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1.屈辱の敗走-1

ー/ー



 何代か前の王が療養の地として作らせた郊外の庭園では、薄紫や青紫の瑞々しい菖蒲の花が、今まさに盛りを迎えていた。
 花々を()でながら、なだらかな丘陵を行けば、最奥に、こぢんまりとした館――。
 こぢんまり、というのは、あくまでも広大な王宮と比較してのことだ。国王の別荘として、申し分ない程度の壮麗さは備えている。
 現在では、『国宝級の科学者』という触れ込みで、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈(ムスカ)〉の潜伏場所となっているこの館は、現時点において、上方の階と下方の階とでは、まったくの別世界が繰り広げられていた。まるで、次元の刃が館を真横に斬り裂き、上下に真っ二つに分けたかのようである。
 正面玄関から、ほど近い一階の大広間では、摂政カイウォルが貴族(シャトーア)の若き当主ハオリュウを華やかにもてなしていた。一面の硝子張りの窓から見える菖蒲の花の美しさを讃えつつ、その水面下の根の様子を吟味するかのように、互いに見えぬ(はら)を探り合っている。
 一方、次元の裂け目によって、上方に斬り分けられた王妃の部屋は……修羅に支配された、血の舞台となっていた。
「俺を置いて、逃げろ!」
 ひときわ大きな、赤き血の華が咲いた。
「ルイフォン、行け――!」
(ムスカ)〉と組み合いながら、血まみれのリュイセンが床を転がった。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
 リュイセンの叫びが、強引にルイフォンの背中を押し出す。
 ルイフォンの心は、ここに留まりたいと叫んだ。
 まだ何か策はあるはずだと訴えた。
 けれど、自分の感情よりも、兄貴分の理性を信じた。
 ルイフォンは荒れ狂う心のままに、壁の姿見をナイフで割った。鏡の無垢なる煌めきを烈々と穿(うが)ち、粉々に砕き、千々(ちぢ)に散らしていく。
 兄貴分の思いを胸に(いだ)いて駆ける。
 控室と衣装部屋を区切るカーテンを、勢いよく薙ぎ払う。きらびやかな部屋を走り抜け、廊下へと飛び出す。
 ――どこかに隠れなければ……。
 予定では、夜まで身を潜めているはずだった。だから改めて夜を待ち、作戦を遂行するのだ。
 昼のうちに〈(ムスカ)〉と遭遇してしまったのは、ルイフォンが潜伏場所の安全確認を怠ったため。許されざる失態だ。その結果として、リュイセンが大怪我を負い、〈(ムスカ)〉の手に落ちた。
 ならば、ルイフォンがひとりでも、敢行せねばなるまい。
 これまで、それなりに館の中を動き回ったお陰で、だいたいの構造は把握している。埃まみれの区画は、誰も立ち入らない証拠であるから、潜伏するのならそういった場所だ。――いや、埃に足跡が残る。それは、まずい。彼は逃走中の身なのだから。
 今度こそ、安全に隠れられる場所を選ぶのだ。
 そして、深夜。〈(ムスカ)〉が自室でひとりになったときに――。
「――!」
 その瞬間、ルイフォンから血の気が引いた。
 無理だ。
 それは現実的ではない。
(ムスカ)〉への奇襲は、〈(ムスカ)〉が無警戒の状態で、かつ、リュイセンの武力があってこそ成功するものだ。潜入がばれた今、ルイフォンが単独で実行して、うまくいくはずもない――!
