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3.揺り籠にまどろむ螺旋-1

ー/ー



 時は、少し遡る――。


「ハオリュウ君。折り入って、君に相談したいことがあるのです」
 ひと通りの挨拶を済ませたあと、摂政カイウォルは人当たりのよい笑顔で切り出した。
 黒髪でありながらも、燦然と輝く太陽を彷彿させるような、まばゆいばかりの美貌。物腰は柔らか、というよりも雅びやかであり、髪の毛の一本一本から足の爪の先までもが、香り立つような気品をまとっている。
 それでいて、為政者ならではの威厳をも兼ね備えており、彼という人間の風格は、見る者に強烈な畏敬の念を(いだ)かせる。
『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』――そんな妄言も、あるいはと信じてしまう輩がいるのも否めない。
 王族(フェイラ)という選民意識が強く、母親を平民(バイスア)に持つハオリュウのことは、今まで歯牙にもかけなかった。故に、ハオリュウの個人的な感情は最悪に近い。
 一方で、国の担い手としては、掴みどころがないといわれる女王の婚約者ヤンイェンよりも、よほど適任であることはハオリュウも認めている。カイウォルとヤンイェンの、どちらかを王に選ばなければならないとしたら、ハオリュウは間違いなくカイウォルを選ぶ。
 ――勿論、藤咲家の利益が保証された上でのことであるが……。
 ただ、間違えてはならないのは、ふたりのうちのどちらかが王になる――というわけではないことだ。
 王はあくまでも〈神の御子〉。
 輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、神の代理人でなくてはならない――。
「食事の前に、その話をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、勿論。……ああ、いえ、私のような若輩者が殿下のお役に立てるとは、毛頭思ってもおりませんが、お話をお聞かせくださること、恐悦至極に存じます」
 車椅子の上からであるが、ハオリュウは深々と(こうべ)を下げ、見事な社交辞令で返した。
 はきはきと答えながらも、窺うような声の震えをほんのり織り交ぜることによって、自分が相手の優位を認めていることを示す。今はまだ、正面から戦う必要はない。
 そんなハオリュウの内心を理解しているのか、いないのか。カイウォルは、にこやかなまま続けた。
「まずは、見ていただきたいものがあります。そのほうが話が早いと思いますから。――案内の者を呼びましょう」
 そう言って、彼らのいる応接室の扉を振り返り、カイウォルは両手を打ち鳴らした。
「!?」
 カイウォルは、『案内』と言った。ここから移動するのだ。
 つまり、その場所から動かすことのできない『何か』が、この館のどこかにあるということだ。ならば、それこそが、ハオリュウがこの館に呼ばれた理由……。
 ハオリュウの顔が緊張に彩られたのとほぼ同時に、緩やかに扉が開き、(こうべ)を垂れた長身が現れる。
 背後に広がる黒い廊下に、白い白衣が映える。
 ハオリュウは、もしや……、と思った。
 ごくりと唾を呑む。心臓が激しく打ち鳴らされる。そして、その人物が顔を上げた瞬間、凍りついた。
 鷹刀一族次期総帥、鷹刀エルファンと瓜二つ――けれど、彼ではない。それが分かるくらいには違う。
「紹介しましょう。彼は、優秀な医師であり、王族(フェイラ)直属の研究組織〈七つの大罪〉の研究員。組織内での呼び名を〈(ムスカ)〉と申す者です」

