ジリリリリリ──
けたたましいベルの音を煩いと思っていたのはいつからだったか。
ジリリリリリ──
自身の小さい身体にはあまりに大きすぎる一面真ッ白い、空白の様な空間が一体何処なのか。
ジリリリリリ──
そして自分自身が何者なのか。
何一つ、僕には分からない。
薄ボンヤリとした意識を覚醒させた要因は、その耳障りな着信音だった。
何やらこの眼前にポツンと佇む、台に鎮座した黒電話に着信が来ているらしい。そして、その前でぼうっと突ッ立っていた僕……耳の奥がガンガンと唸りを上げているのだけが永く此処に立ち尽くしていた事を伝えてくる。一体いつから?
頭痛に堪えて辺りを見回す。
違和感、右を向いても、左を向いても……真っ先にその違和感に頭が混乱する。
時間が経つに従って、霧が晴れるように焦りが姿を見せて来た。
──おかしい──
辺り三百六十度全方位何処を見回そうと、そこの時代遅れな骨董品以外には何一つとして見当たりはしないのだ……そう、何一つ。
辺り一面処女雪もかくやと云う程に真っ白な世界が広がっていて、地平線すら見受けられない。それは相当に底気味悪い光景だった。
──おかしいぞ──
更に僕は困った事に自分自身に覚えが無かった。
今着ている衣服の類いに目を落としても──余り肌触りが良いとは言えない肌着。その上にはこの不可思議な空間と同化せんばかりに真白い外衣と、それとは対照的な黒のズボンを身に付けて居た。勿論どれにも覚えは無い。
ソレらの衣類は何処か現実離れした印象を受けるデザインをしていて、マッタク奇妙だった。
次に自らの顔をペタペタと撫で回しても、なんら覚えが無い。かろうじて男児という事、それ位しか分かる事は無かった。
そして何より不可思議、不気味だったのは、記憶がサッパリ無いのに、知識のみが在る事だ。例えば車とは何かというのを答えることが出来ても、ソレを経験したはずの記憶は存在しない。言葉の意味は知っていてもソレを学んだ過程が悉く存在しないのだ。こんなにも奇妙な事があるだろうか?
身体相応の十数年分の知識があるのに、ソレを培ってきた十数年分の人生が存在しないなどと……そもそも、この異常事態を冷静に自己分析出来ている自分自身にすら何らかのうすら寒さを感じてくる。一体全体どうあってコンナ状況に放り込まれて……
ジリリリリリリン──ジリリリリリリン──
混乱し、とっ散らかって止まない思考を何とか束ねようとした矢先、突如としてあの黒電話の着信音がその勢いを増した。
束ねかけた思考がそこらじゅうに散らばってしまったような錯覚に陥りながら、黒電話を睨めつける。黒電話はまるでカートゥーンアニメの中から飛び出してきたかの様に跳ね回りながら、その増した音量で僕を急かしているようだった。
こんな黒電話があるものだろうか?そういえば電話線も何処にも見当たらない。台の上に無造作に『配置』されただけ。
ソコに脈絡も、配線も無く、黒電話。
不自然、不条理。示し合わせた様に記憶を失った僕の前で、他ならぬ僕を喚んでいる。
気付けば、右手が受話器を取っていた。
耳に押し当てた瞬間──
『ハロー!ハロー?!聴こえてますかァ?』
受話器が起爆された……?!
