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6.塔の上の姫君-1

ー/ー



 培養液に満たされた硝子ケースで、赤子がまどろむ。
 陽の光を溶かし込んだような白金の産毛が、ふわりとたゆたう。
 空の色を写し取ったような青灰色の瞳が、ぴくりと(またた)く。
『ライシェン』を目にした瞬間、メイシアの中に、セレイエの記憶が押し寄せてきた。
 腕の中に感じる、温かな重み。
 胸の中にあふれる、狂おしいほどの愛情。
 思いの渦に呑み込まれ、翻弄される……。

『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』は、『ライシェン』に幸せを贈るための計画。
 ライシェンに。
 叶えられなかった幸せを――。
 与えられなかった未来を――。
 ルイフォンとふたりで、『ライシェン』を守って……。


 はっと目を覚ますと、メイシアは、豪奢な天蓋付きのベッドの上に寝かされていた。
 全身を包み込む寝具は、極上の柔らかさを誇り、天蓋から垂れ下がるカーテンは、しっとりとした光沢を放ちながら、優美なドレープを揺らす。
 体を起こせば、そこは見知らぬ部屋であった。
(ムスカ)〉の姿はなく、代わりに手の込んだ織りの絨毯が視界に入った。
 中央にはベッドに合わせたようなアンティーク調のソファーが据えられており、少し離れたところには品の良いローチェストがひっそりとたたずんでいる。窓は一面の硝子張りで、明るい光が注がれていた。
 ひと目見て、貴人がくつろぐための部屋だと分かった。
 と、同時に、メイシアは青ざめる。
 ここは、〈(ムスカ)〉が潜伏している庭園内のどこかであるはずだ。すなわち、何代か前の王が療養のために作らせた施設の一角である。そんな場所で『貴人』といえば王、もしくは王妃だ。
 ――陛下のベッドで休むとは、なんとも(おそ)れ多いことをしてしまった!
 もと貴族(シャトーア)のメイシアは、『死者』となって上流階級を去った今でも、体に染み付いた臣下の意識が抜けていなかった……。
 彼女は、まるで逃げ出すかのように、そろりとベッドを降りた。
 部屋全体から、長い間、使われていなかった空間特有の湿った臭いがした。うっすらと埃も感じ、窓を開けようと思い立つ。
 そのとき、彼女はこの部屋の異質さに気づいた。
 窓硝子が、平面ではなく、曲面を描いていた。よくよく床を見てみれば、ベッドのある壁側を直径とした半円形になっている。
「パノラマ展望台……?」
 こんな形状をした部屋といえば、そのくらいしか思いつかない。そういった展望室であれば、床は完全な円形で、全方向三百六十度が見渡せるはずだが、ここは、ちょうど半分にしたかのようだった。
 窓際に寄り、メイシアは自分の推測が正しいことを知る。
 彼女は、塔の上にいた。
 王都にある電波塔と比べれば、おもちゃのようなものであるが、それでも常とは違う高さにひやりとする。
 眼下に広がる緑の大地は、遥か彼方まで続いているかのように見えた。
 一方、足元となる真下には、この塔の入り口らしき部分が見え、数人の見張りが立っている。隣には、〈(ムスカ)〉が起居していると思しき館があり、その周りには、鮮やかな紫を綺麗に箱詰めしたような、四角い区画が散らばっていた。菖蒲園であろう。
 そういえば、ルイフォンが庭園の地図を手に入れたとき、館の隣には、古い時代の建築を模した、石造りの展望塔があると言っていた。
(ムスカ)〉捕獲作戦には関係がなかったので、それきりの話になってしまったが、おそらく療養中の王の気晴らしにと建てられたものなのだろう。展望室にベッドがあるのは、いつでも王が休めるようにとの配慮というところか。
 換気をしようと思ったのだが、残念ながら窓は開けられないようになっていた。高い塔の上なのだから、安全のため当然の造りかもしれない。
 仕方ない。空調はついていたので、それだけでも、ありがたいと思わなければ……と溜め息をついたとき、メイシアはふと気づいた。先ほどまで彼女を拘束していた手枷が外されている。
『その枷は、あなたの置かれた立場を分かりやすく伝えるための措置です』
(ムスカ)〉はそう言った。
 つまり、今度は高い塔に監禁することで、囚われの身分を表しているつもりなのだろう。実に分かりやすく、如何(いか)にも〈(ムスカ)〉の好きそうな演出だった。
「ルイフォン……」
 メイシアは、ぽつりと呟いた。

