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プロローグ〜世界で、もっとも不憫な存在〜

ー/ー



2009年 4月7日(火)

 その後の人生で何度か経験することになるように……。
 出会ったその日に、僕は、その相手に夢中になってしまった――――――。

 道頓堀川に沈められたカーネル・サンダース像が二十四年ぶりに発見されて引き上げられ、イチローの決勝タイムリーで日本代表が二大会連続の野球世界王者に輝いた春のある日の夕方、祖父は、僕を(引っ越したばかりの)自宅から連れ出して、ある場所に向かった。

 転校初日の始業式を終えて、精神的に参ってしまい(まだ住み慣れない新居であっても)自分の部屋で落ち着いて過ごしたかった僕は、夕方から出掛けたくなんてなかったんだけど、母親の

「せっかく、おじいちゃんがチケットを取ってくれたんだから、行ってらっしゃい!」

という強引なススメもあって、渋々ながら、祖父について行くことにした。

 終着となる停留所でバスから降り、高速道路と一般道が重なる高架道路に目を向けると、その隙間から、巨大な茶色の壁面に、

 阪 神 甲 子 園 球 場

という文字が見えてきた。
 
 高架下を通り過ぎ、あらためて、ドデカイい外壁を見上げていると、

「ツタがあった頃は、ミドリ一色(いっしょく)やったけど、ずい分と印象が変わったな〜」

と、祖父が感慨深げにつぶやいたことを、いまでも、よく覚えている。

 入場門をくぐり、バックネット裏の内野席に向かう階段を上がると、イカの姿焼の香ばしい香りが立ち込めてきた。
 売店が並ぶ通路を抜け、スタンドの方に出ると一気に視界が広がる。
 内野席を覆う大銀傘の下から眺める、新しくなった照明塔、黒い土と緑の芝、そして、大きなスコアボードが作り出す光景に目を奪われた。

 あとで知ったことだが、この日は、数年をかけてリニューアルを工事を行っていたこの球場のシーズン開幕初戦だったらしい。

 目を見張りながら、

「すごい! 球場って、メッチャ大きいね!」

と、感嘆の声を上げると、祖父は、嬉しそうに答えた。

「そうやろ? 甲子園は()()やからな」

 祖父(じい)さんが亡くなったいまとなっては、その()()という言葉が、具体的にナニを指すのかはわからないままだが、それでも、その後の自分にとって、ここが()()()()()となることに間違いはなかった。
 
 球場に到着してから、およそ四時間後、僕は、球場の美しさ以上に、さらに強烈な光景を目にすることになる。

 ※

 午後六時にプレーボールとなった試合は、中盤まで接戦となり、7回の攻防を迎えるまでは1点差でホームの阪神がリードしていたが、7回表にカープが一挙7点を挙げ、スコアは4対10となっていた。
 コロナ禍以前には、お馴染みの光景となっていた甲子園名物の色とりどりのジェット風船は、なかなか終了しないカープに耐えきれず、そこかしこで、ヒュルヒュルと打ち上がったり、パン! パン! と弾けるような破裂音を発生させる。

「ナニやっとんねん! ジェフ!!」

 カープの猛攻を食い止めることができないマウンド上の投手ジェフ・ウィリアムスに対しても、周囲から怒号が飛んでいた。
 
 風船をひとつだけ持ち、子どもの体感時間では、永遠とも思える長さに感じられたカープの攻撃時間の長さにウンザリしながら、
 
「なあ、()()、いつ終わるん?」

と、たずねると、僕と違って両手にジェット風船を持っていた、祖父は、

「もう少しの辛抱や……これくらい耐えられへんかったら、阪神ファンなんかやってられへんぞ……」

と、苦しさを吐き出すように答えた。

「別に、阪神ファンになろうなんて、思てへんし……」

 ふてくされるようにつぶやきながらも、必死で風船の吹き口を抑えていると、ようやくカープの攻撃が終了し、しばらくして、場内から、その後、何百回と耳にすることになるメロディー流れ始めた。

