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7.万華鏡の星の巡りに-1

ー/ー



『あなたが知りたいのは、『藤咲メイシアの正体』ですか――?』

「え……?」
(ムスカ)〉は今、なんと言ったのか?
 奴の低い声は、確かに聞こえたはずだった。その証拠に、ルイフォンの背筋は凍えている。
 なのに、反芻しようとしても激しい耳鳴りに打ち消され、言語化できない。
 ルイフォンは身動きがとれないまま、恐怖に見舞われた猫のように逆毛を立てていた。本能が危機を感じ取り、けれど、魂を抜き取られたかのように〈(ムスカ)〉を凝視している。
「おや、違うのですか? 私はてっきり、あなたは『藤咲メイシアの正体』を知りたくて、危険を犯してまで、この館に――私のもとに来たものと思っていたのですが」
「メイシアの……正体……」
「ええ。あの娘は、仕立て屋に化けた〈(サーペンス)〉に(そそのか)されて、鷹刀の屋敷に行きました。分かっているとは思いますが、〈(サーペンス)〉とは、あなた方も面識のある『〈天使〉のホンシュア』のことです」
「あ、ああ」
 口の感覚も麻痺してしまったかのようで、ルイフォンは、ただ機械的に相槌を打つ。
「お気づきですか? あの娘は、あなたと出逢う直前に、〈天使〉と会っているのです」
 にやりと。
(ムスカ)〉が、薄ら嗤いを浮かべた。
「あの娘に、ホンシュアが何をしたのか。――知りたいのでしょう?」
「……!」
(ムスカ)〉の言葉は、穏やかに問いかけているようでいて、ルイフォンが目をそらしていた疑問の小箱の蓋を、無理やりこじ開けようとしていた。
 血の気が引いていく。
 頭の中で、〈(ムスカ)〉の冷たい嗤いが反響する。
 嘲笑が、あちらこちらに広がっていき、体中を埋め尽くす……。
「馬鹿野郎! 耳を貸すな!」
 突如、リュイセンに肩を掴まれた。抜き身のままだったはずの双刀は、いつの間にか鞘に収めており、彼はルイフォンをぐいと引き寄せる。
 足に力の入っていなかったルイフォンは、ふらりと倒れそうになった。しかし、それを見越していたリュイセンの手が、さっとすくい上げ、崩れ落ちかけた弟分を力強く支える。
「あいにくだがな。俺たちは、お前の御託を聞きに来たわけじゃない」
 リュイセンが、ぎろりと〈(ムスカ)〉を睨みつけた。
 親子と見紛(みまご)うほどに酷似した美貌が、正面から向き合う。それはまるで時間のずれを堺に挟んだ、実像と鏡像だった。左右が逆さまであるのと同様に、心のあり方もまた正反対のところに位置している。
 リュイセンは牙をむき、きっぱりと言い放つ。
「俺たちは、お前を捕まえに来た。それは、お前が鷹刀にとって害悪だからだ。いずれ、情報は吐いてもらうが、それは今じゃない。今、俺たちが欲しいのは、お前の身柄だけだ!」
「ほう。私が鷹刀の害悪ですか」
(ムスカ)〉が口の端を上げ、挑発するように緩やかに腕を組む。その厚顔な仕草に、リュイセンが(まなじり)を吊り上げると、今度は満足げな笑みを浮かべた。
「鷹刀の害悪は、私ではなくて、『鷹刀セレイエ』ですよ」
「……っ!」
 唐突に出された『セレイエ』の名に、ルイフォンの心臓が跳ねた。普段は細く、すがめるような猫の目が、かっと見開かれる。
「斑目や、貴族(シャトーア)や、警察隊を巻き込み、鷹刀の屋敷を襲わせたのは、鷹刀セレイエです」
(ムスカ)〉の声が低く響き、部屋の空気を緩やかに、しかし大きく振動させる。
 ルイフォンの異父姉、セレイエ。
 生まれながらの〈天使〉。
〈天使〉である自分について知りたいと、自ら〈七つの大罪〉に飛び込んでいったまま、消息不明の彼女。
「……一連の事件を計画したのは……『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』を作ったのは、やはりセレイエなのか?」
 薄々、感づいていたことを――心の底では確信していたことを、ルイフォンは呟く。
(ムスカ)〉は、掛かったな、と言わんばかりの表情を隠しもせずに、リュイセンからルイフォンへと視線を移した。
