Nate〜ネイト〜【1】①
ー/ー「やあ、Dr.ナサニエル ブライト。ようこそ、この研究所へ」
新生活に対する期待や高揚など欠片もなく、敷地内の宿舎から暗い気分で訪れた勤務先。
初出勤としての形式を整えたに過ぎなかったが、自室に用意されていたスーツを身に着けて来た。こんなものが必要な場面などあるとは思えないのに。
わざわざ「外」から持ち込むほどの、思い入れのある私物などありはしない。
「生活に関してはすべて手配する」
そのように聞かされてはいたが、ここまでだとは予想もしなかった。
明るい声と笑顔で「新入り」を迎えてくれたのは、白髪交じりの黒髪の白衣を着た男だ。
ただし、細いフレームの眼鏡の奥の灰色の目はまったく笑っていない。
頭が切れるのは当然の前提として、おそらくは冷徹と評される方の人間なのではないか、と直感した。
「できればネイトとお呼びいただければ。え、っと」
「失礼、私はマクシミリアン グリーンヒル。ここでは
八年目で、君の先輩になるね。──『良い名前』なのに、ナサニエル。まあ希望に沿うようにするよ。ではネイト、どうぞ私のこともマックスと呼んでくれ給え」
名乗った彼は四十代も後半だろうか。二十八歳のネイトより二十近くは年長に思われた。
痩せているので長身に見えるが、実際に対面で立つと明らかに目線が低い。
「で? 君は何をやったの?」
「……!」
軽く問われて咄嗟に声が出ないネイトに、マックスは苦笑する。
「ああ、すまない。詮索する気はないし、無理に打ち明ける必要なんてないんだ。──所詮ここに来るのは皆、何かやらかしたけど優秀だから飼い殺しにされている同じ穴の狢だよ。私も含めてね」
どんな罪を犯しても、「優れた頭脳の持ち主」が真の意味で一般人同様に断罪されることはない。
とはいえ、完全に無罪放免というわけでもなかった。
彼の言う通りに。
現実に、このラボの研究員はほぼ例外なく「法的な重罪を犯した人間」だ。具体的には殺人、──それも「猟奇的」がつくようなものも珍しくはない、のだろう。
ただ、そういった犯罪者も「外の社会」では服役している、……あるいは処刑されたということになっているのかもしれない。
社会秩序を保つために。
そういう人間はネイトの周囲にはいなかったので、実例としては知る由もなかった。
ネイト自身は、表向きは元の勤務先において「研究に行き詰まりを感じて退職し、『故郷』に帰った」ことになっている。
そのように聞かされていた。
実態は不明であるしもう知る術もないのだが、よりにもよって故郷とは。
「別に構いません。大学に残って研究していたら、教授の娘にその、一方的に好かれたというか。研究室で告白されて断ったら、その場で手首を──」
誰かを愛したことなどはない。特別な存在を持ったことも。
突然想いを告げられ、まだ高校生だった彼女に「子ども相手にそういうことは考えられない」と口にした。
すぐ傍らの机にケースごと放置されていたメスに手を伸ばした少女を、止める隙もなかった。
「フローレンスさん? ブライト先生! 何があったんですか⁉」
血を流して床に蹲る教授の娘と屈み込んで患部を確かめようとしたネイトの姿を、入室してきた学生が見つけて騒ぎになった。
いったいあの場でどう返すのが最適解だったのか、ネイトは今もわからないままだ。
「DR.ブライト。君の責任だとは思っていない。研究員としての君は何にも代えがたい存在なのも確かだった。しかし、……フローレンスは今も家から出られない状態だ。──君がこのまま残るのは、他の研究員にとっても蟠りは消せないだろう」
教授からの、追放宣告にも等しい言葉。教授も娘を愛する親だった、ということを改めて突きつけられた。
彼女は命に別状があったわけでもなく、痕は残るかもしれないが傷もさして深くはないという。
それでも、引き立ててくれた教授が居たからこそ開けていた輝かしい将来は一瞬にして潰えたのだ。
研究には、経済的支援も含め環境が必要だ。大学や研究機関に所属せずに単独で為せることは限られている。
そのため、能力だけはあると惜しまれて非合法の研究施設送りになったというだけの話だ。
