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第86話 不仲の始まり

ー/ー



「ふぅー、今日もいい仕事したぜぇ!」
 夏の夕暮れ、健造は全身を汗まみれにして帰宅する。その表情は清々しく満足げだ。
「よしゆきー、帰ったぞぉ!」
 健造が帰宅を告げる。いつもなら、よしゆきは父の帰りを待ち侘びて玄関まで出向かえる。だが、この日のよしゆきは違った。
「何だ、いるなら返事くらいしたらどうだ?」
 よしゆきの表情は、どことなく厳しい顔つきをしている。だが、健造はその様子を気にも留めていない。
「......」
 よしゆきは、依然として怪訝な表情のまま黙り込んでいる。それには、さすがの健造もどことなく違和感を覚える。
「よしゆき、学校で何かあったのか?」
 その表情から息子の異変を感じたものの、どうにも健造には心当たりがない。しばらくの沈黙の後、よしゆきは強張ったままの表情で重い口を開いた。
「......おとうさん、僕に嘘ついてたの?」
 よしゆきがやっとの思いで紡いだ一言。だが、健造にその言葉の意図は掴めなかった。
「嘘? 一体何のことだ??」
 健造に心当たりはなく、怪訝な表情。だが、父の一言がよしゆきの逆鱗に触れてしまった。
「......とぼけないでよ! いい子にしてれば、おかあさんは帰って来るって言ってたじゃないか!!!」
 よしゆきは烈火の如く怒り狂う。今まで信じてきた父の言葉、それが嘘だと知ってしまった彼は憤りを隠せない。
 遺影に映る母と対面すること、それは彼にとって長年の願いだったのだ。その期待を打ち砕かれた悔しさ、少年にとっての彼には精神的に痛恨の一撃だったに違いない。
「いいかよしゆき、おとうさんはなぁ……」
 激昂するよしゆきを宥めるべく、健造は弁明を始める。妻を亡くした事実を認めたくないこと、息子を悲しませたくなかったこと、それらの思いを一挙に飲み込むべく貫き続けてきた善意の嘘。だが、その嘘も遂に綻びる時が来たのだ。
「もうおとうさんなんか嫌いだっ!!!」
 父の言葉を遮り、よしゆきはその場から立ち去ってしまった。純真無垢な子供に、親の都合など知ったことではない。
「よしゆきっ!!」
 息子を引き留めるも、父のその手はあまりに無力だった。善意の嘘と言い聞かせつつも、内心はエゴを押し通すための免罪符にしていたことも自認していた。
 愛妻との死別、それは自身にとっても受け入れ難い事実だっただろう。だが、それはどこかで自認すべきだった。そして、自身のエゴを息子へ押し付けるべきではなかったのだ。
 しかしながら、多くの親は無自覚ながら自身のエゴを我が子へ押し付けている。このことを紛糾できる親は、そう多くないだろう。
「よしゆき......」
 この時、健造は悔恨していたに違いない。自身のエゴを未練がましく引きずっていたがために、このような結果を招いてしまったことを。結果的に、自身の嘘が息子を裏切る形になってしまったこと。
『そんなこと言って......。そんなんじゃ和代さんも浮かばれませんよ?』
 あの時に言われた妹の言葉が、今になってじわじわと心を抉る。自身のエゴが、息子だけでなく故人となった愛妻の成仏も阻んでいるのかもしれない。健造は呵責の念に苛まれた。
――
 感情のままに自宅を飛び出したよしゆきは、羽成神社のバス停に辿り着いた。もちろんバスを待っているわけではなく、彼は海の向こうに浮かぶ羽成神社を眺めていた。
「おかあさん、お社よりも遥か向こうの水平線のその先にあなたはいるのですか?」
 失意のよしゆきは、眼前に広がる水平線を呆然と眺めている。日本の伝承において、異界は水平線の彼方にあると信じられてきた。よしゆきは、漠然としていながらも水平線のその向こうに母の面影を思い浮かべているのだろう。
『ザザ―ッ......ドンッ!』
 よしゆきの感傷など、気にも留めることなく周囲からは潮騒が響き渡る。感傷的な思いを海に流そうという心もまた、人のエゴに他ならない。人は誰しも、恣意的でご都合主義なエゴイストなのだ。
「......」
 よしゆきは子供ながらに思う。おそらく、この海の果てに母はいないのだろうと。
 そうでなければ、無神経にも潮騒が響き続けるはずがないのだ。かといって、よしゆきがそのことに対して憤るわけでもない。海はただ自然の摂理に淡々と従うだけ。
「......」
 さて、そこで問題になるのは今後の父とどう接するか。子供心に父の善意の嘘は到底理解出来ず、父の本懐へ辿り着くには道中があまりにも長い。今はただ、自身のこの憤りを押し殺すしか最適解はないのだろう。
 この決断は、現時点において一見すると最適解に思う。だが、思いを押し殺すことは解決策として程遠く、ただ単に負の感情を心へ圧縮して押し込んだだけだ。
 当然、その感情はやがてどこかで暴発する。そのことを、よしゆき当人はおろか父である健造も知る由はない......。


