目覚めたフルエットが最初に感じたのは、激しい頭痛だった。
ガンガンと頭の内側からハンマーで殴りつけられているような、ひどい痛みだった。
次に感じたのは、頬を撫でる冷たい風だ。身体に染みついたままの香の臭いを吹き払うようなそれは、窓から流れ込む夜風だった。
声もあげられないまま身じろぎすると、代わりにうめきみたいな軋みが聞こえた。自分がベッドの上に寝かされていることに、フルエットはようやく気づく。
――フルエット様、と。視界の端で、赤い三つ編みが揺れた。
「……お加減は、いかがでしょうか」
ベッドの傍らに、ゼフィラが座っていた。隣のサイドテーブルには、水差しとコップが置かれている。
ダイニングから引っ張ってきたらしき椅子に腰を下ろした彼女は、ひどく穏やかで凪いだ目つきをしていた。こんな彼女を目にするのは、いったいいつぶりだろうか。
フルエットは、ゆっくりと身体を起こした。頭は、まだ痛みを訴えている。
「あまりよくはないかな。……でも、君の顔を見たら少し落ち着いた気がするよ」
笑ってしまうくらい、弱々しい声だった。後半は本心のつもりだったのだが、皮肉っぽく聞こえてしまったかもしれない。
お加減がよろしいようで、くらい言われるかと思っていたが、ゼフィラは何も言わなかった。そんな彼女をつかの間見つめた後、フルエットはふと同居人の姿を探して視線をさまよわせる。
「っ……そうだ、ユリオくんは?」
「あちらに」
ゼフィラが振り返った先、開け放たれた扉を押さえるように椅子が置かれている。
その背もたれにぐったりと寄りかかって座るユリオの姿が、ゼフィラの肩越しに目に入った。青い顔して目を伏せた様子からは、香の影響が察せられる。
「ユリオく……っ」
ベッドから立ち上がろうとしかけた拍子に、ひときわ鋭い頭痛がフルエットを襲う。たまらず頭を押さえてうずくまったところへ、ゼフィラが水を差し出してきた。
ゆっくりとそれを飲み干すと、痛みがいくらか和らぐ。
空になったコップをフルエットの手から回収して、ゼフィラがもう一度彼の方を振り返った。
「あれだけ濃く香が漂う中、わたくしたちを抱えて歩き続けたのです。あの身体でなくとも堪えるでしょう」
ゼフィラがコップに水を注ぎなおした。
受け取ったコップを、フルエットは口をつけるでもなく手の中で揺らす。やがてコップの口縁から水がこぼれて、フルエットの唇からも言葉がこぼれた。
「わかってはいたんだ」
行けば、かえって二人に迷惑をかけることは。
ユリオのことを考えれば、街に助けは求められない。だからって、彼女が森へ向かうべきではなかった。異類を招く血の娘が夜の森へ探しに向かえば、かえって二人を危険に晒してしまうかもしれなかったのだから。
本当に二人の安全を考えるなら、朝までこの家で待つべきだった。
「……でも、悪い想像ばかりが浮かんでしまって」
もしも二人が森の中で意識を失ったままでいて、そこを獣や異類に見つかったら? 目を覚ましたとしても、負傷して動けないでいたら?