広いようで狭い研究者の世界では強大な力を持つ教授の手前、少なくとも専門では陽の当たる道は歩けない。
優れた遺伝子を掛け合わせ、ディッシュの中で作られた自分。優秀な頭脳を持つ人間としての期待のみで生み出され、当然の如く研究者になった。
そして文字通り研究しかして来ていないネイトがこの技術で生きるためには、他の選択肢など存在しなかった。
後ろ盾になる、あるいは後ろ髪を引く存在としての『家族』もいない。
「その程度で? だったら何もここじゃなくても他にいくらでも、──まあ欠員が出たからか」
ネイトの話を聞いていたマックスは少し呆れたように呟いて、彼は淡々と自分について話す。
「私は浮気した妻とその相手を殺めたんだ。裏切りだけは許せない質でね。妻を拘束して、目前で男を『分解』した。末端から少しずつ、ただの部位にね。その後は正気を保っていたかも怪しい妻を同様に。……なかなかに骨の折れる作業だったよ」
まるで世間話のような何気ない、気楽にも聞こえる口調だからこそ背筋に冷たいものが走った。
この男はきっと後悔も反省もしていない。
殺人よりも、マックスにとっては信頼に対する背信行為のほうが遥かに重罪なのだろう。
「とりあえず、私が君の案内役を仰せつかった。今後も疑問点や要望があれば私に。……所長は名ばかりで、技術者としてはともかく管理職としてはなんの役にも立たないからね。部下が全員『まとも』じゃないからそこは同情するよ」
確かにこういう「部下」は扱いづらいことだろう、と表には出さないままにネイトはすんなり納得した。
今までとは別世界なのだ。
しかし内情がどうであれ、ここがこれからネイトが生きる、……しがみつかざるを得ない場所になる。
「こちらが君のスペース。業務についてはどこまで聞いている?」
先導されて辿り着いた個人ブース。
ドア脇の認証スキャナに目を近づけてロックを解除した彼は、まずネイトの「網膜の静脈パターン」を登録させた。
これで、このスペースに入室できるのはネイトだけだ。部屋の主が招き入れない限りは。
その後マックスに促され、ネイトは特に感慨もなく中へ踏み込む。
「人間のクローン研究をしているとだけ。確かに僕はクローンが専門ですが、人間を作ったことはなくて……」
「そりゃあ禁止事項だから当然だよ。隠れてやっていたとしても、不用意に公言するような愚かな研究者はいないね」
先輩研究員があっさりと返してくる。
「根本的にここでは、オリジナルが誕生するのとほぼ同時進行でクローンを作成する。卵細胞にオリジナルの細胞を埋め込んで培養し、人工子宮で『出産』まで育てるんだ。臓器ではなく君の言った通り『一から人間を作る』、つまり倫理的には最もアウトな研究だってことさ」
有り余る金と力の両方を持つ者が、己の跡を継ぐ子の『スペア』を望む。
大切な後継者の、予備の臓器の生きた容れ物としての複製を。
彼らにとっては至極当然の思考だとしても、「表向きの姿勢」は繕わなければならないのだ。
この、……あくまでも「外の」社会で、上の存在として居続けるために。
新生活に対する期待や高揚など欠片もなく、敷地内の宿舎から暗い気分で訪れた勤務先。
初出勤としての形式を整えたに過ぎなかったが、自室に用意されていたスーツを身に着けて来た。こんなものが必要な場面などあるとは思えないのに。
わざわざ「外」から持ち込むほどの、思い入れのある私物などありはしない。
「生活に関してはすべて手配する」
そのように聞かされてはいたが、ここまでだとは予想もしなかった。
明るい声と笑顔で「新入り」を迎えてくれたのは、白髪交じりの黒髪の白衣を着た男だ。
ただし、細いフレームの眼鏡の奥の灰色の目はまったく笑っていない。
頭が切れるのは当然の前提として、おそらくは冷徹と評される方の人間なのではないか、と直感した。
「できればネイトとお呼びいただければ。え、っと」
「失礼、私はマクシミリアン グリーンヒル。ここでは
八年目で、君の先輩になるね。──『良い名前』なのに、ナサニエル。まあ希望に沿うようにするよ。ではネイト、どうぞ私のこともマックスと呼んでくれ給え」
