5
ー/ー
「先輩? 生きてますか」
ドアを叩く音がしている。また莉子だった。うちの前であんなに大声を出して恥ずかしくないのかと呆れる。
「せんぱーい? 入場しますよー」
ドアが開く音。俺は仕方なく起き上がって、部屋の様子に目を見張った。見事に強盗でも入ったようなひどい惨状だったが、自分でやったのだと思い出した。
「うるさい帰れ。来るな。おい!」
「もう入ってますよ?」
再び笑顔で登場した、この色気のない女は、部屋を見るなり色をなくした。
「ちょ、何があったんですかこれ」
パソコンは机から落っこち、棚は倒れ、粉砕されたCDの破片が酒瓶やら空き缶やら弁当の空き箱やらと一緒に床に散らばっている。それを引きつった顔で眺め回す莉子。
「もしかして修羅場ってやつがここで演じられたんですか。あー、でもよく考えたら、先輩って痴情のもつれとか複雑な関係とかに全く縁がなさそう。うん」
「喧嘩売ってると理解していいか?」
「半分は誉め言葉です」
「半分は馬鹿にしていると」
「まあそうなります」
「お前もこのCDケースのようになりたくなかったら帰れ」
「一瞬ハードボイルドな映画とかに出てきそうな脅し文句だと思ったんですけど、CDケースじゃ迫力がちょっと……。それから私はMなので、そういうのむしろ歓迎です」
「いちいちうるせえ。俺を笑いに来たのかよ」
「心配で様子見に来たに決まってるじゃないですか。これ差し入れです」
莉子は真面目な顔になって、コンビニの袋を床に置いた。
「先輩、もう電音研やめたつもりなんですか。音楽で有名になるっていう野望は……」
「なれるなら俺だって藤井みたいになりたかった!」
俺は立ち上がって莉子に近づく。こいつを追い出すために。
「だけどもう無理なんだ! 才能がない自分を、自分で励ますなんて馬鹿みたいだ、くだらない」
「先輩の作る音はかっこいいですよ!」
「じゃあお前の耳が狂ってるんだろ。それ持って帰れよ」
「先輩、どうしたんですか。藤井さんが亡くなってから変ですよ」
「もう俺の前であいつの名前を言うな!」
莉子の肩に伸ばした手が、予想外に華奢で軽い体をあっけなくふっ飛ばし、倒してしまう。短い悲鳴。莉子が倒れたところには割れたCDの破片が落ちていて、そこに突いた手から血が流れ出す。
俺は驚いて一歩後ずさった。頭の霧が晴れて急速に冷静さが戻ってくる。決して触れてはいけないものに触れてしまった気がして後悔し、恐怖する。傷口を押さえる莉子の手が紅く染まっていく……。
俺は何も言えず何もできず、ただ呆然と立ち尽くしているばかりだった。
莉子がいなくなった部屋。黒ずんだ血痕だけがさっき起きたことは夢ではないと告げていた。
彼女はもう来ないだろう。俺は心底自分というやつが嫌いになった。
誰とも会わない日々が続いた。部屋は片付けないまま、一日中つけっぱなしのテレビを見るともなく見ていた。
なんとなく人恋しくなってケータイの電源を入れたある日の夜、綾乃さんからケータイに着信があった。初めてのことだった。俺と綾乃さんは藤井を介して繋がっていただけなので、アドレスも番号も形だけ交換はしたが使うことがなかった。俺は少し嬉しくなり、しかし喜んでいる自分を軽蔑し、結局着信を無視した。最近、コンビニの店員以外としゃべったことがなかったから、いきなり電話に出てもうまく話せる自信がなかった。それに何を話せばいいのかも分からない。
その日から着信は何度かあり、全て無視するとメールに変わった。俺はそれも読まずに放置した。しかし向こうも諦めが悪いらしく、しつこく電話やらメールやらが届くのでやっぱり電源をオフにした。
数日は静かだったが、昼ごろ、またもやドアをノックする音が響いた。この世の中は何としてでも俺を一人にはさせてくれないらしい。莉子の血がついたCDの破片は未だに床の上に放置されていた。その黒ずんだ切っ先を見て、しぶしぶ立ち上がりドアのほうに向かった。