 ――ルイフォンに逢いたい。

(ムスカ)〉に囚われてしまった。
 この先どうなるのか、不安でたまらない。
(ムスカ)〉は、『生を()けた以上、生をまっとうする』という妻との約束を守るため、メイシアを駆け引きに利用して、生き残るのだと言った。
 彼に『ライシェン』を見せられた瞬間、自分の意識がセレイエの記憶と繋がったのを感じた。
 切なさで、胸が押しつぶされそうになった。
 セレイエが託した思いを――『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の真の目的を知った。

 ――けれど。

 メイシアは、心の痛みを押さえるように、胸に手を当てた。

 ――ルイフォンに逢いたい……!

(ムスカ)〉にも、セレイエにも、それぞれに、切なる思いがある。
 けれど。
 それらは決して、メイシアとは相容れない。

 ――ルイフォン、助けて……!

 ひとりで抱えるには、あまりにも重すぎる……。
 メイシアは滲んできた涙を拳で拭い、嗚咽をぐっとこらえた。
 声に出して叫んでしまったら、きっと泣きじゃくって、心が弱くなる。だから今は、歯を食いしばって、平気な顔をする。
 なんとしてでも、この庭園から抜け出し、ルイフォンのもとに帰るのだ――!
 メイシアは現実と向き合うように、黒曜石の瞳を凛と大きく見開いた。
「これから〈(ムスカ)〉が、セレイエさんの行方を聞きに来る……」
 彼女は口元に手を当てて、眉を寄せた。
 セレイエの記憶から得た情報を、正直に〈(ムスカ)〉に伝えるべきだろうか。
 ――否だ。
 情報には、価値がある。いつも、ルイフォンがそう言っているし、メイシアもそう思う。
 どんな些細な情報だって〈(ムスカ)〉に渡してはならない。
 メイシアは、受け取った記憶を反芻する。
 彼女に刻まれた記憶は、正確には『セレイエ』ではなくて、『セレイエの〈影〉のホンシュア』のものだ。
 すなわち、セレイエが生まれてから、ホンシュアを〈影〉にした瞬間までの『セレイエ本人』の記憶。そして、その先、〈影〉として行動し、仕立て屋と偽ってメイシアに会ったときまでの『〈影〉のホンシュア』の記憶である。
 ホンシュアは、ライシェンの侍女だった。
 彼女は『主人(ライシェン)の死は、そばにいながら守りきれなかった自分に責任がある』と言って、自害しようとしていた。そんなとき『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のことを知り、自ら望んで水先案内人に――セレイエの〈影〉となった……。
「…………」
 メイシアは思案する。
 自分は、あまりにも非力だ。
 望みがあるとしたら……リュイセンだ。
(ムスカ)〉は、あとでリュイセンに会わせてくれると言っていた。リュイセンの裏切りを本人の口から告白させることで、メイシアに絶望を与えるつもりなのだろう。――しかし、それは違う。
 リュイセンは希望だ。
 彼は、なんらかの理由で〈(ムスカ)〉に従っているだけだ。彼もまた、メイシアと同じく〈(ムスカ)〉に囚われているのだ。
 身柄を拘束されたメイシアと、おそらく、心理的に束縛状態にあるリュイセン。
 ふたりで協力して、この窮地を脱する。
「ルイフォン……」
 メイシアは、硝子張りの世界の向こうへと瞳を巡らせる。
「必ず、あなたのもとに帰る」
 高く澄んだ声を響かせ、誓いを立てた。


