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ep2. OL×密林×快晴

ー/ー



 その少年、まさに密林に輝くモルフォ蝶の如し。
 
 重力という概念を完全に無視して宙に浮かんでいる彼は、スカイブルーの角膜にオーロラの虹彩を纏った瞳で私を見下ろしている。

 白く透き通った肌に、光り輝く太陽のように目映い金髪。
 あまりにも美しく整った顔立ち。

 真っ青な衣装に身を包んだ少年に、私が最も憧憬する人物の姿を重ねた。

「もしかして貴方は……アドーニス?」

 少年は笑みを浮かべ、蝶が舞うようにマントを靡かせた。



 私、アテネ・ウィリアムズとモルフォ蝶との出会い。
 それはまるで、ギリシャ神話の女神アプロディーテが美少年アドーニスへ恋に落ちた物語のように、私は一瞬にしてその姿に心を奪われた。

 あれは小学校に入って初めての遠足で、地元のアメリカ・ルイジアナ州にある昆虫館へ訪れた時のこと。
 数ある昆虫の標本が展示されている中、色とりどりの蝶のブース……とりわけ青く光沢のある(はね)を持った『モルフォ蝶』の虜となった幼い私は、その場に釘付けとなったのだ。

 それからというもの蝶の図鑑を欲しがったり、アメリカ中の博物館を巡らせたりと両親をそこそこ振り回した。父が誕生日に標本のプレゼントをくれたりもしたけれど、とあるモルフォに強い想いを抱いている私は次第に大きな夢を抱いた。

 そして二十歳となった今、夢を叶えるべく憧れの地を踏みしめている。

「ハロー! 初めまして、アテネです」
「コーディネーターのリカルドだ。ようこそ、南米の国ペルーへ」

 ルイジアナの空港からおよそ8時間かけてペルーの首都リマへ飛んだ私は、更にイキトスという北東部の町へ移動し、ようやく合流できたコーディネーターさんと握手を交わした。
 ここイキトスは「陸路では行くことができない世界最大の町」といわれるように広大なアマゾン川に面している。故にリマからの交通手段は飛行機(約2時間)か船(約5日)でしかなく、私は前者を選択した。5日も船に揺られるとかムリだし。

 年が明けて間もないイキトスの1月は雨季。今も雨が降っており、蒸し暑く湿った空気が肌にまとわりつく。

「蝶のためにこんな遠いところまでご苦労さんだな。しかも君が狙ってるのは……」
「アドニスモルフォです」
「そうソレ」

 濡れながらリカルドさんに車へキャリーケースを積んでもらうと、私たちは早速ホテルへ向かって出発した。

「どうしてアドニスなんだ? 他にもモルフォは沢山いるのに」
「そうなんですけど……リカルドさん、モルフォ蝶の名前の由来がギリシャ神話の登場人物ってことをご存じですか?」

 頭と同じモジャモジャの髭を擦りながら「いや」と答える彼に、私はアドニスモルフォの由来である『アドーニス』の物語を話し始めた。

 アドーニス――その名が『美しい男性』の代名詞として用いられるほどの美少年であった彼は、美と愛の女神アプロディーテに愛されていた。アドーニスの美しさに惹かれた女神は彼を自分の庇護下に置くも、彼女の恋人がそれに嫉妬し、狩りに出かけたアドーニスを猪に化けて殺してしまうという物語だ。
 ちなみにこの時アドーニスが流した血から咲いたのが、アネモネという花とされている。

 ギリシャ神話好きの母からよく聞かせてもらっていたお陰で、私も結構その辺に詳しいのだ。勿論、内容には諸説ある。

「図鑑を見ていたら名前の由来にはすぐに気づきましたが、そこにアドーニスの名前もあり驚きました。それでアプロディーテと同じようにモルフォに恋をしてしまった私は、彼女と気持ちがリンクしてアドニスに会いたくなったんです」

 標本ではなく生きたアドニスモルフォに会いたい。それが私の大きな夢となった。
 そして社会人になってから必死に働いてお金を貯め、ニューイヤーの有給を多めに貰って、ようやくその夢が叶わんとしている。

 私の熱弁を聞いたリカルドさんは運転しながら頷くも、その表情を少し曇らせた。

「君の夢は分かったが、ちょっと運が悪いな。実は今年……」

 彼の言葉の続きに私は声を失ってしまい、車の中に重い空気が流れる。
 不安を乗せたまま降りしきる雨の中を静かに走り、今日から5日間に泊まるホテルへと到着した。


 翌早朝4時、アドニスに会うための挑戦が始まった。天気は今日も雨だ。
 まだ真っ暗な景色の中を車で2時間かけてリカルドさんと共にある場所へ向かう。

 パカヤ・サミリア国立保護区、ペルー最大の国立公園だ。

 道は順調に進み6時半前には到着した。少し前に日の出を迎えたのに空は薄暗く、雨が懇々と降り注いでいる。雨季の時期はほぼ毎日が雨なのだけれど、一日中というわけではなく降ったり止んだりを繰り返すものなのだ。