 ルイフォンは、足を止めた。
 自分が採るべき道は何か。
 彼は、自分が岐路に立たされたことに気づいた……。


 摂政カイウォルと貴族(シャトーア)の当主ハオリュウとの会食は、和やかなうちにお開きとなった。
「ハオリュウ君。今日は、とても有意義な時間を過ごせました。また、お会いできるのを楽しみにしていますよ」
 雅やかな笑顔を浮かべながら、カイウォルは支配者の威圧の視線をハオリュウに送った。意味するところは『次に会うときには、良い返事を聞かせるように』だ。
『良い返事』とは、言わずもがな『女王の婚約者ヤンイェンを失脚させ、ハオリュウが新たな女王の婚約者に収まると、承諾すること』である。
 まったくもって勝手なことである。
 だがカイウォルは、現状における、この国の最高権力者。迂闊な態度を取ることはできない。
「光栄の極みにございます。こちらこそ、楽しいひとときをありがとうございました」
 ハオリュウは、額面通りに受け取ったふりをして答えた。勿論、互いに上辺だけの挨拶であるとことは承知している。
 目上である摂政には室内で(いとま)を告げたが、玄関には見送りの使用人たちがずらりと並んでいた。そのため、ハオリュウは車に乗り込んでからも、利発で素直な少年当主の笑顔を貼り付け、にこやかに手を振り続けた。
 彼が、やっとひと息つけたのは、近衛隊が守る庭園の門を出て、しばらく経ってからのことである。
 車椅子に座っていたはずなのに、全身が悲鳴を上げていた。崩れ落ちるように、ぐったりと車のシートにもたれかかり、軽く(まぶた)を閉じる。ようやく十二歳の少年の顔で疲労を表すことを許されたのだ。
「ご苦労だったな」
 運転席から、緋扇シュアンの声が掛かった。愛想はないが、心からの労いだった。
「シュアン……」
 その先をなんと続けるべきか、ハオリュウは迷った。シュアンへの深い感謝の気持ちを、充分に言い表せる言葉を思いつけなかったのである。
 本来なら、ハオリュウひとりで摂政との会食に臨むはずだった。そこを、ルイフォンとリュイセンが車に隠れて館に潜入するという計画を立て、車と介助者が必要だと摂政に交渉した。シュアンという同行者は、いわば〈(ムスカ)〉捕獲作戦の副産物なのだ。
 けれど、彼が付き添ってくれて、どんなに心強かったことか。
 感謝してもしきれない……。
「……シュアン、ありがとうございました」
 結局、口から出た言葉はそれだった。陳腐かもしれないが、一番の気持ちだった。
 ひとこと思いが飛び出せば、あとから、あとから、感謝があふれてくる。
「あなたのお陰で、無事に切り抜けることができました。もしも、あなたがいなかったらと思うと、ぞっとします。なのに、あなたもお疲れのところ、運転までしていただいて……すみません」
「構わねぇよ。今日の俺の仕事は、あんたのお守りだ」
 シュアンは、『いつもの緋扇さんだと、貴族(シャトーア)の介助者としては、ちょっと……』と言われて、襟の高い正装で身を固め、オールバックと薄い色の眼鏡で変装――もとい、着飾っている。
 そのため、後部座席から見える後ろ姿は、まるで知らない他人のようであった。だが、運転席の斜め上にあるバックミラーでは、彼を特徴づける三白眼が眼鏡越しに優しく笑んでいる。
 ハオリュウは緊張からの解放を実感し、心が安らいでいくのを感じた。
 そのとき、シュアンの腹の虫がきゅるると苦言を申し立てた。ハオリュウは摂政と食事を摂ったわけだが、介助者に過ぎないシュアンは何も口にしていなかったのだ。
「すみません! あなたは飲まず食わずで……僕ばかり、申し訳ございません」
 慌てて頭を下げ、彼の食事を用意するようにと自宅に連絡すべく、ハオリュウは携帯端末を取り出す。それをシュアンの声が制した。