あるいは森に落ちた時に、二人とも――
今は目の前にゼフィラが居て、ユリオもすぐ近くに居る。それでも思い出してしまった不吉な想像が、冷たい手でフルエットの胸を鷲掴みにする。震える身体を自分で抱き締めて、なおも声は少し震えていた。
「じっとしていられなかったんだ」
死蔵していたありったけの香を焚きしめ、森へ向かうことを選んでしまった。二人を見つけられなかったとしても、自分の血が生き餌になれば、そのぶん二人の身を護れるかもしれないと思った。
なんて、浅はかな。
もしも二人を見つけたところで、香の効き目が薄れていたら。ユリオの身体が、香に耐えられなかったら。次から次へともしもが浮かんで、
「申し訳ございませんでした」
不意にゼフィラが深々と頭を下げ、深みにはまっていくフルエットの思考を遮る。コンフォーターにほとんど額をくっつける勢いに、フルエットは思わず身を引いていた。姿勢はそのままに、ゼフィラが少し早口に続ける。
「事故の原因は、わたくしが運転を誤ったことにあります。わたくしの誤りがなければ、フルエット様が森に足を踏み入れることはありませんでした」
そしてゼフィラは顔を上げた。フルエットを見つめながら、指を中へ丸め込むようにぎゅっと手を握る。
「……最も根本的な事故の原因は、わたくしがフルエット様にはたらいてきた数々の無礼にあります」
深く息を吸う音。そして彼女は、もう一度深く頭を下げた。
「立場をわきまえぬこれまでの無礼、心より深くお詫び申し上げます。どのような処罰でも、謹んでお受けする覚悟です」
その声は、少し掠れていた。
微動だにしないゼフィラの背中に、フルエットはやっとのことで「やめてくれ」と声を絞り出す。謝罪されている側なのにも関わらず、むしろ責められている最中にあるかのような、哀れっぽくて情けない声だった。
違う。自分には、ゼフィラに謝られるような資格なんてない。
「君には、その権利があったんだ。だって、君のその傷は……。私のためにあの晩、香を焚かないでいたから……!」
「違います」
弾かれたように身体を起こしたゼフィラが、フルエットの手を包み込むように握る。ゼフィラの方が背はずっと高いぶん、手もフルエットより大きかった。
「香を焚かないと決めたのはわたくしです。あの異類が入り込んだのは、わたくしのせいです」
フルエットから手を離し、ゼフィラは左手で前髪をかきあげる。左目を貫くように走る、抉れたような痛々しい傷痕が顕わになった。消えることのない傷に、右目よりも少しだけ濁ったような緑をした瞳に、フルエットの視線が釘付けになる。
そんな彼女を前に、「ですから」とゼフィラは告げた。右手を胸元に、まるで宣誓するかのように。
「この傷は、すべてわたくしの選択の結果なのです」
「違う……違うよ、ゼフィ。そんなことは……!」
ゆっくりと首を横に振って、ゼフィラが前髪を降ろす。はらりと落ちた赤い髪は、傷口から流れる血に少し似ていた。
フルエットを見つめるゼフィラの頬が、うっすらと赤く染まる。緑の瞳が、潤んだ微光を帯びる。彼女の指先が、もう一度フルエットの手に触れた。
「……わかってはいたのです。フルエット様が、わたくしの身を案じてくださったことは」
苦しむフルエットを案じて、ゼフィラが香を焚かなかった晩。血の娘を嗅ぎ付けて入り込んだ異類が、ゼフィラの顔に傷を負わせた。だからフルエットはその後、ゼフィラを屋敷へ送り返した。屋敷から付いてきてくれた彼女の意思を、ないがしろにしてでも。
ゼフィラがこらえた笑みを浮かべる。彼女の目元からは、今にも涙が溢れそうになっていた。
「それでも……お傍に居られなくなったことが、寂しかった」
屋敷の使用人たちは、帰ってきたゼフィラを慰めるのと同じ口で、フルエットのことをいくらも罵った。フルエットはそれで構わなかったが、ゼフィラはそうではなかった。
ゼフィラが声を震わせて叫ぶ。
「わたくしは彼らが憎らしかった。フルエット様が何をしたというのです!? 悪いのはフルエット様ではなく、襲いかかってくる異類ではないですか! あの晩だって、フルエット様は何も……!」
それからゼフィラは、寂しさと怒りを日々募らせていった。
主がこの身を思ってそうしたとはわかっていても、生涯の主だったはずの彼女の傍に居られないことが寂しかった。孤独な日々を送る彼女の傍に居られないことが苦しかった。狩人ならぬこの身では主の身を護ることなどできず、故に傍に居る資格を持てないことがたまらなく口惜しかった。
屋敷に居ないのをいいことに、まだ幼いその身に孤独と悲しみを抱えた主を好き勝手罵る同僚たちが、許せなかった。素知らぬ顔でゼフィラの傷を気の毒がる身勝手さが、苛立たしかった。フルエットのことなど何も知らないくせに、別邸送りになった彼女を憐れむ分家の人々が憎らしかった。
