離しながら、熱くなった頬を押さえた。
 そんな私を見て、綺瀬くんはにっこりと微笑んでいる。

 ……不思議な人だ。
 初対面なのに、私が死ぬのを力づくで止めて。
 無理やり私の心に土足で踏み込んできて。励ましてくれて、食べ物まで与えてきて。
 ……でも、嫌じゃない。というか、初対面なのにこんなにも安心感があるのはなんでだろう……。

 涼し気な藍色の浴衣と、赤いきつねのお面。いまどきの高校生らしくない、落ち着いた言動。話せば話すほど、不思議な人だと思う。
 綺瀬くんは、しばらく日が暮れて落ち着いた色の街並みを眺めていた。

「……さっき、君に触れて、君が生きていることが実感できて、よかった」
 綺瀬くんはそう、しみじみとした口調で言った。見ると、綺瀬くんは静かに涙を流していた。

「綺瀬くん……?」
 驚き、私は息を詰める。

 どうしてあなたが泣くの。どうしてそんなに、私のことを心配してくれるの。あなたは、なんなの。

 綺瀬くんの涙は、私の心まで揺り動かした。

「……あのね、水波。心が死んでいくのは、目では見えないんだよ」
「え……?」
「だから、手遅れになる前にだれかに助けを求めなきゃダメなんだ」

 助けを、求める。
 まっすぐな視線から、目を逸らす。

「自殺というのは、心が死んだ人がする行為だから」

 低い声にどきりとしてもう一度綺瀬くんを見ると、彼は少し責めるような眼差しで私を見ていた。

 私は綺瀬くんから視線を外し、手元を見る。

「……自殺はいけないって言う綺瀬くんの気持ちは分かるよ。でも、私には、そんなことを考えてる余裕なんてなかった。とにかくこの状況から逃げたかったの。私だけまだ生きているのが辛かったから」

 綺瀬くんが、寂しげな眼差しを私に向ける。

「でも、もし俺が来未ちゃんだったら、水波だけでも助かってよかったって思ってると……」
「やめてよ」
 静かに綺瀬くんの言葉を遮る。
「そういうの、いらないから」

 綺瀬くんが息を詰めるのが分かった。見ず知らずの私にこんなによくして、話まで聞いてくれている人に、私はなんてひどい言葉を投げているのだろう。

 頭では分かっているのに、でも、止められない。

「なにを根拠にそんなこと言えるの? 死んだ人の気持ちなんてだれにも分からないじゃない! 勝手なことを言わないで」

 心臓がどくどくと騒ぎ出す。一瞬にして全身から酸素が消失したように息苦しくなった。

「ごめん、水波……」

 違う。謝ってほしいわけじゃない。

「私は……」

 身体を折り曲げ、両手で自分を抱き締める。
 私は、だれかにそんなことを言ってもらえるような人間じゃない。

「私は……私は」
 苦しい。息ができない。まるで、水の中にいるみたいだ。
 過呼吸のようになって、背中を丸めた。

「はぁっ……」
「水波、ごめん。大丈夫だから落ち着いて」
 綺瀬くんが優しく私の背中をさすってくれる。

「大丈夫だから、ゆっくり息を吸って」

 苦しい。息が、できない。
 あのときの来未も、こんな感じだったのだろうか。こんなふうに、苦しんだのだろうか……。

 どれくらいそうしていただろう。過呼吸が治まる頃には、空はすっかり藍色になっていた。
 こめかみを汗がつたい落ちた。

「……毎日、あの日のことを夢に見るんだ」
「……うん」

 綺瀬くんは控えめに相槌を打ってくれる。

「来未が流されていく夢。来未が必死に助けを求めてくるのに、私は一度だってその手を取れないんだ」


 あの日からずっと、水の音が……来未の声が頭から離れない。

 夢の中で、来未は遠くへ流されていく。
 流されながら来未は、助けてと私に必死に手を伸ばすのだ。私も一生懸命来未へ手を伸ばすけれど、届かない。
 来未はどこまでも、どこまでも流されていく。

「私はあのとき……必死に助けを求める来未の手を離した……」
 あの光景は、いまだに鮮明に焼き付いたまま、私を責めたてる。
「あのとき私は、たしかに来未の手を一度掴んだ。それなのに私は、来未の手を、すがりついてくる彼女の手を離しちゃった……」

 その事実は、私と来未しか知らない。
 海上保安庁の人も、来未のママも、家族すら知らない。言えない。

 怖くて、とても口になんてできなかった。
 これは、今この世界で私しか知らない真実だ。

「来未はきっと、私が手を離したことを恨んでる。私がちゃんと握っていれば、来未を引きあげていれば、来未は、私と一緒に助かったかもしれないんだから」

 夢の中で、来未はいつも苦しそうに顔を歪ませて、海の底に沈みながら溺れ死んでいく。
 来未が波に呑み込まれたあとのそんな光景を見た記憶なんてないのに。私の脳は勝手にその映像を作り出しては、リピート再生する。

「……夢の中でいくら手を伸ばしても、来未は遠くへ行ってしまう。私を責めたてるみたいに、手だけを海面に出して」

 分かってる。手を離した私が悪いんだ。来未はきっと私を恨んでる。だから、今も夢に出てくるんだ。

 最近は来未のことまで忘れたいと思うようになってしまった。

 だって、眠れないから。
 苦しくてたまらないから。

「命で償うしか、もう私には選択肢なんて残されてないんだよ」

 呟くように言うと、
「……ダメだよ」
 綺瀬くんが私の手を両手で包む。
「死んじゃダメ。だって、君が自殺したら、君は彼女をもう一度殺すことになる」
「……もう、一度?」
「そうだよ。だって、死んじゃった人は、生き残った人の思い出の中でしか生きられないんだから」

 とても寂しそうな声をしていた。

「ねぇ、よく思い出してみて。君の親友は、君に恨み言を囁くような人だった? 君を責めるような人だった?」
「それは……」

 ふと思い出す。
 そういえば、この人も大切な人を失っているのだと。
 遠くを見つめるその横顔は、悲しいほど美しい。もしかしたら綺瀬くんも今、遠くにいるその人のことを想っているのだろうか。

「……苦しくないの? 綺瀬くんは、その人を思い出して」
「……苦しいよ。でも、俺にはもう想うことしかできないから。なにがあっても、忘れたくないって思うんだ」
 悲しげに笑う綺瀬くんに、言葉を失う。

 でも、たとえそうだとしても。
「……私は、綺瀬くんみたいにはなれないよ」

 私には、亡くなった来未をそんなふうに想い続けることはできない。
 だって、
「私は、そんなに強くないもん」
「水波……」
「……話、聞いてくれてありがとう。……りんご飴も」

 じゃあね。
 そう言って立ち上がり、石段へ向かう。すると、一度離れたはずの手が、パッと掴まれた。

 振り返ると、今にも泣きそうな顔をした綺瀬くんと目が合う。
「な、に……?」
「強くないよ、俺だって。だからここにいるんだ」

 掴まれた手に、ハッとする。綺瀬くんの手は、かすかに震えていた。

「本当は俺も、君と同じ。ひとりが寂しかったんだ。寂しくてたまらなくて、死のうかと思ってた。そうしたら、君を見つけた。君を助けたのは……似たもの同士だったから」
「え……」
「本音を言うよ。本当は、俺が水波を助けたのは、俺のため。君に、そばにいてほしいって思ったんだ。……俺も今、寂しくて死にそうだったから」

 顔を上げて綺瀬くんを見て、私は息を呑んだ。綺瀬くんは、静かに涙を流していた。

「えっ……ちょっと……」

 私は慌ててポケットからハンカチを取り出す。
「はは。ごめん。なんか急に涙が出てきちゃった。……まったく、男が泣くなんて情けないよな」
 片手で乱暴に涙を拭いながら、綺瀬くんは力なく笑った。

