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The fang of wolf

ー/ー



-人はそれを、悪しきと言う。
しかしそうなる運命を、それが果たして望んだのだろうか?-


同時刻、シャドウ中層部、研究施設エリア。

 ミナは、たった一人でその場所を歩いていた。今まで歩いてきたような場所とは違う、真っ白な壁がひたすら無機質に続く、細い通路のエリア。だがその所々では、赤、紫、緑と、その体色と同様に、けばけばしい体液を撒き散らしたクリーチャーの死体が、潔癖な白を極彩色に染めていた。

「……これ、おねえちゃんが……?」

 セトミが戦いながらここを進んでいったのだろうか。ミナは、その長い廊下に累々と続く屍の葬列に、少しだけ、息を飲んだ。

「……でも……ミナ、行く」

 ここに来るまで、自分に対して優しく、明るく、そして暖かかった、セトミ。彼女が、こんな激しい一面を持っているなど、想像もしなかった。だからこそ、その紅い瞳を見たとき、一瞬だけ――――怖いと、感じてしまった。

 それを、謝りたかった。きっとそれは、セトミを傷つけた。謝って、元の優しい彼女に戻ってもらいたかった。

 ファースト・ワンとはいえ、その心は、まだ年端もいかない少女だ。このような怪物の死体が転がる場所で、その足がすくまないわけがない。それでもその歩を止めないのは、その思いが足を突き動かすからに他ならなかった。

「ミナ、聞こえますか?」

 不意に、セトミのデヴァイスから声が響いた。エマの声だ。その優しい声に、かすかに怯えていた心が少し、温かくなる。

「聞こえる」

「よかった。よく聞いてください。そのエリアのクリーチャーたちは、完全にヴェノムの者に制御を掌握されています。恐らく、あのクレイトという男がそれを行っているのでしょう」

「……エマ」

「はい?」

 不意に言葉に割りこむミナに、エマが機先を削がれたように聞き返した。

「『せいじょをしょうわく』って、なに?」

 その答えに、思わずエマがむせる。

「だいじょうぶ?」

「……大丈夫、です」

 咳払いをしながら、気を取り直したように、エマが話し出した。

「ええと、ですね。制御を掌握されているというのは……ええと……すごく簡単に言うと、悪い人に操られている、ということです」

「……わるいひと」

 その言葉を聞いたミナの脳裏に、セトミが暴走を始めたときにモニターに映った眼鏡の男の姿がよぎる。セトミは、あの人を見て暴走した。きっと、あの人が『わるいひと』なのだ。

 気がつかないうちに、ミナは両の拳をぐっと強く握っていた。

「そう、悪い人です。その悪い人に怪物たちは操られているので、怪物に見つかったら、さらわれてしまいます。怪物たちに見つからないように、先に進みましょう。いいですね?」

「うん、ミナ、見つからない」

 こくり、とうなずきながらミナがデヴァイスへと答えた。

「お利口さんです。では、私が怪物たちに見つからないルートをミナに言います。その通りに進んでくださいね」

「うん」

 こくり、とまたうなずきながら、ミナが返す。

「では、まずその廊下をまっすぐ進んでください。ゆっくりで大丈夫です」

 ミナは、クリーチャーたちの死体を横目に、そろそろと進んでいく。犬のようなクリーチャーの濁った目がこちらを見ているような気がして、感情をあまり表に出さないミナも、思わずつばを飲み込む。

「その先が、突き当りのT字路になっているはずです。そこを、右に。間違っても、左には行ってはいけません」

「ひだりは……なにがあるの?」

 『行ってはいけない』という言葉になにか不気味なもののにおいを感じ、ミナが聞く。

「左には、なにか生物の反応が多数あります。動きはあまり活発ではありませんから、セトミさんではないと思います。となると、悪い人の操る怪物の可能性が高いです。だから、そっちには行ってはだめです」

 己の子供を諭すような口調で言うエマに、ミナはひとつ、うなずく。

「うん。おかしがあってもいかない」

「……ミナ、お腹がすいてるのですか?」

 めずらしくお菓子などというミナに、エマが緊張感が崩されたらしく、呆れの混じった声で言う。

「うん。おなか、すいた」

 さらりと、ミナは言う。しかし、その歩みが遅くなることは、ない。

「でも、おねえちゃん助けるの、一番だいじ。だから、がまん」

「……ミナ」

 通信機に映るエマの表情が、かすかに微笑んだ。

 だが、不意に、早足で歩き続けていたミナの足が、止まった。

「……どうしました?」

「なにか……来る」

 ミナが、後ろを振り返る。そこには、歩いてきた長い廊下が続いているのみだ。

「クリーチャーの反応はありませんよ。ミナ……気のせいでは?」

 いぶかしむエマの声が届いていないかのように、ミナは廊下のある一点を見つめている。

 次の瞬間――――ミナが見つめていたその一点、壁の一部が、轟音とともに歪んだ。

「な……なに?」

 驚くエマをよそに、ミナはその一点を見つめている。さらに轟音は二度、三度と壁を襲い――――ついに、壁を崩壊させた。

 そこからのっそりと現れたのは、ヴィクティムよりも遥かに巨大な体躯の、人型のクリーチャーだった。まるで筋繊維をむき出しにしたような赤い、のっぺりとした身体に、髪も耳もない頭部。鼻と口だけは残っているそれは、まるで赤い風船に落書きでもしたかのようだ。

 ある程度の知能を残してはいるのか、右手には消化斧を手にしている。その見た目通り目は見えていないらしく、ふんふんと辺りを嗅ぎまわりながら、きょろきょろと首を動かしていた。

「……まさか、このクリーチャーはここには配備されていなかったはず……いったい、どこから入り込んだの?」

 困惑するエマをよそに、ミナは意外にも冷静にそれを見ていた。

 クリーチャーは、大きくて強そうだ。さっきみたいに手を武器にできればいいけど、今はなぜかできない。目がないから、きっと、追いかけるのは苦手だろう。うまくいけば、逃げられる。

 そう判断したミナは、エマの反応を待たずに、手近にあったドアへと飛び込む。そこは更衣室だったのか、ずらりとロッカーが並んでいる。

 ドアの外を、こちらに向かって歩く、大きな足音が聞こえる。ドアに飛び込んだ音で気づいたのだろうか。

 ミナは辺りを見回す。どこかに身を隠さなければ、すぐに見つかってしまう。

 思案するものの、ロッカー以外に身を隠せそうな場所は見当たらない。仕方なく、クリーチャーが引き返すことを祈って、ロッカーへと身を隠す。

 それとほぼ同時に、そのクリーチャーがゆっくりとロッカールームへと入ってくる。クリーチャーは何かを探すように鼻をくんくんさせながら、室内へと踏み込んだ。

「ニンゲン……におい……する」

 クリーチャーはさらに鼻をひくつかせながら、ロッカーを一つずつ調べはじめた。

「……たいへん」

 この事態にも存外に冷静なミナだが、さすがにその声には焦りの色が浮かんでいる。このままでは、見つかるのも時間の問題だ。このロッカーの中に、なにか使えるものはないだろうか。

 ごそごそとミナはロッカーの中を探り出す。そこは女性用のロッカールームだったのか、鏡や化粧道具が見つかるが、役には立ちそうもない。

 と、ミナがその中から小さな小瓶を取り出した。どういう仕組みなのか、光の加減できらきらとその輝きの色を変える。だが、それがなんなのかたしかめようと、くるくると回していたのが災いして、ミナは小瓶を落としてしまった。

 パリン、と鋭い音がして、小瓶が割れた。そしてそれと同時に、外のクリーチャーが、息を飲むような気配。

 ばれたのだろうか。ロッカーの戸の隙間からそちらをうかがうと、クリーチャーはゆっくりと、しかしまっすぐと、こちらへと向かってきているところだった。その顔らしきところには、歯をむきだした、いやらしい笑みが浮かんでいる。

 思わずミナは、ロッカーの壁に背をぶつけた。間違いない。ここにいるのが、ばれた。あの荒い鼻息と、野生の獣めいた、血なまぐさいようなにおいが徐々に増していくことが、その事実を静かに、しかし確実に告げていた。

