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Ⅹ/最悪の二人

ー/ー



 頭の下がごつごつする硬く不快な感覚で、ゼフィラは目を覚ました。
 鬱蒼と茂る木々の天蓋に覆われた空は暗く、星も雲も、月も見えない。辺りは重たく湿った闇に包まれていて、視界の端にちらついた光がなければ、自分が目を開けたのか、開けたとて見えているのかすら、わからなかったかもしれない。
 光の正体は、小さな焚火だった。パチパチと音を立てるその火の向こうに、誰かが腰かけている。まだ少しぼやけているうえに、闇に慣れ切っていない目には、ぼんやりした輪郭としてしか認識できない。
「ふるえっと、さま……?」
 自分の声が耳に届くと、ゼフィラは唇をむしり取ろうとするかの如く口元を押さえた。まさか、森の中まで探しに来てくれると? そんなわけがない。そんなこと、あっていいはずがない。
 声に気づいたのだろう、影が立ち上がる。火のそばをぐるりとまわって歩み寄ってきた人影をはっきりと視認した時、ゼフィラの胸がざわりと波立つ。
 そこに居たのは、ユリオとかいう羽虫男だった。
 途端、体感で言えば直前までの記憶が蘇る。この男を振り切ろうとしているうちに、車が――
「起きれるか?」
 差し出された右手を無視して、ゼフィラは自力で上体を起こす。ここまで転がり落ちる間に何度もぶつけたのか、身体の節々が痛む。メイド服もあちこち裂けて破れて、赤い染みが浮かんでいた。
「……っ」
 足首の痛みに顔をしかめる。ここまで転げ落ちる間に、くじいてしまったようだ。宙ぶらりんになった右手をズボンのポケットにしまったユリオが、小さく鼻を鳴らした。
「無理に動かない方がいいぞ」
 そう言って焚火を挟んだ向かい側へ戻っていく彼を、ゼフィラはまばたきもせずに見つめていた。
 そのまま座り込む彼から視線は逸らさないまま、懐から取り出したハンカチを地面に敷いた。腰を下ろすと、ハンカチ越しに夜露の冷たさが沁み込んでくる。その不快感に、ゼフィラはハンカチの上でもぞりと身体を揺らした。
 膝を抱えながら、先ほど痛んだ足首にそっと触れる。夜の森、しかもこの足だ。逃げたところで、すぐに追いつかれるだろう。今のところ、このまま様子をうかがう他にできることはない。
「よく火を起こせましたね」
「車から一緒に落っこちた荷物の中に、マッチがあった。返すよ」
 投げてよこされたマッチの小箱が、そのまま下草の上に軽い音を立てて落ちる。それには目もくれないまま、ゼフィラは焚火越しにユリオを見つめた。
「しかし夜営をするくらいなら、ご自慢の翅で飛び去ればいいでしょうに。……ああ、それとも。近頃の異類は、食事に火を使うのですか? わたくしの肉を、その火で炙るつもりで?」
 唇をひん曲げたユリオが、音がしそうなくらいに目を細めたのがわかった。足元の小枝を無造作に火の中へ投げ込むと、膝に頬杖をついて首の後ろをかく。
「おまえを抱えて飛んでいけるなら、とっくにそうしてるよ。けど、今はうまく飛べないんだ。森の中へ突っ込んだ時、ぶつけたから」
「わたくしを抱えて? そのようなこと、誰が頼みましたか?」
 軽く肩をすくめて、ハッと吐き捨てるような笑みを浮かべる。いったい、誰が好き好んで異類に抱えられようというのか。
 胸の前でぐっと腕組みしたユリオが、顔をうつむける。あるいはそれは、何かを押えつけようとしてうずくまっているようにも見えた。ややあってから、彼は鋭い眼差しでゼフィラを睨みつけた。
「ぼくはおまえが嫌いだ」
 彼を視界には入れつつも決して目を合わせることなく、ゼフィラはごく単調な声を返す。
「そうですか」
 そんなことはわかりきっているし、逆もまた然りだ。そんな無意味な言葉をわざわざ口にして、いったい何になるというのか。
 するとユリオの口から、長く尾を引くため息がひとつこぼれた。
「……だけど。おまえに何かあったら、きっとフルエットはすごく悲しむ。それはヤだから、朝まではぼくが守るよ」
「……はぁ?」
 地獄の底から響くような、低い声だった。口さがない同僚相手でさえ、こんな声を出したことはなかったかもしれない。どくどくと鼓動の脈打つ音が耳の中で響いて、その勢いに押し出されるように唇を開く。
「守る? 異類が? わたくしを? ――フルエット様のために?」
 どの口が。
 白々しいにもほどがあるその言葉に、ゼフィラの身体は熱く固まっていく。その熱が目の前の炎を煽って、恥知らずな異類を焼いてしまえばいいのにと思う。けれどそうはならないから、ゼフィラは懐を探った。銃の弾はまだ残っているだろうか。そもそも、まだちゃんとここにあるだろうか。
 枝を一本手に取ったユリオが、乱暴にへし折ってから焚火に投げ込む。
「信じらんなくて当然だよ。ぼくはこんな身体だし。でも、」
「そもそも」
 指先が、銃のグリップに触れた。身体全部が炎になったように熱を持つ中で、指先だけが痛いほどに冷たい。
「お前は思い違いをしています」
「思い違い?」
 ユリオが眉間にしわを寄せる。その間にもゼフィラは懐にしまった指先を動かし、どうにか気付かれないようにグリップを握りこむ。
「わたくしがどうなったところで、フルエット様は気になどされませんよ」
