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0/それでいいと思っている

ー/ー



 あれは確か、十歳にもならない頃のことだったと思う。
 まだ護ってくれる人が居て、手を取る相手が居て、色んなものが捻じれてしまう前。
 もう帰らない、きっと帰るべきではない思い出の話だ。

 フルエット・スピエルドルフは、どこからかの物音で目を覚ました。天窓から降り注ぐのは月明りだけで、空はまだ暗い。朝の早い使用人たちでさえ、まだ休んでいる時間のはずだ。
 大きなベッドの上、隣で眠っていた狩人のぬいぐるみを抱きしめて部屋を見まわす。特に部屋の中の物が倒れた様子はない。一番倒れそうな、チェストの上に並んだ本も無事だ。
 なら、物音は気のせいだったのだろうか。
 そう思おうとしても不安が拭えないのは、昼間に使用人たちの噂話を聞いていたせいかもしれない。少し迷った末、フルエットはベッドの傍らに垂れ下がる白い紐へ手を伸ばそうとした。
 ――バンッ!
「っ」
 窓の方から響いた音に、フルエットは腕の中の小さな狩人をぎゅっと抱きしめた。ぬいぐるみで半ば顔を隠すようにしながら、窓へと振り返る。
 天窓からの月明りの向こうに、窓を内側から塞ぐ分厚くどっしりとした木の板と、頑丈な鉄製の閂が見えていた。招かれざる来訪者を阻むために据えられた板と閂には、どちらも炎の様に波打つ大きな十字が刻印されている。
 炎の十字を見つめたまま、というより目を離せなくなったまま、童女はベッド脇の紐を手探りでつかむ。
 穴が開いた。
 木の板の、十字の刻印の右上あたり。そこに、人の頭くらいの大きさの穴が、突然。
 童女の悲鳴が、窓ガラスと木材の砕ける音にかき消される。床に散らばったガラス片と木片は、毛足の長い絨毯の上に落ちて、ひとつ残らず音を吸われた。余韻なく音が途切れた静寂の中、フルエットの耳に触れるのは、彼女自身の荒くひきつった息遣いだけだ。
 そして、ずるりと。
 穴の向こうから、男が頭を突き出すのをフルエットは見た。紐をつかんだ姿勢のまま固まってしまった彼女の喉から、あえぐような音が漏れる。
 穴と男の隙間から吹き込んだ夜気は、鉄臭さを帯びていた。
 頭を覗かせた男が、ぐるりと部屋の中を見まわす。爛々と輝くその目が、ベッドの上で怯えるフルエットを捉える。
 男が獣じみた唸りをこぼす。かと思うと、彼の頭はメキメキと音を立てて形を変え始めた。
 あっという間に狼のソレに変化していく様は、グロテスクな粘土細工のよう。細長く形を変えた口元に並ぶ牙から、粘つくよだれがだらりと滴った。獣臭さとすえた悪臭が、夜気に混ざる。
 動けないでいるフルエットの唇から、震えた声が漏れた。
「い、るい」
 『異類』。
 動物、虫、あるいは植物。とにかく人とそれ以外を混ぜ合わせたような、もしくはそれらの生き物を、無理やり人の輪郭に押し込めたような姿をした者たち。しばし餓えて、時に手慰みや興味本位で人を襲う化け物。それらを、人々は異類と呼んでいた。
 なかでも狼の異類は、人狼の名でひときわ恐れられていた。異類としても稀な、人に擬態する性質と、特に好んで人を喰う獰猛さのために。
 狼の頭が、穴の向こうに引っ込む。その瞬間、フルエットはほとんど倒れるみたいにして紐を引いていた。
 どこかで鈴の音が遠く聞こえて、
 木の板が閂ごと吹き飛んだ。
 抱きしめたままのぬいぐるみが潰れてしまうくらいに、フルエットの小さな身体がこわばって縮こまる。