名乗った彼は四十代も後半だろうか。二十八歳のネイトより二十近くは年長に思われた。
痩せているので長身に見えるが、実際に対面で立つと明らかに目線が低い。
「で? 君は何をやったの?」
「……!」
軽く問われて咄嗟に声が出ないネイトに、マックスは苦笑する。
「ああ、すまない。詮索する気はないし、無理に打ち明ける必要なんてないんだ。──所詮ここに来るのは皆、何かやらかしたけど優秀だから飼い殺しにされている同じ穴の狢だよ。私も含めてね」
どんな罪を犯しても、「優れた頭脳の持ち主」が真の意味で一般人同様に断罪されることはない。
とはいえ、完全に無罪放免というわけでもなかった。
彼の言う通りに。
現実に、このラボの研究員はほぼ例外なく「法的な重罪を犯した人間」だ。具体的には殺人、──それも「猟奇的」がつくようなものも珍しくはない、のだろう。
ただ、そういった犯罪者も「外の社会」では服役している、……あるいは処刑されたということになっているのかもしれない。
社会秩序を保つために。
そういう人間はネイトの周囲にはいなかったので、実例としては知る由もなかった。
ネイト自身は、表向きは元の勤務先において「研究に行き詰まりを感じて退職し、『故郷』に帰った」ことになっている。
そのように聞かされていた。
実態は不明であるしもう知る術もないのだが、よりにもよって故郷とは。
「別に構いません。大学に残って研究していたら、教授の娘にその、一方的に好かれたというか。研究室で告白されて断ったら、その場で手首を──」
誰かを愛したことなどはない。特別な存在を持ったことも。
突然想いを告げられ、まだ高校生だった彼女に「子ども相手にそういうことは考えられない」と口にした。
すぐ傍らの机にケースごと放置されていたメスに手を伸ばした少女を、止める隙もなかった。
「フローレンスさん? ブライト先生! 何があったんですか⁉」
血を流して床に蹲る教授の娘と屈み込んで患部を確かめようとしたネイトの姿を、入室してきた学生が見つけて騒ぎになった。
いったいあの場でどう返すのが最適解だったのか、ネイトは今もわからないままだ。
「DR.ブライト。君の責任だとは思っていない。研究員としての君は何にも代えがたい存在なのも確かだった。しかし、……フローレンスは今も家から出られない状態だ。──君がこのまま残るのは、他の研究員にとっても蟠りは消せないだろう」
教授からの、追放宣告にも等しい言葉。教授も娘を愛する親だった、ということを改めて突きつけられた。
彼女は命に別状があったわけでもなく、痕は残るかもしれないが傷もさして深くはないという。
それでも、引き立ててくれた教授が居たからこそ開けていた輝かしい将来は一瞬にして潰えたのだ。
研究には、経済的支援も含め環境が必要だ。大学や研究機関に所属せずに単独で為せることは限られている。
そのため、能力だけはあると惜しまれて非合法の研究施設送りになったというだけの話だ。
広いようで狭い研究者の世界では強大な力を持つ教授の手前、少なくとも専門では陽の当たる道は歩けない。
優れた遺伝子を掛け合わせ、ディッシュの中で作られた自分。優秀な頭脳を持つ人間としての期待のみで生み出され、当然の如く研究者になった。
そして文字通り研究しかして来ていないネイトがこの技術で生きるためには、他の選択肢など存在しなかった。
後ろ盾になる、あるいは後ろ髪を引く存在としての『家族』もいない。
「その程度で? だったら何もここじゃなくても他にいくらでも、──まあ欠員が出たからか」
ネイトの話を聞いていたマックスは少し呆れたように呟いて、彼は淡々と自分について話す。
「私は浮気した妻とその相手を殺めたんだ。裏切りだけは許せない質でね。妻を拘束して、目前で男を『分解』した。末端から少しずつ、ただの部位にね。その後は正気を保っていたかも怪しい妻を同様に。……なかなかに骨の折れる作業だったよ」
まるで世間話のような何気ない、気楽にも聞こえる口調だからこそ背筋に冷たいものが走った。
この男はきっと後悔も反省もしていない。
殺人よりも、マックスにとっては信頼に対する背信行為のほうが遥かに重罪なのだろう。
