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ー/ー
二年生に上がると、後輩ができた。これまで電音研には女子がいなかったが、新しい後輩は莉子(りこ)という名前の女子だった。俺を含めた馬鹿な男どもはその事実だけでテンションが跳ね上がって浮かれたが、まあこんな地味なサークルに入ってくる女子なんてだいたい知れている。要は莉子は色気とか華やかさとは無縁の地味な女子である。同じ音楽をするにしても、マイクを握ってステージに立って歌うような女子と、パソコンをいじって曲データを編集するような女子とでは全然種類が違う。
「これ、西村先輩が作ったんですか」
「ん、まあな」
「かっこいいです! こんなの作れたら最高です」
とはいえ女の子から賞賛されれば嬉しくないわけがなかった。
「誰でもこのくらいできるようになる」
「これ、フルバージョンないんですか。あとボーカルは?」
「遊びで作っただけだから、ないんだ。まあ、いずれ完成したら投稿してみるつもりだけどな」
これが俺の逃げ口上だった。ちょっと遊びで作っただけだから。暇つぶしにやってみただけだから。
相変わらず曲を完成できないが技術も知識も持っている俺と、一向に再生数の伸びない曲を作り続ける藤井では、まだまだ俺のほうに分があった。
みな分からないことがあれば俺に聞くし、俺の意見は簡単に受け入れられるし、いつの間にか俺がリーダーのようになっていた。
しかし五作目。藤井が作曲を始めて一年が過ぎたころ、俺は藤井の投稿した動画を見て目を疑った。再生数が一ヶ月の間に一万を越えていた。人気の投稿者の楽曲と比べればまだまだだったが、一万という数字はインパクトがあった。日本円の最も大きい額面というのも寄与しているのかもしれないが、この一万という数字は一つの壁のように思えたのだ。
俺は震える手でマウスを操作し、藤井の動画を再生した。アップテンポの、そして独特なリズムのイントロが流れ出す。背景画像は見覚えあるギターの写真――藤井のギターだった。機械の音声が、肉声のように自然に歌い出す。イントロから打って変わって落ち着いた感じのAメロ。Bメロは怪しく雰囲気が変わる。そしてサビへとテンポが上がっていく。サビではまるで小さな遊園地のように賑やかに細やかな音が跳ねる。最後は明かりが消えていくようにしんみりと終わり、またAメロ――。
音の単調さも薄っぺらさも改善されて、ちゃんと完成した音楽になっていた。目立った短所は見つからない。再生バーが0:00に戻り、再びイントロが流れ始める。
俺はそれを断ち切るようにブラウザを閉じた。ヘッドフォンが沈黙した。
いつの間にこんなことになってしまったのか。これは本当にあの藤井が作った曲なのか?
俺はケータイを開き、藤井にかけた。
「藤井、投稿されてる最新の曲だが……」
「えっ、何? どうしたの?」
「どうしたって、再生数見てないのか?」
「結構前に見たけど。もしかして四桁行ってる? あ、それより今作ってるヤツ、もうすぐ出来るから感想聞かせてもらっていい?」
藤井の創作ペースは上がっている。
俺は通話を切り、藤井から送られてきた音楽データをパソコン上で開く。一分あたりで堪えられなくなってプレイヤーを閉じた。
今度は自分が作ってきた楽曲のデータのうち、最新のものを開く。未完成のサウンドが俺の頭を満たすが、音の中に意識を埋没することはできない。音の隙間から漏れていくのだ。
俺はシーケンサを開いて未完成の曲をいじり始める。何かに急かされるように、画面を音の並びで埋めていく。途切れた音列の、その先を刻んでいく。
深夜三時まで作業して、俺は行き詰った。このまま作業を続けても、これがいい曲になるとは思えなかった。藤井の曲のほうがまだ聞くに値する。それに比べてこのつまらないメロディは何なのか。踏み込み切れないアクセルが作り出す偽りの疾走感。興奮と心地よさの合間に見え隠れする、冷めた感情。もっとぴったりなストリングスの響きがあるはずなのに、俺はそれを見つけられない。これ以上手をつけるところが見出せない。
俺が一度も曲を完成させていない一方で、藤井は六作目を投稿し、その動画は一週間で五万回再生された。