「待て。たぶん、これからちょっと野暮用がある」
「え?」
「いいから、餓鬼は餓鬼らしく素直に疲れたとわめいて、でかい顔をしていろ。一国の摂政を相手に、あんたはよくやったよ」
 そして、不意に……シュアンは角を曲がり、人気(ひとけ)のない路地で車を止めた。
「シュアン?」
 訝しがるハオリュウには答えず、シュアンはシートベルトを外した。運転手用の白い手袋の手が、堅苦しい高い襟の一番上のボタンを外し、オールバックの髪を崩す。
 それからシュアンは、ゆっくりと後部座席へと身を乗り出した。薄い色の眼鏡はそのままであったが、鋭い三白眼は今までとは別人のような凄みをまとっている。
「出てきていいぞ。車は、安全な場所に止めてある」
 シュアンの視線が、ハオリュウの足元――後部座席の下へと注がれる。
 ハオリュウが驚いて足をずらすと、人が隠れられるように細工した座席下の部分の板が外された。
 そこから現れたのは、うなだれた肩と、その背を流れる金の鈴――。
「――! ルイフォン!?」
 座席の下から這い出てきた彼は、蒼白な顔をしていた。いつもの強気な猫の目は輝きを失い、猫背というよりも身を縮こめているだけのように見える。
 作戦では、ルイフォンとリュイセンは、夜まで館に隠れて待機のはずだった。日中に行動を起こせば、ハオリュウの関与が露見する可能性あるためだ。
 なのに今。ルイフォンは、ここにいる。
 ――それはすなわち、作戦の失敗を意味していた。
 ハオリュウは、声を失った。ただ目を見開き、隣の座席でうつむくルイフォンを凝視する。幸い、外傷はないようだが、貴族(シャトーア)の彼に荒事はよく分からなかった。
「あんた、ひとりなのか……?」
 三白眼をわずかにひそめ、シュアンが静かに尋ねる。
 こくり。
 ルイフォンは、無言で頷いた。
 癖のある前髪が目元を隠す。普段の彼なら、決して、あり得ない仕草だった。
 車内に、暗い影が落ちる。
「――俺には、あんたの気配しか感じられなかったが……リュイセンの奴は、気配を消すのがうまいんだろうと思って……」
 中途半端に言葉を止め、シュアンは、がりがりと頭を掻いた。整髪料で固めてあった髪は完全に崩れ、馴染みのぼさぼさ頭が復元する。
「何があった? ……リュイセンは、どうした?」
 シュアンは、端的に問うた。状況から、おおよそのことが察せられるだけに、余計なことを省いたのだ。
「リュイセンが…………死んだかもしれない……」
「――!」
 絶句するシュアンとハオリュウの前で、ルイフォンは顔を覆う。
「作戦の途中で、俺たちは見つかっちまった。リュイセンは大怪我を負って、俺に逃げるように言った。『一度引いて、やり直せ!』――と」 
 そこで言葉を詰まらせたのか、ルイフォンが不自然に息を吐いた。その音が、やけに大きく響く。
「俺ひとりの武力では〈(ムスカ)〉を捕らえることはできない。だからリュイセンの『やり直せ』という言葉は、『仕切り直しだ』『一度この館を出て、策を練り直せ』と。そういう意味だと、俺は思った。――安易に、そう思っちまった……!」
 無力なルイフォンが、それでもあの館に留まり、〈(ムスカ)〉を捕らえようと試みるべきか。
 それとも、リュイセンをあの館に残したまま、撤退するべきか。
 岐路に立たされたルイフォンは、一度だけ立ち止まりはしたが、迷うことなく撤退を――館からの脱出を選んだ。それが適切な選択だと思ったし、リュイセンの『やり直せ』という言葉が背中を押した。
「それで俺は、潜入したときと同じ方法で脱出しようと、この車に乗り込んだ。タオロンは娘のファンルゥを人質に取られたままで、まだ協力を頼める状態じゃなかったから……」