 ……本来は。

「さぁて、どうかね」

 バタン、という音を立てて車のドアを閉めながらリカルドさんが空を見上げた。時間には十分間に合っているけど、この雨では例え蝶が出てきたとしても見つけるのは困難だろう。それでも私は諦めないけれど。

「俺はここにいるから、好きな時に戻ってきな」
「はい、ありがとうございます」

 私はリカルドさんと別れ、アマゾンの森へと足を進めた。

 時刻は7時。
 彼らの活動時間とされる時間がやってきた。

 モルフォ蝶は決まった時間に活動する生態であり、アドニスは朝7時から7時半の間とされている。
 貴重なたった30分のうちに整備された森の道を歩き回り、目が飛び出そうなくらい大きく見開いてその姿を探したけれど、この日は()に出会うことはできなかった。

 翌日、その翌日も空振り。
 どの日も変わらず大降りの雨空を見上げるばかりだった。

「な、言ったとおりだろ? 残るチャンスは明日だが、多分かなり厳しいと思うぞ」
「付き合わせてすみません。でも私、最後まで諦めませんから」

 帰りの車でそんな会話をし、帰宅したホテルのベランダで呆然と空を見つめた。
 この3日でホテルの周りは観光しつくしており、出かける気力も起きなかった。何より今はこの降り注ぐ雨が憎くたらしくて仕方がない。

「本当にずっと降ってるんだ……雨」

 一人でそうポツリと呟いた。

<今年は異常気象でな、もう1ヶ月も雨が降りっぱなしなんだよ。この先もまだしばらく続くって予報だ>

 ここへ来た日に聞いたリカルドさんの言葉が蘇る。

 彼は長年ここに住んでいるけど、こんなことは初めてだそうだ。雨に慣れているため氾濫などの心配はないようだけど、それでも生態系には多少の影響が出るだろう。
 何より日光によって生活リズムを整えてる生物は多く、モルフォ蝶もその一種。死にはしないが、その活動は制限されてしまうのだ。

 ただでさえ見つけるのが難しいのに、まさか天気に苦しめられるなんて思いもしなかった。でも私の力ではどうしようもできない。脳裏に浮かぶ輝く青色がヒラヒラと舞いながら霞んでいく。

 やっと、ここまで来たのに。
 せめて明日の朝だけでも晴れてくれれば……、そう願わずにはいられない。

 心地良いアルトの声色が雨と共に空から降ってきたのは、まさにその直後だった。

「そんなに会いたいの? その蝶に」

 耳を疑った。私は今、ベランダにいる。そうでなくともここは5階、外から人の声が聞こえてくるなんて。

 驚きのあまり顔を上げると、その先で息が止まるほどの光景を目にした。

 人が宙に浮いて立っているのだ。
 それもモルフォのような色を纏い、『アドーニス』と称すべき美少年が。

「あぁ、先に言っておくけど夢じゃないよ。前に会った女の子が最後までそう思っていて、面白くなかったんだよね」

 少年は顰め面をしてそう言った。
 どう考えても夢としか思えないけれど、本当に現実だとするならば――。

「もしかして貴方は……アドーニス?」

 モルフォ蝶ではなく、伝説の彼自身が会いに来てくれたのだろうか。

「誰なの、それ。僕はメネルだよ、空を管理する番人さ」
「空を管理する、番人」

 復唱すると彼は浮いたまま、持っていた杖を抱えて器用に胡座を掻いた。まるでそこに地面があると思うくらい違和感がない。いや、実際は違和感だらけなんだけど。

「そ。僕は天気について考えてる人間の声を聞いて、気まぐれにその願いを叶えてあげてるんだ。青い蝶は僕も見たことないから、面白そうだと思――」
「ってことは、つまり天気を変えてくれるってこと!?」

 メネルの話を最後まで聞くことなく、私はその言葉に飛びついた。突然食いつかれた彼はモルフォ色の瞳を瞬かせて驚いている。

「夢じゃないならお願い、明日の天気を晴れにして! 私もう、明日しかチャンスがないの!」
「いいけど……その代わり報酬を貰うけどいいの?」
「構わない、何でも払うわ。アドニスモルフォに会えるのなら!」

