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1.境界の日の幕開け-2

ー/ー



 クーティエをハオリュウのいる部屋に放り込み、扉から充分に離れた廊下の端で、シュアンは立ち止まった。
「てっきり、緋扇さんは、クーティエのことを怒っているのだと思っていました」
 シュアンに合わせるように歩みを止めたミンウェイが、綺麗に紅の引かれた唇を弓形に上げた。
 楽しげな目元は、童心に返ったかのように輝いている。どうやら、ハオリュウとクーティエをふたりきりにしてきたことが、いたく彼女のお気に召したらしい。
「逆だ。むしろ俺は、あの嬢ちゃんに助けられたようなもんだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
 極限の事態に陥ったとき、シュアンの手は、迷うことなくハオリュウに向かって引き金を引ける。その自信はある。
 ハオリュウ本人に頼まれていても、いなくても同じだ。
 けれど、それを彼に伝えていいかどうかは、また別の話だ。あの危うい愚か者は、自分を大切にしなさすぎる。自己犠牲が大好きな馬鹿を、肯定するわけにはいかないのだ。
「嬢ちゃんが乱入してくれたお陰で、俺は台詞を考える余裕を貰えたのさ」
 シュアンは、感謝を込めて微笑んだ。もっとも、クーティエ公認の悪人面では、顔を歪めた程度にしか見えなかったのは残念な事実である。
 ともかく、ハオリュウのことはクーティエに任せておけばよい。そもそも、どんなにあがいたところで、もはや、なるようにしかならない。腹をくくって乗り込むしかないのだ。
 そうなると、気になるのは〈(ムスカ)〉捕獲作戦のほうであった。
「……あんたが来たってことは、鷹刀の連中も到着したんだな」
 思ったよりも時間が過ぎていたようだ。衣装係のユイランが焦れるのも当然だろう。作戦開始は目前だ。
 シュアンは、じっとミンウェイを見つめた。
「ミンウェイ。鷹刀も、ハオリュウも、俺も……、今日という日を待ち望んでいた。けど……、あんたにとっちゃ、『永遠に来てほしくなかった日』だな」
「……っ」
 今まで浮かれていた美貌が、見る間に笑みを失う。それはまるで、快晴の夏空が一瞬にして暗雲に覆われていく(さま)に似ていた。
 彼女が望むのは『穏やかな日常』。

『私……、〈(ムスカ)〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈(ムスカ)〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!』

 ――彼女は、そう言っていた。
「仕方ないわ……。どうしようもないもの……」
 ミンウェイはうつむいて、途切れがちの声を漏らす。彼女が小さく首を振ると、波打つ黒髪が風を起こした。彼女らしい、穏やかで優しい草の香が流れた。
「そうだな……」
 凪いだ目をするミンウェイに、シュアンはこの話題に触れたことを後悔する。
 皆が勇んで〈(ムスカ)〉の捕獲に期待を寄せる中、ただひとりミンウェイだけが同じ気持ちでないことを、彼は知っている。
 だから、ひとことでいいから、何かを言ってやりたかったのだ。
 彼女の気持ちに寄り添ってやることはできないが、気持ちを理解していることだけは、伝えてやりたい。今日の到来を喜べないことで、彼女が罪悪感に見舞われる必要はないのだと、教えてやりたい。
 しかし、いざ、この場に直面してみると、彼女の心を軽くするような聞こえの良い言葉など、偽善に思えてきた。そんな安っぽい優しさの押し売りなど、彼女にふさわしくない。
 シュアンは視線を床に落とし、押し黙った。
 ふたりの間に、沈黙が訪れる。
 気まずい雰囲気になってしまった。彼としては、あと数分をこうして過ごすのも構わないが、彼女はそうではないだろう。仲良くハオリュウを待っている理由もないし、彼女は鷹刀の奴らのもとに帰そう。
 彼がそう考えたときだった。
 すぐ近くに、ミンウェイの逡巡の息遣いを感じた。疑問に思う間もなく、続けて発せられた「ねぇ、緋扇さん」という呼び掛けに顔を上げれば、そこには見たこともない表情をした彼女がいた。
「私、亡くなったお父様を『男として』愛していたんですって」
 唐突な明るい声と、突拍子もなさすぎる言葉――。
「っ!?」
 シュアンは、ミンウェイを凝視した。
 明らかに作った顔と分かるのに、絶世の美女のいたずらめいた笑みは、幼い少女の無邪気さを兼ね備え、息を呑むほどに可愛らしく……。場違いを承知していても、彼は惹き込まれ、魅入られる。
「リュイセンにね、そう言われちゃった……」
 溜め息混じりに肩を落とすと、いつものミンウェイに戻る。
「そのときは、なんて酷いことを言うのって、心の底から怒ったけれど……、でも、落ち着いて考えると、完全には否定できないんです……」
