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ー/ー



藤井の葬式からしばらくの間、俺は現実感のない日々を過ごした。ついこの間まで顔を合わせていた講義で、一人ぽつんと最後尾に座り、流れていく時間を他人の人生のように傍観しているだけだった。月曜から金曜まで、この一週間は一度も大学で藤井と顔を合わせていない。その事実が信じがたく、俺だけが薄く透明な膜で周囲から隔てられているかのように感じた。
 二週間ほど経ったある日、ふと講義中に藤井からの頼まれごとを思い出した。うちに帰ってきてパソコンを起動する。チャットの履歴を遡るとそれは見つかった。
『新曲のメロディがだいたいできたから、感想聞かせて』
 ときどき藤井は俺に曲の感想やら意見やらを求めてきた。藤井の名がネット上で有名になってきてからは、俺はことさら適当で投げやりな返事ばかり返していた。感じたこととむしろ逆を言って、あいつを落胆させたり、調子に乗せたりしたこともあった。だけどあいつはそんなことに気づかないどころが、どんどん次を求めてくる。「西村の分析はすごい」と言って。
 確かデータだけは受け取ったはずだと思い、ダウンロードフォルダの中を探していく。幸いデータは消去されずに残っていた。俺はそれを初めて再生した。
 本当に簡単なメロディーが何種類か流れた。恐らくAメロ、Bメロ、サビの骨格みたいなものだ。短いなりにも所々で弦楽器の音やピアノや太鼓が加わったりして、藤井らしさが感じられる面白いメロディだった。今はまだメモ程度のものであるこれにさらなる肉付けしていくと人気楽曲が生まれるのだ。その肉付けこそが肝心なのだが。
 もう感想も意見も伝えることはできないのだと思い、後ろめたさのようなものを感じながらフォルダを閉じた。パソコンをスリープさせようとして、しかし俺は手を止めた。
 待て。本当にそうなのか。何か伝えるべき相手は存在しないのか。
 チャットとデータは俺と藤井だけの間の、ごく個人的なやり取りだ。藤井が製作過程で自分の曲について彼女の綾乃さんとどれくらい情報を共有しているか、俺は知らない。まあ、彼女はもともと藤井の楽曲のファンだから、かなり早い段階でも藤井が聞かせているということは充分ありうる。だが万が一、綾乃さんがこの未発表曲の存在を知らなかったら。彼女には自分の彼氏が残した最後の曲を聞く権利があるのではないか。
 綾乃さんはチャットにはログインしていない。なので俺はSNSのほうでメッセージを送ることにした。
『藤井が書いていた新曲、まだ未完成だったとは思いますが聴きましたか』
 数十分後、返信が届いた。
『話しか聞いていません。未完成の曲を誰かに聴かせるのは恥ずかしいって言ってましたから』
 未熟な処女作をいきなり動画サイトに投稿した男が、そんなことを恥ずかしがっていたとは、どう考えても想像できなかった。しかし綾乃さんでさえこの曲を聴いたことがないのなら、俺がそういう藤井を知らなかっただけのことだろう。
 両親が藤井のパソコンからデータを漁っているなんてことは考えにくい。あいつはしっかりパスワードもかけている。彼女でさえこの曲を聞いたことはない。ならば恐らく俺が持っているこの製作途中の曲データは、俺のほかには誰も内容を知らないということになる。
 そして綾乃さんにはこのデータを受け取る権利があるように思える。藤井だって、いくら未完成の状態で聴かれるのが恥ずかしいと言ったって、これくらいは許してくれるだろう。
『俺の手元に、あいつが最後に作っていた曲のデータがあります。綾乃さんにこれを送っても、あいつは怒らないと思う』
 データを添付してメッセージを送ろうとして、送信ボタンをクリックする手が一瞬止まった。プロ寸前の男が書いた、世界中の誰も知らない曲。俺しか知らない曲。これを使えば、もしかしたら――。
 馬鹿、それじゃ盗作だ。クリエイターの風上にも置けない。今は藤井の友人としての義務を果たそう。思い直した俺はデータを送信した。
 また時間をあけて返信が来る。
『わざわざ教えてくれてありがとう。でも私にはまだ、聴けそうにないです。すみません』
 ちょっと拍子抜けしたが、そうか、そうだよな、と不躾なメッセージを送ってしまったことを謝った。俺はデータの転送をキャンセルした。綾乃さんは、『気にしないで。気持ちがもっと落ち着いたら聞かせてもらいます』と優しく答えた。
 俺は役目が終わってしまった役者のように急に所在無くなり、夕方になっても電気も点けずに座っていた。暗い部屋で簡単に夕食を済ませ、ふと思いついていつか藤井が言っていたウェブサイトを訪れた。
「見てくれよ西村。俺の記事が載ってる!」
 そう言って藤井が教えてくれたものだが、俺はしっかりと中身を読んでいなかった。それを最後まで読み終える。発売予定のアルバムに関する情報。タイトルは未定。十曲ほど発表済みの曲の名前が並び、残りの三曲はやはり未定。この『未定』が書き換わることはもうないと俺は知っている。
 ネットでの知名度が知名度なので藤井本人に関する情報のまとめサイトも作られていた。しかしそこでは藤井の死は語られていない。藤井の早すぎる永眠が遺族によって世間、というかファンたちに知らされたのは、さらにその二週間後のことだった。
 その日から動画サイトの藤井の投稿作品には、冥福を祈る多数のコメントが寄せられた。藤井の残した作品は、いつまでもファンたちに愛され続けるのだろうか。
「もし、死んだのが俺だったら」
 そう思うと辛くなった。俺の死は家族や友人には多少の影響を与えるかもしれないが、その対象はごく狭い範囲の人間たちに限られているだろう。一方、藤井の死は何千、何万という人々に影響を与えているように思えた。
 俺にはファンなど一人もいない。死後に何も残るものがない。このまま死んでも、すぐに世界から忘れ去られる……。
 急に湧き上がってきた危機感を振り払うように、俺はパソコンをシャットダウンした。何を焦っているのか。
 激しい雨音がしていることに気づいた。降り始めたのがいつか分からない。締め切ったカーテンの向こう側は、相当降っているようだ。
 ベッドの上に身を横たえる。だいぶ冷え込んでいる。布団を引き寄せた。
 夢を見た。俺の作った楽曲がネット上の動画投稿サイトで話題になり、新星の天才クリエイターとして注目を集める。楽曲がカラオケのランキングに登場し、レコード会社からメジャーデビューの話が来る。CMやアニメ主題歌のオファーが来る。何十万、何百万のファンが俺の作る新作を今か今かと待っている。俺は同じように動画投稿サイトを通じて知り合ったクリエイターたちとコラボレーションし、ライブを開く。そこで俺の大ファンだという女性と知り合う。二人は音楽について語り合ううち、恋に落ち、付き合い始める……。
 藤井と綾乃さんの顔が浮かぶと同時に、夢はぷつりと途切れた。朝だった。
 シャワーを浴び、着替え、大学に向かった。ポケットに手を入れ、裸の銀杏並木を独り歩く。以前より少しつまらない一日が、また始まる。