「俺、いつか音楽で有名になりたいんだ」
藤井は以前そんなことを言った。
「俺が作った曲が人気になって、音楽会社から連絡が来て、デビューして有名になって、がっぽがっぽ」
「藤井。誰だってそうなれるならなりたいに決まってる。俺もそのつもりで作曲してる」
「俺たちライバルだな? それとも友か?」
「まあ、友と書いてルビがライバルなんじゃないか?」
「それだ西村! ともにどこまでも走っていこうぜ。うおおおお!」
「やめい。お隣さんに迷惑だ」
藤井はときどきちょっと暑苦しい男だった。
「もし西村が志半ばで死んだとしても俺が西村の遺志を継ぐぞ」
「勝手に殺すなよ」
「逆にもし俺が死んだら、西村は俺の遺志を継いでくれるよな?」
「まあ、暇だったらな」
「それでこそ友だ」
そんなんでいいのかよ!? 突っ込む俺に、肩とか組んできちゃったりするのは、若干鬱陶しかった。
「藤井、あんまり不吉なことを言うと大変なことになるぞ? 言葉は現実化するんだからな」
偉そうに言う俺だったが、どこかで聞きかじったフレーズのリピートである。
「言葉は現実化する? そうなのか? つまり死ぬのか? やべえ! バリヤー!」
と言って藤井は机の縁を両手で握った。
「……何してんだ?」
「これ、どっかの国のおまじない。木を触ると悪い魔法を打ち消せるんだぞ」
「表面はニスでコーティングされてるが」
「それくらいいいんだよ」
そういうところは適当なのだった。
ライバルであり友である俺たちの距離はどんどん離れるばかりだった。藤井の楽曲は、大学二年目の後期には投稿されれば即ランキング入りを果たすほどになっていた。世間のメジャーなアーティストたちが作る曲とは一線を隔しているように見えた。がちゃがちゃと玩具の人形たちが奏でるような、一見雑音のような賑わしい音の集合。曲の途中で急にリズムが変わったり、曲調が変わることもあった。しかし曲として破綻はせず、電池の切れかかったロボットがギリギリ止まらずに転ばずに行進するみたいに不安定でありながら、いい意味で予測を裏切る音楽だった。
俺はこのころには曲を作るのをやめた。そして藤井が投稿前、あるいは投稿後に感想を求めてきても、なんだかんだ理由をつけてコメントしなかったり、曖昧なことを言ってその場を逃れるようになった。
この時期には今まで俺を頼っていた電音研の連中は藤井のほうばかり見ていた。藤井の存在感が増していて、莉子も藤井の曲を誉め、創作秘話や歌詞の真意を知りたがった。俺は全てが馬鹿らしく思えてきて集まりに参加しなくなった。
俺たちは無事に三年生に進級した。藤井の創作は順調だった。時々意見を求めて電音研に顔を出していたようだが、俺と同じく、さほど頻繁には行っていないみたいだった。
そしてぼちぼち就職活動を始める時期になった。
「なあ西村。現実って何だろう」
大学の掲示板に貼り出された合同企業説明会のポスターを見て、藤井が呟いた。
「就活だろ」
俺は実も蓋もない答えを返した。
「なあ西村。就活って何だろう」
「就職支援課のお姉さんに聞いてくれ」
「なあ西村。俺はどこか遠くへ行きたい」
「原付貸してやろうか?」
結局俺も藤井もこの狭い町に居続けた。企業説明会には行かなかったが、ゲーセンとパチンコには行った。
「なあ西村。俺たちどうなるんだ?」
「分からないけど、俺は枠にハマって生きるのは嫌だ」
「俺もそう思う! そして俺は西村の原付で、枠をはみ出そうと思う」
「いいけど、センターラインははみ出すなよ」
藤井に彼女ができたのは三年の後期、十一月のことだった。最初は、ネットで知り合った女子に会うので付いてきてほしいとお願いされた。聞けば動画投稿サイトを通じて知り合った藤井の楽曲のファンの一人がわざわざ会いに来るらしい。すでに何度もメールや電話のやり取りをしていた。
「日曜に会うことになったんだ。とにかく待ち合わせのところまででいいから来てくれよ」
メールや電話では普通にしゃべることができているらしいが、直接顔を合わせるのは初めて。お互い顔をまだ知らないのだ。顔を知ったとたん、これまでの関係が崩れてしまわないかと心配しているらしい。