 シュアンは、驚きの表情をとっさに隠した。
 頭の中は真っ白だったが、表面上は平静を保ち、無理やりに言葉を紡ぎ出す。
「……そうか。……あんた、ずっとあの父親と一緒にいたんだもんな……」
「ええ。ずうっと……一緒だったわ」
 少し、舌足らずにも聞こえる声で、ミンウェイは嬉しそうに頷く。
 今度は、上辺(うわべ)だけの作り顔ではなかった。
 彼女が笑っていることに、シュアンはほっとする。――複雑な気持ちを(いだ)きながらも。
 たくさんの人に囲まれ、愛されているのに、彼女は孤独だ。それは、あの父親のところに心を置いてきてしまったからなのだと、漠然と……理解してしまった。
「今、生きている〈(ムスカ)〉は、あんたが愛した『お父様』じゃない。だから……」
 言葉が続かなかった。そんなことを言われて、ミンウェイが喜ぶとも思えなかった。
 けれど、言いたかったことは伝わったらしい。
「……そうですね」
 ミンウェイが微笑む。
 華やかな大輪の花のようでいて、実は穏やかな月光の化身のような彼女。硝子細工のような儚さに、思わずシュアンの手が伸びる。
 ――だが。
 彼女に気づかれる前に、彼は手を止め、固く握りしめながら下ろした。
 彼の手は、引き金を引く手だ。
 そして、そのまま。クーティエに約束した十分が経つまで、ゆっくりと時は流れていった。


「ハオリュウ! たっ、立ち聞きして、ごめんなさい!」
 クーティエが勢いよく頭を下げると、両脇で高く結われた髪が激しく跳ねた。彼女を追うように動いた髪飾りのリボンが、一瞬きらりと光沢を放ち……しかし、すぐにひらひらとした端を力なく垂らす。――彼女の心を示すかのように。
「とりあえず、こちらに来てください」
 ソファーに座ったまま、ハオリュウは手招きした。
 足の悪い彼としては自然な行為だったのだが、顔を上げたクーティエが「うん」と答えるのを見て、戸惑った。声だけは、いつも通りに、はきはきと元気であったけれど、彼女の目には脅えがあったのだ。
 持っていたトレイをテーブルに置いたとき、グラスの中の茶の表面が揺れていたのは、彼女の所作が乱暴だったからではなく、彼女の手の震えを写し取ったためだろう。
「クーティエ、僕は気にしていませんよ」
 目の前で立ち尽くしてしまった彼女に、ハオリュウは困ったように笑う。
 けれども、彼女は視線を下げ、ふるふると首を振った。リボンが揺れ、髪の毛にじゃれつく。やがてその動きを止めたとき、彼女は顔を上げ、意を決したように口を開いた。
「ハオリュウ。さっきの話、本気……なの?」
 強気の口調でありながら、クーティエの声は揺れていた。薄桃色であるはずの唇が、青ざめている。
「自分を殺してほしい、だなんて……。おかしいわよ! どうして、そんなことを言うの!?」
 問い詰めるように、責め立てるように。可憐な顔を歪め、全身全霊で、彼女は叫ぶ。
「クーティエ……」
 彼女の言いたいことは分かる。
 確かに、ハオリュウがシュアンに依頼したことは、常軌を逸している。
 けれど、恐れている事態が起きてしまったとき、シュアンが責任を感じないようにするためには、はっきり告げておく必要があった。
「ただの心構えですよ。――僕とシュアンは、大切な人を〈(ムスカ)〉に殺されたようなものですからね。その〈(ムスカ)〉のいる場所に行くとなれば、用心深くもなります。……何が起こるか分からない。そのくらいの覚悟はしている、というだけです」
「……でもっ! でも、でも……っ!」
「それとも、〈(ムスカ)〉のしたことを――〈七つの大罪〉の技術を……、目の当たりにしていないあなたは、あの卑劣さを信じられませんか?」
「……っ」
 クーティエが息を呑んだ。
 卑怯だな、とハオリュウは思った。こんな言い方をされれば、彼女は黙って引き下がるしかない。案の定、瞬きひとつできずに、唇を結んだままだ。
 ハオリュウは罪悪感を感じつつも、ほっとする。
 心配してくれるのはありがたいが、おかしいと言われても困る。シュアンへの頼みを撤回する気はないのだから。
 そうして話を切り上げようとしたとき、ソファーに座っている彼の目の高さで、立ち尽くしたままの彼女の掌が握りしめられた。爪が食い込み、血管が浮き出る。
「……信じて……いるわよ。相手が卑劣なのも、分かっているわ! だって、ハオリュウの足は〈(ムスカ)〉のせいで……!」
 クーティエは、整った眉をきゅっと吊り上げ、その下の目を大きく見開いた。睨みつけているのではない。浮かんできた涙をこぼさないようにと、必死にこらえているのだ。
「どうして! どうして、ハオリュウばっかり、こんな目に遭うのよ! 悔しい……!」
 呟くように漏らされた言葉は、ハオリュウ自身が吐き出したこともないほどに重かった。他人であるクーティエが、彼以上に、彼のために憤っている。そのことに衝撃を受ける。