 冬の寒さがだいぶ和らいだころ。
 珍しく綾乃さんからチャットで話しかけられた。
『西村くん、いますか?』
 俺は少し緊張しつつ、キーボードを叩いた。
『いますよ』
『今だいじょぶですか?』
『だいたい暇なのでおkです』
 今までの俺と綾乃さんとの接点には、必ず何かしらの形で藤井が関わっていた。俺と綾野さんは藤井のこと以外で会ったり、チャットやSNSをしたりすることはなかった。だから今回も、当然藤井に関する相談なのだと想像がついた。
『最近SNS見ましたか?』
 俺は逐一自分がどこにいるとか、何をしたとか、報告するのは面倒な性質だった。もともと頻繁に利用するユーザーではなかったが、藤井がいなくなってからはさらにSNS離れが進行していた。
『今月は見てないですけど』
『じゃあちょっと見てもらえますか。それから藤井くんのまとめサイトも』
 俺は綾乃さんの意図が分からぬまま、SNSのサイトを開いてログイン。別ウィンドウで藤井の名前を検索ボックスに入力する。といっても本名ではなくクリエイターとしての名前だが。あの訃報以来、また何か新情報がアップされたのだろうか。藤井がこの世にいない以上、更新するような情報は出てこないはずだが。
 俺は自分のSNSのページを見て唖然とした。お知らせが百十五件も溜まっている。普段は一週間くらい放置しても、一、二件ほどしかないのに、これは異常事態だ。綾乃さんはもしやこれを知っていたのか。
 お知らせの一覧を恐る恐る開く。『○○さんから新着メッセージが届きました!』がずらずらと並んでいるが、どの名前にも心当たりがない。そもそも現実にだってこんなに連絡を取り合うような友人はいない。
『メッセージがすごいことになってます』
 とりあえず綾乃さんに報告して、適当に一つを開いてみる。
 