 刹那、ハオリュウの全身が総毛立った。

 父の最期の姿が、脳裏に蘇る。
 記憶を別人に書き換えられた父が、死の間際、奇跡的に戻ってきた。
 彼は、誘拐されたハオリュウの無事に涙を流し、そして笑って……。
 ハオリュウの瞳が漆黒に染まる。この場がどこであるかを忘れる。
 ――仇だ。
 目の前にいるのは、憎き父の仇だ……。
 そのとき、ハオリュウの首筋に、ぴくっと衝撃が走った。
「!?」
 初めは、何が起きたか分からなかった。だが首筋に、ぴくぴくと繰り返される衝撃に、ハオリュウは、はっとする。
 ――ルイフォン!
 ユイランの仕立てた服には、細工がしてあると言っていた。そう思って感覚を研ぎ澄ませれば、襟の裏がわずかに振動しているのが分かる。
 彼が見ている。彼が見守ってくれている。
 今は、〈(ムスカ)〉に動揺している場合じゃないだろ。――そんな声が聞こえてくる。
 そうだ。彼の言う通りだ。
 乱れた感情を整え、ハオリュウは背後のシュアンの様子を探る。あいにく、気配を読むような特技は持ち合わせていないのだが、それでも同じ思いを(いだ)いているシュアンが平静を失っているのを感じた。
 ハオリュウは姿勢を正すふりをして、車椅子の肘掛けに置いていた腕を後ろに打ちつけた。
 喝を入れる。ハオリュウ自身への戒めと共に。
 感触からしてシュアンの腰骨に肘が当たった。案の定、驚きを含んだ短い息遣いが、後ろから聞こえてくる。――もう、大丈夫だ。
「……〈七つの大罪〉ですか?」
 ハオリュウは眉根を寄せて、カイウォルに尋ねた。
 その名が穏やかならざるものであることは、ある程度の情報を得られる者なら皆、知っている。ハオリュウの言動は、彼の立場としてごく自然なものだ。
 だが……、とハオリュウは戸惑う。
 カイウォルは、〈七つの大罪〉が王族(フェイラ)の直属だと言い切った。それは、極秘事項であるはずだ。何故こうもあっさり、ハオリュウに明かすのか……。
「世間では、『闇の研究組織』などと呼ばれているようですが、あれは真っ赤な嘘です。確かに、公にしていない研究もありますので、噂に尾ひれがつくのは仕方ないでしょう。しかし、王家にとって必要なものなのです」
 恥じ入ることなど何もないと主張するかのように、カイウォルは声を張らせる。
「すべては、これからお連れする場所で、納得いただけるでしょう」
 自信ありげに、そう告げた。


 ハオリュウが案内されたのは、地下へと続く階段だった。
 研究室があるに違いないと、ルイフォンが目星をつけていた場所である。
「殿下。こちらにはエレベーターはございませんが、いかがいたしましょう」
 ちらりと、〈(ムスカ)〉がハオリュウの車椅子に目線を送る。面倒なことだ、との色合いが見て取れた。
 この怪我の遠因が自分にあることを、〈(ムスカ)〉は知っているのだろうか。ハオリュウはそう思い、〈(ムスカ)〉のすました顔に、むっと鼻に皺を寄せる。
 互いに初対面であるが、罠にはめた貴族(シャトーア)が『藤咲』という名であったことを〈(ムスカ)〉は知っているはずだ。ならば、分かっているであろう。――ハオリュウに恨まれていることも。
 しかしハオリュウは、すぐに表情を戻した。
 この足は、ハオリュウの敗北の証だ。愚かさを、浅はかさを恥じるべきは、こちらのほうだ。
 だから。

 今度は、貴様の息の根を止める――。

 心の中で宣告し、ハオリュウはにこやかな笑みを浮かべた。
「心配には及びません。こんなときのための彼ですから」
 そう言いながら背後を振り返ると、敬愛する主人に仕える従者が如く、シュアンが腰から綺麗に一礼し、ハオリュウを抱き上げた。
 まだ子供とはいえ、背の伸びたハオリュウの体が軽々と浮かんだ。中肉中背で、どちらかというと貧相に見える風体だが、現役の警察隊員であるシュアンは常人よりも遥かに鍛えているのだ。
 ハオリュウの視界が広がる。憎き仇の顔が近くなる。
 激しくたぎる血流――その源となる鼓動の高鳴りは、おそらくシュアンに丸聞こえだろう。
 だが、そのシュアンの胸からだって、渦巻く怒りの脈動が轟いている。
 ふたつの響きは重なり、共鳴する。
 ふたりの瞳は、自然と〈(ムスカ)〉に向けられた。
 高温すぎる星の光が凍れる青白さを持つように、熱く冷たい、ふたつの視線が〈(ムスカ)〉を射抜く。
「!」
 ほんの一瞬であるが、見えない弾丸で撃ち抜かれた痕跡が、〈(ムスカ)〉の表情(かお)に現れた。
 ――ふたりが放ったのは、明確な殺意。
 鷹刀一族の出身である〈(ムスカ)〉が、気づかないはずがない。
 そして、荒事に慣れているはずの〈(ムスカ)〉に、刹那とはいえ、動揺を与えた。
 今は、これでいい。
 ハオリュウは意識を切り替え、シュアンと無言の呼吸を交わして先に進む。
 カイウォルの手前、これ以上、〈(ムスカ)〉と関わるべきではない。足が悪いことを侮辱されて憤慨しただけだと、説明できる範囲内で手を引く。
 とはいえ――。
 ハオリュウは優雅に後ろを振り返り、まるきり悪意の感じられない声を響かせた。
「そこの研究員の方。私の車椅子を階下まで運んでください」
 ハオリュウは貴族(シャトーア)だ。このくらい当然である。