否、そう錯覚する程の爆音。
「痛ッ……」
『ん?どした?もしかして鼓膜破れた?』如何にも底意地の悪そうな声。
どうやらコレは電話の向こうの悪漢の仕業らしい。
声色から見るに、中年の男だろうか。
子供じみた嫌がらせをするクソ野郎と初対面でハッキリ分かるご挨拶を寄越された。
「アンタ……一体誰だ?僕は何故ココに居る……ココは何処だ!?」
怒りと疑問にそのまま任せて問いかける。
『ん〜?……分からない?』
「……分からないに決まってるだろ?!気付けばココで……畜生!」
ココまで来ても、自身のアタマには何の記憶も甦ってはこないままだ。
『…………本当に分からないのか』
不思議そうに響く言葉は本気なのか、おちょくっているのか判別が付かなかった。
少なくとも何も分からない、動転した僕の耳にはその言葉総てが怪しい、嘲る様な響きを持って聞こえた。
『OKOK、ちょっとタンマ、君がのんびりしてる間にメモを何処かにやってしまった』
どこか非難めいたニュアンスが含まれた断りの後にガサガサとなにかを探るような物音が響く。
その慇懃無礼な態度に苛ついて、思いっきり怒鳴りつけた。
「知りませんよそんなの……兎に角アンタ一体誰なんだ?ココは何処なんだ!答えてくれ!」
トタンに物音が止む。
『怒りと若干の恐怖……かなり感情豊かだな……キミは…………まあ良い。後で聞こう。キミも少しは辛抱したまえ、君が電話にでるまで私が待った時間位は』
男は嫌味っぽくそう言うと、また何事も無かったかのように探し物の捜索を再開した。
さっきからコイツは何の話をしている?ここに僕を閉じ込めたのはコイツなのか?疑問ばかりが頭を突く。
『……ヨシ、あったあった……えー』
少し経って、物音は止んだ。
男は如何やら探し物を見つけた様で、実に慇懃無礼に、大義そうに、調子外れに、茶化したように話し始める。まるでコチラの疑問、困惑には興味は無いとでもいうように……
『こんにちは!……あー……もう夜だな……済まない。コレ、昼にササっと書いた奴なんだ……じゃあ、こんばんは!』
こちらはこの空間の外がどうなっているかも分からないというのに……
『えー、今から、貴方の現在の状態をチェックする為に、幾つかの質問をさせていただきます』
まるでこちらに説明する気はサラサラ無いとでも言うかのように、わざとらしく口調を変えて話を進める男に声を荒げた。
「ちょっと待ってくれ!まずコッチの質問に答えてくれないと……」
男の言葉からして何か知っているのは明白だった。先ず、コイツから何かを聞き出す──そうしようとした瞬間。
ピ──────
『あー、恐縮だが、お願いだ。君からの発言は控えてくれ。話すのは私が質問した時だけだ』
ヤツがそう、気軽に頼み事をするように言っただけで、僕は黙らざるを得なくなった。
喉元が麻痺したように動かなくなって、押し黙ってしまったのだ。
『よしよし、心配は要らなかったかな?」
男はそう満足げに呟いて、何事も無かったかのように謎の遣り取りを再開する。
『えーと……なんてキタナラシイ文字だ!書いたのは……私だな。‥‥‥‥一つ目の質問です。貴方の周りに、電話以外の物はありますか?又は、人等の生物はいますか?』
──こいつは一々癪に障る態度で……──
今なら喋れる。そんな謎の確信。
示し合わせた様に、ふっと咽喉の痺れが消え去っていった。
「……いいえ──辺り一面、真っ白です」
仕方なく、素直に見たマンマを伝える──相変わらず辺りは不可思議な白い空間が広がっていた。
『…………ホーン、そこは一応想定通りなんだね。じゃ、二つ目の質問です。貴方は貴方を取り巻く状況をどの様な物だと考えていますか?』
──僕の身に一体何が起きているのか──
……全く分からないが、コンナ事があり得るとするなら……
「……なんかしらの夢……とか」
そんな事を言うと、男はクツクツとひとしきり笑って、こんな事を云う。
『ナルホド、そう思いたい訳だ』
思わず顔を顰める様な、嫌味な言葉だ。
まるでコチラの内心など一から百まで見透しているとでも言いたげな。
「……そうですね」
……確かにその通りだった。
この疎ましい男も、不気味なこの空間も全て忘れて、次の瞬間入れ替えにマトモな記憶を手にして何事もなかったかのようにベッドの上で起き上がる……そうなれば万歳だ。
こんなモノは異常だ。マトモじゃない。
しかし、今の僕はそんなマトモじゃない世界以外を知らない……
『これが最後だ──三つ目の質問です。貴方は──自分が何者だと考えていますか?』
「……アンタはやっぱり僕の事を知っているのか」
今までの質問と今回の質問から察するに、男は僕の精神状態か何かを確認している様だった──やはりこの奇妙な記憶喪失のナニガシかを知っているのだろうと、僕は確信した。
『マァ…………そうだねえ。サ、質問に答えてくれ』
然し、威す様に追及したものの男の返事は雲か何かの様に判然とせず、軽く流されてしまう。
「……想像も出来ません。十六歳程に見えるから……高校生とか……でしょうか」
──どうしようか──
どうにかしてコンナ所からは脱出しなくては……どうやって?