 さすがに怖くなったミナだが、もはやしゃがみこむことしかできない。まるで目の前で話しかけられているかのように、しわがれた不気味な声が響いた。

「いぃ~たぁぁ~」

 クリーチャーが、戸の前に立っている気配がする。

 思わずミナは目をつぶり、耳をふさぐ。

 がちゃり、と音がして、戸が開かれた。

 だが、その途端。

「……うぐぅ?」

 クリーチャーの奇妙な声とともに、そのロッカーの戸が勢いよく閉められた。

「変なにおい。気持ち悪い。ほか、さがす」

 それとともに、足音は去って行く。ミナはしばらくそのまま、警戒を解かずにその場所に座り込んでいたが、クリーチャーの気配が遠ざかっていくのとともに、立ち上がった。

 その足元に、先ほど割ってしまった小瓶が転がる。と同時に、恐怖で麻痺していた嗅覚が活動を再開した。

「……すごい、におい……」

 それはどうやら、香水の入ったビンだったようだ。元々、きつめのにおいだったものが、時間とともに劣化して、さらに強烈になったものらしかった。

 あのクリーチャーは目がなく、においと音のみで周囲のものを判別しているように見えた。その分、嗅覚は発達していたのだろう。その鼻でこれを嗅いだら、逃げていくのもりかいできた。

 一瞬、いっそのことその香水をつけようかとも思ったが、どろりと変化した形状と、改めて嗅ぐと強烈なその臭気に、ミナはさすがに顔をしかめた。

「……無理」

 ロッカーを出ると同時に、エマの声が通信機から響いた。

「ミナ、無事ですか?」

「うん、怖いの、逃げてった」

 通信機の向こうで、あきらかにほっとしたようなため息を、エマがつく。

「よかった……。ですがミナ、油断しないでください。あれは、『ブギーストーカー』と呼ばれるクリーチャーで、一度狙い定めた獲物は、捕まえるまで決してあきらめない、しつこいクリーチャーです。一度撃退したくらいでは、あきらめないはず」

「……どうすればいいの?」

 緊張感のこもったエマのセリフに、ミナの心にどんよりとした不安が広がっていく。

「……とにかく、急いで薬を回収して、セトミさんと合流しましょう。彼女なら、あのクリーチャーも倒せるはずです。まずは、とにかくその場所を出ましょう。そこで追い詰められるのは、危険です」

 そのエマの言葉に一つうなずき、ミナは廊下へと出るドアを少しだけ開く。そこからできる限り、辺りの様子をうかがってみるが、例のクリーチャーがいる気配はない。

 ミナはすばやく、廊下へと出る。

 胸がどきどきする。怖い目には今までもたくさんあってきたが、今まではセトミが守ってくれていた。だが、今は一人きり。エマはいてくれるが、側にいて守ってくれているわけではない。

 一人であるということは、こんなに不安だっただろうか。こんなに心細かっただろうか。思い返してみても、今までは誰かが側にいてくれた記憶しかない。

 ずっと眠っている間、時にかすかに目覚める時があった。その時は、エマが優しく子守唄を歌ってくれた。

 目覚めさせられて、シャドウから連れ出された後は、セトミが優しくしてくれた。ドッグおじさんも頭を撫でてくれた。

 でも、今は一人だ。

 だけど、だからこそ。今まで自分を守ってくれた人たちに、お礼がしたい。お姉ちゃんを、助けたい。

 きっ、と、ミナは前を見据える。その瞳には、これまでにない、強い意志の光があった。

「おねえちゃん……待ってて。ミナ、お姉ちゃんをあんなお化けになんか、ぜったいさせないから」

 長い廊下を、音をたてないよう気をつけながら、ミナは駆けていく。幸い、このエリアのクリーチャーはあらかたセトミが倒していったのか、先ほどのやつ以外に出くわすことはなく、進んでいく。

「……ミナ」

 不意に、エマの声が響いた。

「なに?」

「あなたが目覚めたのが……いえ、目覚めさせられたのが、この事件の発端でした。私のシステムが老朽化し、バグも増え始め、あなたを守りきれなくなったことが」

 その声は、なぜか、ほんのかすかに震えている。それがなぜなのか、ミナにはわからなかった。ただ、それがどこか暖かく、しかしなぜか、心に一滴の切なさを落とす。

「でも、こんな風に言ってはいけないのかもしれないけれど……それで、よかったのかもしれない。普通とは違う形で、永い時ではあったけれど、それが自然の摂理なのだから」

「……ごめん、エマ。なに言いたいのか、わからない」

「いいのですよ。いずれ……あなたも分かる時が来るでしょうから。コールドスリープの……私のゆりかごの中で眠っているあなたより、今のあなたはずっとずっと、生きている。自分の意思を持って、そのために行動している。それが私には、うれしいのです」

 普段とどこかが違うエマの声。だが、それをミナが理解するのは、恐らく、遠い遠い未来のことだった。

「……おしゃべりはここまでにしましょう。ミナ、その先が薬品保管庫です。気をつけてください。クリーチャーの反応はありませんが、先ほどの、レーダーに反応しないものも、まだミナを探しているはずです」

「うん」

 短い返事とともに、ミナは保管庫の中へと足を踏み入れる。途端、身震いするような寒気が白い蒸気となって、身体をなでていく。薬品を保存するためだろうか、中はかなりの低温に保たれているようだ。

 恐る恐る、中へと足を踏み入れる。温度と同じく、薬品を劣化させないためだろう、灯りも暗緑色の非常灯のみが、ほのかに辺りを照らしている。その灯りの範囲を見る限り、どうやら膨大な数の薬品棚が部屋の奥まで続いているようだ。その部屋自体がどこまで続いているのかは、闇に包まれて見通すことができない。

「……お薬、どこ……?」

「ちょっと待ってください。研究所のファイルを検索します」

 しばらくの沈黙の後、エマが再び声を発した。

「ミナ、因子抑制剤は、この倉庫の一番奥の棚にあるようです。棚を見てください。アルファベットと数字でそれぞれが分類されているはず。そのコードがZ―21の棚を探してください」

「……わかった」

 ゆっくりと、ミナは倉庫の奥へと足を進めていく。不意に、廊下へと続く、背後のドアが音をたてた。はっとして背後を見る。ドアから離れたことで、自動的にドアが閉まったのだ。

 それによって、倉庫の中の光源は非常灯のみの、暗黒の空間となった。棚の横を通りすぎるたびに、クリーチャーが襲ってくるのではないかという錯覚に捕らわれる。

 だがそれでも、歩みを止めることだけはしなかった。早く、セトミに薬を届けなければいけない。その思いが、ミナの足を留まらせようとはしなかった。

 やがて、倉庫の突き当りまでやってくると、ミナは辺りを見回す。

 思いのほか、件のコードの棚はあっさり発見することができた。

「……あった」

 通信機の向こうのエマに向かって、端的に言う。

「OK。では、通信機の画面を見てください。そちらのモニターに、探している薬の画像を送ります。その棚から、同じものを探してください」

 エマの言葉が終わるのと同時に、そのモニターに画像が表示された。

 それは、濃い茶色の小瓶に、注射針を取り付けたようなものだった。また、針の周囲には丈夫そうな革のバンドが装着されており、標的に針が刺さると同時に、そこに固定されるようにできているようだ。そのせいで、薬瓶というには少々変わった形をしている。

 どうやら、相手がヴィクティム化しかけている際のことを考えてのもののようだ。

 きょろきょろと、通信機と棚をと、交互に視線を移していく。棚の中の他の薬品はいたって普通に薬瓶に入れられており、ミナでも見間違えるようなことはないように思えた。

「……あった」

 せわしなく動いていたミナの視線が、不意にある一点で止まった。そこには、例のバンドのついた注射器のような、変わった薬瓶がある。

 ミナはそれを手に取ると、通信機のエマに向かってかざして見せた。

「間違いありません、これです。では、セトミさんを追って――――」

 そう、エマが言いかけたときだった。不意に、闇に満ちた倉庫の中に、光が射した。その光に、ミナの肩がぴくり、と反応する。

 そっと、ミナは差し込んだ光のほうを振り返る。ここからでは、薬品棚の影になって、そちらは見えない。決して物音をたてないように細心の注意を払いながら、ミナは棚の影から、倉庫の入り口のほうをうかがった。

 ほの暗い室内でも、それの姿はシルエットだけで判別できた。ヴィクティムをさらに大きくしたような、異様に頭の大きい、人型のそれ――――エマが『ブギーストーカー』と呼んだ、あのクリーチャーだ。

 うっすらと浮かび上がるシルエットと、ふうふうと歯をむき出した口で行う荒い呼吸、そして手にした大振りの消化斧――――。それらは、『ブギーストーカー』――――不気味な追跡者というその名をこれ以上ないほどに体現していた。

