「――はっ…何の気配だ?今、何時…」
「動くな。」
「颯人…?起きてたのか?」
「いや、目が覚めた」
ふと、何かの気配を感じて目が覚めた。まだあたりは暗く、夜が明けてはいない。
ただならぬ気配が周囲から漂って来ている。布団の中で体を隠すように俺を抱えて、颯人がドアの向こうを睨みつけている。
「何かの怨念が彷徨っている。……探し物をしているようだ。かなりの怨恨を感じる」
「お、怨念?探してるって、何を?」
「しっ。口を閉じよ。念通話もするな。正体がわかるまでは静かにせよ」
「………………」
布団の中でぎゅうぎゅうに抱きしめられて、颯人も頭まで掛け布団に潜り込む。俺の額に唇が触れて、結界が施されたのを感じる。
廊下から……ひた、ひたと足音が聞こえる。人が歩いて足の裏が木の床に触れる音だ。
足音がどんどん近くなり、明らかにこの部屋に近づいてくる。真さんじゃない…これは瘴気の匂いだ。足音がぴたりと止まり、トントンとドアが叩かれた。
颯人に目で問うと、瞼を閉じて首を振られた。こ、怖いんですけど。一体何が起きてるんだ。
「おとうさん、おふとんに入れて下さい」
小さな子の声だ……今にも泣きそうな震えた声で、小さく囁いている。
子供がこの山寺に来れるわけがない。首筋が悪寒を感じて粟立つ。間違いなく怨霊の声だ。
「おとうさん…一人で寝られないんです」
「おとうさん。おねがい、起きて。頭をなでてください」
「おとうさん。あんよが冷たいの。お手手でさすってください」
(颯人…)
(ならぬ。これは怨霊だ。寂しさを紛らわすために人に取り憑こうとしている)
(でも、それなら抱きしめてあげたら満足できるんじゃないのか?あんな声、聞いてられないよ)
(しかし…其方は怪我を抱えているのだぞ。怨霊を鎮めるにも、取り憑かれないよう抵抗するのに霊力を使う。)
(…でも……)
「おとうさん…僕のこと、おきらいになりましたか?ちゃんと、言うことを聞いて箱の中に入っていました。
お水が入って、苦しかったけど…いいつけどおり目をつぶっておむかえを待っていたのです」
胸がズキズキする。箱…水…もしかして川に流された?口調からして口減しで殺されてしまった子だろうか。死んでからもずっと寂しさを抱えたままなのか。
「ここにいたか。父はここにある」
「お、おとうさん!?」
部屋の外で、優しい声が聞こえる。……どう聞いても真さんの声じゃないのに、彼がそこにいると確信できた。
モワモワ漂う瘴気の匂いが消えて、暖かくて清浄な空気が戻って来た。
「父を忘れたか?お前は約束を守り、男として耐えた。迎えに来たよ」
「おとうさん!!おとうさん!!」
「あぁ、いい子だなぁ。お前のおかげで母も、妹もみんなが生きられた。寂しい思いをさせてしまったな」
「……僕はちゃんとりゅうじん様にお手紙を届けられましたか?」
「あぁ。龍神様が願いを聞き届け、皆が飢えずに済んでいる。腹が減っただろう。おにぎりをあげよう。白米だけのおにぎりだよ」
「ええっ!?すごい…いいの?」
「お味噌汁もある。そうだ、甘い卵焼きも作ろうか」
「卵…わぁ!食べてみたいです!!」
「お勝手に行こう。お父さんと一緒に食べようか」
「はい!」
二人分の足音が遠ざかり、颯人と布団を抜け出して、足音を追う。
本堂の脇を通った真さんはチラリと振り返って、僅かに頷きキッチンへ向かっていった。
「颯人!」
「あぁ、ゆこう」
本堂の脇、仏壇の前を通り抜けてキッチンへ。
そこには蝋燭の灯りを灯し、作業台の上でお皿におにぎりを乗せている真さんがいた。
……もう一人、誰かががいるはずなのに、気配しかない。暗闇の中で吐息が二つ聞こえるのに、何も見えない。
真さんが振り返り、穏やかに微笑む。
「大丈夫ですよ。お客様をお父さんのお迎えだと勘違いして…箱から出て来てしまったんです。ご飯を食べれば戻ってくれますから」
「お、俺……卵焼き、作ります」
「お願いしていいですか?うんと甘いやつをお願いします」
「はい!」