 勘違いを嘲笑うような調子で口にしたはずの言葉は、思っていたよりも平坦で淡白な声色になった。
 けれどもそれが、かえってユリオには真実らしく聞こえたらしい。彼は表情をこわばらせて、視線を上へ下へとさまよわせた。さらには唇を噛んだしかめ面をして、それからようやく怪訝そうな、それでいて底には煮え立つような熱のこもった声を漏らす。
「……おまえ、それ本気か?」
「本気ですが?」
 だって、そうに決まっている。そうあるべきだ。……そうでなければ。
「そっ……そんなわけないだろ!?」
 瑠璃色の垂れ目を激しくつり上げて、ユリオが立ち上がる。踏み出して、焚火へ突っ込みそうになって、彼は慌てて後ずさった。両手をぎくしゃくばたつかせて、「だったら!」と声を張り上げる。
 それは夜にこだまするような大声で、ゼフィラはたまらず片耳をおさえた。
 彼自身も自分の声の大きさに驚いたのだろう。身体をビクっとさせたユリオは、トーンを調節するように喉を押さえた。それから腰を下ろし、打って変わって、低く唸るような声と共に唇を尖らせる。
「だったら……なんであの時、あいつはぼくを止めたんだよ」
 彼を後ろから羽交い絞めにしようとした、細い腕を思い出す。あのままユリオが首を絞めるままに任せてくれていたら、あるいはこの思いを丸ごと断ち切ることだってできたかもしれないのに。けれどフルエットは、そうしなかった。そうしてくれなかった。
 それは、何故だろうか。
「家の中で死体が出ては、後処理に困るからでは?」
「そんなんで……!」
 ユリオの腰が浮いて、また声が大きくなりかける。しかし不意に中腰の姿勢で止まったユリオは、歯を食いしばって目を伏せた。片足で乱暴に地面を踏みしめると、ゆっくりと座りなおす。
「……そんなんで、あんなつらそうに止めるかよ」
 焚火に寄ってきた虫を払い除ける彼の額の血管が、ぴくぴくと震えていた。虫とは別の何かを払い落とすように、彼は小さく首を横に振る。
「そもそも、お前はおかしいんだ」
 そんなことは、言われるまでもなくゼフィラ自身がよく理解していた。そうでなければ、あの家を訪れるお役目など、未だに引き受けたままではいない。そうでなければ、とっくに彼女のことなど忘れて、スピエルドルフの屋敷での仕事に専念しているはずだ。
「お前、フルエットが嫌いなんじゃないのか」
 その言葉に、ゼフィラは一瞬目を閉じた。次の瞬間にパッと浮かべた笑みは、自分でも驚くほどに清々しい。だって、彼の言う通りだから。だって、フルエットのことなど嫌いであるはずだから。
 だって、そうでなければ。
「ええ、嫌いですよ。当然ではありませんか。あんな殺されても死なないだけではなく異類を誘う死神のような御方、嫌いになるなというのが無理なお話ではありませんか。お前は見た目の可憐さに騙されて、犬として手なずけられているようですが」
 言葉を紡ぐたびに、喉がひりつく。指先がじんじんと痺れて、銃のグリップが滑り落ちる。
 ユリオが、微かに首を傾げたのがわかった。
「どうしました? ああ、犬と呼ばれたのが不服でしたか? お前は虫のようですから、そのように呼ぶべきだったかもしれませんね。まったく、お前のようなものをあの方はどこから拾って来たのでしょうか。もしかして、お前を連れてご実家に戻ることで、復讐のひとつでも行おうというおつもりで、」
「だったらなんで、泣きそうになってたんだ?」
 燃えるように波立つ心に、石ころがひとつ投げ込まれる。
「――はい?」
「ぼくを撃つ前、お前は泣きそうな顔でフルエットと話してた。あの時からおかしいと思ってたんだ。本当にお前がフルエットのことを嫌いなんだったら、あんな顔しないし、あんなこと言わないだろ」
 鼻で笑おうとして、引きつった喉が掠れた音を立てる。見間違いだ。聞き間違いだ。あるいは、演技だ。なんでもいいからまくしたてようとした言葉は、片っ端から喉につかえて言葉にならない。さあっと音を立てて流れる血の音が、焚火のはじける音や葉鳴りの音をかき消していく。
 石ころの起こした波紋に波がかき消されて、空の様に凪いだ心の水面にあの時の自分が映る。断ち切れないまま引きずってきたものがあふれ出た、未練がましくてしかたない、情けなくて醜い自分の姿が。
 隠した傷が疼くように痛んで、ゼフィラは左の前髪をかきむしるようにおさえていた。右目が熱を帯びて、視界が潤む。その熱があふれ出してしまう前に、ゼフィラは右目も塞いでしまった。
「お、おい……?」
 真っ暗闇になった視界の中で、ユリオの声が近づいてくる。少しでも遠ざけようと、ゼフィラが目を塞いだまま身をよじったその時、
「伏せろ!」
 鋭く険しい声が鼓膜を刺した。
 伏せるどころか身体を強張らせたゼフィラは、次の瞬間頭を押えつけられていた。
 ねばつく冷たい汗が、ぶわっと背筋を濡らす。押えつける手の感触はすぐに離れたが、その拍子につんのめった身体が、そのまま下草の上に倒れ込んだ。鼻腔いっぱいに広がった湿った草と土の匂いでむせそうになると同時に、くじいた足が鈍い痛みを訴える。心臓が耳元に移動したみたいに、鼓動が速くうるさく響いていた。
 目を塞いだ手をようやく退けて、足の痛みをこらえながら、なんとか身体を起こして振り返る。