「くさい、くさい、くすりくさいぃぃ。でも、えさ、いるぅぅぅ」

 きょろきょろと周囲を見回しながら、クリーチャーは手近の薬品棚へと近づく。そしておもむろに斧を振り上げると、小枝でも振るかのように軽々と斧を振り下ろした。

 刹那、棚がダンプカーにでも弾き飛ばされたかのように、他の棚を巻き込みながら吹き飛ばされた。その衝撃は、ミナのいる倉庫の奥までも届いた。

「……すごい、ちから……」

 さすがのミナも、その表情にはかすかに驚嘆の色が浮かんでいる。

「どぉ~こだぁ~?」

 またしても、轟音。今度は、先ほどとは反対側に棚が飛んできたようだ。

「ミナ、じっとしていては危険です。なんとかして、この部屋を出ましょうこのままでは、いずれ飛んでくる棚に巻き込まれます」

「でも……どうすれば……」

 口調は落ち着いてはいるが、まだ年端もいかない少女だ。心中が穏やかであるはずがない。エマはなるべく、穏やかな声で言う。

「危険ですが、あいつを倉庫の奥までおびき寄せるしかありません。ここの出口はあそこ一箇所だけ……その付近にいられては、脱出は不可能です」

「わかった。やってみる」

 ミナはこくりと一つうなづくと、棚の影から飛び出した。

「……こっち!」

「んんぅ~?」

 聴力はわずかながら残っているのか、クリーチャーがこちらを向く。と同時に、クリーチャーがこれまでにない速度でミナへと猛進する。

「そこかぁぁぁ! えさあぁぁぁ!」

「……………!」

 驚愕しつつも、ミナはその突進を横に避ける。そのまま後ろも振り返らずに、出口へと駆け出す。クリーチャーに破壊された棚の残骸に手間取りつつも、なんとかその側までたどり着くことに成功した、その時。

「えさぁ、にげるなあぁぁ!」

 三度、轟音。またしても薬品棚がすさまじい勢いで吹き飛び、ミナのすぐ側に叩きつけられた。その衝撃に、ミナの足がもつれる。体勢を立て直そうとするも、棚の残骸がその足を払った。前につんのめる形で、ミナは床に倒れこむ。

「いた……い」

 全身を打つ衝撃に、思わずミナは言葉を漏らす。やがてそれは、ひざやひじの、じんじんとした痛みへと変わっていく。立ち上がろうとすると、身体のあちこちが悲鳴をあげる。

 目覚めてから、ずっと誰かに守られていたミナにとって、初めて感じる痛みだった。痛いというのは、こんなに苦しいものだったのか。

 セトミも、こんなものを何度も感じながら、自分をここまで連れてきてくれたのか。

 不意に一瞬、そんな思いが脳裏をよぎった。

 だが、その思いを背後の気配が消し去る。

「おいついたぁ~」

 ふうふうという荒い呼吸音。重い足音。そして、そのうめく声。

 上半身をひねって後ろを見る。すでに手を伸ばせば届く距離のところに、クリーチャーは迫っていた。

「いただきまぁーす」

 消化斧を置き、その手がミナに迫る。立ち上がろうとするが、足がしびれたかのように動かない。

「ミナ!」

 エマの悲痛な叫びに、思わずミナがぐっと目をつぶったその時――――。

 斬。

 鋭く、冷たく、迷いもなく。何かが、何かを斬り裂く音が響いた。

「ぐぎゃあああぁぁぁぁ!」

 次の瞬間、この世のものとも思えぬ絶叫とともに、地面に衝撃が走る。反射的に、ミナはその先にあるものを見た。

 そこにいたのは、先ほどまで自分を脅かしていたものとは信じられぬほど血に染まり、ぴくぴくと痙攣しながら横たわる怪物と、一人の男。

 長い銀の髪に、丈夫そうな革のアーマーに身を包んだ男――――ハウリング・ウルフのリーダー、ロウガの姿だった。





- 思えば、その言葉をはじめて聞いたのは、いつのことだったか。ひどく昔だったようなきもするし、つい昨日のことのようにも思える。

「狼という動物を、知っていますか?」

 そう、その人は聞いた。

 十代もはじまったばかりの頃に暮らしていた、あの孤児院でのことだ。その人の名前は、忘れてしまった。ただ皆に先生、先生と慕われていたのはよく覚えている。

「毛皮をまとっていて、鋭い牙を持ち、群れで狩りをする動物です」

「先生、それは犬じゃないんですか?」

 確か自分は、そう聞いた気がする。

「うーん、犬とよく似た動物ではあります。実際、犬の祖先のようなものらしいですからね。ただ、彼らは犬ほど優しくはありません。人には慣れず、彼らは彼らの掟の元に生きる。そのためか、人間からは、悪いイメージを持たれていたようです。文明が興る以前には、悪魔とも関連付けられていたようですから」

 正直、その頃の自分には、はっきりとしたイメージがつかめなかった。元々すでに存在しない動物になっていたわけだし、悪魔もなにも、その頃にはただ漠然と悪いもの、としてしかイメージなどできなかったのだ。

 だから、先生が次に言った言葉など、理解のしようもなかった。

「でもね、私は、彼らが自分たちは人間からは悪者に見えるということを、知っていたんじゃないかと思うんですよ。自分は悪者だと知っていながら、自分に課した掟のみに従って生きる。それが時に悲しくて、彼らは慟哭に任せて、吼えるのではないか、と」

 だがその言葉は、理解できないながら、どこか自分の心のどこかに、まるで幼い頃に集めていた、自分だけの宝物のように、残っていた。

 それが少しだけ理解できたのは、妹が、死んだ……いや、殺されたとき。

 暗い満月の夜だった。雲が明るいはずだった月を朧に隠し、かじかむような冷たい空気に満ちた、恐らく生涯、忘れることのできないであろう、満月の夜。

 今となってはまるで夢幻の向こうのような記憶しかない、荒野の真ん中で。

 そこにいたのは、見上げてもその顔を仰ぎ見ることがやっとのような、巨躯を誇るヴィクティムだった。涙と闇に紛れてはいたが、そのひどく色のない表情は、焼印で焼き付けたかのように、今もまぶたの裏を熱く、じくじくと苛んでいる。

 後で知ることになるが、そのヴィクティムこそが、エデンを統べる存在だった。

 そいつは、抱えていた妹を、どさりと、冷たい地面に放り捨てた。あの愛らしかった瞳が、死んだ魚のように変わり果てて、自分を見た。

「残念だったな。その少女は、適応できなかったようだ」

 そのたった一言を残し、まるで妹の死など、取るに足らない瑣末なできごとのように、そのヴィクティムは去った。

「アイカ……! アイカぁぁぁ……!」

 無力な自分に、煮えたぎる溶岩のような怒りを覚えた。すべての歯をみずからの歯軋りでへし折りそうなほどに食いしばり、拳を己の腕力自身で砕きそうなほどに、きつく握りしめた。

 そして、理解した。

「う……」

 先生の言っていた、慟哭に任せて、吼えるということの意味を。

「おおおおおおおおおおおああぁぁぁぁぁぁあぁあ!!」

 だから自分は、その時まで負っていた自分の名前を、捨てた。

 そして、新たな名を背負った。

 仇を討つという、みずからに課した掟のためなら、人から悪魔と恐れられようとかまわぬ。ただ己の掟を遂行するための牙となれれば、それでいい。

 だから自分は、その頃からそう名乗ることにした。

 狼の牙……ロウガと-



 目の前の少女は、ひどく不思議そうに、彼――――ロウガを、を見た。感情の色の薄い、どこか空虚にも見えるその瞳は、あの日の妹のそれと、よく似ていた。

 それがロウガの心を揺さぶっていることに、彼女は気づくはずもないだろう。

「……ファースト・ワンの少女よ。あの娘は、どうした」

 思わず、ロウガはその少女――――ミナに、尋ねていた。少女はいよいよもって不思議そうに彼を見返すばかりだったが、実際、その言葉を不思議に思っているのは、彼も同じだった。

 ――――自分は、何を、この少女を気遣うようなことを言っているのか。確かにこの少女は妹とよく似てはいるが、所詮はただの手段にすぎない。復讐を果たすために利用するだけのものにすぎないというのに。

「……まあいい。こちらにとっては好都合だ。ともに来てもらおう。その力、我らハウリング・ウルフが使わせてもらう」

 だが、その言葉に、少女の瞳が険しく変わった。

「……やだ。ミナ、あなたとは、行かない」

 その瞳は、以前、ここから連れ出した時に見た、無を体現するかのようなそれとは違っていた。そこには、確かに明確な意思の光が見て取れた。そこいらにいるような人間よりも、はるかに強い意志を持った、光が。