幾ら思案を巡らせようとそのアイデアは湧いてこない。八方塞がりである。そしてソンナ事を考えているうちに──
『そうだね。君の身体の年齢は十六歳程だ。──質問は以上です──本題に入ろうか……君にやってもらいたい事の話だ』
「やってもらいたいコト……?」
『そう。キミが其処に居る理由でもある』
やってもらいたい事、ヤツは確かにそう言った。
ヤツは僕の記憶喪失を知らないのだろうか?
生憎何の記憶も経験も持たない自分に出来ること等とんと思いつかない。
『今からリ……いや、アーそうだな。コッチの方が分かり良いかな?』
『今から異世界行って、人類を救いに行ってくれ』
──マッタクこの男の好い加減な物言いは──
僕はこの男の言動をじつに糞マジメになって考察していたのが、実に間抜けで詰まらない事のように──モチロン今が疑いようも無く異常事態だと分かった上で、思えてきてしまっていた。
異世界に行って、人類を救えときた。
こんな超常空間に僕を閉じ込めやがった推定張本人のソイツがだ。
「……ソレは……何の冗談だ?」
『私は冗談は嫌いだぜ?』
この終始ふざけた、寒い冗談を振り撒いておいて言うに事欠いて冗談が嫌いとはソレ何の冗談か。
「待て、僕は記憶が」
『無いんだろ?知ってるさ』
「…………ソレは、どういう」
どういう事だ?
明白だ。この記憶喪失もヤツに仕組まれた……そうで無くても記憶喪失のワケをヤツは知っている!
『そんな事どーっでも良いじゃん?本題の方だよ。お願いしたい事があってね……その異世界でやって欲しい事があるのさ!──こういう冒険には使命が付き物だろ?魔王を倒してきてくれー、とか』
それでも、その言葉には僕は先程弛緩した精神をギュッと引き締める。
聞き出してやる……全部を!
「──そのお願いってのは何だ?」
そう僕が問うと奴はクツクツと嗤ってこう云った。
『待ってましたぁ』
ピ──────
『……お願い……ソレはねぇ……その異世界の英雄……アチラの世界とコチラの世界……双方の【人間】を創り上げた大英雄サマ達だ……ソイツらを殺し、喰らって欲しいのだよ……』
「何の為にソンナ事を……」
──ピィ──ィ────
ナゼだか先程から耳鳴りが止まらない……
『ソリャ君が考える事じゃあない。知る必要も無い。君は何も知らずに、私の手足として動いていれば良いのさ』
「……な……なんで……そんな……」
『なんでって……ソレは……マァ私が君の【上司】みたいなモンだからさ』
──ィ──────
「上……司……?」
耳鳴り………………
『そ、大体ソンナ感じ──話戻すけど、その君が殺す大英雄達の名は……
『白銀の主君、ベイロボルグ』
『赫の純血、ゼインディオス』
『盲剣奴、エクエスツァルム』
『黄衣の処刑者、キャルニフェクス』
『その四体を総称して……【楔の英雄】』
『まー名前さえ知ってりゃ場所は分かるはずだ。アッチじゃかなりの有名人だからね────人と言っていいのかなぁ──アレ』
ピ ィ──
『いいかい……【楔の英雄】を殺し、その精霊を総て喰らうんだ……それが君の使命だ。その軽い生命に変えてでも遂行すべき絶対の使命だ』