「……そんなことない。泣きたいときは、だれにだってあるよ」
「……ん」

 はにかんだ綺瀬くんは、今にも消えてしまいそうで。私は、思わずその手を握り返した。

「……いいよ、いる」
「え?」

 綺瀬くんが驚いて顔を上げる。私は潤んだ声でもう一度言った。

「私が、そばにいるから」

 言いながら、唐突に思った。

 きっと、私はこんなふうにだれかに寄り添ってほしかったんだ。お互いを心から欲しがって、寄り添い合えるだれかに。

 私はきっと、ずっとこの人を待っていた。

 いつの間にか、私は綺瀬くんの手を握ったまま眠りについていた。
 綺瀬くんのとなりは、優しい香りがしてあたたかな毛布に包まれているような心地がして。
 事故の後初めて、私は来未の夢を見ることなく、ぐっすりと眠った。


 ふと目を開けると、満天の星空が見えた。
 目の前に広がる夜空は霧が晴れたようにすっきりとしていて、星が溢れんばかりに輝いている。

 星? なんで……。

「あ、起きた?」

 すぐ近くで、声がした。
 ハッとして振り向くと、浴衣姿の男の子と目が合った。綺瀬くんだ。
「わっ!」
 驚いて少し身を離すと、手が繋がれていることに気付く。慌てて離し、綺瀬くんから距離をとった。

「ごっ、ごめん! 私、寝ちゃって……」

 自分で言いながら、驚いた。

 今、何時? うそ、私どれだけ寝てた!?

 見回せば、空はもう真っ暗だ。
 こんなに眠りこけるなんて有り得ない。
 いつもは眠っても数十分で悪夢にうなされるのに……。

「気にしないでいいよ。俺ものんびりできたし。こんなに穏やかな日は久しぶりだったから」
 そう言って、綺瀬くんはくんっと両手を空へ伸ばした。
「……もしかして、ずっと手を繋いでてくれたの?」
 訊ねると、綺瀬くんはちょっと申し訳なさそうに笑って、首を横に振った。

「ううん。一回離したんだ。でも、その後ちょっとうなされてるみたいだったから、心配でもう一回握った。そうしたらすっと眠ったようだったから、それからはずっと」

 つまり、ほぼずっと綺瀬くんは私に付き合っていてくれたらしい。

「……ごめん」

 いくら寝不足だったからって、初対面の人の手を握ったまま眠るなんて有り得ない。

 落ち込んでいると、くつくつと笑う声が聞こえた。

「なんで謝るの。そこはありがとうって言ってほしかったかな。俺こそ、こんな美人と添い寝できるなんてラッキーだったんだから」

 あっけらかんとした口調に、小さく笑みが漏れた。

「……なにそれ」

 笑いながら綺瀬くんを見ると、綺瀬くんはふっと目を閉じて、空へ顔を向けた。月明かりに照らされたその横顔は、ハッとするほど涼しげで美しい。

「俺も、君のぬくもりに慰められたよ。だから、本当にお互い様だよ」
「……そっか。それなら、よかった」

 空を見上げ、目を閉じる。
 すうっと鼻から息を吸い込む。身体が軽い。頭がすっきりしている。
 こんなふうに深い眠りについたのは、事故以来初めてのことだった。

「……ずいぶん、寝不足だったんだね」

 控えめに、綺瀬くんが言った。目を開けて、綺瀬くんを見る。躊躇いつつ、小さく頷く。

「……いつも来未が夢に出てきて、ほとんど眠れなかったから」
 綺瀬くんがもう一度、私の手を握る。どこまでも澄んだ瞳が、私を映し出す。
「……じゃあ、眠くなったらここにおいで」
「え?」
「俺はいつでもここにいるから。眠くなったら、手を握っててあげる。だから、君のぬくもりを俺にも分けて」

 言われて初めて、その手がひんやりしていることに気付いた。

 こんなに暑いのに……。
 綺瀬くんの手はなぜか、なにかに怯えるように震えている。

「あなたも、寂しいの? あなたも、孤独なの?」
 綺瀬くんは静かに微笑むだけで、なにも言わない。

 不思議だ。今日出会ったばかりの同じ歳くらいの男の子なのに。
 名前以外、お互いに大切な人を亡くしたということ以外、なにも知らないのに。
 家の場所も、通っている学校も。
 なにも知らないのに。
 でも、でも……。
「……ありがとう」
 私はその手を、ぎゅっと強く握り返した。


 ***


 それから数日後の夕方。
 私はまたあの神社の先にある広場にいた。

 石段に沿うようにつけられた提灯を見ながら、神社の鳥居を目指す。
 神社を抜けて、その奥にある石段をさらに登っていくと、街を一望できる広場に出る。その一角にあるベンチに綺瀬くんがいた。
 ホッとして、そっとベンチに向かう。

「やぁ。また来てくれたんだ」

 綺瀬くんは私に気が付くと、読んでいた本を閉じて、ベンチをとんとんと叩いた。

「おいで」

 私は素直にとなりに座る。
「本……読んでたの?」

 緊張しながら話しかける。一度泣き顔を見られているせいか、ちょっと落ち着かない。

「ううん。開いてただけ」
「え、開いてただけ……?」

 綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは恥ずかしそうに笑って、頬を掻いた。ほんのり頬が赤くなっている。

「本を読んでるふりしながら、水波を待ってた」
「え、私を?」
 綺瀬くんが苦笑する。
「……寂しくて。でも、昨日も一昨日も来なかったし、もしかしてもう来てくれないのかなぁって思って、ちょっと落ち込んでたところ」