「おそらくそうでしょうね。私は、鷹刀セレイエ本人には会ったことはないので、確認したわけではありませんが」
「!?」
「私は、『鷹刀セレイエの〈影〉』である、『〈天使〉のホンシュア』しか知りません。――私は、ホンシュアによって作られた。……いえ、『目覚めさせられた』のですから」
「どういう……こと、だ……」
 問い返してはいけない。これは悪魔の囁き。ルイフォンを翻弄するための、明らかな誘いだ。――冷静に、そう考える自分を感じながらも、ルイフォンは深みにはまっていく心を止められなかった。
「どうして驚いているのですか? 鷹刀イーレオやエルファンから、聞いているのではないですか? 『鷹刀ヘイシャオ』は、もう十数年も前に死んでいる、と」
「あ、ああ」
「なのに、まるで『鷹刀ヘイシャオ』が生き返ったかのような人物――つまり『私』が現れたなら、『私』は何者かによって作られた存在である。これは自明の理です」
「ああ、そうだな……」
 とっくに聞いていた、知っていた話だ。だが、まさか〈(ムスカ)〉本人の口から告げられるとは思ってもみなかった。ルイフォンは困惑を隠しきれずに、言葉を詰まらせる。
「私は、鷹刀セレイエの『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』のために、作られた存在です。しかも、セレイエの〈影〉であるホンシュアは、私の協力を得るために、私に嘘を教えました」
「嘘?」
「ええ。『オリジナルの鷹刀ヘイシャオは、鷹刀イーレオによって殺された』という嘘です。私は自分自身の復讐のために、鷹刀イーレオを狙ったのです」
(ムスカ)〉は、『義は我にあり』とでも言わんばかりに胸を張り、ルイフォンとリュイセンを睥睨する。
「別に信じなくても構いませんよ。どうせ、あなた方にしてみれば詭弁にしか聞こえないでしょうから。ただ私は、私が『鷹刀セレイエこそが、鷹刀の害悪』と言った理由を説明したまでです」
 信じるか、信じないか。
 おそらく〈(ムスカ)〉にとっては、たいした問題ではないのだろう。ルイフォンたちに揺さぶりをかけ、主導権を握ることさえできれば。
 そして厄介なことに、ルイフォンには、虚言だと跳ねのけることができなかった。彼の直感が〈(ムスカ)〉の弁は真実だと告げる。そう考えたほうが、すべてが綺麗に繋がっていくのだと。
(ムスカ)〉が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。ルイフォンは押し黙ったまま、身動きが取れなくなる……。
 そのとき、リュイセンがルイフォンの肩を押しのけた。
「いい加減、黙れ」
 前に出た兄貴分は、すらりと双刀を抜き払う。
「話は、鷹刀の屋敷に行ってからだと言ったはずだ」
「それは、あなたの勝手な言い分です」
(ムスカ)〉が凍てつくような拒絶の眼光を放った。リュイセンは、父エルファンが激怒したときと瓜二つの容貌に、思わず萎縮する。
「あなたは、私のことを『鷹刀の害悪』だと言いました。『だから』捕まえるのだと。けれども私は、嘘に踊らされた憐れな道化(こま)に過ぎません。まったく、不愉快。不本意だと申し上げているのです」
 自らを駒扱いしながらも〈(ムスカ)〉の傲岸(ごうがん)は崩れることなく、むしろ、より一層、不遜さを増しながら抗弁を垂れる。
「何も知らないあなた方に、特別に教えて差し上げましょう」
(ムスカ)〉は顎をしゃくり、小馬鹿にしたように目を細めた。
「鷹刀セレイエの〈影〉――〈天使〉のホンシュアは、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の水先案内人でした。けれど、予定外の熱暴走を起こしてしまい、途中で役目を放棄せざるを得なくなりました」
 そこで〈(ムスカ)〉は言葉を切り、視線をリュイセンより半歩、後ろにいるルイフォンへと向けた。そして、捕食相手を見つけた獣のように、嬉しげに口角を上げる。