 そんな不協和音を奏でつつ、一行は地下通路を行き、最奥の部屋の前にたどり着いた。
「こちらでございます」
(ムスカ)〉がそう言い、(こうべ)を垂れる。
 カイウォルは鷹揚に頷き、楽しげにハオリュウを振り返った。
「私も、実物を見るのは初めてなのです」
 そして、早く中へと〈(ムスカ)〉を促すが、〈(ムスカ)〉はシュアンを見やり遠慮がちに口を開く。
「殿下。ここから先は、お付きの者は……」
「構いません。彼は、ハオリュウ君の最も信頼する腹心の部下です。ここで締め出しても、あとで話がいくだけでしょう。無駄なことです」
 カイウォルは流し目で、くすりと笑う。お見通しだと言わんばかりに。
 ハオリュウは特に否定しなかった。するだけの意味がなかった。
「殿下がそうおっしゃるのなら……」
(ムスカ)〉は気乗りしない様子で扉を開く。
 室内に足を踏み入れると、かすかな薬品の匂いが広がった。
 黒い台の上に、さまざまな薬瓶、試験管やシャーレ、顕微鏡……。その他、ハオリュウにはよく分からない機械類が整然と並んでいる。
 地下ではあるが、照明は明るい。床はぴかぴかに磨き上げられ、清潔感にあふれている。もっと禍々しいものを想像していたハオリュウは、軽い困惑に陥った。
 しかし、〈(ムスカ)〉が奥から運んできた硝子ケースを見た瞬間、瞠目した。
「――!」
 ハオリュウの隣で、カイウォルが満面の笑みを浮かべる。感嘆とも、愉悦とも、あるいは興奮ともいえる声を漏らす。
「ああ……、ちゃんとできていたのですね」
 硝子ケースの中は培養液で満たされ、ゆらりゆらりと揺り籠に揺られるように赤子が漂っていた。赤子と呼ぶには少々、未熟な姿であるから、胎児といったほうが正しいのかもしれない。
 ふわりとたなびく髪は、まだ産毛ではあるものの、きらきらと光を弾き……。
 ――白金に輝く。
 カイウォルが満足そうに頷き、低く嗤う。
 ちょうど、そのとき。
 赤子が瞬きをした。
 垣間見えた瞳の色は、澄んだ青灰色…………!
 ハオリュウの体が、雷に打たれたかのように震えた。車椅子に座っていなければ、足をよろめかせて倒れ込んでいたかもしれない。
 カイウォルの典雅な指先が、硝子ケースを指し示し、ハオリュウに紹介する。
「彼の名前は、『ライシェン』」


「『ライシェン』!?」
 食い入るように、携帯端末を覗き込んでいたルイフォンは叫んだ。
 隣にいるリュイセンも、ルイフォンと押し合うようにして、画面を見つめる。
 映し出されているのは、ハオリュウの服に取り付けたカメラからの映像だ。監視カメラのない、地下の研究室からの情報である。
「『ライシェン』って、斑目の別荘で会った〈天使〉の女が、お前に向かって言っていた名前だよな? たぶん、セレイエの〈影〉だった女……」
 リュイセンの問いに、ルイフォンは黙って頷いた。驚愕に、声がうまく出なかったのだ。
 だが、衝撃はそれだけではなかった。
 摂政カイウォルは、次のように続けた。