「……それが……僕の……使命……」
『いい子だ、実にいい』
『あ、それと最後にもう一つ、君の名前だ。無きゃ困るだろう?』
『こう名乗ると後々いい』
『──【九十九恭一郎】とね』
脳髄の奥の奥でソレは蠢いて……
ガガガガガガ………
薄暗い、二十畳程の広さを持った部屋のザックリ三分の一を占領する【ソレ】は正に異質と表現する他無い代物だった。
ソレは機械であるようだったが、現代に存在するどの機械類とも類似しない外観で、端々に何に使うかも到底見当がつかないレバー、ボタン、ダイヤルスイッチの類いが見受けられ、更にこれまた何を示すのか分からない計器類がザッと並ぶその中央、ソコで大きなモニタが砂嵐を映し出している。
「やっぱり、こんな感情値有り得ないよねぇ」
その珍妙極まりない機械の前に、回転椅子に座る白衣の男が一人。
男はモニタの横から騒音と共に排出される鑽孔テープを指で読み取りながら、機械に夥しい本数の動力パイプで繋がれた培養槽を睨んでいた。
──全く腹立たしい──
その培養槽の中では、赤髪の男が直立状態でコードで吊るされ、緑色の液体に浸けられていた。男の足元は奇ッ怪な光を放ちながら爪先が消失している。
そして何より……
Sample No,666
培養槽の硝子の表面に貼っつけられた、そう書かれた紙切れが、この存在が只ならぬ異物である事を強く強調していた。
「一体全体何のつもりなんだか……」
男にはこのサンプルにこの陳腐な程不吉極まりないナンバーが割り振られたのが偶然だとは思えなかった。何せこのサンプルの管理責任者は……
「……チッ…………」
其処まで考えが進んだ所で、男は鑽孔テープをグシャリと握りしめ──
「……コレだから君の事は嫌いだ」
今や光は更にその輝きを増し、赤髪の男を飲み込み、下半身を消失させていた。
「…………!」
──ここは……?──
気付けば、辺りは墨汁を垂らした様な黒々とした闇に包まれていた。
「コレは……一体どうなって……!」
多少のパニックに陥り、息が荒くなるのを感じながら、手で辺りの床を探った所、少し水に濡れた、ヌチャリとした感触を指は伝える。その悍ましさときたら……
「……痛っ!」
思わず手を離し、仰け反った拍子につるりと尻を滑らせて後頭部を強打した。
気分は最悪だったが、後頭部が伝えてくる痛みとヒンヤリとした冷たさによって文字通り『頭を冷やし』て、僕……【九十九 恭一郎】は幾分か冷静さを取り戻す。
「……確か」
何故、自分はコンナ所にいるのか、それを未だに朦朧とした頭で振り返る。
──確か僕は──記憶を失くして──気付けばあの妙な場所に居て──電話で知らない男に──
思考に耽る内に、意識は研ぎ澄まされ、より明瞭に形を成し……
──【使命】を与えられた──
──そうだ。僕は使命を与えられた──
嗚呼、どうして忘れていたのだろうか!決して忘れてはならない事であった筈なのに!それは僕の生きる唯一の理由であった筈なのに!なんとしても──
──アタマがキリキリと痛む感覚。
違う、コレは……コレは僕の意思では……!
