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4.菖蒲の館を臨む道筋-1

ー/ー



 新月ならではの漆黒の夜空に、数多(あまた)の星々が降り注ぐ。
 星明りの煌めきの音すら聞こえそうな静寂の中、闇に紛れるようにして、一台の黒塗りの車が走っていった。
 高い煉瓦の壁で覆われた、鷹刀一族の屋敷の門前で止まる。守りを任されている門衛たちは、緊張にごくりと喉を鳴らし、来訪者を注視した。
 車のライトが、瞬く星々を真似るかのように明滅を始める。
 それは、決められたパターンを繰り返す、光の合図だった。
 相手を確認した門衛たちは、安堵の息をつく。会釈して門を開けると同時に、執務室へと連絡を急いだ。


 執務机の内線が鳴った瞬間、メイシアがびくりと肩を震わせた。
 素早く受話器を取ったミンウェイが、応答しながらメイシアを振り返り、優しく微笑む。
 刹那、メイシアの顔は、緊張に彩られつつも薔薇色に輝くという、なんとも不思議な表情を見せた。
 彼女の隣に座っていたルイフォンは立ち上がり、彼女の髪をくしゃりとする。
「迎えに行こうぜ?」
「あっ、うん!」
 差し伸べられたルイフォンの手を取り、メイシアは顔をほころばせる。そこにはもう、緊張の色はなかった。

 数日前。メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウからの伝言を、警察隊員の緋扇シュアンが携えてきた。
 ハオリュウが、事実上の国の最高権力者である摂政に、食事の誘いを受けたのだという。
 それだけなら、貴族(シャトーア)の世界では(まれ)にあることだ。鷹刀一族のもとへと連絡するような案件ではない。
 だが、招かれた場所が問題だった。
(ムスカ)〉の潜伏場所と判明した庭園が、会食の会場だったのだ。
 この好機を活かす相談をしたい。――それが、ハオリュウからの用件だった。
 貴族(シャトーア)が、凶賊(ダリジィン)と懇意にしているところを目撃されれば、よからぬ陰謀の憶測を呼び寄せかねない。だからハオリュウは、今まで鷹刀一族との直接の接触は避けてきた。
 しかし、あと少しで〈(ムスカ)〉に手が届く。
 故に、今回ばかりは特別だった――。

 小走りになりながら、ルイフォンとメイシアが玄関に到着すると、ちょうど案内役のメイドが扉を開けたところであった。
「ハオリュウ! ――えっ……」
 喜色満面のメイシアの顔は、しかし、途中で曇った。
 声音と共に、目線が下がる。
 久しぶりに会う異母弟は、車椅子に乗っていた。緋扇シュアンに押してもらっている。
 確か、足の具合いは良好で、杖をつきながらであるが、自力で歩けるようになったと聞いていたのだが――。
「姉様! お元気そうでよかった」
 すっと顔を上げ、ハオリュウが嬉しそうに笑った。
 扉から流れてきた夜風が、彼の髪を揺らす。以前よりも短めにした髪型のせいか、ぐっと大人びて……。
「え……? ハオリュウ?」
 メイシアは耳を疑った。
 目の前の異母弟を凝視する。車椅子以上の驚きだった。
「やだな、姉様。照れくさいよ。一番、落ち着かないのは僕自身なんだから」
 気まずそうに視線をそらし、わずかにむくれる。彼がそんな態度を見せる相手は、唯一、最愛の異母姉だけだろう。
「ごめんなさい、ハオリュウ。でも……」
「分かっている。――『父様そっくり』なんでしょ? 僕の……声」
「……うん」
 その通りだった。
 ほんの数ヶ月前まで、少し苦しげなハスキーボイスを発していた異母弟の喉が、亡くなったふたりの父親にそっくりな音色を奏でていた。
 唐突な変化に、メイシアは戸惑う。当たり前のことなのに、心が素直に受け入れてくれない。
 彼女の困惑顔に、ハオリュウもまた困り顔となった。けれど、それは実に異母姉らしい反応ともいえて、やがて苦笑に変わる。彼は、いつまでも彼女の小さな異母弟ではないのだ。
「声だけじゃないよ、姉様」
 ハオリュウはシュアンに頼み、杖を出してもらう。車椅子を降りるらしい。
 歩けないわけではなかったの? と、目を丸くするメイシアの前で、彼は立ち上がった。すっと流れた空気の気配に、彼女は違和感を覚える。