「……ほう。なぜだ?」

「ミナ、あなたが思っているような兵器、違う。助けてくれたのうれしいけど、ミナ、あなたのモノじゃない」

 じりっ、と。少女がかすかに後ずさりながら身構えた。この少女がファースト・ワンとして覚醒し始めていることは、ミザリィから報告を受けている。

 無意識のうちに唇を噛みしめながら、ロウガは己の得物に手をかけた。

「……お前の意思など、関係ない。俺は、お前の力をもって、俺の掟を果たすだけだ。それが嫌だと言うなら……抗って見せるがいい」

 鋭く、ロウガはカタナに付着したクリーチャーの血を振り払う。どこか心の底に残る、水の底に溜まった泥のようなわだかまりを、切り捨てるように。

「安心しろ。ケガをさせるつもりはない。貴様の力を使うのに、それが十分に発揮できないのでは困るのでな。だが……多少の痛みは覚悟しておけ」

 ロウガのその言葉に、いよいよもって少女のその瞳が明確な敵意を帯びた。その、かすかに震える手には、因子抑制剤のアンプルが握られている。

「……フン、そういうことか」

 ロウガのその言葉に、少女もこちらがそれを見て取ったことに気づいたか、アンプルをかばうようにそれを持った手を背中へと回す。

「……ミナ、おねえちゃんのために……あなたには負けない」

「あの娘のために……か」

 ならば。自分は、死んだ妹のために。

 その言葉を口にしかけ、だがロウガはそれを飲み込んだ。自分は、狼。誰にも理解されずともいい。だから、余計な情念を生んでしまいそうな言葉など、必要ない。

「よかろう。意思をもって戦いに望むなら、お前を幼き娘とは認識せん。我が道に立ちふさがる、障害と識覚しよう。悪魔が立ちふさがるならば悪魔を斬る。神が邪魔をするなら神を斬る。誰にも、俺の歩む道の邪魔はさせん……!」

 今まで、どこかその姿に抱いていた哀れみを、ロウガは捨て去った。少なくとも、己では、捨て去ろうとした。

 ただそれは、己に課した掟を貫くために。

 ミナの右手が、その髪とよく似た、青い光をまとう。それとともに、彼女の右手はその形態を変えていく。幼き少女の右手から、異形とも思える、剣のような刃へ。

 その変化が収まった瞬間、ミナは駆けた。それは、その容姿からは想像もできない速さだ。やはり、因子を持つものだけあって、身体能力はヒューマンのそれなど凌駕している。

 高速でロウガに駆け寄り、ミナは右手の刃を繰り出す。

 ロウガはそれをスウェーでかわす。スピードは確かにあるが、運動量で直線的な攻撃をカバーしているに過ぎない。その攻撃は、まっすぐで、正直だ。軌道を読むのは、そう難しくはない。

「フッ……スピードはあるが、それでは俺には当たらんぞ」

 一歩後ろに下がり、ミナの間合いから離れながら、ロウガが笑う。

 と、一転、引いたと見せかけて、ロウガは大きく前へと踏み込む。身長差からその一歩の目測がつかなかったか、ミナが虚を突かれた形で硬直する。

 ロウガはカタナを鞘に収めたまま、振り払うようにしてミナの腹に当身を食らわせた。

「うっ……!」

 よろよろと後ずさるミナに前蹴りで追撃を試みるも、今度はすばやく反応したミナに、これはかわされる。

「……お前は、ファースト・ワンだ。因子の力でその身体能力も目覚めつつある。その力は、確かに脅威ではある。だが……お前には、絶対的に足りないものがある。わかるか?」

 痛みにか、それとも悔しさのためか歯を食いしばるミナに、ロウガは色のない表情で語りかける。

「……ひとつは、経験だ。大人の男と戦ったことなどあるまい。ゆえに、その一歩の踏み込みの大きさの予測がつかない。いかに人間を超えた力を持っているとしても、相手の挙動の予測がつかねば、対応はできん」

 ロウガの言葉に、ミナの瞳が鋭く細められる。同時に、再びミナが駆けた。先ほどと同じように、高速ですばやく、正面から。

「所詮はまだ幼き子供か……」

 その挙動に、ロウガは己の得物を構える。今度は、避けるのではなく、攻撃にて迎え撃つ。ミナが近づいてきたところを狙い、ロウガはまたも大きく踏み込んだ。

 だが。

 しっかりと視界に捉えていたはずのミナの姿が、消えた。それと同時に、かすかながら、左耳に空気を斬り裂く音が届いた。

 反射的に、ロウガは前に踏み込んだ姿勢から、前へと転がる。先ほどまで彼がいた空間を、刃が斬り裂く音が駆け抜けていった。

 ロウガは転がる勢いをそのまま活かし、受身の要領で立ち上がると、カタナを構えたまま、油断なく後ろを振り返った。

「……どうやら、俺にも慢心があったようだ。お前は、一度経験したパターンの有効な利用法を知っている」

 ゆらり、と。ロウガはカタナを抜く。刃を返し、峰に当たる部分をミナへと向けると、下段に、脇を閉めた形で刀を構えなおした。

「だがそれゆえに、相手のパターンが見たことのないものだと、対処ができない。そしてこれは……我が我流の技」

 そのカタナが、徐々に威圧するような覇気をまとっていく。まるでカタナがロウガの一部となったかのように、その闘気を遺憾なく発揮していく。

「セイッ!」

 気合の声とともに、ロウガはその神速をもってカタナを抜く。抜刀と同時に一気に降りぬいたその剣戟は、空気を斬り裂く真空の刃となってミナに襲いかかる。

「……………っ!」

 声にならないうめきとともに、ミナがその衝撃にひざをついた。抜刀の速さと衝撃波の速さは比例する。抜刀を見切れなければ、衝撃波をかわすことはできない。そして、それが鋭角に入るのを避けることも。

「悪いが、これで終いだな。今のがまともに入っては、もはや立つことはできまい。……さあ、俺と来てもらおう」

 カタナを納めながら、ロウガはその少女へと歩み寄る。ミナはひざをついたまま、うつむいて顔を上げることもない。

 しかし、ロウガが少女の目の前に立った、その瞬間。

 ぎりりと、歯を食いしばり、ミナが彼を見た。その瞳には、おおよそ、幼い少女のものとは思えない、燃え上がるような闘気が込められている。

「……なぜだ」

 思わず、ロウガは訊ねていた。不可解だ。この少女に、あのセトミという娘をそこまでして助ける理由など、彼には見当たらなかった。

「……セトミおねえちゃん、ミナと同じ。いろんな悲しいこと、あって……でも、それを越えて、生きてる。だから、ミナ、助けられるだけじゃない。おねえちゃんのために、なにかしたい」

 顔を上げることのないまま、ミナがぐっと、両の拳を握った。

 不意に、ロウガの背筋を、ぞくりと冷たいものが走る。それは、ヴィクティムとの戦いを始めてこの方、如何な相手にも感じたことのないような、危うい悪寒だった。

 ――――それを、眼前の年端もいかぬ少女が発している。ロウガは、一歩、後ろへと退いている自分に気づき、歯噛みした。冷たい汗が一筋、頬を伝って流れ落ちていく。

「ミナは、ミナの意思で戦う! ミナ、誰かに利用されるだけの兵器じゃない!」

 吼える言葉とともに、ミナは顔を上げた。その力強い意思の表示とともに、その姿がまばゆい光に包まれていく。

「な……なんだと!?」

 狼狽するロウガに、まるでその姿を知らしめようとするかのように、少女は立ち上がり、その両腕を十字に広げる。光の中に浮かぶそのシルエットが、不意に人にあらざる形を取った。