 ベランダの手すりから身を乗り出して私はメネルに懇願した。縋れるものには何でも縋りたかった。
 するとメネルは足を伸ばして立ち上がり、私に向かって右手を差し出した。〝この手を取れ〟といわんばかりに。

 私は息を1つ飲み、彼の手を強く掴んだ。



 気がつくと1枚の紙が置かれた机を前にして椅子に座っていた。辺りは部屋全体が空模様で覆われており、なんだか空に浮かんでいるような不思議な空間だった。
 コツコツという足音を天井に響かせて、一人の少年が視線の先にある玉座へ腰を掛けた。メネルだ。

「じゃあ早速、天気変更の契約をしてもらうよ。その紙へ書かれてる内容に了承できたら、サインしてくれる?」

 そう言われて私は机上の『契約書』に目を通した。
 内容は次の3つだ。


(一)本書にサインをした時点で、天気変更の契約成立になります。その場合、それ以降のキャンセル等は一切認められません。

(二)天気変更に伴い報酬をいただきます。契約成立の瞬間に譲渡されますので、ご注意ください。

(三)契約後、空の番人についての記憶は全て抹消されます。


 そっか……、サインをしたらメネルのことは忘れてしまうんだ。折角アドーニスに会えた気がしたのに、何だか寂しい気持ちになった。

「そのアドーニスって人、そんなに僕に似てるの?」

 私は何も口にしていないのにメネルがそう言った。もしかして彼は、私の思考が読めるのだろうか。

「うん、そうだね」

 彼は再び私の心の声に答えると、片足を反対の太ももに乗せて足を組んだ。メネルが顔を動かすと、左耳の青いペンデュラムがキラリと光ってとても印象的だった。

「アドーニスはギリシャ神話に出てくる人物なの。だから本当の顔は分からないけど、『美しい男性』の代名詞として知られてるわ」
「ふふっ、僕が()()()()()? それは光栄だねぇ」

 アドーニスについて教えると、彼は満更でもなさそうに笑みを浮かべた。でも実際メネルは見惚れるほど綺麗な顔立ちなのだ。そう思うと彼がまたククと笑い声を上げたので、思考が読まれたと気づいて急に恥ずかしくなった。

「そ、それでっ、報酬はなに? 命って言われると困るけど、それ以外なら何でもどうぞ」
「そんなもの貰ってどうするのさ。報酬は君の一番好きな食べものだよ」

 好きな、食べもの……って、それだけ?

「そうだよ、お得でしょう? あぁ、報酬だから君は今後一切それを口にできなくなるけどね」

 メネルは私の心の声にそう付け足した。
 ……好きな食べもの、か。

 瞬時に思い浮かぶのは、地元のレストランで愛されている『Yaka Mein(ヤカ ミェン)』というヌードルだ。牛肉を煮込んだ塩味のあるスパイシーな濃厚スープに、スパゲティのような麺と、ゆで卵やネギが入っている食べもの。辛いものが好きな人にはもちろん、地元では二日酔いにも効くと有名だけど、まだお酒が飲めない私はその効果を知らない。
 21歳になったら、本当に効くのか試すのを楽しみにしていたけど……それはできなくなるらしい。

 でも私が叶えたい夢はそれじゃない。
 叶えたいのは、ただ1つ。

「一応言っておくけど、僕ができるのは明日の朝の天気を快晴にすることだけだよ。その蝶に会えるかは君の運次第だ」
「分かってるわ、メネル」

 私は意を決して用意されていた羽根付きのペンを握ると、サラサラとサインをしたためた。書き終わると光を放った契約書がフワリと浮かび、メネルに向かって飛んでいった。彼はそれを器用にキャッチして眺めると、満足そうに頷く。

「契約成立。ご依頼、確かに承りました。では報酬をいただきます」

 メネルのその声を聞いた瞬間、急に眠くなって私は机に臥してしまった。
 あぁ、ここで彼とはお別れなんだ。

 さようなら、メネル――。



 スマホのアラームに驚いて私は跳び起きた。何だかとても不思議な夢を見ていた気がするけれど、全く思い出すことができない。
 時刻は朝3時半、外はまだ真っ暗だ。今日はペルーに滞在できる最後の日。

 いつものようにベランダの窓を開ける。暗くてよく見えないけれど、湿った空気と匂いが〝雨だ〟と主張していた。
 ……あれ、どうしてだろう。それなのに私、全然悲しくない。むしろ昨日までよりも心が躍っている気がする。

 何だか今日はとてもハッピーなことが起こるんじゃないか。私はそんな気持ちを抱きながら、出発の準備に取りかかった。
 ホテルの外に出るとリカルドさんが既に迎えに来てくれていた。