「――なにを」
 我知らず漏れた声は、情けなくなるくらいに上ずって、震えていた。目の前の光景が信じられず、目をこらす。
 だって、そんな。
 まさか。
 あり得ない。
 ユリオが――異類が。
 まるで自分を護ろうとするみたいに、蜘蛛のような異類と向き合っているなんて。
 淡緑色のハサミが、蜘蛛の脚を受け止めている。
 ユリオが素早く身を捻ると、耳障りな音を立てて脚が折れた。というよりは、引きちぎられていた。ぐちゃぐちゃの脚の断面から、血とも体液ともつかない汚い汁がしたたり落ちる。そのままユリオが左腕を返す動きをしたかと思うと、彼が触れてもいないのに蜘蛛は大きくのけ反った。
 脚だ。
 先ほど折り取った脚が、蜘蛛の顔面に突き刺さっている。
 続けて、鋭い切断音。苦し紛れに蜘蛛が振り上げた脚がいともたやすく切断され、蜘蛛の汁が飛び散った。
 その光景に吐き気がこみあげ、ゼフィラはうずくまる。口元をおさえてえづく彼女の耳に、素早く風切るような音が届いた。ユリオが短く叫ぶ声が後に続いたが、何と言っているかはわからなかった。
 数秒ほどの空白があってから、草を踏む音が近づいてくる。つんと鼻を刺す臭いような臭いがして、意思とは無関係にゼフィラの身体が強張る。錆び付いたネジみたいな動きで顔をあげると、汁をしたたらせたユリオの左手が目に入った。
 既にハサミではなくなっているが、それ故に異様さの引き立つその様に、背筋が粟立つ。
 次の瞬間にも、再び変化したソレが自分へと振りかざされるのではないか。そんな気がして、ゼフィラは口元を押さえたまま片手で懐を探る。
「だいじょ……っ」
 はっとしたユリオが、左手を後ろに払って汁を振り落とした。それから、汁のついていない右手を差し出す。
「大丈夫か?」
 顔を覗き込むように身を屈めて、問いかけてくる。眉を落として見つめる視線は、図体の大きな犬が飼い主に擦り寄ってくる時みたいだった。屋敷で飼われていた犬がアンジェリカに寄り添う時、こんな雰囲気を漂わせていたような気がする。
 差し出された手は取らないまま、ゼフィラは両手をついて起き上がった。手のひらについた土と草を払いながら、ハンカチの上に座りなおす。目を塞いだ時の名残の雫は、気づかれる前にぬぐい取った。
「……平気です。誰かさんに突き飛ばされたせいで、少しぶつけましたが」
「ご、ごめん。慌ててたから……」
 しゅんとうつむいて、バツが悪そうに右手で頬をかくユリオ。叱られた子供みたいな彼の反応に、ゼフィラは目をすがめた。
 まだ激しく脈打つ鼓動に、身体が揺れているような錯覚を覚える。そのせいで思考までがぐらつくようで、たった今目の前で起きたことを飲み込みきれないでいる。目を塞いでいる間に起きた、というせいもあるのかもしれない。
 ひとつはっきりしているのは、ユリオが確かにゼフィラを守ったということ。
 彼から目を離さないようにしつつ、まだうるさい鼓動を黙らせるように胸元を押さえて問う。
「何故、わたくしを助けるような真似を?」
「理由なら、さっき言ったろ」
 ゼフィラの頭のてっぺんからつま先まで、ユリオは繰り返し視線を行き来させた。不躾な視線に、ゼフィラは自分の身体を抱きしめるようにする。小さく鼻を鳴らして、今度は両目を細めて彼を睨む。
 するとユリオは、バツの悪そうな顔をして目を逸らした。首筋を指でかきながら、
「ご、ごめん。ホントにケガないかと思って」
「ここまで落ちてきた時点で、傷だらけだったのです。少し傷が増えたところで、わかるものですか」
「それはそうかもしれないけど……っ」
 ユリオが小さく息を呑んだのがわかった。その視線は、ゼフィラの左目のあたりに向けられている。
 彼が何かを言う前に、ゼフィラは素早く左の前髪を手櫛で整えた。倒れた拍子に前髪が乱れて、傷痕が見えてしまっていたのだろう。
「……何か?」
「……まあ、大丈夫そうならよかったよ」
 大きく息を吐きだして、ユリオは焚火の向かいに戻った。左右の三つ編みに絡まった草を払い落としながら、ゼフィラはほとんど独り言のようにこぼす。
「よくもまあ、フルエット様にそこまで忠実になれるものですね。まだ半月も共に過ごしていない分際で」
 焚き火の具合を確かめながら、やはり独り言のようにユリオが呟く。
「……助けて、もらったから」
 ゼフィラの全身が、カッと熱を持った。
「そんなバカな話がありますか……! いくらフルエット様とはいえ、異類を助けるなど!」
 フルエットが、異類を助けた? 彼女の人生を蝕んだ害悪そのものである異類を、他ならない彼女が? そんなこと、あるわけがない。あっていいはずがない。だが、ならばどうして彼はフルエットのためと言って、確かにゼフィラを守ったのか。いや、仮にフルエットが助けたというのが事実だとして、異類が人間のために何かするなどあり得るのだろうか? そもそも、何故フルエットは異類を――
 険しい顔で唇を結んでいると、ユリオが不意に「だよな」と苦笑いを浮かべた。虚を突かれたゼフィラに、森の天蓋を仰ぐようにしながら彼は言う。
「ぼくもそう思うよ。ありえない、バカな話だって。……でも、あいつはそうしたんだ。今まで見てきた異類とぼくが、ちょっと違ってたからってさ」