 木材と金具、そしてガラスが絨毯の上にぶちまけられ、もはや枠だけになった窓からバルコニーが顕わになる。
 バルコニーを凝視するフルエットの視線の先で、全身を灰色の毛に覆われた筋骨隆々たる人狼が、窓枠を悠々と乗り越えて部屋に踏み込んできた。
「あ……あぁ……」
 フルエットは、震えながらぬいぐるみを抱きしめることしかできない。
 そんな彼女をなぶるように、人狼は飛びかかる姿勢を取った。ナイフのような爪を一本ずつじっくりと床の絨毯に食い込ませ、ゆっくりと身体を沈めて狙いを定め、
 部屋の扉が蹴破られる。
 
「そこまでにしてもらえるかしら」

 続く声に、フルエットの身体の震えはぴたりとおさまった。自由を取り戻した身体が、弾かれたように振り返る。
「母様!」
 肩マントを羽織り、一本の剣を携えた女性――フルエットの母様が、そこに立っていた。報せがあってすぐに駆けつけてきたのだろう、マントの下はネグリジェ姿で、腰まで届く黒髪は寝る前に緩く結わえた時のままだ。
「もう大丈夫だからね」
 フルエットへ柔らかく笑いかけた母様が、板の刻印と同じ炎の十字の刺繍が施されたマントを翻す。剣の柄に手をかけながら、彼女は一転して鋭い眼差しで人狼に問うた。
「ここ最近、この辺りで暴れてた人狼はあなた?」
 人狼が飛びかかる姿勢を止めて、母様の方へ向き直る。そのまま襲いかかるでもなく、食事前の雑談に興じるような調子で答える。
「うん? ああ、噂になってたのか。どうりで狩人があちこちいたわけだ」
「家の近くにも張っていたはずだけど……彼らはどうしたの?」
「うん? ほどよく締まってて、悪くなかったぞ」
 でも、と。人狼がフルエットを横目に見た。こぼれる涎に、フルエットは身体を少しこわばらせる。
 だけど、大丈夫。今は、母様がいてくれるから。
「そこの子供の方がもっと良さそうだ。極上ものだろう、あれは」
「そう。……窓の修繕費は後で請求しに行くから、今は帰ってもらえる?」
 母様の声が、ワントーン低くなっていた。
 人狼は答えない。というより、母様の言葉を理解するのに時間がかかったらしかった。ややあって、首を傾げて。それから、ため息をつくみたく唸り声をあげて、腹をさすった。
「困ったな。今日はもう子供しか入らないんだが」
 瞬間、床に散らばる木材とガラスが弾け飛んでいた。
 両者の間の距離が消し飛ぶ。フルエットが気づいた時にはもう、人狼は母様に喰らいついていた。
 違うと気づいたのは、人狼の喉元へ突きつけられた剣の切っ先が見えたからだった。剣先に灯された真白の聖火が、極至近距離で対峙する二人の姿を照らしている。今さらのように、投げ捨てられた鞘が絨毯の上に落ちた。
「止まってくれてよかったわ。血生臭い場面は、あまり娘に見せたくないもの」
「うん? ちょっと驚いただけだぞ」
 直後、人狼の姿がかき消える。
「かあ、」
 さま、と。母を呼ぶほどの間もなかった。
 呼び終える前に、人狼が母様の前にひざまずいていたからだ。肩を抑えているから、たぶんフルエットからは見えない方の腕を斬り落とされたのだと思う。太く毛むくじゃらの腕が転がっているのが二人の足元にかすかに見えて、フルエットはぬいぐるみに顔をうずめるようにして目を伏せた。
 人狼の呻き声に被せるように、突き付けるように母様の声が言う。
「もう一度言うわ。……今は帰ってもらえる?」
 人狼は無言。しかし割れたガラスを踏む音、そして窓枠のきしむ音が聞こえた。