「え?」
 ふたり向かい合って立てば、彼女の目の前に異母弟の顔があるはずだった。
「ハオリュウ……?」
「ああ、やっぱり。姉様の背を越えたね」
 そう言いながら、ハオリュウはくすりと笑う。屈託のない笑い声すら、以前とは比べ物にならないほど低くなっていて、メイシアはどうにも落ち着かない。
 そのとき、後ろから姉弟の再会を見守っていたルイフォンが、猫背を伸ばしながら、ふらりと前に出た。自然にメイシアの肩を抱き寄せ、くしゃりと髪を撫でる。
「ハオリュウ、久しぶりだな」
「ルイフォン。お久しぶりです」
 にこやかに微笑むハオリュウの視線は、異母姉の肩にあるルイフォンの手に注がれていた。『仲は認めたが、節度は守れ』との、言外の声が聞こえてくる。
 もともと歳に似合わぬ眼光を放つハオリュウだったが、目線が高くなったことによってより迫力が増していた。ルイフォンは、このままいけば将来的には身長を抜かれるな、などと思い、鼻に皺を寄せる。
「おい、ハオリュウ。メイシアを驚かすために、車椅子で来たのか? 足の調子が悪くなったかと、心配したぞ」
 悪趣味だぞ、と含ませながらも、決して責めているわけではない。
 にやりと口角を上げた顔は猫のような愛嬌があり、ルイフォンは軽口に混ぜて、メイシアが(いだ)いているであろう疑問を、それとなく彼女に代わって尋ねていた。
「ああ、すみません。『リハビリを頑張りすぎて筋肉を痛めてしまったため、ドクターストップが掛かった』――」
「ああ、そうなのか。すまん、余計なことを……」
「――ということになっているんです」
「は?」
 ぽかんとするルイフォンに、ハオリュウが腹黒い笑みを浮かべた。
「この作戦で、鷹刀の方々に〈(ムスカ)〉のいる庭園に侵入していただきます」


「〈(ムスカ)〉の潜伏先は見つかったものの、場所が王族(フェイラ)所轄の庭園で、近衛隊の警備が固くて侵入できない。――これが現在、私たちの抱えている問題でした」
 執務室に通されたハオリュウは、待ちかねていた一同への挨拶を済ませると、早々に口火を切った。
「ですが今回、私はその王族(フェイラ)、すなわち摂政殿下ご本人から、(くだん)の庭園にお招きいただきました。――つまり、私と一緒であれば、堂々と侵入できます」
 落ち着き払ったハオリュウの声が、執務室に響き渡る。
 部屋の空気が、緊張を帯びた。
 リュイセンが腰を浮かせる。
 今まで暗礁に乗り上げていた船が、ふとした瞬間にあっけなく解放された。リュイセンには、そう感じられた。
「じゃあ、ハオリュウの護衛に紛れて行けば、あの庭園に入れるってわけか!」
 声を上ずらせながら、誰よりも先に叫ぶ。
 この半月ほど、リュイセンはずっと焦燥を溜め込み続けてきた。嬉々として身を乗り出し、早速、同行を申し出る。
 しかし、彼の父であるエルファンが、すかさず冷たい声を浴びせてきた。
「確かに、護衛に化ければ、門は通過できるだろう。だが、それだけだ」
 失笑混じりの物言いに、リュイセンは(まなじり)を上げる。
「父上、『それだけ』とはなんですか!? 俺たちは門を守る近衛隊には手を出せませんが、中にいるのは〈(ムスカ)〉の私兵たちだけです。彼らを制圧し、〈(ムスカ)〉を捕らえることくらいわけな……」
「ハオリュウの立場を考えろ」
 言葉の途中で、鋭い叱責が飛んだ。
「連れてきた護衛の行動は、ハオリュウの責任になる。摂政の目の前で暴れるなど、もってのほか。途中で姿を消して秘密裏に動いたところで、護衛の人数が減っていれば問題になるだろう」
「!」
「摂政からの招待はチャンスだが、下手をすればハオリュウを危険に晒す。そのことをまず、肝に銘じろ」
 厳しい声に、リュイセンの高揚した気分は、一瞬にして打ち砕かれた。
「そりゃ、そうだよな。安易にすまん、ハオリュウ……」
 乾いた声で律儀に謝りながら、リュイセンはうなだれる。
 ルイフォンは、そんなやり取りを横目に見ながら、じっと父イーレオを観察していた。
 一族の総帥は、相変わらず自分だけ、ひとり掛けのソファーで優雅に足を組んでいた。肘掛けで頬杖を付き、眼鏡の奥の瞳は軽く閉じている。
