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5 銀座の神起こしその1

ー/ー




高天原(たかまのはら)…は高天原(たかまがはら)そのままの意味として、神様の居場所だろ?」

「そこは引っかかるところではない。そのままの意味で良いのだ」

  
「ふんふん、神留(かむづま)()す…これ、ただ座してるって意味なのか、それとも存在自体の意味なのかがわからん。…どちらもと言うこともあり得るのか?」

「どちらもだ。坐して存在する(あられる)と言う意味で良い」
 
「なるほど。そもそもこの神漏岐命(カムロギノミコト)神漏美命(カムロミノミコト)って神様自体を知らなかった。どう言う神様なんだ?」
 
「二柱とも祀られているのは熊本県にある社だ。
 国生みの父母神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)伊邪那美命(イザナミノミコト)よりも前の神…人類の始祖とも言われて居る。天地開闢(てんちかいびゃく)の神よりも前の御方だ」
「そんな凄い神様に向かって話しかけるのか……想像がつかない…」
「あらましを理解し、呼びかければ応えていただける。呼びかけ方はやりながら教えよう。祝詞の始まりは『どこの誰宛か』だけで深読みせずとも良い」

『そうなのか…お願いします……もう知恵熱が出そう」


 
 現時刻、朝の4:30。俺と颯人は移動中の車内に居る。
なぜか伏見さんが運転してくれて、車で都内移動してるんだけど…何故なんだ?
 そして俺自身は、颯人に依代の修練として『まずは祝詞から』と紙を一枚渡された。

 颯人が毛筆で書いてくれた、全ての基礎である『大祓祝詞(おおはらいのりと)』の全文がそこに記されている。


 
 現代でも6.12月の月末に『お祓い』として過ごした月の罪や穢れを祓うために神に奏上される祝詞(のりと)
半年区切りってこと?と思っていたら、昔の一年が6ヶ月であり、その〆にお祓いを、と唱えられる文言だと言う事がわかった。
 
 日本最古のお祓いの言葉である『大祓祝詞(おおはらいのりと)』は『延喜式(えんぎしき)』と言う神道の教科書に記されている。
 作者不明、全体の文章は大和言葉で構成されて…まるで俳句のような印象を受けた。
 雅な発音だが現代でも割と選んで使われて居る言葉が沢山あるんだな、大和言葉ってのは。
 

 神様に申し伝える言葉だから、宛先が神様なんだが、天地開闢よりも前の神様は古事記が好きな俺でも流石に手付かずだったんだ。そこから辿って学ばないといけないって事だろう。宛先の神様を知らないまま祝詞を口にしても届く気がしない。

 

 全文の意味としては『言葉の意味』がそのまま通用するけど、何か違うものが含まれているような気がしてくる。
 神道には、仏教と違って教祖・教え・救済がない。宗教として分類されてはいるものの…こう、言葉通りじゃない何かがモヤッと感じられるんだ。

 自分自身で何を掴め、学べ、という雰囲気を感じる。…これは結構難しいぞ…。
 

  
「ふ…まずは大和言葉から学ばねばならぬか。あれは現代でも使われている。『有難い』『恐れ入る』『心配り』などが例に挙げられよう。
 祝詞というのはある言霊(ことだま)として発さねば意味がない。しかし、言霊を成すには文章の全てを理解せねばならぬ。意味合いを含めて発するからこそ言葉に魂が宿るのだ」
 
「原理はわかるよ、原理は。そうじゃなくて、何かこう…言葉通りの意味じゃない気がする。もちろん音として伝えるんだから言葉通りの意味が含まれて当然だと思うけど、そうじゃなくて…なんて言ったらいいのか……」



「芦屋さんはそこから入るお人でしたか。普通は何も考えず、言葉を覚えることから始めるのが普通なんですよ。…色々と納得できました」
「ん?そこから?どういう意味?」


 運転しながら伏見さんは僅かに微笑む。昨日キツめの言葉を吐いたにも関わらず、伏見さんは俺達を笑顔で迎えてくれた。今日は都内で任務があるということで移動のために運転を買って出てくれている。

 何となしに彼がいい人なのかな?と思わせるけど…俺的にはまだ心を許せずにはいる。色々あったしな。



「神道は宗教の枠かと言われると若干の疑問視があります。日本人の根本深くに根ざす心のあり方、生き方そのものを染めて『人とはかくありき、生きるとはこうあるべき』という物を教えてくれていながら、結局のところ『自分で学べ。苦労して結論を得ろ。』と促している様だと私は思います。
 神社の参拝も『お願い事』がメインではなく『自身が頑張るのを見守っていてください』とお伝えするのが礼儀です」
 