(ムスカ)〉が部屋に現れたのは、それから少し経ってからのことだった。
 初めに、壁の向こうから、かすかな機械音が聞こえた。メイシアは、凶賊(ダリジィン)たちのように気配に敏感ではないのだが、無音の展望室に鈍い振動が伝わってきて気づいた。
 エレベーターがあるのだろう。外観こそは古い様式を真似ていても、療養中の王のための建物だ。階段のみということはあるまい。
 固唾を呑んで身構えていると、案の定、〈(ムスカ)〉が現れた。開かれた扉から、彼の斜め後ろでエレベーターの戸が閉まるのが見えた。
「お目覚めでしたか」
 どことなく嬉しそうに〈(ムスカ)〉が言った。
「『ライシェン』を見た瞬間、あなたは気を失ったのですよ。さすがに刺激が強すぎたのでしょうかね」
「……」
 どう答えるのが吉なのかを測りかね、メイシアは曖昧な視線を返す。〈(ムスカ)〉に媚びへつらうのは論外だが、逆らうよりは、彼の機嫌をとって饒舌になってもらうべきなのは、地下の研究室で学んだ通りだ。
「立ち話もなんですから、向かいの部屋に移りましょう」
「向かいの部屋……?」
「ええ。賢いあなたのことですから、ここが展望塔の上であることには気づいてらっしゃるのでしょう? ならばこの半円形状の部屋が、円形の展望室を二つに分けたうちの片方であることも、お分かりでしょう?」
 確かに、それは予想通りであったので、メイシアは素直に「はい」と頷く。
「展望室は、この庭園を作らせた王のお気に入りの場所だったそうですよ。こちらで休息を取り、あちらの部屋で食事を摂る。――そのように使い分けていたようです」
 そう言いながら、〈(ムスカ)〉は、メイシアについてくるようにと促す。
「今は、どちらもあなたの部屋ですよ」
 何気なく付け足されたひとことに、メイシアは驚いて足を止めた。
「どうして、陛下がお使いになっていたような良いお部屋を、私に二部屋も与えるのですか?」
 警戒心もあらわな彼女に、〈(ムスカ)〉は、わざとらしく苦笑する。
「あなたは、私の大事な切り札ですよ。それに見合った待遇ということです。――それより、私がこの部屋に鍵を掛けていなかったことに、気づかなかったようですね」
「え……?」
 囚われのメイシアは、部屋からは出られないものと思い込んでいた。だから、鍵を確認するなんて、考えつきもしなかった。しかし、言われてみれば〈(ムスカ)〉が入ってきたときに鍵を開けた様子はなかった。
「どうして……?」
「この部屋の鍵が『内鍵』だからですよ。鍵を掛けても、あなたを閉じ込めることはできないのです。――もとは、王の娯楽のために造られた場所なのですから、内鍵は当然でしょう?」
「あ……」
 ここは本来、『王の個室』なのだ。外から鍵を掛ける仕様では、『王を閉じ込める』ことができてしまう。それは不敬にあたるだろう。
 顔を赤らめたメイシアに、〈(ムスカ)〉はくすりと嗤う。
「勿論、塔の入り口には見張りがいます。けれど、この塔の中ならば、あなたは自由に動き回れるわけです。ならば、二部屋とも、あなたに自由に使っていただこうと思っただけですよ」
(ムスカ)〉に続いて部屋を出ると、そこは廊下というよりも通路といったほうがふさわしいような場所だった。すぐ正面に扉があり、左右はエレベーターと階段になっている。
 それを見て、メイシアは、なるほどと思った。
 展望室をふたつに分けた造りには、やや疑問があったのだが、大きな円形の部屋であったなら、王がくつろぐための空間にエレベーターと階段が直結してしまう。それは無粋だと設計者が考えたのだろう。
 もうひとつの部屋に入ると、そちらも全面が硝子張りの明るい部屋であった。
 先に〈(ムスカ)〉が言った通り、食事などの、より活動的な物ごとをするための場所であることは見て取れた。中央にあるテーブルと椅子以外にも、何か書きものでもするような机や、置いてある本は少ないものの本棚もある。
「今は鍵を掛けませんが、あなたがひとりになったら施錠しておくことをお勧めしますよ」
「何故ですか?」
 メイシアが首をかしげると、〈(ムスカ)〉が涼しげに答える。
「私の雇った私兵たちが、あなたに悪事を働かないという保証はありませんからね」
 静かに落とされた低い声に、メイシアはぞくりと身を震わせた。その反応は、〈(ムスカ)〉の予想通りだったのだろう。彼は、満足そうに喉の奥を鳴らす。
「私にはマスターキーがありますから、あなたに用があるときは、いつでも部屋に入れます。遠慮せずに鍵を掛けて構いませんよ」
 賓客をもてなすように扱いながら、その実、自由などひとつもない……。
 メイシアは、改めて囚われの身であることを思い知らされた。
 脅えた顔の彼女を置き去りにして、〈(ムスカ)〉は、部屋の奥へと入っていく。彼はテーブルにつくと、彼女にも向かいに座るよう顎で示した。彼女に拒否権はない。ただ従うだけだ。
「それで、『鷹刀セレイエ』の記憶は、どうなりましたか?」
 メイシアが席に着くか着かないかのうちに、〈(ムスカ)〉は単刀直入に尋ねた。興奮の入り混じった、期待の眼差しで彼女を見つめている。
(ムスカ)〉が、苦労してメイシアを手に入れたのは、セレイエの居場所を突き止めるため。ひいては自分の身の安全を確保するため。そのための第一歩が、メイシアの中の『セレイエ』だ。
 ねっとりとした視線が絡みつく。メイシアは自分の手札だと、彼は暗に告げていた。