 確かにユリオには、ゼフィラも知っている異類とは違う点がある。守ったことを別にしても、だ。
 これから相手を食おうという時でもないのに、異類の身体を一部とはいえ自分から晒したこと。この他の誰の目もない状況で、狩りのために利用しているというわけでもないのに、ゼフィラに襲いかかる素振りすら見せないこと。人に擬する異類としても、振る舞いが人に寄り過ぎているように思う。
「……それでも、お前は異類です」
 助けるまでは百歩、いや一万歩ばかりゆずって良しとしたとして。いやしたくはないが、とにかく今はそう思うとして。
 フルエットが異類をその後も傍に置こうとすることなど、あり得ないはずだ。すべて異類は、血の娘たる彼女の血肉を貪ろうとする存在で。よしんば助けたその時は大人しくしていたとしても、その後でいつ本性を現して牙を剥くかもわからない。
「なのに、何故フルエット様は」
 そこでゼフィラが思い出したのは、ユリオがハサミを見せる寸前に口にした言葉だった。
 同類、と。彼はそう言ってはいなかったか。
 思い出した途端、胸がむかむかとして仕方なくなる。異類が、フルエットと同類だなどと。よくもまあ、そんな身の程知らずなことを言えたものだ。
「ゼフィ?」
「……っ」
 こみあげるものを沈めるように、ゼフィラは軽く自分の額を叩いた。不快感に身を焼くよりも、今はあの言葉の真意を探るべきだろう。
 これまで目にしてきた異類との違いに興味を抱いて、彼を助けた。それだけに留まらず、フルエットが彼を傍に置くことを選んだのには。きっと、その同類という言葉が関わっている。
「フルエット様と同類だと、お前は確かそう言っていましたね。……異類のお前が、何故あの方と同類だと?」
 ユリオが拳を握り締めるのがわかった。そのまま軽く肩をまわして唇を引き結ぶと、左腕をハサミへと変化させる。いや、ハサミに()()()というべきだろうか。
「ぼくは今、こんな身体だけど」
 左腕が、今度は人間のソレへと変化。そして彼は、焚火越しにゼフィラを見つめて言った。
「もとは人間なんだ」
「は?」
「でも、異類の身体にされて。それで――」
「ちょっ、ちょっと。ちょっと待ちなさい!」
 言葉を続けようとしたユリオを、ゼフィラは手と声で制した。言葉を打ち消して放り投げるように、両手をバタバタとさせる。
「お前がもとは人間だなどと、そのようなことがあるはずないでしょう!? お前は人狼のように、人に変化できるだけの異類です。そうに決まっています。人間であるはずがありません! 人間が異類になるなどと、そのようなことあり得るはずが……!」
 吐き気にも似た喉のひりつきに任せてまくしたてると、ユリオは目を瞬かせた。そのまま顔をうつむけると、含み笑いに肩を揺らす。
 その姿に、ゼフィラは背筋がぞわぞわとする感覚と共に後ろへ身を引いた。ともすれば、今にも彼が飛びかかってくるのではないかと身構えながら。無意識に動かそうとした足首は、まだ痛みを訴えている。
 ようやく顔を上げた彼は、どこか困ったような笑みを浮かべていた。
「そうだよな。そう思うよなぁ、普通」
「……はい?」
 さすがにそんな反応は予想していなくて、ゼフィラは身を引いたままユリオを凝視した。図星を突かれた怒りや、嘘を暴かれた諦めや、そういうのとは違う表情を彼はしていた。ユリオ自身もゼフィラの言葉に同意していて、だからこそ戸惑っているような。そんな顔で頬をかきながら、彼は言葉を続ける。
「……でも、フルエットは信じた。信じてくれたんだ。自分みたいなのが居るんだから、異類にされた人間が居てもおかしくないって」
 その声は、少し涙ぐんでいる。
 フルエットがどんな思いでそう口にしたのかを考えると、ゼフィラは胸が締め付けられるようだった。望んで得たわけでもない内なる異形を受け入れながら、別の異形を認めて受け止める。どうして彼女は、そんな風に居られるのだろうか。
「同類っていうのは、フルエットが言ったんだ」
「フルエット様が?」
「うん。あいつもぼくも、人間だけど人間じゃない部分を持ってるから、っていうことなんだと思う。多分」
 けど、と。ユリオは握り締めた拳を見つめた。
「ぼくはフルエットみたいに、異類から襲われたりしないから。ぼくの方から同類だって言うと、あいつに悪い気がするけど」
 それから彼は目元を手で覆って、目尻のあたりをぐりぐりとやった。やがて「とにかく」と手をどけた彼は、はにかんだ笑みを浮かべていた。
「あいつはぼくを助けてくれたし、ぼくの言うことを信じてくれた。だから、恩返しがしたいんだ」
「……そうですか」
 胸が燃えるように熱い。絞り出した声は、その熱で乾いたように掠れていた。
 ゼフィラを遠ざけた主が、あえて傍に置くと決めたのだ。ならばユリオはきっと、彼自身が言うような存在なのだろう。少なくとも、フルエットがそう考えるに足るだけの何かがあったのだろう。
 きっと望んだはずもない存在への変化、だけどそれ故に彼は"そこ"に居ることができる。そのことを思うと、ゼフィラの胸はどうしても軋む。
 いつのまにか、左手が前髪をかきむしるように押さえていた。
「お前さ」
 そんなゼフィラを見つめるユリオの声は、何故だかひどく柔らかい。