 気配から起きているのは分かるが、どう見ても居眠りをしているようにしか見えない。超然とした態度で、傍観を決め込むらしい。エルファンに任せているのだと、なんとなく察せられた。
 実は、ハオリュウから連絡があったとき、イーレオは苦い顔をした。
 せっかくの好機にどういうことだと、ルイフォンはずっと気になっていた。わずかながら、不信感も(いだ)いた。何しろイーレオは、これまでいろいろと隠しごとをしてきたのだから。
 しかし、いざハオリュウを目の前にした様子を見ると、分かる。
 イーレオは、純粋にハオリュウを心配している。
 理由はおそらく、不穏な動きをする摂政への警戒。
 摂政に関しては、ルイフォンだって激しく警鐘を鳴らしている。如何(いか)にも災いの火種になりそうだ、と。
 だが、守ってばかりでは進めない。ここは攻めるべきなのだ――。
 そんなふうに思考を巡らせていると、ハオリュウの声が耳に飛び込んできた。
「まぁ、リュイセンさん。落ち着いてください」
 気を悪くしたふうもなく、ハオリュウは穏やかに微笑んでいた。
 リュイセンの気がはやるのはミンウェイのため。ハオリュウも、それを知っているのだ。
「エルファンさんのおっしゃる通り、単純に私と共に侵入するのでは、自由に行動できません。当然、策を講じる必要があります。――それと、そもそも護衛は同行できません」
「え?」
 声を上げたのはリュイセンであったが、メイシアとハオリュウの姉弟以外には疑問だった。皆の視線が、いっせいに問う。
「護衛は、いわば武装です。摂政殿下の私邸に招かれた場合、護衛は門のところで待たせるのが臣下としての礼儀となります」
「……貴族(シャトーア)ってやつは、面倒臭(めんどくせ)ぇな」
 癖のある前髪を掻き上げ、ルイフォンはぼそりと漏らす。そのあまりに率直な感想に、ハオリュウは苦笑した。
「ええ。ですから、姉様には自由であってほしくて、あなたに託したんですよ?」
 裏のありそうな――否、紛うことなく『姉様を不幸にしたら許さない』との念を込めた眼差しで、ルイフォンを見やる。
 思わぬ方向に返してきたなと思いつつ、ルイフォンは、にやりと余裕の笑みを浮かべた。
「ああ。安心して任せろ」
 そう言いながら、隣に座るメイシアを抱き寄せようとして、ルイフォンは動きを止めた。玄関で見た、ハオリュウの眼光を思い出したのだ。
 ここで無駄にハオリュウを刺激しても仕方ないだろう。
 中途半端な位置で止めた手を持て余し、さてどうしようか、と悩んだところで、なんと、その手をメイシアが握ってきた。指先のほうを遠慮がちに、ではあるが、しっかりと。
 そして彼女は、じっと異母弟を見る。
「……!」
 ハオリュウが目に見えてうろたえ、視線をそらした。
 ルイフォンもまた、絶句する。
 ――なんか、すまん……。
 ハオリュウが可哀想になった。しかも、話が完全に脱線している。
 場を取り繕うべく、ルイフォンはこほんと咳払いをして、そっと膝に手を戻した。
「ハオリュウ、策があるんだろ? お前が車椅子を使っている理由、ってやつ。もったいつけずに、早く教えろよ」
 水を向けてやると、ハオリュウは感謝のような、嫉妬のような――微妙な表情を浮かべ……しかし、すぐに頭を切り替えたようだった。
 彼は皆へと向き直り、軽く会釈してから口を開く。
「今回の会食は、若くして当主となった私を激励し、親睦を深めたいとの、摂政殿下のお心遣いです。極めて私的なもので、『摂政殿下』ではなく、『再従兄弟(はとこ)のカイウォル殿下』としてのお立場をとられています。ですから、後見人の大叔父も同席しません」
 ハオリュウは、そこで一度、言葉を切った。そして、皆に正確に伝わるよう、ゆっくりと丁寧に続ける。
「カイウォル殿下としては、ふたりきりで胸襟を開いて語り合おう、という意図なのでしょう。けれど、『若輩者の、お飾り当主』は、意気地なしで、事実上の国の最高権力者とふたりきりなんて、とてもとても耐えられないのです」
「……は?」
 ルイフォンが(ほう)けた声を漏らした。いったい何処に、『若輩者の、お飾り当主』がいるのだ? と。
 それは彼だけではなく、誰もが思ったことだろう。
 皆の反応を楽しむかのように、ハオリュウは清々しいまでに、にこやかな腹黒い笑顔を浮かべた。