 ぱたん、と本を閉じて、綺瀬くんは私を見た。どきりとして、思わず目を逸らしてしまう。

 なんだろう。目を合わせるのが、恥ずかしい……。

「……ごめん。何度かその、表の神社までは来たんだけど」
「だけど?」
「その、なかなか勇気が出なくて……」
 すると、綺瀬くんがふっと笑う。
「……そっか」

 会いたいけど、会いたくない。

 そう思ってしまったのだ。だって、言われたとおりに甘えてここに来て、もし綺瀬くんがいなかったら。
 私は、今度こそ生きていける気がしない。

「おかげで俺は、毎日寒くてたまらなかったんだけど」
「あ……」

 綺瀬くんは膝の上で手を組んだ。
 あの日のぬくもりを思い出す。夏の陽の下にいるとは思えないほど冷たい手。なにかに怯えるように、震える手……。

 そういえば、綺瀬くんも私と同じだったのだ。綺瀬くんも寂しくて、私のぬくもりを求めていたのだった。
 それなのに、私はまた自分のことばかり……。

「……ねぇ綺瀬くん。手、繋いでもいい?」
 おずおずと声をかける。
「え?」

 綺瀬くんは、驚いたように私を見た。私はハッとして、立ち上がる。

「あっ……い、いや、なんでもない。ごめん、今のは、忘れて」
 いたたまれなくなって逃げ出そうとしたとき、パシッと手を掴まれた。

「待って」
 引き止められ、足を止める。

「……せっかく来たのに、もう帰るのはなしでしょ」
「でも……」
「もう少し、そばにいてよ。お願い」

 縋るような声に、私はもう一度綺瀬くんのとなりに座り直した。すると、綺瀬くんがぎゅっと私の手を握り直す。少しかさついた指先が、くすぐったい。

「……うん。私も、ここにいたい」
 あぁ、そっか。
 寂しいのは私だけじゃないんだ……。

 ひんやりとした手を握り返して、目を閉じる。

「……私ね、綺瀬くんのとなりなら、ちゃんと眠れるの」

 あの恐ろしい悪夢を見ずに、ぐっすりと眠ることができる。なぜかは、分からないけれど。

「……違うよ。俺が手を繋いでいれば、でしょ。俺もそうだから、分かる。俺も、君と手を繋いでいると、ぜんぜん寒くないんだ。やっぱり俺たちは、似たもの同士なんだよ」

 そう言って、綺瀬くんはにっこりと笑った。

「……うん、そうかも」

 身を寄せ合って、手を握り合って、目を閉じる。
 静かに、波が引くように、私はゆっくりまどろみへと落ちていく。




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死に際の出会い

ー/ー


 八月九日、夕方。
 夏の盛りを過ぎた陽射しの下。

 私は、ふらふらと街の中を彷徨(さまよ)っていた。手から垂れた仏花は暑さのせいか、色を失ったようにくすんでいる。

 まるで私の心みたいだと、視線を仏花に落として、ぼんやりと思った。

 歩く私のすぐ真横を通り過ぎていく車が、けたたましくクラクションを鳴らす。
 耳をつんざくような不快なその音に、ふとさっきのできごとがフラッシュバックした。

 親友が眠るお墓の前だった。
『なんであなたは生きてるの』
 この数年で、見違えるほど老け込んだ親友の母親に浴びせられた言葉。

 頭を殴られたような衝撃を受け、我に返る。

 本当だ。私は、なんで生きているんだろう……。

『あなたが死ねばよかったのに』
 うん、そうだよね。私も、そう思う。

『あの子を返して』
 あの子が帰ってきてくれるなら、私はなんだってするよ。だって……私だって会いたいんだから。

 頭の中を、ぶつけられた言葉がぐるぐる巡っている。
 それらの言葉は、私を殴るだけ殴ったあとも、そのまま背後霊のようにくっついてきていた。

『この悪魔』
 ……あぁ、そうだ。私は悪魔だったんだ。あの子の命を奪った悪魔だったんだ。
 だからきっと、あの子は私をひとり置き去りにして()ってしまったのだ。

 突然、どん、と太鼓の音がして顔を上げる。

 街の中央にある小高い山の上に、小さな神社が見えた。
 神社へ続く長い石段の両脇には、赤色の提灯(ちょうちん)が整然と並んでいる。

 それはまるで鬼火のように、淡く、怪しくゆらゆらと揺れていた。

 どん、どん。

 お囃子(はやし)の音色に誘われるように、私はその場所へ足を向ける。

 金魚の(ひれ)のような鮮やかな袖や帯飾りが、視界のあちこちで優雅にひるがえる。
 私はそれら揺らめく影の波を、縫うように歩いた。

 つーっと、汗が首筋をつたう。

 石段が途切れると、目の前に大きな朱色(しゅいろ)鳥居(とりい)が現れた。
 くぐり抜けると、広場の中央に(やぐら)が建っている。その櫓を取り囲み、浴衣を着た人たちが楽しげに盆踊りを踊っていた。

 戦隊もののキャラクターのお面を付けて踊る子供。
 ゆったりと優雅に舞う老人。
 親子で、友達同士で、カップルで。それぞれ楽しそうに笑いながら櫓の周りを回る人たち。

 ……楽しそう。
 そう思うけれど、その中に入ろうという気にはならない。

 屋台のりんご飴も、かき氷も、お好み焼きも、食べたいと思わない。
 今、私の中にある欲求はただひとつ。

 死にたい。

 それだけだった。

 お祭りが催されている広場を抜け、神社の後ろ側へ行くと、またさらに石段が現れた。

 こんな場所あったんだ……。

 地元だけれど、初めて来る場所だ。いったいこの石段はどこまで続いているのだろう。

 両脇の木が、石段を覆うように青々と繁っている。
 木々がざわめくその石段を、私はなにかに誘われるように、ただひたすら昇った。

 どれくらい昇っただろう。いつの間にか、お囃子の音はほとんど聞こえなくなっていた。

 石段を昇り切ると、突然視界が明るくなった。
 それまで生い茂っていた木々はすべて切り倒されていて、そこだけぽっかりと開けた空間が現れる。

 進むと、燃えるような夕焼けと喧騒(けんそう)にまみれた見慣れた街の景色が広がっていた。
 街の向こうにある大きな山と、さらにその向こうにあるオレンジ色の大きな太陽、分厚い入道雲(にゅうどうぐも)

 車のクラクション。信号機の音。だれかの笑い声。
 ぜんぶが、遠い。街も、人も、未来も……過去すら――。

 かさりと音がした。
 音のしたほうへ目を向けると、少し先に転落防止用の柵があった。錆びて色が変わり、傾いている様子は心もとない。

 そっと足を踏み出して、そこへ向かう。下を覗くと、その高さに目眩(めまい)がした。

 ふと、思う。

 ここから落ちたら、死ねるだろうか。死んだら、あの子に会えるだろうか。私が死んだら、あの子の心は、あの人は救われるだろうか……。

 私も……楽に、なれるだろうか。

 足が動く。さっきまでと違って、足取りは驚くほど軽い。
 柵を越える。

 そっか。私は、ずっとこうしたかったんだ。

 この先には、きっと私にしか行けない道があるんだ。
 そこはきっと私が楽になれる場所。あの子に会える場所。あの視線から、ため息から開放される安らかな場所。

 足を前に踏み出した。

 足場のない空間に浮いた足は、重力に沿って落ちていく。目を瞑って、すべてを遮断する。

 風が私の体を包み込もうとした、次の瞬間。
「なにしてるの!」
 突然、腕に痛みが走った。
 驚いて目を開く。振り返る間もなく、ぐっと乱暴に腕を引かれ、息を詰める。

 キィ、と錆びた柵が音を立てた。

 その場に倒れ込んだ私は、呆然と顔を上げた。そこには藍色の浴衣を着た男の子がいた。赤色の狐のお面を被っているため、顔は分からない。

「……だれ?」

 訊ねると、男の子の喉仏がわずかに上下して、掴んだ腕の力をゆるめた。けれど、ここが柵の外側であることを思い出したのか、すぐに力がこもる。

 男の子は私の腕を掴んだまま、仮面を少し横にずらした。

 目が合う。

 仮面の下から半分だけ覗いた素顔は、ハッとするほど整っていた。切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋。上品な唇はきつくきゅっと引き結ばれていた。
 さらさらとした黒髪が夏風に揺れている。

 同い年くらいだろうか。たぶん知らない子だ。私は眉を寄せて、睨むようにその子を見返した。

「なに? 手、痛いんだけど」
 強く抗議するが、しかし、男の子の手の力が緩まる気配はない。
「とにかく、こっちきて」
「あっ……ちょっと!」

 さらに強い力で、半ば引きずるように柵の内側へ引っ張られた。そのまま地べたに落ちると、男の子はようやく私から手を離した。

 掴まれていたところがじんじんとして、私は思わず、男の子をキッと睨んだ。
「ちょっと、なにするのよ!」
「なにじゃない! 危ないだろ!」

 容赦のない怒鳴り声が私の耳を貫き、無性に涙が込み上げてくる。けれど、知らない人の前で泣くのが嫌で、懸命に唇を噛み締めてこらえた。

「あなたには関係ないでしょ!」
 震える声を誤魔化すように強く言い返すと、
「じぶんがなにしようとしたか分かってるの!? 落ちてたら、死んでたんだよ!」と、さらに怒鳴りつけられた。

 耳がきぃんとして、思わず耳を押さえた。

 なにも知らないくせに。
 下腹のほうから、苛立ちがふつふつと湧き上がってきた。

「あなたこそ、いきなりなんなのよ!? 分かってるよ! 見れば分かるでしょ! 死のうとしてたの! 死にたいからここにいたの! 放っておいてよ!」

 強い口調で言い返しながら、なんで他人にこんなことを言わなきゃならないのだと、余計に腹が立ってくる。
 その意思を込めてぎゅっと唇を引き結んだままでいると、男の子が呆れたようなため息をついた。