「この前は、すまん」
かすれた声で呼びかけながら、ドアロックに手をかける。
が、全く予想外の声が返ってきて、手が固まる。
「コウタ! いるんだったら早く開けなさい」
母親だった。
「な、なんでいるんだよ!?」
「なんでじゃないでしょ。さんざん電話もメールもしたのに返事しないから、死んでるかと思ったじゃない」
綾乃さんのものに混じって、母親からの着信やメールがわんさか来ていたことは知っていたが、見ないようにしていた。
「早く開けなさい!」
開けるわけにはいかない。この部屋の惨状を見られたら、どうなることか。
俺はドア越しに声を荒らげる。
「充電が切れてただけだっての。何も問題ないから帰ってくれ!」
「あんたちゃんと卒業できるんでしょうね? 単位は足りてるの? 卒業研究はやってるの? 就職は? 将来設計してるの? 音楽で食べていくなんて甘くないのよ!」
全て痛いところを突いている。精神にクリティカルヒット。最近の講義は全く出席していないので単位は全滅だろう。研究もさっぱり進んでいない。卒業不可能である。就活もしていない。
「再来年には卒業する」
「再来年? 来年の三月のはずでしょ? あんたの生活費と授業料、誰が払うと思ってるの? もう大人なんだから自立して生活していけるようにならなきゃダメでしょ」
「分かったから! バイトしながら自分で卒業すればいいんだろ! ちゃんと卒業して就活もするから今日は帰ってくれ」
「本当に分かってるの? ちゃんと毎月お父さんに報告しなさいよ? 卒業が延びたぶんは自分で責任取ること。ちゃんと将来設計すること。そうしないと仕送りもやめにするからね」
「分かった分かった!」
しばらく耳を澄ましたが、母親は完全に退場なさったらしい。
俺は今やほとんど使われなくなっていたカバンをあさり、仕送りが振り込まれる預金通帳を見つけ出した。
近所の郵便局にダッシュして記帳すると、あと二ヶ月どうにか生きられるかというカネしか残っていなかった。
ガラクタを隅に押しやり、床にフリーの求人情報誌を並べ、俺は唸っていた。パソコンはデスクから落とした衝撃でディスプレイがいかれ、変な線がチカチカして役立たずになっていた。だからアナログな方法で仕事を探す。割の良さそうな仕事をみつくろって電話をかけ、面接を取り付けたが、真面目に履歴書を作成していて気づいた。
俺は最近原付に乗っていないが、俺の原付は一体どこに行ったのか?
しばらく外に出ない間に盗まれたか、あるいは藤井に貸したまま返してもらっていない可能性が考えられた。前者は最悪だが、後者も気が重い。藤井のうちに忍び込んで勝手に持って帰るわけにはいかないだろう。藤井の両親にどんな顔をして会えばいいのか。しかしバイト探しをするには足があったほうが確実にいい。
急に履歴書を書くエネルギーがなくなっていった。ペンを放り出してケータイをいじる。母親からの未読メールが溜まっているので全部読まずに削除した。綾乃さんからの未読メールは、消すわけにもいかないと思って目を通すことにした。
『何度か電話したのですが、出なかったのでメールですみません。この前、西村君が教えてくれた藤井君の曲ですが、もう一度私に送ってもらえますか。…………』
『元気ですか。卒業研究で忙しいのかな? 連絡ください』
『すみません。しつこいとは分かっていますが、どうしても藤井君が残した曲を聴きたいと思ってメールしています。もし削除してしまったとか、何かあったのでしたら、教えてください。ダメならダメで諦めます』
『まだまだ寒い日が続きますね。いずれ藤井君のうちに行ってみようと思っているのですが、なかなか踏ん切りがつかない状態です。もしよかったら、西村君も来てくれると心強いと思っています』