「おはよう、アテネちゃん。ラストチャンスだ、幸運を祈るよ」
「ありがとうございます、よろしくお願いいします」

 早速車に乗り込み、国立公園を目指す。空はこれまでと何ら変わらない姿だ。
 多少道が混んでいたけれど、何とかアドニスが活動を始める5分前に到着できた。

 すると車を降りたリカルドさんが「おや?」という声を上げる。先ほどまで降っていた大粒の雨が弱まっていたのだ。

「空が多少明るいな。アテネちゃん、これはもしかするかも知れないぞ」
「はい。行ってきます、リカルドさん!」

 今までと同じようにリカルドさんを車に残し、私は森の中を探索し始める。手には今までは出せなかった一眼レフカメラを持っていた。この日のために撮影方法も学んできたのだ。

 時計の針が7時を指し、空を見上げる。
 すると不思議なことが起こった。

 この1ヶ月間、絶え間なくペルーに降り注いでいた雨がピタリと止んだ。雨雲の隙間から光が漏れ、まるで天使が下りてくるように何本もの日差しが地上を照らす。次第に雲を切り分けてスカイブルーが姿を現し、真夏らしい快晴の空が広がった。

 まさしく、奇跡。

 暫く私は空の青さに見とれていたけれど、本来の目的を思い出して再び歩み始めた。森の匂いを感じ、腐葉土を踏みしめる。雨上がりの森の中はヒンヤリしていて、湿気の多さも何だか心地良い。

 7時5分、蝶の姿は見当らない。
 7時15分、少しだけ焦りを感じる。

 7時25分。
 やっぱり急に晴れたとて蝶は現れないかもしれない。そう諦めかけた時だった。

 キラキラと前方に光る何かを見つけた。私は逸る鼓動を押さえて、慎重にその場所へ足を進める。
 そこで見た景色に体中が震え上がった。

 森の敷地の一角を光沢を持った青い色が覆い尽くしていた。何百頭のモルフォ蝶がキノコに群がって食事をしていたのだ。それも全てが恋人のように憧れ続けたアドニスモルフォである。この期間ずっと雨だったことが講じて、彼らを一斉に活動させる要因となったのではないだろうか。

 私は感動に打ち震えながらも急いでカメラのシャッターを切った。
 何度も何度も連写した。涙が頬を伝っていたことに気づいたのは暫く経った後だ。

「……あっ」

 7時30分。何万枚もの写真を撮ったところで、蝶たちが一斉に空へと舞い上がった。裏面の目玉模様の翅と交錯させ、それがより煌びやかに輝いて見える。
 私は彼らの姿が溶け合っていく空の果てを、いつまでも眺めていた。




「ウィリアムズさん、この写真はすごいね。どこで撮ったんだい?」
「ペルーです。ペルーのパカヤ・サミリア国立保護区で3年前に撮ってきました」

 スタッフさんからの質問にそう答えて、私はある写真の前に立った。モルフォ蝶の群れを写したそれは、私の初の写真展の目玉だ。
 あれから1年後に会社員を辞めた私は、写真家として様々な昆虫を撮っている。キッカケはもちろん、生きたアドニスモルフォに会えたことだ。モルフォに限らず色々な昆虫の生きる瞬間に立ち会い、カメラに収めたいと思って転職した。

 あの体験は今でも忘れられない。
 アドニスに会えたことも、空があの瞬間だけ晴れ渡った奇跡も。

「準備に疲れただろう、ランチでもどうだい。ヤカミェンを食べに行こうと思うんだけど」
「折角ですが、私アレを食べるとじんま疹が出るんですよね。前は大好きだったんですけど……」
「そう、それは残念」

 そう言ってスタッフさんが出かけていく姿を見送り、私は忙しなく駆けだした。

 私の左耳には今、モルフォ蝶のピアスが光っている。
 何だかアドーニスがそうしていたような気がして。


***

「たまにこのスープが飲みたくなるんだよねぇ」

 今日のランチはヤカミェン。濃厚な牛肉のスープを口にするとスパイシーな刺激が広がった。続いて太めの麺を啜れば、もう手が止まらなくなる。ゆで卵は最後派。

「その節はムリを言ったね、晴の精霊(サニール)。でもこのスープ、クセになるだろう?」

 仲間の満足そうな表情を見ながら、僕は下界のある女性を見つめた。
 写真家になったんだね、アテネ・ウィリアムズさん。あの青い蝶は僕のマントみたいで、とっても綺麗だったよ。

