休日を迎え、京子は待ちに待った燻製に挑戦することにした。食材となるイワナは下準備を終えている。後はイワナを燻すだけだ。
普段はリビングで寛いでいる良行も、今日は朝から京子を手伝う。彼は燻製窯の前で、桜チップの着火作業をしている。
亜細亜の仕込みが良かったのか、着火までにそこまでの労力は要さなかった。
「あら、思ったよりも順調ね?」
京子は、燻製窯の着火の早さに驚いていた。
「これがくせぇ? もくもくしてるね!」
のりこは、燻製窯に興味津々のようだ。
「なんだろう? 独特な匂いがする」
りょうたは、早くも燻製の特徴に気付いたようだ。
「けど、燻製って何日も掛けて燻すんだろう? 大変じゃないか?」
良行はそれが気がかりだった。
「燻製にもやり方が色々あるの。本当に短いと1時間でいいのよ?」
京子のいうように、燻製にも様々な製法がある。時間が短い順に熱燻・温燻・冷燻と3種類に分かれる。
世間一般に知られているのが冷燻で、これは低温で数日間もかかる燻製法だ。一方、京子が挑戦するのは温燻というもので、これは半日程度の燻製で済んでしまう。
「へぇ。燻製って奥が深いなぁ」
良行は、その話を着聞いて感心した。
「ところで、桜チップに何か混ぜてあったけど......もしかしてザラメ?」
良行は興味津々で京子へ尋ねる。
「そう、ザラメ。燻製の仕上がりが良くなるって亜細亜さんが言ってた!」
仕事柄、亜細亜は燻製に詳しいのかもしれない。良行はそう思った。
「さて、イワナを網に並べてと!」
京子はイワナを次々に網へ並べていく。のりことりょうたもそれを真似する。準備ができたところで、いよいよイワナを燻製窯へ配置していく。
燻製窯は三方を煉瓦で囲んでおり、前面と天井をベニヤ板で塞ぐという至極単純な構造だ。あとは気長に待つだけ。
その間京子は家事に勤しみ、子供二人は庭で遊んでいる。時折、ケンが庭へ遊びに来て子供達と追いかけっこしている。
良行は、長時間を燻製窯の前で過ごす。日頃からのんびりしている彼にとって、退屈などはどこ吹く風。余った桜チップを燃料にして、コーヒーを淹れてみる。
今回彼が用いるのは、パーコレーターといわれる器具。キャンプでコーヒーといえば、まずこれが思い浮かぶ。
構造は至って簡易的で、やかんのような容器に蒸気を閉じ込めて、その蒸気によってコーヒーを抽出するのだ。しかしその構造ゆえ、時間が経つほどコーヒーの渋味が増していく。
よって、パーコレーターは時間を見極めることが実に肝要である。
「うわっ! 渋みがきつい!!」
どうやら、今回の抽出は失敗。コーヒーのあまりの渋味に、良行は眉間にしわが寄ることを強いられた。
「そうさ、意味なんかない」
良行の脳裏にある言葉がよぎる。『コーヒーに味わいを求めても意味はない。下らない思想など捨て、大自然と共にあるのだ』という言葉が。
元米軍兵士・無頼岩玖の格言である。良行はその言葉に思いを馳せ、煮詰まってしまったコーヒーを無理矢理飲み干そうとする。
「......熱っ!!」
大自然よりも、コーヒーの熱さを感じる良行であった。
「おとうさん、何やってるの?」
しかも、りょうたに不審がられる始末。
そうこうしているうちに、やがて正午を迎える。燻製もそろそろ頃合いだろうと、良行は燻製窯のベニヤ板をどかす。
「おぉっ! いい感じ!!」
燻製は思いのほか上出来だった。その出来栄えに、良行は感動してしまう。
「いい感じじゃない!」
その声を聞いて屋内から京子がやってきた。彼女もまた、燻製に感動を覚えた。
「くせぇ、すごいすごい!!」
のりこも、理由は分からないが何となく喜んでいる。
「うん、いい匂い!」
りょうたは、燻製の香味の虜になっている。
「せっかくだから、少しつまもうか!」
燻製は本来、さらに数日間の乾燥を必要とする。しかし、その香味に一同は我慢ができなかった。
「旨いっ! 旨いっ!!」
良行は、燻製の味わいに思わず唸る。
「塩焼きにはない、奥深い味わいがあるわねぇ!」
京子も、燻製の味わいに魅了されてしまっている。そして子供達も同様に。
「ああっ! イワナ全部食べちゃった!?」
不覚にも、燻製イワナを完食してしまった。京子が気付くも時すでに遅し。イワナの切れ端すら残っていない。
「ふふっ」
すると、良行は不敵な笑みを浮かべる。彼の手元には燻製にされた肉塊があった。
「こんなこともあろうかと、パンチェッタを仕込んでおいたのさ!」
良行は得意げな表情で語る。
「ぱん......ちった?」
のりこの語彙力が崩壊する。パンチェッタとは、要するに豚バラ肉の塩漬けである。
パンチェッタはそのままでも十分に美味しいのだが、燻製にすることでベーコンへ変化する。つまり、燻製にはうってつけの食材なのだ。
「良行さん、クール!!」
良行の機転に京子は心奪われた。それは、初恋の時以来の痺れっぷりだった。