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8.重ね結びの光と影-2

ー/ー



 遥かなる庭園を案じ、執務室のルイフォンは、そちらの方角の窓を見やる。
 リュイセンが反省房に囚われたという知らせを受けたときには、まだ藍色を残していた空は、すっかり夜闇の漆黒に染め上げられていた。
『夜には首尾を聞きに来る』と言っていたシュアンは、宣言通りに到着した。現状を説明された彼は「そうか」と呟き、そのあとは黙ってミンウェイの隣に陣取っている。
 タオロンからは、先ほど『私兵たちの出歩き禁止の時間になった。〈(ムスカ)〉の見張りから、リュイセンの救出に移る』と連絡があった。反省房までは距離があるそうだから、今は移動中だろうか。
 ――タオロン、頼むぞ……。
 ルイフォンが強い思いを託したとき、テーブルの上の電話が呼び出し音を響かせた。


『ファンルゥちゃんが、まだ来ないの』
 メイシアの弱りきった声がスピーカーから流れ、執務室は緊張に包まれた。ルイフォンの受話器を握る手に力がこもり、イーレオをはじめとする皆が息を呑む。
『たぶん、眠っちゃったんだと思う。私、約束の時間の少し前から、ファンルゥちゃんの部屋の窓を見ていたんだけど、出てくる気配がなくて……』
 メイシアの囚われている展望室からは、ファンルゥの部屋が見える。心配で、ずっと見守っていたのだろう。
「――っ」
 ルイフォンは、うなるような声を上げて頭を抱えた。
 タオロンは、ファンルゥが寝てしまうことを危惧していた。だが、ルイフォンは、好奇心旺盛なファンルゥなら、こんなときこそ張り切って起きているだろうと、安易に押し切ってしまったのだ。人目の多い時間帯に部屋を出て、私兵たちに見つかることのほうが怖いから、と。
「俺のミスだ……」
 父親であるタオロンの言うことを、もっと真剣に聞くべきだった。
 後悔しても、あとの祭りである。
 部屋に残されたファンルゥが、必ずしも危険な目に遭うとは限らない。
 けれど、少しでも身がおびやかされる可能性があるのなら保護すべきだ。それはタオロンに対する礼儀ではなくて、ファンルゥが大切だからだ。
 勿論、メイシアと一緒にいれば絶対に安全、というわけではない。メイシアだって、どちらかといえば弱い存在だ。けれど彼女なら、機転を利かせることでファンルゥを守り抜ける。
「タオロンに状況を説明して、ファンルゥを起こしに、一度、部屋に戻ってもらおう」
 即断しつつも、ルイフォンの猫の目は(すが)められ、渋面を作っていた。
 その顔は、音声通話のメイシアの瞳には映らない。なのに、彼女は問うてきた。
『ルイフォン……? 何か、気になるの?』
「あ、いや……」
 否定しかけて、彼は首を振る。
 どうやら、見えなくても彼女には伝わってしまうらしい。ならば、素直に話すべきだろう。
 ルイフォンはまず、「些細なことなんだ」と前置きをする。言っても仕方のないぼやきを聞いてもらうことに、ほんの少しだけ、彼女への甘えを自覚しながら。
「タオロンに部屋に戻ってもらうと、リュイセンの救出が遅くなるだろ? そうすると、『リュイセンと話をして、あいつを味方に戻して、そして〈(ムスカ)〉を捕まえる』という作戦の開始も遅くなる。けど、『〈(ムスカ)〉の捕獲が可能な時間』は限られているんだ。――間に合わなくなると困るな、と思った」
『『〈(ムスカ)〉の捕獲が可能な時間』……? ……あっ!』
 聡明なメイシアは、すぐに気づいたようだ。
 反面、執務室の面々のうち、半分ほどは、きょとんとしている。ルイフォンは彼らに説明すべく、補足する。
「用心深い〈(ムスカ)〉は、部屋にいるときは鍵を掛ける。だから、奴を捕まえられるのは『廊下を歩いているとき』のみ。つまり『〈(ムスカ)〉が地下研究室から出てきて、寝床にしている王の部屋に入るまで』だけなんだ」
 扉を破壊することは絶対に不可能、とまでは言わないが、現実的ではないだろう。
 ハオリュウの車に隠れ、ルイフォンとリュイセンであの館に侵入したときは、偽造カードキーを用意していった。しかし、あれはルイフォンが持ち帰ってしまった。
「でも、ファンルゥの安全が優先だ。――タオロンに戻るよう、連絡を取る」
 懸念を口に出したことで、かえって不安がなくなった。
 晴れやかに宣言したルイフォンに、メイシアが遠慮がちに言う。
『『〈(ムスカ)〉が部屋にいる間』は手を出せないなら、『朝になって、〈(ムスカ)〉が寝室から出てくるとき』を待つのでは駄目なの? 焦らなくても、大丈夫だと思うの』
「あ……」
 盲点だった。
 勿論、〈(ムスカ)〉の捕獲は、密やかに実行されるべき作戦だ。夜のうちに片をつけるほうが望ましいだろう。しかし、朝になってからでは駄目だという理由はない。
「その通りだ! さすが、俺のメイシアだ!」
 ルイフォンがそう叫んだとき、彼の携帯端末が振動した。
「タオロンから電話だ」
 少し早い気がするが、もうリュイセンを反省房から助け出したのだろうか。そうなると、部屋に残ったままのファンルゥは……?
 ともかく、ルイフォンは電話を受ける。
 その連絡が、メッセージではなくて音声電話であるのは、文字の打ち込みが苦手なタオロンが、複雑な内容を告げるためであることに気づかぬまま……。