「とりあえず、私が君の案内役を仰せつかった。今後も疑問点や要望があれば私に。……所長は名ばかりで、技術者としてはともかく管理職としてはなんの役にも立たないからね。部下が全員『まとも』じゃないからそこは同情するよ」
確かにこういう「部下」は扱いづらいことだろう、と表には出さないままにネイトはすんなり納得した。
今までとは別世界なのだ。
しかし内情がどうであれ、ここがこれからネイトが生きる、……しがみつかざるを得ない場所になる。
「こちらが君のスペース。業務についてはどこまで聞いている?」
先導されて辿り着いた個人ブース。
ドア脇の認証スキャナに目を近づけてロックを解除した彼は、まずネイトの「網膜の静脈パターン」を登録させた。
これで、このスペースに入室できるのはネイトだけだ。部屋の主が招き入れない限りは。
その後マックスに促され、ネイトは特に感慨もなく中へ踏み込む。
「人間のクローン研究をしているとだけ。確かに僕はクローンが専門ですが、人間を作ったことはなくて……」
「そりゃあ禁止事項だから当然だよ。隠れてやっていたとしても、不用意に公言するような愚かな研究者はいないね」
先輩研究員があっさりと返してくる。
「根本的にここでは、オリジナルが誕生するのとほぼ同時進行でクローンを作成する。卵細胞にオリジナルの細胞を埋め込んで培養し、人工子宮で『出産』まで育てるんだ。臓器ではなく君の言った通り『一から人間を作る』、つまり倫理的には最もアウトな研究だってことさ」
有り余る金と力の両方を持つ者が、己の跡を継ぐ子の『スペア』を望む。
大切な後継者の、予備の臓器の生きた容れ物としての複製を。
彼らにとっては至極当然の思考だとしても、「表向きの姿勢」は繕わなければならないのだ。
この、……あくまでも「外の」社会で、上の存在として居続けるために。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
「やあ、Dr.ナサニエル ブライト。ようこそ、この|研究所《ラボ》へ」
新生活に対する期待や高揚など欠片もなく、敷地内の宿舎から暗い気分で訪れた勤務先。
初出勤としての形式を整えたに過ぎなかったが、自室に用意されていたスーツを身に着けて来た。こんなものが必要な場面などあるとは思えないのに。
わざわざ「外」から持ち込むほどの、思い入れのある私物などありはしない。
「生活に関してはすべて手配する」
そのように聞かされてはいたが、ここまでだとは予想もしなかった。
明るい声と笑顔で「新入り」を迎えてくれたのは、白髪交じりの黒髪の白衣を着た男だ。
ただし、細いフレームの眼鏡の奥の灰色の目はまったく笑っていない。
頭が切れるのは当然の前提として、おそらくは冷徹と評される方の人間なのではないか、と直感した。
「できればネイトとお呼びいただければ。え、っと」
「失礼、私はマクシミリアン グリーンヒル。ここでは
八年目で、君の先輩になるね。──『良い名前』なのに、ナサニエル。まあ希望に沿うようにするよ。ではネイト、どうぞ私のこともマックスと呼んでくれ給え」
名乗った彼は四十代も後半だろうか。二十八歳のネイトより二十近くは年長に思われた。
痩せているので長身に見えるが、実際に対面で立つと明らかに目線が低い。
「で? 君は《《何をやった》》の?」
「……!」
軽く問われて咄嗟に声が出ないネイトに、マックスは苦笑する。
「ああ、すまない。詮索する気はないし、無理に打ち明ける必要なんてないんだ。──所詮ここに来るのは皆、何かやらかしたけど優秀だから飼い殺しにされている|同じ穴の狢《同類》だよ。私も含めてね」
どんな罪を犯しても、「優れた頭脳の持ち主」が真の意味で一般人同様に断罪されることはない。
とはいえ、完全に無罪放免というわけでもなかった。
彼の言う通りに。
現実に、このラボの研究員はほぼ例外なく「法的な重罪を犯した人間」だ。具体的には殺人、──それも「猟奇的」がつくようなものも珍しくはない、のだろう。
ただ、そういった犯罪者も「外の社会」では服役している、……あるいは処刑されたということになっているのかもしれない。