「放っておけるわけないだろ。目の前で死のうとしてる奴がいたら、だれだって助けるよ」

 当たり前のように言われ、じぶんの顔がこわばるのが分かった。

「……助けるってなによ。もしかして、自殺を止めることが私を助けることだとか思ってるの? だったら間違い。そんなの、あなたの勝手な自己満足でしかない。私を助けたいなら、素直に死なせて」
「……いやだ」

 男の子は、迷いのない瞳で私を見下ろしている。

 ……違う。
 彼の言うとおりだ。目の前でだれかが苦しんでいたら、助けるのが当たり前。

 その当たり前ができないのは、私だ。私は、来未を……。
 青白い手を見下ろす。手首には、男の子に掴まれた跡がくっきりと残っていた。こんなに跡が残るなんて、ずいぶん強く握られていたらしい。

 ……助けるなら私じゃなくて、あの子を助けてほしかった。あのときだって、あの子は必死に助けてって叫んでいたのに。

 助けるだなんて簡単に言ってしまえるこの人が羨ましい。私を柵の内側へあっさり引き戻してしまうその手が羨ましい。

 ぎゅっと拳を握り、男の子の大きな手を見つめる。

 大きくて、骨張った、男らしい手。なんでも守れそうな力強い手だった。この手があれば、私にもあの子を助けることができたのだろうか。

「……あなたは、いいなぁ」
「え?」

 あの子はもういないのだから、今さら後悔したって遅いのだ。それでも思わずにはいられない。

「……とにかく、あなたには悪いけど、私には救われる資格なんてないの。だからもう、どこかへ行って。お願いだから、ひとりにして」

 そう呟いて、私は男の子を拒むように顔を背けた。

「……よく分かんないけどさ、そばにいるよ」

 その場で座り込んだまま項垂れる私に、男の子がしっとりとした声で言った。

「……なんで?」
「……だって、俺がいなくなったら君、また自殺しようとするでしょ」
「だったらなによ。私の命なんだから、どうしようが私の勝手でしょ」

 それこそ、赤の他人のあなたには関係のないことだ。

「うわ、なにその言い草、可愛くない。それに、それこそ無責任だと思うけど」
「あぁ、もううるさいな……なにも知らないくせに」
 力なく言い返すと、男の子は静かに、でも強い口調で続けた。
「知らないよ。けど、それでもいやなんだよ」

 ……変わった人。

 いなくなる気配のない男の子に、私は諦めのため息を漏らす。完全に死ぬタイミングを逃してしまった気がするけれど、私の正体を知れば、さすがに消えてくれるだろうか。

「……じゃあ、私が人殺しだって言っても助けてくれるの?」
「……は? 人、殺し……?」

 男の子があからさまに動揺する。

「そうよ。私が人殺しだって知っても、あなたはまた助けてくれるの?」

 男の子は私を見つめたまま、黙り込んだ。

 当たり前の反応だ。私に、悲しむ資格なんてない。

 その反応に、ほんの少しだけショックを受けているじぶんがいることに気付いて、呆れた。
 こんな状況でも、私はまだ救われようとしているのか、と。

 ダメだよ、現実を、目の前の表情を見て。
 私の正体を知った人はみんな、こういう顔をするんだ。
 こういう目で、私を見るんだから。

 やっぱり私は、存在するべきじゃないんだ。

 男の子の表情に、私は再び覚悟を決めた。

 ……ただ。
 ただ、ひとつだけ言いたいことがあるとすれば、後悔するなら最初から関わらなければいいのにとだけ思った。

 勝手に助けて、勝手に後悔して、バカみたい。

「……もう迷惑だから、あっち行って」

 目を伏せる。
 次に目を開けたときには、きっと男の子はいなくなっているだろう。
 それでいい。
 そうしたら、またあの柵を乗り越えてしまおう。今度こそそれで、すべてが終わるのだ――。


 風が動いた。
 心が揺れないように、必死に感情を凍らせて、風が消えるのをじっと待つ。
 と、頭の上にぬくもりを感じた。目を開くと、なぜだか男の子の手が、私に向かって伸びていた。

 頭にはあたたかくて、優しい感触。
 これは、なに……?

 目を瞬かせて男の子を見る。
 男の子は私の頭に手を置いたまま、視線を合わせてきた。

「……助けるよ。目の前で死のうとしてたら、何回だって助ける」
 目の奥や胸の辺りが燃えるように熱くなった。
「……どうして?」
 震える声で訊ねると、男の子は柔らかく微笑んだ。
「だって、手が届くから」

 男の子はどこか遠くを見つめ、しんみりとした声で言った。

「俺さ、大好きな人がいるんだ。すごく優しくて、素直で、可愛い子でさ……」

 その顔はどこか、私が来未を想うときに似ているような気がした。
 男の子は寂しげに笑い、私を見る。

「だけど、その人とはもう、一緒にはいられなくなっちゃったんだ」
「え……?」
 不意のやるせなさげなその顔に、どきりとする。
「どうして……?」
 訊ねても、男の子は私の問いには答えなかった。

「俺が君を助けた理由はね、君が俺の手が届くところにいたからだよ、――水波(みなみ)
 目を瞠る。
「……なんで私の名前……」

 きぃん、と頭の奥でなにかが響く。
 脳の中心に、瞬間的に長い光の針を差し込まれたような、鋭い痛みだ。
 突然目眩がして、私は咄嗟に頭を押さえた。

「大丈夫?」
「……うん、大丈夫」

 額を押さえたまま顔を上げ、男の子を見る。目が合うと、男の子はやはり私を見て優しく微笑んだ。

 あどけないその笑顔に、心臓が大きく弾んだ。

「……とにかく、水波が生きててよかったよ」
「……あなた、何者? なんで私の名前を知ってるの?」
 男の子はにこりと笑うと、私の手を取った。

「こっちきて!」

 ぐっと手を引かれた勢いで立ち上がり、柵のすぐそばにあったベンチに座らせられる。
 そして男の子は仮面を被り直すと、「ここでちょっと待ってて」と言って去っていく。

「え? えっ、ちょっ……!」
 取り残された私は、困惑してその背中を見つめた。

 男の子は振り返りながら、「ちゃんと待ってろよ! どこにも行くなよ!」と何度も言って、軽やかに石段を降りていった。

「……なんなの」

 ひとり取り残された私はベンチに座ったまま、ぼんやりと夕暮れの街並みを眺めた。

 赤紫色に滲んだ空には、まるで絵に描いたような入道雲。家屋もビルも学校も、街全体が燃えるような赤に染まっている。

 あまりの眩しさに目を細める。

 蝉の声がジリジリと暑さを誇張(こちょう)する。髪が頬に張り付いて煩わしい。

 ……暑い。肌が焼かれるようだ。
 カラスの鳴き声や人々の生活音がする。ついさっきまで、まるで耳に入ってこなかった雑音たちが、今さらになって迫ってくるようだった。

 急に現実に引き戻されたような心地になる。

 ……まったく、なんだったのだろう。

 まるで台風のような男の子だった。
 初対面なのに、土足で私の心に踏み込んできて。あっという間に私を死の淵から連れ戻してしまった。
 一瞬のできごとだったように思う。
 柵を越えたことも、腕を掴まれたことも、あの、男の子のぬくもりも……。

 蝉の声が聞こえてくる。

 もしかして、暑さが見せた白昼夢だったのではと思い始めた頃、例の男の子が戻ってきた。

 男の子は手に、りんご飴とかき氷を持っていた。かき氷の山のてっぺんには可愛らしいピンク色が乗っている。イチゴ味だろう。
「はい!」
 男の子は私に両方差し出してくる。