 時は少し、遡る――。
 タオロンは曲がり角に身を隠し、反省房まで一直線となる廊下の様子をそっと窺った。
 刹那、彼の顔に生ぬるい風が吹きつける。
 血臭が鼻を突き、月光が瞳を刺した。
 反省房として使っている部屋を一番奥に、どん詰まりとなっている廊下の窓が大きく開け放たれていた。それ自体は、どうということはない。単に夏だからだろう。
 だが、遮るものが何もない、まっすぐな廊下には、月の光に照らし出されるはずの見張りたちの姿がなかった。
「……」
 人間の存在なら、先ほどから濃厚に感じている。血の臭いという、実に分かりやすい形で。
 タオロンの太い眉の下の小さな目が、剣呑な光を放つ。
 ――リュイセンが動いたのか?
 タオロンは警戒しつつ、月明かりの織りなす、光と影の入り混じった廊下を進む。
 反省房の扉の前に立つと、部屋の内側から明確な人の気配を感じた。
 それも結構な数。十人はいる。
 呼吸の具合いから、意識があるかどうかは微妙だ。
 足元には不快な感触――血を吸った絨毯がぬめりを伝えてくる。あとで靴を(ぬぐ)わなければ、血痕の足跡をつけて回ることになるだろう。
 ――おそらく、リュイセンは脱走した。
 廊下にいた見張りたちを倒し、目立たぬよう部屋の中に移動させて……。
 推測の正しさを確認すべく、タオロンは、そろりと薄く扉を開く。鍵の掛かっていない扉は素直に動き、室内を照らす煌々とした電灯の光が、長い筋となって漏れ出してきた。
 夜目に慣れたタオロンが目を細めながら覗き見ると、思った通り、室内には見張りと思しき男たちが転がされていた。誰も彼もが、着ていた服を裂いて作ったらしき紐で両手両足を縛られ、猿ぐつわを噛まされている。一見したところ、皆、気を失っているようであった。
 そのとき。
「――、――っ!」
 男のひとりが、声を上げた。扉が動いたことに気づき、助けを求めてきたのだ。
 タオロンは、とっさに『まずい』と思った。
 気づいたのはその男だけ。あとの者たちの反応はない。だが、ひとりが騒ぎ立てれば、やがて他の者も目覚めるだろう。面倒なことになる。
 タオロンは扉を開け放った。
 ぬちゃりと血濡れた絨毯を蹴り、重力から解き放たれたかのように巨躯を踊らせる。
 そして、着地と共に再び重力をまとい、勢いのままに男の首を締め上げた。
「――!?」
 男は、信じられないものを見たかのように目を見開き、その眼差しで『裏切り者』と(ののし)る。……しかし、すぐに泡を吹いて意識を手放した。
 このときになって初めて、タオロンは自分の失態に気づいた。
 リュイセンが自力で脱走したのなら、タオロンは〈(ムスカ)〉の忠実な部下のふりをし続けるべきだったのだ。何故なら、彼の裏切りは、ファンルゥの生命の危機に直結するのだから。
 だのに、今の行為によって、タオロンは自ら、自分の立ち位置を明らかにしてしまった。この男は、目を覚ましたらすぐに〈(ムスカ)〉に報告するだろう。
 タオロンは(おのれ)の短慮を後悔する。
 だが、時すでに遅し……。
 彼は広い肩を落とし、冷静な――冷酷な瞳で、部屋を見渡した。
 拘束された男たちから、最も遠い位置に刀が積み上げられていた。
 武器は武器庫に集められているのだが、チンピラ程度の彼らが、武の達人であるリュイセンの見張りの任に就くにあたり、〈(ムスカ)〉から支給されたのだろう。――それをリュイセンに奪われているようでは、なんのための武器だか分からぬが。
 タオロンは無造作に、ひと振りの刀を手に取った。愛用の大刀と比べ、借り物の刀はまるで玩具のように心もとないが仕方あるまい。
 これで、先ほどの男の口を封じる。
 ファンルゥに害を及ぼしかねない、危険の芽を摘むのだ。
 タオロンは、巨躯を感じさせない静けさで動く。
 浅黒い顔には、いつもの気のいい大男の面影はなかった。太い眉に、不動の意志をたたえた殺戮者。――これも、彼の一面だった。
 そもそも、彼がリュイセンの立場に置かれたなら、初めから全員を確実に(ほふ)っていた。拘束するにとどめたリュイセンは、甘いのだ。
 タオロンの影が、男のすぐそばまで近づく。
 そして、彼は息を呑んだ。
 ――リュイセンの奴……。
 吸い込んだ息が、鉛のような重さを伴って吐き出される。
 拘束された男たちは皆、お手本のような太刀筋で綺麗に急所を外されていた。出血は派手だが、命に別条はない。
 リュイセンは、多勢に無勢の不利を補うために、脅しの効果を狙って流血沙汰にしただけなのだ。彼らが気を失っているのは、峰打ちなり、当て身なりのためで、失血が原因ではない。
 タオロンは、刀を持っていないほうの手で、バンダナに触れた。

『ファンルゥ、知っているもん! パパのバンダナは、ママのおまじないでしょ! 『パパ、頑張って!』って、ママが言っているの!』

 小さな彼の娘は、頬を擦り寄せ、バンダナの結び目に手を伸ばした。
 それに対し、彼は彼女を抱きしめ、こう答えた。

『パパが、正しいことを頑張れるようになる、魔法のバンダナだ』

「――……!」
 タオロンの手から、刀が滑り落ちる。
 銀色の刀身が、ぎらりと光を放ちながら床に突き刺さり、タオロンの黒い影を貫く。 

『俺の手を取ってくれるか?』

 藤咲メイシアに指定された娼館で、ルイフォンが右手を差し出してくれた。
 以前、彼らが――ルイフォンとリュイセンが――この館に侵入したとき、〈(ムスカ)〉の前で『俺たちの手を取れ』と言ったときのやり直しだった。
「……俺は、『あいつら』と手を結んだんだ」
 ルイフォンと。
 そして、リュイセンと。
 タオロンはバンダナの結び目に手を触れ、柔らかに微笑む。そして、後ろを振り返ることなく反省房を出た。
 一刻も早く、ルイフォンに現状を伝える必要があった。