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 培養液に満たされた硝子ケースで、赤子がまどろむ。
 陽の光を溶かし込んだような白金の産毛が、ふわりとたゆたう。
 空の色を写し取ったような青灰色の瞳が、ぴくりと|瞬《またた》く。
『ライシェン』を目にした瞬間、メイシアの中に、セレイエの記憶が押し寄せてきた。
 腕の中に感じる、温かな重み。
 胸の中にあふれる、狂おしいほどの愛情。
 思いの渦に呑み込まれ、翻弄される……。
『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』は、『ライシェン』に幸せを贈るための計画。
 ライシェンに。
 叶えられなかった幸せを――。
 与えられなかった未来を――。
 ルイフォンとふたりで、『ライシェン』を守って……。
 はっと目を覚ますと、メイシアは、豪奢な天蓋付きのベッドの上に寝かされていた。
 全身を包み込む寝具は、極上の柔らかさを誇り、天蓋から垂れ下がるカーテンは、しっとりとした光沢を放ちながら、優美なドレープを揺らす。
 体を起こせば、そこは見知らぬ部屋であった。
〈|蝿《ムスカ》〉の姿はなく、代わりに手の込んだ織りの絨毯が視界に入った。
 中央にはベッドに合わせたようなアンティーク調のソファーが据えられており、少し離れたところには品の良いローチェストがひっそりとたたずんでいる。窓は一面の硝子張りで、明るい光が注がれていた。
 ひと目見て、貴人がくつろぐための部屋だと分かった。
 と、同時に、メイシアは青ざめる。
 ここは、〈|蝿《ムスカ》〉が潜伏している庭園内のどこかであるはずだ。すなわち、何代か前の王が療養のために作らせた施設の一角である。そんな場所で『貴人』といえば王、もしくは王妃だ。
 ――陛下のベッドで休むとは、なんとも|畏《おそ》れ多いことをしてしまった!
 もと|貴族《シャトーア》のメイシアは、『死者』となって上流階級を去った今でも、体に染み付いた臣下の意識が抜けていなかった……。
 彼女は、まるで逃げ出すかのように、そろりとベッドを降りた。
 部屋全体から、長い間、使われていなかった空間特有の湿った臭いがした。うっすらと埃も感じ、窓を開けようと思い立つ。
 そのとき、彼女はこの部屋の異質さに気づいた。
 窓硝子が、平面ではなく、曲面を描いていた。よくよく床を見てみれば、ベッドのある壁側を直径とした半円形になっている。
「パノラマ展望台……?」
 こんな形状をした部屋といえば、そのくらいしか思いつかない。そういった展望室であれば、床は完全な円形で、全方向三百六十度が見渡せるはずだが、ここは、ちょうど半分にしたかのようだった。
 窓際に寄り、メイシアは自分の推測が正しいことを知る。
 彼女は、塔の上にいた。
 王都にある電波塔と比べれば、おもちゃのようなものであるが、それでも常とは違う高さにひやりとする。
 眼下に広がる緑の大地は、遥か彼方まで続いているかのように見えた。
 一方、足元となる真下には、この塔の入り口らしき部分が見え、数人の見張りが立っている。隣には、〈|蝿《ムスカ》〉が起居していると思しき館があり、その周りには、鮮やかな紫を綺麗に箱詰めしたような、四角い区画が散らばっていた。菖蒲園であろう。