 するとすぐさま、母様が駆け寄ってくる気配。顔を上げたフルエットは、そのままぎゅっと包み込むように抱きしめられた。身体がじんわりと温かくなって、ぬいぐるみを抱きしめていた手から力が抜ける。
 目を開けると、母様のくすんだ琥珀色の瞳がフルエットを見つめていた。
「大丈夫、フルエット? 怪我はしてない?」
「うん、ありがとう母様。でも、狼が逃げたんじゃ……」
「大丈夫、すぐに追いかけるわ。あなたは、今晩はゼフィの所で一緒に寝なさい」
 最後に頭をそっと撫でると、母様は置いていた剣を取って駆け出した。窓枠を飛び越え、バルコニーから飛び降り、月夜の向こうへと消えていく。
 一人残されたフルエットがバルコニーの向こうを眺めていると、扉の方から「フルエット様!」と呼びかける声がした。フルエットとさほど変わらない年恰好の赤髪の少女が、寝間着姿のままで部屋を覗いている。
「ゼフィ!」
「このような服装で失礼します」
 赤髪の少女――ゼフィは、一礼するなり駆け寄ってくる。フルエットが無事なのを確かめると、その顔にパっと笑顔が咲いた。
「ご無事でなによりでした。異類とモリアミス様は……?」
「母様は、異類を追いかけていっちゃった。朝までには帰ってきてくれると思う」
「そうでしたか。ところでフルエット様、この後はどうされるのですか? お部屋がこのご様子では……」
 窓が全損した部屋を見まわして青い顔をしたゼフィに、フルエットはすこし悪戯っぽく笑う。
「母様がね、今日はゼフィのところでいっしょに寝なさいって」
「わ、わたくしのところですか!? フルエット様をお連れするには、ふさわしくないかと……」
 もじもじとうつむいたゼフィ。フルエットはその手を取って、ぎゅっと握る。
「母様が言ってるんだもん、気にしなくていいの。それとも、ゼフィは……わたしと一緒は、いや?」
「ま、まさか! わたくしの身にあまる光栄です!」
 ゼフィが顔を赤くして、はにかみながらぶんぶんと首を振る。
 そんな従者の様子に、フルエットはついさっきまで異類に狙われていたことなど忘れたように表情を明るくする。
「じゃ、行こ!」
 するりとベッドから降りると、ゼフィの手を引いて駆け出したのだった。
 
 これはまだ、十歳にもならない頃の記憶だ。護ってくれる人も、手を取る相手も今はもういない。
 もういないが、それでいい。
 それでいいと、フルエットは思っている。


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 あれは確か、十歳にもならない頃のことだったと思う。
 まだ護ってくれる人が居て、手を取る相手が居て、色んなものが捻じれてしまう前。
 もう帰らない、きっと帰るべきではない思い出の話だ。
 フルエット・スピエルドルフは、どこからかの物音で目を覚ました。天窓から降り注ぐのは月明りだけで、空はまだ暗い。朝の早い使用人たちでさえ、まだ休んでいる時間のはずだ。
 大きなベッドの上、隣で眠っていた狩人のぬいぐるみを抱きしめて部屋を見まわす。特に部屋の中の物が倒れた様子はない。一番倒れそうな、チェストの上に並んだ本も無事だ。
 なら、物音は気のせいだったのだろうか。
 そう思おうとしても不安が拭えないのは、昼間に使用人たちの噂話を聞いていたせいかもしれない。少し迷った末、フルエットはベッドの傍らに垂れ下がる白い紐へ手を伸ばそうとした。
 ――バンッ!