「そこで、当主は一計を案じるのです。『都合の良いことに、自分は足が不自由だ。だから介助の人間が必要だと、殿下に申し上げよう』――と」
「それで、車椅子か!」
 合点がいったと、ルイフォンは、ぽんと手を打つ。だがすぐに、疑問が生じた。
「けど、介助者にいったい、なんの意味がある? 別にお前は、摂政とふたりきりになることを、本気で恐れているわけじゃないだろ?」
 介助者では、〈(ムスカ)〉に対してなんの行動を取ることもできない。先ほど話に出た護衛と同じで、ハオリュウのそばを離れられないからだ。
「介助の者に意味はありませんよ。ただ、カイウォル殿下には、私が『心細さから、ひとりで行くのを恐れている』と思っていただきたいのです。『付き添いを許可してもらうため』に、足が悪いという名目を使った、と」
「――で? お前の真意は?」
 声を潜め、ルイフォンが尋ねる。
「『車』ですよ」
 ハオリュウはそう言って、口元を歪めた。底知れぬ漆黒の瞳が、実に楽しげに細められ、一同はごくりと唾を呑む。
「あの庭園は菖蒲が見事で、ちょうど花が盛りだから、とカイウォル殿下に誘われました。一緒に散策でも、と思われたのでしょう。――けれど、あいにく、私には足場の悪い遊歩道なんて、とても無理。なのに、あろうことか、あの庭園は全体的に起伏のある、なだらかな坂の地形なのです」
 ハオリュウは、含み笑いをしながら、ゆっくりと瞳を巡らせる。
「そう申し上げて、会食の会場になっている奥の館まで、『車』を乗り付ける許可をいただきましたよ。本来なら、臣下は門で、車を降りるべきところを、ね」
 護衛と同様、車も門まで。
 門から先は、摂政の領域であるから――。
 ……それを、『足が悪い』という不幸を利用して、覆す。
「――!」
 ルイフォンは、はっと猫の目を見開いた。『車』の意味を解したのだ。ハオリュウの柔軟さに舌を巻く。
「なるほど。考えたな、ハオリュウ……」
 ルイフォンの感嘆の声に、「さすが、ルイフォン。分かりましたか」と、ハオリュウが重々しく頷く。
「後部座席の下に、人が隠れられるような細工をします。近衛隊も、摂政殿下に招かれた貴族(シャトーア)の車なら、チェックも甘いでしょう。――『車』に注目されないために、『付き添いの介助者』のほうを強調して、話を通しましたからね」
「つまり……」
 ルイフォンに遅れて理解したリュイセンが、興奮に顔を上気させた。気持ちは高ぶり、声には震えすら帯びる。
「〈(ムスカ)〉捕獲要員は、車の中に隠れて、姿を見られないようにして庭園内に侵入する、ってことか……!」
「そういうことです」
 ハオリュウの腹黒い笑顔が広がった。
 華麗に披露された作戦の全貌に、一同は水を打ったように静まり返り、ひと呼吸置いて、沸き立つ。
「ハオリュウ、凄いな! これで〈(ムスカ)〉を捕獲できるぞ!」
 リュイセンが目を見開き、諸手を挙げて称賛する。
「ええ。ですが、条件がふたつあります」
 ハオリュウは、厳しい声で言い放ち、わずかに眉を曇らせた。
「車に隠れられるのは、せいぜいふたりです。たったふたりで〈(ムスカ)〉の私兵を退け、〈(ムスカ)〉を捕獲しなければなりません」
「戦力なら、俺ひとりで充分だ。あとは、監視カメラからの情報を得たいから、ルイフォンをつけてくれればいい」
『神速の双刀使い』リュイセンは、無用の憂慮と笑い飛ばす。すっかり彼とルイフォンで行くつもりのようだが、妥当な人選といえよう。
 ハオリュウもこの流れは読んでいたのか、特に異論はないようだった。しかし、次の条件を言う口は重かった。
「そして、もう一点。申し訳ないのですが、私にできるのは、たったふたりの人間を『館の中まで連れていく』ことだけです。脱出については、斑目タオロン氏が協力してくれることに賭けるしかありません」
「それで充分じゃないか?」
 なんの問題があるのだと、生真面目な顔でリュイセンが尋ねる。
「ですが、無責任でしょう?」
「そんなことはねぇぞ、ハオリュウ。俺たちが困っていたのは侵入方法だけだ。〈(ムスカ)〉さえ捕まえれば、タオロンは味方になってくれるはずだ。奴は信用できる」
 ルイフォンも、にやりと笑う。