『今なら、まだ脱出できる』と、ルイフォンは飛びついた。なんと幸運なのだと。即座にこの脱出方法を思いついた自分は賢い、とすら思った……。
「なるほどな。……失敗は仕方ねぇし、リュイセンが怪我をして捕虜になったのは厳しいが、あんただけでも逃げるという判断は悪くねぇだろ? リュイセンの言う通り、やり直せばいい。なんで、あいつが死んだなんて思うんだ?」
 馬鹿馬鹿しい、杞憂だ、とでもいうように、悪相を歪ませながら気安くシュアンが言う。――少なくとも、ルイフォンにはそう感じられた。
 刹那、ルイフォンの目の前が真っ赤に染まった。それは怒りの赤であり、血の赤だった。
「ふざけんな! リュイセンは……! 致命傷を負っていた!」
 ルイフォンの脳裏に蘇るのは、〈(ムスカ)〉と()み合いながら床を転がるリュイセンの姿。
 そして、敗走を決意したルイフォンを、満足そうに見送る笑顔だ。
 彼のために血路を開いてくれた兄貴分は、タオロンの渾身の一撃に対しては、すんでのところで直撃を避けていた。けれど、〈(ムスカ)〉の正面からの一刀を払いのけるだけの余力は残っていなかった……。
「……リュイセンは、俺を逃がすために……俺を守るために……ああ言っただけだ……」
 このままでは、ふたりとも捕まる。だから、せめてルイフォンだけでも――と、リュイセンは体を張ったのだ。
 何故、これほどまで簡単なことが分からなかったのだろう。どう考えても、明白ではないか。
 脱出の車に乗り込んでから気づくなんて、実に愚かで、利己的だ。
「俺は、リュイセンを見捨てて、逃げ出してきたんだ……」
 ルイフォンは、吐き捨てるように呟く。 
「……報告、しないと……。鷹刀に……」
 目は見えているはずのに、視界が赤くてたまらない。
 それでもルイフォンは、まるで機械人形のような動きで尻ポケットから携帯端末を取り出した。震える指で屋敷の番号を探す。しかし、気ばかりが焦り、いつまで経っても番号は見つからなかった。


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 何代か前の王が療養の地として作らせた郊外の庭園では、薄紫や青紫の瑞々しい菖蒲の花が、今まさに盛りを迎えていた。
 花々を|愛《め》でながら、なだらかな丘陵を行けば、最奥に、こぢんまりとした館――。
 こぢんまり、というのは、あくまでも広大な王宮と比較してのことだ。国王の別荘として、申し分ない程度の壮麗さは備えている。
 現在では、『国宝級の科学者』という触れ込みで、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉、〈|蝿《ムスカ》〉の潜伏場所となっているこの館は、現時点において、上方の階と下方の階とでは、まったくの別世界が繰り広げられていた。まるで、次元の刃が館を真横に斬り裂き、上下に真っ二つに分けたかのようである。
 正面玄関から、ほど近い一階の大広間では、摂政カイウォルが|貴族《シャトーア》の若き当主ハオリュウを華やかにもてなしていた。一面の硝子張りの窓から見える菖蒲の花の美しさを讃えつつ、その水面下の根の様子を吟味するかのように、互いに見えぬ|肚《はら》を探り合っている。
 一方、次元の裂け目によって、上方に斬り分けられた王妃の部屋は……修羅に支配された、血の舞台となっていた。
「俺を置いて、逃げろ!」
 ひときわ大きな、赤き血の華が咲いた。
「ルイフォン、行け――!」
〈|蝿《ムスカ》〉と組み合いながら、血まみれのリュイセンが床を転がった。
「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」
 リュイセンの叫びが、強引にルイフォンの背中を押し出す。