社会秩序を保つために。
そういう人間はネイトの周囲にはいなかったので、実例としては知る由もなかった。
ネイト自身は、表向きは元の勤務先において「研究に行き詰まりを感じて退職し、『故郷』に帰った」ことになっている。
そのように聞かされていた。
実態は不明であるしもう知る術もないのだが、よりにもよって《《故郷》》とは。
「別に構いません。大学に残って研究していたら、教授の娘にその、一方的に好かれたというか。研究室で告白されて断ったら、その場で手首を──」
誰かを愛したことなどはない。特別な存在を持ったことも。
突然想いを告げられ、まだ高校生だった彼女に「子ども相手にそういうことは考えられない」と口にした。
すぐ傍らの机にケースごと放置されていたメスに手を伸ばした少女を、止める隙もなかった。
「フローレンスさん? ブライト先生! 何があったんですか⁉」
血を流して床に蹲る教授の娘と屈み込んで患部を確かめようとしたネイトの姿を、入室してきた学生が見つけて騒ぎになった。
いったいあの場でどう返すのが最適解だったのか、ネイトは今もわからないままだ。
「DR.ブライト。君の責任だとは思っていない。研究員としての君は何にも代えがたい存在なのも確かだった。しかし、……フローレンスは今も家から出られない状態だ。──君がこのまま残るのは、他の研究員にとっても蟠りは消せないだろう」
教授からの、追放宣告にも等しい言葉。教授も娘を愛する親だった、ということを改めて突きつけられた。
彼女は命に別状があったわけでもなく、痕は残るかもしれないが傷もさして深くはないという。
それでも、引き立ててくれた教授が居たからこそ開けていた輝かしい将来は一瞬にして潰えたのだ。
研究には、経済的支援も含め環境が必要だ。大学や研究機関に所属せずに単独で為せることは限られている。
そのため、能力だけはあると惜しまれて非合法の|研究施設《ラボ》送りになったというだけの話だ。
広いようで狭い研究者の世界では強大な力を持つ教授の手前、少なくとも専門では陽の当たる道は歩けない。
優れた遺伝子を掛け合わせ、|ディッシュ《シャーレ》の中で作られた自分。優秀な頭脳を持つ人間としての期待のみで生み出され、当然の如く研究者になった。
そして文字通り研究しかして来ていないネイトがこの技術で生きるためには、他の選択肢など存在しなかった。
後ろ盾になる、あるいは後ろ髪を引く存在としての『家族』もいない。
「その程度で? だったら何もここじゃなくても他にいくらでも、──まあ欠員が出たからか」
ネイトの話を聞いていたマックスは少し呆れたように呟いて、彼は淡々と自分について話す。
「私は浮気した妻とその相手を殺めたんだ。裏切りだけは許せない質でね。妻を拘束して、目前で男を『|分解《バラバラに》』した。末端から少しずつ、ただの|部位《パーツ》にね。その後は正気を保っていたかも怪しい妻を同様に。……なかなかに骨の折れる作業だったよ」
まるで世間話のような何気ない、気楽にも聞こえる口調だからこそ背筋に冷たいものが走った。
この男はきっと後悔も反省もしていない。
殺人よりも、マックスにとっては信頼に対する背信行為のほうが遥かに重罪なのだろう。
「とりあえず、私が君の案内役を仰せつかった。今後も疑問点や要望があれば私に。……所長は名ばかりで、技術者としてはともかく管理職としてはなんの役にも立たないからね。部下が全員『まとも』じゃないからそこは同情するよ」
確かにこういう「部下」は扱いづらいことだろう、と表には出さないままにネイトはすんなり納得した。
今までとは別世界なのだ。
しかし内情がどうであれ、ここがこれからネイトが生きる、……しがみつかざるを得ない場所になる。
「こちらが君のスペース。業務についてはどこまで聞いている?」
先導されて辿り着いた個人ブース。
ドア脇の認証スキャナに目を近づけてロックを解除した彼は、まずネイトの「網膜の静脈パターン」を登録させた。
これで、このスペースに入室できるのはネイトだけだ。|部屋の主《自分》が招き入れない限りは。