「避けられぬ死を目前にしたホンシュアは、私にある重大な事実を打ち明け、あとを託したのですよ。『藤咲メイシア』に関する――ね」
「!」
 絡みつくような響きに、ルイフォンの全身を怖気が貫く。
「藤咲メイシアが鷹刀を訪れたところから、『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の歯車は勢いよく回りだします」
(ムスカ)〉の言葉の牙が、ゆっくりとルイフォンへと迫る。
「彼女が屋敷にいることで、鷹刀イーレオは誘拐の罪に問われます。けれどホンシュアは、イーレオなら警察隊くらい軽くあしらうと信じていました」
 淡々と、緩やかに。
 低い声が、じわじわとルイフォンを追い立てていく。
「何故なら鷹刀セレイエの目的は『鷹刀イーレオの捕獲』ではありませんでしたから。彼女の真の狙いは、『藤咲メイシアを、鷹刀の屋敷に送り込むこと』だったのですから」
「……っ、……そんなことは、気づいていたさ」
 うそぶくように、ルイフォンは答える。
 ――そうだ。気づいていた。
 メイシアの実家、藤咲家を襲った不幸は、貴族(シャトーア)のメイシアが凶賊(ダリジィン)のルイフォンと巡り逢うために仕組まれた罠。
 あの事件さえなければ、ふたりは互いを知ることすらない運命だった。
「おや、ご存知でしたか」
 意外だとでもいうように、〈(ムスカ)〉が肩をすくめる。
「では、〈天使〉のホンシュアと接触のあったあの娘は、あなたと出逢うよりも前に『鷹刀セレイエの駒』にされていたことは理解できているわけですね?」
「……」
「ならば疑問に思わなかったのですか? あの娘は、本当に自分の意思であなたに恋心を(いだ)いたのか?」
「――!」
 ルイフォンの心に、氷の(くさび)穿(うが)たれた。
「あんな上流階級の娘が、凶賊(ダリジィン)のあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?」
 畳み掛けるような言葉が、ルイフォンを襲う。
 そして、悪魔は囁く。

「『デヴァイン・シンフォニア計画(プログラム)』の鍵となるために、〈天使〉のホンシュアに操られた『藤咲メイシア』は、色仕掛けであなたを籠絡したのですよ」

 メイシアは『目印』だというペンダントを持たされていた。
 しかも、彼女自身は『お守り』だと思い込まされていた。
 彼女は〈天使〉による脳内介入を受けている。
 それは、紛れもない事実――。

「実に見事な策でした」

 凍りついた心臓が千々に砕け、崩れ散る……!
「嘘だ――!!」
 激しい目眩(めまい)がした。ルイフォンは頭を抱え込み、両手で耳をふさぐ。
 その刹那――。
 ふわりと。
 白衣の長い裾が、宙に浮かび上がった。
 それは〈(ムスカ)〉が前へと踏み込むために、足をかがめた反動だった。
 そして、ほんのわずか。鏡に映った白衣が舞い上がるのと同じ程度に遅れて、床を蹴る靴音が鳴り響く。
 ――と、思った次の瞬間、ルイフォンの目の前に〈(ムスカ)〉の顔があった。
「!? ――っ!」
 完全に無防備な状態での、鳩尾(みぞおち)への容赦ない拳の一撃。
 呼吸が止まる。目がくらみ、視界を失う。ルイフォンは声にならない叫びを上げて、無様(ぶざま)に床に転がされる。
「ルイフォン!?」
 すぐ隣にいたリュイセンが叫ぶ。
 リュイセンにとって、至近距離での、まさかの出来ごとだった。いくら不意打ちだったとはいえ、神速を誇るはずの彼が庇うこともできずに、弟分が一瞬にして倒された。
 その衝撃に、〈(ムスカ)〉の第二撃目への警戒が遅れた。それよりも、ルイフォンに駆け寄ろうとしてしまった。
 リュイセンが、はっと気づいたときには、〈(ムスカ)〉は白衣の胸ポケットから万年筆を取り出していた。それを、力いっぱい、リュイセンの左腕に刺す。
「っ!?」
 攻撃自体は、たいした殺傷力を持たない。
 だが、わずかに腕がしびれた。
 それが、命運を分けた。
「!」
 間髪を()れず、リュイセンの左手の甲を〈(ムスカ)〉が蹴り上げる。その拍子に、あろうことか、リュイセンは双刀の片方を取り落とした――!