 スコアボードに目を向けると、巨大ビジョンの右半分には、ジェット風船を手にしたトラのキャラクターが映し出されている。
 メロディーに合わせて、球場全体から、

「オイ! オイ! オイ! オイ!」

という掛け声が聞こえ、曲の演奏が終わると、視界いっぱい、ほぼ360度の全体から、一斉に風船が打ち上げられた。
 色とりどりの風船が空に上っていく様子は圧巻そのもので、その光景に感動を覚えつつも、お祭り騒ぎに参加できたことに、十分な満足を感じた僕は、祖父に

「なあ、この回の攻撃が終わったら、帰るんやろう?」

と、たずねた。

 スコアボードの大時計は、午後九時を回っていた。
 そろそろ、祖父の携帯電話に、息子の夜間外出を許可した母親からの帰宅確認の連絡が来るハズだ。

 おまけに、この時点でのスコアは、4対10。
 阪神は、6点のリードを許している。
 
 野球観戦の超初心者である小学生の自分にも、ホームチームの敗色が濃厚であることは理解でき、残り3イニングでこの点差を逆転することは不可能に思えた。

 しかし、祖父は、こちらが予想もしなかったことを口にした――――――。

「明日は、一年生の入学式で学校は休みなんやろう? せっかくやから、最後まで試合を観ていかへんか?」
 
 この時の祖父(じい)さんの選択が、僕のその後の人生を決定づけることになるとは、夢にも思わなかった。

 ※

 残り3イニングで6点差という絶望的な状況から、圧倒的な声援を受けて7回・8回の2イニングで3点を返したホームチームは、7対10のスコアで9回裏の攻撃を迎えた。
 
 まずは、この回の先頭打者ケビン・メンチが、この日3本目となるヒットで出塁する。
(余談ながら、このあとに起こるドラマのような展開よりも、この外国人打者の猛打賞を目撃できたという体験の方が、レア度は高いかもしれない)

 続く葛城(かつらぎ)にもヒットが出たあと、後続の打者はアウトとなり、一死一・三塁から、赤星(あかほし)がレフト前にタイムリー・ヒットを放って、8対10。
 この頃から球場全体に、チームの追い上げムードを本格的に後押しする雰囲気が出てきた。

 次の平野(ひらの)は、浅いレフトフライに倒れ二死一・二塁となったものの、続く鳥谷(とりたに)は、鮮やかなライナーで三遊間を破るレフト前ヒットを放って、二塁ランナーが生還。
 スコアは9対10!
 ついに、一点差だ!

 球場のボルテージが一気に上がり、ここで迎えるは打者は、四番の金本知憲(かねもとともあき)――――――。

 前奏に合わせて、
 
 ♪ 勝利 目指せ オー! オー! タイガース!

という歌声のあと、スタンド全体が、

 わっしょい! わっしょい!
 ワッショイ! ワッショイ!
 わっしょい! わっしょい!
 ワッショイ! ワッショイ! 

という大声援に包まれる。
 僕と祖父が座るバックネット裏のグリーンシートでは、応援用のカンフーバットやメガホンを打ち鳴らす音が内野席を覆う大銀傘に反響している。その凄まじい音量は、きっとグラウンドの選手にも届いているだろう。

 ふと、隣の祖父に目を向けると、メガホンを両手に持ちながら、左手で両足のズボンの(すそ)をたくし上げて、鼻の頭をこすったあと、右手でメガホンをクルンと回す仕草をしている。
 大歓声が銀傘にこだます中、祖父に、

「お祖父ちゃん、ナニやってんの?」

と、たずねると、こんな返事が返ってきた。

「コレはな……掛布(かけふ)がバッターボックスに入る時の仕草や。掛布(かけふ)みたいに打ってくれるように、()()()()()してるんや。虎太郎(こたろう)も、しっかり応援せぇよ」
 
 その、冗談とも本気ともつかない祖父の言葉に後押しされたというわけでもないのだが、いつの間にか、僕も周囲の声援とメガホンを叩くリズムに合わせて、声を張り上げていた。

「わっしょい!わっしょい!」
「ワッショイ!ワッショイ!」
「わっしょい!わっしょい!」
「ワッショイ!ワッショイ!」
 
 ドーンドドン「オー!」
 ドーンドドン「オー!」
 ドンドンドンドン!