「……え? 私に?」
 私は目を瞬かせた。

 戸惑いがちに、男の子と食べ物を交互に見る私を見て、
「ほかにだれがいるの?」
 と、男の子は笑う。

「……いらない。私、今お金持ってないし」
 なにせ死ぬ気だったから食欲だってない。

「いらないよ、そんなの。ほら、食べな」
 と、ぐいっと手を突き出してくる男の子。

 目の前に差し出されたふたつを見て、迷いながらも「ありがとう」と言ってりんご飴を受け取った。
 男の子は私のとなりに座って、私が受け取らなかったほうのかき氷を、プラスチックのスプーンでしゃくしゃくと突き刺して食べ始めた。

 そんな彼の様子を見て、なんというか、やっぱり不思議な人だな、と思った。

 りんご飴の舌に絡む独特の甘さに、こんなに甘かったっけと思う。

 表面に歯を立てると、飴がパキッと割れた。砕けた飴をかじりながら、そういえば、幼い頃はりんご飴をかじった瞬間が好きだったな、なんてしょうもないことを思い出した。

 りんご飴の味自体は特に好きでもなんでもなかったのだけれど、透き通った硝子にひびが入っていくような感じがなんとなく好きだったのだ。

 ……なんて、一度死を覚悟したからだろうか。
 とりわけ好きでもなかったはずのりんご飴なのに、「おいしい」と思うだなんて。

 なにかをおいしいと思うのは、どれくらいぶりだろう。そういえば、事故後、味を感じたことがあっただろうか。たぶん、ない。そんな余裕はなかった。

 甘くてぬるくて、重い味が舌に絡まる。しばらく無心で舐め続けた。

「……ねぇ、なんで死のうとしてたのか、聞いてもいい?」
 りんご飴を食べ終わって、ぼんやり街の景色を眺めていると、不意に静かな声で、男の子が訊ねてきた。

 言いたくないわけじゃないけれど、すんなり答えるのもどうかと思い、私は咄嗟に「名前、教えてくれたらね」と返す。

 すると、
「俺は綺瀬(あやせ)
 男の子が名乗った。

「アヤセ? それって苗字? 名前?」
「名前。苗字は紫咲(しざき)。紫咲綺瀬だよ」
「ふぅん……」
 珍しい、きれいな名前だと思った。

 男の子改め、綺瀬くんが、私を「君は?」という視線で見つめる。

「……私は榛名(はるな)水波。ねぇ、紫咲くんはなんで私の名前知ってたの?」
「えー、そこは綺瀬って呼んでよ。だから苗字言わなかったのに」

 ……ため息を漏らす。
 と同時に、この人案外めんどくさい性格だな、と思った。

「……ハイハイ、じゃあ綺瀬くん。綺瀬くんは、なんで私の名前を知ってたんですか」
「図書館で何度か見かけたことがあったんだ。君のこと。それで、君と同じ南高(みなみこう)の人がキミの噂話をしてて、名前を知ったの。南高の水波ちゃんって覚えやすくない?」
「え……綺瀬くんってもしかして」

 思わずげんなりして綺瀬くんを見る。

「いや、冗談だよ!? 冗談だからね!?」
「ここ、地元の人でもなかなか知らない穴場だよね。私も初めて来たし。そんな場所で偶然会うとかふつうじゃ……」
「いや、待って待って! 俺、べつに君のストーカーとかそういうわけじゃないから! 断じて!」

 冗談のつもりでまだ怪しむ視線を送ると、綺瀬くんはさらに慌てた様子で否定した。

「だから違うって! たまたま名前が耳に入ったから覚えてただけで……。それでなくたって君、いつもひとりで図書室にいるんだもん。目立つ容姿してるし、だれだって気になるでしょ!」

 綺瀬くんはわざとらしく『ひとり』の部分を強調した。
「…………」
 ムッとする。

「悪かったですね、変わり者で。いつもひとりで」
「……あ、もしかして怒った? ごめんごめん。ほら、このかき氷あげるから機嫌直してよ。ね?」
「もう溶けてるじゃん!」
「ジュースだと思って!」

 ため息をつく。
「……いらない。それから、べつに怒ってないし」
「怒ってるじゃん。ほら、もう。可愛い顔が台無しだよ? スマイルスマイル!」
 さらりとドン引くようなことを言う綺瀬くんに、げんなりする。

「水波は笑ってたほうが可愛いよ」
 綺瀬くんは膝に頬杖をつき、私を見上げている。
 目が合う。逸らしたら負けな気がするけれど、無理。逸らした。

 ……ふつう、初対面の異性にこういうこと言う?
 もしやこの人、タラシなのだろうか。……うん、きっとそうに違いない。となると、私としてはあんまり関わりたくないタイプかもしれない。

 黙り込んでいると、綺瀬くんは私が照れていると思ったのか、
「え、これも冗談だよ?」
 と、ケロリとした声で言った。
「はぁ!? 冗談!?」
「うん ……あれ? なんか水波、顔赤い?」
 自分でも顔が熱くなるのが分かった。
 伸びてきた綺瀬くんの手を振り払う。
「最低! 信じらんない! ふつうこういうこと冗談で言わないから!!」
「ごめんよ、そんな本気にすると思わなくて」
「ほ、本気になんてしてないってば!」
「ははっ! そっかそっか」
「もう帰る!」
 勢いよく立ち上がると、綺瀬くんが慌てて私の手をとった。

「ごめん、謝るから行かないでよ」
「…………じゃあ、離して」
 パッと綺瀬くんの手が離れる。
 服の皺を伸ばしてから座り直すと、綺瀬くんはホッとしたように表情をゆるめた。

 再び沈黙が落ちた。
 葉と葉が擦れる音が耳を支配する。

「……どうしてこんなことしたの?」

 もう一度、綺瀬くんが訊いた。
 心臓が、どくんと跳ねる。

「どうしてって……」
 それは。
 言葉に詰まり、ぎゅっと拳を握る。
「……言ったでしょ。私は人殺しだって」
「うん。だからそれ、どういうこと? 当たり前だけどさ、直接殺したとかそういうんじゃないんだろ?」
「…………」

 目を逸らし、不機嫌さを隠さずに告げる。

「……綺瀬くんは、なんでそんなこと知りたいの? べつに私のことなんて関係ない。どうだっていいじゃない」
「まぁ、たしかにさっきまではそうだったかもしれないけど。でも、今は君の恩人なんだから、聞く権利があると思わない?」
 にこやかに言われてしまった。

「……ちっ」
 ……めんどくさい人だ、やっぱり。
「……君って、舌打ちするのクセなの? それやめたほうがいいよ。キレイな顔で舌打ちって結構効くから」

 いや、ふだんはしないし。綺瀬くん限定だし。

「……まぁいいや。とにかくね、俺が君にかまうのは、君のことが気になるからだよ。とはいってももちろん興味本位じゃない。ただ理由が分かれば、君をちゃんと助けられるかもしれないから。だから聞きたい」

「助ける……? どうして?」

 私には、助けられる資格なんてない。
 私には、助けを求める権利なんてない。

 それだけじゃない。
 だって私たちは、ついさっき会ったばかりなのだ。
 それなのに、綺瀬くんがここまでしてくれる理由はいったい……。

「……理由なんてないよ。あるとすれば、君ともっと仲良くなりたいから、今ここに繋ぎ止めておきたい。それだけだよ」

 綺瀬くんの言葉は、乾き切った私の胸に深く染み込んでいった。

「だからお願い。話して」
 あまりにもまっすぐな眼差しが、私を射抜いた。
「私は……」

 小さく息を吸ってから、口を開いた。


「……一昨年の沖縄の海難(かいなん)事故、知ってる?」
「……フェリーが岩場に座礁して、沈没したやつだよね?」

 少し黙り込んでから、綺瀬くんが答えた。
 私は静かに頷き、続ける。

「私ね、あれの被害者なの。一昨年の夏休みにね、親友とふたりで沖縄に旅行に行ってた。……それで、あのフェリーに乗って、事故に遭った。結果、私だけ助かって親友は死んだ。……まぁ、簡単に言ったらそういうこと」
「…………」