「タオロン!」
 床に落ちた刀を〈(ムスカ)〉が蹴り飛ばす。双刀の片割れは、相方への未練を残すかのような長い銀光を伸ばしながら、タオロンのもとへと流れていった。
「タオロン、その刀でエルファンの小倅(こせがれ)を捕獲しなさい。無理なら殺しても構いません。鷹刀の子猫さえいれば、藤咲メイシアを呼び寄せることが可能ですから」
(ムスカ)〉は指示を出しつつ、ふわりと後方へと下がる。ルイフォンが、うめき声を上げながら起き上がろうとしているのに気づいたのだ。
 リュイセンが武装している以上、ルイフォンだって武器を隠し持っているはず。〈(ムスカ)〉は正しくそう読んだ。
「〈(ムスカ)〉、卑怯だぞ!」
 倒れているルイフォンを守るように位置を取りながら、リュイセンが叫ぶ。
「何を言っているのですか? あなた方と私の間には、初めから『殺し合い』しかありません」
「……っ!」
 リュイセンが息を呑んだ。床で上体を起こしたルイフォンもまた、びくりと肩を震わせる。
「理由はどうであれ、私は鷹刀に刃を向けました。鷹刀イーレオは凶賊(ダリジィン)の総帥として、私を許すわけにはいかないでしょう」
(ムスカ)〉の口元が、ふっとほころぶ。それは悪意の欠片もない、純粋な笑みだった。
「彼は優しい方です。仮にも義理の息子と呼んだ私――いいえ、『ヘイシャオ』の記憶を持つ私を、殺めたくなどないでしょう」
 おそらく、その通りだろう。だから、ルイフォンやリュイセンにしてみれば、生ぬるいとしかいいようのない態度を、イーレオは取り続けたのだ。
「けれど、……お義父さん……は、心でどう感じていたとしても、情には流されません。私を捕らえ、情報を得たあと、殺すでしょう。それが、凶賊(ダリジィン)であり、総帥であり、鷹刀イーレオという男です」
「〈(ムスカ)〉……」
 ルイフォンは痛む鳩尾(みぞおち)を押さえながら、もと一族の男の毅然とした姿を見上げる。とうに決別した相手を遠くに思うその顔は、壮麗な穏やかさで満たされていた。
(ムスカ)〉の後ろでは、タオロンが震える手で双刀の片割れを握っていた。今までの話の流れは、タオロンに武器を与えるためのものだったのだと、今更ながらルイフォンは悟る。
「『話し合い』などありません。『殺し合い』しかないのです。――故に私は、全力であなた方を殺します」
 甘やかに、(いと)しげに。
 魅惑の低音が、静かに響いた。


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「……!」
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 血の気が引いていく。
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 嘲笑が、あちらこちらに広がっていき、体中を埋め尽くす……。
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 親子と|見紛《みまご》うほどに酷似した美貌が、正面から向き合う。それはまるで時間のずれを堺に挟んだ、実像と鏡像だった。左右が逆さまであるのと同様に、心のあり方もまた正反対のところに位置している。
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「ほう。私が鷹刀の害悪ですか」
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「鷹刀の害悪は、私ではなくて、『鷹刀セレイエ』ですよ」
「……っ!」
 唐突に出された『セレイエ』の名に、ルイフォンの心臓が跳ねた。普段は細く、すがめるような猫の目が、かっと見開かれる。
「斑目や、|貴族《シャトーア》や、警察隊を巻き込み、鷹刀の屋敷を襲わせたのは、鷹刀セレイエです」
〈|蝿《ムスカ》〉の声が低く響き、部屋の空気を緩やかに、しかし大きく振動させる。
 ルイフォンの異父姉、セレイエ。
 生まれながらの〈天使〉。
〈天使〉である自分について知りたいと、自ら〈七つの大罪〉に飛び込んでいったまま、消息不明の彼女。
「……一連の事件を計画したのは……『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』を作ったのは、やはりセレイエなのか?」
 薄々、感づいていたことを――心の底では確信していたことを、ルイフォンは呟く。
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「おそらくそうでしょうね。私は、鷹刀セレイエ本人には会ったことはないので、確認したわけではありませんが」