「カネモト! 広島たおせ〜! オ〜!!」
 
 カープのリリーフ・エース永川(ながかわ)と我らが四番打者の息が詰まるような対戦は、(ツー)ストライク・(ツー)ボール(この当時の日本のボールカウントの数え方は、SBO方式だった)の五球目のハーフ・スイングが、三塁の塁審にスイングなしと判定され、フル・カウントになった。

「お、おぉ〜〜〜」

 という、どよめきがスタンド全体から漏れる。
 そして、間を置かずに、投手は投球動作に入った!

 (ツー)ストライク・(スリー)ボールから、運命の6球目――――――。

 永川が投じた一球は、ホームベースの前でわずかに沈んだように見えた。
 だが、その落ち際を()(はら)うように右手一本で振り抜かれたバットから放たれた打球は、まるでロケット弾が飛び出すような低空の弾道でライト線に弾き返される!

 弾丸ライナーが、ライト線ギリギリいっぱいのフェアゾーンに落ちた瞬間、観客が総立ちとなった。

 ボールが勢いよく外野のフェンスに到達する間に、二塁ランナーの赤星がホームに生還し、同点!
 
 そして、打球に追いついた外野手から、ボールが内野手へ返球される中継プレーの間に、スタートを切っていた一塁ランナーも、ホームベースを目指し、疾風のように駆けてきた。

 中継した内野手からの返球がキャッチャー・ミットに収まるのと、ランナーが、ホームベースに滑り込む瞬間は、ほぼ同時であった。一塁側に身体を寄せていたキャッチャーが、走者の鳥谷の足元にタッチを試みる。
 
 間一髪のタイミングは――――――。

「セーフ!」

 球審が手を広げると、一塁側のベンチからは、選手たちが一斉に飛び出した。

 僕の周りでも、いや、球場のスタンドのほぼ全員が総立ちになって、カンフーバットやメガホンを打ち鳴らし、歓喜に湧いている。

 グラウンドでは、一塁ベースと二塁ベースの間で、サヨナラヒットを放った金本が、ベンチから飛び出した選手たちに揉みクチャにされ、スタンドからは、

「ヨッシャ〜!」

「サヨナラや〜!」

「カネモト〜〜〜!」

という歓声が上がる。
 僕たちの前の席に座るオッチャンが、突然こちらの方に振り向いて、

「やったな〜! お兄ちゃんも小さいのに、良く応援がんばった!」

と言って、メガホンでのハイタッチを求めてきた。
 それに合わせて、僕も

「イェ〜イ!」

と、持っていたカンフーバットでオッチャンとハイタッチを行う。さらに、

「ありがとう〜! 金本〜〜〜!」

という声に振り返ると、学生風の若者二人連れが、僕を見て、

「うお〜〜〜〜! ありがとう〜!」

と、声をかけてきた。
 その声に応えて、僕も

「やった〜〜〜! ありがとう〜!」

と、彼らとカンフーバットでハイタッチを交わす。
 
 そうして、巨大なフライパンの上で弾けるポップコーンのように、スタンド全体から鳴り響く音を沈めるためなのだろうか、自然発生したバンザイ三唱で場内の喧騒は、収束に向かう。
 
 それでも、ペナント・レースが始まったばかりのただの1勝にもかかわらず、まるで、シーズンの優勝が決まったかのようなお祭り騒ぎに浮かされた僕の興奮を止める手段はなかった。

 ヒーロー・インタービューで、スコアボードの巨大なオーロラビジョンに大写しになった勝利の立役者である金本知憲(かねもとともあき)と、一塁から俊足を飛ばしてサヨナラ勝ちの生還を果たした鳥谷敬(とりたにたかし)が、僕のヒーローになった瞬間でもあった。

 ※

 その特別な日から、十年近くが経過した頃――――――。
 
 大学に入学してから仲良くなった友人の(ゆたか)に、

「野球ファンなら、この映画を観てみなよ」

と、『2番目のキス』という作品を薦められた。
 その映画の冒頭では、叔父に連れられて、ボストンの野球場フェンウェイ・パークに観戦に出掛けた少年について、ナレーターが、こんな風に語られている。

「ドワイト・エバンスがホームランを数本放ち、(レッド)ソックスが勝ち、その日が終わるまでに、哀れな少年ベンは『神の創り給うた最も哀れな生き物の一つ』――――――つまり……レッドソックスファンになってしまった」