「なるほど……教義がないっていうのはそういうことか。自分で学べってのは間違い無いんだな」

  
「そうですね、正しい行いをしていれば自ずと答えは出るでしょう。神職達も学んでいくうちにさまざまな知識を与えられはするものの、内容についてや言葉の一つ一つの源の意味、()()()()()()()()()()()()()()()()と言うのを考え至るまでには時間を要します。
 芦屋さんのやり方はそこから入ってるんですよ。本能的に学びを得て、意味を見出してから型にハマりたいのでしょう。」
 

「……よく、わかってますね。俺が面倒臭い理屈っぽい奴だってこと」
 
「悪様に言えばそうかもしれませんが、物事の本質を得るためには必要な事です。
 面倒な情報収集を経て知識を得る事。また理屈を学んで意味を見出す事は、深く理解するには必要不可欠です。それから時々敬語に戻っていますが、私には気楽に話して下さい」
 
「ふむ……伏見は学びを得ているのだな。ひとまずはお前を信じよう」

「……恐縮です」


 
 颯人は微妙な顔してるが、説教をした時よりは穏やかな表情だ。伏見さんはずっと緊張した面持ちだけど、仕事を手伝ってくれるなら文句の言いようがないし、ありがたいのは間違いないし、アドバイスまでくれている。
 
 タメ語でいいって言うなら…いいか。何となくキレてタメ語にしちゃってたから、どうしたもんか迷ってた所だ。
 
 ……あれ、そう言えば颯人の話に普通に返事してる。


 
「伏見さん、颯人の言ってる事がわかるのか?」
「…大和言葉、古語辞典をひっくり返して粗方叩き込みました。流石に会話もできないのでは、サポートになりませんから」
 
「まさかの一夜漬け?すごいな…あっ、その辞典ってどこかに売ってたりする?祝詞は大体大和言葉だと思うし、ネットで調べるのも何だかおかしい気がして……教科書の様なものって無いよね?」

「残念ながらわかりやすい辞典は存じませんね…神道を学ぶ大学に在してましたから、私の家から予備を直接お送りしておきます。古語は翻訳アプリを添付しておきますので」
「あ、ありがとうございます……」



(颯人…何だか急な高待遇に戸惑いを隠せないんだが)
(真幸のキレ具合に恐れをなしたのでは無いか)
(うっ…いや、だってあれは仕方ないだろ?流石に鬼一さんは今後も許せる気がしないんですけど)
(しばらくは難しいだろうな…ただ、いや……何でも無い。)
(なんだよ!?何で言いかけてやめるんだ?気になっちゃうだろ)

 

 コソコソ話していると、颯人が「ふ」っと微笑む。何だか嫌味じゃなくなったな、その笑い方。お惣菜の宴会が功をなしたのだろうか。伏見さんだけじゃなく、颯人もやたら当たりが柔らかくなった。

(そのうちに理解できよう。其方の心にはその力がある)
(何だかよくわからんけど…颯人がそう言うならいいか…。アレ?もしかして褒められた?)


 ニコニコ微笑む颯人の顔を見てると、釣られて笑顔になる。こんな風に人…いや、颯人は神様だけど。普段の暮らしから仕事までずっと一緒に誰かがいるって言うのは初めての事だ。
 ここ最近では、特に一人だったし何となくこそばゆい気がしている。


 
「現着しました。本日の任務は、この地域一帯のお社を回っていただき、『神起こし』をお願いします」

 伏見さんが運転席から振り返り、地図を渡してくる。現在地は…銀座。都会のど真ん中って感じなんだが、地図には無数の丸が書いてある。すごい数だ……。

「銀座一丁目、7.8丁目が中心か…」
「そのあたりは古来の社が多いのだ。神は全てに居るが、天変地異のせいで復興されておらぬ場所もあるだろう」
「なるほど、起こすって事は、寝てるって事?」

 うむ、と頷いた颯人が車のドアを開けて外に出る。後に続いて車から出ると、冬なのに気温が高くてもわっとした空気が伝わってきた。
 ……相変わらず気温がおかしいな。
 
 銀座の街は…戦火で焼けたところもあるはずだが、社が残っているなら戦果を免れた場所が多いのかもしれない。


  
「眠っている、もしくは起きられぬ状態というありさまなのだろう。祝詞を学ぶには良い機会だ。ひとつ、ひとつと巡り、対話を成して行けば良い」
「わかった。伏見さん、送ってくれてありがとう」

「……はい。その、あの…」


 伏見さんにお礼を言ったら、なんとも言えない顔でモニョモニョしてる。…どした?