 さて、次はどんな人を選ぼうかな。
 口にすると精霊たちに嫌な顔をされそうだから心の中で呟いて、僕はスープを一滴残らずに飲み干した。


※アドニスモルフォは、現在『マルクスモルフォ』の名前で親しまれています。


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 真っ青な衣装に身を包んだ少年に、私が最も憧憬する人物の姿を重ねた。
「もしかして貴方は……アドーニス?」
 少年は笑みを浮かべ、蝶が舞うようにマントを靡かせた。
 私、アテネ・ウィリアムズとモルフォ蝶との出会い。
 それはまるで、ギリシャ神話の女神アプロディーテが美少年アドーニスへ恋に落ちた物語のように、私は一瞬にしてその姿に心を奪われた。
 あれは小学校に入って初めての遠足で、地元のアメリカ・ルイジアナ州にある昆虫館へ訪れた時のこと。
 数ある昆虫の標本が展示されている中、色とりどりの蝶のブース……とりわけ青く光沢のある|翅《はね》を持った『モルフォ蝶』の虜となった幼い私は、その場に釘付けとなったのだ。
 それからというもの蝶の図鑑を欲しがったり、アメリカ中の博物館を巡らせたりと両親をそこそこ振り回した。父が誕生日に標本のプレゼントをくれたりもしたけれど、とあるモルフォに強い想いを抱いている私は次第に大きな夢を抱いた。
 そして二十歳となった今、夢を叶えるべく憧れの地を踏みしめている。
「ハロー! 初めまして、アテネです」
「コーディネーターのリカルドだ。ようこそ、南米の国ペルーへ」
 ルイジアナの空港からおよそ8時間かけてペルーの首都リマへ飛んだ私は、更にイキトスという北東部の町へ移動し、ようやく合流できたコーディネーターさんと握手を交わした。
 ここイキトスは「陸路では行くことができない世界最大の町」といわれるように広大なアマゾン川に面している。故にリマからの交通手段は飛行機(約2時間)か船(約5日)でしかなく、私は前者を選択した。5日も船に揺られるとかムリだし。
 年が明けて間もないイキトスの1月は雨季。今も雨が降っており、蒸し暑く湿った空気が肌にまとわりつく。
「蝶のためにこんな遠いところまでご苦労さんだな。しかも君が狙ってるのは……」
「アドニスモルフォです」
「そうソレ」
 濡れながらリカルドさんに車へキャリーケースを積んでもらうと、私たちは早速ホテルへ向かって出発した。
「どうしてアドニスなんだ? 他にもモルフォは沢山いるのに」
「そうなんですけど……リカルドさん、モルフォ蝶の名前の由来がギリシャ神話の登場人物ってことをご存じですか?」
 頭と同じモジャモジャの髭を擦りながら「いや」と答える彼に、私はアドニスモルフォの由来である『アドーニス』の物語を話し始めた。
 アドーニス――その名が『美しい男性』の代名詞として用いられるほどの美少年であった彼は、美と愛の女神アプロディーテに愛されていた。アドーニスの美しさに惹かれた女神は彼を自分の庇護下に置くも、彼女の恋人がそれに嫉妬し、狩りに出かけたアドーニスを猪に化けて殺してしまうという物語だ。
 ちなみにこの時アドーニスが流した血から咲いたのが、アネモネという花とされている。
 ギリシャ神話好きの母からよく聞かせてもらっていたお陰で、私も結構その辺に詳しいのだ。勿論、内容には諸説ある。
「図鑑を見ていたら名前の由来にはすぐに気づきましたが、そこにアドーニスの名前もあり驚きました。それでアプロディーテと同じようにモルフォに恋をしてしまった私は、彼女と気持ちがリンクしてアドニスに会いたくなったんです」
 標本ではなく生きたアドニスモルフォに会いたい。それが私の大きな夢となった。
 そして社会人になってから必死に働いてお金を貯め、ニューイヤーの有給を多めに貰って、ようやくその夢が叶わんとしている。
 私の熱弁を聞いたリカルドさんは運転しながら頷くも、その表情を少し曇らせた。
「君の夢は分かったが、ちょっと運が悪いな。実は今年……」
 彼の言葉の続きに私は声を失ってしまい、車の中に重い空気が流れる。
 不安を乗せたまま降りしきる雨の中を静かに走り、今日から5日間に泊まるホテルへと到着した。
 翌早朝4時、アドニスに会うための挑戦が始まった。天気は今日も雨だ。
 まだ真っ暗な景色の中を車で2時間かけてリカルドさんと共にある場所へ向かう。