 綺瀬くんは黙り込んだ。

 当たり前だ。
 こんなの、他人からみたらあまりにも重過ぎる内容だし、私だって、本当に助けてほしくて話したわけじゃない。ただ、軽く説明すればいくら綺瀬くんでもそれ以上ツッコんではこないだろうと思ったから話した。

 沖縄のフェリー海難事故は、二年前の今日、八月九日に起こった。

 二○二五年、沖縄の沖合でフェリーが岩場に座礁し転覆、沈没する事故があった。
 その日は濃霧により視界が悪かったため、一時は欠航になるかと思われた。しかし、フェリーは一時間遅れで出航してしまった。

 ……もしあの日、あのまま欠航になっていれば、と何度思っただろう。

 出航してまもなく、視界不良による操縦ミスでフェリーは岩場に座礁。船体は横倒し状態のまましばらく海上を流れた。
 その後、損傷部から海水が船内に流入し、フェリーは乗客と乗員を乗せたままゆっくりと沈没を始めた。

 結果、フェリーに乗っていた二十二人の乗員乗客のうち二十人が死亡、うちひとりが今も行方不明のまま。多くの犠牲者を出し、ニュースにも大きく取り上げられた事故だった。

 あの事故で助かったのは、フェリーに取り残されて沈没直前に助け出された私だけ。
 海上保安庁の潜水士が私を助け出した直後、フェリーはひとりの乗員を取り残したまま、渦を巻いて海の中に消えていった。

 事故発生から、約一時間半後のことだった。

「あの日、私は来未と一緒に乗ってたんだ。でも、来未だけ海に落ちちゃって……ライフジャケットを着ていなかった来未は遠くまで流されて、発見されたときにはもう……。……結局、私だけ助かっちゃった」

 目を閉じると、今でも来未の声が聞こえてくるような気がする。涼やかな、夏の風鈴のような彼女の声が。

 もちろんそれはただ気がするだけで、実際には聞こえない。目を開いても、来未はどこにもいない。この世の、どこにも。

 指先が白くなるほど、手を握り込む。

「……今日、来未のお墓に行ったの」
 綺瀬くんが、柵の向こうに落ちている仏花をちらりと見る。
「そうしたら、来未のママと会っちゃって……あなたが死ねばよかったのにって言われたんだ。あの子を返してって、泣きながら私に詰め寄ってきた」

 足が竦んだ。怖くて怖くて、たまらなかった。
 視界が滲む。俯き、一度瞬きをすると、雫が膝の上にぽっと落ちる。

「私……怖くて……だって、来未のママのあんな顔初めて見たの。事故の前まではすごく優しい人で、声を荒らげるところなんて、一度も見たことなかったのに……」

 あそこまでだれかに恨まれるのははじめてだった。

 血走った目。わなわなと震える拳。

 穏やかでいつもニコニコしていた来未のママが、あんな顔をするだなんて、あんなふうに怒鳴るだなんて信じられなかった。

「来未のママにあそこまで憎まれているだなんて、今日までぜんぜん知らなかった。でも、考えたら来未のママの態度は当然のことだよね」

 だって、なにより大切な娘を失ったのだ。
 来未のママにとって、私は娘を奪った人間。娘を殺した人間。私は、殺したいほど憎まれて当然の人間なのだ。

「……だから、死のうとしたの?」
 目を伏せ、頷く。また雫がぽろっと落ちた。

 こんなに苦しいのなら、助からなきゃよかった。あのとき、来未と一緒に死んでしまえばよかったんだ。
 そうしたら、こんな苦しまずに済んだのに。

「……もう、終わりにしたかった。死んだら、楽になれると思ったの」

 逃げたかった。でも、生きている限りこの現実は変わらない。
 ……ならば。
 どこに行ったって、逃げ場所がないのなら、もう死ぬしかないではないか。

「……まったくバカだなぁ」
 空に向かって、あの子の真似をして大きな声で言う。
「え……?」
 綺瀬くんが、戸惑いがちに私を見た。
「……来未の口癖だったの。私が落ち込むと、いつもとなりでバカだなぁって言って笑ってた。笑って、気にするなって言ってくれたんだ。そうしたら私も笑って、うん、そうだねって笑い飛ばすことができたの」

 でも……ここにはもう、そう言ってくれる親友はいない。来未は私のせいで、死んだ。

「私、なんで生きてるんだろ……」

 再び目の奥がじんわりと熱くなる。

 生きることがこんなに辛いだなんて思いもしなかった。
 あの事故がなければ、こんな感情は知らずに生きられたのに。
 幸せに笑っていられたのに。
 ……あの事故をなかったことにできたら、どれだけよかっただろう。
 そんなことはできない。分かっている。だから、私は。

「……死にたい」

 荒波のように迫り来る孤独に耐えるようにぎゅっと目を瞑る。すべてを遮断しようとしたとき、頭上から、ふと光の雨のような声が降ってきた。

「それは違うよ」

 顔を上げると、綺瀬くんが私の手をそっと握った。
「君は死にたいんじゃなくて、この苦しみから逃れたいだけだよ」

 この……苦しみから。

「……でも、生きてる限りそんなの無理だよ……っ!」
「そうかな? そんなこと、ないんじゃないかな」
「どういうこと……?」

 首を傾げると、綺瀬くんは私をまっすぐに見つめて言った。
「だって君は、助けられたから生きてるんだよ」
「助けられたから……生きてる……?」

 優しい顔で私を見る綺瀬くんがいる。吸い込まれそうなほど、澄んだ瞳をしていた。まるで、水の惑星そのものを閉じ込めてしまったかのような。

「……せっかく助けられた命なんだから、無駄にしちゃダメじゃん」

 ドラマやなんかでよく聞くような、ありきたりなセリフだと思う。けれど、その言葉はなによりもあたたかく、私の胸にじわじわと沁みていく。

「でも、やっぱり話を聞いてよかったよ」
「……え?」

「君はただ、苦しみから逃げたかっただけ。君にとって、苦しみから逃れるための選択肢のひとつに、死ぬことがあって、君は間違ってそれを選んでしまっただけなんだ」
「選択肢……?」
「そうだよ。でも、死なずに君の苦しみが消える方法だってきっとあるはず。それを一緒に探そう」

 爽やかな微笑みをたたえて、綺瀬くんが告げる。
 その笑顔に、思わず言葉を失って見惚れる。
 返す言葉も忘れて呆然としていると、綺瀬くんはかき氷のカップを傾け、溶けたそれを喉に流し込んだ。

「ひゃ〜っこいっ!! 頭がぁっ!」
 かき氷を食べたとき特有の頭痛に叫ぶ綺瀬くんを、呆れて見つめる。
「一気に飲むからだよ」
「んーっ、でもうまい!」

 痛みが落ち着いたのか、綺瀬くんはからりと笑った。

「……まったく、子供みたい」
「ははっ。ねぇ、俺の舌どうなってる? 赤くなったでしょ?」
 と、綺瀬くんは私に顔を近付け、舌を出した。
「ちょ、なに。いきなり近っ……」
 咄嗟に身を後方へ避けると、バランスを崩した。
「わっ……!」

 バランスを崩し、ベンチから落ちそうになる私を、綺瀬くんが掴み、抱き寄せる。

「……大丈夫?」
 すぐ耳元で声がして、うわ、と思う。
 私は、綺瀬くんに抱き締められていた。
「……だ、大丈夫。ありがと」
 身体を離しながら、熱くなった頬を押さえた。
 そんな私を見て、綺瀬くんはにっこりと微笑んでいる。

 ……不思議な人だ。
 初対面なのに、私が死ぬのを力づくで止めて。
 無理やり私の心に土足で踏み込んできて。励ましてくれて、食べ物まで与えてきて。
 ……でも、嫌じゃない。というか、初対面なのにこんなにも安心感があるのはなんでだろう……。