「……んうッ!」
自分で自分のこめかみをぶん殴った。
少しアタマの中はしっかりしてきたが、それでも植え付けられた《《ナニカ》》の感触はついて離れなかった。
「取り敢えず……ココから出なきゃ」
その薄気味悪さから目を背ける様にそう呟き、先ずは辺りの状況を把握しようと試みる。
一糸ほどの光も差さない闇の中、タールじみた液体に足を取られぬ様に用心深く足を踏み出す。
この様な暗闇では下手に動く事は危険ではないか──その様な想いが脳裏を掠めるが、動かぬ訳にも行かない。
「…………」
先ず、向かって右側。ゆっくりと足を滑らせぬように歩みを進める。
コレには相当な勇気が要った。一歩先に地面が有るかすら分からない。
「…………うん?」
しかし、数歩程の距離で冷たい石壁に突き当たる。左も同様──もちろん背後も。
「狭い……」
そして、正面。
「コレは、鉄格子か」
纏めると、約三畳半程の狭い空間。正面には黒く、冷徹に聳え立つ鉄格子。そして濡れた石畳……どうやら此処は独房の中。それもかなり古い物に閉じ込められているらしい。
明らかに尋常な状況では無い……そう僕は判断して先ず鉄格子に取り付けられた鉄扉を調べる。
「……よく見えない」
だが、この暗闇ではいくら近寄ろうとも扉の構造を正確に把握する事は出来なかった。脱出の糸口を掴む為、再度背後の暗闇に目を凝らすも、其処にはただじっとりとした静寂が流れるのみで少しも役立ちそうな物体を見出すことは叶わなかった。
さて、コレは困った。そう大きく息を吐き出し、正面に向き直ったその刹那だ。
ジリリリリリ……ジリリリリリ……
場所にそぐわぬベルの音。それが正に喧ましく鼓膜を叩く。
否応無しにデジャブを感じざるを得ない状況に、思わず再度振り向いた。
「アレは……」
其処には、あの真ッ白な空間にあったのとマッタク同一の時代錯誤な黒電話がポツンと孤立していた。気味の悪い事に、それは光を放っている訳でも無いのに、闇の中でもシッカリと認識できる。
唾を呑んで、怖々手を伸ばせば……
『あ、九十九君?大丈夫?壁に埋まったりしてない?』
「っ……今のところソンナ事は……あと声量落として下さい……」
『?……ああごめんごめん地声が大きいもんで』
……これまた聞き覚えのある、喧ましい声が鼓膜をにわかに叩く。
その声は嫌がらせって訳じゃ無いんだよと、そう前置いて、
『ところでさ、さっきからウロウロしてどしたの?話聞こか?』と明らかに揶揄ってきた。
「いや……周りの確認を……」
『いや……なんでポケットのスティックライト使わないのかなぁと』
「……え?」
…………ズボンの腰あたりをまさぐると、ポケットが確かにあり、その中のペン状の物体を取り出せた。
「…………なんで先に言わなかったんですか」
『気付くかなぁと思ってた』
この十数分は何だったのかと、無性に腹立たしくなるが、このライトが有ればこの先の探索も楽になるだろう。
スイッチを押せば、眩い程の光が堅固そうな鉄板の姿を暴く。
「コレは……どうしようか」
その鉄扉は得体の知れない黒ずみに侵されてはいるが、何を閉じ込めていたのか、とても人の身一つでは破壊する事は叶わないと思わせる重厚な気配を放っていた。
他の遣り口をと、そう考えたその矢先。
『君なら力づくで破れるだろう』
「……無理ですよ」
『君の事は君より良く知っている』
──マタ訳の分からんことを言い出しやがる──
「ソンナものでコレが壊れるとは……」
『まあまあ、やってみてよ』
仕方無い。ナント言っても【上司】の命。たとい気紛れだろうと従う他無い。
違和感。
何故、僕はこんなに簡単にコイツに従って……
違和感を無視して、軽く二、三歩、扉から距離を取り、勢いを付けてぶつかった。
勿論、強固な鉄扉。びくともせずに只ガシャンと音を立てただけだった。