 パカヤ・サミリア国立保護区、ペルー最大の国立公園だ。
 道は順調に進み6時半前には到着した。少し前に日の出を迎えたのに空は薄暗く、雨が懇々と降り注いでいる。雨季の時期はほぼ毎日が雨なのだけれど、一日中というわけではなく降ったり止んだりを繰り返すものなのだ。
 ……本来は。
「さぁて、どうかね」
 バタン、という音を立てて車のドアを閉めながらリカルドさんが空を見上げた。時間には十分間に合っているけど、この雨では例え蝶が出てきたとしても見つけるのは困難だろう。それでも私は諦めないけれど。
「俺はここにいるから、好きな時に戻ってきな」
「はい、ありがとうございます」
 私はリカルドさんと別れ、アマゾンの森へと足を進めた。
 時刻は7時。
 彼らの活動時間とされる時間がやってきた。
 モルフォ蝶は決まった時間に活動する生態であり、アドニスは朝7時から7時半の間とされている。
 貴重なたった30分のうちに整備された森の道を歩き回り、目が飛び出そうなくらい大きく見開いてその姿を探したけれど、この日は|彼《・》に出会うことはできなかった。
 翌日、その翌日も空振り。
 どの日も変わらず大降りの雨空を見上げるばかりだった。
「な、言ったとおりだろ? 残るチャンスは明日だが、多分かなり厳しいと思うぞ」
「付き合わせてすみません。でも私、最後まで諦めませんから」
 帰りの車でそんな会話をし、帰宅したホテルのベランダで呆然と空を見つめた。
 この3日でホテルの周りは観光しつくしており、出かける気力も起きなかった。何より今はこの降り注ぐ雨が憎くたらしくて仕方がない。
「本当にずっと降ってるんだ……雨」
 一人でそうポツリと呟いた。
<今年は異常気象でな、もう1ヶ月も雨が降りっぱなしなんだよ。この先もまだしばらく続くって予報だ>
 ここへ来た日に聞いたリカルドさんの言葉が蘇る。
 彼は長年ここに住んでいるけど、こんなことは初めてだそうだ。雨に慣れているため氾濫などの心配はないようだけど、それでも生態系には多少の影響が出るだろう。
 何より日光によって生活リズムを整えてる生物は多く、モルフォ蝶もその一種。死にはしないが、その活動は制限されてしまうのだ。
 ただでさえ見つけるのが難しいのに、まさか天気に苦しめられるなんて思いもしなかった。でも私の力ではどうしようもできない。脳裏に浮かぶ輝く青色がヒラヒラと舞いながら霞んでいく。
 やっと、ここまで来たのに。
 せめて明日の朝だけでも晴れてくれれば……、そう願わずにはいられない。
 心地良いアルトの声色が雨と共に空から降ってきたのは、まさにその直後だった。
「そんなに会いたいの? その蝶に」
 耳を疑った。私は今、ベランダにいる。そうでなくともここは5階、外から人の声が聞こえてくるなんて。
 驚きのあまり顔を上げると、その先で息が止まるほどの光景を目にした。
 人が宙に浮いて立っているのだ。
 それもモルフォのような色を纏い、『アドーニス』と称すべき美少年が。
「あぁ、先に言っておくけど夢じゃないよ。前に会った女の子が最後までそう思っていて、面白くなかったんだよね」
 少年は顰め面をしてそう言った。
 どう考えても夢としか思えないけれど、本当に現実だとするならば――。
「もしかして貴方は……アドーニス?」
 モルフォ蝶ではなく、伝説の彼自身が会いに来てくれたのだろうか。
「誰なの、それ。僕はメネルだよ、空を管理する番人さ」
「空を管理する、番人」
 復唱すると彼は浮いたまま、持っていた杖を抱えて器用に胡座を掻いた。まるでそこに地面があると思うくらい違和感がない。いや、実際は違和感だらけなんだけど。
「そ。僕は天気について考えてる人間の声を聞いて、気まぐれにその願いを叶えてあげてるんだ。青い蝶は僕も見たことないから、面白そうだと思――」
「ってことは、つまり天気を変えてくれるってこと!?」
 メネルの話を最後まで聞くことなく、私はその言葉に飛びついた。突然食いつかれた彼はモルフォ色の瞳を瞬かせて驚いている。
「夢じゃないならお願い、明日の天気を晴れにして! 私もう、明日しかチャンスがないの!」
「いいけど……その代わり報酬を貰うけどいいの?」
「構わない、何でも払うわ。アドニスモルフォに会えるのなら!」
 ベランダの手すりから身を乗り出して私はメネルに懇願した。縋れるものには何でも縋りたかった。