 

「街中の神起こしは手間がかかり、時間がかかります。芦屋さん程の方には相応しくないお仕事では、と思いましたが…」

「何だそりゃ?仕事に相応しいも何もあるわけないだろ。変なこと気にしないでいいの。さ、時間が惜しい。行こうぜ颯人」
「応」



 伏見さんに苦笑いで返事して、地図を二人で覗き込む。ここからなら…一番近いところから始めて…北側からかな。

「……芦屋さん!」

「ん?」

「帰りはお迎えに参ります。…水分補給、しっかりされてください」
「はいよー!気をつけて帰ってね」


 伏見さんの車を見送って、一連の神社をゴーグルマップに登録していく。

「途中に記された以外にも社がある。神たちは各々繋がっているだろうから、神起こしが終わった神から次の社へ案内(あない)を頼もう。人が知らぬ社も()るのだ」
「あ、そうか…じゃあしっかり神様とお話しして取り残さないように行こう。…ちょっと楽しみだな」
「そうか」


 颯人の笑顔を受けて、地図をしまい込んでスマホ片手に歩き出す。
俺はワクワクしながら銀座の街中を歩き始めた。

━━━━━━


「あっちぃー」
「これ、そのようにだらしなく歩くものではない」
「すみません…」
「神の目はどこにでもある。人の目よりも多いのだ。背筋を伸ばせ」
「はいっ」


 しばらく街中を歩き、暑さにへばって『でろーん』としてたら背中とお尻をペシッとやられた。
 そうだった…颯人が来た日から『其方は所作振る舞いがなっておらぬ。これも修行のうちに入れるとしよう』って言われたんだ。

 
 俺は多分、生まれてこの方そう言った教育に触れてはいない。背筋もヘニョっとなりがちで、スマホをダラダラ見る癖があったからスマホ首っぽくなってるし、普段から姿勢が悪いとは自覚してる。

  
 箸の持ち方から指摘され、歩き方ももちろんだけど常に言われるのは姿勢の悪さがダントツだ。
 何をしていてもついてくるのは姿勢だから、筋肉が育ってない俺はすぐへにょっとなってしまう。
普段使わない筋肉を使い始めて、習慣だったスマホを見ながら寝落ちすることはなくなりそうだ。布団に入ると秒で寝てるからなぁ。

 でも、うん。こう言うのって……なんだかすごく楽しい。
だってさ、颯人が指摘してくれるのは俺の為だ。俺が仕事をきちんとした形でやりたい、強くなりたいと言う願いのためにそうしてくれている。

 

「まずはこの稲荷からだな。」
「こ、こんなところに神社があるのか!?」


 ビルとビルの間、奥には民家が立ち並ぶ都会の狭い路地裏。建物の壁に鳥居、社、お賽銭箱が設置されている。

 地図がなければ通り過ぎてしまいそうな小さいそれは、間違いなく神社だ。近づいてみれば、とても綺麗に掃除されていた。


「凄い…人の生活の中に神社があるのか。誰が掃除してるんだ?神主さんがいるんだろうか?」
「これはほとんどがこの地に由来する神達だ。神主がいる神社もあれば、土地に住まう人々が管理をしているものもある」

「そうか…大切にされてるんだな。じゃあここいらの人のためにも、真剣にやらないと。
 伏見さんは変なこと言うよな…すごく大切な仕事じゃないのかこれ」


「……そうだな」


 颯人が目を細め、ただただ微笑みを浮かべる。間違ってなさそうだし、気合い入れて神様を起こして回ろう!よっしゃー!
 

「まずは参拝からだ。祝詞の奏上を間違えればやり直す。今日は長くなるぞ」
「はいっ!」


 颯人に元気な返事を返し、俺は小さな神社を拝した。

 ━━━━━━

『ふあぁー。ニンゲンに起こされるなんて何年振りのことやら…おはよう』
「おはようございます…」
『どうした、ニンゲン…疲れている様だが』
「ごめんなさい…正直疲れてます」
『ふむ…依代は大丈夫か?ウチを起こしたなら裏の奴も起こして欲しいんだが』


 現時刻13:30。現在ノルマの三分の一程度しか消化できてない。大祓祝詞は全然形になってないから、ひふみ祝詞をメインにして、やり直しが少なくなって来たところ。
 歩き回って足が棒の様になり、全身に隠せない疲労が滲んでいる。
こんなに歩き回ったのは本当に久々の事だ。

「ふむ、そろそろ昼を取るか。次々に引っ張られて社を巡ってしまったからな。腹が減った」
「そういえばお昼ご飯食べてなかったな…忘れてた」


 
 目の前の小さな社で、茶色い耳ともこもこのしっぽを生やした稲荷神がぽん、と手を打つ。


『腹が減っては戦はできぬ。ウチのおすすめはそこの蕎麦屋よ。歴史が古く、丁寧な仕事をする小さな蕎麦屋だ。食してくるがいい』
「えっ、待っててくれるのか?」
『うむ、今日は暑いからな。ちゃーんと飯を食い、水を飲むのだぞ』


「あ、ありがとう!颯人、お昼お蕎麦でいいか?自覚したら腹減りすぎて若干眩暈が……」
「うむ。我も腹が減ったな。冷たい蕎麦を食して一休みと行こう」
「わー!やった!稲荷神、すまないけどちょっと待っててくれよな」
「あぁ、ゆっくりしておいで」