【件名:作品は世に出ることを望んでいる】

 クリエイターにとって最高の喜びとは何か? それは無論、己が生み出した子であり、魂の一部である作品たちが世に出て、多くの人たちに鑑賞され、共有され、愛されることだ。未発表の作品たちを、あなたがたの勝手な理由で閉じ込め、腐らせておくことは赦されない。彼はそんなことを望んではいない。むしろクリエイターとしての彼を愚弄し、数々の名曲を生み出したその生き様を侮辱する行為にも等しいということを知るべきだ。…………



【件名:お願いします】

 三曲目の「ズル休みファンタジア」からT.Fさんのファンです。全曲スマホにダウンロードして、毎日聴きながら通学してます。T.Fさんは私の神です。T.Fさんが作る曲は私の全てです。ひとつでも多くT.Fさんの曲が聞きたいので、新曲があるなら公開してください。私のようにT.Fさんの曲を待っている人がたくさんいるはずです。…………



『なんですかこれ。どれも頭ぶっとんでるんですが、、、』
 全て読んだわけではないが、どれもこれも主張は似たようなものだった。
『やっぱり西村くんも私と同じような状況なんですね』
『じゃあ綾乃さんも? 何が起きてるんです?』
『まとめサイトを見てください』
 まとめサイトは目立った変化はないように見える。が、ひとつ項目が増えている。
 ――幻のデビューアルバムに収録されるはずだった新曲は存在している!?
 項目をクリックすると、なんと見覚えのある文が画面に映し出された。
 俺と綾乃さんがSNSで交わしたやり取りがそのまま引用されているではないか。

***

A:藤井が書いていた新曲、まだ未完成だったとは思いますが聴きましたか。
B:話しか聞いていません。未完成の曲を誰かに聴かせるのは恥ずかしいって言ってましたから。
A:俺の手元に、あいつが最後に作っていた曲のデータがあります。綾乃さんにこれを送ってもあいつは怒らないと思う。
B:わざわざ教えてくれてありがとう。でも私にはまだ、聴けそうにないです。すみません。

 これは某SNSでのやり取りで、AはT.Fと同じ大学に通っていると思われる友人(プロフィール欄に記載あり)。Bは女性のようなので、噂どおりT.Fが男性なら、彼女の可能性あり。二人のやり取りはT.Fの死後、かつ公式な訃報以前の期間になされたもので、やり取りの中の藤井がT.Fだと考えてよいだろう。つまりFは「藤井」のFだという可能性が考えられる。また、T.F氏の七曲目の投稿の背景画像は、S県XXで撮られた可能性が高いと見られており、この場所はAの在学する大学から自転車で三十分もかからない。これらの仮定が正しければ、完成度は不明だが、確かにT.Fの新曲は存在すると言える。…………
 T.F氏が残した最後の曲を公開するように、遺族やA、Bへメール、メッセージなどを送りましょう。AのIDxxx。BのIDxxx。 ※友達登録しなくてもメッセージを送ることは可能です。