 そういえば、ルイフォンが庭園の地図を手に入れたとき、館の隣には、古い時代の建築を模した、石造りの展望塔があると言っていた。
〈|蝿《ムスカ》〉捕獲作戦には関係がなかったので、それきりの話になってしまったが、おそらく療養中の王の気晴らしにと建てられたものなのだろう。展望室にベッドがあるのは、いつでも王が休めるようにとの配慮というところか。
 換気をしようと思ったのだが、残念ながら窓は開けられないようになっていた。高い塔の上なのだから、安全のため当然の造りかもしれない。
 仕方ない。空調はついていたので、それだけでも、ありがたいと思わなければ……と溜め息をついたとき、メイシアはふと気づいた。先ほどまで彼女を拘束していた手枷が外されている。
『その枷は、あなたの置かれた立場を分かりやすく伝えるための措置です』
〈|蝿《ムスカ》〉はそう言った。
 つまり、今度は高い塔に監禁することで、囚われの身分を表しているつもりなのだろう。実に分かりやすく、|如何《いか》にも〈|蝿《ムスカ》〉の好きそうな演出だった。
「ルイフォン……」
 メイシアは、ぽつりと呟いた。
 ――ルイフォンに逢いたい。
〈|蝿《ムスカ》〉に囚われてしまった。
 この先どうなるのか、不安でたまらない。
〈|蝿《ムスカ》〉は、『生を|享《う》けた以上、生をまっとうする』という妻との約束を守るため、メイシアを駆け引きに利用して、生き残るのだと言った。
 彼に『ライシェン』を見せられた瞬間、自分の意識がセレイエの記憶と繋がったのを感じた。
 切なさで、胸が押しつぶされそうになった。
 セレイエが託した思いを――『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』の真の目的を知った。
 ――けれど。
 メイシアは、心の痛みを押さえるように、胸に手を当てた。
 ――ルイフォンに逢いたい……!
〈|蝿《ムスカ》〉にも、セレイエにも、それぞれに、切なる思いがある。
 けれど。
 それらは決して、メイシアとは相容れない。
 ――ルイフォン、助けて……!
 ひとりで抱えるには、あまりにも重すぎる……。
 メイシアは滲んできた涙を拳で拭い、嗚咽をぐっとこらえた。
 声に出して叫んでしまったら、きっと泣きじゃくって、心が弱くなる。だから今は、歯を食いしばって、平気な顔をする。
 なんとしてでも、この庭園から抜け出し、ルイフォンのもとに帰るのだ――!
 メイシアは現実と向き合うように、黒曜石の瞳を凛と大きく見開いた。
「これから〈|蝿《ムスカ》〉が、セレイエさんの行方を聞きに来る……」
 彼女は口元に手を当てて、眉を寄せた。
 セレイエの記憶から得た情報を、正直に〈|蝿《ムスカ》〉に伝えるべきだろうか。
 ――否だ。
 情報には、価値がある。いつも、ルイフォンがそう言っているし、メイシアもそう思う。
 どんな些細な情報だって〈|蝿《ムスカ》〉に渡してはならない。
 メイシアは、受け取った記憶を反芻する。
 彼女に刻まれた記憶は、正確には『セレイエ』ではなくて、『セレイエの〈影〉のホンシュア』のものだ。
 すなわち、セレイエが生まれてから、ホンシュアを〈影〉にした瞬間までの『セレイエ本人』の記憶。そして、その先、〈影〉として行動し、仕立て屋と偽ってメイシアに会ったときまでの『〈影〉のホンシュア』の記憶である。