 少女の背に現れたそれは、紛れもなく、天使の背の羽そのものだった。

「これは……まさか、新たな力が目覚めたというのか……?」

 ぼう、と、まるで魅せられたようにその姿に見入るロウガの目に、徐々に宙へと浮かび上がっていくミナの姿が映る。

 我に返ったときには、その少女の姿はもはや、手の届かないところへと飛び去っていた。

「……しまっ……!」

「……行け!」

 ミナが、剣のごとく変化した右手を鋭く振るう。エネルギーの収束する甲高い音とともに、ロウガの足元が少女の髪の色に似た、透明な青に染まりだした。

「チィッ!」

 反射的に、ロウガは飛び込み前転の要領で前へと跳ぶ。次の瞬間、先ほどまで彼が建っていた場所が、ガンマレイででも撃たれたかのように、光とともに爆ぜた。

 それで生じた亀裂の向こうに、ミナがゆっくりと舞い降りる。その背は、まるでロウガなどすでに眼中にないかのように、部屋の入り口へと走り去ろうとする。

「……待て!」

 思わず出た声に、その背が一度、ぴたりと止まる。だが、その少女が振り返ろうとすることはない。

「……ミナ、おねえちゃんのところへ行く。もうこれ以上、邪魔しないで」

 突き放すように紡がれた言葉に、ロウガの二の句がたたらを踏む。そうこうしているうちに、その足は再び入り口へ向かい、そして姿を消した。

「……あれが、ファースト・ワンの更なる進化か……。あの娘……このまま戦いの渦中にさらされれば、いずれ……」

 その背が消えた先を見つめながら紡がれた言葉は、誰の耳に届くこともなく、静かに霧散した。



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-人はそれを、悪しきと言う。
しかしそうなる運命を、それが果たして望んだのだろうか?-
同時刻、シャドウ中層部、研究施設エリア。
 ミナは、たった一人でその場所を歩いていた。今まで歩いてきたような場所とは違う、真っ白な壁がひたすら無機質に続く、細い通路のエリア。だがその所々では、赤、紫、緑と、その体色と同様に、けばけばしい体液を撒き散らしたクリーチャーの死体が、潔癖な白を極彩色に染めていた。
「……これ、おねえちゃんが……?」
 セトミが戦いながらここを進んでいったのだろうか。ミナは、その長い廊下に累々と続く屍の葬列に、少しだけ、息を飲んだ。
「……でも……ミナ、行く」
 ここに来るまで、自分に対して優しく、明るく、そして暖かかった、セトミ。彼女が、こんな激しい一面を持っているなど、想像もしなかった。だからこそ、その紅い瞳を見たとき、一瞬だけ――――怖いと、感じてしまった。
 それを、謝りたかった。きっとそれは、セトミを傷つけた。謝って、元の優しい彼女に戻ってもらいたかった。
 ファースト・ワンとはいえ、その心は、まだ年端もいかない少女だ。このような怪物の死体が転がる場所で、その足がすくまないわけがない。それでもその歩を止めないのは、その思いが足を突き動かすからに他ならなかった。
「ミナ、聞こえますか?」
 不意に、セトミのデヴァイスから声が響いた。エマの声だ。その優しい声に、かすかに怯えていた心が少し、温かくなる。
「聞こえる」
「よかった。よく聞いてください。そのエリアのクリーチャーたちは、完全にヴェノムの者に制御を掌握されています。恐らく、あのクレイトという男がそれを行っているのでしょう」
「……エマ」
「はい?」
 不意に言葉に割りこむミナに、エマが機先を削がれたように聞き返した。
「『せいじょをしょうわく』って、なに?」
 その答えに、思わずエマがむせる。
「だいじょうぶ?」
「……大丈夫、です」
 咳払いをしながら、気を取り直したように、エマが話し出した。
「ええと、ですね。制御を掌握されているというのは……ええと……すごく簡単に言うと、悪い人に操られている、ということです」
「……わるいひと」
 その言葉を聞いたミナの脳裏に、セトミが暴走を始めたときにモニターに映った眼鏡の男の姿がよぎる。セトミは、あの人を見て暴走した。きっと、あの人が『わるいひと』なのだ。
 気がつかないうちに、ミナは両の拳をぐっと強く握っていた。
「そう、悪い人です。その悪い人に怪物たちは操られているので、怪物に見つかったら、さらわれてしまいます。怪物たちに見つからないように、先に進みましょう。いいですね?」
「うん、ミナ、見つからない」
 こくり、とうなずきながらミナがデヴァイスへと答えた。
「お利口さんです。では、私が怪物たちに見つからないルートをミナに言います。その通りに進んでくださいね」
「うん」
 こくり、とまたうなずきながら、ミナが返す。
「では、まずその廊下をまっすぐ進んでください。ゆっくりで大丈夫です」
 ミナは、クリーチャーたちの死体を横目に、そろそろと進んでいく。犬のようなクリーチャーの濁った目がこちらを見ているような気がして、感情をあまり表に出さないミナも、思わずつばを飲み込む。
「その先が、突き当りのT字路になっているはずです。そこを、右に。間違っても、左には行ってはいけません」
「ひだりは……なにがあるの?」
 『行ってはいけない』という言葉になにか不気味なもののにおいを感じ、ミナが聞く。
「左には、なにか生物の反応が多数あります。動きはあまり活発ではありませんから、セトミさんではないと思います。となると、悪い人の操る怪物の可能性が高いです。だから、そっちには行ってはだめです」
 己の子供を諭すような口調で言うエマに、ミナはひとつ、うなずく。
「うん。おかしがあってもいかない」
「……ミナ、お腹がすいてるのですか?」
 めずらしくお菓子などというミナに、エマが緊張感が崩されたらしく、呆れの混じった声で言う。
「うん。おなか、すいた」
 さらりと、ミナは言う。しかし、その歩みが遅くなることは、ない。
「でも、おねえちゃん助けるの、一番だいじ。だから、がまん」
「……ミナ」
 通信機に映るエマの表情が、かすかに微笑んだ。
 だが、不意に、早足で歩き続けていたミナの足が、止まった。
「……どうしました?」
「なにか……来る」
 ミナが、後ろを振り返る。そこには、歩いてきた長い廊下が続いているのみだ。
「クリーチャーの反応はありませんよ。ミナ……気のせいでは?」
 いぶかしむエマの声が届いていないかのように、ミナは廊下のある一点を見つめている。
 次の瞬間――――ミナが見つめていたその一点、壁の一部が、轟音とともに歪んだ。
「な……なに?」
 驚くエマをよそに、ミナはその一点を見つめている。さらに轟音は二度、三度と壁を襲い――――ついに、壁を崩壊させた。
 そこからのっそりと現れたのは、ヴィクティムよりも遥かに巨大な体躯の、人型のクリーチャーだった。まるで筋繊維をむき出しにしたような赤い、のっぺりとした身体に、髪も耳もない頭部。鼻と口だけは残っているそれは、まるで赤い風船に落書きでもしたかのようだ。
 ある程度の知能を残してはいるのか、右手には消化斧を手にしている。その見た目通り目は見えていないらしく、ふんふんと辺りを嗅ぎまわりながら、きょろきょろと首を動かしていた。
「……まさか、このクリーチャーはここには配備されていなかったはず……いったい、どこから入り込んだの?」
 困惑するエマをよそに、ミナは意外にも冷静にそれを見ていた。
 クリーチャーは、大きくて強そうだ。さっきみたいに手を武器にできればいいけど、今はなぜかできない。目がないから、きっと、追いかけるのは苦手だろう。うまくいけば、逃げられる。
 そう判断したミナは、エマの反応を待たずに、手近にあったドアへと飛び込む。そこは更衣室だったのか、ずらりとロッカーが並んでいる。
 ドアの外を、こちらに向かって歩く、大きな足音が聞こえる。ドアに飛び込んだ音で気づいたのだろうか。
 ミナは辺りを見回す。どこかに身を隠さなければ、すぐに見つかってしまう。
 思案するものの、ロッカー以外に身を隠せそうな場所は見当たらない。仕方なく、クリーチャーが引き返すことを祈って、ロッカーへと身を隠す。
 それとほぼ同時に、そのクリーチャーがゆっくりとロッカールームへと入ってくる。クリーチャーは何かを探すように鼻をくんくんさせながら、室内へと踏み込んだ。
「ニンゲン……におい……する」
 クリーチャーはさらに鼻をひくつかせながら、ロッカーを一つずつ調べはじめた。
「……たいへん」
 この事態にも存外に冷静なミナだが、さすがにその声には焦りの色が浮かんでいる。このままでは、見つかるのも時間の問題だ。このロッカーの中に、なにか使えるものはないだろうか。
 ごそごそとミナはロッカーの中を探り出す。そこは女性用のロッカールームだったのか、鏡や化粧道具が見つかるが、役には立ちそうもない。