『これで最後にします。来週の土曜日、藤井君のうちに行ってみようと思います。藤井君のご家族には、すでに了解を取りました。とはいえ、今もすごく緊張しています。西村君も一緒に来ませんか。私も藤井君のご家族も、音楽や作曲についてほとんど分からないので、西村君がいてくれるといろいろ助かるかもしれないと思うのですが。とにかく、一つの区切りとして私は行ってきます』
俺は返信画面を開く。が、真っ白の画面を前にして、打ち込む言葉が何ひとつ浮かんでこない。しばらく悩んで返信画面を閉じた。
もう何もしたくない。
俺はベッドに寝転んでまぶたを閉じる。
ずっと独りで好きなように音楽をやっていればそれで幸せだった。他には何もしたくなかった。働くことも、大学に行くことも、有名になることも、どうでもよかった。
もう何もしたくない。
「代わりに俺が死ねばよかったのに」
俺はバイトの面接をすっぽかした。履歴書が未完成のままで、着て行く服も洗濯しておらず、足もなかったからだ。そんな理由をいくつ考えても、自分では『何もしたくないから』だと分かっていた。
テレビも見なくなった。本当に何もしないで一日中寝ているだけになった。寝ながら俺は、この先の人生がどうなるか少しだけ考えてみたり、何もしないでごろごろしていることを正当化する理屈を構築したりしていた。
また誰かがドアをノックしてやがる。そろそろ引きこもり初心者から中級者くらいにはなっただろう俺が、うかつに返事をするわけない。ちゃんと鍵もかけてある。何者だか知らないがさっさと諦めて帰りやがれ。
「西村くん、綾乃です。留守ですか?」
俺は跳ね起きてケータイを引っつかんだ。土曜日だった。
藤井が俺と綾乃さんを引き合わせたとき、一度この部屋にも立ち寄ったが、まさか会いに来るとは予想していなかった。
慌ててどうすべきか考える。綾乃さんには電話もメールも全て無視するという悪いことをしてしまった。当然怒っているだろう。軽蔑しているかもしれない。さっさとデータだけ受け取って帰るつもりだろうか。
ふとあの莉子の血の跡のついたCDケースが目に付いた。いつまでも俺はそれを触れずにそこに置いたままだった。
とにかく、ちゃんと謝ろう。
だがこの格好はまずい。このままドアを開けたら警察を呼ばれるレベルだ。
「綾乃さん、ちょっと待ってください!」
俺は手近なところに脱ぎ捨てられていたジーパンに足を通しながら叫んだ。
「一分でいいですから!」
破片を踏んで悲鳴をあげた。血が出た。莉子もきっと痛かったんだと思う。
外で綾乃さんが心配した声をかけてくれた。
一分後、顔を洗って通報されない程度の身支度をしてドアを開けた。
「ああ、西村くん、久しぶり」
大人の女性が香った。綾乃さんは少しぎこちなく微笑んだ。黒いワンピースに身を包んでおり、葬式で会ったときとそれほど変わらない印象に見えた。
「久しぶり、です」
俺もぎこちなく返した。
「何度も電話とメールして、本当にすみません。迷惑とは思ったんですが……どうしても自分の中で区切りをつけたくて……ごめんなさい。今日も突然押しかけて……」
「いえ、こちらこそ本当にすみません。なんというか、精神状態がアレだったというか……」
申し訳なさそうに頭を下げる綾乃さんに、俺も恐縮して頭を下げた。
「私のほうは気にしてないから大丈夫です。私も、やっぱり何か変わってしまったと思います。こういうとき、普通でいられる人なんて、そんなにいないですよね」
「そうかもしれない、ですね」
「私、これから藤井くんのうちに行くことになっていて、それで……西村くんも一緒に行きませんか?」
「俺は……その……」
何か言い訳を考える。
「藤井が望んでないと思うので……」
「藤井くんが?」
少し驚いたみたいだった。
「どうしてですか」