「コンタクトにしたほうがいいと思う? でも向こうは俺がメガネって知ってるし、急に変えたら露骨か? 美容院は行くべきだよな?」
藤井に単刀直入に聞いたところ、会ったことがないその人のことが好きらしい。というか聞けば聞くほど恋人っぽい。ほぼ毎日メールをして週に四度も電話をしている。お相手は同じ県内、電車で三十分ほどのところに住んでいる社会人だとか。
「相手のために格好良くなろうとすることの何が悪いんだ。藤井が思ってるより変じゃないぞ。むしろ結構いけてるじゃないか」
藤井は美容院に行ったりちょっといい服も買ったりした上、完璧な行動計画を立ててデートに臨んだ。そしてめでたく綾乃(あやの)さんと正式なお付き合いを始めた。相変わらず毎日メールのやり取りを欠かさないラブラブっぷり。おはようとおやすみは必須らしく、綾乃さんが忘れて寝れば藤井が怒り、藤井がおはようメールをせずに呑気に講義を受けていれば綾乃さんが怒る。時に、今日のはハートマークが付いてなかったとかなんとかで喧嘩をすることもあるという。なんとも律儀なカップルだった。
藤井に訪れた幸運はこれだけに留まらなかった。
十二月。藤井の楽曲がカラオケに導入された。藤井はこれを飛び上がって喜び、早速カラオケに行こうと言い出した。土曜日から泊まりで綾乃さんが来るとかで、俺までカラオケに駆り出された。
俺が綾乃さんと会ったのはこのときが初めてである。以降も何度かネットで通話ソフトを使ってしゃべったり、チャットをしたり、SNSでやり取りする機会はあったが、藤井がいる間に会うことができたのはこれが最初で最後だった。
綾乃さんは藤井にはもったいないくらいに、お淑やかでしっかりした女性だった。お仕事も公務員だとかで、それなりの給料をもらっている。今時めずらしく長い黒髪で、小ぶりで上品なイヤリングをしていた。服装もモノクロで、地味といえば地味だが、黒のカーディガンは落ち着いた大人の女性を思わせる。逆にグレーのスカートはひらひらした薄い生地を何枚も重ねたもので、遊び心を感じさせた。金色の蝶をあしらったヒールもおしゃれだと思った。
「藤井くんがお世話になってます」
初めて会ったときの綾乃さんの第一声はそれだったと記憶している。
音楽の趣味はそれほど違わなかった。綾乃さんのほうが俺たちより三つ年上らしかったが、綾乃さんが歌う曲を俺はだいたい知っていたし、藤井の十八番を綾乃さんも一緒になって歌っていた。ただ藤井の曲をみんなで歌ったときは、複雑な気分だった。口では賛辞の言葉を送ってテンションを上げていても、心の芯までは楽しめていないのが自覚できていた。ぼんやりとした疎外感は何も綾乃さんがいるからではなかった。
そして訪れた新年。二度あることは三度ある、とばかりに再び藤井に幸運が訪れた。
「アルバム出すことになりそうなんだ」
講義室で顔を合わせた藤井は開口一番に熱のこもった息を吐いた。
「ジョークじゃないぞ」
俺は自分でも何と言ったか覚えていないが、たぶん「おめでとう」とか「よかったな」とかつまらないことを言ったのだと思う。藤井はこれからアルバム作成のために、今まで投稿してきた楽曲を手直しし、さらに新曲も書き起こすらしい。詳しいことは音楽会社の人と直接会って決めるという。
俺はその日うちに帰り、パソコンを点け、久々に作曲関連のデータが詰まっているフォルダを開いた。未完成の、決して表に出ることのない曲データが並んでいる。ヘッドフォンをつける。再生する。チープな音楽が流れる。次の曲。再生。次の曲。再生。俺はデリートキーを叩いた。パソコンが削除するかどうかと聞いてくる。『はい』の上にカーソルを移動させ、マウスを強く握り、俺は唇を噛んだ。しばらくそうしていて、だけど削除できずにパソコンをシャットダウンし、俺は眠った。
「西村、新曲のメロディがだいたい出来たんだ。ちょっと聞いてくれよ」
「オーケー。データくれ」
俺には作れない、思いつかないメロディーだ。
「タイトル考えてくれないか? アイデアだけでもいいから」
「そうだな、こんなのどうだ?」
「いい! めっちゃいい! 西村天才!」
俺なんかが考えるより、藤井が考えたほうがいい。ネットで人気の超新星なんだろ? それか綾乃さんに考えてもらったらどうだ?