キッチンに降りて、真さんから卵を受け取る。夕食前にしたように颯人がガス台に火をつけ、フライパンを温めはじめた。
「だあれ?」
「父の友だ。とても尊いお方なのだよ」
「りゅうじん様よりも?」
「ああ、そうだね。お前が頑張ったから、尊い神様が直接来てくださった。甘い卵焼きを作ってくれるそうだ」
「わ、ぁ…本当?あまい卵やき…そんなの食べたことありません。」
「そうか」
「ご飯は、本当に白い米なのですね。ぼくは汁しか食べたことがなくて、こんな風におにぎりになるなんて…りょうしゅ様が食べていたのと同じですね!」
「そうだな……」
「いいよ、颯人」
「あぁ」
颯人とバトンタッチして、温まったフライパンに卵液を流し込み、ガスの火を弱める。沢山お砂糖を入れたから焼き上がる匂いがケーキみたいに甘い。
真さんの横に、子供がいる。姿形は見えないけれど…食べるのに困って、龍神に生贄として捧げただろう小さい子が。
幼くて高い声色が、切ない。
「支えよう」
「すまん……ありがとう」
「よい。焦がさぬようにゆっくり焼こう」
「ん……」
涙で視界が滲んで、手が震えてしまう。颯人が背中から支えてくれて、動かしたい方向へ手を添えて助けてくれた。
「神様、なかよしだねぇ」
「そうだなぁ、今の世は神と人があのように手を取り合い、仲良う暮らして人の世を助けてくれるのだ」
「そうなの?じゃあ…ぼくみたいな事をしなくてもいいの?」
「……そうだな。そうしてくれる。きっと。もう二度と、あんな思いをしなくていいんだ」
「すごいねぇ、良かったねぇ。みんながごはんもたくさん食べて、おなかいっぱいで、ねられるんだねぇ」
「あぁ、そうだよ。」
「……できた」
「うむ。いい色だ」
焼き色が少し濃いめについてしまったけど、砂糖たっぷりの卵焼きが出来上がり、お皿に盛って、それを作業台にそっと置く。
「すごい…こんなにいっぱい食べ物がある!いい匂い!」
「全部お前のだよ。おあがり」
「わあぁ…いただきます!」
塩握りとお味噌汁が、ちょこちょこ消えていく。口が小さいから、少しずつ、なくなっていくんだ。
菜箸を握りしめたままそれを眺めて、胸がキュウキュウ音を立てる気がした。
「卵焼きもたべてごらん」
「あの…こんなにきれいなので、もったいなくて。おとうさんがめし上がりませんか?」
「父は腹がいっぱいなのだ。お前のために作って頂いたのだから、遠慮しなくていいんだよ」
「そうなのですか?…い、いただきます」
はくり、と小さな歯形がついて、卵焼きが少しずつ消えていく。
一口目を齧った次の二口目がさらに小さくなり、大切に大切に食べていく様子を見て…真さんも涙を溢した。
「浄真は、あのような怨念が込められた物を引き取って浄化しているのだ。里から出て来た昔の呪いを引き受け、山奥で癒して天に送ってやるのだろう。……大切な役割だ」
「うん…」
「其方も同じ仕事をしている。よく、目に焼き付けておくといい」
「……はい」
颯人が肩に手を置いて、ゆっくりさすってくれる。暖かいその体温のせいで余計に泣けて仕方ない。
卵焼きの最後の一口がきえ、はぁー、と大きなため息が聞こえた。
「大変、大変おいしかったです。ごちそうさまでした」
「あぁ。腹は膨れたか?」
「はい!あの、神様にお礼をもうし上げてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
真さんが虚を見つめて何かを目で追う。俺の目の前で目線が漂い、ぴたりと止まった。
「神様。大変おいしいご飯をありがとうございました。」
「……えっ、お、俺か?」
「はい!あのう、手を、触ってもいいですか?」
「あぁ…」
俺の足元から声がする。颯人じゃないのか……?思わずしゃがんで、じっと正面を見つめてみる。ぼんやり、薄暗がりにホワホワの白い靄が漂っている。
恐る恐る手を差し出すと、そこにむきゅっとわずかな圧力が加わって来た。
「神様は、とてもあたたかいのですね」
「君も暖かいよ。小さい手だね…」