その後マックスに促され、ネイトは特に感慨もなく中へ踏み込む。
「人間のクローン研究をしているとだけ。確かに僕は|クローン《それ》が専門ですが、人間を《《作った》》ことはなくて……」
「そりゃあ禁止事項だから当然だよ。隠れてやっていたとしても、不用意に公言するような愚かな研究者はいないね」
先輩研究員があっさりと返してくる。
「根本的にここでは、オリジナルが誕生するのとほぼ同時進行でクローンを作成する。卵細胞にオリジナルの細胞を埋め込んで培養し、人工子宮で『出産』まで育てるんだ。臓器ではなく君の言った通り『一から人間を作る』、つまり倫理的には最もアウトな研究だってことさ」
有り余る金と力の両方を持つ者が、己の跡を継ぐ子の『スペア』を望む。
大切な後継者の、予備の臓器の生きた容れ物としての|複製《レプリカ》を。
彼らにとっては至極当然の思考だとしても、「表向きの姿勢」は繕わなければならないのだ。
この、……あくまでも「外の」社会で、上の存在として居続けるために。
新生活に対する期待や高揚など欠片もなく、敷地内の宿舎から暗い気分で訪れた勤務先。
初出勤としての形式を整えたに過ぎなかったが、自室に用意されていたスーツを身に着けて来た。こんなものが必要な場面などあるとは思えないのに。
わざわざ「外」から持ち込むほどの、思い入れのある私物などありはしない。
「生活に関してはすべて手配する」
そのように聞かされてはいたが、ここまでだとは予想もしなかった。
明るい声と笑顔で「新入り」を迎えてくれたのは、白髪交じりの黒髪の白衣を着た男だ。
ただし、細いフレームの眼鏡の奥の灰色の目はまったく笑っていない。
頭が切れるのは当然の前提として、おそらくは冷徹と評される方の人間なのではないか、と直感した。
「できればネイトとお呼びいただければ。え、っと」
「失礼、私はマクシミリアン グリーンヒル。ここでは
八年目で、君の先輩になるね。──『良い名前』なのに、ナサニエル。まあ希望に沿うようにするよ。ではネイト、どうぞ私のこともマックスと呼んでくれ給え」
名乗った彼は四十代も後半だろうか。二十八歳のネイトより二十近くは年長に思われた。
痩せているので長身に見えるが、実際に対面で立つと明らかに目線が低い。
「で? 君は《《何をやった》》の?」
「……!」
軽く問われて咄嗟に声が出ないネイトに、マックスは苦笑する。
「ああ、すまない。詮索する気はないし、無理に打ち明ける必要なんてないんだ。──所詮ここに来るのは皆、何かやらかしたけど優秀だから飼い殺しにされている|同じ穴の狢《同類》だよ。私も含めてね」
どんな罪を犯しても、「優れた頭脳の持ち主」が真の意味で一般人同様に断罪されることはない。
とはいえ、完全に無罪放免というわけでもなかった。
彼の言う通りに。
現実に、このラボの研究員はほぼ例外なく「法的な重罪を犯した人間」だ。具体的には殺人、──それも「猟奇的」がつくようなものも珍しくはない、のだろう。
ただ、そういった犯罪者も「外の社会」では服役している、……あるいは処刑されたということになっているのかもしれない。
社会秩序を保つために。
そういう人間はネイトの周囲にはいなかったので、実例としては知る由もなかった。
ネイト自身は、表向きは元の勤務先において「研究に行き詰まりを感じて退職し、『故郷』に帰った」ことになっている。
そのように聞かされていた。
実態は不明であるしもう知る術もないのだが、よりにもよって《《故郷》》とは。
「別に構いません。大学に残って研究していたら、教授の娘にその、一方的に好かれたというか。研究室で告白されて断ったら、その場で手首を──」
誰かを愛したことなどはない。特別な存在を持ったことも。
突然想いを告げられ、まだ高校生だった彼女に「子ども相手にそういうことは考えられない」と口にした。
すぐ傍らの机にケースごと放置されていたメスに手を伸ばした少女を、止める隙もなかった。
「フローレンスさん? ブライト先生! 何があったんですか⁉」
血を流して床に蹲る教授の娘と屈み込んで患部を確かめようとしたネイトの姿を、入室してきた学生が見つけて騒ぎになった。