「やっぱり、フルエットのこと嫌いじゃないよな?」
 しばらく、虫の音と火が弾ける音だけがそこにあった。
 左目がズキズキと痛みを訴え、おさえる手に力がこもる。それから不意に、左手から力が抜けた。前髪から顔へ、顔から胸元へ、ずるりと滑り落ちていく。汚れた赤毛が一本、傷口からこぼれる血のように足元へ抜け落ちた。
 引きずられるように視線が下を向いて、まだ痛む足を見る。目の前の彼とは違う、普通の人間の身体。どこまでいっても同類にはなれない、普通の人間でしかない身体。
「嫌いになれたら、良かったのですけどね」
 そうでなかったら、こんなことを思わずに済んだのかもしれない。



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 頭の下がごつごつする硬く不快な感覚で、ゼフィラは目を覚ました。
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 光の正体は、小さな焚火だった。パチパチと音を立てるその火の向こうに、誰かが腰かけている。まだ少しぼやけているうえに、闇に慣れ切っていない目には、ぼんやりした輪郭としてしか認識できない。
「ふるえっと、さま……?」
 自分の声が耳に届くと、ゼフィラは唇をむしり取ろうとするかの如く口元を押さえた。まさか、森の中まで探しに来てくれると? そんなわけがない。そんなこと、あっていいはずがない。
 声に気づいたのだろう、影が立ち上がる。火のそばをぐるりとまわって歩み寄ってきた人影をはっきりと視認した時、ゼフィラの胸がざわりと波立つ。
 そこに居たのは、ユリオとかいう羽虫男だった。
 途端、体感で言えば直前までの記憶が蘇る。この男を振り切ろうとしているうちに、車が――
「起きれるか?」
 差し出された右手を無視して、ゼフィラは自力で上体を起こす。ここまで転がり落ちる間に何度もぶつけたのか、身体の節々が痛む。メイド服もあちこち裂けて破れて、赤い染みが浮かんでいた。
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「無理に動かない方がいいぞ」
 そう言って焚火を挟んだ向かい側へ戻っていく彼を、ゼフィラはまばたきもせずに見つめていた。
 そのまま座り込む彼から視線は逸らさないまま、懐から取り出したハンカチを地面に敷いた。腰を下ろすと、ハンカチ越しに夜露の冷たさが沁み込んでくる。その不快感に、ゼフィラはハンカチの上でもぞりと身体を揺らした。
 膝を抱えながら、先ほど痛んだ足首にそっと触れる。夜の森、しかもこの足だ。逃げたところで、すぐに追いつかれるだろう。今のところ、このまま様子をうかがう他にできることはない。
「よく火を起こせましたね」
「車から一緒に落っこちた荷物の中に、マッチがあった。返すよ」
 投げてよこされたマッチの小箱が、そのまま下草の上に軽い音を立てて落ちる。それには目もくれないまま、ゼフィラは焚火越しにユリオを見つめた。
「しかし夜営をするくらいなら、ご自慢の翅で飛び去ればいいでしょうに。……ああ、それとも。近頃の異類は、食事に火を使うのですか? わたくしの肉を、その火で炙るつもりで?」
 唇をひん曲げたユリオが、音がしそうなくらいに目を細めたのがわかった。足元の小枝を無造作に火の中へ投げ込むと、膝に頬杖をついて首の後ろをかく。
「おまえを抱えて飛んでいけるなら、とっくにそうしてるよ。けど、今はうまく飛べないんだ。森の中へ突っ込んだ時、ぶつけたから」
「わたくしを抱えて? そのようなこと、誰が頼みましたか?」
 軽く肩をすくめて、ハッと吐き捨てるような笑みを浮かべる。いったい、誰が好き好んで異類に抱えられようというのか。
 胸の前でぐっと腕組みしたユリオが、顔をうつむける。あるいはそれは、何かを押えつけようとしてうずくまっているようにも見えた。ややあってから、彼は鋭い眼差しでゼフィラを睨みつけた。
「ぼくはおまえが嫌いだ」
 彼を視界には入れつつも決して目を合わせることなく、ゼフィラはごく単調な声を返す。
「そうですか」
 そんなことはわかりきっているし、逆もまた然りだ。そんな無意味な言葉をわざわざ口にして、いったい何になるというのか。
 するとユリオの口から、長く尾を引くため息がひとつこぼれた。
「……だけど。おまえに何かあったら、きっとフルエットはすごく悲しむ。それはヤだから、朝まではぼくが守るよ」
「……はぁ?」
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 どの口が。
 白々しいにもほどがあるその言葉に、ゼフィラの身体は熱く固まっていく。その熱が目の前の炎を煽って、恥知らずな異類を焼いてしまえばいいのにと思う。けれどそうはならないから、ゼフィラは懐を探った。銃の弾はまだ残っているだろうか。そもそも、まだちゃんとここにあるだろうか。
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「そもそも」
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 だって、そうに決まっている。そうあるべきだ。……そうでなければ。