 颯人からお昼の許可が出たっ!ヘロヘロになりつつも、稲荷神の勧めてくれた小さな老舗のお蕎麦屋さんにお邪魔して、お店の端っこの席に着く。

 

「いらっしゃい、暑かったでしょう。麦茶、沢山飲みなさいね」
「あぁー!ありがとうございます!いただきます」
「暑い盛りには有難いな。」

「えぇ、ええ。お仕事お疲れ様です。じゃあ冷たいお蕎麦を二つね?」
「お願いします」



 ニコニコしたおばあちゃんは割烹着と着物姿で、ピッチャーごと麦茶を置いてってくれる。キンキンに冷えた麦茶を一気に煽って、プハァー!っと息を吐いた。

 この前役所の裏で飲んだビールよりも美味しい。颯人もすぐに飲み干し、おかわりを注いでくれる。


「ありがとう、颯人」
「うむ…真幸、今朝から笑顔があふれんばかりだが、どうした?機嫌が良いのか」
「えっ!?そ、そうか?……完全に無意識だったな…」


 麦茶のグラスを傾けながら、颯人が扇風機の風を受けて目を細める。着物を着てるのに平気そうな顔してるが暑くないのかな。

 

「着物は風を通すのだ。この様に汗をかいた後、扇風機の風を受ければ心地良い」
「あっ、そうか…スーツと違って密閉性がないもんな。…って俺の考えてる事筒抜けなの?」
「依代の心の声はいつでも聞こうと思えば聞けるし、真幸の中を自由に覗ける。」

「えー、そうなのか?ちょっと恥ずかしいんだが」
「恥ずかしがることなどなかろう。我とそなたは運命共同体なのだから」
「なんだか大仰な言い方ですね」
「ふっ」


 
 二人して思わず笑ってしまい、穏やかな店内の空気に視線を漂わせる。
 テーブルは年月の流れを受け止め角が丸くなり、椅子もちょっとだけギシギシしてる。
 稲荷神が言った通り、長く続いて来たお店の様だ。

 部屋の隅々まで綺麗に掃除されて、座布団はふかふか。お茶のグラスもピカピカしてる。
 卓上にある山椒や醤油達の調味料も綺麗に掃除されていて…本当に丁寧な仕事を重ねて来たお店なのだと察せられた。


 
「あー、いい匂いだなぁ。お蕎麦屋さんって、落ち着くよな…」
「蕎麦が好きか」
「好きだけど、そうじゃなくてさ。人がご飯作ってくれるって場所が好きだ。特に、ここみたいに一生懸命にしてくれてるお店だとなんだか嬉しい気分になる。
 お仕事だ、って言うけどさ。その中身を真摯にやり遂げるのはその人の心持ちだろ?」
「そうだな」


「そう言うのが見えると、なんだか自分が大切にされてるみたいで嬉しいよ。
 きっとお蕎麦も美味しいだろう」
「うむ。我らの仕事も同じ事だ。心を尽くして当たれば、自ずと結果は出よう」


 颯人の言葉に、素直な気持ちで頷ける。まだ半分も行っていないけど…俺の未熟な祝詞を成功するまで待ってくれた神様達はみんなみんな優しかった。

 神社を掃除していたら近所の人がお菓子をくれたり、飲み物をくれたり、手伝ってくれたり……。
都会に根ざして生活している人たちも優しい人たちばかりだった。

 

 テーブルに頬杖をついて、腰の曲がった店主のお爺さんの動きをじーっと見つめる。
 お爺さんは、背が高い。昔の作りのままのキッチンで、ああやって背中を丸めて仕事をして来たから腰が固定されてしまったんだろう。
 歩きづらいだろうし、ご本人も大変なことが多いだろうけどさ…楽しそうにお蕎麦を茹でている。
きっと…毎日毎日お店の掃除をして、お蕎麦を打って、茹でて、たくさんの人にご飯を作ってるんだ。寒い日も、暑い日も、疲れた日も、ずっと。
 

 目を閉じて、自分の瞼にジワリと涙が滲んだ。

 俺は今まで、何を見て来たんだろう。世界でひとりぼっちな気分になって、やさぐれて、何もかも手放して来てしまった。裏公務員になってまだ三日目なのに。俺はたくさんの優しさや、切なさや、悲しさ、そして喜びも感じている。
 幸せって、こんなに目の前に溢れている物なんだなと気付いた。

 
 幸せは、幸せと感じなければ気づかない物なんだ。当たり前のことかもしれないけど、自分の行いを正しくしようと足掻いただけでこんなに世界が変わるとは思わなかった。

 俺と同じくお爺ちゃんを見つめて、優しく微笑む颯人が目の前にいる。
 
 そうか、颯人が笑ってるから俺も笑っちゃうんだ。すごいな、誰かのそばにいるだけでこんな風に影響があるって……。


 
「どうした?我をその様に見て。見惚れたか」
「そうかもしれん。俺は本当に人生が変わりそうだよ。びっくりするほどものすごいスピードで」
 
「……ふ、せいぜい振り落とされぬ様に足掻くといい。」

「颯人は待っててくれるだろ?バディだもんな?」
「仕方ないな、ばでぃがそう望むのなら応えてしんぜよう」


 二人で麦茶を傾けて、笑い合う。機敏な動作で湯切りしているお爺ちゃんと、付け合わせを丁寧に盛り付けるおばあちゃんをじっと眺めた。


 