絶え間なく襲う寂しさと怒りは、やがて混ざり合って矛先すらも見失い、傍に置いてもらえなかったことへの恨みへと姿を変えていった。一度芽生えてしまった恨みは、それが見当違いだとわかっていてもなお、消し去ることができなかった。
消えてくれない恨みと、的外れな恨みを抱いてしまったことへの自己嫌悪が、ゼフィラを蝕んでいった。
「……そしてある日、思ってしまったのです。わたくしも、彼らのようになってしまえたら。……フルエット様を、嫌いになってしまえたら。そうしたらいっそ、楽になれるのではないかと」
ゼフィラが目を伏せる。目尻から、涙の雫がはらはらとこぼれ落ちた。
嫌いになってしまえば、もう寂しく思うことはない。同僚たちの言葉に、怒りを抱くこともない。見当違いな恨みはゼフィラの中で正当性を得て、もう自己嫌悪に苛まれることはない。
そしてゼフィラが浮かべた嘲笑は、たぶん彼女自身に向けられたものだった。そんな顔をしてほしくなくて、だけど言葉を遮ることもできなくて。せめて目を逸らすまいと、フルエットは唇をぎゅっと引き結んで彼女と向き合う。今はとにかく、すべてを吐きだしてほしかった。
「……同僚たちの言葉に同調してしまえば、途中までは簡単でした。流れに身を任せてしまえば、人の好悪の情というのは、案外簡単にひっくり返るものです」
ですが、と。ゼフィラの声が上ずる。
「金子をお届けする役目を仰せつかった時、わたくしの心は浮足立ちました。……フルエット様に、またお会いできるのだと」
こぼれそうになったものを呑み込むように、彼女は目元を覆って天井を振り仰いだ。すんすんと鼻を鳴らす音が、静かな寝室に響く。しばらくしてから、目元を覆い隠したままフルエットへと向きなおる。
「本当に……本当に、わたくしというものは。つくづく、愚かです。またお会いできると思った途端、フルエット様を嫌いになろうとしていたことなんて忘れてしまったかのように、あなた様と初めてお会いした時のように心躍らせてしまうなんて。
そんな自分の愚かしさに気づいたゼフィラは、激しい自己嫌悪に陥った。七日七晩はまともに眠れなくなるほどにのたうちまわり続けた末に、彼女はある結論に至る。
「そして、気づいたのです。わたくしがフルエット様を本当の心の底から嫌える時が来るとしたら、それはフルエット様がわたくしを嫌ってくれた時だけなのだと」
そうすれば今度こそ、寂しさに心すり減らすことも、自己嫌悪に苦しむこともなくなるはずだった。
ゼフィラの呼吸が、荒く乱れる。ひと呼吸ごとに、目元を押さえる手からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「ですから……ですから、わたくしは。フルエット様に、フルエット様が……、わたくしを嫌ってくれればと……だからっ!」
フルエットは、身を乗り出すようにしてゼフィラを抱きしめていた。細腕をいっぱいに広げて、自分よりも背の高い従者を包み込むように胸に抱く。身体に感じるこの熱は、きっとゼフィラの体温だけではない。コンフォーターの上に広がる染みも、放り投げられたコップからこぼれた水のせいばかりではなかった。
「ごめん」
抱きしめたゼフィラの頭に、こつんと額をぶつけた。伏せた瞳の目尻が、どうしようもないくらいに熱くうずく。
今まで見せた態度の裏で、ゼフィラはどれほど苦しんできたのだろう。今この胸を襲う張り裂けそうな痛みは、彼女のソレに比べたら痛みのうちにも入らない。
「……私は、当然だと」
傷の件で嫌われて当然だと思っていたフルエットは、彼女の態度もまた当然のものだと受け入れてしまっていた。ゼフィラがどんな思いでいたかなんて、想像したことすらなかった。
「と……っ」
腕の中でくぐもった声がして、もぞりと動く気配を感じた。フルエットが額を離した途端、ゼフィラが顔を上げる。すっかり腫れぼったくなった目が、怒ったような眼差しで見上げてくる。
「当然なわけっ、あるものですか……っ!」
今度はフルエットの番だった。そのまま身を起こしたゼフィラの豊かな胸元へ引き込まれ、強く強く抱きしめられる。温かいだけでなく少し息苦しかったけれど、今のフルエットにはその息苦しさが心地よい。
熱くうずいていた目尻から、涙があふれ出した。
しばらくそのままで居るうちに、ゼフィラは胸元で小さな寝息が聞こえ始めたことに気づく。
そっと腕の中に目を向けると、フルエットの寝顔が目に入った。長いまつ毛の下から、涙が輝く軌跡を描いている。香のせいでただでさえ疲弊していたところに、話し疲れて泣き疲れて、体力が限界を迎えたのかもしれなかった。
ベッドに寝かせた時と比べると、今のフルエットの寝顔はずっと安らかで穏やかだ。すやすやと腕の中で眠り続ける主へ、ゼフィラは小さな声でそっと囁きかける。