「だってあいつ、ネットじゃちょっとした有名人で、すごい数のファンがいる人気アーティストで、俺みたいな凡人野郎は眼中にないだろうし、むしろ笑ってるかもしれないのに、そんなやつがあいつのうちに行って、あいつが喜ぶことなんて何もないですよ。本当は最初から住んでる世界が違ったんです」
まとまらない言葉を綾乃さんは相槌を打ちながら聞いていた。俺は肝心のことは言わなかった。つまり俺が藤井の曲を盗作しようとした人間だということは明かさなかった。
「藤井くんと私が二人きりのとき、何の話をするか知っていますか」
少しだけ頬を膨らませながら質問してきた。俺はどきっとした。
「二人の共通の話題は……音楽ですか?」
「共通の趣味ではあるけれど、不正解」
「分からない、です」
綾乃さんはやれやれというふうに息をついた。
「一番藤井くんがよくする話は、西村くんのこと」
「俺のこと……?」
この人は何を言っているんだろう? そんな馬鹿なことがあるか、と言い返したくても、綾乃さんの真剣なまなざしが俺に口を開かせない。
「西村くんと何をしたとか、西村くんと何を話したとか、西村くんとのことばっかり。おかげで私は会ったこともない西村くんのことをどんどん詳しくなるし、初めて会ったときも他人とは思えませんでした。『西村くん検定』があったら一級に合格する自信ありますよ」
俺は綾乃さんの冗談を笑う余裕なんてなかった。言っていることの意味が分からない。そんなカップルが現実にいるのだろうか?
「なあ西村。綾乃さんが会いたいって言ってんだけど」
「誰に?」
「お前に」
「なんでだよ。お前の彼女は何考えてんだ?」
「お前ではなく俺のことだと信じたい。いや、俺は信じる。とにかく一度会ってみたいってうるさい」
「はあ」
そんな会話を思い出す。
「藤井くんはむしろ来てくれることを望んでいると思います」
素直な笑顔が俺の胸をえぐる。俺は吐き出さずにはいられなかった。
「でも俺、行く資格なんかないんです。俺、最低なヤツです。あいつが俺を許してくれるとは思えない」
綾乃さんはきょとんとして、それから深刻な顔になる。
「何かあったんですか」
そこまで言ったくせに、盗作したとは口が裂けても言えなかった。俺が答えずにいると綾乃さんが、肩をぽんと叩いた。
「大丈夫ですよ。何があったのか分かりませんけど、藤井くんは、きっと笑って許してくれますよ」
綾乃さんは「待ってますね」と言って立ち去った。俺は足の踏み場もない部屋に戻った。雑然としているのに空っぽで、抜け殻のような部屋だった。何かを踏んで滑って転びそうになった。見ると求人情報誌の表紙で、スーツ姿のお姉さんが晴れやかなスマイルを浮かべていた。
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「いちいちうるせえ。俺を笑いに来たのかよ」
「心配で様子見に来たに決まってるじゃないですか。これ差し入れです」
莉子は真面目な顔になって、コンビニの袋を床に置いた。
「先輩、もう電音研やめたつもりなんですか。音楽で有名になるっていう野望は……」
「なれるなら俺だって藤井みたいになりたかった!」
俺は立ち上がって莉子に近づく。こいつを追い出すために。
「だけどもう無理なんだ! 才能がない自分を、自分で励ますなんて馬鹿みたいだ、くだらない」
「先輩の作る音はかっこいいですよ!」
「じゃあお前の耳が狂ってるんだろ。それ持って帰れよ」
「先輩、どうしたんですか。藤井さんが亡くなってから変ですよ」
「もう俺の前であいつの名前を言うな!」
莉子の肩に伸ばした手が、予想外に華奢で軽い体をあっけなくふっ飛ばし、倒してしまう。短い悲鳴。莉子が倒れたところには割れたCDの破片が落ちていて、そこに突いた手から血が流れ出す。
俺は驚いて一歩後ずさった。頭の霧が晴れて急速に冷静さが戻ってくる。決して触れてはいけないものに触れてしまった気がして後悔し、恐怖する。傷口を押さえる莉子の手が紅く染まっていく……。