 と、ミナがその中から小さな小瓶を取り出した。どういう仕組みなのか、光の加減できらきらとその輝きの色を変える。だが、それがなんなのかたしかめようと、くるくると回していたのが災いして、ミナは小瓶を落としてしまった。
 パリン、と鋭い音がして、小瓶が割れた。そしてそれと同時に、外のクリーチャーが、息を飲むような気配。
 ばれたのだろうか。ロッカーの戸の隙間からそちらをうかがうと、クリーチャーはゆっくりと、しかしまっすぐと、こちらへと向かってきているところだった。その顔らしきところには、歯をむきだした、いやらしい笑みが浮かんでいる。
 思わずミナは、ロッカーの壁に背をぶつけた。間違いない。ここにいるのが、ばれた。あの荒い鼻息と、野生の獣めいた、血なまぐさいようなにおいが徐々に増していくことが、その事実を静かに、しかし確実に告げていた。
 さすがに怖くなったミナだが、もはやしゃがみこむことしかできない。まるで目の前で話しかけられているかのように、しわがれた不気味な声が響いた。
「いぃ~たぁぁ~」
 クリーチャーが、戸の前に立っている気配がする。
 思わずミナは目をつぶり、耳をふさぐ。
 がちゃり、と音がして、戸が開かれた。
 だが、その途端。
「……うぐぅ?」
 クリーチャーの奇妙な声とともに、そのロッカーの戸が勢いよく閉められた。
「変なにおい。気持ち悪い。ほか、さがす」
 それとともに、足音は去って行く。ミナはしばらくそのまま、警戒を解かずにその場所に座り込んでいたが、クリーチャーの気配が遠ざかっていくのとともに、立ち上がった。
 その足元に、先ほど割ってしまった小瓶が転がる。と同時に、恐怖で麻痺していた嗅覚が活動を再開した。
「……すごい、におい……」
 それはどうやら、香水の入ったビンだったようだ。元々、きつめのにおいだったものが、時間とともに劣化して、さらに強烈になったものらしかった。
 あのクリーチャーは目がなく、においと音のみで周囲のものを判別しているように見えた。その分、嗅覚は発達していたのだろう。その鼻でこれを嗅いだら、逃げていくのもりかいできた。
 一瞬、いっそのことその香水をつけようかとも思ったが、どろりと変化した形状と、改めて嗅ぐと強烈なその臭気に、ミナはさすがに顔をしかめた。
「……無理」
 ロッカーを出ると同時に、エマの声が通信機から響いた。
「ミナ、無事ですか?」
「うん、怖いの、逃げてった」
 通信機の向こうで、あきらかにほっとしたようなため息を、エマがつく。
「よかった……。ですがミナ、油断しないでください。あれは、『ブギーストーカー』と呼ばれるクリーチャーで、一度狙い定めた獲物は、捕まえるまで決してあきらめない、しつこいクリーチャーです。一度撃退したくらいでは、あきらめないはず」
「……どうすればいいの?」
 緊張感のこもったエマのセリフに、ミナの心にどんよりとした不安が広がっていく。
「……とにかく、急いで薬を回収して、セトミさんと合流しましょう。彼女なら、あのクリーチャーも倒せるはずです。まずは、とにかくその場所を出ましょう。そこで追い詰められるのは、危険です」
 そのエマの言葉に一つうなずき、ミナは廊下へと出るドアを少しだけ開く。そこからできる限り、辺りの様子をうかがってみるが、例のクリーチャーがいる気配はない。
 ミナはすばやく、廊下へと出る。
 胸がどきどきする。怖い目には今までもたくさんあってきたが、今まではセトミが守ってくれていた。だが、今は一人きり。エマはいてくれるが、側にいて守ってくれているわけではない。
 一人であるということは、こんなに不安だっただろうか。こんなに心細かっただろうか。思い返してみても、今までは誰かが側にいてくれた記憶しかない。
 ずっと眠っている間、時にかすかに目覚める時があった。その時は、エマが優しく子守唄を歌ってくれた。
 目覚めさせられて、シャドウから連れ出された後は、セトミが優しくしてくれた。ドッグおじさんも頭を撫でてくれた。
 でも、今は一人だ。
 だけど、だからこそ。今まで自分を守ってくれた人たちに、お礼がしたい。お姉ちゃんを、助けたい。
 きっ、と、ミナは前を見据える。その瞳には、これまでにない、強い意志の光があった。
「おねえちゃん……待ってて。ミナ、お姉ちゃんをあんなお化けになんか、ぜったいさせないから」
 長い廊下を、音をたてないよう気をつけながら、ミナは駆けていく。幸い、このエリアのクリーチャーはあらかたセトミが倒していったのか、先ほどのやつ以外に出くわすことはなく、進んでいく。
「……ミナ」
 不意に、エマの声が響いた。
「なに?」
「あなたが目覚めたのが……いえ、目覚めさせられたのが、この事件の発端でした。私のシステムが老朽化し、バグも増え始め、あなたを守りきれなくなったことが」
 その声は、なぜか、ほんのかすかに震えている。それがなぜなのか、ミナにはわからなかった。ただ、それがどこか暖かく、しかしなぜか、心に一滴の切なさを落とす。
「でも、こんな風に言ってはいけないのかもしれないけれど……それで、よかったのかもしれない。普通とは違う形で、永い時ではあったけれど、それが自然の摂理なのだから」
「……ごめん、エマ。なに言いたいのか、わからない」
「いいのですよ。いずれ……あなたも分かる時が来るでしょうから。コールドスリープの……私のゆりかごの中で眠っているあなたより、今のあなたはずっとずっと、生きている。自分の意思を持って、そのために行動している。それが私には、うれしいのです」
 普段とどこかが違うエマの声。だが、それをミナが理解するのは、恐らく、遠い遠い未来のことだった。
「……おしゃべりはここまでにしましょう。ミナ、その先が薬品保管庫です。気をつけてください。クリーチャーの反応はありませんが、先ほどの、レーダーに反応しないものも、まだミナを探しているはずです」
「うん」
 短い返事とともに、ミナは保管庫の中へと足を踏み入れる。途端、身震いするような寒気が白い蒸気となって、身体をなでていく。薬品を保存するためだろうか、中はかなりの低温に保たれているようだ。
 恐る恐る、中へと足を踏み入れる。温度と同じく、薬品を劣化させないためだろう、灯りも暗緑色の非常灯のみが、ほのかに辺りを照らしている。その灯りの範囲を見る限り、どうやら膨大な数の薬品棚が部屋の奥まで続いているようだ。その部屋自体がどこまで続いているのかは、闇に包まれて見通すことができない。
「……お薬、どこ……?」
「ちょっと待ってください。研究所のファイルを検索します」
 しばらくの沈黙の後、エマが再び声を発した。
「ミナ、因子抑制剤は、この倉庫の一番奥の棚にあるようです。棚を見てください。アルファベットと数字でそれぞれが分類されているはず。そのコードがZ―21の棚を探してください」
「……わかった」
 ゆっくりと、ミナは倉庫の奥へと足を進めていく。不意に、廊下へと続く、背後のドアが音をたてた。はっとして背後を見る。ドアから離れたことで、自動的にドアが閉まったのだ。
 それによって、倉庫の中の光源は非常灯のみの、暗黒の空間となった。棚の横を通りすぎるたびに、クリーチャーが襲ってくるのではないかという錯覚に捕らわれる。
 だがそれでも、歩みを止めることだけはしなかった。早く、セトミに薬を届けなければいけない。その思いが、ミナの足を留まらせようとはしなかった。
 やがて、倉庫の突き当りまでやってくると、ミナは辺りを見回す。
 思いのほか、件のコードの棚はあっさり発見することができた。
「……あった」
 通信機の向こうのエマに向かって、端的に言う。
「OK。では、通信機の画面を見てください。そちらのモニターに、探している薬の画像を送ります。その棚から、同じものを探してください」
 エマの言葉が終わるのと同時に、そのモニターに画像が表示された。
 それは、濃い茶色の小瓶に、注射針を取り付けたようなものだった。また、針の周囲には丈夫そうな革のバンドが装着されており、標的に針が刺さると同時に、そこに固定されるようにできているようだ。そのせいで、薬瓶というには少々変わった形をしている。
 どうやら、相手がヴィクティム化しかけている際のことを考えてのもののようだ。
 きょろきょろと、通信機と棚をと、交互に視線を移していく。棚の中の他の薬品はいたって普通に薬瓶に入れられており、ミナでも見間違えるようなことはないように思えた。
「……あった」
 せわしなく動いていたミナの視線が、不意にある一点で止まった。そこには、例のバンドのついた注射器のような、変わった薬瓶がある。
 ミナはそれを手に取ると、通信機のエマに向かってかざして見せた。
「間違いありません、これです。では、セトミさんを追って――――」
 そう、エマが言いかけたときだった。不意に、闇に満ちた倉庫の中に、光が射した。その光に、ミナの肩がぴくり、と反応する。