 ホンシュアは、ライシェンの侍女だった。
 彼女は『|主人《ライシェン》の死は、そばにいながら守りきれなかった自分に責任がある』と言って、自害しようとしていた。そんなとき『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』のことを知り、自ら望んで水先案内人に――セレイエの〈影〉となった……。
「…………」
 メイシアは思案する。
 自分は、あまりにも非力だ。
 望みがあるとしたら……リュイセンだ。
〈|蝿《ムスカ》〉は、あとでリュイセンに会わせてくれると言っていた。リュイセンの裏切りを本人の口から告白させることで、メイシアに絶望を与えるつもりなのだろう。――しかし、それは違う。
 リュイセンは希望だ。
 彼は、なんらかの理由で〈|蝿《ムスカ》〉に従っているだけだ。彼もまた、メイシアと同じく〈|蝿《ムスカ》〉に囚われているのだ。
 身柄を拘束されたメイシアと、おそらく、心理的に束縛状態にあるリュイセン。
 ふたりで協力して、この窮地を脱する。
「ルイフォン……」
 メイシアは、硝子張りの世界の向こうへと瞳を巡らせる。
「必ず、あなたのもとに帰る」
 高く澄んだ声を響かせ、誓いを立てた。
〈|蝿《ムスカ》〉が部屋に現れたのは、それから少し経ってからのことだった。
 初めに、壁の向こうから、かすかな機械音が聞こえた。メイシアは、|凶賊《ダリジィン》たちのように気配に敏感ではないのだが、無音の展望室に鈍い振動が伝わってきて気づいた。
 エレベーターがあるのだろう。外観こそは古い様式を真似ていても、療養中の王のための建物だ。階段のみということはあるまい。
 固唾を呑んで身構えていると、案の定、〈|蝿《ムスカ》〉が現れた。開かれた扉から、彼の斜め後ろでエレベーターの戸が閉まるのが見えた。
「お目覚めでしたか」
 どことなく嬉しそうに〈|蝿《ムスカ》〉が言った。
「『ライシェン』を見た瞬間、あなたは気を失ったのですよ。さすがに刺激が強すぎたのでしょうかね」
「……」
 どう答えるのが吉なのかを測りかね、メイシアは曖昧な視線を返す。〈|蝿《ムスカ》〉に媚びへつらうのは論外だが、逆らうよりは、彼の機嫌をとって饒舌になってもらうべきなのは、地下の研究室で学んだ通りだ。
「立ち話もなんですから、向かいの部屋に移りましょう」
「向かいの部屋……?」
「ええ。賢いあなたのことですから、ここが展望塔の上であることには気づいてらっしゃるのでしょう? ならばこの半円形状の部屋が、円形の展望室を二つに分けたうちの片方であることも、お分かりでしょう?」
 確かに、それは予想通りであったので、メイシアは素直に「はい」と頷く。
「展望室は、この庭園を作らせた王のお気に入りの場所だったそうですよ。こちらで休息を取り、あちらの部屋で食事を摂る。――そのように使い分けていたようです」
 そう言いながら、〈|蝿《ムスカ》〉は、メイシアについてくるようにと促す。
「今は、どちらもあなたの部屋ですよ」
 何気なく付け足されたひとことに、メイシアは驚いて足を止めた。
「どうして、陛下がお使いになっていたような良いお部屋を、私に二部屋も与えるのですか?」
 警戒心もあらわな彼女に、〈|蝿《ムスカ》〉は、わざとらしく苦笑する。