「新曲が一つ出来たんだ。ボーカル、ちょっと弱いかな?」
「そんなことないと思うぞ。これくらいがちょうどいい」
お前が思ったようにすればいいじゃねーか。
デビューするのは俺じゃない。藤井だ。
俺に聞くな。
俺は相談に乗ることに次第に堪えられなくなった。ある日、これまでに創作した曲データをフォルダごとゴミ箱に捨てた。机の上で右手を数センチ動かしただけで、何の重みも感じることなく、何の感傷も蘇ることなく、それはゴミ箱に収まった。珍しくウイスキーを飲んだ。頭が痛くなって夕方から翌朝まで寝ていた。
藤井のデビューアルバムは未だに完成していない。もう一生完成することはない。
「おい、藤井? おい、聞いてるのか? 聞こえてるか藤井!」
綾乃さんは、平日は仕事をしている。無理して抜けてきたんだろう。髪が乱れて、息も荒かった。小雨が降っていたが、傘も差していなかった。
「藤井くん。藤井くん! なんで? ねえ、藤井くん……」
ご両親の哀惜の声に耐えられず、綾乃さんの化粧が落ちてくしゃくしゃになった顔も見ていられず、俺は病室を出た。ロビーで椅子に座り、何をするでもなくうなだれていた。頭上から降ってくる他人事のようなテレビの音が、無意味なノイズとなって脳を満たす。
自転車での帰宅途中。振り出した雨に気持ちが急いたのか。見通しの悪い交差点で、一時停止をせずに飛び出した。
藤井はこの世にはもういない。
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「ん、まあな」
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「これ、フルバージョンないんですか。あとボーカルは?」
「遊びで作っただけだから、ないんだ。まあ、いずれ完成したら投稿してみるつもりだけどな」
これが俺の逃げ口上だった。ちょっと遊びで作っただけだから。暇つぶしにやってみただけだから。
相変わらず曲を完成できないが技術も知識も持っている俺と、一向に再生数の伸びない曲を作り続ける藤井では、まだまだ俺のほうに分があった。
みな分からないことがあれば俺に聞くし、俺の意見は簡単に受け入れられるし、いつの間にか俺がリーダーのようになっていた。
しかし五作目。藤井が作曲を始めて一年が過ぎたころ、俺は藤井の投稿した動画を見て目を疑った。再生数が一ヶ月の間に一万を越えていた。人気の投稿者の楽曲と比べればまだまだだったが、一万という数字はインパクトがあった。日本円の最も大きい額面というのも寄与しているのかもしれないが、この一万という数字は一つの壁のように思えたのだ。
俺は震える手でマウスを操作し、藤井の動画を再生した。アップテンポの、そして独特なリズムのイントロが流れ出す。背景画像は見覚えあるギターの写真――藤井のギターだった。機械の音声が、肉声のように自然に歌い出す。イントロから打って変わって落ち着いた感じのAメロ。Bメロは怪しく雰囲気が変わる。そしてサビへとテンポが上がっていく。サビではまるで小さな遊園地のように賑やかに細やかな音が跳ねる。最後は明かりが消えていくようにしんみりと終わり、またAメロ――。
音の単調さも薄っぺらさも改善されて、ちゃんと完成した音楽になっていた。目立った短所は見つからない。再生バーが0:00に戻り、再びイントロが流れ始める。
俺はそれを断ち切るようにブラウザを閉じた。ヘッドフォンが沈黙した。
いつの間にこんなことになってしまったのか。これは本当にあの藤井が作った曲なのか?