***

『全部読みました』
 俺は一気に読んでキーを叩いた。それからSNSの自分のページから個人設定の項目を開く。案の定、メッセージの公開範囲が『全員』になっていた。俺は頭を抱えた。
『私たちのメッセージのやり取りを読んで、藤井くんが未発表の新曲を残したことに気づいた人たちがいるみたいで、、、』
『この人たち、特定に情熱かけすぎですよ! 怖すぎ。とにかくすみません。メッセージボードの公開設定が、全員になってました。完全に俺のせいです』
 今更遅いが、設定を『友達のみ』に変更した。俺のメッセージボードに興味を示す人間がいるなんて思ってもみなかった。
 何が神だ。何が作品は世に出ることを望んでいるだ。結局自分が曲を聞きたいだけで、こちら側の人間の気持ちなど微塵も分かっていない。身勝手で不躾で礼儀も何もない。
 よく自分が好きな作品を神曲、神ゲーなどと言って祭り上げて行き過ぎた言動を取る者がいる。彼らはその盲目ぶりや自己中心的な言動から、時に『信者』と呼ばれることがある。俺と綾乃さんにメッセージを送ってきた人間たちがまさにそれと言ってよいだろう。
 綾乃さんは彼らの狂気を怖がっていた。好きなものを好きと言うのが悪いことだとは思わないが、あのメッセージの山は常軌を逸している。
 俺はあんなメッセージ、全て無視するつもりでいる。本当にくだらない。狂っている。私の神だって? 頭がおかしいんじゃないのか。藤井は藤井だ。そして曲は曲でしかない。
 馬鹿げている。
 俺は無性に腹が立っていた。それでいて胸の内側をヤスリで擦られるような、苦しさを感じていた。このまま何もせずにいたら苦しさが痛みに変わって耐えられなくなりそうだった。飲みかけのウイスキーのビンが目に止まった。グラスと氷を出してきて一気にあおった。胸の痛みが少し和らぐ。俺はパソコンで音楽プレイヤーを起動する。窓を閉め、ボリュームを上げ、ランダムで曲を再生。さらにもう一杯注ぐ。
 懐かしいメロディが流れてきた。イントロだけで分かる。俺が中学生くらいのころ、憧れていたバンドの曲。リリースはもう十五年くらい前か。少し下手な、しかし温かみのある男性ボーカルの声が流れ出す。俺は自然と一緒に口ずさんでいる。
 サビまで気分よく歌い終わり、再びグラスに口をつけた。
「え、何これマジ懐かしいんだけど!」
 藤井も同じバンドが好きだと言った。
「西村ライブ行ったことあんの? マジで? 俺まだ行ったことねーぞ!」
 そして藤井は、いつか一緒にライブに行こうと俺を誘った。そのときまでに、お互い彼女ができたら四人で、とも。
 ボーカルが吠える。孤独な狼が月に向かって命を主張するように。そっと恋人の耳に囁くように。世界中で最も無力でちっぽけな自分を嘆くように。俺も唄った。誰かに聞かせるためではなく、金のためでも名誉のためでも夢のためでもなく、俺が唄いたかったから。
 藤井は死んだ。
 死してなお俺のすぐそばにいて、俺のことを笑ってやがる。あいつは俺がほしかったものを全部持っている。どうしてあいつばっかり。俺じゃなくて、よりにもよってあいつなんだ。
 あんなやつ死ねばよかったのだ。俺は酒を飲む。そして気づけば頬が熱を持ち、濡れていた。その辺に落ちていた布切れに顔をこすり付けて、鬱陶しくも愛おしいそれを拭った。冷静になってから見るとその布は洗濯していない俺の下着だった。
 明日も朝から講義がある。しかし俺はそんなこと気にも留めず、潰れるまで飲み、唄い続けた。