「ぼくは六歳ですから、小さいです。でも、おやくめをいただきましたので、もう大人です」
「……そっか」
ホワホワの上部を撫でると、柔らかい髪の感触が伝わってくる。あぁ、見えなくても、ここにいる。小さな少年が。
髪を撫でて、顔を触るとふっくらしたほっぺが柔らかい。手探りで頬を撫でると、わずかにそこが濡れていた。
「寂しくて泣いたの?」
「い、いいえ。さびしくなんかありません!ぼくはもう、大人です。おやくめをまっとうしたのですから!」
「そうか…とっても偉かったよ。頑張ったね」
「はい!」
「そろそろ日が上るよ。父と箱に戻ろう。おいで」
「……はい」
「どうした?」
「…………」
手を離して、立ちあがろうとすると…足元から「お母さん」と小さな声が聞こえた。
頭の後ろから殴られたような衝撃を受けて、体から力が抜ける。膝をつき、白いモヤ姿の彼をぎゅうっと抱きしめる。切なくて、苦しくて、胸が引き裂かれそうだ。
大丈夫だなんて事、ある筈がないだろ。こんな小さな子が突然親から引き離されて…寂しくないわけがない。
「ごめんなさい、あの、違うんです」
「……っ、うん」
「お、お母さん、母様とにおいがにていて」
「うん…俺がこうしたかったんだ。ごめんな。少しだけ、抱っこさせてくれるか」
「…………は、い」
俺の胸元ににこてん、と頭を置いて。ためらいがちに体に手を回し、ぎゅうっとしがみついてくる痩せ細った体。
背骨の浮いた背中を撫でてやると、その小さな体が微かに震えて……俺の頭の中に情景を浮かび上がらせた。
――大雨で川が溢れ、流されてしまった村の家々。そこに集まった悲壮感を漂わせた大人たち。
命が助かっても、暮らしていけない現実が彼らをさらに打ちのめす。
残ったわずかな米で粥をたき、水で薄め、家族で分け合って…雨漏りのするお寺のお堂で身を寄せ合う。雨に濡れた体が冷たいけれど、抱きしめてくれる母や、家族の熱が伝わってくる。暖かさに目を閉じ、胸の中から温かい気持ちが広がった。
真夜中になり、怖い顔をした父が彼を引き連れ…村の男達が松明で足元を照らしながら未だ荒れ狂う川の淵へ。手紙を渡して少年を行李の中に入れた。
「真っくらだよ、こわいよ、お父さん」
……と泣く少年に、父は告げた。
「お前は川の氾濫を鎮めるために、龍神様にお手紙を届けねばならない。龍神様は水の中にいるから、最初は苦しいが…耐えてくれ。目を瞑って、百まで数えるのだ。
数を数えられる子供はお前だけ、お前にしかできぬ仕事だ。……手紙を届けて、父を、母を、妹を、この村を助けてくれ。」
そうして、少年が閉じ込められた行李が川に投げ込まれ、あっという間に濁流へと飲み込まれていく。
行李の中に水が入り込み、息ができなくなって…苦しい。でも、父が言った通りにするしかない。覚えたばかりの百までの数を……何度も間違えながら数えきり、彼は亡くなった。
「寂しかったな、苦しかったな。……君は本当によく頑張った」
「……はい」
「村のみんなは、俺や他の神様達がちゃんと守るからね。もう大丈夫だよ、何にも心配する事なんかない。」
「は、はい、はい!!よろしくお願いします。とても嬉しいです!」
「……うん……」
勝手口のドアについたガラスを通して、日が登ってくるのが見える。もう朝が来てしまった。
怨霊は、朝日を浴びると浄められてしまい、思いを果たせぬまま消えてしまう。そんな事、したくない。
「真さん、どうしたらいいですか?このままだと朝日に浄化されて……」
「……大丈夫です。本当にお迎えが来ました」
「えっ?お迎え?」
びっくりして真さんと見つめ合っていると、キッチンのドアがきぃ、と小さな音を立てて開く。
『|小太郎《こたろう》、お迎えに来たよ』
「――あっ!か、母様!!」
陽の光に照らされて、白いホワホワが人の形に変わる。おかっぱ頭で、つぎはぎだらけの筒袖と括った袴を着た小太郎が、女性の元へ走っていく。
それを抱き留め、微笑んだのは…彼のお母さんなのだろう。