 涼し気な藍色の浴衣と、赤いきつねのお面。いまどきの高校生らしくない、落ち着いた言動。話せば話すほど、不思議な人だと思う。
 綺瀬くんは、しばらく日が暮れて落ち着いた色の街並みを眺めていた。

「……さっき、君に触れて、君が生きていることが実感できて、よかった」
 綺瀬くんはそう、しみじみとした口調で言った。見ると、綺瀬くんは静かに涙を流していた。

「綺瀬くん……?」
 驚き、私は息を詰める。

 どうしてあなたが泣くの。どうしてそんなに、私のことを心配してくれるの。あなたは、なんなの。

 綺瀬くんの涙は、私の心まで揺り動かした。

「……あのね、水波。心が死んでいくのは、目では見えないんだよ」
「え……?」
「だから、手遅れになる前にだれかに助けを求めなきゃダメなんだ」

 助けを、求める。
 まっすぐな視線から、目を逸らす。

「自殺というのは、心が死んだ人がする行為だから」

 低い声にどきりとしてもう一度綺瀬くんを見ると、彼は少し責めるような眼差しで私を見ていた。

 私は綺瀬くんから視線を外し、手元を見る。

「……自殺はいけないって言う綺瀬くんの気持ちは分かるよ。でも、私には、そんなことを考えてる余裕なんてなかった。とにかくこの状況から逃げたかったの。私だけまだ生きているのが辛かったから」

 綺瀬くんが、寂しげな眼差しを私に向ける。

「でも、もし俺が来未ちゃんだったら、水波だけでも助かってよかったって思ってると……」
「やめてよ」
 静かに綺瀬くんの言葉を遮る。
「そういうの、いらないから」

 綺瀬くんが息を詰めるのが分かった。見ず知らずの私にこんなによくして、話まで聞いてくれている人に、私はなんてひどい言葉を投げているのだろう。

 頭では分かっているのに、でも、止められない。

「なにを根拠にそんなこと言えるの? 死んだ人の気持ちなんてだれにも分からないじゃない! 勝手なことを言わないで」

 心臓がどくどくと騒ぎ出す。一瞬にして全身から酸素が消失したように息苦しくなった。

「ごめん、水波……」

 違う。謝ってほしいわけじゃない。

「私は……」

 身体を折り曲げ、両手で自分を抱き締める。
 私は、だれかにそんなことを言ってもらえるような人間じゃない。

「私は……私は」
 苦しい。息ができない。まるで、水の中にいるみたいだ。
 過呼吸のようになって、背中を丸めた。

「はぁっ……」
「水波、ごめん。大丈夫だから落ち着いて」
 綺瀬くんが優しく私の背中をさすってくれる。

「大丈夫だから、ゆっくり息を吸って」

 苦しい。息が、できない。
 あのときの来未も、こんな感じだったのだろうか。こんなふうに、苦しんだのだろうか……。

 どれくらいそうしていただろう。過呼吸が治まる頃には、空はすっかり藍色になっていた。
 こめかみを汗がつたい落ちた。

「……毎日、あの日のことを夢に見るんだ」
「……うん」

 綺瀬くんは控えめに相槌を打ってくれる。

「来未が流されていく夢。来未が必死に助けを求めてくるのに、私は一度だってその手を取れないんだ」


 あの日からずっと、水の音が……来未の声が頭から離れない。

 夢の中で、来未は遠くへ流されていく。
 流されながら来未は、助けてと私に必死に手を伸ばすのだ。私も一生懸命来未へ手を伸ばすけれど、届かない。
 来未はどこまでも、どこまでも流されていく。

「私はあのとき……必死に助けを求める来未の手を離した……」
 あの光景は、いまだに鮮明に焼き付いたまま、私を責めたてる。
「あのとき私は、たしかに来未の手を一度掴んだ。それなのに私は、来未の手を、すがりついてくる彼女の手を離しちゃった……」

 その事実は、私と来未しか知らない。
 海上保安庁の人も、来未のママも、家族すら知らない。言えない。

 怖くて、とても口になんてできなかった。
 これは、今この世界で私しか知らない真実だ。

「来未はきっと、私が手を離したことを恨んでる。私がちゃんと握っていれば、来未を引きあげていれば、来未は、私と一緒に助かったかもしれないんだから」

 夢の中で、来未はいつも苦しそうに顔を歪ませて、海の底に沈みながら溺れ死んでいく。
 来未が波に呑み込まれたあとのそんな光景を見た記憶なんてないのに。私の脳は勝手にその映像を作り出しては、リピート再生する。

「……夢の中でいくら手を伸ばしても、来未は遠くへ行ってしまう。私を責めたてるみたいに、手だけを海面に出して」

 分かってる。手を離した私が悪いんだ。来未はきっと私を恨んでる。だから、今も夢に出てくるんだ。

 最近は来未のことまで忘れたいと思うようになってしまった。

 だって、眠れないから。
 苦しくてたまらないから。

「命で償うしか、もう私には選択肢なんて残されてないんだよ」

 呟くように言うと、
「……ダメだよ」
 綺瀬くんが私の手を両手で包む。
「死んじゃダメ。だって、君が自殺したら、君は彼女をもう一度殺すことになる」
「……もう、一度?」
「そうだよ。だって、死んじゃった人は、生き残った人の思い出の中でしか生きられないんだから」

 とても寂しそうな声をしていた。

「ねぇ、よく思い出してみて。君の親友は、君に恨み言を囁くような人だった? 君を責めるような人だった?」
「それは……」

 ふと思い出す。
 そういえば、この人も大切な人を失っているのだと。
 遠くを見つめるその横顔は、悲しいほど美しい。もしかしたら綺瀬くんも今、遠くにいるその人のことを想っているのだろうか。

「……苦しくないの? 綺瀬くんは、その人を思い出して」
「……苦しいよ。でも、俺にはもう想うことしかできないから。なにがあっても、忘れたくないって思うんだ」
 悲しげに笑う綺瀬くんに、言葉を失う。

 でも、たとえそうだとしても。
「……私は、綺瀬くんみたいにはなれないよ」

 私には、亡くなった来未をそんなふうに想い続けることはできない。
 だって、
「私は、そんなに強くないもん」
「水波……」
「……話、聞いてくれてありがとう。……りんご飴も」

 じゃあね。
 そう言って立ち上がり、石段へ向かう。すると、一度離れたはずの手が、パッと掴まれた。

 振り返ると、今にも泣きそうな顔をした綺瀬くんと目が合う。
「な、に……?」
「強くないよ、俺だって。だからここにいるんだ」

 掴まれた手に、ハッとする。綺瀬くんの手は、かすかに震えていた。

「本当は俺も、君と同じ。ひとりが寂しかったんだ。寂しくてたまらなくて、死のうかと思ってた。そうしたら、君を見つけた。君を助けたのは……似たもの同士だったから」
「え……」
「本音を言うよ。本当は、俺が水波を助けたのは、俺のため。君に、そばにいてほしいって思ったんだ。……俺も今、寂しくて死にそうだったから」

 顔を上げて綺瀬くんを見て、私は息を呑んだ。綺瀬くんは、静かに涙を流していた。

「えっ……ちょっと……」

 私は慌ててポケットからハンカチを取り出す。
「はは。ごめん。なんか急に涙が出てきちゃった。……まったく、男が泣くなんて情けないよな」
 片手で乱暴に涙を拭いながら、綺瀬くんは力なく笑った。

「……そんなことない。泣きたいときは、だれにだってあるよ」
「……ん」

 はにかんだ綺瀬くんは、今にも消えてしまいそうで。私は、思わずその手を握り返した。

「……いいよ、いる」
「え?」

 綺瀬くんが驚いて顔を上げる。私は潤んだ声でもう一度言った。

「私が、そばにいるから」

 言いながら、唐突に思った。

 きっと、私はこんなふうにだれかに寄り添ってほしかったんだ。お互いを心から欲しがって、寄り添い合えるだれかに。

 私はきっと、ずっとこの人を待っていた。

 いつの間にか、私は綺瀬くんの手を握ったまま眠りについていた。
 綺瀬くんのとなりは、優しい香りがしてあたたかな毛布に包まれているような心地がして。
 事故の後初めて、私は来未の夢を見ることなく、ぐっすりと眠った。


 ふと目を開けると、満天の星空が見えた。
 目の前に広がる夜空は霧が晴れたようにすっきりとしていて、星が溢れんばかりに輝いている。

 星? なんで……。

「あ、起きた?」

 すぐ近くで、声がした。
 ハッとして振り向くと、浴衣姿の男の子と目が合った。綺瀬くんだ。
「わっ!」
 驚いて少し身を離すと、手が繋がれていることに気付く。慌てて離し、綺瀬くんから距離をとった。

「ごっ、ごめん! 私、寝ちゃって……」

 自分で言いながら、驚いた。

 今、何時? うそ、私どれだけ寝てた!?