 ルイフォンの心は、ここに留まりたいと叫んだ。
 まだ何か策はあるはずだと訴えた。
 けれど、自分の感情よりも、兄貴分の理性を信じた。
 ルイフォンは荒れ狂う心のままに、壁の姿見をナイフで割った。鏡の無垢なる煌めきを烈々と|穿《うが》ち、粉々に砕き、|千々《ちぢ》に散らしていく。
 兄貴分の思いを胸に|抱《いだ》いて駆ける。
 控室と衣装部屋を区切るカーテンを、勢いよく薙ぎ払う。きらびやかな部屋を走り抜け、廊下へと飛び出す。
 ――どこかに隠れなければ……。
 予定では、夜まで身を潜めているはずだった。だから改めて夜を待ち、作戦を遂行するのだ。
 昼のうちに〈|蝿《ムスカ》〉と遭遇してしまったのは、ルイフォンが潜伏場所の安全確認を怠ったため。許されざる失態だ。その結果として、リュイセンが大怪我を負い、〈|蝿《ムスカ》〉の手に落ちた。
 ならば、ルイフォンがひとりでも、敢行せねばなるまい。
 これまで、それなりに館の中を動き回ったお陰で、だいたいの構造は把握している。埃まみれの区画は、誰も立ち入らない証拠であるから、潜伏するのならそういった場所だ。――いや、埃に足跡が残る。それは、まずい。彼は逃走中の身なのだから。
 今度こそ、安全に隠れられる場所を選ぶのだ。
 そして、深夜。〈|蝿《ムスカ》〉が自室でひとりになったときに――。
「――!」
 その瞬間、ルイフォンから血の気が引いた。
 無理だ。
 それは現実的ではない。
〈|蝿《ムスカ》〉への奇襲は、〈|蝿《ムスカ》〉が無警戒の状態で、かつ、リュイセンの武力があってこそ成功するものだ。潜入がばれた今、ルイフォンが単独で実行して、うまくいくはずもない――!
 ルイフォンは、足を止めた。
 自分が採るべき道は何か。
 彼は、自分が岐路に立たされたことに気づいた……。
 摂政カイウォルと|貴族《シャトーア》の当主ハオリュウとの会食は、和やかなうちにお開きとなった。
「ハオリュウ君。今日は、とても有意義な時間を過ごせました。また、お会いできるのを楽しみにしていますよ」
 雅やかな笑顔を浮かべながら、カイウォルは支配者の威圧の視線をハオリュウに送った。意味するところは『次に会うときには、良い返事を聞かせるように』だ。
『良い返事』とは、言わずもがな『女王の婚約者ヤンイェンを失脚させ、ハオリュウが新たな女王の婚約者に収まると、承諾すること』である。
 まったくもって勝手なことである。
 だがカイウォルは、現状における、この国の最高権力者。迂闊な態度を取ることはできない。
「光栄の極みにございます。こちらこそ、楽しいひとときをありがとうございました」
 ハオリュウは、額面通りに受け取ったふりをして答えた。勿論、互いに上辺だけの挨拶であるとことは承知している。
 目上である摂政には室内で|暇《いとま》を告げたが、玄関には見送りの使用人たちがずらりと並んでいた。そのため、ハオリュウは車に乗り込んでからも、利発で素直な少年当主の笑顔を貼り付け、にこやかに手を振り続けた。
 彼が、やっとひと息つけたのは、近衛隊が守る庭園の門を出て、しばらく経ってからのことである。
 車椅子に座っていたはずなのに、全身が悲鳴を上げていた。崩れ落ちるように、ぐったりと車のシートにもたれかかり、軽く|瞼《まぶた》を閉じる。ようやく十二歳の少年の顔で疲労を表すことを許されたのだ。
「ご苦労だったな」
 運転席から、緋扇シュアンの声が掛かった。愛想はないが、心からの労いだった。
「シュアン……」
 その先をなんと続けるべきか、ハオリュウは迷った。シュアンへの深い感謝の気持ちを、充分に言い表せる言葉を思いつけなかったのである。