 彼にしてみれば、足の負傷は過ぎたことだ。自分の判断ミスが起こした、自業自得。だから、運ばれたベッドの上では、怪我を嘆くよりも、この先ですべきことに思考を巡らせた。
「クーティエ……」
 彼女のまっすぐな気持ちが、少し怖かった。
 早く彼女を納得させて、この場を切り上げたい。ハオリュウは、そう思う。
「シュアンにお願いしたことは、本当に『もしも』のときの話です。今日の会食では、何も起こらない確率のほうが、ずっと高いんですよ。――僕はまだ、姉様の花嫁姿を見ていませんし、藤咲の絹産業を軌道に乗せている途中です。簡単には死ねませんよ」
 ソファーからクーティエを見上げ、ハオリュウは目を細めた。優しい面差しは包み込むように柔らかく、穏やかな人柄だった彼の父そっくりだった。
 しかし、その瞬間、クーティエの目が尖った。
 明らかな怒りを示し、ハオリュウへと目線を下げる。そのはずみに……ぽろりと、涙がこぼれた。
「嘘つき!」
 その叫びは、殺意に近い気迫をまとっていた。
「ハオリュウは、そんなことを思ってないでしょ! だって、今の顔、ハオリュウお得意の外面(そとづら)だもの!」
「え……」
 はっきり、きっぱりと『外面(そとづら)』と言われた。あまりの予想外の言葉に、ハオリュウはしばし呆然とする。
「『もしも』が来たら、あっさり死んじゃうの! でも、ハオリュウは、それでいいと思っているから、緋扇シュアンに頼めるんでしょ!? ――メイシアのことも、お(うち)のことも、未練にならないの!」
 拳を固く握りしめ、クーティエは言葉を叩きつける。
「だって、メイシアのことはルイフォンに託したし、曽祖父上にいろいろお願いしたって言っていた。私の父上にも、仕事のことを頼んだんでしょ!? そのくらい分かるわ! ――そして、仇の〈(ムスカ)〉は、ハオリュウの作戦のおかげで、もうすぐ捕まる!」
 クーティエの顔は上気し、肩で息をしていた。それでも、彼女は止まらない。
「皆にお願いしてあるから安心しちゃっている、ってのが、今のハオリュウの状態よ! だから、殺してくれなんて、ふざけたことが言えるの!」
 クーティエは、ハオリュウをまっすぐに見下ろした。
 涙に潤んだ瞳であるのに、蔑むように冷たい眼差しで……。
「そういうの、私、大っ嫌い!」
 クーティエは短く、そう言い放った。そして、嗚咽をこらえるかのように、ぐっと口を結ぶ。
 ――彼女の言うことは、正しかった。
 後顧の憂いをなくして、この会食に臨もうとしている。それは彼の立場からすれば必要なことで、糾弾されるようなことではないはずだ。
「嫌いと言われましても、私は貴族(シャトーア)の当主なんです。私にできる最善を尽くす責任があります。それをとやかく言われたくはありません」
 無意識に、『僕』から『私』に切り替わった。
 返した声は温度を欠いていて、ごく普通に話せば人当たりのよいはずの声質が、闇を宿す。
 クーティエの顔が、一瞬、ひるんだ。しかし彼女は、ぎゅっと拳に力を入れて叫ぶ。
「――けど! ハオリュウは当主である前に、ハオリュウっていう、ひとりの人なの! それを忘れちゃ駄目なの! もっと自分を大切にしてよ!」
「ですが、私は……」
「ハオリュウ!」
 反論しかけた彼を、彼女の声が鋭く遮った。
「――これを言うのは、ずるいと思う。でも、ハオリュウが、あんまりにもわからず屋だから……」
 彼女は、大きく息を吸い込む。瞳いっぱいに、涙をたたえて。
「ハオリュウのお父さんが、命を懸けて助けようとしたのは、『藤咲家の跡継ぎの嫡男』? それとも、『藤咲ハオリュウ』?」
 その問いかけは、まるで彼女の持つ刀。
 穢れなき銀の煌めきをまとう、直刀が如く。彼女の声は深く、まっすぐにハオリュウを貫いた。
「お父さんが大切にしていたのは、どっち?」
 言葉の上では、どこにも刃など隠されていない。けれど、ハオリュウは、はっきりと心臓に痛みを感じた。
 あるはずのない傷を押さえ、胸に手をやる。
 喉が、熱くなった。久しく、忘れていた感覚だった。
 強い痛みの感情が、体の外へとあふれ出そうになる。
 ――そのとき。
 思いつめたようなクーティエの声が聞こえた。
「……ごめん! ごめんなさい! ……言っちゃいけないことなのに!」
 クーティエが、わっと泣き崩れた。ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちていく。
 光る雫に、ハオリュウの目は引き寄せられた。触れてもいないのに、彼女の涙の雨を浴びたかのように喉元の熱さは解かされ、それは穏やかな温かさとなって、体中に広がっていく。
 ああ、そうか――と、彼は思った。
 彼が外に出すべきものは、痛みの感情ではない。この傷をつけるために、まっすぐに、彼に斬り込んできてくれた彼女への――感謝だ。
 ハオリュウは、ソファーの(ふち)に手を掛け、はずみをつけるようにして立ち上がった。杖を使うべきだったかと途中で後悔しかけるが、必死に重心を移動させ、転倒を防ぐ。