俺はケータイを開き、藤井にかけた。
「藤井、投稿されてる最新の曲だが……」
「えっ、何? どうしたの?」
「どうしたって、再生数見てないのか?」
「結構前に見たけど。もしかして四桁行ってる? あ、それより今作ってるヤツ、もうすぐ出来るから感想聞かせてもらっていい?」
藤井の創作ペースは上がっている。
俺は通話を切り、藤井から送られてきた音楽データをパソコン上で開く。一分あたりで堪えられなくなってプレイヤーを閉じた。
今度は自分が作ってきた楽曲のデータのうち、最新のものを開く。未完成のサウンドが俺の頭を満たすが、音の中に意識を埋没することはできない。音の隙間から漏れていくのだ。
俺はシーケンサを開いて未完成の曲をいじり始める。何かに急かされるように、画面を音の並びで埋めていく。途切れた音列の、その先を刻んでいく。
深夜三時まで作業して、俺は行き詰った。このまま作業を続けても、これがいい曲になるとは思えなかった。藤井の曲のほうがまだ聞くに値する。それに比べてこのつまらないメロディは何なのか。踏み込み切れないアクセルが作り出す偽りの疾走感。興奮と心地よさの合間に見え隠れする、冷めた感情。もっとぴったりなストリングスの響きがあるはずなのに、俺はそれを見つけられない。これ以上手をつけるところが見出せない。
俺が一度も曲を完成させていない一方で、藤井は六作目を投稿し、その動画は一週間で五万回再生された。
「俺、いつか音楽で有名になりたいんだ」
藤井は以前そんなことを言った。
「俺が作った曲が人気になって、音楽会社から連絡が来て、デビューして有名になって、がっぽがっぽ」
「藤井。誰だってそうなれるならなりたいに決まってる。俺もそのつもりで作曲してる」
「俺たちライバルだな? それとも友か?」
「まあ、友と書いてルビがライバルなんじゃないか?」
「それだ西村! ともにどこまでも走っていこうぜ。うおおおお!」
「やめい。お隣さんに迷惑だ」
藤井はときどきちょっと暑苦しい男だった。
「もし西村が志半ばで死んだとしても俺が西村の遺志を継ぐぞ」
「勝手に殺すなよ」
「逆にもし俺が死んだら、西村は俺の遺志を継いでくれるよな?」
「まあ、暇だったらな」
「それでこそ友だ」
そんなんでいいのかよ!? 突っ込む俺に、肩とか組んできちゃったりするのは、若干鬱陶しかった。
「藤井、あんまり不吉なことを言うと大変なことになるぞ? 言葉は現実化するんだからな」
偉そうに言う俺だったが、どこかで聞きかじったフレーズのリピートである。
「言葉は現実化する? そうなのか? つまり死ぬのか? やべえ! バリヤー!」
と言って藤井は机の縁を両手で握った。
「……何してんだ?」
「これ、どっかの国のおまじない。木を触ると悪い魔法を打ち消せるんだぞ」
「表面はニスでコーティングされてるが」
「それくらいいいんだよ」
そういうところは適当なのだった。
ライバルであり友である俺たちの距離はどんどん離れるばかりだった。藤井の楽曲は、大学二年目の後期には投稿されれば即ランキング入りを果たすほどになっていた。世間のメジャーなアーティストたちが作る曲とは一線を隔しているように見えた。がちゃがちゃと玩具の人形たちが奏でるような、一見雑音のような賑わしい音の集合。曲の途中で急にリズムが変わったり、曲調が変わることもあった。しかし曲として破綻はせず、電池の切れかかったロボットがギリギリ止まらずに転ばずに行進するみたいに不安定でありながら、いい意味で予測を裏切る音楽だった。
俺はこのころには曲を作るのをやめた。そして藤井が投稿前、あるいは投稿後に感想を求めてきても、なんだかんだ理由をつけてコメントしなかったり、曖昧なことを言ってその場を逃れるようになった。