 本来なら、ハオリュウひとりで摂政との会食に臨むはずだった。そこを、ルイフォンとリュイセンが車に隠れて館に潜入するという計画を立て、車と介助者が必要だと摂政に交渉した。シュアンという同行者は、いわば〈|蝿《ムスカ》〉捕獲作戦の副産物なのだ。
 けれど、彼が付き添ってくれて、どんなに心強かったことか。
 感謝してもしきれない……。
「……シュアン、ありがとうございました」
 結局、口から出た言葉はそれだった。陳腐かもしれないが、一番の気持ちだった。
 ひとこと思いが飛び出せば、あとから、あとから、感謝があふれてくる。
「あなたのお陰で、無事に切り抜けることができました。もしも、あなたがいなかったらと思うと、ぞっとします。なのに、あなたもお疲れのところ、運転までしていただいて……すみません」
「構わねぇよ。今日の俺の仕事は、あんたのお守りだ」
 シュアンは、『いつもの緋扇さんだと、|貴族《シャトーア》の介助者としては、ちょっと……』と言われて、襟の高い正装で身を固め、オールバックと薄い色の眼鏡で変装――もとい、着飾っている。
 そのため、後部座席から見える後ろ姿は、まるで知らない他人のようであった。だが、運転席の斜め上にあるバックミラーでは、彼を特徴づける三白眼が眼鏡越しに優しく笑んでいる。
 ハオリュウは緊張からの解放を実感し、心が安らいでいくのを感じた。
 そのとき、シュアンの腹の虫がきゅるると苦言を申し立てた。ハオリュウは摂政と食事を摂ったわけだが、介助者に過ぎないシュアンは何も口にしていなかったのだ。
「すみません! あなたは飲まず食わずで……僕ばかり、申し訳ございません」
 慌てて頭を下げ、彼の食事を用意するようにと自宅に連絡すべく、ハオリュウは携帯端末を取り出す。それをシュアンの声が制した。
「待て。たぶん、これからちょっと野暮用がある」
「え?」
「いいから、餓鬼は餓鬼らしく素直に疲れたとわめいて、でかい顔をしていろ。一国の摂政を相手に、あんたはよくやったよ」
 そして、不意に……シュアンは角を曲がり、|人気《ひとけ》のない路地で車を止めた。
「シュアン?」
 訝しがるハオリュウには答えず、シュアンはシートベルトを外した。運転手用の白い手袋の手が、堅苦しい高い襟の一番上のボタンを外し、オールバックの髪を崩す。
 それからシュアンは、ゆっくりと後部座席へと身を乗り出した。薄い色の眼鏡はそのままであったが、鋭い三白眼は今までとは別人のような凄みをまとっている。
「出てきていいぞ。車は、安全な場所に止めてある」
 シュアンの視線が、ハオリュウの足元――後部座席の下へと注がれる。
 ハオリュウが驚いて足をずらすと、人が隠れられるように細工した座席下の部分の板が外された。
 そこから現れたのは、うなだれた肩と、その背を流れる金の鈴――。
「――! ルイフォン!?」
 座席の下から這い出てきた彼は、蒼白な顔をしていた。いつもの強気な猫の目は輝きを失い、猫背というよりも身を縮こめているだけのように見える。
 作戦では、ルイフォンとリュイセンは、夜まで館に隠れて待機のはずだった。日中に行動を起こせば、ハオリュウの関与が露見する可能性あるためだ。
 なのに今。ルイフォンは、ここにいる。
 ――それはすなわち、作戦の失敗を意味していた。
 ハオリュウは、声を失った。ただ目を見開き、隣の座席でうつむくルイフォンを凝視する。幸い、外傷はないようだが、|貴族《シャトーア》の彼に荒事はよく分からなかった。
「あんた、ひとりなのか……?」
 三白眼をわずかにひそめ、シュアンが静かに尋ねる。
 こくり。
 ルイフォンは、無言で頷いた。
 癖のある前髪が目元を隠す。普段の彼なら、決して、あり得ない仕草だった。
 車内に、暗い影が落ちる。