「ハオリュウ!? 足! 足、痛くないの!?」
 突然のことに、クーティエの涙が吹き飛んだ。彼女は慌てて、彼の杖になるべく彼の腕を取り、自分の肩に回そうとする。
 しかし彼は、やんわりと断った。支えてもらっては格好がつかないのだ。
「クーティエ、ありがとう」
 まっすぐに立てないハオリュウは、綺麗な礼の姿勢を取ることはできない。それでも、心を込めて彼女に頭を下げる。
「ハオリュウ?」
「……けど、ごめん。シュアンへの頼みは撤回しない。『もしも』のときに、僕が大切にしている人たちを傷つけるのは嫌だから。それは、『当主』としてではなくて、『藤咲ハオリュウ』の気持ちだよ。――認めてくれないかな?」
 本当は膝をかがめて、彼女の目線に合わせて尋ねたい。けれど、不自由な足では叶わない。――この足が利かないことを、初めて悔やんだかもしれない。
「う、うん! それでいい!」
 腫れた目で、クーティエが可憐に笑う。
「カイウォル殿下と――、『藤咲ハオリュウ』の戦いをしてくるよ」
 ハオリュウは、好戦的な腹黒い笑みを浮かべる。
 その表情に、クーティエは嬉しそうに頷いた。
「舞を贈るわ。武運を祈る舞よ」
 彼女はハオリュウを座らせ、くるりと背を向けた。その拍子に髪が流れ、リボンが光沢を放つ。
「さっきから気になっていたんだけど、その髪飾りは……」
「気づいてくれたの?」
 クーティエが再び振り返り、ぱっと顔を輝かせた。泣いたり、怒ったり、笑ったり。目まぐるしく変わる表情はどれも可愛らしいが、今の顔は格別だった。
「藤咲の絹――だね?」
「うん。ハオリュウが初めてうちに来たとき言ったでしょ? 『小物でいいから、庶民向けの商品を作ってほしい』って。だから私、祖母上に協力してもらって試作品を作ったの」
 土台となる髪留めに、シルクサテンのリボンを巻きつけ、長く垂らしたシンプルな髪飾りだ。けれど、着用者に合わせて揺れる(さま)は、独特の光沢と滑らかな布の動きが相まって、実に優美だった。
「友達に見せたら、『ちょっと高くても、特別な日のとっておきに、是非、欲しい』って」
「そうか。……嬉しいな」
 ハオリュウは笑う。――心から。
 誰かに託すのではなく、自分の目でこの先を見守りたい……。
 絹と戯れる舞姫の姿を目に焼き付けながら、彼はそう願った。


「お召し替えが終わりましたよ」
 ご機嫌なユイランの声が響き、皆が待っていた広間の扉が開かれた。すっかり装いを整えたハオリュウが、車椅子に乗って現れる。
 普段はスーツ姿の多いハオリュウが、襟の高い伝統的な形式の上着に身を包んでいた。髪型は大きく変わっていないのに、どことなくさっぱりとしている。ユイランと仲の良い美容師が応援に来てくれたらしい。全体的に、大人びた雰囲気に仕上がっていた。
「ハオリュウ、格好いい……」
 クーティエが、皆を代表して感嘆の声を漏らす。
「個人的な会食とお聞きしたので、堅苦しすぎる正装はかえって失礼かと思ったのよ。だから、襟の高さと胸元のデザインに遊び心を加えて、やや略式に仕上げたの」
 ユイランが自慢気に解説する。ただ残念なことに、それを理解できたのは、この場にいる者のうちのごく一部のみであった。
「……で。…………あいつ……誰だ?」
 ルイフォンが、隣にいたリュイセンをつつき、目配せで言葉をかわした。
「あいつ……、……しかないだろ」
「……だよな」
 ふたりの視線の先は、ハオリュウの後ろ。車椅子を押してきた人物だ。
「ふふっ、緋扇さんよ。素敵でしょう!」
 ユイランが夢見る乙女のように目を輝かせ、うっとりと手を合わせた。
 いい歳した母のそんな姿に、リュイセンは思い切り顔をしかめたが、彼女の態度には納得せざるを得ない。――そのくらい、別人に仕上がっていた。
 ぼさぼさだった髪は、整髪料で綺麗に撫でつけられ、オールバックに整えられていた。それだけで生真面目な人物に早変わりするのだが、運転手を兼ねていることを意識した服装が拍車をかける。
 ハオリュウとは違い、こちらは正装であるらしく、高い襟の一番上までかっちりと留められたボタンが礼儀正しさを醸し出していた。三白眼の凶相は、運転手が好んで身につけるような薄い色の眼鏡で印象を和らげてある。余計な詮索を避けるためにか、拳銃を握る手にできるグリップだこは、白い手袋によって隠されていた。
 不審がられず、軽んじられず。言うなれば『目つきの悪いチンピラ』が、『眼光の鋭い切れ者』に見事に化けていた。
「失礼だけど、いつもの緋扇さんだと、貴族(シャトーア)の介助者としては、ちょっと……だったのよね」
 ユイランは、いつの間にか現れていた友人だという美容師と頷き合う。長い付き合いらしいふたりは、見事なシュアンの出来栄えに、互いを称え合っていた。
 彼女たちが面白がって楽しんでいたことは、シュアンの仏頂面が物語っていた。