 するとメネルは足を伸ばして立ち上がり、私に向かって右手を差し出した。〝この手を取れ〟といわんばかりに。
 私は息を1つ飲み、彼の手を強く掴んだ。
 気がつくと1枚の紙が置かれた机を前にして椅子に座っていた。辺りは部屋全体が空模様で覆われており、なんだか空に浮かんでいるような不思議な空間だった。
 コツコツという足音を天井に響かせて、一人の少年が視線の先にある玉座へ腰を掛けた。メネルだ。
「じゃあ早速、天気変更の契約をしてもらうよ。その紙へ書かれてる内容に了承できたら、サインしてくれる?」
 そう言われて私は机上の『契約書』に目を通した。
 内容は次の3つだ。
(一)本書にサインをした時点で、天気変更の契約成立になります。その場合、それ以降のキャンセル等は一切認められません。
(二)天気変更に伴い報酬をいただきます。契約成立の瞬間に譲渡されますので、ご注意ください。
(三)契約後、空の番人についての記憶は全て抹消されます。
 そっか……、サインをしたらメネルのことは忘れてしまうんだ。折角アドーニスに会えた気がしたのに、何だか寂しい気持ちになった。
「そのアドーニスって人、そんなに僕に似てるの?」
 私は何も口にしていないのにメネルがそう言った。もしかして彼は、私の思考が読めるのだろうか。
「うん、そうだね」
 彼は再び私の心の声に答えると、片足を反対の太ももに乗せて足を組んだ。メネルが顔を動かすと、左耳の青いペンデュラムがキラリと光ってとても印象的だった。
「アドーニスはギリシャ神話に出てくる人物なの。だから本当の顔は分からないけど、『美しい男性』の代名詞として知られてるわ」
「ふふっ、僕が|美《・》|し《・》|い《・》|男《・》|性《・》? それは光栄だねぇ」
 アドーニスについて教えると、彼は満更でもなさそうに笑みを浮かべた。でも実際メネルは見惚れるほど綺麗な顔立ちなのだ。そう思うと彼がまたククと笑い声を上げたので、思考が読まれたと気づいて急に恥ずかしくなった。
「そ、それでっ、報酬はなに? 命って言われると困るけど、それ以外なら何でもどうぞ」
「そんなもの貰ってどうするのさ。報酬は君の一番好きな食べものだよ」
 好きな、食べもの……って、それだけ?
「そうだよ、お得でしょう? あぁ、報酬だから君は今後一切それを口にできなくなるけどね」
 メネルは私の心の声にそう付け足した。
 ……好きな食べもの、か。
 瞬時に思い浮かぶのは、地元のレストランで愛されている『|Yaka Mein《ヤカ ミェン》』というヌードルだ。牛肉を煮込んだ塩味のあるスパイシーな濃厚スープに、スパゲティのような麺と、ゆで卵やネギが入っている食べもの。辛いものが好きな人にはもちろん、地元では二日酔いにも効くと有名だけど、まだお酒が飲めない私はその効果を知らない。
 21歳になったら、本当に効くのか試すのを楽しみにしていたけど……それはできなくなるらしい。
 でも私が叶えたい夢はそれじゃない。
 叶えたいのは、ただ1つ。
「一応言っておくけど、僕ができるのは明日の朝の天気を快晴にすることだけだよ。その蝶に会えるかは君の運次第だ」
「分かってるわ、メネル」
 私は意を決して用意されていた羽根付きのペンを握ると、サラサラとサインをしたためた。書き終わると光を放った契約書がフワリと浮かび、メネルに向かって飛んでいった。彼はそれを器用にキャッチして眺めると、満足そうに頷く。
「契約成立。ご依頼、確かに承りました。では報酬をいただきます」
 メネルのその声を聞いた瞬間、急に眠くなって私は机に臥してしまった。
 あぁ、ここで彼とはお別れなんだ。
 さようなら、メネル――。
 スマホのアラームに驚いて私は跳び起きた。何だかとても不思議な夢を見ていた気がするけれど、全く思い出すことができない。
 時刻は朝3時半、外はまだ真っ暗だ。今日はペルーに滞在できる最後の日。
 いつものようにベランダの窓を開ける。暗くてよく見えないけれど、湿った空気と匂いが〝雨だ〟と主張していた。
 ……あれ、どうしてだろう。それなのに私、全然悲しくない。むしろ昨日までよりも心が躍っている気がする。
 何だか今日はとてもハッピーなことが起こるんじゃないか。私はそんな気持ちを抱きながら、出発の準備に取りかかった。
 ホテルの外に出るとリカルドさんが既に迎えに来てくれていた。