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 二週間ほど経ったある日、ふと講義中に藤井からの頼まれごとを思い出した。うちに帰ってきてパソコンを起動する。チャットの履歴を遡るとそれは見つかった。
『新曲のメロディがだいたいできたから、感想聞かせて』
 ときどき藤井は俺に曲の感想やら意見やらを求めてきた。藤井の名がネット上で有名になってきてからは、俺はことさら適当で投げやりな返事ばかり返していた。感じたこととむしろ逆を言って、あいつを落胆させたり、調子に乗せたりしたこともあった。だけどあいつはそんなことに気づかないどころが、どんどん次を求めてくる。「西村の分析はすごい」と言って。
 確かデータだけは受け取ったはずだと思い、ダウンロードフォルダの中を探していく。幸いデータは消去されずに残っていた。俺はそれを初めて再生した。
 本当に簡単なメロディーが何種類か流れた。恐らくAメロ、Bメロ、サビの骨格みたいなものだ。短いなりにも所々で弦楽器の音やピアノや太鼓が加わったりして、藤井らしさが感じられる面白いメロディだった。今はまだメモ程度のものであるこれにさらなる肉付けしていくと人気楽曲が生まれるのだ。その肉付けこそが肝心なのだが。
 もう感想も意見も伝えることはできないのだと思い、後ろめたさのようなものを感じながらフォルダを閉じた。パソコンをスリープさせようとして、しかし俺は手を止めた。
 待て。本当にそうなのか。何か伝えるべき相手は存在しないのか。
 チャットとデータは俺と藤井だけの間の、ごく個人的なやり取りだ。藤井が製作過程で自分の曲について彼女の綾乃さんとどれくらい情報を共有しているか、俺は知らない。まあ、彼女はもともと藤井の楽曲のファンだから、かなり早い段階でも藤井が聞かせているということは充分ありうる。だが万が一、綾乃さんがこの未発表曲の存在を知らなかったら。彼女には自分の彼氏が残した最後の曲を聞く権利があるのではないか。
 綾乃さんはチャットにはログインしていない。なので俺はSNSのほうでメッセージを送ることにした。
『藤井が書いていた新曲、まだ未完成だったとは思いますが聴きましたか』
 数十分後、返信が届いた。
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 両親が藤井のパソコンからデータを漁っているなんてことは考えにくい。あいつはしっかりパスワードもかけている。彼女でさえこの曲を聞いたことはない。ならば恐らく俺が持っているこの製作途中の曲データは、俺のほかには誰も内容を知らないということになる。
 そして綾乃さんにはこのデータを受け取る権利があるように思える。藤井だって、いくら未完成の状態で聴かれるのが恥ずかしいと言ったって、これくらいは許してくれるだろう。
『俺の手元に、あいつが最後に作っていた曲のデータがあります。綾乃さんにこれを送っても、あいつは怒らないと思う』
 データを添付してメッセージを送ろうとして、送信ボタンをクリックする手が一瞬止まった。プロ寸前の男が書いた、世界中の誰も知らない曲。俺しか知らない曲。これを使えば、もしかしたら――。
 馬鹿、それじゃ盗作だ。クリエイターの風上にも置けない。今は藤井の友人としての義務を果たそう。思い直した俺はデータを送信した。
 また時間をあけて返信が来る。
『わざわざ教えてくれてありがとう。でも私にはまだ、聴けそうにないです。すみません』
 ちょっと拍子抜けしたが、そうか、そうだよな、と不躾なメッセージを送ってしまったことを謝った。俺はデータの転送をキャンセルした。綾乃さんは、『気にしないで。気持ちがもっと落ち着いたら聞かせてもらいます』と優しく答えた。
 俺は役目が終わってしまった役者のように急に所在無くなり、夕方になっても電気も点けずに座っていた。暗い部屋で簡単に夕食を済ませ、ふと思いついていつか藤井が言っていたウェブサイトを訪れた。
「見てくれよ西村。俺の記事が載ってる!」
 そう言って藤井が教えてくれたものだが、俺はしっかりと中身を読んでいなかった。それを最後まで読み終える。発売予定のアルバムに関する情報。タイトルは未定。十曲ほど発表済みの曲の名前が並び、残りの三曲はやはり未定。この『未定』が書き換わることはもうないと俺は知っている。
 ネットでの知名度が知名度なので藤井本人に関する情報のまとめサイトも作られていた。しかしそこでは藤井の死は語られていない。藤井の早すぎる永眠が遺族によって世間、というかファンたちに知らされたのは、さらにその二週間後のことだった。
 その日から動画サイトの藤井の投稿作品には、冥福を祈る多数のコメントが寄せられた。藤井の残した作品は、いつまでもファンたちに愛され続けるのだろうか。
「もし、死んだのが俺だったら」