 そして――。
 ルイフォン、リュイセン、ハオリュウ、シュアンの四人が、車に乗り込む。
 いよいよ、作戦開始である。


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「てっきり、緋扇さんは、クーティエのことを怒っているのだと思っていました」
 シュアンに合わせるように歩みを止めたミンウェイが、綺麗に紅の引かれた唇を弓形に上げた。
 楽しげな目元は、童心に返ったかのように輝いている。どうやら、ハオリュウとクーティエをふたりきりにしてきたことが、いたく彼女のお気に召したらしい。
「逆だ。むしろ俺は、あの嬢ちゃんに助けられたようなもんだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
 極限の事態に陥ったとき、シュアンの手は、迷うことなくハオリュウに向かって引き金を引ける。その自信はある。
 ハオリュウ本人に頼まれていても、いなくても同じだ。
 けれど、それを彼に伝えていいかどうかは、また別の話だ。あの危うい愚か者は、自分を大切にしなさすぎる。自己犠牲が大好きな馬鹿を、肯定するわけにはいかないのだ。
「嬢ちゃんが乱入してくれたお陰で、俺は台詞を考える余裕を貰えたのさ」
 シュアンは、感謝を込めて微笑んだ。もっとも、クーティエ公認の悪人面では、顔を歪めた程度にしか見えなかったのは残念な事実である。
 ともかく、ハオリュウのことはクーティエに任せておけばよい。そもそも、どんなにあがいたところで、もはや、なるようにしかならない。腹をくくって乗り込むしかないのだ。
 そうなると、気になるのは〈|蝿《ムスカ》〉捕獲作戦のほうであった。
「……あんたが来たってことは、鷹刀の連中も到着したんだな」
 思ったよりも時間が過ぎていたようだ。衣装係のユイランが焦れるのも当然だろう。作戦開始は目前だ。
 シュアンは、じっとミンウェイを見つめた。
「ミンウェイ。鷹刀も、ハオリュウも、俺も……、今日という日を待ち望んでいた。けど……、あんたにとっちゃ、『永遠に来てほしくなかった日』だな」
「……っ」
 今まで浮かれていた美貌が、見る間に笑みを失う。それはまるで、快晴の夏空が一瞬にして暗雲に覆われていく|様《さま》に似ていた。
 彼女が望むのは『穏やかな日常』。
『私……、〈|蝿《ムスカ》〉は、何処かに行ってしまえばいいと思っています! 二度と鷹刀に関わらないでほしい。そうすれば、鷹刀は〈|蝿《ムスカ》〉を殺さないですむ。――そんなふうに思ってしまっているんです……!』
 ――彼女は、そう言っていた。
「仕方ないわ……。どうしようもないもの……」
 ミンウェイはうつむいて、途切れがちの声を漏らす。彼女が小さく首を振ると、波打つ黒髪が風を起こした。彼女らしい、穏やかで優しい草の香が流れた。
「そうだな……」
 凪いだ目をするミンウェイに、シュアンはこの話題に触れたことを後悔する。
 皆が勇んで〈|蝿《ムスカ》〉の捕獲に期待を寄せる中、ただひとりミンウェイだけが同じ気持ちでないことを、彼は知っている。
 だから、ひとことでいいから、何かを言ってやりたかったのだ。
 彼女の気持ちに寄り添ってやることはできないが、気持ちを理解していることだけは、伝えてやりたい。今日の到来を喜べないことで、彼女が罪悪感に見舞われる必要はないのだと、教えてやりたい。
 しかし、いざ、この場に直面してみると、彼女の心を軽くするような聞こえの良い言葉など、偽善に思えてきた。そんな安っぽい優しさの押し売りなど、彼女にふさわしくない。
 シュアンは視線を床に落とし、押し黙った。
 ふたりの間に、沈黙が訪れる。
 気まずい雰囲気になってしまった。彼としては、あと数分をこうして過ごすのも構わないが、彼女はそうではないだろう。仲良くハオリュウを待っている理由もないし、彼女は鷹刀の奴らのもとに帰そう。
 彼がそう考えたときだった。
 すぐ近くに、ミンウェイの逡巡の息遣いを感じた。疑問に思う間もなく、続けて発せられた「ねぇ、緋扇さん」という呼び掛けに顔を上げれば、そこには見たこともない表情をした彼女がいた。
「私、亡くなったお父様を『男として』愛していたんですって」
 唐突な明るい声と、突拍子もなさすぎる言葉――。
「っ!?」
 シュアンは、ミンウェイを凝視した。
 明らかに作った顔と分かるのに、絶世の美女のいたずらめいた笑みは、幼い少女の無邪気さを兼ね備え、息を呑むほどに可愛らしく……。場違いを承知していても、彼は惹き込まれ、魅入られる。
「リュイセンにね、そう言われちゃった……」
 溜め息混じりに肩を落とすと、いつものミンウェイに戻る。
「そのときは、なんて酷いことを言うのって、心の底から怒ったけれど……、でも、落ち着いて考えると、完全には否定できないんです……」
 シュアンは、驚きの表情をとっさに隠した。