「っ」
 窓の方から響いた音に、フルエットは腕の中の小さな狩人をぎゅっと抱きしめた。ぬいぐるみで半ば顔を隠すようにしながら、窓へと振り返る。
 天窓からの月明りの向こうに、窓を内側から塞ぐ分厚くどっしりとした木の板と、頑丈な鉄製の閂が見えていた。招かれざる来訪者を阻むために据えられた板と閂には、どちらも炎の様に波打つ大きな十字が刻印されている。
 炎の十字を見つめたまま、というより目を離せなくなったまま、童女はベッド脇の紐を手探りでつかむ。
 穴が開いた。
 木の板の、十字の刻印の右上あたり。そこに、人の頭くらいの大きさの穴が、突然。
 童女の悲鳴が、窓ガラスと木材の砕ける音にかき消される。床に散らばったガラス片と木片は、毛足の長い絨毯の上に落ちて、ひとつ残らず音を吸われた。余韻なく音が途切れた静寂の中、フルエットの耳に触れるのは、彼女自身の荒くひきつった息遣いだけだ。
 そして、ずるりと。
 穴の向こうから、男が頭を突き出すのをフルエットは見た。紐をつかんだ姿勢のまま固まってしまった彼女の喉から、あえぐような音が漏れる。
 穴と男の隙間から吹き込んだ夜気は、鉄臭さを帯びていた。
 頭を覗かせた男が、ぐるりと部屋の中を見まわす。爛々と輝くその目が、ベッドの上で怯えるフルエットを捉える。
 男が獣じみた唸りをこぼす。かと思うと、彼の頭はメキメキと音を立てて形を変え始めた。
 あっという間に狼のソレに変化していく様は、グロテスクな粘土細工のよう。細長く形を変えた口元に並ぶ牙から、粘つくよだれがだらりと滴った。獣臭さとすえた悪臭が、夜気に混ざる。
 動けないでいるフルエットの唇から、震えた声が漏れた。
「い、るい」
 『異類』。
 動物、虫、あるいは植物。とにかく人とそれ以外を混ぜ合わせたような、もしくはそれらの生き物を、無理やり人の輪郭に押し込めたような姿をした者たち。しばし餓えて、時に手慰みや興味本位で人を襲う化け物。それらを、人々は異類と呼んでいた。
 なかでも狼の異類は、人狼の名でひときわ恐れられていた。異類としても稀な、人に擬態する性質と、特に好んで人を喰う獰猛さのために。
 狼の頭が、穴の向こうに引っ込む。その瞬間、フルエットはほとんど倒れるみたいにして紐を引いていた。
 どこかで鈴の音が遠く聞こえて、
 木の板が閂ごと吹き飛んだ。
 抱きしめたままのぬいぐるみが潰れてしまうくらいに、フルエットの小さな身体がこわばって縮こまる。
 木材と金具、そしてガラスが絨毯の上にぶちまけられ、もはや枠だけになった窓からバルコニーが顕わになる。
 バルコニーを凝視するフルエットの視線の先で、全身を灰色の毛に覆われた筋骨隆々たる人狼が、窓枠を悠々と乗り越えて部屋に踏み込んできた。
「あ……あぁ……」
 フルエットは、震えながらぬいぐるみを抱きしめることしかできない。
 そんな彼女をなぶるように、人狼は飛びかかる姿勢を取った。ナイフのような爪を一本ずつじっくりと床の絨毯に食い込ませ、ゆっくりと身体を沈めて狙いを定め、
 部屋の扉が蹴破られる。
「そこまでにしてもらえるかしら」
 続く声に、フルエットの身体の震えはぴたりとおさまった。自由を取り戻した身体が、弾かれたように振り返る。
「母様!」
 肩マントを羽織り、一本の剣を携えた女性――フルエットの母様が、そこに立っていた。報せがあってすぐに駆けつけてきたのだろう、マントの下はネグリジェ姿で、腰まで届く黒髪は寝る前に緩く結わえた時のままだ。
「もう大丈夫だからね」
 フルエットへ柔らかく笑いかけた母様が、板の刻印と同じ炎の十字の刺繍が施されたマントを翻す。剣の柄に手をかけながら、彼女は一転して鋭い眼差しで人狼に問うた。
「ここ最近、この辺りで暴れてた人狼はあなた?」
 人狼が飛びかかる姿勢を止めて、母様の方へ向き直る。そのまま襲いかかるでもなく、食事前の雑談に興じるような調子で答える。
「うん? ああ、噂になってたのか。どうりで狩人があちこちいたわけだ」
「家の近くにも張っていたはずだけど……彼らはどうしたの?」
「うん? ほどよく締まってて、悪くなかったぞ」
 でも、と。人狼がフルエットを横目に見た。こぼれる涎に、フルエットは身体を少しこわばらせる。