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「あらましを理解し、呼びかければ応えていただける。呼びかけ方はやりながら教えよう。祝詞の始まりは『どこの誰宛か』だけで深読みせずとも良い」
『そうなのか…お願いします……もう知恵熱が出そう」
 現時刻、朝の4:30。俺と颯人は移動中の車内に居る。
なぜか伏見さんが運転してくれて、車で都内移動してるんだけど…何故なんだ?
 そして俺自身は、颯人に依代の修練として『まずは祝詞から』と紙を一枚渡された。
 颯人が毛筆で書いてくれた、全ての基礎である『|大祓祝詞《おおはらいのりと》』の全文がそこに記されている。
 現代でも6.12月の月末に『お祓い』として過ごした月の罪や穢れを祓うために神に奏上される|祝詞《のりと》。
半年区切りってこと?と思っていたら、昔の一年が6ヶ月であり、その〆にお祓いを、と唱えられる文言だと言う事がわかった。
 日本最古のお祓いの言葉である『|大祓祝詞《おおはらいのりと》』は『|延喜式《えんぎしき》』と言う神道の教科書に記されている。
 作者不明、全体の文章は大和言葉で構成されて…まるで俳句のような印象を受けた。
 雅な発音だが現代でも割と選んで使われて居る言葉が沢山あるんだな、大和言葉ってのは。
 神様に申し伝える言葉だから、宛先が神様なんだが、天地開闢よりも前の神様は古事記が好きな俺でも流石に手付かずだったんだ。そこから辿って学ばないといけないって事だろう。宛先の神様を知らないまま祝詞を口にしても届く気がしない。
 全文の意味としては『言葉の意味』がそのまま通用するけど、何か違うものが含まれているような気がしてくる。
 神道には、仏教と違って教祖・教え・救済がない。宗教として分類されてはいるものの…こう、言葉通りじゃない何かがモヤッと感じられるんだ。
 自分自身で何を掴め、学べ、という雰囲気を感じる。…これは結構難しいぞ…。
「ふ…まずは大和言葉から学ばねばならぬか。あれは現代でも使われている。『有難い』『恐れ入る』『心配り』などが例に挙げられよう。
 祝詞というのはある|言霊《ことだま》として発さねば意味がない。しかし、言霊を成すには文章の全てを理解せねばならぬ。意味合いを含めて発するからこそ言葉に魂が宿るのだ」
「原理はわかるよ、原理は。そうじゃなくて、何かこう…言葉通りの意味じゃない気がする。もちろん音として伝えるんだから言葉通りの意味が含まれて当然だと思うけど、そうじゃなくて…なんて言ったらいいのか……」
「芦屋さんはそこから入るお人でしたか。普通は何も考えず、言葉を覚えることから始めるのが普通なんですよ。…色々と納得できました」
「ん?そこから?どういう意味?」
 運転しながら伏見さんは僅かに微笑む。昨日キツめの言葉を吐いたにも関わらず、伏見さんは俺達を笑顔で迎えてくれた。今日は都内で任務があるということで移動のために運転を買って出てくれている。
 何となしに彼がいい人なのかな?と思わせるけど…俺的にはまだ心を許せずにはいる。色々あったしな。
「神道は宗教の枠かと言われると若干の疑問視があります。日本人の根本深くに根ざす心のあり方、生き方そのものを染めて『人とはかくありき、生きるとはこうあるべき』という物を教えてくれていながら、結局のところ『自分で学べ。苦労して結論を得ろ。』と促している様だと私は思います。
 神社の参拝も『お願い事』がメインではなく『自身が頑張るのを見守っていてください』とお伝えするのが礼儀です」
「なるほど……教義がないっていうのはそういうことか。自分で学べってのは間違い無いんだな」
「そうですね、正しい行いをしていれば自ずと答えは出るでしょう。神職達も学んでいくうちにさまざまな知識を与えられはするものの、内容についてや言葉の一つ一つの源の意味、|最《・》|終《・》|的《・》|に《・》|何《・》|を《・》|言《・》|わ《・》|ん《・》|と《・》|し《・》|て《・》|い《・》|る《・》|の《・》|か《・》と言うのを考え至るまでには時間を要します。
 芦屋さんのやり方はそこから入ってるんですよ。本能的に学びを得て、意味を見出してから型にハマりたいのでしょう。」
「……よく、わかってますね。俺が面倒臭い理屈っぽい奴だってこと」
「悪様に言えばそうかもしれませんが、物事の本質を得るためには必要な事です。