 頭の中は真っ白だったが、表面上は平静を保ち、無理やりに言葉を紡ぎ出す。
「……そうか。……あんた、ずっとあの父親と一緒にいたんだもんな……」
「ええ。ずうっと……一緒だったわ」
 少し、舌足らずにも聞こえる声で、ミンウェイは嬉しそうに頷く。
 今度は、|上辺《うわべ》だけの作り顔ではなかった。
 彼女が笑っていることに、シュアンはほっとする。――複雑な気持ちを|抱《いだ》きながらも。
 たくさんの人に囲まれ、愛されているのに、彼女は孤独だ。それは、あの父親のところに心を置いてきてしまったからなのだと、漠然と……理解してしまった。
「今、生きている〈|蝿《ムスカ》〉は、あんたが愛した『お父様』じゃない。だから……」
 言葉が続かなかった。そんなことを言われて、ミンウェイが喜ぶとも思えなかった。
 けれど、言いたかったことは伝わったらしい。
「……そうですね」
 ミンウェイが微笑む。
 華やかな大輪の花のようでいて、実は穏やかな月光の化身のような彼女。硝子細工のような儚さに、思わずシュアンの手が伸びる。
 ――だが。
 彼女に気づかれる前に、彼は手を止め、固く握りしめながら下ろした。
 彼の手は、引き金を引く手だ。
 そして、そのまま。クーティエに約束した十分が経つまで、ゆっくりと時は流れていった。
「ハオリュウ! たっ、立ち聞きして、ごめんなさい!」
 クーティエが勢いよく頭を下げると、両脇で高く結われた髪が激しく跳ねた。彼女を追うように動いた髪飾りのリボンが、一瞬きらりと光沢を放ち……しかし、すぐにひらひらとした端を力なく垂らす。――彼女の心を示すかのように。
「とりあえず、こちらに来てください」
 ソファーに座ったまま、ハオリュウは手招きした。
 足の悪い彼としては自然な行為だったのだが、顔を上げたクーティエが「うん」と答えるのを見て、戸惑った。声だけは、いつも通りに、はきはきと元気であったけれど、彼女の目には脅えがあったのだ。
 持っていたトレイをテーブルに置いたとき、グラスの中の茶の表面が揺れていたのは、彼女の所作が乱暴だったからではなく、彼女の手の震えを写し取ったためだろう。
「クーティエ、僕は気にしていませんよ」
 目の前で立ち尽くしてしまった彼女に、ハオリュウは困ったように笑う。
 けれども、彼女は視線を下げ、ふるふると首を振った。リボンが揺れ、髪の毛にじゃれつく。やがてその動きを止めたとき、彼女は顔を上げ、意を決したように口を開いた。
「ハオリュウ。さっきの話、本気……なの?」
 強気の口調でありながら、クーティエの声は揺れていた。薄桃色であるはずの唇が、青ざめている。
「自分を殺してほしい、だなんて……。おかしいわよ! どうして、そんなことを言うの!?」
 問い詰めるように、責め立てるように。可憐な顔を歪め、全身全霊で、彼女は叫ぶ。
「クーティエ……」
 彼女の言いたいことは分かる。
 確かに、ハオリュウがシュアンに依頼したことは、常軌を逸している。
 けれど、恐れている事態が起きてしまったとき、シュアンが責任を感じないようにするためには、はっきり告げておく必要があった。
「ただの心構えですよ。――僕とシュアンは、大切な人を〈|蝿《ムスカ》〉に殺されたようなものですからね。その〈|蝿《ムスカ》〉のいる場所に行くとなれば、用心深くもなります。……何が起こるか分からない。そのくらいの覚悟はしている、というだけです」
「……でもっ! でも、でも……っ!」
「それとも、〈|蝿《ムスカ》〉のしたことを――〈七つの大罪〉の技術を……、目の当たりにしていないあなたは、あの卑劣さを信じられませんか?」
「……っ」
 クーティエが息を呑んだ。
 卑怯だな、とハオリュウは思った。こんな言い方をされれば、彼女は黙って引き下がるしかない。案の定、瞬きひとつできずに、唇を結んだままだ。
 ハオリュウは罪悪感を感じつつも、ほっとする。
 心配してくれるのはありがたいが、おかしいと言われても困る。シュアンへの頼みを撤回する気はないのだから。
 そうして話を切り上げようとしたとき、ソファーに座っている彼の目の高さで、立ち尽くしたままの彼女の掌が握りしめられた。爪が食い込み、血管が浮き出る。
「……信じて……いるわよ。相手が卑劣なのも、分かっているわ! だって、ハオリュウの足は〈|蝿《ムスカ》〉のせいで……!」
 クーティエは、整った眉をきゅっと吊り上げ、その下の目を大きく見開いた。睨みつけているのではない。浮かんできた涙をこぼさないようにと、必死にこらえているのだ。
「どうして! どうして、ハオリュウばっかり、こんな目に遭うのよ! 悔しい……!」
 呟くように漏らされた言葉は、ハオリュウ自身が吐き出したこともないほどに重かった。他人であるクーティエが、彼以上に、彼のために憤っている。そのことに衝撃を受ける。
 彼にしてみれば、足の負傷は過ぎたことだ。自分の判断ミスが起こした、自業自得。だから、運ばれたベッドの上では、怪我を嘆くよりも、この先ですべきことに思考を巡らせた。