「……コレになんの意味があるんだ?」
思わずして疑問の言葉が口を突いた。
『違う、違う! モットこう……力を溜めるイメージで』
「一体何の意味があってコンナ事を!」
──ピ──────
『黙れ』
「か……! ……ッ…………」
その一言。
その一言だけでまるで麻痺したかのように喉はマッタク使い物にはならなくなってしまう。
『言った筈だ。何も知らずに私の手足として働いて居れば良いと』
声を出そうと力を咽喉に込めるも、その声帯は痺れたように震えるばかりで一片の音も出してくれない。その息苦しさに引っ張られて思わず膝をつく。
『いいかい? 私はせっかちでね……マドロッコシイのは嫌いなんだ……コレも知らなかったかい?』
『今ばっかしは反抗も意味ないぜ。巻きで頼むよ……返事は?』
瞬間、咽喉の痺れと硬直が解かれ、激しく咽せ込んだ。如何やら無意識のうちに息すら止めていたらしい。
びくり、びくりと体を揺らす痙攣が漸く収まってきた所で、震える脚をナントカ抑えて立ち上がる。
「…………分かりました」
如何にも表面上はとでもいうような嫌味を込めてそう応えてやった
『いい子だ』
命令通り……命令通りに僕は鉄扉に手を掛け、力を【溜める】。
『…………上手くいかんねえ?矢張り暗示が要るかな?……』
──ピ──────
『九十九恭一郎──扉を破壊しろ』
その時、確かにその眼で視たのだ。自らの腕に熱い、熱い何かが、黄金色の何かが、集中、収束していくそれを。
次の瞬間、厚さ十センチ以上はあろう鉄扉はまるで飴細工のように、他ならぬ僕……九十九恭一郎の手によってグシャリと折れ曲がって、道を開けた。
『うむ、九十九クン。君が私の言いなりというのは実に気分が良いな』
あの黄金のナニカは、もう何処にも視えなかった。
──暗い、暗いその長い通路をスティックライトで照らして進む。自らの靴から発されるコツ、コツという足音が湿った石畳に壁に反響して、それがやけに不安と孤独感を煽って止まない。
通路の左手には独房がズラリと並び、その中で誰からも忘れ去られた囚人の腐乱死体は風が無いにも関わらず、その屍臭を恭一郎の鼻孔に届けてくる。
「……【上司】」
『なんだい?』
静寂に耐えかね、唯一の話し相手に声を掛けた。
正直なところ、僕はこの男が苦手……いや嫌いだった。
まるで人を小馬鹿にした様な、得体の知れないその態度、無遠慮にズケズケとモノを言う様な煩い声等は僕にたとい明確な根拠が無くとも男が姦計を企てるナニガシかの悪漢であると信じさせるには充分な要素だったのだ。
「僕の、使命とやらの話で……楔の英雄だとか、精霊、だのを喰らえ……だとか、ソンナ話の」
『ああ、言ったね』
だが、自らの使命、その導きである男には、従う他無い。その他の選択肢は存在しない。
──違和感。一体何だコレは!
この不自然な、不条理な価値観は!
コンナ野郎に只従えだと?そんな、ソンナ馬鹿な話があるか!
「なぁ、アンタ……アンタ、一体……」
声が震える。咽喉を抑えこむ。
無理矢理に激情に火を付ける。
そうしなければ、全て有耶無耶になっていく様に思えたから──
「アンタ……僕にナニをした!」
『…………ナニをした、だァ?ナニってそりゃドレの事言ってやがる?』
「とぼけるな……【使命】ってのは何だ?ココは何処だ、僕は何でココに居る! 何で僕は……僕は、」
そこ迄一気に捲し立て、急ブレーキを掛ける様に言い淀んだ。ソレほどまでに奇妙な言い回しだった。
「僕は、何故お前に従う事に何の違和感も感じていない?……」
考えが纏まらない。アタマが割れんばかりにガンガンと唸りを上げている。
おかしい、マッタク、可笑しい。一体ナニが?
全てだ。電話の向こうの気狂いも、この状況も、自分自身すら!