 ――リュイセンが、自力で反省房から脱走した。


 タオロンからの報告を受け、ルイフォンは愕然とした。
「何が起きたの?」
 ただならぬ様子の彼に、向かいに座っていたミンウェイが尋ねる。
 彼女に限らず、携帯端末での通話の声は、他の者には聞こえない。皆、緊張の面持ちでルイフォンに注目している。
 ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。そして、耳にしたばかりのタオロンの野太い声を繰り返す。
「リュイセンが、自力で反省房から脱走した」
 豊かな表情を持つ彼の顔が、彫刻のように作り物めいていく。冷静に状況を分析する、無機質な〈(フェレース)〉の顔となる。
「リュイセンは〈(ムスカ)〉を殺すつもりだ」
 硬質なテノールが、執務室の空気に圧をかけた。
「えっ……!? どうして、そうなるの?」
 弾かれたように問うてくるミンウェイに、ルイフォンは声色を変えぬままに答える。
「不本意ながらも〈(ムスカ)〉に従っていたリュイセンが、ここで反旗を翻したなら、それは、あいつが〈(ムスカ)〉を殺す決意をしたということに他ならない。――素直に反省房に入ったのは、単に夜になるのを待っていただけだ。あいつも今夜、動くつもりだったんだ」
 ルイフォンは奥歯を噛みしめる。無表情になっていた顔が、苦しげに、悔しげに歪められる。
 ――どうして、リュイセンの心情を読み解けなかったのだろう?
 兄貴分もまた〈(ムスカ)〉を殺す機会を狙っていると、分かっていたのに。
 そして、気づいていたのに。