 そっと、ミナは差し込んだ光のほうを振り返る。ここからでは、薬品棚の影になって、そちらは見えない。決して物音をたてないように細心の注意を払いながら、ミナは棚の影から、倉庫の入り口のほうをうかがった。
 ほの暗い室内でも、それの姿はシルエットだけで判別できた。ヴィクティムをさらに大きくしたような、異様に頭の大きい、人型のそれ――――エマが『ブギーストーカー』と呼んだ、あのクリーチャーだ。
 うっすらと浮かび上がるシルエットと、ふうふうと歯をむき出した口で行う荒い呼吸、そして手にした大振りの消化斧――――。それらは、『ブギーストーカー』――――不気味な追跡者というその名をこれ以上ないほどに体現していた。
「くさい、くさい、くすりくさいぃぃ。でも、えさ、いるぅぅぅ」
 きょろきょろと周囲を見回しながら、クリーチャーは手近の薬品棚へと近づく。そしておもむろに斧を振り上げると、小枝でも振るかのように軽々と斧を振り下ろした。
 刹那、棚がダンプカーにでも弾き飛ばされたかのように、他の棚を巻き込みながら吹き飛ばされた。その衝撃は、ミナのいる倉庫の奥までも届いた。
「……すごい、ちから……」
 さすがのミナも、その表情にはかすかに驚嘆の色が浮かんでいる。
「どぉ~こだぁ~?」
 またしても、轟音。今度は、先ほどとは反対側に棚が飛んできたようだ。
「ミナ、じっとしていては危険です。なんとかして、この部屋を出ましょうこのままでは、いずれ飛んでくる棚に巻き込まれます」
「でも……どうすれば……」
 口調は落ち着いてはいるが、まだ年端もいかない少女だ。心中が穏やかであるはずがない。エマはなるべく、穏やかな声で言う。
「危険ですが、あいつを倉庫の奥までおびき寄せるしかありません。ここの出口はあそこ一箇所だけ……その付近にいられては、脱出は不可能です」
「わかった。やってみる」
 ミナはこくりと一つうなづくと、棚の影から飛び出した。
「……こっち!」
「んんぅ~?」
 聴力はわずかながら残っているのか、クリーチャーがこちらを向く。と同時に、クリーチャーがこれまでにない速度でミナへと猛進する。
「そこかぁぁぁ! えさあぁぁぁ!」
「……………!」
 驚愕しつつも、ミナはその突進を横に避ける。そのまま後ろも振り返らずに、出口へと駆け出す。クリーチャーに破壊された棚の残骸に手間取りつつも、なんとかその側までたどり着くことに成功した、その時。
「えさぁ、にげるなあぁぁ!」
 三度、轟音。またしても薬品棚がすさまじい勢いで吹き飛び、ミナのすぐ側に叩きつけられた。その衝撃に、ミナの足がもつれる。体勢を立て直そうとするも、棚の残骸がその足を払った。前につんのめる形で、ミナは床に倒れこむ。
「いた……い」
 全身を打つ衝撃に、思わずミナは言葉を漏らす。やがてそれは、ひざやひじの、じんじんとした痛みへと変わっていく。立ち上がろうとすると、身体のあちこちが悲鳴をあげる。
 目覚めてから、ずっと誰かに守られていたミナにとって、初めて感じる痛みだった。痛いというのは、こんなに苦しいものだったのか。
 セトミも、こんなものを何度も感じながら、自分をここまで連れてきてくれたのか。
 不意に一瞬、そんな思いが脳裏をよぎった。
 だが、その思いを背後の気配が消し去る。
「おいついたぁ~」
 ふうふうという荒い呼吸音。重い足音。そして、そのうめく声。
 上半身をひねって後ろを見る。すでに手を伸ばせば届く距離のところに、クリーチャーは迫っていた。
「いただきまぁーす」
 消化斧を置き、その手がミナに迫る。立ち上がろうとするが、足がしびれたかのように動かない。
「ミナ!」
 エマの悲痛な叫びに、思わずミナがぐっと目をつぶったその時――――。
 斬。
 鋭く、冷たく、迷いもなく。何かが、何かを斬り裂く音が響いた。
「ぐぎゃあああぁぁぁぁ!」
 次の瞬間、この世のものとも思えぬ絶叫とともに、地面に衝撃が走る。反射的に、ミナはその先にあるものを見た。
 そこにいたのは、先ほどまで自分を脅かしていたものとは信じられぬほど血に染まり、ぴくぴくと痙攣しながら横たわる怪物と、一人の男。
 長い銀の髪に、丈夫そうな革のアーマーに身を包んだ男――――ハウリング・ウルフのリーダー、ロウガの姿だった。
- 思えば、その言葉をはじめて聞いたのは、いつのことだったか。ひどく昔だったようなきもするし、つい昨日のことのようにも思える。
「狼という動物を、知っていますか?」
 そう、その人は聞いた。
 十代もはじまったばかりの頃に暮らしていた、あの孤児院でのことだ。その人の名前は、忘れてしまった。ただ皆に先生、先生と慕われていたのはよく覚えている。
「毛皮をまとっていて、鋭い牙を持ち、群れで狩りをする動物です」
「先生、それは犬じゃないんですか?」
 確か自分は、そう聞いた気がする。
「うーん、犬とよく似た動物ではあります。実際、犬の祖先のようなものらしいですからね。ただ、彼らは犬ほど優しくはありません。人には慣れず、彼らは彼らの掟の元に生きる。そのためか、人間からは、悪いイメージを持たれていたようです。文明が興る以前には、悪魔とも関連付けられていたようですから」
 正直、その頃の自分には、はっきりとしたイメージがつかめなかった。元々すでに存在しない動物になっていたわけだし、悪魔もなにも、その頃にはただ漠然と悪いもの、としてしかイメージなどできなかったのだ。
 だから、先生が次に言った言葉など、理解のしようもなかった。
「でもね、私は、彼らが自分たちは人間からは悪者に見えるということを、知っていたんじゃないかと思うんですよ。自分は悪者だと知っていながら、自分に課した掟のみに従って生きる。それが時に悲しくて、彼らは慟哭に任せて、吼えるのではないか、と」
 だがその言葉は、理解できないながら、どこか自分の心のどこかに、まるで幼い頃に集めていた、自分だけの宝物のように、残っていた。
 それが少しだけ理解できたのは、妹が、死んだ……いや、殺されたとき。
 暗い満月の夜だった。雲が明るいはずだった月を朧に隠し、かじかむような冷たい空気に満ちた、恐らく生涯、忘れることのできないであろう、満月の夜。
 今となってはまるで夢幻の向こうのような記憶しかない、荒野の真ん中で。
 そこにいたのは、見上げてもその顔を仰ぎ見ることがやっとのような、巨躯を誇るヴィクティムだった。涙と闇に紛れてはいたが、そのひどく色のない表情は、焼印で焼き付けたかのように、今もまぶたの裏を熱く、じくじくと苛んでいる。
 後で知ることになるが、そのヴィクティムこそが、エデンを統べる存在だった。
 そいつは、抱えていた妹を、どさりと、冷たい地面に放り捨てた。あの愛らしかった瞳が、死んだ魚のように変わり果てて、自分を見た。
「残念だったな。その少女は、適応できなかったようだ」
 そのたった一言を残し、まるで妹の死など、取るに足らない瑣末なできごとのように、そのヴィクティムは去った。
「アイカ……! アイカぁぁぁ……!」
 無力な自分に、煮えたぎる溶岩のような怒りを覚えた。すべての歯をみずからの歯軋りでへし折りそうなほどに食いしばり、拳を己の腕力自身で砕きそうなほどに、きつく握りしめた。
 そして、理解した。
「う……」
 先生の言っていた、慟哭に任せて、吼えるということの意味を。
「おおおおおおおおおおおああぁぁぁぁぁぁあぁあ!!」
 だから自分は、その時まで負っていた自分の名前を、捨てた。
 そして、新たな名を背負った。
 仇を討つという、みずからに課した掟のためなら、人から悪魔と恐れられようとかまわぬ。ただ己の掟を遂行するための牙となれれば、それでいい。
 だから自分は、その頃からそう名乗ることにした。
 狼の牙……ロウガと-
 目の前の少女は、ひどく不思議そうに、彼――――ロウガを、を見た。感情の色の薄い、どこか空虚にも見えるその瞳は、あの日の妹のそれと、よく似ていた。
 それがロウガの心を揺さぶっていることに、彼女は気づくはずもないだろう。
「……ファースト・ワンの少女よ。あの娘は、どうした」
 思わず、ロウガはその少女――――ミナに、尋ねていた。少女はいよいよもって不思議そうに彼を見返すばかりだったが、実際、その言葉を不思議に思っているのは、彼も同じだった。
 ――――自分は、何を、この少女を気遣うようなことを言っているのか。確かにこの少女は妹とよく似てはいるが、所詮はただの手段にすぎない。復讐を果たすために利用するだけのものにすぎないというのに。
「……まあいい。こちらにとっては好都合だ。ともに来てもらおう。その力、我らハウリング・ウルフが使わせてもらう」
 だが、その言葉に、少女の瞳が険しく変わった。
「……やだ。ミナ、あなたとは、行かない」
 その瞳は、以前、ここから連れ出した時に見た、無を体現するかのようなそれとは違っていた。そこには、確かに明確な意思の光が見て取れた。そこいらにいるような人間よりも、はるかに強い意志を持った、光が。