『この〈(ムスカ)〉が作った――次代の王です』


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 時は、少し遡る――。
「ハオリュウ君。折り入って、君に相談したいことがあるのです」
 ひと通りの挨拶を済ませたあと、摂政カイウォルは人当たりのよい笑顔で切り出した。
 黒髪でありながらも、燦然と輝く太陽を彷彿させるような、まばゆいばかりの美貌。物腰は柔らか、というよりも雅びやかであり、髪の毛の一本一本から足の爪の先までもが、香り立つような気品をまとっている。
 それでいて、為政者ならではの威厳をも兼ね備えており、彼という人間の風格は、見る者に強烈な畏敬の念を|抱《いだ》かせる。
『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』――そんな妄言も、あるいはと信じてしまう輩がいるのも否めない。
 |王族《フェイラ》という選民意識が強く、母親を|平民《バイスア》に持つハオリュウのことは、今まで歯牙にもかけなかった。故に、ハオリュウの個人的な感情は最悪に近い。
 一方で、国の担い手としては、掴みどころがないといわれる女王の婚約者ヤンイェンよりも、よほど適任であることはハオリュウも認めている。カイウォルとヤンイェンの、どちらかを王に選ばなければならないとしたら、ハオリュウは間違いなくカイウォルを選ぶ。
 ――勿論、藤咲家の利益が保証された上でのことであるが……。
 ただ、間違えてはならないのは、ふたりのうちのどちらかが王になる――というわけではないことだ。
 王はあくまでも〈神の御子〉。
 輝く白金の髪と、澄んだ青灰色の瞳を有する、神の代理人でなくてはならない――。
「食事の前に、その話をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、勿論。……ああ、いえ、私のような若輩者が殿下のお役に立てるとは、毛頭思ってもおりませんが、お話をお聞かせくださること、恐悦至極に存じます」
 車椅子の上からであるが、ハオリュウは深々と|頭《こうべ》を下げ、見事な社交辞令で返した。
 はきはきと答えながらも、窺うような声の震えをほんのり織り交ぜることによって、自分が相手の優位を認めていることを示す。今はまだ、正面から戦う必要はない。
 そんなハオリュウの内心を理解しているのか、いないのか。カイウォルは、にこやかなまま続けた。
「まずは、見ていただきたいものがあります。そのほうが話が早いと思いますから。――案内の者を呼びましょう」
 そう言って、彼らのいる応接室の扉を振り返り、カイウォルは両手を打ち鳴らした。
「!?」
 カイウォルは、『案内』と言った。ここから移動するのだ。
 つまり、その場所から動かすことのできない『何か』が、この館のどこかにあるということだ。ならば、それこそが、ハオリュウがこの館に呼ばれた理由……。
 ハオリュウの顔が緊張に彩られたのとほぼ同時に、緩やかに扉が開き、|頭《こうべ》を垂れた長身が現れる。
 背後に広がる黒い廊下に、白い白衣が映える。
 ハオリュウは、もしや……、と思った。
 ごくりと唾を呑む。心臓が激しく打ち鳴らされる。そして、その人物が顔を上げた瞬間、凍りついた。
 鷹刀一族次期総帥、鷹刀エルファンと瓜二つ――けれど、彼ではない。それが分かるくらいには違う。
「紹介しましょう。彼は、優秀な医師であり、|王族《フェイラ》直属の研究組織〈七つの大罪〉の研究員。組織内での呼び名を〈|蝿《ムスカ》〉と申す者です」
 刹那、ハオリュウの全身が総毛立った。
 父の最期の姿が、脳裏に蘇る。
 記憶を別人に書き換えられた父が、死の間際、奇跡的に戻ってきた。
 彼は、誘拐されたハオリュウの無事に涙を流し、そして笑って……。
 ハオリュウの瞳が漆黒に染まる。この場がどこであるかを忘れる。
 ――仇だ。
 目の前にいるのは、憎き父の仇だ……。