この時期には今まで俺を頼っていた電音研の連中は藤井のほうばかり見ていた。藤井の存在感が増していて、莉子も藤井の曲を誉め、創作秘話や歌詞の真意を知りたがった。俺は全てが馬鹿らしく思えてきて集まりに参加しなくなった。
俺たちは無事に三年生に進級した。藤井の創作は順調だった。時々意見を求めて電音研に顔を出していたようだが、俺と同じく、さほど頻繁には行っていないみたいだった。
そしてぼちぼち就職活動を始める時期になった。
「なあ西村。現実って何だろう」
大学の掲示板に貼り出された合同企業説明会のポスターを見て、藤井が呟いた。
「就活だろ」
俺は実も蓋もない答えを返した。
「なあ西村。就活って何だろう」
「就職支援課のお姉さんに聞いてくれ」
「なあ西村。俺はどこか遠くへ行きたい」
「原付貸してやろうか?」
結局俺も藤井もこの狭い町に居続けた。企業説明会には行かなかったが、ゲーセンとパチンコには行った。
「なあ西村。俺たちどうなるんだ?」
「分からないけど、俺は枠にハマって生きるのは嫌だ」
「俺もそう思う! そして俺は西村の原付で、枠をはみ出そうと思う」
「いいけど、センターラインははみ出すなよ」
藤井に彼女ができたのは三年の後期、十一月のことだった。最初は、ネットで知り合った女子に会うので付いてきてほしいとお願いされた。聞けば動画投稿サイトを通じて知り合った藤井の楽曲のファンの一人がわざわざ会いに来るらしい。すでに何度もメールや電話のやり取りをしていた。
「日曜に会うことになったんだ。とにかく待ち合わせのところまででいいから来てくれよ」
メールや電話では普通にしゃべることができているらしいが、直接顔を合わせるのは初めて。お互い顔をまだ知らないのだ。顔を知ったとたん、これまでの関係が崩れてしまわないかと心配しているらしい。
「コンタクトにしたほうがいいと思う? でも向こうは俺がメガネって知ってるし、急に変えたら露骨か? 美容院は行くべきだよな?」
藤井に単刀直入に聞いたところ、会ったことがないその人のことが好きらしい。というか聞けば聞くほど恋人っぽい。ほぼ毎日メールをして週に四度も電話をしている。お相手は同じ県内、電車で三十分ほどのところに住んでいる社会人だとか。
「相手のために格好良くなろうとすることの何が悪いんだ。藤井が思ってるより変じゃないぞ。むしろ結構いけてるじゃないか」
藤井は美容院に行ったりちょっといい服も買ったりした上、完璧な行動計画を立ててデートに臨んだ。そしてめでたく綾乃(あやの)さんと正式なお付き合いを始めた。相変わらず毎日メールのやり取りを欠かさないラブラブっぷり。おはようとおやすみは必須らしく、綾乃さんが忘れて寝れば藤井が怒り、藤井がおはようメールをせずに呑気に講義を受けていれば綾乃さんが怒る。時に、今日のはハートマークが付いてなかったとかなんとかで喧嘩をすることもあるという。なんとも律儀なカップルだった。
藤井に訪れた幸運はこれだけに留まらなかった。
十二月。藤井の楽曲がカラオケに導入された。藤井はこれを飛び上がって喜び、早速カラオケに行こうと言い出した。土曜日から泊まりで綾乃さんが来るとかで、俺までカラオケに駆り出された。
俺が綾乃さんと会ったのはこのときが初めてである。以降も何度かネットで通話ソフトを使ってしゃべったり、チャットをしたり、SNSでやり取りする機会はあったが、藤井がいる間に会うことができたのはこれが最初で最後だった。
綾乃さんは藤井にはもったいないくらいに、お淑やかでしっかりした女性だった。お仕事も公務員だとかで、それなりの給料をもらっている。今時めずらしく長い黒髪で、小ぶりで上品なイヤリングをしていた。服装もモノクロで、地味といえば地味だが、黒のカーディガンは落ち着いた大人の女性を思わせる。逆にグレーのスカートはひらひらした薄い生地を何枚も重ねたもので、遊び心を感じさせた。金色の蝶をあしらったヒールもおしゃれだと思った。