 そう思うと辛くなった。俺の死は家族や友人には多少の影響を与えるかもしれないが、その対象はごく狭い範囲の人間たちに限られているだろう。一方、藤井の死は何千、何万という人々に影響を与えているように思えた。
 俺にはファンなど一人もいない。死後に何も残るものがない。このまま死んでも、すぐに世界から忘れ去られる……。
 急に湧き上がってきた危機感を振り払うように、俺はパソコンをシャットダウンした。何を焦っているのか。
 激しい雨音がしていることに気づいた。降り始めたのがいつか分からない。締め切ったカーテンの向こう側は、相当降っているようだ。
 ベッドの上に身を横たえる。だいぶ冷え込んでいる。布団を引き寄せた。
 夢を見た。俺の作った楽曲がネット上の動画投稿サイトで話題になり、新星の天才クリエイターとして注目を集める。楽曲がカラオケのランキングに登場し、レコード会社からメジャーデビューの話が来る。CMやアニメ主題歌のオファーが来る。何十万、何百万のファンが俺の作る新作を今か今かと待っている。俺は同じように動画投稿サイトを通じて知り合ったクリエイターたちとコラボレーションし、ライブを開く。そこで俺の大ファンだという女性と知り合う。二人は音楽について語り合ううち、恋に落ち、付き合い始める……。
 藤井と綾乃さんの顔が浮かぶと同時に、夢はぷつりと途切れた。朝だった。
 シャワーを浴び、着替え、大学に向かった。ポケットに手を入れ、裸の銀杏並木を独り歩く。以前より少しつまらない一日が、また始まる。
 冬の寒さがだいぶ和らいだころ。
 珍しく綾乃さんからチャットで話しかけられた。
『西村くん、いますか?』
 俺は少し緊張しつつ、キーボードを叩いた。
『いますよ』
『今だいじょぶですか?』
『だいたい暇なのでおkです』
 今までの俺と綾乃さんとの接点には、必ず何かしらの形で藤井が関わっていた。俺と綾野さんは藤井のこと以外で会ったり、チャットやSNSをしたりすることはなかった。だから今回も、当然藤井に関する相談なのだと想像がついた。
『最近SNS見ましたか?』
 俺は逐一自分がどこにいるとか、何をしたとか、報告するのは面倒な性質だった。もともと頻繁に利用するユーザーではなかったが、藤井がいなくなってからはさらにSNS離れが進行していた。
『今月は見てないですけど』
『じゃあちょっと見てもらえますか。それから藤井くんのまとめサイトも』
 俺は綾乃さんの意図が分からぬまま、SNSのサイトを開いてログイン。別ウィンドウで藤井の名前を検索ボックスに入力する。といっても本名ではなくクリエイターとしての名前だが。あの訃報以来、また何か新情報がアップされたのだろうか。藤井がこの世にいない以上、更新するような情報は出てこないはずだが。
 俺は自分のSNSのページを見て唖然とした。お知らせが百十五件も溜まっている。普段は一週間くらい放置しても、一、二件ほどしかないのに、これは異常事態だ。綾乃さんはもしやこれを知っていたのか。
 お知らせの一覧を恐る恐る開く。『○○さんから新着メッセージが届きました!』がずらずらと並んでいるが、どの名前にも心当たりがない。そもそも現実にだってこんなに連絡を取り合うような友人はいない。
『メッセージがすごいことになってます』
 とりあえず綾乃さんに報告して、適当に一つを開いてみる。
【件名:作品は世に出ることを望んでいる】
 クリエイターにとって最高の喜びとは何か? それは無論、己が生み出した子であり、魂の一部である作品たちが世に出て、多くの人たちに鑑賞され、共有され、愛されることだ。未発表の作品たちを、あなたがたの勝手な理由で閉じ込め、腐らせておくことは赦されない。彼はそんなことを望んではいない。むしろクリエイターとしての彼を愚弄し、数々の名曲を生み出したその生き様を侮辱する行為にも等しいということを知るべきだ。…………
【件名:お願いします】
 三曲目の「ズル休みファンタジア」からT.Fさんのファンです。全曲スマホにダウンロードして、毎日聴きながら通学してます。T.Fさんは私の神です。T.Fさんが作る曲は私の全てです。ひとつでも多くT.Fさんの曲が聞きたいので、新曲があるなら公開してください。私のようにT.Fさんの曲を待っている人がたくさんいるはずです。…………
『なんですかこれ。どれも頭ぶっとんでるんですが、、、』
 全て読んだわけではないが、どれもこれも主張は似たようなものだった。
『やっぱり西村くんも私と同じような状況なんですね』
『じゃあ綾乃さんも? 何が起きてるんです?』
『まとめサイトを見てください』
 まとめサイトは目立った変化はないように見える。が、ひとつ項目が増えている。
 ――幻のデビューアルバムに収録されるはずだった新曲は存在している!?
 項目をクリックすると、なんと見覚えのある文が画面に映し出された。