「クーティエ……」
 彼女のまっすぐな気持ちが、少し怖かった。
 早く彼女を納得させて、この場を切り上げたい。ハオリュウは、そう思う。
「シュアンにお願いしたことは、本当に『もしも』のときの話です。今日の会食では、何も起こらない確率のほうが、ずっと高いんですよ。――僕はまだ、姉様の花嫁姿を見ていませんし、藤咲の絹産業を軌道に乗せている途中です。簡単には死ねませんよ」
 ソファーからクーティエを見上げ、ハオリュウは目を細めた。優しい面差しは包み込むように柔らかく、穏やかな人柄だった彼の父そっくりだった。
 しかし、その瞬間、クーティエの目が尖った。
 明らかな怒りを示し、ハオリュウへと目線を下げる。そのはずみに……ぽろりと、涙がこぼれた。
「嘘つき!」
 その叫びは、殺意に近い気迫をまとっていた。
「ハオリュウは、そんなことを思ってないでしょ! だって、今の顔、ハオリュウお得意の|外面《そとづら》だもの!」
「え……」
 はっきり、きっぱりと『|外面《そとづら》』と言われた。あまりの予想外の言葉に、ハオリュウはしばし呆然とする。
「『もしも』が来たら、あっさり死んじゃうの! でも、ハオリュウは、それでいいと思っているから、緋扇シュアンに頼めるんでしょ!? ――メイシアのことも、お|家《うち》のことも、未練にならないの!」
 拳を固く握りしめ、クーティエは言葉を叩きつける。
「だって、メイシアのことはルイフォンに託したし、曽祖父上にいろいろお願いしたって言っていた。私の父上にも、仕事のことを頼んだんでしょ!? そのくらい分かるわ! ――そして、仇の〈|蝿《ムスカ》〉は、ハオリュウの作戦のおかげで、もうすぐ捕まる!」
 クーティエの顔は上気し、肩で息をしていた。それでも、彼女は止まらない。
「皆にお願いしてあるから安心しちゃっている、ってのが、今のハオリュウの状態よ! だから、殺してくれなんて、ふざけたことが言えるの!」
 クーティエは、ハオリュウをまっすぐに見下ろした。
 涙に潤んだ瞳であるのに、蔑むように冷たい眼差しで……。
「そういうの、私、大っ嫌い!」
 クーティエは短く、そう言い放った。そして、嗚咽をこらえるかのように、ぐっと口を結ぶ。
 ――彼女の言うことは、正しかった。
 後顧の憂いをなくして、この会食に臨もうとしている。それは彼の立場からすれば必要なことで、糾弾されるようなことではないはずだ。
「嫌いと言われましても、私は|貴族《シャトーア》の当主なんです。私にできる最善を尽くす責任があります。それをとやかく言われたくはありません」
 無意識に、『僕』から『私』に切り替わった。
 返した声は温度を欠いていて、ごく普通に話せば人当たりのよいはずの声質が、闇を宿す。
 クーティエの顔が、一瞬、ひるんだ。しかし彼女は、ぎゅっと拳に力を入れて叫ぶ。
「――けど! ハオリュウは当主である前に、ハオリュウっていう、ひとりの人なの! それを忘れちゃ駄目なの! もっと自分を大切にしてよ!」
「ですが、私は……」
「ハオリュウ!」
 反論しかけた彼を、彼女の声が鋭く遮った。
「――これを言うのは、ずるいと思う。でも、ハオリュウが、あんまりにもわからず屋だから……」
 彼女は、大きく息を吸い込む。瞳いっぱいに、涙をたたえて。
「ハオリュウのお父さんが、命を懸けて助けようとしたのは、『藤咲家の跡継ぎの嫡男』? それとも、『藤咲ハオリュウ』?」
 その問いかけは、まるで彼女の持つ刀。
 穢れなき銀の煌めきをまとう、直刀が如く。彼女の声は深く、まっすぐにハオリュウを貫いた。
「お父さんが大切にしていたのは、どっち?」
 言葉の上では、どこにも刃など隠されていない。けれど、ハオリュウは、はっきりと心臓に痛みを感じた。
 あるはずのない傷を押さえ、胸に手をやる。
 喉が、熱くなった。久しく、忘れていた感覚だった。
 強い痛みの感情が、体の外へとあふれ出そうになる。
 ――そのとき。
 思いつめたようなクーティエの声が聞こえた。
「……ごめん! ごめんなさい! ……言っちゃいけないことなのに!」
 クーティエが、わっと泣き崩れた。ぽろぽろと、涙がこぼれ落ちていく。
 光る雫に、ハオリュウの目は引き寄せられた。触れてもいないのに、彼女の涙の雨を浴びたかのように喉元の熱さは解かされ、それは穏やかな温かさとなって、体中に広がっていく。
 ああ、そうか――と、彼は思った。
 彼が外に出すべきものは、痛みの感情ではない。この傷をつけるために、まっすぐに、彼に斬り込んできてくれた彼女への――感謝だ。
 ハオリュウは、ソファーの|縁《ふち》に手を掛け、はずみをつけるようにして立ち上がった。杖を使うべきだったかと途中で後悔しかけるが、必死に重心を移動させ、転倒を防ぐ。
「ハオリュウ!? 足! 足、痛くないの!?」