「!?」
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「どうして驚いているのですか? 鷹刀イーレオやエルファンから、聞いているのではないですか? 『鷹刀ヘイシャオ』は、もう十数年も前に死んでいる、と」
「あ、ああ」
「なのに、まるで『鷹刀ヘイシャオ』が生き返ったかのような人物――つまり『私』が現れたなら、『私』は何者かによって作られた存在である。これは自明の理です」
「ああ、そうだな……」
 とっくに聞いていた、知っていた話だ。だが、まさか〈|蝿《ムスカ》〉本人の口から告げられるとは思ってもみなかった。ルイフォンは困惑を隠しきれずに、言葉を詰まらせる。
「私は、鷹刀セレイエの『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』のために、作られた存在です。しかも、セレイエの〈影〉であるホンシュアは、私の協力を得るために、私に嘘を教えました」
「嘘?」
「ええ。『オリジナルの鷹刀ヘイシャオは、鷹刀イーレオによって殺された』という嘘です。私は自分自身の復讐のために、鷹刀イーレオを狙ったのです」
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「別に信じなくても構いませんよ。どうせ、あなた方にしてみれば詭弁にしか聞こえないでしょうから。ただ私は、私が『鷹刀セレイエこそが、鷹刀の害悪』と言った理由を説明したまでです」
 信じるか、信じないか。
 おそらく〈|蝿《ムスカ》〉にとっては、たいした問題ではないのだろう。ルイフォンたちに揺さぶりをかけ、主導権を握ることさえできれば。
 そして厄介なことに、ルイフォンには、虚言だと跳ねのけることができなかった。彼の直感が〈|蝿《ムスカ》〉の弁は真実だと告げる。そう考えたほうが、すべてが綺麗に繋がっていくのだと。
〈|蝿《ムスカ》〉が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。ルイフォンは押し黙ったまま、身動きが取れなくなる……。
 そのとき、リュイセンがルイフォンの肩を押しのけた。
「いい加減、黙れ」
 前に出た兄貴分は、すらりと双刀を抜き払う。
「話は、鷹刀の屋敷に行ってからだと言ったはずだ」
「それは、あなたの勝手な言い分です」
〈|蝿《ムスカ》〉が凍てつくような拒絶の眼光を放った。リュイセンは、父エルファンが激怒したときと瓜二つの容貌に、思わず萎縮する。
「あなたは、私のことを『鷹刀の害悪』だと言いました。『だから』捕まえるのだと。けれども私は、嘘に踊らされた憐れな|道化《こま》に過ぎません。まったく、不愉快。不本意だと申し上げているのです」
 自らを駒扱いしながらも〈|蝿《ムスカ》〉の|傲岸《ごうがん》は崩れることなく、むしろ、より一層、不遜さを増しながら抗弁を垂れる。
「何も知らないあなた方に、特別に教えて差し上げましょう」
〈|蝿《ムスカ》〉は顎をしゃくり、小馬鹿にしたように目を細めた。
「鷹刀セレイエの〈影〉――〈天使〉のホンシュアは、『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』の水先案内人でした。けれど、予定外の熱暴走を起こしてしまい、途中で役目を放棄せざるを得なくなりました」
 そこで〈|蝿《ムスカ》〉は言葉を切り、視線をリュイセンより半歩、後ろにいるルイフォンへと向けた。そして、捕食相手を見つけた獣のように、嬉しげに口角を上げる。
「避けられぬ死を目前にしたホンシュアは、私にある重大な事実を打ち明け、あとを託したのですよ。『藤咲メイシア』に関する――ね」
「!」
 絡みつくような響きに、ルイフォンの全身を怖気が貫く。
「藤咲メイシアが鷹刀を訪れたところから、『デヴァイン・シンフォニア|計画《プログラム》』の歯車は勢いよく回りだします」
〈|蝿《ムスカ》〉の言葉の牙が、ゆっくりとルイフォンへと迫る。
「彼女が屋敷にいることで、鷹刀イーレオは誘拐の罪に問われます。けれどホンシュアは、イーレオなら警察隊くらい軽くあしらうと信じていました」
 淡々と、緩やかに。
 低い声が、じわじわとルイフォンを追い立てていく。
「何故なら鷹刀セレイエの目的は『鷹刀イーレオの捕獲』ではありませんでしたから。彼女の真の狙いは、『藤咲メイシアを、鷹刀の屋敷に送り込むこと』だったのですから」
「……っ、……そんなことは、気づいていたさ」
 うそぶくように、ルイフォンは答える。
 ――そうだ。気づいていた。