俺は何も言えず何もできず、ただ呆然と立ち尽くしているばかりだった。
莉子がいなくなった部屋。黒ずんだ血痕だけがさっき起きたことは夢ではないと告げていた。
彼女はもう来ないだろう。俺は心底自分というやつが嫌いになった。
誰とも会わない日々が続いた。部屋は片付けないまま、一日中つけっぱなしのテレビを見るともなく見ていた。
なんとなく人恋しくなってケータイの電源を入れたある日の夜、綾乃さんからケータイに着信があった。初めてのことだった。俺と綾乃さんは藤井を介して繋がっていただけなので、アドレスも番号も形だけ交換はしたが使うことがなかった。俺は少し嬉しくなり、しかし喜んでいる自分を軽蔑し、結局着信を無視した。最近、コンビニの店員以外としゃべったことがなかったから、いきなり電話に出てもうまく話せる自信がなかった。それに何を話せばいいのかも分からない。
その日から着信は何度かあり、全て無視するとメールに変わった。俺はそれも読まずに放置した。しかし向こうも諦めが悪いらしく、しつこく電話やらメールやらが届くのでやっぱり電源をオフにした。
数日は静かだったが、昼ごろ、またもやドアをノックする音が響いた。この世の中は何としてでも俺を一人にはさせてくれないらしい。莉子の血がついたCDの破片は未だに床の上に放置されていた。その黒ずんだ切っ先を見て、しぶしぶ立ち上がりドアのほうに向かった。
「この前は、すまん」
かすれた声で呼びかけながら、ドアロックに手をかける。
が、全く予想外の声が返ってきて、手が固まる。
「コウタ! いるんだったら早く開けなさい」
母親だった。
「な、なんでいるんだよ!?」
「なんでじゃないでしょ。さんざん電話もメールもしたのに返事しないから、死んでるかと思ったじゃない」
綾乃さんのものに混じって、母親からの着信やメールがわんさか来ていたことは知っていたが、見ないようにしていた。
「早く開けなさい!」
開けるわけにはいかない。この部屋の惨状を見られたら、どうなることか。
俺はドア越しに声を荒らげる。
「充電が切れてただけだっての。何も問題ないから帰ってくれ!」
「あんたちゃんと卒業できるんでしょうね? 単位は足りてるの? 卒業研究はやってるの? 就職は? 将来設計してるの? 音楽で食べていくなんて甘くないのよ!」
全て痛いところを突いている。精神にクリティカルヒット。最近の講義は全く出席していないので単位は全滅だろう。研究もさっぱり進んでいない。卒業不可能である。就活もしていない。
「再来年には卒業する」
「再来年? 来年の三月のはずでしょ? あんたの生活費と授業料、誰が払うと思ってるの? もう大人なんだから自立して生活していけるようにならなきゃダメでしょ」
「分かったから! バイトしながら自分で卒業すればいいんだろ! ちゃんと卒業して就活もするから今日は帰ってくれ」
「本当に分かってるの? ちゃんと毎月お父さんに報告しなさいよ? 卒業が延びたぶんは自分で責任取ること。ちゃんと将来設計すること。そうしないと仕送りもやめにするからね」
「分かった分かった!」
しばらく耳を澄ましたが、母親は完全に退場なさったらしい。
俺は今やほとんど使われなくなっていたカバンをあさり、仕送りが振り込まれる預金通帳を見つけ出した。
近所の郵便局にダッシュして記帳すると、あと二ヶ月どうにか生きられるかというカネしか残っていなかった。
ガラクタを隅に押しやり、床にフリーの求人情報誌を並べ、俺は唸っていた。パソコンはデスクから落とした衝撃でディスプレイがいかれ、変な線がチカチカして役立たずになっていた。だからアナログな方法で仕事を探す。割の良さそうな仕事をみつくろって電話をかけ、面接を取り付けたが、真面目に履歴書を作成していて気づいた。
俺は最近原付に乗っていないが、俺の原付は一体どこに行ったのか?