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 彼自身も自分の声の大きさに驚いたのだろう。身体をビクっとさせたユリオは、トーンを調節するように喉を押さえた。それから腰を下ろし、打って変わって、低く唸るような声と共に唇を尖らせる。
「だったら……なんであの時、あいつはぼくを止めたんだよ」
 彼を後ろから羽交い絞めにしようとした、細い腕を思い出す。あのままユリオが首を絞めるままに任せてくれていたら、あるいはこの思いを丸ごと断ち切ることだってできたかもしれないのに。けれどフルエットは、そうしなかった。そうしてくれなかった。
 それは、何故だろうか。
「家の中で死体が出ては、後処理に困るからでは?」
「そんなんで……!」
 ユリオの腰が浮いて、また声が大きくなりかける。しかし不意に中腰の姿勢で止まったユリオは、歯を食いしばって目を伏せた。片足で乱暴に地面を踏みしめると、ゆっくりと座りなおす。
「……そんなんで、あんなつらそうに止めるかよ」
 焚火に寄ってきた虫を払い除ける彼の額の血管が、ぴくぴくと震えていた。虫とは別の何かを払い落とすように、彼は小さく首を横に振る。
「そもそも、お前はおかしいんだ」
 そんなことは、言われるまでもなくゼフィラ自身がよく理解していた。そうでなければ、あの家を訪れるお役目など、未だに引き受けたままではいない。そうでなければ、とっくに彼女のことなど忘れて、スピエルドルフの屋敷での仕事に専念しているはずだ。
「お前、フルエットが嫌いなんじゃないのか」
 その言葉に、ゼフィラは一瞬目を閉じた。次の瞬間にパッと浮かべた笑みは、自分でも驚くほどに清々しい。だって、彼の言う通りだから。だって、フルエットのことなど嫌いであるはずだから。
 だって、そうでなければ。
「ええ、嫌いですよ。当然ではありませんか。あんな殺されても死なないだけではなく異類を誘う死神のような御方、嫌いになるなというのが無理なお話ではありませんか。お前は見た目の可憐さに騙されて、犬として手なずけられているようですが」
 言葉を紡ぐたびに、喉がひりつく。指先がじんじんと痺れて、銃のグリップが滑り落ちる。
 ユリオが、微かに首を傾げたのがわかった。
「どうしました? ああ、犬と呼ばれたのが不服でしたか? お前は虫のようですから、そのように呼ぶべきだったかもしれませんね。まったく、お前のようなものをあの方はどこから拾って来たのでしょうか。もしかして、お前を連れてご実家に戻ることで、復讐のひとつでも行おうというおつもりで、」
「だったらなんで、泣きそうになってたんだ?」
 燃えるように波立つ心に、石ころがひとつ投げ込まれる。
「――はい?」
「ぼくを撃つ前、お前は泣きそうな顔でフルエットと話してた。あの時からおかしいと思ってたんだ。本当にお前がフルエットのことを嫌いなんだったら、あんな顔しないし、あんなこと言わないだろ」
 鼻で笑おうとして、引きつった喉が掠れた音を立てる。見間違いだ。聞き間違いだ。あるいは、演技だ。なんでもいいからまくしたてようとした言葉は、片っ端から喉につかえて言葉にならない。さあっと音を立てて流れる血の音が、焚火のはじける音や葉鳴りの音をかき消していく。
 石ころの起こした波紋に波がかき消されて、空の様に凪いだ心の水面にあの時の自分が映る。断ち切れないまま引きずってきたものがあふれ出た、未練がましくてしかたない、情けなくて醜い自分の姿が。
 隠した傷が疼くように痛んで、ゼフィラは左の前髪をかきむしるようにおさえていた。右目が熱を帯びて、視界が潤む。その熱があふれ出してしまう前に、ゼフィラは右目も塞いでしまった。
「お、おい……?」
 真っ暗闇になった視界の中で、ユリオの声が近づいてくる。少しでも遠ざけようと、ゼフィラが目を塞いだまま身をよじったその時、
「伏せろ!」
 鋭く険しい声が鼓膜を刺した。
 伏せるどころか身体を強張らせたゼフィラは、次の瞬間頭を押えつけられていた。
 ねばつく冷たい汗が、ぶわっと背筋を濡らす。押えつける手の感触はすぐに離れたが、その拍子につんのめった身体が、そのまま下草の上に倒れ込んだ。鼻腔いっぱいに広がった湿った草と土の匂いでむせそうになると同時に、くじいた足が鈍い痛みを訴える。心臓が耳元に移動したみたいに、鼓動が速くうるさく響いていた。
 目を塞いだ手をようやく退けて、足の痛みをこらえながら、なんとか身体を起こして振り返る。
「――なにを」
 我知らず漏れた声は、情けなくなるくらいに上ずって、震えていた。目の前の光景が信じられず、目をこらす。
 だって、そんな。
 まさか。
 あり得ない。
 ユリオが――異類が。
 まるで自分を護ろうとするみたいに、蜘蛛のような異類と向き合っているなんて。
 淡緑色のハサミが、蜘蛛の脚を受け止めている。
 ユリオが素早く身を捻ると、耳障りな音を立てて脚が折れた。というよりは、引きちぎられていた。ぐちゃぐちゃの脚の断面から、血とも体液ともつかない汚い汁がしたたり落ちる。そのままユリオが左腕を返す動きをしたかと思うと、彼が触れてもいないのに蜘蛛は大きくのけ反った。