 八十六年もの間、ワールドシリーズに勝利できなかった(野球ファンならご存知の『バンビーノの呪い』というアレだ)ボストン・レッドソックスのファンが、『神の創り給うた最も哀れな生き物』ならば…………。

 球団創設から九十年近くの歴史を持つにも関わらず、

 リーグ優勝:九回(2リーグ分裂後は、七十年以上の間に、わずか五回のみ)
 日本一:一回(球団の歴史が最も浅いイーグルスと並んで最下位タイの回数だ)

の成績しか残せていない、阪神タイガースのファンは、(仏教徒の多い我が国の慣習に照らすと)客観的に見て、

三千世界(さんぜんせかい)で、もっとも不憫な存在』

と言えるかも知れない。

 なんにしても、転校したばかりの始業式の日に、祖父に連れられて甲子園球場に出掛けた自分には、この映画『2番目のキス』の主人公の気持ちが痛いほど、よく分かる。

 興奮と熱狂につつまれて始まった、()()()()への想いが、こんなにもツラく苦しいモノになるなんて、小学四年生になったばかりの僕には、想像もできなかった。

 ・2009年の阪神タイガースの最終成績

 勝敗:67勝 73敗 4引き分け
 順位:セントラル・リーグ 4位

 追記:

 そう言えば、この年の春に飼い始めた子犬に「メンチ」と名付けようとしたのだが、母親と祖父に、

「その名前は、やめとき……」

と、全力で拒否されたことを思い出した(子犬の名前は、結局コジローという普通の名前になった)。
 あのとき、母と祖父が止めなければ、我が家の黒柴犬は、十数年の間、ひき肉を連想させると同時に、