 タオロンは、娘のファンルゥのために、誰よりも強く外の世界を望んでいる。
 ルイフォン自身、あの元気で優しい女の子を自由にしてやりたいと思う。そのためにも、この作戦は必ず成功させる必要があった。
「〈(ムスカ)〉の捕獲は、夜を待って行動に移す。摂政もハオリュウも帰ったあとだ。――余計な人間がいないほうが安全だし、ハオリュウが加担したと疑われることもない」
 手引きしてくれるハオリュウのことは、絶対に危険に晒さない。
 この場合の危険というのは、身体の危機ではなく、摂政の不興を買い、藤咲家に害が及ぶことだ。ハオリュウの双肩には家運が掛かっている。
「それまで俺たちは隠れていて、暗くなってから侵入したふうを装い、〈(ムスカ)〉の寝込みを襲う。〈(ムスカ)〉を捕獲したあとはタオロンに協力を願い、あいつの運転する車で脱出する。俺たちと〈(ムスカ)〉の姿は見えないようにして、私兵のタオロンだけ顔を出せば、近衛隊は通してくれるはずだ」
 猫の目をすうっと細め、ルイフォンは口の端を上げた。そして、リュイセンと無言で頷き合う。
 兄貴分は、覇気に満ちた、いい顔をしていた。それはきっとルイフォンも同じだろう。
(ムスカ)〉の件はうまくいく。その自信がある。
 だが――。
 ルイフォンは、ちらりとイーレオを見やった。
 先ほどと変わらない、泰然とした狸寝入り。はらりと掛かった長髪が、絶世の美貌を半分ほど隠す。
 ルイフォンの気配を察したのか、イーレオは静かに瞼を開いた。さらさらとした黒髪から垣間見える瞳は、海の底よりも深い闇色をしている。
 その目を見た瞬間、ルイフォンは確信した。
 イーレオもまた、ルイフォンと同じことを危惧している。それでいて、この場では静観……いや、そうではない。ルイフォンに任せているのだ。
 父の意を悟った彼は、ハオリュウに向き直る。
「ハオリュウ。〈(ムスカ)〉は必ず捕らえて連れてくる。大船に乗ったつもりでいてほしい。――けど、それより、お前のほうが心配だ」
 ルイフォンの硬いテノールが響いた。
 メイシアが花の(かんばせ)を強張らせながら、彼を後押しするように頷く。
 彼女はルイフォンの懸念を知っている。むしろ、彼女のほうが先に気づいていた。
 この『不自然な状況』から考えられる、『最悪の事態』について――ふたりで推測を交わし、ハオリュウに警告すると決めていた……。
「どうしたんですか、ルイフォン? 私が心配……?」
 きょとんと首をかしげる仕草は、歳相応の少年らしい、あどけなさが演出されていて、可愛らしくも見える綺麗な作り笑顔だった。
「ああ、心配だ」
「大丈夫ですよ。私は、カイウォル殿下と食事をするだけです。作法なら、物心つく前からきちんと……」
 にこやかに答える声を、ルイフォンが「誤魔化すなよ」と鋭く遮る。
「摂政は、あの庭園に〈(ムスカ)〉を(かくま)っている。――そんな場所に、お前を招いた。これは偶然なんかではあり得ないだろ?」
「……」
「必然のはずだ。『そこに〈(ムスカ)〉がいるから』こそ、摂政は、お前をあの庭園に呼んだ。――つまり、摂政との会食は、ただの食事会なんかじゃない。……『罠』だ!」


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 新月ならではの漆黒の夜空に、|数多《あまた》の星々が降り注ぐ。
 星明りの煌めきの音すら聞こえそうな静寂の中、闇に紛れるようにして、一台の黒塗りの車が走っていった。
 高い煉瓦の壁で覆われた、鷹刀一族の屋敷の門前で止まる。守りを任されている門衛たちは、緊張にごくりと喉を鳴らし、来訪者を注視した。
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 それは、決められたパターンを繰り返す、光の合図だった。
 相手を確認した門衛たちは、安堵の息をつく。会釈して門を開けると同時に、執務室へと連絡を急いだ。
 執務机の内線が鳴った瞬間、メイシアがびくりと肩を震わせた。
 素早く受話器を取ったミンウェイが、応答しながらメイシアを振り返り、優しく微笑む。
 刹那、メイシアの顔は、緊張に彩られつつも薔薇色に輝くという、なんとも不思議な表情を見せた。