しばらく外に出ない間に盗まれたか、あるいは藤井に貸したまま返してもらっていない可能性が考えられた。前者は最悪だが、後者も気が重い。藤井のうちに忍び込んで勝手に持って帰るわけにはいかないだろう。藤井の両親にどんな顔をして会えばいいのか。しかしバイト探しをするには足があったほうが確実にいい。
急に履歴書を書くエネルギーがなくなっていった。ペンを放り出してケータイをいじる。母親からの未読メールが溜まっているので全部読まずに削除した。綾乃さんからの未読メールは、消すわけにもいかないと思って目を通すことにした。
『何度か電話したのですが、出なかったのでメールですみません。この前、西村君が教えてくれた藤井君の曲ですが、もう一度私に送ってもらえますか。…………』
『元気ですか。卒業研究で忙しいのかな? 連絡ください』
『すみません。しつこいとは分かっていますが、どうしても藤井君が残した曲を聴きたいと思ってメールしています。もし削除してしまったとか、何かあったのでしたら、教えてください。ダメならダメで諦めます』
『まだまだ寒い日が続きますね。いずれ藤井君のうちに行ってみようと思っているのですが、なかなか踏ん切りがつかない状態です。もしよかったら、西村君も来てくれると心強いと思っています』
『これで最後にします。来週の土曜日、藤井君のうちに行ってみようと思います。藤井君のご家族には、すでに了解を取りました。とはいえ、今もすごく緊張しています。西村君も一緒に来ませんか。私も藤井君のご家族も、音楽や作曲についてほとんど分からないので、西村君がいてくれるといろいろ助かるかもしれないと思うのですが。とにかく、一つの区切りとして私は行ってきます』
俺は返信画面を開く。が、真っ白の画面を前にして、打ち込む言葉が何ひとつ浮かんでこない。しばらく悩んで返信画面を閉じた。
もう何もしたくない。
俺はベッドに寝転んでまぶたを閉じる。
ずっと独りで好きなように音楽をやっていればそれで幸せだった。他には何もしたくなかった。働くことも、大学に行くことも、有名になることも、どうでもよかった。
もう何もしたくない。
「代わりに俺が死ねばよかったのに」
俺はバイトの面接をすっぽかした。履歴書が未完成のままで、着て行く服も洗濯しておらず、足もなかったからだ。そんな理由をいくつ考えても、自分では『何もしたくないから』だと分かっていた。
テレビも見なくなった。本当に何もしないで一日中寝ているだけになった。寝ながら俺は、この先の人生がどうなるか少しだけ考えてみたり、何もしないでごろごろしていることを正当化する理屈を構築したりしていた。
また誰かがドアをノックしてやがる。そろそろ引きこもり初心者から中級者くらいにはなっただろう俺が、うかつに返事をするわけない。ちゃんと鍵もかけてある。何者だか知らないがさっさと諦めて帰りやがれ。
「西村くん、綾乃です。留守ですか?」
俺は跳ね起きてケータイを引っつかんだ。土曜日だった。
藤井が俺と綾乃さんを引き合わせたとき、一度この部屋にも立ち寄ったが、まさか会いに来るとは予想していなかった。
慌ててどうすべきか考える。綾乃さんには電話もメールも全て無視するという悪いことをしてしまった。当然怒っているだろう。軽蔑しているかもしれない。さっさとデータだけ受け取って帰るつもりだろうか。
ふとあの莉子の血の跡のついたCDケースが目に付いた。いつまでも俺はそれを触れずにそこに置いたままだった。
とにかく、ちゃんと謝ろう。
だがこの格好はまずい。このままドアを開けたら警察を呼ばれるレベルだ。
「綾乃さん、ちょっと待ってください!」
俺は手近なところに脱ぎ捨てられていたジーパンに足を通しながら叫んだ。
「一分でいいですから!」
破片を踏んで悲鳴をあげた。血が出た。莉子もきっと痛かったんだと思う。
外で綾乃さんが心配した声をかけてくれた。