「あなたは、私の大事な切り札ですよ。それに見合った待遇ということです。――それより、私がこの部屋に鍵を掛けていなかったことに、気づかなかったようですね」
「え……?」
 囚われのメイシアは、部屋からは出られないものと思い込んでいた。だから、鍵を確認するなんて、考えつきもしなかった。しかし、言われてみれば〈|蝿《ムスカ》〉が入ってきたときに鍵を開けた様子はなかった。
「どうして……?」
「この部屋の鍵が『内鍵』だからですよ。鍵を掛けても、あなたを閉じ込めることはできないのです。――もとは、王の娯楽のために造られた場所なのですから、内鍵は当然でしょう?」
「あ……」
 ここは本来、『王の個室』なのだ。外から鍵を掛ける仕様では、『王を閉じ込める』ことができてしまう。それは不敬にあたるだろう。
 顔を赤らめたメイシアに、〈|蝿《ムスカ》〉はくすりと嗤う。
「勿論、塔の入り口には見張りがいます。けれど、この塔の中ならば、あなたは自由に動き回れるわけです。ならば、二部屋とも、あなたに自由に使っていただこうと思っただけですよ」
〈|蝿《ムスカ》〉に続いて部屋を出ると、そこは廊下というよりも通路といったほうがふさわしいような場所だった。すぐ正面に扉があり、左右はエレベーターと階段になっている。
 それを見て、メイシアは、なるほどと思った。
 展望室をふたつに分けた造りには、やや疑問があったのだが、大きな円形の部屋であったなら、王がくつろぐための空間にエレベーターと階段が直結してしまう。それは無粋だと設計者が考えたのだろう。
 もうひとつの部屋に入ると、そちらも全面が硝子張りの明るい部屋であった。
 先に〈|蝿《ムスカ》〉が言った通り、食事などの、より活動的な物ごとをするための場所であることは見て取れた。中央にあるテーブルと椅子以外にも、何か書きものでもするような机や、置いてある本は少ないものの本棚もある。
「今は鍵を掛けませんが、あなたがひとりになったら施錠しておくことをお勧めしますよ」
「何故ですか?」
 メイシアが首をかしげると、〈|蝿《ムスカ》〉が涼しげに答える。
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 静かに落とされた低い声に、メイシアはぞくりと身を震わせた。その反応は、〈|蝿《ムスカ》〉の予想通りだったのだろう。彼は、満足そうに喉の奥を鳴らす。
「私にはマスターキーがありますから、あなたに用があるときは、いつでも部屋に入れます。遠慮せずに鍵を掛けて構いませんよ」
 賓客をもてなすように扱いながら、その実、自由などひとつもない……。
 メイシアは、改めて囚われの身であることを思い知らされた。
 脅えた顔の彼女を置き去りにして、〈|蝿《ムスカ》〉は、部屋の奥へと入っていく。彼はテーブルにつくと、彼女にも向かいに座るよう顎で示した。彼女に拒否権はない。ただ従うだけだ。
「それで、『鷹刀セレイエ』の記憶は、どうなりましたか?」
 メイシアが席に着くか着かないかのうちに、〈|蝿《ムスカ》〉は単刀直入に尋ねた。興奮の入り混じった、期待の眼差しで彼女を見つめている。
〈|蝿《ムスカ》〉が、苦労してメイシアを手に入れたのは、セレイエの居場所を突き止めるため。ひいては自分の身の安全を確保するため。そのための第一歩が、メイシアの中の『セレイエ』だ。
 ねっとりとした視線が絡みつく。メイシアは自分の手札だと、彼は暗に告げていた。