 脚だ。
 先ほど折り取った脚が、蜘蛛の顔面に突き刺さっている。
 続けて、鋭い切断音。苦し紛れに蜘蛛が振り上げた脚がいともたやすく切断され、蜘蛛の汁が飛び散った。
 その光景に吐き気がこみあげ、ゼフィラはうずくまる。口元をおさえてえづく彼女の耳に、素早く風切るような音が届いた。ユリオが短く叫ぶ声が後に続いたが、何と言っているかはわからなかった。
 数秒ほどの空白があってから、草を踏む音が近づいてくる。つんと鼻を刺す臭いような臭いがして、意思とは無関係にゼフィラの身体が強張る。錆び付いたネジみたいな動きで顔をあげると、汁をしたたらせたユリオの左手が目に入った。
 既にハサミではなくなっているが、それ故に異様さの引き立つその様に、背筋が粟立つ。
 次の瞬間にも、再び変化したソレが自分へと振りかざされるのではないか。そんな気がして、ゼフィラは口元を押さえたまま片手で懐を探る。
「だいじょ……っ」
 はっとしたユリオが、左手を後ろに払って汁を振り落とした。それから、汁のついていない右手を差し出す。
「大丈夫か?」
 顔を覗き込むように身を屈めて、問いかけてくる。眉を落として見つめる視線は、図体の大きな犬が飼い主に擦り寄ってくる時みたいだった。屋敷で飼われていた犬がアンジェリカに寄り添う時、こんな雰囲気を漂わせていたような気がする。
 差し出された手は取らないまま、ゼフィラは両手をついて起き上がった。手のひらについた土と草を払いながら、ハンカチの上に座りなおす。目を塞いだ時の名残の雫は、気づかれる前にぬぐい取った。
「……平気です。誰かさんに突き飛ばされたせいで、少しぶつけましたが」
「ご、ごめん。慌ててたから……」
 しゅんとうつむいて、バツが悪そうに右手で頬をかくユリオ。叱られた子供みたいな彼の反応に、ゼフィラは目をすがめた。
 まだ激しく脈打つ鼓動に、身体が揺れているような錯覚を覚える。そのせいで思考までがぐらつくようで、たった今目の前で起きたことを飲み込みきれないでいる。目を塞いでいる間に起きた、というせいもあるのかもしれない。
 ひとつはっきりしているのは、ユリオが確かにゼフィラを守ったということ。
 彼から目を離さないようにしつつ、まだうるさい鼓動を黙らせるように胸元を押さえて問う。
「何故、わたくしを助けるような真似を?」
「理由なら、さっき言ったろ」
 ゼフィラの頭のてっぺんからつま先まで、ユリオは繰り返し視線を行き来させた。不躾な視線に、ゼフィラは自分の身体を抱きしめるようにする。小さく鼻を鳴らして、今度は両目を細めて彼を睨む。
 するとユリオは、バツの悪そうな顔をして目を逸らした。首筋を指でかきながら、
「ご、ごめん。ホントにケガないかと思って」
「ここまで落ちてきた時点で、傷だらけだったのです。少し傷が増えたところで、わかるものですか」
「それはそうかもしれないけど……っ」
 ユリオが小さく息を呑んだのがわかった。その視線は、ゼフィラの左目のあたりに向けられている。
 彼が何かを言う前に、ゼフィラは素早く左の前髪を手櫛で整えた。倒れた拍子に前髪が乱れて、傷痕が見えてしまっていたのだろう。
「……何か?」
「……まあ、大丈夫そうならよかったよ」
 大きく息を吐きだして、ユリオは焚火の向かいに戻った。左右の三つ編みに絡まった草を払い落としながら、ゼフィラはほとんど独り言のようにこぼす。
「よくもまあ、フルエット様にそこまで忠実になれるものですね。まだ半月も共に過ごしていない分際で」
 焚き火の具合を確かめながら、やはり独り言のようにユリオが呟く。
「……助けて、もらったから」
 ゼフィラの全身が、カッと熱を持った。
「そんなバカな話がありますか……! いくらフルエット様とはいえ、異類を助けるなど!」
 フルエットが、異類を助けた? 彼女の人生を蝕んだ害悪そのものである異類を、他ならない彼女が? そんなこと、あるわけがない。あっていいはずがない。だが、ならばどうして彼はフルエットのためと言って、確かにゼフィラを守ったのか。いや、仮にフルエットが助けたというのが事実だとして、異類が人間のために何かするなどあり得るのだろうか? そもそも、何故フルエットは異類を――
 険しい顔で唇を結んでいると、ユリオが不意に「だよな」と苦笑いを浮かべた。虚を突かれたゼフィラに、森の天蓋を仰ぐようにしながら彼は言う。
「ぼくもそう思うよ。ありえない、バカな話だって。……でも、あいつはそうしたんだ。今まで見てきた異類とぼくが、ちょっと違ってたからってさ」
 確かにユリオには、ゼフィラも知っている異類とは違う点がある。守ったことを別にしても、だ。
 これから相手を食おうという時でもないのに、異類の身体を一部とはいえ自分から晒したこと。この他の誰の目もない状況で、狩りのために利用しているというわけでもないのに、ゼフィラに襲いかかる素振りすら見せないこと。人に擬する異類としても、振る舞いが人に寄り過ぎているように思う。
「……それでも、お前は異類です」
 助けるまでは百歩、いや一万歩ばかりゆずって良しとしたとして。いやしたくはないが、とにかく今はそう思うとして。