 ことを()したあと。
 高潔な彼は、一族を裏切った罪を背負い、姿を消すつもりだと……。

 思考を闇へと傾けた刹那、ルイフォンは戦慄に襲われた。
 リュイセンを永遠に失う。――その可能性に、感情が凍りつく。
『ルイフォン? 何があったの?』
 困惑したメイシアの声が、執務室のスピーカーから流れた。
 携帯端末にタオロンからの連絡が入ったとき、ルイフォンは、メイシアと繋がっていた電話の受話器をテーブルに置いた。だから、一応は音を拾っているはずだが、小さな送話口の集音能力では、執務室のやり取りを満足には伝えられまい。彼女には、何がなんだかさっぱりだろう。
 メイシアにも状況が伝わるよう、会議システムに切り替えなければ……。
 のろのろと立ち上がるルイフォンに、ミンウェイが不審に眉を寄せる。しかし、すぐに草の香を散らして動き出した。彼女には彼の気持ちは分からなかったが、自分がやるべきことに気づいたのだ。
 ミンウェイはテーブルの上にさっと手を伸ばし、メイシアと繋がっている電話を取った。そして、執務室の現状を手短に説明する。
 直後、メイシアの驚愕の息遣いがスピーカーを震わせた。
『リュイセンを止めないと……!』
 悲鳴のような声が細く響く。
『〈(ムスカ)〉に与えるものが、最終的には『死』であることは変わらなくても、それは、こんな形じゃない! 〈(ムスカ)〉は捕まえて、ミンウェイさんと会って、ミンウェイさんと話をして……!』
「ああ、分かっている!」
 猫背を丸めながら会議システムの準備をしていたルイフォンは、吐き捨てるように叫んだ。険のある声は八つ当たりだと思いつつ、押さえられなかった。
「リュイセンを止められるのは、タオロンしかいない。だから今すぐ、タオロンにリュイセンを探しに行ってほしい。――けど!」
 ルイフォンは唇を噛む。鉄の味が口の中に広がる。
「ファンルゥが部屋で寝ている。タオロンに起こしに行ってもらわないと駄目だ!」
 タオロンは、裏切りを知られた私兵を殺さなかった。
 それは、リュイセンの行動を認め、ルイフォンなら対処できると信じてくれたからだ。
 悪手だなんて思わない。仲間として、最高の判断だ。
 その私兵が目覚め、拘束を解いて〈(ムスカ)〉に連絡するまで、それなりの時間は掛かるだろう。だから、ファンルゥは危険に直面しているわけではない。
 ……だが、彼女の安全の確保は最優先であるべきだ。
 ならば、タオロンには、まずファンルゥを起こしに行ってもらって、それからリュイセンを探すのでよいのではないか。ルイフォンが先ほど懸念したように、〈(ムスカ)〉に手を出すことができるのは奴が廊下を歩いているときだけ。いつもの行動パターンなら、奴の就寝時間には、まだ余裕がある。
「……っ」
 今日は、『いつも』ではない。
(ムスカ)〉はリュイセンを捕らえ、明日になったらメイシアと話をすると宣言している。早めに(とこ)()く可能性は充分にあり得る。
 ――どうすべきか。
 迷っている暇などない。決断せねば。
 早鐘を打つ鼓動が、ルイフォンを急き立てた。ただ指先だけが、慣性に従うかのように機械的に動き続け、会議システムを構築する。
 モニタ画面の不安定な波の向こうに、メイシアの花の(かんばせ)が映し出された。
 その映像が凪いだ瞬間、毅然と向けられた黒曜石の瞳に、ルイフォンはどきりとする。
『ルイフォン!』
 険しさをたたえながらも、高く澄んだ透明な声。
『私が、ファンルゥちゃんを迎えに行きます。だから、タオロンさんにはリュイセンを探してもらって』
「!?」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
 猫の目を見開いたまま、ルイフォンは表情を止める。そんな彼に、メイシアは必死に言を継ぐ。
『私は、ここに閉じ込められているわけじゃないもの』
「メイシア……?」
『この展望室の鍵は内鍵で、私は自由に開けられる。そして、この展望塔からは、階段の明かり取りの小窓から出られる。――ファンルゥちゃんが初めてここに来たとき、教えてくれたの』
「あ、ああ……」
『だから、ファンルゥちゃんが来てくれるときと逆のルートで、私がファンルゥちゃんの部屋に行く。そして、彼女を起こして、一緒にこの展望室に戻ってくる』
「なっ……!」
 ルイフォンは絶句した。
 彼だけではない。執務室にいる誰もが唖然としている。
「危険だ! ファンルゥの部屋へは、雨どいを伝って窓から入るんだぞ! そんなこと、お前にさせられない」
 あれは身が軽くて、普段から飛び回っているようなファンルゥだからこそ、可能な(わざ)なのだ。メイシアだって決して重くはないが、どう考えたって無謀だ。
『でも、リュイセンを止めるのも、ファンルゥちゃんを起こすのも、この庭園にいる人間しかできないの。なら、私とタオロンさんで分担するべきでしょう』
「だからって、無茶を言うな!」
『そして、リュイセンを探すのは、この庭園内を動き回っても不審に思われないタオロンさんのほうが向いているし、ファンルゥちゃんは私のところに来るのだから、私が迎えに行くのが適当』
「駄目だ!」
 ルイフォンが吠える。
 こんな議論をしているくらいなら、余計なことは考えずに、さっさとタオロンにファンルゥを起こしに行ってもらうべきだろう。メイシアの言う通り、あの庭園のことは、あの庭園にいる人間にしか手を下しようもないのだから……。
「糞っ!」
 ルイフォンは、やり場のない思いを床に向かって吐き捨てた。
 反動で、後ろで一本に編まれた髪が、胸元に飛び込む。毛先を留める金の鈴が、鈍い光を放ちながら視界に映り込んだ。
 ――本当に、そうか……?
 遠く離れているから、何もできない?
「違う……」
『ルイフォン?』
「俺は、〈(フェレース)〉だ。――遠隔攻撃が得意な、魔術師(ウィザード)だ……」
 口の中で言葉を転がし、虚空をじっと見据える。
 そして、はっと閃いた。
「俺に任せろ! ファンルゥのことは、俺が守る!」
 ルイフォンは勢いよく立ち上がる。
 煌めきを取り戻した金の鈴が、彼の背で挑むように跳ねた。
「鍵だ! 仕事部屋に行ってくる!」
『鍵?』
 メイシアは勿論、彼の叫びを聞いた皆が首をかしげる。
 当然だろう。これは、〈(フェレース)〉ならではの発想であり、手段だ。
 ルイフォンは執務室を飛び出そうとしていた足を止め、猫背を正して胸を張る。
「メイシアの展望室が内鍵であるように、ファンルゥの部屋だって内鍵だ。だから、ファンルゥの身が危険に晒されるのは、『鍵を持った私兵が、外から鍵を開けて入ってくる』とき。ならば、俺が――〈(フェレース)〉が、私兵の持っている鍵を無効化すればいい」
「どういうこと?」
 皆を代表するように、近くにいたミンウェイが、すかさず問う。
 ルイフォンは猫の目を光らせ、不敵に嗤った。
「あの館の鍵は『電子錠』だ。電子的に管理されているものは、〈(フェレース)〉の支配下にあると言っていい。しかも、あの館の鍵なら、偽造カードキーを作ったときに仕組みを調べ上げているから、すぐにも俺は動ける」
「ええと? つまり、何をするつもりなの?」
 回りくどいと思ったのだろう。ミンウェイが、()れるように柳眉を寄せる。
 ルイフォンは、自分中心の説明だったなと、ほんの少しばつが悪そうに前髪を掻き上げ、しかし、得意げに答えた。
「仕事部屋からの遠隔操作で、ファンルゥの部屋の鍵を、今とは別の番号に変えて施錠する。これで、私兵は入ってこられない。ファンルゥは、安心して寝ていて大丈夫だ」
 執務室が沸き立った。
 遥かな庭園にいるメイシアとタオロンも、それぞれの回線を通してルイフォンの弁を聞き、胸を撫で下ろす。
「タオロン。すまないが、リュイセンを探してくれ。あいつは〈(ムスカ)〉を狙って現れるはずだ」
『分かった』
 ルイフォンは身を翻し、仕事部屋へと向かう。
 皆が讃える声を背中に、段々と冷静になってきて、彼は思う。
 ……実は、俺がもっと早く、鍵に注目すればよかっただけじゃないのか?
 鍵を自在に扱えるのなら、〈(ムスカ)〉の寝室だって、奴が寝入った真夜中に開けることができる。時間を気にして焦る必要もない。
 誰も見ていない廊下で彼は赤面し、面目なさそうに髪を掻き上げた。


 ――どすん。
 何かが打ちつけられるような物音で、ファンルゥは目を覚ました。
 彼女は目をこすり、自分がベッドではなく、テーブルに突っ伏して眠っていたことに首をかしげる。
 ――どすん。
 再び、音がした。
 部屋が揺れているような気がした。
「なんの音?」
 ファンルゥは、椅子を飛び降り、気になる音を確かめに行く。
 ルイフォンが守りを固めた扉からではなく、『窓の外』から響く音の、謎を解きに――。