 そのとき、ハオリュウの首筋に、ぴくっと衝撃が走った。
「!?」
 初めは、何が起きたか分からなかった。だが首筋に、ぴくぴくと繰り返される衝撃に、ハオリュウは、はっとする。
 ――ルイフォン!
 ユイランの仕立てた服には、細工がしてあると言っていた。そう思って感覚を研ぎ澄ませれば、襟の裏がわずかに振動しているのが分かる。
 彼が見ている。彼が見守ってくれている。
 今は、〈|蝿《ムスカ》〉に動揺している場合じゃないだろ。――そんな声が聞こえてくる。
 そうだ。彼の言う通りだ。
 乱れた感情を整え、ハオリュウは背後のシュアンの様子を探る。あいにく、気配を読むような特技は持ち合わせていないのだが、それでも同じ思いを|抱《いだ》いているシュアンが平静を失っているのを感じた。
 ハオリュウは姿勢を正すふりをして、車椅子の肘掛けに置いていた腕を後ろに打ちつけた。
 喝を入れる。ハオリュウ自身への戒めと共に。
 感触からしてシュアンの腰骨に肘が当たった。案の定、驚きを含んだ短い息遣いが、後ろから聞こえてくる。――もう、大丈夫だ。
「……〈七つの大罪〉ですか?」
 ハオリュウは眉根を寄せて、カイウォルに尋ねた。
 その名が穏やかならざるものであることは、ある程度の情報を得られる者なら皆、知っている。ハオリュウの言動は、彼の立場としてごく自然なものだ。
 だが……、とハオリュウは戸惑う。
 カイウォルは、〈七つの大罪〉が|王族《フェイラ》の直属だと言い切った。それは、極秘事項であるはずだ。何故こうもあっさり、ハオリュウに明かすのか……。
「世間では、『闇の研究組織』などと呼ばれているようですが、あれは真っ赤な嘘です。確かに、公にしていない研究もありますので、噂に尾ひれがつくのは仕方ないでしょう。しかし、王家にとって必要なものなのです」
 恥じ入ることなど何もないと主張するかのように、カイウォルは声を張らせる。
「すべては、これからお連れする場所で、納得いただけるでしょう」
 自信ありげに、そう告げた。
 ハオリュウが案内されたのは、地下へと続く階段だった。
 研究室があるに違いないと、ルイフォンが目星をつけていた場所である。
「殿下。こちらにはエレベーターはございませんが、いかがいたしましょう」
 ちらりと、〈|蝿《ムスカ》〉がハオリュウの車椅子に目線を送る。面倒なことだ、との色合いが見て取れた。
 この怪我の遠因が自分にあることを、〈|蝿《ムスカ》〉は知っているのだろうか。ハオリュウはそう思い、〈|蝿《ムスカ》〉のすました顔に、むっと鼻に皺を寄せる。
 互いに初対面であるが、罠にはめた|貴族《シャトーア》が『藤咲』という名であったことを〈|蝿《ムスカ》〉は知っているはずだ。ならば、分かっているであろう。――ハオリュウに恨まれていることも。
 しかしハオリュウは、すぐに表情を戻した。
 この足は、ハオリュウの敗北の証だ。愚かさを、浅はかさを恥じるべきは、こちらのほうだ。
 だから。
 今度は、貴様の息の根を止める――。
 心の中で宣告し、ハオリュウはにこやかな笑みを浮かべた。
「心配には及びません。こんなときのための彼ですから」
 そう言いながら背後を振り返ると、敬愛する主人に仕える従者が如く、シュアンが腰から綺麗に一礼し、ハオリュウを抱き上げた。
 まだ子供とはいえ、背の伸びたハオリュウの体が軽々と浮かんだ。中肉中背で、どちらかというと貧相に見える風体だが、現役の警察隊員であるシュアンは常人よりも遥かに鍛えているのだ。
 ハオリュウの視界が広がる。憎き仇の顔が近くなる。
 激しくたぎる血流――その源となる鼓動の高鳴りは、おそらくシュアンに丸聞こえだろう。
 だが、そのシュアンの胸からだって、渦巻く怒りの脈動が轟いている。
 ふたつの響きは重なり、共鳴する。
 ふたりの瞳は、自然と〈|蝿《ムスカ》〉に向けられた。
 高温すぎる星の光が凍れる青白さを持つように、熱く冷たい、ふたつの視線が〈|蝿《ムスカ》〉を射抜く。