いったいあの場でどう返すのが最適解だったのか、ネイトは今もわからないままだ。
「DR.ブライト。君の責任だとは思っていない。研究員としての君は何にも代えがたい存在なのも確かだった。しかし、……フローレンスは今も家から出られない状態だ。──君がこのまま残るのは、他の研究員にとっても蟠りは消せないだろう」
教授からの、追放宣告にも等しい言葉。教授も娘を愛する親だった、ということを改めて突きつけられた。
彼女は命に別状があったわけでもなく、痕は残るかもしれないが傷もさして深くはないという。
それでも、引き立ててくれた教授が居たからこそ開けていた輝かしい将来は一瞬にして潰えたのだ。
研究には、経済的支援も含め環境が必要だ。大学や研究機関に所属せずに単独で為せることは限られている。
そのため、能力だけはあると惜しまれて非合法の|研究施設《ラボ》送りになったというだけの話だ。
広いようで狭い研究者の世界では強大な力を持つ教授の手前、少なくとも専門では陽の当たる道は歩けない。
優れた遺伝子を掛け合わせ、|ディッシュ《シャーレ》の中で作られた自分。優秀な頭脳を持つ人間としての期待のみで生み出され、当然の如く研究者になった。
そして文字通り研究しかして来ていないネイトがこの技術で生きるためには、他の選択肢など存在しなかった。
後ろ盾になる、あるいは後ろ髪を引く存在としての『家族』もいない。
「その程度で? だったら何もここじゃなくても他にいくらでも、──まあ欠員が出たからか」
ネイトの話を聞いていたマックスは少し呆れたように呟いて、彼は淡々と自分について話す。
「私は浮気した妻とその相手を殺めたんだ。裏切りだけは許せない質でね。妻を拘束して、目前で男を『|分解《バラバラに》』した。末端から少しずつ、ただの|部位《パーツ》にね。その後は正気を保っていたかも怪しい妻を同様に。……なかなかに骨の折れる作業だったよ」
まるで世間話のような何気ない、気楽にも聞こえる口調だからこそ背筋に冷たいものが走った。
この男はきっと後悔も反省もしていない。
殺人よりも、マックスにとっては信頼に対する背信行為のほうが遥かに重罪なのだろう。
「とりあえず、私が君の案内役を仰せつかった。今後も疑問点や要望があれば私に。……所長は名ばかりで、技術者としてはともかく管理職としてはなんの役にも立たないからね。部下が全員『まとも』じゃないからそこは同情するよ」
確かにこういう「部下」は扱いづらいことだろう、と表には出さないままにネイトはすんなり納得した。
今までとは別世界なのだ。
しかし内情がどうであれ、ここがこれからネイトが生きる、……しがみつかざるを得ない場所になる。
「こちらが君のスペース。業務についてはどこまで聞いている?」
先導されて辿り着いた個人ブース。
ドア脇の認証スキャナに目を近づけてロックを解除した彼は、まずネイトの「網膜の静脈パターン」を登録させた。
これで、このスペースに入室できるのはネイトだけだ。|部屋の主《自分》が招き入れない限りは。
その後マックスに促され、ネイトは特に感慨もなく中へ踏み込む。
「人間のクローン研究をしているとだけ。確かに僕は|クローン《それ》が専門ですが、人間を《《作った》》ことはなくて……」
「そりゃあ禁止事項だから当然だよ。隠れてやっていたとしても、不用意に公言するような愚かな研究者はいないね」
先輩研究員があっさりと返してくる。
「根本的にここでは、オリジナルが誕生するのとほぼ同時進行でクローンを作成する。卵細胞にオリジナルの細胞を埋め込んで培養し、人工子宮で『出産』まで育てるんだ。臓器ではなく君の言った通り『一から人間を作る』、つまり倫理的には最もアウトな研究だってことさ」
有り余る金と力の両方を持つ者が、己の跡を継ぐ子の『スペア』を望む。
大切な後継者の、予備の臓器の生きた容れ物としての|複製《レプリカ》を。
彼らにとっては至極当然の思考だとしても、「表向きの姿勢」は繕わなければならないのだ。
この、……あくまでも「外の」社会で、上の存在として居続けるために。