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『夜には首尾を聞きに来る』と言っていたシュアンは、宣言通りに到着した。現状を説明された彼は「そうか」と呟き、そのあとは黙ってミンウェイの隣に陣取っている。
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 ――タオロン、頼むぞ……。
 ルイフォンが強い思いを託したとき、テーブルの上の電話が呼び出し音を響かせた。
『ファンルゥちゃんが、まだ来ないの』
 メイシアの弱りきった声がスピーカーから流れ、執務室は緊張に包まれた。ルイフォンの受話器を握る手に力がこもり、イーレオをはじめとする皆が息を呑む。
『たぶん、眠っちゃったんだと思う。私、約束の時間の少し前から、ファンルゥちゃんの部屋の窓を見ていたんだけど、出てくる気配がなくて……』
 メイシアの囚われている展望室からは、ファンルゥの部屋が見える。心配で、ずっと見守っていたのだろう。
「――っ」
 ルイフォンは、うなるような声を上げて頭を抱えた。
 タオロンは、ファンルゥが寝てしまうことを危惧していた。だが、ルイフォンは、好奇心旺盛なファンルゥなら、こんなときこそ張り切って起きているだろうと、安易に押し切ってしまったのだ。人目の多い時間帯に部屋を出て、私兵たちに見つかることのほうが怖いから、と。
「俺のミスだ……」
 父親であるタオロンの言うことを、もっと真剣に聞くべきだった。
 後悔しても、あとの祭りである。
 部屋に残されたファンルゥが、必ずしも危険な目に遭うとは限らない。
 けれど、少しでも身がおびやかされる可能性があるのなら保護すべきだ。それはタオロンに対する礼儀ではなくて、ファンルゥが大切だからだ。
 勿論、メイシアと一緒にいれば絶対に安全、というわけではない。メイシアだって、どちらかといえば弱い存在だ。けれど彼女なら、機転を利かせることでファンルゥを守り抜ける。
「タオロンに状況を説明して、ファンルゥを起こしに、一度、部屋に戻ってもらおう」
 即断しつつも、ルイフォンの猫の目は|眇《すが》められ、渋面を作っていた。
 その顔は、音声通話のメイシアの瞳には映らない。なのに、彼女は問うてきた。
『ルイフォン……? 何か、気になるの?』
「あ、いや……」
 否定しかけて、彼は首を振る。
 どうやら、見えなくても彼女には伝わってしまうらしい。ならば、素直に話すべきだろう。
 ルイフォンはまず、「些細なことなんだ」と前置きをする。言っても仕方のないぼやきを聞いてもらうことに、ほんの少しだけ、彼女への甘えを自覚しながら。
「タオロンに部屋に戻ってもらうと、リュイセンの救出が遅くなるだろ? そうすると、『リュイセンと話をして、あいつを味方に戻して、そして〈|蝿《ムスカ》〉を捕まえる』という作戦の開始も遅くなる。けど、『〈|蝿《ムスカ》〉の捕獲が可能な時間』は限られているんだ。――間に合わなくなると困るな、と思った」
『『〈|蝿《ムスカ》〉の捕獲が可能な時間』……? ……あっ!』
 聡明なメイシアは、すぐに気づいたようだ。
 反面、執務室の面々のうち、半分ほどは、きょとんとしている。ルイフォンは彼らに説明すべく、補足する。
「用心深い〈|蝿《ムスカ》〉は、部屋にいるときは鍵を掛ける。だから、奴を捕まえられるのは『廊下を歩いているとき』のみ。つまり『〈|蝿《ムスカ》〉が地下研究室から出てきて、寝床にしている王の部屋に入るまで』だけなんだ」
 扉を破壊することは絶対に不可能、とまでは言わないが、現実的ではないだろう。
 ハオリュウの車に隠れ、ルイフォンとリュイセンであの館に侵入したときは、偽造カードキーを用意していった。しかし、あれはルイフォンが持ち帰ってしまった。
「でも、ファンルゥの安全が優先だ。――タオロンに戻るよう、連絡を取る」
 懸念を口に出したことで、かえって不安がなくなった。
 晴れやかに宣言したルイフォンに、メイシアが遠慮がちに言う。
『『〈|蝿《ムスカ》〉が部屋にいる間』は手を出せないなら、『朝になって、〈|蝿《ムスカ》〉が寝室から出てくるとき』を待つのでは駄目なの? 焦らなくても、大丈夫だと思うの』
「あ……」
 盲点だった。
 勿論、〈|蝿《ムスカ》〉の捕獲は、密やかに実行されるべき作戦だ。夜のうちに片をつけるほうが望ましいだろう。しかし、朝になってからでは駄目だという理由はない。
「その通りだ! さすが、俺のメイシアだ!」
 ルイフォンがそう叫んだとき、彼の携帯端末が振動した。
「タオロンから電話だ」
 少し早い気がするが、もうリュイセンを反省房から助け出したのだろうか。そうなると、部屋に残ったままのファンルゥは……?
 ともかく、ルイフォンは電話を受ける。
 その連絡が、メッセージではなくて音声電話であるのは、文字の打ち込みが苦手なタオロンが、複雑な内容を告げるためであることに気づかぬまま……。
 時は少し、遡る――。
 タオロンは曲がり角に身を隠し、反省房まで一直線となる廊下の様子をそっと窺った。
 刹那、彼の顔に生ぬるい風が吹きつける。
 血臭が鼻を突き、月光が瞳を刺した。
 反省房として使っている部屋を一番奥に、どん詰まりとなっている廊下の窓が大きく開け放たれていた。それ自体は、どうということはない。単に夏だからだろう。