 彼女の隣に座っていたルイフォンは立ち上がり、彼女の髪をくしゃりとする。
「迎えに行こうぜ?」
「あっ、うん!」
 差し伸べられたルイフォンの手を取り、メイシアは顔をほころばせる。そこにはもう、緊張の色はなかった。
 数日前。メイシアの異母弟、藤咲ハオリュウからの伝言を、警察隊員の緋扇シュアンが携えてきた。
 ハオリュウが、事実上の国の最高権力者である摂政に、食事の誘いを受けたのだという。
 それだけなら、|貴族《シャトーア》の世界では|稀《まれ》にあることだ。鷹刀一族のもとへと連絡するような案件ではない。
 だが、招かれた場所が問題だった。
〈|蝿《ムスカ》〉の潜伏場所と判明した庭園が、会食の会場だったのだ。
 この好機を活かす相談をしたい。――それが、ハオリュウからの用件だった。
 |貴族《シャトーア》が、|凶賊《ダリジィン》と懇意にしているところを目撃されれば、よからぬ陰謀の憶測を呼び寄せかねない。だからハオリュウは、今まで鷹刀一族との直接の接触は避けてきた。
 しかし、あと少しで〈|蝿《ムスカ》〉に手が届く。
 故に、今回ばかりは特別だった――。
 小走りになりながら、ルイフォンとメイシアが玄関に到着すると、ちょうど案内役のメイドが扉を開けたところであった。
「ハオリュウ! ――えっ……」
 喜色満面のメイシアの顔は、しかし、途中で曇った。
 声音と共に、目線が下がる。
 久しぶりに会う異母弟は、車椅子に乗っていた。緋扇シュアンに押してもらっている。
 確か、足の具合いは良好で、杖をつきながらであるが、自力で歩けるようになったと聞いていたのだが――。
「姉様! お元気そうでよかった」
 すっと顔を上げ、ハオリュウが嬉しそうに笑った。
 扉から流れてきた夜風が、彼の髪を揺らす。以前よりも短めにした髪型のせいか、ぐっと大人びて……。
「え……? ハオリュウ?」
 メイシアは耳を疑った。
 目の前の異母弟を凝視する。車椅子以上の驚きだった。
「やだな、姉様。照れくさいよ。一番、落ち着かないのは僕自身なんだから」
 気まずそうに視線をそらし、わずかにむくれる。彼がそんな態度を見せる相手は、唯一、最愛の異母姉だけだろう。
「ごめんなさい、ハオリュウ。でも……」
「分かっている。――『父様そっくり』なんでしょ? 僕の……声」
「……うん」
 その通りだった。
 ほんの数ヶ月前まで、少し苦しげなハスキーボイスを発していた異母弟の喉が、亡くなったふたりの父親にそっくりな音色を奏でていた。
 唐突な変化に、メイシアは戸惑う。当たり前のことなのに、心が素直に受け入れてくれない。
 彼女の困惑顔に、ハオリュウもまた困り顔となった。けれど、それは実に異母姉らしい反応ともいえて、やがて苦笑に変わる。彼は、いつまでも彼女の小さな異母弟ではないのだ。
「声だけじゃないよ、姉様」
 ハオリュウはシュアンに頼み、杖を出してもらう。車椅子を降りるらしい。
 歩けないわけではなかったの? と、目を丸くするメイシアの前で、彼は立ち上がった。すっと流れた空気の気配に、彼女は違和感を覚える。
「え?」
 ふたり向かい合って立てば、彼女の目の前に異母弟の顔があるはずだった。
「ハオリュウ……?」
「ああ、やっぱり。姉様の背を越えたね」
 そう言いながら、ハオリュウはくすりと笑う。屈託のない笑い声すら、以前とは比べ物にならないほど低くなっていて、メイシアはどうにも落ち着かない。
 そのとき、後ろから姉弟の再会を見守っていたルイフォンが、猫背を伸ばしながら、ふらりと前に出た。自然にメイシアの肩を抱き寄せ、くしゃりと髪を撫でる。
「ハオリュウ、久しぶりだな」
「ルイフォン。お久しぶりです」
 にこやかに微笑むハオリュウの視線は、異母姉の肩にあるルイフォンの手に注がれていた。『仲は認めたが、節度は守れ』との、言外の声が聞こえてくる。
 もともと歳に似合わぬ眼光を放つハオリュウだったが、目線が高くなったことによってより迫力が増していた。ルイフォンは、このままいけば将来的には身長を抜かれるな、などと思い、鼻に皺を寄せる。
「おい、ハオリュウ。メイシアを驚かすために、車椅子で来たのか? 足の調子が悪くなったかと、心配したぞ」