「おはよう、アテネちゃん。ラストチャンスだ、幸運を祈るよ」
「ありがとうございます、よろしくお願いいします」
 早速車に乗り込み、国立公園を目指す。空はこれまでと何ら変わらない姿だ。
 多少道が混んでいたけれど、何とかアドニスが活動を始める5分前に到着できた。
 すると車を降りたリカルドさんが「おや?」という声を上げる。先ほどまで降っていた大粒の雨が弱まっていたのだ。
「空が多少明るいな。アテネちゃん、これはもしかするかも知れないぞ」
「はい。行ってきます、リカルドさん!」
 今までと同じようにリカルドさんを車に残し、私は森の中を探索し始める。手には今までは出せなかった一眼レフカメラを持っていた。この日のために撮影方法も学んできたのだ。
 時計の針が7時を指し、空を見上げる。
 すると不思議なことが起こった。
 この1ヶ月間、絶え間なくペルーに降り注いでいた雨がピタリと止んだ。雨雲の隙間から光が漏れ、まるで天使が下りてくるように何本もの日差しが地上を照らす。次第に雲を切り分けてスカイブルーが姿を現し、真夏らしい快晴の空が広がった。
 まさしく、奇跡。
 暫く私は空の青さに見とれていたけれど、本来の目的を思い出して再び歩み始めた。森の匂いを感じ、腐葉土を踏みしめる。雨上がりの森の中はヒンヤリしていて、湿気の多さも何だか心地良い。
 7時5分、蝶の姿は見当らない。
 7時15分、少しだけ焦りを感じる。
 7時25分。
 やっぱり急に晴れたとて蝶は現れないかもしれない。そう諦めかけた時だった。
 キラキラと前方に光る何かを見つけた。私は逸る鼓動を押さえて、慎重にその場所へ足を進める。
 そこで見た景色に体中が震え上がった。
 森の敷地の一角を光沢を持った青い色が覆い尽くしていた。何百頭のモルフォ蝶がキノコに群がって食事をしていたのだ。それも全てが恋人のように憧れ続けたアドニスモルフォである。この期間ずっと雨だったことが講じて、彼らを一斉に活動させる要因となったのではないだろうか。
 私は感動に打ち震えながらも急いでカメラのシャッターを切った。
 何度も何度も連写した。涙が頬を伝っていたことに気づいたのは暫く経った後だ。
「……あっ」
 7時30分。何万枚もの写真を撮ったところで、蝶たちが一斉に空へと舞い上がった。裏面の目玉模様の翅と交錯させ、それがより煌びやかに輝いて見える。
 私は彼らの姿が溶け合っていく空の果てを、いつまでも眺めていた。
「ウィリアムズさん、この写真はすごいね。どこで撮ったんだい?」
「ペルーです。ペルーのパカヤ・サミリア国立保護区で3年前に撮ってきました」
 スタッフさんからの質問にそう答えて、私はある写真の前に立った。モルフォ蝶の群れを写したそれは、私の初の写真展の目玉だ。
 あれから1年後に会社員を辞めた私は、写真家として様々な昆虫を撮っている。キッカケはもちろん、生きたアドニスモルフォに会えたことだ。モルフォに限らず色々な昆虫の生きる瞬間に立ち会い、カメラに収めたいと思って転職した。
 あの体験は今でも忘れられない。
 アドニスに会えたことも、空があの瞬間だけ晴れ渡った奇跡も。
「準備に疲れただろう、ランチでもどうだい。ヤカミェンを食べに行こうと思うんだけど」
「折角ですが、私アレを食べるとじんま疹が出るんですよね。前は大好きだったんですけど……」
「そう、それは残念」
 そう言ってスタッフさんが出かけていく姿を見送り、私は忙しなく駆けだした。
 私の左耳には今、モルフォ蝶のピアスが光っている。
 何だかアドーニスがそうしていたような気がして。
***
「たまにこのスープが飲みたくなるんだよねぇ」
 今日のランチはヤカミェン。濃厚な牛肉のスープを口にするとスパイシーな刺激が広がった。続いて太めの麺を啜れば、もう手が止まらなくなる。ゆで卵は最後派。
「その節はムリを言ったね、|晴の精霊《サニール》。でもこのスープ、クセになるだろう?」
 仲間の満足そうな表情を見ながら、僕は下界のある女性を見つめた。
 写真家になったんだね、アテネ・ウィリアムズさん。あの青い蝶は僕のマントみたいで、とっても綺麗だったよ。
 さて、次はどんな人を選ぼうかな。
 口にすると精霊たちに嫌な顔をされそうだから心の中で呟いて、僕はスープを一滴残らずに飲み干した。
※アドニスモルフォは、現在『マルクスモルフォ』の名前で親しまれています。