 面倒な情報収集を経て知識を得る事。また理屈を学んで意味を見出す事は、深く理解するには必要不可欠です。それから時々敬語に戻っていますが、私には気楽に話して下さい」
「ふむ……伏見は学びを得ているのだな。ひとまずはお前を信じよう」
「……恐縮です」
 颯人は微妙な顔してるが、説教をした時よりは穏やかな表情だ。伏見さんはずっと緊張した面持ちだけど、仕事を手伝ってくれるなら文句の言いようがないし、ありがたいのは間違いないし、アドバイスまでくれている。
 タメ語でいいって言うなら…いいか。何となくキレてタメ語にしちゃってたから、どうしたもんか迷ってた所だ。
 ……あれ、そう言えば颯人の話に普通に返事してる。
「伏見さん、颯人の言ってる事がわかるのか?」
「…大和言葉、古語辞典をひっくり返して粗方叩き込みました。流石に会話もできないのでは、サポートになりませんから」
「まさかの一夜漬け?すごいな…あっ、その辞典ってどこかに売ってたりする?祝詞は大体大和言葉だと思うし、ネットで調べるのも何だかおかしい気がして……教科書の様なものって無いよね?」
「残念ながらわかりやすい辞典は存じませんね…神道を学ぶ大学に在してましたから、私の家から予備を直接お送りしておきます。古語は翻訳アプリを添付しておきますので」
「あ、ありがとうございます……」
(颯人…何だか急な高待遇に戸惑いを隠せないんだが)
(真幸のキレ具合に恐れをなしたのでは無いか)
(うっ…いや、だってあれは仕方ないだろ?流石に鬼一さんは今後も許せる気がしないんですけど)
(しばらくは難しいだろうな…ただ、いや……何でも無い。)
(なんだよ!?何で言いかけてやめるんだ?気になっちゃうだろ)
 コソコソ話していると、颯人が「ふ」っと微笑む。何だか嫌味じゃなくなったな、その笑い方。お惣菜の宴会が功をなしたのだろうか。伏見さんだけじゃなく、颯人もやたら当たりが柔らかくなった。
(そのうちに理解できよう。其方の心にはその力がある)
(何だかよくわからんけど…颯人がそう言うならいいか…。アレ?もしかして褒められた?)
 ニコニコ微笑む颯人の顔を見てると、釣られて笑顔になる。こんな風に人…いや、颯人は神様だけど。普段の暮らしから仕事までずっと一緒に誰かがいるって言うのは初めての事だ。
 ここ最近では、特に一人だったし何となくこそばゆい気がしている。
「現着しました。本日の任務は、この地域一帯のお社を回っていただき、『神起こし』をお願いします」
 伏見さんが運転席から振り返り、地図を渡してくる。現在地は…銀座。都会のど真ん中って感じなんだが、地図には無数の丸が書いてある。すごい数だ……。
「銀座一丁目、7.8丁目が中心か…」
「そのあたりは古来の社が多いのだ。神は全てに居るが、天変地異のせいで復興されておらぬ場所もあるだろう」
「なるほど、起こすって事は、寝てるって事?」
 うむ、と頷いた颯人が車のドアを開けて外に出る。後に続いて車から出ると、冬なのに気温が高くてもわっとした空気が伝わってきた。
 ……相変わらず気温がおかしいな。
 銀座の街は…戦火で焼けたところもあるはずだが、社が残っているなら戦果を免れた場所が多いのかもしれない。
「眠っている、もしくは起きられぬ状態というありさまなのだろう。祝詞を学ぶには良い機会だ。ひとつ、ひとつと巡り、対話を成して行けば良い」
「わかった。伏見さん、送ってくれてありがとう」
「……はい。その、あの…」
 伏見さんにお礼を言ったら、なんとも言えない顔でモニョモニョしてる。…どした?
「街中の神起こしは手間がかかり、時間がかかります。芦屋さん程の方には相応しくないお仕事では、と思いましたが…」
「何だそりゃ?仕事に相応しいも何もあるわけないだろ。変なこと気にしないでいいの。さ、時間が惜しい。行こうぜ颯人」
「応」
 伏見さんに苦笑いで返事して、地図を二人で覗き込む。ここからなら…一番近いところから始めて…北側からかな。
「……芦屋さん!」
「ん?」
「帰りはお迎えに参ります。…水分補給、しっかりされてください」
「はいよー!気をつけて帰ってね」
 伏見さんの車を見送って、一連の神社をゴーグルマップに登録していく。
「途中に記された以外にも社がある。神たちは各々繋がっているだろうから、神起こしが終わった神から次の社へ|案内《あない》を頼もう。人が知らぬ社も|存《あ》るのだ」