 フルエットが異類をその後も傍に置こうとすることなど、あり得ないはずだ。すべて異類は、血の娘たる彼女の血肉を貪ろうとする存在で。よしんば助けたその時は大人しくしていたとしても、その後でいつ本性を現して牙を剥くかもわからない。
「なのに、何故フルエット様は」
 そこでゼフィラが思い出したのは、ユリオがハサミを見せる寸前に口にした言葉だった。
 同類、と。彼はそう言ってはいなかったか。
 思い出した途端、胸がむかむかとして仕方なくなる。異類が、フルエットと同類だなどと。よくもまあ、そんな身の程知らずなことを言えたものだ。
「ゼフィ?」
「……っ」
 こみあげるものを沈めるように、ゼフィラは軽く自分の額を叩いた。不快感に身を焼くよりも、今はあの言葉の真意を探るべきだろう。
 これまで目にしてきた異類との違いに興味を抱いて、彼を助けた。それだけに留まらず、フルエットが彼を傍に置くことを選んだのには。きっと、その同類という言葉が関わっている。
「フルエット様と同類だと、お前は確かそう言っていましたね。……異類のお前が、何故あの方と同類だと?」
 ユリオが拳を握り締めるのがわかった。そのまま軽く肩をまわして唇を引き結ぶと、左腕をハサミへと変化させる。いや、ハサミに|戻《・》|し《・》|た《・》というべきだろうか。
「ぼくは今、こんな身体だけど」
 左腕が、今度は人間のソレへと変化。そして彼は、焚火越しにゼフィラを見つめて言った。
「もとは人間なんだ」
「は?」
「でも、異類の身体にされて。それで――」
「ちょっ、ちょっと。ちょっと待ちなさい!」
 言葉を続けようとしたユリオを、ゼフィラは手と声で制した。言葉を打ち消して放り投げるように、両手をバタバタとさせる。
「お前がもとは人間だなどと、そのようなことがあるはずないでしょう!? お前は人狼のように、人に変化できるだけの異類です。そうに決まっています。人間であるはずがありません! 人間が異類になるなどと、そのようなことあり得るはずが……!」
 吐き気にも似た喉のひりつきに任せてまくしたてると、ユリオは目を瞬かせた。そのまま顔をうつむけると、含み笑いに肩を揺らす。
 その姿に、ゼフィラは背筋がぞわぞわとする感覚と共に後ろへ身を引いた。ともすれば、今にも彼が飛びかかってくるのではないかと身構えながら。無意識に動かそうとした足首は、まだ痛みを訴えている。
 ようやく顔を上げた彼は、どこか困ったような笑みを浮かべていた。
「そうだよな。そう思うよなぁ、普通」
「……はい?」
 さすがにそんな反応は予想していなくて、ゼフィラは身を引いたままユリオを凝視した。図星を突かれた怒りや、嘘を暴かれた諦めや、そういうのとは違う表情を彼はしていた。ユリオ自身もゼフィラの言葉に同意していて、だからこそ戸惑っているような。そんな顔で頬をかきながら、彼は言葉を続ける。
「……でも、フルエットは信じた。信じてくれたんだ。自分みたいなのが居るんだから、異類にされた人間が居てもおかしくないって」
 その声は、少し涙ぐんでいる。
 フルエットがどんな思いでそう口にしたのかを考えると、ゼフィラは胸が締め付けられるようだった。望んで得たわけでもない内なる異形を受け入れながら、別の異形を認めて受け止める。どうして彼女は、そんな風に居られるのだろうか。
「同類っていうのは、フルエットが言ったんだ」
「フルエット様が?」
「うん。あいつもぼくも、人間だけど人間じゃない部分を持ってるから、っていうことなんだと思う。多分」
 けど、と。ユリオは握り締めた拳を見つめた。
「ぼくはフルエットみたいに、異類から襲われたりしないから。ぼくの方から同類だって言うと、あいつに悪い気がするけど」
 それから彼は目元を手で覆って、目尻のあたりをぐりぐりとやった。やがて「とにかく」と手をどけた彼は、はにかんだ笑みを浮かべていた。
「あいつはぼくを助けてくれたし、ぼくの言うことを信じてくれた。だから、恩返しがしたいんだ」
「……そうですか」
 胸が燃えるように熱い。絞り出した声は、その熱で乾いたように掠れていた。
 ゼフィラを遠ざけた主が、あえて傍に置くと決めたのだ。ならばユリオはきっと、彼自身が言うような存在なのだろう。少なくとも、フルエットがそう考えるに足るだけの何かがあったのだろう。
 きっと望んだはずもない存在への変化、だけどそれ故に彼は"そこ"に居ることができる。そのことを思うと、ゼフィラの胸はどうしても軋む。
 いつのまにか、左手が前髪をかきむしるように押さえていた。
「お前さ」
 そんなゼフィラを見つめるユリオの声は、何故だかひどく柔らかい。
「やっぱり、フルエットのこと嫌いじゃないよな?」
 しばらく、虫の音と火が弾ける音だけがそこにあった。
 左目がズキズキと痛みを訴え、おさえる手に力がこもる。それから不意に、左手から力が抜けた。前髪から顔へ、顔から胸元へ、ずるりと滑り落ちていく。汚れた赤毛が一本、傷口からこぼれる血のように足元へ抜け落ちた。
 引きずられるように視線が下を向いて、まだ痛む足を見る。目の前の彼とは違う、普通の人間の身体。どこまでいっても同類にはなれない、普通の人間でしかない身体。
「嫌いになれたら、良かったのですけどね」
 そうでなかったら、こんなことを思わずに済んだのかもしれない。