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「ふぅー、今日もいい仕事したぜぇ!」
 夏の夕暮れ、健造は全身を汗まみれにして帰宅する。その表情は清々しく満足げだ。
「よしゆきー、帰ったぞぉ!」
 健造が帰宅を告げる。いつもなら、よしゆきは父の帰りを待ち侘びて玄関まで出向かえる。だが、この日のよしゆきは違った。
「何だ、いるなら返事くらいしたらどうだ?」
 よしゆきの表情は、どことなく厳しい顔つきをしている。だが、健造はその様子を気にも留めていない。
「......」
 よしゆきは、依然として怪訝な表情のまま黙り込んでいる。それには、さすがの健造もどことなく違和感を覚える。
「よしゆき、学校で何かあったのか?」
 その表情から息子の異変を感じたものの、どうにも健造には心当たりがない。しばらくの沈黙の後、よしゆきは強張ったままの表情で重い口を開いた。
「......おとうさん、僕に嘘ついてたの?」
 よしゆきがやっとの思いで紡いだ一言。だが、健造にその言葉の意図は掴めなかった。
「嘘? 一体何のことだ??」
 健造に心当たりはなく、怪訝な表情。だが、父の一言がよしゆきの逆鱗に触れてしまった。
「......とぼけないでよ! いい子にしてれば、おかあさんは帰って来るって言ってたじゃないか!!!」
 よしゆきは烈火の如く怒り狂う。今まで信じてきた父の言葉、それが嘘だと知ってしまった彼は憤りを隠せない。
 遺影に映る母と対面すること、それは彼にとって長年の願いだったのだ。その期待を打ち砕かれた悔しさ、少年にとっての彼には精神的に痛恨の一撃だったに違いない。
「いいかよしゆき、おとうさんはなぁ……」
 激昂するよしゆきを宥めるべく、健造は弁明を始める。妻を亡くした事実を認めたくないこと、息子を悲しませたくなかったこと、それらの思いを一挙に飲み込むべく貫き続けてきた善意の嘘。だが、その嘘も遂に綻びる時が来たのだ。
「もうおとうさんなんか嫌いだっ!!!」
 父の言葉を遮り、よしゆきはその場から立ち去ってしまった。純真無垢な子供に、親の都合など知ったことではない。
「よしゆきっ!!」
 息子を引き留めるも、父のその手はあまりに無力だった。善意の嘘と言い聞かせつつも、内心はエゴを押し通すための免罪符にしていたことも自認していた。
 愛妻との死別、それは自身にとっても受け入れ難い事実だっただろう。だが、それはどこかで自認すべきだった。そして、自身のエゴを息子へ押し付けるべきではなかったのだ。
 しかしながら、多くの親は無自覚ながら自身のエゴを我が子へ押し付けている。このことを紛糾できる親は、そう多くないだろう。
「よしゆき......」
 この時、健造は悔恨していたに違いない。自身のエゴを未練がましく引きずっていたがために、このような結果を招いてしまったことを。結果的に、自身の嘘が息子を裏切る形になってしまったこと。
『そんなこと言って......。そんなんじゃ和代さんも浮かばれませんよ?』
 あの時に言われた妹の言葉が、今になってじわじわと心を抉る。自身のエゴが、息子だけでなく故人となった愛妻の成仏も阻んでいるのかもしれない。健造は呵責の念に苛まれた。
――
 感情のままに自宅を飛び出したよしゆきは、羽成神社のバス停に辿り着いた。もちろんバスを待っているわけではなく、彼は海の向こうに浮かぶ羽成神社を眺めていた。
「おかあさん、お社よりも遥か向こうの水平線のその先にあなたはいるのですか?」
 失意のよしゆきは、眼前に広がる水平線を呆然と眺めている。日本の伝承において、異界は水平線の彼方にあると信じられてきた。よしゆきは、漠然としていながらも水平線のその向こうに母の面影を思い浮かべているのだろう。
『ザザ―ッ......ドンッ!』
 よしゆきの感傷など、気にも留めることなく周囲からは潮騒が響き渡る。感傷的な思いを海に流そうという心もまた、人のエゴに他ならない。人は誰しも、恣意的でご都合主義なエゴイストなのだ。
「......」
 よしゆきは子供ながらに思う。おそらく、この海の果てに母はいないのだろうと。
 そうでなければ、無神経にも潮騒が響き続けるはずがないのだ。かといって、よしゆきがそのことに対して憤るわけでもない。海はただ自然の摂理に淡々と従うだけ。
「......」
 さて、そこで問題になるのは今後の父とどう接するか。子供心に父の善意の嘘は到底理解出来ず、父の本懐へ辿り着くには道中があまりにも長い。今はただ、自身のこの憤りを押し殺すしか最適解はないのだろう。
 この決断は、現時点において一見すると最適解に思う。だが、思いを押し殺すことは解決策として程遠く、ただ単に負の感情を心へ圧縮して押し込んだだけだ。
 当然、その感情はやがてどこかで暴発する。そのことを、よしゆき当人はおろか父である健造も知る由はない......。