「イケるやん!」
「走る凶器や!」

など、インターネット上で(こす)られ続ける、微妙な名前で呼ばれことになっていたハズで、やはり、ペットの命名には慎重にならないといけないことを痛感した。




みんなのリアクション

2009年 4月7日(火)
 その後の人生で何度か経験することになるように……。
 出会ったその日に、僕は、その相手に夢中になってしまった――――――。
 道頓堀川に沈められたカーネル・サンダース像が二十四年ぶりに発見されて引き上げられ、イチローの決勝タイムリーで日本代表が二大会連続の野球世界王者に輝いた春のある日の夕方、祖父は、僕を(引っ越したばかりの)自宅から連れ出して、ある場所に向かった。
 転校初日の始業式を終えて、精神的に参ってしまい(まだ住み慣れない新居であっても)自分の部屋で落ち着いて過ごしたかった僕は、夕方から出掛けたくなんてなかったんだけど、母親の
「せっかく、おじいちゃんがチケットを取ってくれたんだから、行ってらっしゃい!」
という強引なススメもあって、渋々ながら、祖父について行くことにした。
 終着となる停留所でバスから降り、高速道路と一般道が重なる高架道路に目を向けると、その隙間から、巨大な茶色の壁面に、
 阪 神 甲 子 園 球 場
という文字が見えてきた。
 高架下を通り過ぎ、あらためて、ドデカイい外壁を見上げていると、
「ツタがあった頃は、ミドリ|一色《いっしょく》やったけど、ずい分と印象が変わったな〜」
と、祖父が感慨深げにつぶやいたことを、いまでも、よく覚えている。
 入場門をくぐり、バックネット裏の内野席に向かう階段を上がると、イカの姿焼の香ばしい香りが立ち込めてきた。
 売店が並ぶ通路を抜け、スタンドの方に出ると一気に視界が広がる。
 内野席を覆う大銀傘の下から眺める、新しくなった照明塔、黒い土と緑の芝、そして、大きなスコアボードが作り出す光景に目を奪われた。
 あとで知ったことだが、この日は、数年をかけてリニューアルを工事を行っていたこの球場のシーズン開幕初戦だったらしい。
 目を見張りながら、
「すごい! 球場って、メッチャ大きいね!」
と、感嘆の声を上げると、祖父は、嬉しそうに答えた。
「そうやろ? 甲子園は|特《・》|別《・》やからな」
 |祖父《じい》さんが亡くなったいまとなっては、その|特《・》|別《・》という言葉が、具体的にナニを指すのかはわからないままだが、それでも、その後の自分にとって、ここが|特《・》|別《・》|な《・》|場《・》|所《・》となることに間違いはなかった。
 球場に到着してから、およそ四時間後、僕は、球場の美しさ以上に、さらに強烈な光景を目にすることになる。
 ※
 午後六時にプレーボールとなった試合は、中盤まで接戦となり、7回の攻防を迎えるまでは1点差でホームの阪神がリードしていたが、7回表にカープが一挙7点を挙げ、スコアは4対10となっていた。
 コロナ禍以前には、お馴染みの光景となっていた甲子園名物の色とりどりのジェット風船は、なかなか終了しないカープに耐えきれず、そこかしこで、ヒュルヒュルと打ち上がったり、パン! パン! と弾けるような破裂音を発生させる。
「ナニやっとんねん! ジェフ!!」
 カープの猛攻を食い止めることができないマウンド上の投手ジェフ・ウィリアムスに対しても、周囲から怒号が飛んでいた。
 風船をひとつだけ持ち、子どもの体感時間では、永遠とも思える長さに感じられたカープの攻撃時間の長さにウンザリしながら、
「なあ、|コ《・》|レ《・》、いつ終わるん?」
と、たずねると、僕と違って両手にジェット風船を持っていた、祖父は、
「もう少しの辛抱や……これくらい耐えられへんかったら、阪神ファンなんかやってられへんぞ……」
と、苦しさを吐き出すように答えた。
「別に、阪神ファンになろうなんて、思てへんし……」
 ふてくされるようにつぶやきながらも、必死で風船の吹き口を抑えていると、ようやくカープの攻撃が終了し、しばらくして、場内から、その後、何百回と耳にすることになるメロディー流れ始めた。
 スコアボードに目を向けると、巨大ビジョンの右半分には、ジェット風船を手にしたトラのキャラクターが映し出されている。
 メロディーに合わせて、球場全体から、
「オイ! オイ! オイ! オイ!」
という掛け声が聞こえ、曲の演奏が終わると、視界いっぱい、ほぼ360度の全体から、一斉に風船が打ち上げられた。
 色とりどりの風船が空に上っていく様子は圧巻そのもので、その光景に感動を覚えつつも、お祭り騒ぎに参加できたことに、十分な満足を感じた僕は、祖父に
「なあ、この回の攻撃が終わったら、帰るんやろう?」
と、たずねた。