「藤井くんがお世話になってます」
初めて会ったときの綾乃さんの第一声はそれだったと記憶している。
音楽の趣味はそれほど違わなかった。綾乃さんのほうが俺たちより三つ年上らしかったが、綾乃さんが歌う曲を俺はだいたい知っていたし、藤井の十八番を綾乃さんも一緒になって歌っていた。ただ藤井の曲をみんなで歌ったときは、複雑な気分だった。口では賛辞の言葉を送ってテンションを上げていても、心の芯までは楽しめていないのが自覚できていた。ぼんやりとした疎外感は何も綾乃さんがいるからではなかった。
そして訪れた新年。二度あることは三度ある、とばかりに再び藤井に幸運が訪れた。
「アルバム出すことになりそうなんだ」
講義室で顔を合わせた藤井は開口一番に熱のこもった息を吐いた。
「ジョークじゃないぞ」
俺は自分でも何と言ったか覚えていないが、たぶん「おめでとう」とか「よかったな」とかつまらないことを言ったのだと思う。藤井はこれからアルバム作成のために、今まで投稿してきた楽曲を手直しし、さらに新曲も書き起こすらしい。詳しいことは音楽会社の人と直接会って決めるという。
俺はその日うちに帰り、パソコンを点け、久々に作曲関連のデータが詰まっているフォルダを開いた。未完成の、決して表に出ることのない曲データが並んでいる。ヘッドフォンをつける。再生する。チープな音楽が流れる。次の曲。再生。次の曲。再生。俺はデリートキーを叩いた。パソコンが削除するかどうかと聞いてくる。『はい』の上にカーソルを移動させ、マウスを強く握り、俺は唇を噛んだ。しばらくそうしていて、だけど削除できずにパソコンをシャットダウンし、俺は眠った。
「西村、新曲のメロディがだいたい出来たんだ。ちょっと聞いてくれよ」
「オーケー。データくれ」
俺には作れない、思いつかないメロディーだ。
「タイトル考えてくれないか? アイデアだけでもいいから」
「そうだな、こんなのどうだ?」
「いい! めっちゃいい! 西村天才!」
俺なんかが考えるより、藤井が考えたほうがいい。ネットで人気の超新星なんだろ? それか綾乃さんに考えてもらったらどうだ?
「新曲が一つ出来たんだ。ボーカル、ちょっと弱いかな?」
「そんなことないと思うぞ。これくらいがちょうどいい」
お前が思ったようにすればいいじゃねーか。
デビューするのは俺じゃない。藤井だ。
俺に聞くな。
俺は相談に乗ることに次第に堪えられなくなった。ある日、これまでに創作した曲データをフォルダごとゴミ箱に捨てた。机の上で右手を数センチ動かしただけで、何の重みも感じることなく、何の感傷も蘇ることなく、それはゴミ箱に収まった。珍しくウイスキーを飲んだ。頭が痛くなって夕方から翌朝まで寝ていた。
藤井のデビューアルバムは未だに完成していない。もう一生完成することはない。
「おい、藤井? おい、聞いてるのか? 聞こえてるか藤井!」
綾乃さんは、平日は仕事をしている。無理して抜けてきたんだろう。髪が乱れて、息も荒かった。小雨が降っていたが、傘も差していなかった。
「藤井くん。藤井くん! なんで? ねえ、藤井くん……」
ご両親の哀惜の声に耐えられず、綾乃さんの化粧が落ちてくしゃくしゃになった顔も見ていられず、俺は病室を出た。ロビーで椅子に座り、何をするでもなくうなだれていた。頭上から降ってくる他人事のようなテレビの音が、無意味なノイズとなって脳を満たす。
自転車での帰宅途中。振り出した雨に気持ちが急いたのか。見通しの悪い交差点で、一時停止をせずに飛び出した。
藤井はこの世にはもういない。