「……ほう。なぜだ?」
「ミナ、あなたが思っているような兵器、違う。助けてくれたのうれしいけど、ミナ、あなたのモノじゃない」
 じりっ、と。少女がかすかに後ずさりながら身構えた。この少女がファースト・ワンとして覚醒し始めていることは、ミザリィから報告を受けている。
 無意識のうちに唇を噛みしめながら、ロウガは己の得物に手をかけた。
「……お前の意思など、関係ない。俺は、お前の力をもって、俺の掟を果たすだけだ。それが嫌だと言うなら……抗って見せるがいい」
 鋭く、ロウガはカタナに付着したクリーチャーの血を振り払う。どこか心の底に残る、水の底に溜まった泥のようなわだかまりを、切り捨てるように。
「安心しろ。ケガをさせるつもりはない。貴様の力を使うのに、それが十分に発揮できないのでは困るのでな。だが……多少の痛みは覚悟しておけ」
 ロウガのその言葉に、いよいよもって少女のその瞳が明確な敵意を帯びた。その、かすかに震える手には、因子抑制剤のアンプルが握られている。
「……フン、そういうことか」
 ロウガのその言葉に、少女もこちらがそれを見て取ったことに気づいたか、アンプルをかばうようにそれを持った手を背中へと回す。
「……ミナ、おねえちゃんのために……あなたには負けない」
「あの娘のために……か」
 ならば。自分は、死んだ妹のために。
 その言葉を口にしかけ、だがロウガはそれを飲み込んだ。自分は、狼。誰にも理解されずともいい。だから、余計な情念を生んでしまいそうな言葉など、必要ない。
「よかろう。意思をもって戦いに望むなら、お前を幼き娘とは認識せん。我が道に立ちふさがる、障害と識覚しよう。悪魔が立ちふさがるならば悪魔を斬る。神が邪魔をするなら神を斬る。誰にも、俺の歩む道の邪魔はさせん……!」
 今まで、どこかその姿に抱いていた哀れみを、ロウガは捨て去った。少なくとも、己では、捨て去ろうとした。
 ただそれは、己に課した掟を貫くために。
 ミナの右手が、その髪とよく似た、青い光をまとう。それとともに、彼女の右手はその形態を変えていく。幼き少女の右手から、異形とも思える、剣のような刃へ。
 その変化が収まった瞬間、ミナは駆けた。それは、その容姿からは想像もできない速さだ。やはり、因子を持つものだけあって、身体能力はヒューマンのそれなど凌駕している。
 高速でロウガに駆け寄り、ミナは右手の刃を繰り出す。
 ロウガはそれをスウェーでかわす。スピードは確かにあるが、運動量で直線的な攻撃をカバーしているに過ぎない。その攻撃は、まっすぐで、正直だ。軌道を読むのは、そう難しくはない。
「フッ……スピードはあるが、それでは俺には当たらんぞ」
 一歩後ろに下がり、ミナの間合いから離れながら、ロウガが笑う。
 と、一転、引いたと見せかけて、ロウガは大きく前へと踏み込む。身長差からその一歩の目測がつかなかったか、ミナが虚を突かれた形で硬直する。
 ロウガはカタナを鞘に収めたまま、振り払うようにしてミナの腹に当身を食らわせた。
「うっ……!」
 よろよろと後ずさるミナに前蹴りで追撃を試みるも、今度はすばやく反応したミナに、これはかわされる。
「……お前は、ファースト・ワンだ。因子の力でその身体能力も目覚めつつある。その力は、確かに脅威ではある。だが……お前には、絶対的に足りないものがある。わかるか?」
 痛みにか、それとも悔しさのためか歯を食いしばるミナに、ロウガは色のない表情で語りかける。
「……ひとつは、経験だ。大人の男と戦ったことなどあるまい。ゆえに、その一歩の踏み込みの大きさの予測がつかない。いかに人間を超えた力を持っているとしても、相手の挙動の予測がつかねば、対応はできん」
 ロウガの言葉に、ミナの瞳が鋭く細められる。同時に、再びミナが駆けた。先ほどと同じように、高速ですばやく、正面から。
「所詮はまだ幼き子供か……」
 その挙動に、ロウガは己の得物を構える。今度は、避けるのではなく、攻撃にて迎え撃つ。ミナが近づいてきたところを狙い、ロウガはまたも大きく踏み込んだ。
 だが。
 しっかりと視界に捉えていたはずのミナの姿が、消えた。それと同時に、かすかながら、左耳に空気を斬り裂く音が届いた。
 反射的に、ロウガは前に踏み込んだ姿勢から、前へと転がる。先ほどまで彼がいた空間を、刃が斬り裂く音が駆け抜けていった。
 ロウガは転がる勢いをそのまま活かし、受身の要領で立ち上がると、カタナを構えたまま、油断なく後ろを振り返った。
「……どうやら、俺にも慢心があったようだ。お前は、一度経験したパターンの有効な利用法を知っている」
 ゆらり、と。ロウガはカタナを抜く。刃を返し、峰に当たる部分をミナへと向けると、下段に、脇を閉めた形で刀を構えなおした。
「だがそれゆえに、相手のパターンが見たことのないものだと、対処ができない。そしてこれは……我が我流の技」
 そのカタナが、徐々に威圧するような覇気をまとっていく。まるでカタナがロウガの一部となったかのように、その闘気を遺憾なく発揮していく。
「セイッ!」
 気合の声とともに、ロウガはその神速をもってカタナを抜く。抜刀と同時に一気に降りぬいたその剣戟は、空気を斬り裂く真空の刃となってミナに襲いかかる。
「……………っ!」
 声にならないうめきとともに、ミナがその衝撃にひざをついた。抜刀の速さと衝撃波の速さは比例する。抜刀を見切れなければ、衝撃波をかわすことはできない。そして、それが鋭角に入るのを避けることも。
「悪いが、これで終いだな。今のがまともに入っては、もはや立つことはできまい。……さあ、俺と来てもらおう」
 カタナを納めながら、ロウガはその少女へと歩み寄る。ミナはひざをついたまま、うつむいて顔を上げることもない。
 しかし、ロウガが少女の目の前に立った、その瞬間。
 ぎりりと、歯を食いしばり、ミナが彼を見た。その瞳には、おおよそ、幼い少女のものとは思えない、燃え上がるような闘気が込められている。
「……なぜだ」
 思わず、ロウガは訊ねていた。不可解だ。この少女に、あのセトミという娘をそこまでして助ける理由など、彼には見当たらなかった。
「……セトミおねえちゃん、ミナと同じ。いろんな悲しいこと、あって……でも、それを越えて、生きてる。だから、ミナ、助けられるだけじゃない。おねえちゃんのために、なにかしたい」
 顔を上げることのないまま、ミナがぐっと、両の拳を握った。
 不意に、ロウガの背筋を、ぞくりと冷たいものが走る。それは、ヴィクティムとの戦いを始めてこの方、如何な相手にも感じたことのないような、危うい悪寒だった。
 ――――それを、眼前の年端もいかぬ少女が発している。ロウガは、一歩、後ろへと退いている自分に気づき、歯噛みした。冷たい汗が一筋、頬を伝って流れ落ちていく。
「ミナは、ミナの意思で戦う! ミナ、誰かに利用されるだけの兵器じゃない!」
 吼える言葉とともに、ミナは顔を上げた。その力強い意思の表示とともに、その姿がまばゆい光に包まれていく。
「な……なんだと!?」
 狼狽するロウガに、まるでその姿を知らしめようとするかのように、少女は立ち上がり、その両腕を十字に広げる。光の中に浮かぶそのシルエットが、不意に人にあらざる形を取った。
 少女の背に現れたそれは、紛れもなく、天使の背の羽そのものだった。
「これは……まさか、新たな力が目覚めたというのか……?」
 ぼう、と、まるで魅せられたようにその姿に見入るロウガの目に、徐々に宙へと浮かび上がっていくミナの姿が映る。
 我に返ったときには、その少女の姿はもはや、手の届かないところへと飛び去っていた。
「……しまっ……!」
「……行け!」
 ミナが、剣のごとく変化した右手を鋭く振るう。エネルギーの収束する甲高い音とともに、ロウガの足元が少女の髪の色に似た、透明な青に染まりだした。
「チィッ!」
 反射的に、ロウガは飛び込み前転の要領で前へと跳ぶ。次の瞬間、先ほどまで彼が建っていた場所が、ガンマレイででも撃たれたかのように、光とともに爆ぜた。
 それで生じた亀裂の向こうに、ミナがゆっくりと舞い降りる。その背は、まるでロウガなどすでに眼中にないかのように、部屋の入り口へと走り去ろうとする。
「……待て!」
 思わず出た声に、その背が一度、ぴたりと止まる。だが、その少女が振り返ろうとすることはない。
「……ミナ、おねえちゃんのところへ行く。もうこれ以上、邪魔しないで」
 突き放すように紡がれた言葉に、ロウガの二の句がたたらを踏む。そうこうしているうちに、その足は再び入り口へ向かい、そして姿を消した。
「……あれが、ファースト・ワンの更なる進化か……。あの娘……このまま戦いの渦中にさらされれば、いずれ……」
 その背が消えた先を見つめながら紡がれた言葉は、誰の耳に届くこともなく、静かに霧散した。