一分後、顔を洗って通報されない程度の身支度をしてドアを開けた。
「ああ、西村くん、久しぶり」
大人の女性が香った。綾乃さんは少しぎこちなく微笑んだ。黒いワンピースに身を包んでおり、葬式で会ったときとそれほど変わらない印象に見えた。
「久しぶり、です」
俺もぎこちなく返した。
「何度も電話とメールして、本当にすみません。迷惑とは思ったんですが……どうしても自分の中で区切りをつけたくて……ごめんなさい。今日も突然押しかけて……」
「いえ、こちらこそ本当にすみません。なんというか、精神状態がアレだったというか……」
申し訳なさそうに頭を下げる綾乃さんに、俺も恐縮して頭を下げた。
「私のほうは気にしてないから大丈夫です。私も、やっぱり何か変わってしまったと思います。こういうとき、普通でいられる人なんて、そんなにいないですよね」
「そうかもしれない、ですね」
「私、これから藤井くんのうちに行くことになっていて、それで……西村くんも一緒に行きませんか?」
「俺は……その……」
何か言い訳を考える。
「藤井が望んでないと思うので……」
「藤井くんが?」
少し驚いたみたいだった。
「どうしてですか」
「だってあいつ、ネットじゃちょっとした有名人で、すごい数のファンがいる人気アーティストで、俺みたいな凡人野郎は眼中にないだろうし、むしろ笑ってるかもしれないのに、そんなやつがあいつのうちに行って、あいつが喜ぶことなんて何もないですよ。本当は最初から住んでる世界が違ったんです」
まとまらない言葉を綾乃さんは相槌を打ちながら聞いていた。俺は肝心のことは言わなかった。つまり俺が藤井の曲を盗作しようとした人間だということは明かさなかった。
「藤井くんと私が二人きりのとき、何の話をするか知っていますか」
少しだけ頬を膨らませながら質問してきた。俺はどきっとした。
「二人の共通の話題は……音楽ですか?」
「共通の趣味ではあるけれど、不正解」
「分からない、です」
綾乃さんはやれやれというふうに息をついた。
「一番藤井くんがよくする話は、西村くんのこと」
「俺のこと……?」
この人は何を言っているんだろう? そんな馬鹿なことがあるか、と言い返したくても、綾乃さんの真剣なまなざしが俺に口を開かせない。
「西村くんと何をしたとか、西村くんと何を話したとか、西村くんとのことばっかり。おかげで私は会ったこともない西村くんのことをどんどん詳しくなるし、初めて会ったときも他人とは思えませんでした。『西村くん検定』があったら一級に合格する自信ありますよ」
俺は綾乃さんの冗談を笑う余裕なんてなかった。言っていることの意味が分からない。そんなカップルが現実にいるのだろうか?
「なあ西村。綾乃さんが会いたいって言ってんだけど」
「誰に?」
「お前に」
「なんでだよ。お前の彼女は何考えてんだ?」
「お前ではなく俺のことだと信じたい。いや、俺は信じる。とにかく一度会ってみたいってうるさい」
「はあ」
そんな会話を思い出す。
「藤井くんはむしろ来てくれることを望んでいると思います」
素直な笑顔が俺の胸をえぐる。俺は吐き出さずにはいられなかった。
「でも俺、行く資格なんかないんです。俺、最低なヤツです。あいつが俺を許してくれるとは思えない」
綾乃さんはきょとんとして、それから深刻な顔になる。
「何かあったんですか」
そこまで言ったくせに、盗作したとは口が裂けても言えなかった。俺が答えずにいると綾乃さんが、肩をぽんと叩いた。
「大丈夫ですよ。何があったのか分かりませんけど、藤井くんは、きっと笑って許してくれますよ」
綾乃さんは「待ってますね」と言って立ち去った。俺は足の踏み場もない部屋に戻った。雑然としているのに空っぽで、抜け殻のような部屋だった。何かを踏んで滑って転びそうになった。見ると求人情報誌の表紙で、スーツ姿のお姉さんが晴れやかなスマイルを浮かべていた。