 だが、遮るものが何もない、まっすぐな廊下には、月の光に照らし出されるはずの見張りたちの姿がなかった。
「……」
 人間の存在なら、先ほどから濃厚に感じている。血の臭いという、実に分かりやすい形で。
 タオロンの太い眉の下の小さな目が、剣呑な光を放つ。
 ――リュイセンが動いたのか?
 タオロンは警戒しつつ、月明かりの織りなす、光と影の入り混じった廊下を進む。
 反省房の扉の前に立つと、部屋の内側から明確な人の気配を感じた。
 それも結構な数。十人はいる。
 呼吸の具合いから、意識があるかどうかは微妙だ。
 足元には不快な感触――血を吸った絨毯がぬめりを伝えてくる。あとで靴を|拭《ぬぐ》わなければ、血痕の足跡をつけて回ることになるだろう。
 ――おそらく、リュイセンは脱走した。
 廊下にいた見張りたちを倒し、目立たぬよう部屋の中に移動させて……。
 推測の正しさを確認すべく、タオロンは、そろりと薄く扉を開く。鍵の掛かっていない扉は素直に動き、室内を照らす煌々とした電灯の光が、長い筋となって漏れ出してきた。
 夜目に慣れたタオロンが目を細めながら覗き見ると、思った通り、室内には見張りと思しき男たちが転がされていた。誰も彼もが、着ていた服を裂いて作ったらしき紐で両手両足を縛られ、猿ぐつわを噛まされている。一見したところ、皆、気を失っているようであった。
 そのとき。
「――、――っ!」
 男のひとりが、声を上げた。扉が動いたことに気づき、助けを求めてきたのだ。
 タオロンは、とっさに『まずい』と思った。
 気づいたのはその男だけ。あとの者たちの反応はない。だが、ひとりが騒ぎ立てれば、やがて他の者も目覚めるだろう。面倒なことになる。
 タオロンは扉を開け放った。
 ぬちゃりと血濡れた絨毯を蹴り、重力から解き放たれたかのように巨躯を踊らせる。
 そして、着地と共に再び重力をまとい、勢いのままに男の首を締め上げた。
「――!?」
 男は、信じられないものを見たかのように目を見開き、その眼差しで『裏切り者』と|罵《ののし》る。……しかし、すぐに泡を吹いて意識を手放した。
 このときになって初めて、タオロンは自分の失態に気づいた。
 リュイセンが自力で脱走したのなら、タオロンは〈|蝿《ムスカ》〉の忠実な部下のふりをし続けるべきだったのだ。何故なら、彼の裏切りは、ファンルゥの生命の危機に直結するのだから。
 だのに、今の行為によって、タオロンは自ら、自分の立ち位置を明らかにしてしまった。この男は、目を覚ましたらすぐに〈|蝿《ムスカ》〉に報告するだろう。
 タオロンは|己《おのれ》の短慮を後悔する。
 だが、時すでに遅し……。
 彼は広い肩を落とし、冷静な――冷酷な瞳で、部屋を見渡した。
 拘束された男たちから、最も遠い位置に刀が積み上げられていた。
 武器は武器庫に集められているのだが、チンピラ程度の彼らが、武の達人であるリュイセンの見張りの任に就くにあたり、〈|蝿《ムスカ》〉から支給されたのだろう。――それをリュイセンに奪われているようでは、なんのための武器だか分からぬが。
 タオロンは無造作に、ひと振りの刀を手に取った。愛用の大刀と比べ、借り物の刀はまるで玩具のように心もとないが仕方あるまい。
 これで、先ほどの男の口を封じる。
 ファンルゥに害を及ぼしかねない、危険の芽を摘むのだ。
 タオロンは、巨躯を感じさせない静けさで動く。
 浅黒い顔には、いつもの気のいい大男の面影はなかった。太い眉に、不動の意志をたたえた殺戮者。――これも、彼の一面だった。
 そもそも、彼がリュイセンの立場に置かれたなら、初めから全員を確実に|屠《ほふ》っていた。拘束するにとどめたリュイセンは、甘いのだ。
 タオロンの影が、男のすぐそばまで近づく。
 そして、彼は息を呑んだ。
 ――リュイセンの奴……。
 吸い込んだ息が、鉛のような重さを伴って吐き出される。
 拘束された男たちは皆、お手本のような太刀筋で綺麗に急所を外されていた。出血は派手だが、命に別条はない。
 リュイセンは、多勢に無勢の不利を補うために、脅しの効果を狙って流血沙汰にしただけなのだ。彼らが気を失っているのは、峰打ちなり、当て身なりのためで、失血が原因ではない。
 タオロンは、刀を持っていないほうの手で、バンダナに触れた。
『ファンルゥ、知っているもん! パパのバンダナは、ママのおまじないでしょ! 『パパ、頑張って!』って、ママが言っているの!』
 小さな彼の娘は、頬を擦り寄せ、バンダナの結び目に手を伸ばした。
 それに対し、彼は彼女を抱きしめ、こう答えた。
『パパが、正しいことを頑張れるようになる、魔法のバンダナだ』
「――……!」
 タオロンの手から、刀が滑り落ちる。
 銀色の刀身が、ぎらりと光を放ちながら床に突き刺さり、タオロンの黒い影を貫く。 
『俺の手を取ってくれるか?』
 藤咲メイシアに指定された娼館で、ルイフォンが右手を差し出してくれた。
 以前、彼らが――ルイフォンとリュイセンが――この館に侵入したとき、〈|蝿《ムスカ》〉の前で『俺たちの手を取れ』と言ったときのやり直しだった。
「……俺は、『あいつら』と手を結んだんだ」
 ルイフォンと。
 そして、リュイセンと。