 悪趣味だぞ、と含ませながらも、決して責めているわけではない。
 にやりと口角を上げた顔は猫のような愛嬌があり、ルイフォンは軽口に混ぜて、メイシアが|抱《いだ》いているであろう疑問を、それとなく彼女に代わって尋ねていた。
「ああ、すみません。『リハビリを頑張りすぎて筋肉を痛めてしまったため、ドクターストップが掛かった』――」
「ああ、そうなのか。すまん、余計なことを……」
「――ということになっているんです」
「は?」
 ぽかんとするルイフォンに、ハオリュウが腹黒い笑みを浮かべた。
「この作戦で、鷹刀の方々に〈|蝿《ムスカ》〉のいる庭園に侵入していただきます」
「〈|蝿《ムスカ》〉の潜伏先は見つかったものの、場所が|王族《フェイラ》所轄の庭園で、近衛隊の警備が固くて侵入できない。――これが現在、私たちの抱えている問題でした」
 執務室に通されたハオリュウは、待ちかねていた一同への挨拶を済ませると、早々に口火を切った。
「ですが今回、私はその|王族《フェイラ》、すなわち摂政殿下ご本人から、|件《くだん》の庭園にお招きいただきました。――つまり、私と一緒であれば、堂々と侵入できます」
 落ち着き払ったハオリュウの声が、執務室に響き渡る。
 部屋の空気が、緊張を帯びた。
 リュイセンが腰を浮かせる。
 今まで暗礁に乗り上げていた船が、ふとした瞬間にあっけなく解放された。リュイセンには、そう感じられた。
「じゃあ、ハオリュウの護衛に紛れて行けば、あの庭園に入れるってわけか!」
 声を上ずらせながら、誰よりも先に叫ぶ。
 この半月ほど、リュイセンはずっと焦燥を溜め込み続けてきた。嬉々として身を乗り出し、早速、同行を申し出る。
 しかし、彼の父であるエルファンが、すかさず冷たい声を浴びせてきた。
「確かに、護衛に化ければ、門は通過できるだろう。だが、それだけだ」
 失笑混じりの物言いに、リュイセンは|眦《まなじり》を上げる。
「父上、『それだけ』とはなんですか!? 俺たちは門を守る近衛隊には手を出せませんが、中にいるのは〈|蝿《ムスカ》〉の私兵たちだけです。彼らを制圧し、〈|蝿《ムスカ》〉を捕らえることくらいわけな……」
「ハオリュウの立場を考えろ」
 言葉の途中で、鋭い叱責が飛んだ。
「連れてきた護衛の行動は、ハオリュウの責任になる。摂政の目の前で暴れるなど、もってのほか。途中で姿を消して秘密裏に動いたところで、護衛の人数が減っていれば問題になるだろう」
「!」
「摂政からの招待はチャンスだが、下手をすればハオリュウを危険に晒す。そのことをまず、肝に銘じろ」
 厳しい声に、リュイセンの高揚した気分は、一瞬にして打ち砕かれた。
「そりゃ、そうだよな。安易にすまん、ハオリュウ……」
 乾いた声で律儀に謝りながら、リュイセンはうなだれる。
 ルイフォンは、そんなやり取りを横目に見ながら、じっと父イーレオを観察していた。
 一族の総帥は、相変わらず自分だけ、ひとり掛けのソファーで優雅に足を組んでいた。肘掛けで頬杖を付き、眼鏡の奥の瞳は軽く閉じている。
 気配から起きているのは分かるが、どう見ても居眠りをしているようにしか見えない。超然とした態度で、傍観を決め込むらしい。エルファンに任せているのだと、なんとなく察せられた。
 実は、ハオリュウから連絡があったとき、イーレオは苦い顔をした。
 せっかくの好機にどういうことだと、ルイフォンはずっと気になっていた。わずかながら、不信感も|抱《いだ》いた。何しろイーレオは、これまでいろいろと隠しごとをしてきたのだから。
 しかし、いざハオリュウを目の前にした様子を見ると、分かる。
 イーレオは、純粋にハオリュウを心配している。
 理由はおそらく、不穏な動きをする摂政への警戒。
 摂政に関しては、ルイフォンだって激しく警鐘を鳴らしている。|如何《いか》にも災いの火種になりそうだ、と。
 だが、守ってばかりでは進めない。ここは攻めるべきなのだ――。
 そんなふうに思考を巡らせていると、ハオリュウの声が耳に飛び込んできた。
「まぁ、リュイセンさん。落ち着いてください」
 気を悪くしたふうもなく、ハオリュウは穏やかに微笑んでいた。
 リュイセンの気がはやるのはミンウェイのため。ハオリュウも、それを知っているのだ。