「……おやすみなさいませ、フルエット様」
数年ぶりに口にした言葉に、ゼフィラは少し胸が軽くなるのを感じていた。
◆
「おい、ゼフィ」
できるだけ声を潜めて、ユリオはゼフィラに呼びかけた。
フルエットを抱きしめたまま振り返った彼女の表情は、霞がかった月の晩みたいに穏やかだった。思わず面食らったユリオに、ゼフィラが少し眉根を寄せる。「なにか」と口の動きだけで問うてくる彼女の目つきは、それでも森の中で向き合っていた時よりはずっと柔らかい。
彼女の腕の中で、おだやかな寝息を立てているフルエットへ目を向ける。ゼフィラに視線を戻し、二人を交互に指で示した。「失礼ですよ」と睨まれて、「ごめん」と指を引っ込める。
「それより、ずっとそのままのつもりか?」
まだ夜は深い。フルエットは眠りが浅い方だと前言っていたから、朝までこのままということはないのだろう。とはいえざっと数時間、ずっと抱きしめたままというのは体勢とか色々つらくはないだろうか。ゼフィラとフルエット、お互いに。
ユリオの指摘に、ゼフィラはゆっくりとフルエットを見た。彼女が身を乗り出したベッドを見た。そしてユリオを振り返って一言囁く。
「お前も手伝いなさい」
「わかってるって」
フルエットを起こさないように、二人で協力してベッドの上に寝かせる。コンフォーターを肩までかけなおして整えるゼフィラの表情は、どこか懐かしんでいるようにも見えた。お付きのメイドだったのだ、昔はこういうこともよくやっていたのかもしれない。
フルエットを寝かせ終えたところで、ゼフィラはダイニングから持ち込んだ椅子をそっと抱えた。
「ユリオ、少しよろしいですか」
ユリオは迷いなく頷いた。
「――お待たせしました」
ダイニングのテーブルに、ゼフィラがカップを乗せたお盆を運んでくる。最初はユリオが用意しようとしたのだが、ゼフィラが頑として「自分が」というものだから、根負けして任せたのだった。
「ありがと。……やってもらってよかったのか?」
「ええ。わたくしにも、立場というものがありますので」
ゼフィラは一礼すると、向かいの椅子に腰を下ろした。お茶の甘い香りが、二人の間をふわふわと漂う。ユリオの記憶が正しければ、これはフルエットが寝る前によく飲んでいるヤツの香りだったはずだ。お茶の名前は思い出せない。
また熱いだろうカップには手をつけないまま、ユリオはテーブルに肘をついて身を乗り出した。
「で、どうしたんだ?」
ゼフィラの視線が肘に突き刺さったので、すごすごと身体を引いた。そんな彼の姿に、ゼフィラが小さくため息をこぼす。そしてやっぱりカップには手をつけないで、彼女はユリオを真っすぐに見つめて告げる。
「わたくしは、まだお前を信用したわけではありません」
「そっか」
「怒らないのですね?」
「怒るかよ。それだけの理由があるだろ、ぼくには」
そもそもユリオはこんな身体だ、「まだ」と言ってくれるだけありがたい。少なくとも、これから先信じてくれる可能性はあるということなのだから。
「どうしたら、信じてもらえるようになるかな?」
少し目を丸くした彼女は、そっとフルエットの寝室がある方を一瞥した。視線を戻して、ゆっくりと深呼吸して。「それなら」と口を開いた彼女は、泣きそうな顔で笑っている。
「フルエット様のことを、護ってあげてください。……そうすれば、わたくしもお前を信じられる」
「わかっ……なん、えっ?」
わかったとなんでがごっちゃになって、ユリオは言葉をのどに詰まらせた。
言われなくてもそうするつもりだったけど、ゼフィラにそれを言われるとは思ってもみなかった。それに、まだ信用できないと言われたばかりだ。それなのに、これでは――
「……いいのか?」
やっとのことで返事を絞りだすと、ゼフィラは左の前髪にそっと触れた。ふっと漏れた息づかいは、多分自嘲のため息だ。
「お前はわたくしの目の前で、異類を追い払いました。わたくしにはできなかったことが、お前にはできる。今はそれで十分です。……どうか、お願いできますか」
お願いの形を取った言葉は、真実ただの確認でしかない。まだ信用できないと言ったその口で、けれどそうでなくては決して口にできないことを彼女は言っていた。
だったら、ユリオも答えに躊躇いはない。
「うん。フルエットはぼくが護るよ。おまえのぶんも必ずさ」
迷いのない答えに、ゼフィラが氷の溶けるような微笑みを浮かべる。緑の瞳の奥が柔らかく輝いているように、ユリオの目には見えた。
ほっと安堵が胸に広がる中、たったひとつの疑問がふと心に浮かぶ。この家で目覚めたあの日、ユリオが「護らせろ」と口走った時のフルエットの言葉だ。あるいはゼフィラなら、彼女がそう口にする理由を知っているのだろうか?