 タオロンはバンダナの結び目に手を触れ、柔らかに微笑む。そして、後ろを振り返ることなく反省房を出た。
 一刻も早く、ルイフォンに現状を伝える必要があった。
 ――リュイセンが、自力で反省房から脱走した。
 タオロンからの報告を受け、ルイフォンは愕然とした。
「何が起きたの?」
 ただならぬ様子の彼に、向かいに座っていたミンウェイが尋ねる。
 彼女に限らず、携帯端末での通話の声は、他の者には聞こえない。皆、緊張の面持ちでルイフォンに注目している。
 ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。そして、耳にしたばかりのタオロンの野太い声を繰り返す。
「リュイセンが、自力で反省房から脱走した」
 豊かな表情を持つ彼の顔が、彫刻のように作り物めいていく。冷静に状況を分析する、無機質な〈|猫《フェレース》〉の顔となる。
「リュイセンは〈|蝿《ムスカ》〉を殺すつもりだ」
 硬質なテノールが、執務室の空気に圧をかけた。
「えっ……!? どうして、そうなるの?」
 弾かれたように問うてくるミンウェイに、ルイフォンは声色を変えぬままに答える。
「不本意ながらも〈|蝿《ムスカ》〉に従っていたリュイセンが、ここで反旗を翻したなら、それは、あいつが〈|蝿《ムスカ》〉を殺す決意をしたということに他ならない。――素直に反省房に入ったのは、単に夜になるのを待っていただけだ。あいつも今夜、動くつもりだったんだ」
 ルイフォンは奥歯を噛みしめる。無表情になっていた顔が、苦しげに、悔しげに歪められる。
 ――どうして、リュイセンの心情を読み解けなかったのだろう?
 兄貴分もまた〈|蝿《ムスカ》〉を殺す機会を狙っていると、分かっていたのに。
 そして、気づいていたのに。
 ことを|為《な》したあと。
 高潔な彼は、一族を裏切った罪を背負い、姿を消すつもりだと……。
 思考を闇へと傾けた刹那、ルイフォンは戦慄に襲われた。
 リュイセンを永遠に失う。――その可能性に、感情が凍りつく。
『ルイフォン? 何があったの?』
 困惑したメイシアの声が、執務室のスピーカーから流れた。
 携帯端末にタオロンからの連絡が入ったとき、ルイフォンは、メイシアと繋がっていた電話の受話器をテーブルに置いた。だから、一応は音を拾っているはずだが、小さな送話口の集音能力では、執務室のやり取りを満足には伝えられまい。彼女には、何がなんだかさっぱりだろう。
 メイシアにも状況が伝わるよう、会議システムに切り替えなければ……。
 のろのろと立ち上がるルイフォンに、ミンウェイが不審に眉を寄せる。しかし、すぐに草の香を散らして動き出した。彼女には彼の気持ちは分からなかったが、自分がやるべきことに気づいたのだ。
 ミンウェイはテーブルの上にさっと手を伸ばし、メイシアと繋がっている電話を取った。そして、執務室の現状を手短に説明する。
 直後、メイシアの驚愕の息遣いがスピーカーを震わせた。
『リュイセンを止めないと……!』
 悲鳴のような声が細く響く。
『〈|蝿《ムスカ》〉に与えるものが、最終的には『死』であることは変わらなくても、それは、こんな形じゃない! 〈|蝿《ムスカ》〉は捕まえて、ミンウェイさんと会って、ミンウェイさんと話をして……!』
「ああ、分かっている!」
 猫背を丸めながら会議システムの準備をしていたルイフォンは、吐き捨てるように叫んだ。険のある声は八つ当たりだと思いつつ、押さえられなかった。
「リュイセンを止められるのは、タオロンしかいない。だから今すぐ、タオロンにリュイセンを探しに行ってほしい。――けど!」
 ルイフォンは唇を噛む。鉄の味が口の中に広がる。
「ファンルゥが部屋で寝ている。タオロンに起こしに行ってもらわないと駄目だ!」
 タオロンは、裏切りを知られた私兵を殺さなかった。
 それは、リュイセンの行動を認め、ルイフォンなら対処できると信じてくれたからだ。
 悪手だなんて思わない。仲間として、最高の判断だ。
 その私兵が目覚め、拘束を解いて〈|蝿《ムスカ》〉に連絡するまで、それなりの時間は掛かるだろう。だから、ファンルゥは危険に直面しているわけではない。
 ……だが、彼女の安全の確保は最優先であるべきだ。
 ならば、タオロンには、まずファンルゥを起こしに行ってもらって、それからリュイセンを探すのでよいのではないか。ルイフォンが先ほど懸念したように、〈|蝿《ムスカ》〉に手を出すことができるのは奴が廊下を歩いているときだけ。いつもの行動パターンなら、奴の就寝時間には、まだ余裕がある。
「……っ」
 今日は、『いつも』ではない。
〈|蝿《ムスカ》〉はリュイセンを捕らえ、明日になったらメイシアと話をすると宣言している。早めに|床《とこ》に|就《つ》く可能性は充分にあり得る。
 ――どうすべきか。
 迷っている暇などない。決断せねば。
 早鐘を打つ鼓動が、ルイフォンを急き立てた。ただ指先だけが、慣性に従うかのように機械的に動き続け、会議システムを構築する。
 モニタ画面の不安定な波の向こうに、メイシアの花の|顔《かんばせ》が映し出された。
 その映像が凪いだ瞬間、毅然と向けられた黒曜石の瞳に、ルイフォンはどきりとする。
『ルイフォン!』
 険しさをたたえながらも、高く澄んだ透明な声。