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 あの事件さえなければ、ふたりは互いを知ることすらない運命だった。
「おや、ご存知でしたか」
 意外だとでもいうように、〈|蝿《ムスカ》〉が肩をすくめる。
「では、〈天使〉のホンシュアと接触のあったあの娘は、あなたと出逢うよりも前に『鷹刀セレイエの駒』にされていたことは理解できているわけですね?」
「……」
「ならば疑問に思わなかったのですか? あの娘は、本当に自分の意思であなたに恋心を|抱《いだ》いたのか?」
「――!」
 ルイフォンの心に、氷の|楔《くさび》が|穿《うが》たれた。
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 畳み掛けるような言葉が、ルイフォンを襲う。
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「嘘だ――!!」
 激しい|目眩《めまい》がした。ルイフォンは頭を抱え込み、両手で耳をふさぐ。
 その刹那――。
 ふわりと。
 白衣の長い裾が、宙に浮かび上がった。
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 そして、ほんのわずか。鏡に映った白衣が舞い上がるのと同じ程度に遅れて、床を蹴る靴音が鳴り響く。
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「!? ――っ!」
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 呼吸が止まる。目がくらみ、視界を失う。ルイフォンは声にならない叫びを上げて、|無様《ぶざま》に床に転がされる。
「ルイフォン!?」
 すぐ隣にいたリュイセンが叫ぶ。
 リュイセンにとって、至近距離での、まさかの出来ごとだった。いくら不意打ちだったとはいえ、神速を誇るはずの彼が庇うこともできずに、弟分が一瞬にして倒された。
 その衝撃に、〈|蝿《ムスカ》〉の第二撃目への警戒が遅れた。それよりも、ルイフォンに駆け寄ろうとしてしまった。
 リュイセンが、はっと気づいたときには、〈|蝿《ムスカ》〉は白衣の胸ポケットから万年筆を取り出していた。それを、力いっぱい、リュイセンの左腕に刺す。
「っ!?」
 攻撃自体は、たいした殺傷力を持たない。
 だが、わずかに腕がしびれた。
 それが、命運を分けた。
「!」
 間髪を|容《い》れず、リュイセンの左手の甲を〈|蝿《ムスカ》〉が蹴り上げる。その拍子に、あろうことか、リュイセンは双刀の片方を取り落とした――!
「タオロン!」
 床に落ちた刀を〈|蝿《ムスカ》〉が蹴り飛ばす。双刀の片割れは、相方への未練を残すかのような長い銀光を伸ばしながら、タオロンのもとへと流れていった。
「タオロン、その刀でエルファンの|小倅《こせがれ》を捕獲しなさい。無理なら殺しても構いません。鷹刀の子猫さえいれば、藤咲メイシアを呼び寄せることが可能ですから」
〈|蝿《ムスカ》〉は指示を出しつつ、ふわりと後方へと下がる。ルイフォンが、うめき声を上げながら起き上がろうとしているのに気づいたのだ。
 リュイセンが武装している以上、ルイフォンだって武器を隠し持っているはず。〈|蝿《ムスカ》〉は正しくそう読んだ。
「〈|蝿《ムスカ》〉、卑怯だぞ!」
 倒れているルイフォンを守るように位置を取りながら、リュイセンが叫ぶ。
「何を言っているのですか? あなた方と私の間には、初めから『殺し合い』しかありません」
「……っ!」
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「けれど、……お義父さん……は、心でどう感じていたとしても、情には流されません。私を捕らえ、情報を得たあと、殺すでしょう。それが、|凶賊《ダリジィン》であり、総帥であり、鷹刀イーレオという男です」
「〈|蝿《ムスカ》〉……」
 ルイフォンは痛む|鳩尾《みぞおち》を押さえながら、もと一族の男の毅然とした姿を見上げる。とうに決別した相手を遠くに思うその顔は、壮麗な穏やかさで満たされていた。
〈|蝿《ムスカ》〉の後ろでは、タオロンが震える手で双刀の片割れを握っていた。今までの話の流れは、タオロンに武器を与えるためのものだったのだと、今更ながらルイフォンは悟る。
「『話し合い』などありません。『殺し合い』しかないのです。――故に私は、全力であなた方を殺します」
 甘やかに、|愛《いと》しげに。
 魅惑の低音が、静かに響いた。