「!」
 ほんの一瞬であるが、見えない弾丸で撃ち抜かれた痕跡が、〈|蝿《ムスカ》〉の|表情《かお》に現れた。
 ――ふたりが放ったのは、明確な殺意。
 鷹刀一族の出身である〈|蝿《ムスカ》〉が、気づかないはずがない。
 そして、荒事に慣れているはずの〈|蝿《ムスカ》〉に、刹那とはいえ、動揺を与えた。
 今は、これでいい。
 ハオリュウは意識を切り替え、シュアンと無言の呼吸を交わして先に進む。
 カイウォルの手前、これ以上、〈|蝿《ムスカ》〉と関わるべきではない。足が悪いことを侮辱されて憤慨しただけだと、説明できる範囲内で手を引く。
 とはいえ――。
 ハオリュウは優雅に後ろを振り返り、まるきり悪意の感じられない声を響かせた。
「そこの研究員の方。私の車椅子を階下まで運んでください」
 ハオリュウは|貴族《シャトーア》だ。このくらい当然である。
 そんな不協和音を奏でつつ、一行は地下通路を行き、最奥の部屋の前にたどり着いた。
「こちらでございます」
〈|蝿《ムスカ》〉がそう言い、|頭《こうべ》を垂れる。
 カイウォルは鷹揚に頷き、楽しげにハオリュウを振り返った。
「私も、実物を見るのは初めてなのです」
 そして、早く中へと〈|蝿《ムスカ》〉を促すが、〈|蝿《ムスカ》〉はシュアンを見やり遠慮がちに口を開く。
「殿下。ここから先は、お付きの者は……」
「構いません。彼は、ハオリュウ君の最も信頼する腹心の部下です。ここで締め出しても、あとで話がいくだけでしょう。無駄なことです」
 カイウォルは流し目で、くすりと笑う。お見通しだと言わんばかりに。
 ハオリュウは特に否定しなかった。するだけの意味がなかった。
「殿下がそうおっしゃるのなら……」
〈|蝿《ムスカ》〉は気乗りしない様子で扉を開く。
 室内に足を踏み入れると、かすかな薬品の匂いが広がった。
 黒い台の上に、さまざまな薬瓶、試験管やシャーレ、顕微鏡……。その他、ハオリュウにはよく分からない機械類が整然と並んでいる。
 地下ではあるが、照明は明るい。床はぴかぴかに磨き上げられ、清潔感にあふれている。もっと禍々しいものを想像していたハオリュウは、軽い困惑に陥った。
 しかし、〈|蝿《ムスカ》〉が奥から運んできた硝子ケースを見た瞬間、瞠目した。
「――!」
 ハオリュウの隣で、カイウォルが満面の笑みを浮かべる。感嘆とも、愉悦とも、あるいは興奮ともいえる声を漏らす。
「ああ……、ちゃんとできていたのですね」
 硝子ケースの中は培養液で満たされ、ゆらりゆらりと揺り籠に揺られるように赤子が漂っていた。赤子と呼ぶには少々、未熟な姿であるから、胎児といったほうが正しいのかもしれない。
 ふわりとたなびく髪は、まだ産毛ではあるものの、きらきらと光を弾き……。
 ――白金に輝く。
 カイウォルが満足そうに頷き、低く嗤う。
 ちょうど、そのとき。
 赤子が瞬きをした。
 垣間見えた瞳の色は、澄んだ青灰色…………!
 ハオリュウの体が、雷に打たれたかのように震えた。車椅子に座っていなければ、足をよろめかせて倒れ込んでいたかもしれない。
 カイウォルの典雅な指先が、硝子ケースを指し示し、ハオリュウに紹介する。
「彼の名前は、『ライシェン』」
「『ライシェン』!?」
 食い入るように、携帯端末を覗き込んでいたルイフォンは叫んだ。
 隣にいるリュイセンも、ルイフォンと押し合うようにして、画面を見つめる。
 映し出されているのは、ハオリュウの服に取り付けたカメラからの映像だ。監視カメラのない、地下の研究室からの情報である。
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 リュイセンの問いに、ルイフォンは黙って頷いた。驚愕に、声がうまく出なかったのだ。
 だが、衝撃はそれだけではなかった。
 摂政カイウォルは、次のように続けた。
『この〈|蝿《ムスカ》〉が作った――次代の王です』