「ひとつだけいいか? フルエットは前、『護ってほしくない』って言ってた。その理由、おまえならわかるかな?」
「……そのようなことを、フルエット様が」
ひっかくみたいに三つ編みに触れたゼフィラの眉が、力なく垂れ下がる。思案気にたゆたった視線が、またフルエットの寝室の方を捉えた。
想像はつくと口にしながら、しかし彼女は首を横に振った。物思いに沈むような調子で、
「できれば、フルエット様ご自身の口から聞いて頂きたく」
「……いつになるかはわかんないけど、なるべくそうしてみるよ」
護ってもらう必要はない、ではなく。護ってほしくない。
フルエットは死なないのだから、前者の物言いならユリオもおそらく気にしなかった。なのに「ほしくない」なんて言い方をするからには、何か拒絶する明確な理由があるはずなのだ。そして今のやりとりで、その理由の輪郭くらいはおぼろげにでも描けたように思う。
ユリオはカップを手に取ると、ほどよくぬるくなったそれを一口すすった。温もりに解けた心にまたしても浮かぶものがあって、ユリオは「あ゛」と顔をしかめた。空いた手でバリバリと頭をかきむしる彼の様子に、ゼフィラが怪訝そうに顔をしかめる。
「どうしたのです?」
「お前が持ってきた話、あったよな。その、ふさわしいじゅうぼく? とか、つがいがどうとか。あれはどうなるんだ?」
すっかり忘れていた。今日の出来事の発端は、ゼフィラが持ってきた、従僕だの番だのの話だった。従僕にしても番にしても、ユリオはおよそ「相応しい」とは思ってもらえないだろう。だからと言って「はいそうですか」と消える気もないが、それでまた問題を起こしてフルエットへ迷惑がかかるのも困る。
ゼフィラはふっと短いため息をこぼして、三つ編みを撫でた。
「あの話は……まあ、なんとかなるでしょう。今回の件についてご提案なされたのは、ギヨーム様へのご報告を聞きつけられたアンジェリカ様……フルエット様の妹御です。ギヨーム様ではありません」
「……つまり、どういうことだ?」
「……そもそもがただの嫌がらせなのですよ、従僕と番の話は」
フルエットがコマドリを飼ったこと――もちろん事実は異なる――が気に食わないアンジェリカとやらが、コマドリたるユリオを取り上げるための方便として言い出しただけ、というのが事の真相らしい。
「とはいえギヨーム様は、フルエット様が本心からお望みなのであれば、お応えになるおつもりでした。だから、わたくしが送られてきたのです。……こんな有様でも、もとは専属です。番はともかく、従僕としてわたくし以上に相応しい者は居りません。番については、最悪分家のストライガでもあてがうおつもりだったのでしょう。それならば、ギヨーム様が手綱を握ることもできますからね」
分家だの手綱だのの話がさっぱりで、相当な間抜け面を晒してしまっていたのだろう。ユリオの顔をまじまじと見つめて、ゼフィラはため息まじりに首を横に振った。
「つまりですね。フルエット様が本心から人恋しくなられたのでなければ、従僕も番もどうにもなりません。すべては今のまま、というわけです」
「そっか、よかった」
「お前のことは、単に雇われただけの召使でした……とでもお伝えしておきましょう。住み込みでさえなければ、多少の雑用を任せる召使くらい雇われても、何もおかしなことはありませんから」
「ぼく、ここに住んでるけど」
「だから、そこはわたくしがごまかしておくと言っているのです。わたくし以外に本邸の者が訪ねてくることはないと思いますが、お前も覚えておきなさい。スピエルドルフ家においては、お前はそういう扱いになっているのだと。いいですね?」
「わ、わかった」
詰め寄るみたくゼフィラに言われ、ユリオは気圧されながらうなずいた。
それからユリオは、今回の件の発端になったアンジェリカ――フルエットの妹について考えて、思わず眉間に皺を寄せた。フルエットに妹が居るのも初耳だったが、嫌がらせを考えるほどに嫌っているなんて。やっぱり、フルエットが血の娘だからなのだろうか。
「……フルエットだって、好きでなったわけじゃないのにな」
思わず声に出ていた想いに、「ええ」とゼフィラが痛ましげな表情でこくり。
彼女はすっかり冷めてしまったカップに口をつけると、「そういえば」とユリオへ視線をチラ見した。まだ何かあるのだろうかと疑問符を浮かべるユリオに、カップを手にしたまま告げる。
「わたくしをゼフィと呼んでいいのは、今はフルエット様だけです。お前はゼフィラと呼びなさい」
「……今さらじゃないか、それ?」
苦笑を浮かべながら、ユリオはその言葉にうなずくのだった。