「あ、そうか…じゃあしっかり神様とお話しして取り残さないように行こう。…ちょっと楽しみだな」
「そうか」
 颯人の笑顔を受けて、地図をしまい込んでスマホ片手に歩き出す。
俺はワクワクしながら銀座の街中を歩き始めた。
━━━━━━
「あっちぃー」
「これ、そのようにだらしなく歩くものではない」
「すみません…」
「神の目はどこにでもある。人の目よりも多いのだ。背筋を伸ばせ」
「はいっ」
 しばらく街中を歩き、暑さにへばって『でろーん』としてたら背中とお尻をペシッとやられた。
 そうだった…颯人が来た日から『其方は所作振る舞いがなっておらぬ。これも修行のうちに入れるとしよう』って言われたんだ。
 俺は多分、生まれてこの方そう言った教育に触れてはいない。背筋もヘニョっとなりがちで、スマホをダラダラ見る癖があったからスマホ首っぽくなってるし、普段から姿勢が悪いとは自覚してる。
 箸の持ち方から指摘され、歩き方ももちろんだけど常に言われるのは姿勢の悪さがダントツだ。
 何をしていてもついてくるのは姿勢だから、筋肉が育ってない俺はすぐへにょっとなってしまう。
普段使わない筋肉を使い始めて、習慣だったスマホを見ながら寝落ちすることはなくなりそうだ。布団に入ると秒で寝てるからなぁ。
 でも、うん。こう言うのって……なんだかすごく楽しい。
だってさ、颯人が指摘してくれるのは俺の為だ。俺が仕事をきちんとした形でやりたい、強くなりたいと言う願いのためにそうしてくれている。
「まずはこの稲荷からだな。」
「こ、こんなところに神社があるのか!?」
 ビルとビルの間、奥には民家が立ち並ぶ都会の狭い路地裏。建物の壁に鳥居、社、お賽銭箱が設置されている。
 地図がなければ通り過ぎてしまいそうな小さいそれは、間違いなく神社だ。近づいてみれば、とても綺麗に掃除されていた。
「凄い…人の生活の中に神社があるのか。誰が掃除してるんだ?神主さんがいるんだろうか?」
「これはほとんどがこの地に由来する神達だ。神主がいる神社もあれば、土地に住まう人々が管理をしているものもある」
「そうか…大切にされてるんだな。じゃあここいらの人のためにも、真剣にやらないと。
 伏見さんは変なこと言うよな…すごく大切な仕事じゃないのかこれ」
「……そうだな」
 颯人が目を細め、ただただ微笑みを浮かべる。間違ってなさそうだし、気合い入れて神様を起こして回ろう!よっしゃー!
「まずは参拝からだ。祝詞の奏上を間違えればやり直す。今日は長くなるぞ」
「はいっ!」
 颯人に元気な返事を返し、俺は小さな神社を拝した。
 ━━━━━━
『ふあぁー。ニンゲンに起こされるなんて何年振りのことやら…おはよう』
「おはようございます…」
『どうした、ニンゲン…疲れている様だが』
「ごめんなさい…正直疲れてます」
『ふむ…依代は大丈夫か?ウチを起こしたなら裏の奴も起こして欲しいんだが』
 現時刻13:30。現在ノルマの三分の一程度しか消化できてない。大祓祝詞は全然形になってないから、ひふみ祝詞をメインにして、やり直しが少なくなって来たところ。
 歩き回って足が棒の様になり、全身に隠せない疲労が滲んでいる。
こんなに歩き回ったのは本当に久々の事だ。
「ふむ、そろそろ昼を取るか。次々に引っ張られて社を巡ってしまったからな。腹が減った」
「そういえばお昼ご飯食べてなかったな…忘れてた」
 目の前の小さな社で、茶色い耳ともこもこのしっぽを生やした稲荷神がぽん、と手を打つ。
『腹が減っては戦はできぬ。ウチのおすすめはそこの蕎麦屋よ。歴史が古く、丁寧な仕事をする小さな蕎麦屋だ。食してくるがいい』
「えっ、待っててくれるのか?」
『うむ、今日は暑いからな。ちゃーんと飯を食い、水を飲むのだぞ』
「あ、ありがとう!颯人、お昼お蕎麦でいいか?自覚したら腹減りすぎて若干眩暈が……」
「うむ。我も腹が減ったな。冷たい蕎麦を食して一休みと行こう」
「わー!やった!稲荷神、すまないけどちょっと待っててくれよな」
「あぁ、ゆっくりしておいで」
 颯人からお昼の許可が出たっ!ヘロヘロになりつつも、稲荷神の勧めてくれた小さな老舗のお蕎麦屋さんにお邪魔して、お店の端っこの席に着く。
「いらっしゃい、暑かったでしょう。麦茶、沢山飲みなさいね」
「あぁー!ありがとうございます!いただきます」
「暑い盛りには有難いな。」