 突然のことに、クーティエの涙が吹き飛んだ。彼女は慌てて、彼の杖になるべく彼の腕を取り、自分の肩に回そうとする。
 しかし彼は、やんわりと断った。支えてもらっては格好がつかないのだ。
「クーティエ、ありがとう」
 まっすぐに立てないハオリュウは、綺麗な礼の姿勢を取ることはできない。それでも、心を込めて彼女に頭を下げる。
「ハオリュウ?」
「……けど、ごめん。シュアンへの頼みは撤回しない。『もしも』のときに、僕が大切にしている人たちを傷つけるのは嫌だから。それは、『当主』としてではなくて、『藤咲ハオリュウ』の気持ちだよ。――認めてくれないかな?」
 本当は膝をかがめて、彼女の目線に合わせて尋ねたい。けれど、不自由な足では叶わない。――この足が利かないことを、初めて悔やんだかもしれない。
「う、うん! それでいい!」
 腫れた目で、クーティエが可憐に笑う。
「カイウォル殿下と――、『藤咲ハオリュウ』の戦いをしてくるよ」
 ハオリュウは、好戦的な腹黒い笑みを浮かべる。
 その表情に、クーティエは嬉しそうに頷いた。
「舞を贈るわ。武運を祈る舞よ」
 彼女はハオリュウを座らせ、くるりと背を向けた。その拍子に髪が流れ、リボンが光沢を放つ。
「さっきから気になっていたんだけど、その髪飾りは……」
「気づいてくれたの?」
 クーティエが再び振り返り、ぱっと顔を輝かせた。泣いたり、怒ったり、笑ったり。目まぐるしく変わる表情はどれも可愛らしいが、今の顔は格別だった。
「藤咲の絹――だね?」
「うん。ハオリュウが初めてうちに来たとき言ったでしょ? 『小物でいいから、庶民向けの商品を作ってほしい』って。だから私、祖母上に協力してもらって試作品を作ったの」
 土台となる髪留めに、シルクサテンのリボンを巻きつけ、長く垂らしたシンプルな髪飾りだ。けれど、着用者に合わせて揺れる|様《さま》は、独特の光沢と滑らかな布の動きが相まって、実に優美だった。
「友達に見せたら、『ちょっと高くても、特別な日のとっておきに、是非、欲しい』って」
「そうか。……嬉しいな」
 ハオリュウは笑う。――心から。
 誰かに託すのではなく、自分の目でこの先を見守りたい……。
 絹と戯れる舞姫の姿を目に焼き付けながら、彼はそう願った。
「お召し替えが終わりましたよ」
 ご機嫌なユイランの声が響き、皆が待っていた広間の扉が開かれた。すっかり装いを整えたハオリュウが、車椅子に乗って現れる。
 普段はスーツ姿の多いハオリュウが、襟の高い伝統的な形式の上着に身を包んでいた。髪型は大きく変わっていないのに、どことなくさっぱりとしている。ユイランと仲の良い美容師が応援に来てくれたらしい。全体的に、大人びた雰囲気に仕上がっていた。
「ハオリュウ、格好いい……」
 クーティエが、皆を代表して感嘆の声を漏らす。
「個人的な会食とお聞きしたので、堅苦しすぎる正装はかえって失礼かと思ったのよ。だから、襟の高さと胸元のデザインに遊び心を加えて、やや略式に仕上げたの」
 ユイランが自慢気に解説する。ただ残念なことに、それを理解できたのは、この場にいる者のうちのごく一部のみであった。
「……で。…………あいつ……誰だ?」
 ルイフォンが、隣にいたリュイセンをつつき、目配せで言葉をかわした。
「あいつ……、……しかないだろ」
「……だよな」
 ふたりの視線の先は、ハオリュウの後ろ。車椅子を押してきた人物だ。
「ふふっ、緋扇さんよ。素敵でしょう!」
 ユイランが夢見る乙女のように目を輝かせ、うっとりと手を合わせた。
 いい歳した母のそんな姿に、リュイセンは思い切り顔をしかめたが、彼女の態度には納得せざるを得ない。――そのくらい、別人に仕上がっていた。
 ぼさぼさだった髪は、整髪料で綺麗に撫でつけられ、オールバックに整えられていた。それだけで生真面目な人物に早変わりするのだが、運転手を兼ねていることを意識した服装が拍車をかける。
 ハオリュウとは違い、こちらは正装であるらしく、高い襟の一番上までかっちりと留められたボタンが礼儀正しさを醸し出していた。三白眼の凶相は、運転手が好んで身につけるような薄い色の眼鏡で印象を和らげてある。余計な詮索を避けるためにか、拳銃を握る手にできるグリップだこは、白い手袋によって隠されていた。
 不審がられず、軽んじられず。言うなれば『目つきの悪いチンピラ』が、『眼光の鋭い切れ者』に見事に化けていた。
「失礼だけど、いつもの緋扇さんだと、|貴族《シャトーア》の介助者としては、ちょっと……だったのよね」
 ユイランは、いつの間にか現れていた友人だという美容師と頷き合う。長い付き合いらしいふたりは、見事なシュアンの出来栄えに、互いを称え合っていた。
 彼女たちが面白がって楽しんでいたことは、シュアンの仏頂面が物語っていた。
 そして――。
 ルイフォン、リュイセン、ハオリュウ、シュアンの四人が、車に乗り込む。
 いよいよ、作戦開始である。