「いいから応えてくれ!」
少し間を置きヤツは──
『……マ、教えてやろう』
と半音上げて言った。
『使命ってのはな、君のアタマに私が植え付けてやった、君にとっての絶対の行動法則だよ』
「絶対の……行動法則?」
『そう、絶対の行動法則。君はどう足掻いてもその法則……使命から外れた事は出来ない。私に逆らうこともできないし、そのちっぽけな反抗心すら抑制される』
「なんで……ソンナ事を……」
口には出したものの、アタマの大部分を占めているのはその疑問では無かった。
重ねて言うが、今も自身に大したことが出来るとは到底思えない。
しかし、先程のおのれから出した光と怪力を目の当たりにした以上は自身にはナニカが有るのだ──自身の忘れてしまった、或いは知る由も無かったナニカが。
そして、コイツはソレを目的にこの僕をひっ捕まえて、そのアタマに隠した姦計の片棒を担がせようと躍起になっているらしい。
ソコまで思考が行き着いて、脳液の全てが沸騰したかの様に感情が溢れ出た。
「アンタ、教えてくれよ……全部知ってるんだろ?!何で、何で……」
ノイズの様な含み笑いが走った。
『イヤ失敬。分かりやすく錯乱してくれるね君は』
「……アンタ、僕が、どれだけ」
『あぁ、うん。分かった分かった。一旦待ちなって』
『先ず君は上に行かなければならない。転送装置の都合上、本来の目的地よりだいぶ下に転送せざるを得なかった』
「……ソレは、なんで」
『言ったろ、異世界みたいなもんだって。次元を超えるのは大変でね……様々な世界が重なって、境界線が一番希薄になってるソコにしか君を転送出来そうになかった』
そう男は多少不満気な雰囲気を漂わせる。
『……マァ、そんでさ、話戻すと、本来の目的地……【ルシフェラス】……ココの遥か上に在る聖域を目指してもらう。全てはソコに着いてからさ』
「……僕は、なんでソンナ事をって聴いたんですよ」
『今ここで話したって君にはきっと理解し難い。大丈夫さ、心配せずともあとチョットすれば……イヤでも理解するハメになる』
「…………」
とても納得は出来なかったが、かと言って僕にはこれ以上どうしようも無い。
『ああ…………あとさぁ』
「……なんです?」
話をする内に自然と止まっていた足を動かそうとして、また止めた。
『その……【上司】っていう呼び名?は辞めないか?』
思わず顔に皺がよる。
今ソンナ事が重要だろうか?
「何故?」
『イヤ……上司の事上司って呼ばないでしょ。確かにそのようなモンとは』
「アンタの事なんにも知らないンだからそう呼ぶしか無かったんだよ!」
『だとしても上司を呼び名にはせんでしょ……』
──存外細い事を気にする奴だ。口調や雰囲気から、自然と大雑把な気質だと思っていたが……いや、それとこれとは話が違うのか……?──
記憶を無くしているからか、僕にはイマイチ何処がおかしいのか分からなかった。只【上司】しか電話の男の素性を表す言葉が無かったので、この様に呼んだだけだった
「分かった、どう呼べば?」
『……ウーム……じゃ、エヌ博士で』
「……何の博士なんだ?」
『………………さあ……知らね。そういう事で、先ずは、その通路から外出れたらまた報告お願いね。じゃあ仕事があるので』
「チョット!待て」
ツ───ツ───
一気に捲し立てられ、一方的に通話を切られる。本当に何かの博士なのか怪しい所だ──ああ、ソレはソレとして、
「アンナのでも居た方がマシだな……」
いっそ全て冗談であって欲しかった。
牢を出てこの狭い通路を暫く進んできたが、終わりはトンと見えず、寧ろ進むにつれ重苦しい湿り気が増してきている気すらする。眼前を照らそうとも、光条は道半ばで力を失い、その先の闇は絶えない。明らかに異常な長さだった。
手汗を袖で拭い、ライトを持ち直し、心の底から滲む不安を押し殺して、歩みを進める。またコツ、コツと音が鳴り響き始めた。
……そうしてまた、暫く進んだ頃。
眼の端にある牢が止まった。その異様さに、思わず足を止める。
「…………」