 見回せば、空はもう真っ暗だ。
 こんなに眠りこけるなんて有り得ない。
 いつもは眠っても数十分で悪夢にうなされるのに……。

「気にしないでいいよ。俺ものんびりできたし。こんなに穏やかな日は久しぶりだったから」
 そう言って、綺瀬くんはくんっと両手を空へ伸ばした。
「……もしかして、ずっと手を繋いでてくれたの?」
 訊ねると、綺瀬くんはちょっと申し訳なさそうに笑って、首を横に振った。

「ううん。一回離したんだ。でも、その後ちょっとうなされてるみたいだったから、心配でもう一回握った。そうしたらすっと眠ったようだったから、それからはずっと」

 つまり、ほぼずっと綺瀬くんは私に付き合っていてくれたらしい。

「……ごめん」

 いくら寝不足だったからって、初対面の人の手を握ったまま眠るなんて有り得ない。

 落ち込んでいると、くつくつと笑う声が聞こえた。

「なんで謝るの。そこはありがとうって言ってほしかったかな。俺こそ、こんな美人と添い寝できるなんてラッキーだったんだから」

 あっけらかんとした口調に、小さく笑みが漏れた。

「……なにそれ」

 笑いながら綺瀬くんを見ると、綺瀬くんはふっと目を閉じて、空へ顔を向けた。月明かりに照らされたその横顔は、ハッとするほど涼しげで美しい。

「俺も、君のぬくもりに慰められたよ。だから、本当にお互い様だよ」
「……そっか。それなら、よかった」

 空を見上げ、目を閉じる。
 すうっと鼻から息を吸い込む。身体が軽い。頭がすっきりしている。
 こんなふうに深い眠りについたのは、事故以来初めてのことだった。

「……ずいぶん、寝不足だったんだね」

 控えめに、綺瀬くんが言った。目を開けて、綺瀬くんを見る。躊躇いつつ、小さく頷く。

「……いつも来未が夢に出てきて、ほとんど眠れなかったから」
 綺瀬くんがもう一度、私の手を握る。どこまでも澄んだ瞳が、私を映し出す。
「……じゃあ、眠くなったらここにおいで」
「え?」
「俺はいつでもここにいるから。眠くなったら、手を握っててあげる。だから、君のぬくもりを俺にも分けて」

 言われて初めて、その手がひんやりしていることに気付いた。

 こんなに暑いのに……。
 綺瀬くんの手はなぜか、なにかに怯えるように震えている。

「あなたも、寂しいの? あなたも、孤独なの?」
 綺瀬くんは静かに微笑むだけで、なにも言わない。

 不思議だ。今日出会ったばかりの同じ歳くらいの男の子なのに。
 名前以外、お互いに大切な人を亡くしたということ以外、なにも知らないのに。
 家の場所も、通っている学校も。
 なにも知らないのに。
 でも、でも……。
「……ありがとう」
 私はその手を、ぎゅっと強く握り返した。


 ***


 それから数日後の夕方。
 私はまたあの神社の先にある広場にいた。

 石段に沿うようにつけられた提灯を見ながら、神社の鳥居を目指す。
 神社を抜けて、その奥にある石段をさらに登っていくと、街を一望できる広場に出る。その一角にあるベンチに綺瀬くんがいた。
 ホッとして、そっとベンチに向かう。

「やぁ。また来てくれたんだ」

 綺瀬くんは私に気が付くと、読んでいた本を閉じて、ベンチをとんとんと叩いた。

「おいで」

 私は素直にとなりに座る。
「本……読んでたの?」

 緊張しながら話しかける。一度泣き顔を見られているせいか、ちょっと落ち着かない。

「ううん。開いてただけ」
「え、開いてただけ……?」

 綺瀬くんを見ると、綺瀬くんは恥ずかしそうに笑って、頬を掻いた。ほんのり頬が赤くなっている。

「本を読んでるふりしながら、水波を待ってた」
「え、私を?」
 綺瀬くんが苦笑する。
「……寂しくて。でも、昨日も一昨日も来なかったし、もしかしてもう来てくれないのかなぁって思って、ちょっと落ち込んでたところ」

 ぱたん、と本を閉じて、綺瀬くんは私を見た。どきりとして、思わず目を逸らしてしまう。

 なんだろう。目を合わせるのが、恥ずかしい……。

「……ごめん。何度かその、表の神社までは来たんだけど」
「だけど?」
「その、なかなか勇気が出なくて……」
 すると、綺瀬くんがふっと笑う。
「……そっか」

 会いたいけど、会いたくない。

 そう思ってしまったのだ。だって、言われたとおりに甘えてここに来て、もし綺瀬くんがいなかったら。
 私は、今度こそ生きていける気がしない。

「おかげで俺は、毎日寒くてたまらなかったんだけど」
「あ……」

 綺瀬くんは膝の上で手を組んだ。
 あの日のぬくもりを思い出す。夏の陽の下にいるとは思えないほど冷たい手。なにかに怯えるように、震える手……。

 そういえば、綺瀬くんも私と同じだったのだ。綺瀬くんも寂しくて、私のぬくもりを求めていたのだった。
 それなのに、私はまた自分のことばかり……。

「……ねぇ綺瀬くん。手、繋いでもいい?」
 おずおずと声をかける。
「え?」

 綺瀬くんは、驚いたように私を見た。私はハッとして、立ち上がる。

「あっ……い、いや、なんでもない。ごめん、今のは、忘れて」
 いたたまれなくなって逃げ出そうとしたとき、パシッと手を掴まれた。

「待って」
 引き止められ、足を止める。

「……せっかく来たのに、もう帰るのはなしでしょ」
「でも……」
「もう少し、そばにいてよ。お願い」

 縋るような声に、私はもう一度綺瀬くんのとなりに座り直した。すると、綺瀬くんがぎゅっと私の手を握り直す。少しかさついた指先が、くすぐったい。

「……うん。私も、ここにいたい」
 あぁ、そっか。
 寂しいのは私だけじゃないんだ……。

 ひんやりとした手を握り返して、目を閉じる。

「……私ね、綺瀬くんのとなりなら、ちゃんと眠れるの」

 あの恐ろしい悪夢を見ずに、ぐっすりと眠ることができる。なぜかは、分からないけれど。

「……違うよ。俺が手を繋いでいれば、でしょ。俺もそうだから、分かる。俺も、君と手を繋いでいると、ぜんぜん寒くないんだ。やっぱり俺たちは、似たもの同士なんだよ」

 そう言って、綺瀬くんはにっこりと笑った。

「……うん、そうかも」

 身を寄せ合って、手を握り合って、目を閉じる。
 静かに、波が引くように、私はゆっくりまどろみへと落ちていく。




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