 俺と綾乃さんがSNSで交わしたやり取りがそのまま引用されているではないか。
***
A:藤井が書いていた新曲、まだ未完成だったとは思いますが聴きましたか。
B:話しか聞いていません。未完成の曲を誰かに聴かせるのは恥ずかしいって言ってましたから。
A:俺の手元に、あいつが最後に作っていた曲のデータがあります。綾乃さんにこれを送ってもあいつは怒らないと思う。
B:わざわざ教えてくれてありがとう。でも私にはまだ、聴けそうにないです。すみません。
 これは某SNSでのやり取りで、AはT.Fと同じ大学に通っていると思われる友人(プロフィール欄に記載あり)。Bは女性のようなので、噂どおりT.Fが男性なら、彼女の可能性あり。二人のやり取りはT.Fの死後、かつ公式な訃報以前の期間になされたもので、やり取りの中の藤井がT.Fだと考えてよいだろう。つまりFは「藤井」のFだという可能性が考えられる。また、T.F氏の七曲目の投稿の背景画像は、S県XXで撮られた可能性が高いと見られており、この場所はAの在学する大学から自転車で三十分もかからない。これらの仮定が正しければ、完成度は不明だが、確かにT.Fの新曲は存在すると言える。…………
 T.F氏が残した最後の曲を公開するように、遺族やA、Bへメール、メッセージなどを送りましょう。AのIDxxx。BのIDxxx。 ※友達登録しなくてもメッセージを送ることは可能です。
***
『全部読みました』
 俺は一気に読んでキーを叩いた。それからSNSの自分のページから個人設定の項目を開く。案の定、メッセージの公開範囲が『全員』になっていた。俺は頭を抱えた。
『私たちのメッセージのやり取りを読んで、藤井くんが未発表の新曲を残したことに気づいた人たちがいるみたいで、、、』
『この人たち、特定に情熱かけすぎですよ! 怖すぎ。とにかくすみません。メッセージボードの公開設定が、全員になってました。完全に俺のせいです』
 今更遅いが、設定を『友達のみ』に変更した。俺のメッセージボードに興味を示す人間がいるなんて思ってもみなかった。
 何が神だ。何が作品は世に出ることを望んでいるだ。結局自分が曲を聞きたいだけで、こちら側の人間の気持ちなど微塵も分かっていない。身勝手で不躾で礼儀も何もない。
 よく自分が好きな作品を神曲、神ゲーなどと言って祭り上げて行き過ぎた言動を取る者がいる。彼らはその盲目ぶりや自己中心的な言動から、時に『信者』と呼ばれることがある。俺と綾乃さんにメッセージを送ってきた人間たちがまさにそれと言ってよいだろう。
 綾乃さんは彼らの狂気を怖がっていた。好きなものを好きと言うのが悪いことだとは思わないが、あのメッセージの山は常軌を逸している。
 俺はあんなメッセージ、全て無視するつもりでいる。本当にくだらない。狂っている。私の神だって? 頭がおかしいんじゃないのか。藤井は藤井だ。そして曲は曲でしかない。
 馬鹿げている。
 俺は無性に腹が立っていた。それでいて胸の内側をヤスリで擦られるような、苦しさを感じていた。このまま何もせずにいたら苦しさが痛みに変わって耐えられなくなりそうだった。飲みかけのウイスキーのビンが目に止まった。グラスと氷を出してきて一気にあおった。胸の痛みが少し和らぐ。俺はパソコンで音楽プレイヤーを起動する。窓を閉め、ボリュームを上げ、ランダムで曲を再生。さらにもう一杯注ぐ。
 懐かしいメロディが流れてきた。イントロだけで分かる。俺が中学生くらいのころ、憧れていたバンドの曲。リリースはもう十五年くらい前か。少し下手な、しかし温かみのある男性ボーカルの声が流れ出す。俺は自然と一緒に口ずさんでいる。
 サビまで気分よく歌い終わり、再びグラスに口をつけた。
「え、何これマジ懐かしいんだけど!」
 藤井も同じバンドが好きだと言った。
「西村ライブ行ったことあんの? マジで? 俺まだ行ったことねーぞ!」
 そして藤井は、いつか一緒にライブに行こうと俺を誘った。そのときまでに、お互い彼女ができたら四人で、とも。
 ボーカルが吠える。孤独な狼が月に向かって命を主張するように。そっと恋人の耳に囁くように。世界中で最も無力でちっぽけな自分を嘆くように。俺も唄った。誰かに聞かせるためではなく、金のためでも名誉のためでも夢のためでもなく、俺が唄いたかったから。
 藤井は死んだ。
 死してなお俺のすぐそばにいて、俺のことを笑ってやがる。あいつは俺がほしかったものを全部持っている。どうしてあいつばっかり。俺じゃなくて、よりにもよってあいつなんだ。
 あんなやつ死ねばよかったのだ。俺は酒を飲む。そして気づけば頬が熱を持ち、濡れていた。その辺に落ちていた布切れに顔をこすり付けて、鬱陶しくも愛おしいそれを拭った。冷静になってから見るとその布は洗濯していない俺の下着だった。
 明日も朝から講義がある。しかし俺はそんなこと気にも留めず、潰れるまで飲み、唄い続けた。