「――俺には、あんたの気配しか感じられなかったが……リュイセンの奴は、気配を消すのがうまいんだろうと思って……」
 中途半端に言葉を止め、シュアンは、がりがりと頭を掻いた。整髪料で固めてあった髪は完全に崩れ、馴染みのぼさぼさ頭が復元する。
「何があった? ……リュイセンは、どうした?」
 シュアンは、端的に問うた。状況から、おおよそのことが察せられるだけに、余計なことを省いたのだ。
「リュイセンが…………死んだかもしれない……」
「――!」
 絶句するシュアンとハオリュウの前で、ルイフォンは顔を覆う。
「作戦の途中で、俺たちは見つかっちまった。リュイセンは大怪我を負って、俺に逃げるように言った。『一度引いて、やり直せ!』――と」 
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「俺ひとりの武力では〈|蝿《ムスカ》〉を捕らえることはできない。だからリュイセンの『やり直せ』という言葉は、『仕切り直しだ』『一度この館を出て、策を練り直せ』と。そういう意味だと、俺は思った。――安易に、そう思っちまった……!」
 無力なルイフォンが、それでもあの館に留まり、〈|蝿《ムスカ》〉を捕らえようと試みるべきか。
 それとも、リュイセンをあの館に残したまま、撤退するべきか。
 岐路に立たされたルイフォンは、一度だけ立ち止まりはしたが、迷うことなく撤退を――館からの脱出を選んだ。それが適切な選択だと思ったし、リュイセンの『やり直せ』という言葉が背中を押した。
「それで俺は、潜入したときと同じ方法で脱出しようと、この車に乗り込んだ。タオロンは娘のファンルゥを人質に取られたままで、まだ協力を頼める状態じゃなかったから……」
『今なら、まだ脱出できる』と、ルイフォンは飛びついた。なんと幸運なのだと。即座にこの脱出方法を思いついた自分は賢い、とすら思った……。
「なるほどな。……失敗は仕方ねぇし、リュイセンが怪我をして捕虜になったのは厳しいが、あんただけでも逃げるという判断は悪くねぇだろ? リュイセンの言う通り、やり直せばいい。なんで、あいつが死んだなんて思うんだ?」
 馬鹿馬鹿しい、杞憂だ、とでもいうように、悪相を歪ませながら気安くシュアンが言う。――少なくとも、ルイフォンにはそう感じられた。
 刹那、ルイフォンの目の前が真っ赤に染まった。それは怒りの赤であり、血の赤だった。
「ふざけんな! リュイセンは……! 致命傷を負っていた!」
 ルイフォンの脳裏に蘇るのは、〈|蝿《ムスカ》〉と|揉《も》み合いながら床を転がるリュイセンの姿。
 そして、敗走を決意したルイフォンを、満足そうに見送る笑顔だ。
 彼のために血路を開いてくれた兄貴分は、タオロンの渾身の一撃に対しては、すんでのところで直撃を避けていた。けれど、〈|蝿《ムスカ》〉の正面からの一刀を払いのけるだけの余力は残っていなかった……。
「……リュイセンは、俺を逃がすために……俺を守るために……ああ言っただけだ……」
 このままでは、ふたりとも捕まる。だから、せめてルイフォンだけでも――と、リュイセンは体を張ったのだ。
 何故、これほどまで簡単なことが分からなかったのだろう。どう考えても、明白ではないか。
 脱出の車に乗り込んでから気づくなんて、実に愚かで、利己的だ。
「俺は、リュイセンを見捨てて、逃げ出してきたんだ……」
 ルイフォンは、吐き捨てるように呟く。 
「……報告、しないと……。鷹刀に……」
 目は見えているはずのに、視界が赤くてたまらない。
 それでもルイフォンは、まるで機械人形のような動きで尻ポケットから携帯端末を取り出した。震える指で屋敷の番号を探す。しかし、気ばかりが焦り、いつまで経っても番号は見つからなかった。