「えぇ、ええ。お仕事お疲れ様です。じゃあ冷たいお蕎麦を二つね?」
「お願いします」
 ニコニコしたおばあちゃんは割烹着と着物姿で、ピッチャーごと麦茶を置いてってくれる。キンキンに冷えた麦茶を一気に煽って、プハァー!っと息を吐いた。
 この前役所の裏で飲んだビールよりも美味しい。颯人もすぐに飲み干し、おかわりを注いでくれる。
「ありがとう、颯人」
「うむ…真幸、今朝から笑顔があふれんばかりだが、どうした?機嫌が良いのか」
「えっ!?そ、そうか?……完全に無意識だったな…」
 麦茶のグラスを傾けながら、颯人が扇風機の風を受けて目を細める。着物を着てるのに平気そうな顔してるが暑くないのかな。
「着物は風を通すのだ。この様に汗をかいた後、扇風機の風を受ければ心地良い」
「あっ、そうか…スーツと違って密閉性がないもんな。…って俺の考えてる事筒抜けなの?」
「依代の心の声はいつでも聞こうと思えば聞けるし、真幸の中を自由に覗ける。」
「えー、そうなのか?ちょっと恥ずかしいんだが」
「恥ずかしがることなどなかろう。我とそなたは運命共同体なのだから」
「なんだか大仰な言い方ですね」
「ふっ」
 二人して思わず笑ってしまい、穏やかな店内の空気に視線を漂わせる。
 テーブルは年月の流れを受け止め角が丸くなり、椅子もちょっとだけギシギシしてる。
 稲荷神が言った通り、長く続いて来たお店の様だ。
 部屋の隅々まで綺麗に掃除されて、座布団はふかふか。お茶のグラスもピカピカしてる。
 卓上にある山椒や醤油達の調味料も綺麗に掃除されていて…本当に丁寧な仕事を重ねて来たお店なのだと察せられた。
「あー、いい匂いだなぁ。お蕎麦屋さんって、落ち着くよな…」
「蕎麦が好きか」
「好きだけど、そうじゃなくてさ。人がご飯作ってくれるって場所が好きだ。特に、ここみたいに一生懸命にしてくれてるお店だとなんだか嬉しい気分になる。
 お仕事だ、って言うけどさ。その中身を真摯にやり遂げるのはその人の心持ちだろ?」
「そうだな」
「そう言うのが見えると、なんだか自分が大切にされてるみたいで嬉しいよ。
 きっとお蕎麦も美味しいだろう」
「うむ。我らの仕事も同じ事だ。心を尽くして当たれば、自ずと結果は出よう」
 颯人の言葉に、素直な気持ちで頷ける。まだ半分も行っていないけど…俺の未熟な祝詞を成功するまで待ってくれた神様達はみんなみんな優しかった。
 神社を掃除していたら近所の人がお菓子をくれたり、飲み物をくれたり、手伝ってくれたり……。
都会に根ざして生活している人たちも優しい人たちばかりだった。
 テーブルに頬杖をついて、腰の曲がった店主のお爺さんの動きをじーっと見つめる。
 お爺さんは、背が高い。昔の作りのままのキッチンで、ああやって背中を丸めて仕事をして来たから腰が固定されてしまったんだろう。
 歩きづらいだろうし、ご本人も大変なことが多いだろうけどさ…楽しそうにお蕎麦を茹でている。
きっと…毎日毎日お店の掃除をして、お蕎麦を打って、茹でて、たくさんの人にご飯を作ってるんだ。寒い日も、暑い日も、疲れた日も、ずっと。
 目を閉じて、自分の瞼にジワリと涙が滲んだ。
 俺は今まで、何を見て来たんだろう。世界でひとりぼっちな気分になって、やさぐれて、何もかも手放して来てしまった。裏公務員になってまだ三日目なのに。俺はたくさんの優しさや、切なさや、悲しさ、そして喜びも感じている。
 幸せって、こんなに目の前に溢れている物なんだなと気付いた。
 幸せは、幸せと感じなければ気づかない物なんだ。当たり前のことかもしれないけど、自分の行いを正しくしようと足掻いただけでこんなに世界が変わるとは思わなかった。
 俺と同じくお爺ちゃんを見つめて、優しく微笑む颯人が目の前にいる。
 そうか、颯人が笑ってるから俺も笑っちゃうんだ。すごいな、誰かのそばにいるだけでこんな風に影響があるって……。
「どうした?我をその様に見て。見惚れたか」
「そうかもしれん。俺は本当に人生が変わりそうだよ。びっくりするほどものすごいスピードで」
「……ふ、せいぜい振り落とされぬ様に足掻くといい。」
「颯人は待っててくれるだろ?バディだもんな?」
「仕方ないな、ばでぃがそう望むのなら応えてしんぜよう」
 二人で麦茶を傾けて、笑い合う。機敏な動作で湯切りしているお爺ちゃんと、付け合わせを丁寧に盛り付けるおばあちゃんをじっと眺めた。