その牢は既に原型を留めてはいなかった。先刻僕がそうした様に、あの頑丈な鉄扉、鉄格子も、悉くが捻じ曲がって断裂していた。
はや真っ直ぐ進んで来た積もりが巡り巡って帰って来たか、などと考えるも、どうも破壊の具合が違う。
此方の方はもしや象が押し入ったのかと思わせる様相を呈しており、鉄格子は彼方コチラに折れ曲がって、鉄扉の方に至っては上から強引に鉄格子から引き剥がされたのか、紙屑の様に傍に転がっていた。
少しの緊張を覚えながら、牢の闇をライトで暴く。
思わず吐息が口端から漏れ出た。
ソレは死体だった。首の無い、首無し死体だった。奥の石壁にもたれ掛かって死んでいた。汚穢藍色に全身を染め、だが手脚など末端は青白く、酷く浮腫んだ様なソレは、彼に水死体を想起させた。
「……うっ」
微かに磯の匂いが混ざった強い刺激臭に、咽喉から込み上げてきた汚物をぶちまけた。胃酸が喉を熱く焼く。まさしく酷い悪臭だ。
「……はぁ…………?」
暫くえずいて収まった頃に、床に打ち棄てられた黒い長方形の物体に気づいた。悪臭に鼻を塞ぎながらも歩み寄って手に取ると、ソレは帳面の類いだった。
開いて中身を覗き見た所、なにやら日記であるらしい。革のカバーで保護されているものの、得体の知れぬ水溜まりの浸食からは守りきれなかったらしく、穢れが表の数頁を黒々と染めている。
内容としては次の様なものだった。
星暦十二号 十八日
この日記に日付を付けるのもコレで最後になるかも知れない。
多分、あのイカレた囚人を宿主に精神転移が起きたらしく、此処もアイツの頭ン中とおんなじ様にイカレちまったんだろう。
何処もかしこもアタマがおかしくなるぐらい迷宮みてぇに入り組んだり、延々と、飽き飽きするぐらいに一本道が続いたり、兎に角マトモじゃない。
しかも、何でなのかは分からないが、精神転移が起こる前に一緒だった看守仲間たちの姿が居ない。早く合流しなければ。
飢えて死んじまう前にあのイカレ野郎……アイツは前から気色悪い虫みてぇのを擦り付けてきたりして気に食わなかった……アイツをぶっ殺して一刻も早くこのクソみてぇな悪夢を終わらせてやらなきゃ。
そこまで一息に読み進めて、字を追う眼を止めた。
僕の胸中は莫大な謎とある種の驚愕に満たされていた。
未だ一頁のみだが、星暦十二号、精神転移等々の単語は僕にとって全く馴染みの無いモノであった。コレが記憶喪失に起因するモノなのかは判断が付かないが……然し、ソンナ事は些末な疑問だ。即ち、一番の疑問とは─
──何故僕はこの字を読めている──
この手記は英語で記されていた。しかもタダの英語ではなく、所ドコロに妙な変形が見られ、一般の日本人ならば読むことはかなり困難であろう手記だった。
にもかかわらず、僕……【九十九 恭一郎】は全く詰まる事も無くスラリと、まるでタダの日本語の様に読めてしまっていた。
そう、【九十九 恭一郎】。少し変わっちゃいるが、明らかに日本人の姓名。コンナ文字がそうすらすらと読めるモノだろうか?不可解なことといえばあの鉄格子を破壊した怪力も不可解だ。
──僕は、何者だ──
疑問を抱えて、そのまま、頁を捲る。捲る。捲る。
──幾ら探しても、アイツが、囚人が、【コア】が見つからない──
──体が、おかしい。段々と青褪めてきた。早く、はやく──
──なぜ、飢えない……?もう二週間はたってるのに──
そこまで読み進めたその時だった。腕が途端に重くなった。
見れば、腕に青白い手がペッタリと張り付いていた。
明らかな死人の手が、まるで腕に張り付くように力強く腕を掴んでいたのだ。
ぞわりと背筋を悪寒が昇っていく。手記、その後半の文章が脳裏に電撃の様に駆け巡った。──段々と震えていく文体、身体の原因不明の不調……思わず顔を上げようとしたその瞬間、頁の最後、端の方の走り書きが目に留まる。ソレは……
あのむし くびから
上げた視界が何かを映し出す前に、強い衝撃が体を揺らした。手からライトが滑り落ちてコツンと音を立て、目の前は真ッ暗闇に……