『私が、ファンルゥちゃんを迎えに行きます。だから、タオロンさんにはリュイセンを探してもらって』
「!?」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
 猫の目を見開いたまま、ルイフォンは表情を止める。そんな彼に、メイシアは必死に言を継ぐ。
『私は、ここに閉じ込められているわけじゃないもの』
「メイシア……?」
『この展望室の鍵は内鍵で、私は自由に開けられる。そして、この展望塔からは、階段の明かり取りの小窓から出られる。――ファンルゥちゃんが初めてここに来たとき、教えてくれたの』
「あ、ああ……」
『だから、ファンルゥちゃんが来てくれるときと逆のルートで、私がファンルゥちゃんの部屋に行く。そして、彼女を起こして、一緒にこの展望室に戻ってくる』
「なっ……!」
 ルイフォンは絶句した。
 彼だけではない。執務室にいる誰もが唖然としている。
「危険だ! ファンルゥの部屋へは、雨どいを伝って窓から入るんだぞ! そんなこと、お前にさせられない」
 あれは身が軽くて、普段から飛び回っているようなファンルゥだからこそ、可能な|技《わざ》なのだ。メイシアだって決して重くはないが、どう考えたって無謀だ。
『でも、リュイセンを止めるのも、ファンルゥちゃんを起こすのも、この庭園にいる人間しかできないの。なら、私とタオロンさんで分担するべきでしょう』
「だからって、無茶を言うな!」
『そして、リュイセンを探すのは、この庭園内を動き回っても不審に思われないタオロンさんのほうが向いているし、ファンルゥちゃんは私のところに来るのだから、私が迎えに行くのが適当』
「駄目だ!」
 ルイフォンが吠える。
 こんな議論をしているくらいなら、余計なことは考えずに、さっさとタオロンにファンルゥを起こしに行ってもらうべきだろう。メイシアの言う通り、あの庭園のことは、あの庭園にいる人間にしか手を下しようもないのだから……。
「糞っ!」
 ルイフォンは、やり場のない思いを床に向かって吐き捨てた。
 反動で、後ろで一本に編まれた髪が、胸元に飛び込む。毛先を留める金の鈴が、鈍い光を放ちながら視界に映り込んだ。
 ――本当に、そうか……?
 遠く離れているから、何もできない?
「違う……」
『ルイフォン?』
「俺は、〈|猫《フェレース》〉だ。――遠隔攻撃が得意な、|魔術師《ウィザード》だ……」
 口の中で言葉を転がし、虚空をじっと見据える。
 そして、はっと閃いた。
「俺に任せろ! ファンルゥのことは、俺が守る!」
 ルイフォンは勢いよく立ち上がる。
 煌めきを取り戻した金の鈴が、彼の背で挑むように跳ねた。
「鍵だ! 仕事部屋に行ってくる!」
『鍵?』
 メイシアは勿論、彼の叫びを聞いた皆が首をかしげる。
 当然だろう。これは、〈|猫《フェレース》〉ならではの発想であり、手段だ。
 ルイフォンは執務室を飛び出そうとしていた足を止め、猫背を正して胸を張る。
「メイシアの展望室が内鍵であるように、ファンルゥの部屋だって内鍵だ。だから、ファンルゥの身が危険に晒されるのは、『鍵を持った私兵が、外から鍵を開けて入ってくる』とき。ならば、俺が――〈|猫《フェレース》〉が、私兵の持っている鍵を無効化すればいい」
「どういうこと?」
 皆を代表するように、近くにいたミンウェイが、すかさず問う。
 ルイフォンは猫の目を光らせ、不敵に嗤った。
「あの館の鍵は『電子錠』だ。電子的に管理されているものは、〈|猫《フェレース》〉の支配下にあると言っていい。しかも、あの館の鍵なら、偽造カードキーを作ったときに仕組みを調べ上げているから、すぐにも俺は動ける」
「ええと? つまり、何をするつもりなの?」
 回りくどいと思ったのだろう。ミンウェイが、|焦《じ》れるように柳眉を寄せる。
 ルイフォンは、自分中心の説明だったなと、ほんの少しばつが悪そうに前髪を掻き上げ、しかし、得意げに答えた。
「仕事部屋からの遠隔操作で、ファンルゥの部屋の鍵を、今とは別の番号に変えて施錠する。これで、私兵は入ってこられない。ファンルゥは、安心して寝ていて大丈夫だ」
 執務室が沸き立った。
 遥かな庭園にいるメイシアとタオロンも、それぞれの回線を通してルイフォンの弁を聞き、胸を撫で下ろす。
「タオロン。すまないが、リュイセンを探してくれ。あいつは〈|蝿《ムスカ》〉を狙って現れるはずだ」
『分かった』
 ルイフォンは身を翻し、仕事部屋へと向かう。
 皆が讃える声を背中に、段々と冷静になってきて、彼は思う。
 ……実は、俺がもっと早く、鍵に注目すればよかっただけじゃないのか?
 鍵を自在に扱えるのなら、〈|蝿《ムスカ》〉の寝室だって、奴が寝入った真夜中に開けることができる。時間を気にして焦る必要もない。
 誰も見ていない廊下で彼は赤面し、面目なさそうに髪を掻き上げた。
 ――どすん。
 何かが打ちつけられるような物音で、ファンルゥは目を覚ました。
 彼女は目をこすり、自分がベッドではなく、テーブルに突っ伏して眠っていたことに首をかしげる。
 ――どすん。
 再び、音がした。
 部屋が揺れているような気がした。
「なんの音?」
 ファンルゥは、椅子を飛び降り、気になる音を確かめに行く。
 ルイフォンが守りを固めた扉からではなく、『窓の外』から響く音の、謎を解きに――。