小太郎は、お母さんにしがみついて大きな声で泣き出した。泣きじゃくる彼を抱き上げ、女性が俺たちに背を向けて陽の光に向かって歩いていく。
「颯人…あれは……」
「小太郎が亡くなってから、ちょうど百年経ったのだ。百年の月日を数え、時が満ちて親が迎えに来た。天上へ上がるのを許されたのだ」
「……そうかぁ…よかった…良かったな」
颯人に抱え起こされて、緑の庭へ歩いていく女性の背中を眺める。
煤けて裾がちぎれ、ボロボロになった服のままで歩いていく母親から溢れる雫。それは風に流れて陽の光に煌めいた。
誰が悪いとか、いいとか、そんなことでは割り切れない。彼は百年の時を数え待ち、ようやく成仏できるのか……。
「あの子が家族と会えて、今からでも幸せになれるといいな」
「……其方がそう願えば叶う。言霊にしてやるが良い」
「わかった」
颯人の手が降りて、ポンと俺の肩を叩く。頷きを返して柏手を打ち、朝日に向かって拝し、目を閉じた。
「小太郎くんが家族みんなと会えますように。寂しい気持ちも、悲しい気持ちも、辛かった事も全部忘れて幸せな時間を過ごせますように。お母さんにうんと甘えて、お父さんに沢山褒めて貰えますように……」
瞼を開き、姿を現した陽光を受けてその眩しさに目を細める。小さく聞こえた少年の笑い声が山々にこだまし、消えていく。
ポカンとしたままの真さんが振り向き、ゆるゆると首を振る。
「信じられません……経も上げずに成仏させてしまいました」
「真さん…?お経あげないといけなかったんですか?」
「……あの子は怨念が強くて、飯など食べたことがなかったのです。百年も残る怨恨を抱えていたのですよ!時が来たとはいえ、あんなあっさり成仏する訳ありません!!」
「えっ?だってさっき、ご飯食べたら大丈夫って…」
「嘘に決まってるでしょう!!封印箱から飛び出してしまうくらいの力だったんですよ!?本当に信じられない…こんなやり方があるだなんて……」
えっ、どういう事?真さんは何を言ってるんだ?
「我の神力によって引き寄せられ、真幸の甘美な気配に良い、憎しみよりも寂しさが勝った。甘えたくなったのだろう。
浄真と真幸の作った飯で浄化され、擬似的に母として抱きしめてやった事で怨恨が消えた。そこへちょうど百年目の迎えが来たというわけだ」
「…なんだ、じゃあタイミング良かったって事か。あんな小さい子が悲しい思いを百年もしてただなんて思うとキツイけど…成仏できたなら良かったな。」
「そうだな、そう言うことにしておこう」
なんか引っかかる言い方だけど、まぁイイや。落ち着いたことだし…あとちょっとだけ寝たい。すんごく眠いんだ。
「颯人…二度寝したいんですけど」
「そうしよう。天上送りをしたのだから今朝の修練は休みだ。……下を脱いで布団に入るのだぞ」
「えっ…あー、そうか、膝ついちゃったもんな。パンイチならセーフ?」
「うむ。我が脱がしてやろう」
「やめろ!一人で脱げるよ!あのー、真さん、1時間くらいならいいですか?眠くて眠くて……」
呆然としたままの真さんに声をかけると、そのままこくりと頷かれる。
「好きなだけ寝てください……」
「えへ…じゃあ二度寝だ!!颯人、布団に直行!」
「応」
颯人と二人で来た道を戻り、ズボンだけ脱いで折りたたんでいそいそとお布団に入る。……そういえばお布団二つあるのになんで颯人は一緒に寝てたんだ?
「いま少し奥に詰めよ」
「なっ、ここに来てまで一緒に寝なくていいだろ?そっちの布団で寝てくれよ」
「魂を送って消耗したのだ。霊力を回復せねばなるまい」
あ、そうか…起きたら真さんのお手伝いしたいし。そう言う事なら仕方ない。
お布団に二人で寝っ転がってくっつき、目を瞑る。俺はあっという間に瞼が閉じる。
人の作り上げた怨念、怨恨を受け取って浄化するお仕事か……目が覚めたら、たくさん手伝ってお勉強させもらわなきゃならないな。
頭を持ち上げられて、颯人に腕枕をされて。温かい体温と、胸の鼓動を聞きながら眠りについた。