 スコアボードの大時計は、午後九時を回っていた。
 そろそろ、祖父の携帯電話に、息子の夜間外出を許可した母親からの帰宅確認の連絡が来るハズだ。
 おまけに、この時点でのスコアは、4対10。
 阪神は、6点のリードを許している。
 野球観戦の超初心者である小学生の自分にも、ホームチームの敗色が濃厚であることは理解でき、残り3イニングでこの点差を逆転することは不可能に思えた。
 しかし、祖父は、こちらが予想もしなかったことを口にした――――――。
「明日は、一年生の入学式で学校は休みなんやろう? せっかくやから、最後まで試合を観ていかへんか?」
 この時の|祖父《じい》さんの選択が、僕のその後の人生を決定づけることになるとは、夢にも思わなかった。
 ※
 残り3イニングで6点差という絶望的な状況から、圧倒的な声援を受けて7回・8回の2イニングで3点を返したホームチームは、7対10のスコアで9回裏の攻撃を迎えた。
 まずは、この回の先頭打者ケビン・メンチが、この日3本目となるヒットで出塁する。
(余談ながら、このあとに起こるドラマのような展開よりも、この外国人打者の猛打賞を目撃できたという体験の方が、レア度は高いかもしれない)
 続く|葛城《かつらぎ》にもヒットが出たあと、後続の打者はアウトとなり、一死一・三塁から、|赤星《あかほし》がレフト前にタイムリー・ヒットを放って、8対10。
 この頃から球場全体に、チームの追い上げムードを本格的に後押しする雰囲気が出てきた。
 次の|平野《ひらの》は、浅いレフトフライに倒れ二死一・二塁となったものの、続く|鳥谷《とりたに》は、鮮やかなライナーで三遊間を破るレフト前ヒットを放って、二塁ランナーが生還。
 スコアは9対10!
 ついに、一点差だ!
 球場のボルテージが一気に上がり、ここで迎えるは打者は、四番の|金本知憲《かねもとともあき》――――――。
 前奏に合わせて、
 ♪ 勝利 目指せ オー! オー! タイガース!
という歌声のあと、スタンド全体が、
 わっしょい! わっしょい!
 ワッショイ! ワッショイ!
 わっしょい! わっしょい!
 ワッショイ! ワッショイ! 
という大声援に包まれる。
 僕と祖父が座るバックネット裏のグリーンシートでは、応援用のカンフーバットやメガホンを打ち鳴らす音が内野席を覆う大銀傘に反響している。その凄まじい音量は、きっとグラウンドの選手にも届いているだろう。
 ふと、隣の祖父に目を向けると、メガホンを両手に持ちながら、左手で両足のズボンの|裾《すそ》をたくし上げて、鼻の頭をこすったあと、右手でメガホンをクルンと回す仕草をしている。
 大歓声が銀傘にこだます中、祖父に、
「お祖父ちゃん、ナニやってんの?」
と、たずねると、こんな返事が返ってきた。
「コレはな……|掛布《かけふ》がバッターボックスに入る時の仕草や。|掛布《かけふ》みたいに打ってくれるように、|お《・》|ま《・》|じ《・》|な《・》|い《・》してるんや。|虎太郎《こたろう》も、しっかり応援せぇよ」
 その、冗談とも本気ともつかない祖父の言葉に後押しされたというわけでもないのだが、いつの間にか、僕も周囲の声援とメガホンを叩くリズムに合わせて、声を張り上げていた。
「わっしょい!わっしょい!」
「ワッショイ!ワッショイ!」
「わっしょい!わっしょい!」
「ワッショイ!ワッショイ!」
 ドーンドドン「オー!」
 ドーンドドン「オー!」
 ドンドンドンドン!
「カネモト! 広島たおせ〜! オ〜!!」
 カープのリリーフ・エース|永川《ながかわ》と我らが四番打者の息が詰まるような対戦は、|2《ツー》ストライク・|2《ツー》ボール(この当時の日本のボールカウントの数え方は、SBO方式だった)の五球目のハーフ・スイングが、三塁の塁審にスイングなしと判定され、フル・カウントになった。
「お、おぉ〜〜〜」
 という、どよめきがスタンド全体から漏れる。
 そして、間を置かずに、投手は投球動作に入った!
 |2《ツー》ストライク・|3《スリー》ボールから、運命の6球目――――――。
 永川が投じた一球は、ホームベースの前でわずかに沈んだように見えた。
 だが、その落ち際を|薙《な》ぎ|払《はら》うように右手一本で振り抜かれたバットから放たれた打球は、まるでロケット弾が飛び出すような低空の弾道でライト線に弾き返される!
 弾丸ライナーが、ライト線ギリギリいっぱいのフェアゾーンに落ちた瞬間、観客が総立ちとなった。
 ボールが勢いよく外野のフェンスに到達する間に、二塁ランナーの赤星がホームに生還し、同点!
 そして、打球に追いついた外野手から、ボールが内野手へ返球される中継プレーの間に、スタートを切っていた一塁ランナーも、ホームベースを目指し、疾風のように駆けてきた。