 だけど、大丈夫。今は、母様がいてくれるから。
「そこの子供の方がもっと良さそうだ。極上ものだろう、あれは」
「そう。……窓の修繕費は後で請求しに行くから、今は帰ってもらえる?」
 母様の声が、ワントーン低くなっていた。
 人狼は答えない。というより、母様の言葉を理解するのに時間がかかったらしかった。ややあって、首を傾げて。それから、ため息をつくみたく唸り声をあげて、腹をさすった。
「困ったな。今日はもう子供しか入らないんだが」
 瞬間、床に散らばる木材とガラスが弾け飛んでいた。
 両者の間の距離が消し飛ぶ。フルエットが気づいた時にはもう、人狼は母様に喰らいついていた。
 違うと気づいたのは、人狼の喉元へ突きつけられた剣の切っ先が見えたからだった。剣先に灯された真白の聖火が、極至近距離で対峙する二人の姿を照らしている。今さらのように、投げ捨てられた鞘が絨毯の上に落ちた。
「止まってくれてよかったわ。血生臭い場面は、あまり娘に見せたくないもの」
「うん? ちょっと驚いただけだぞ」
 直後、人狼の姿がかき消える。
「かあ、」
 さま、と。母を呼ぶほどの間もなかった。
 呼び終える前に、人狼が母様の前にひざまずいていたからだ。肩を抑えているから、たぶんフルエットからは見えない方の腕を斬り落とされたのだと思う。太く毛むくじゃらの腕が転がっているのが二人の足元にかすかに見えて、フルエットはぬいぐるみに顔をうずめるようにして目を伏せた。
 人狼の呻き声に被せるように、突き付けるように母様の声が言う。
「もう一度言うわ。……今は帰ってもらえる?」
 人狼は無言。しかし割れたガラスを踏む音、そして窓枠のきしむ音が聞こえた。
 するとすぐさま、母様が駆け寄ってくる気配。顔を上げたフルエットは、そのままぎゅっと包み込むように抱きしめられた。身体がじんわりと温かくなって、ぬいぐるみを抱きしめていた手から力が抜ける。
 目を開けると、母様のくすんだ琥珀色の瞳がフルエットを見つめていた。
「大丈夫、フルエット? 怪我はしてない?」
「うん、ありがとう母様。でも、狼が逃げたんじゃ……」
「大丈夫、すぐに追いかけるわ。あなたは、今晩はゼフィの所で一緒に寝なさい」
 最後に頭をそっと撫でると、母様は置いていた剣を取って駆け出した。窓枠を飛び越え、バルコニーから飛び降り、月夜の向こうへと消えていく。
 一人残されたフルエットがバルコニーの向こうを眺めていると、扉の方から「フルエット様!」と呼びかける声がした。フルエットとさほど変わらない年恰好の赤髪の少女が、寝間着姿のままで部屋を覗いている。
「ゼフィ!」
「このような服装で失礼します」
 赤髪の少女――ゼフィは、一礼するなり駆け寄ってくる。フルエットが無事なのを確かめると、その顔にパっと笑顔が咲いた。
「ご無事でなによりでした。異類とモリアミス様は……?」
「母様は、異類を追いかけていっちゃった。朝までには帰ってきてくれると思う」
「そうでしたか。ところでフルエット様、この後はどうされるのですか? お部屋がこのご様子では……」
 窓が全損した部屋を見まわして青い顔をしたゼフィに、フルエットはすこし悪戯っぽく笑う。
「母様がね、今日はゼフィのところでいっしょに寝なさいって」
「わ、わたくしのところですか!? フルエット様をお連れするには、ふさわしくないかと……」
 もじもじとうつむいたゼフィ。フルエットはその手を取って、ぎゅっと握る。
「母様が言ってるんだもん、気にしなくていいの。それとも、ゼフィは……わたしと一緒は、いや?」
「ま、まさか! わたくしの身にあまる光栄です!」
 ゼフィが顔を赤くして、はにかみながらぶんぶんと首を振る。
 そんな従者の様子に、フルエットはついさっきまで異類に狙われていたことなど忘れたように表情を明るくする。
「じゃ、行こ!」
 するりとベッドから降りると、ゼフィの手を引いて駆け出したのだった。
 これはまだ、十歳にもならない頃の記憶だ。護ってくれる人も、手を取る相手も今はもういない。
 もういないが、それでいい。
 それでいいと、フルエットは思っている。