 中継した内野手からの返球がキャッチャー・ミットに収まるのと、ランナーが、ホームベースに滑り込む瞬間は、ほぼ同時であった。一塁側に身体を寄せていたキャッチャーが、走者の鳥谷の足元にタッチを試みる。
 間一髪のタイミングは――――――。
「セーフ!」
 球審が手を広げると、一塁側のベンチからは、選手たちが一斉に飛び出した。
 僕の周りでも、いや、球場のスタンドのほぼ全員が総立ちになって、カンフーバットやメガホンを打ち鳴らし、歓喜に湧いている。
 グラウンドでは、一塁ベースと二塁ベースの間で、サヨナラヒットを放った金本が、ベンチから飛び出した選手たちに揉みクチャにされ、スタンドからは、
「ヨッシャ〜!」
「サヨナラや〜!」
「カネモト〜〜〜!」
という歓声が上がる。
 僕たちの前の席に座るオッチャンが、突然こちらの方に振り向いて、
「やったな〜! お兄ちゃんも小さいのに、良く応援がんばった!」
と言って、メガホンでのハイタッチを求めてきた。
 それに合わせて、僕も
「イェ〜イ!」
と、持っていたカンフーバットでオッチャンとハイタッチを行う。さらに、
「ありがとう〜! 金本〜〜〜!」
という声に振り返ると、学生風の若者二人連れが、僕を見て、
「うお〜〜〜〜! ありがとう〜!」
と、声をかけてきた。
 その声に応えて、僕も
「やった〜〜〜! ありがとう〜!」
と、彼らとカンフーバットでハイタッチを交わす。
 そうして、巨大なフライパンの上で弾けるポップコーンのように、スタンド全体から鳴り響く音を沈めるためなのだろうか、自然発生したバンザイ三唱で場内の喧騒は、収束に向かう。
 それでも、ペナント・レースが始まったばかりのただの1勝にもかかわらず、まるで、シーズンの優勝が決まったかのようなお祭り騒ぎに浮かされた僕の興奮を止める手段はなかった。
 ヒーロー・インタービューで、スコアボードの巨大なオーロラビジョンに大写しになった勝利の立役者である|金本知憲《かねもとともあき》と、一塁から俊足を飛ばしてサヨナラ勝ちの生還を果たした|鳥谷敬《とりたにたかし》が、僕のヒーローになった瞬間でもあった。
 ※
 その特別な日から、十年近くが経過した頃――――――。
 大学に入学してから仲良くなった友人の|豊《ゆたか》に、
「野球ファンなら、この映画を観てみなよ」
と、『2番目のキス』という作品を薦められた。
 その映画の冒頭では、叔父に連れられて、ボストンの野球場フェンウェイ・パークに観戦に出掛けた少年について、ナレーターが、こんな風に語られている。
「ドワイト・エバンスがホームランを数本放ち、(レッド)ソックスが勝ち、その日が終わるまでに、哀れな少年ベンは『神の創り給うた最も哀れな生き物の一つ』――――――つまり……レッドソックスファンになってしまった」
 八十六年もの間、ワールドシリーズに勝利できなかった(野球ファンならご存知の『バンビーノの呪い』というアレだ)ボストン・レッドソックスのファンが、『神の創り給うた最も哀れな生き物』ならば…………。
 球団創設から九十年近くの歴史を持つにも関わらず、
 リーグ優勝:九回(2リーグ分裂後は、七十年以上の間に、わずか五回のみ)
 日本一:一回(球団の歴史が最も浅いイーグルスと並んで最下位タイの回数だ)
の成績しか残せていない、阪神タイガースのファンは、(仏教徒の多い我が国の慣習に照らすと)客観的に見て、
『|三千世界《さんぜんせかい》で、もっとも不憫な存在』
と言えるかも知れない。
 なんにしても、転校したばかりの始業式の日に、祖父に連れられて甲子園球場に出掛けた自分には、この映画『2番目のキス』の主人公の気持ちが痛いほど、よく分かる。
 興奮と熱狂につつまれて始まった、|そ《・》|の《・》|対《・》|象《・》への想いが、こんなにもツラく苦しいモノになるなんて、小学四年生になったばかりの僕には、想像もできなかった。
 ・2009年の阪神タイガースの最終成績
 勝敗:67勝 73敗 4引き分け
 順位:セントラル・リーグ 4位
 追記:
 そう言えば、この年の春に飼い始めた子犬に「メンチ」と名付けようとしたのだが、母親と祖父に、
「その名前は、やめとき……」
と、全力で拒否されたことを思い出した(子犬の名前は、結局コジローという普通の名前になった)。
 あのとき、母と祖父が止めなければ、我が家の黒柴犬は、十数年の間、ひき肉を連想させると同時に、
「イケるやん!」
「走る凶器や!」
など、インターネット上で|擦《こす》られ続ける、微妙な名前で呼ばれことになっていたハズで、やはり、ペットの命名には慎重にならないといけないことを痛感した。