「エルファンさんのおっしゃる通り、単純に私と共に侵入するのでは、自由に行動できません。当然、策を講じる必要があります。――それと、そもそも護衛は同行できません」
「え?」
 声を上げたのはリュイセンであったが、メイシアとハオリュウの姉弟以外には疑問だった。皆の視線が、いっせいに問う。
「護衛は、いわば武装です。摂政殿下の私邸に招かれた場合、護衛は門のところで待たせるのが臣下としての礼儀となります」
「……|貴族《シャトーア》ってやつは、|面倒臭《めんどくせ》ぇな」
 癖のある前髪を掻き上げ、ルイフォンはぼそりと漏らす。そのあまりに率直な感想に、ハオリュウは苦笑した。
「ええ。ですから、姉様には自由であってほしくて、あなたに託したんですよ?」
 裏のありそうな――否、紛うことなく『姉様を不幸にしたら許さない』との念を込めた眼差しで、ルイフォンを見やる。
 思わぬ方向に返してきたなと思いつつ、ルイフォンは、にやりと余裕の笑みを浮かべた。
「ああ。安心して任せろ」
 そう言いながら、隣に座るメイシアを抱き寄せようとして、ルイフォンは動きを止めた。玄関で見た、ハオリュウの眼光を思い出したのだ。
 ここで無駄にハオリュウを刺激しても仕方ないだろう。
 中途半端な位置で止めた手を持て余し、さてどうしようか、と悩んだところで、なんと、その手をメイシアが握ってきた。指先のほうを遠慮がちに、ではあるが、しっかりと。
 そして彼女は、じっと異母弟を見る。
「……!」
 ハオリュウが目に見えてうろたえ、視線をそらした。
 ルイフォンもまた、絶句する。
 ――なんか、すまん……。
 ハオリュウが可哀想になった。しかも、話が完全に脱線している。
 場を取り繕うべく、ルイフォンはこほんと咳払いをして、そっと膝に手を戻した。
「ハオリュウ、策があるんだろ? お前が車椅子を使っている理由、ってやつ。もったいつけずに、早く教えろよ」
 水を向けてやると、ハオリュウは感謝のような、嫉妬のような――微妙な表情を浮かべ……しかし、すぐに頭を切り替えたようだった。
 彼は皆へと向き直り、軽く会釈してから口を開く。
「今回の会食は、若くして当主となった私を激励し、親睦を深めたいとの、摂政殿下のお心遣いです。極めて私的なもので、『摂政殿下』ではなく、『|再従兄弟《はとこ》のカイウォル殿下』としてのお立場をとられています。ですから、後見人の大叔父も同席しません」
 ハオリュウは、そこで一度、言葉を切った。そして、皆に正確に伝わるよう、ゆっくりと丁寧に続ける。
「カイウォル殿下としては、ふたりきりで胸襟を開いて語り合おう、という意図なのでしょう。けれど、『若輩者の、お飾り当主』は、意気地なしで、事実上の国の最高権力者とふたりきりなんて、とてもとても耐えられないのです」
「……は?」
 ルイフォンが|呆《ほう》けた声を漏らした。いったい何処に、『若輩者の、お飾り当主』がいるのだ? と。
 それは彼だけではなく、誰もが思ったことだろう。
 皆の反応を楽しむかのように、ハオリュウは清々しいまでに、にこやかな腹黒い笑顔を浮かべた。
「そこで、当主は一計を案じるのです。『都合の良いことに、自分は足が不自由だ。だから介助の人間が必要だと、殿下に申し上げよう』――と」
「それで、車椅子か!」
 合点がいったと、ルイフォンは、ぽんと手を打つ。だがすぐに、疑問が生じた。
「けど、介助者にいったい、なんの意味がある? 別にお前は、摂政とふたりきりになることを、本気で恐れているわけじゃないだろ?」
 介助者では、〈|蝿《ムスカ》〉に対してなんの行動を取ることもできない。先ほど話に出た護衛と同じで、ハオリュウのそばを離れられないからだ。
「介助の者に意味はありませんよ。ただ、カイウォル殿下には、私が『心細さから、ひとりで行くのを恐れている』と思っていただきたいのです。『付き添いを許可してもらうため』に、足が悪いという名目を使った、と」
「――で? お前の真意は?」
 声を潜め、ルイフォンが尋ねる。
「『車』ですよ」
 ハオリュウはそう言って、口元を歪めた。底知れぬ漆黒の瞳が、実に楽しげに細められ、一同はごくりと唾を呑む。
「あの庭園は菖蒲が見事で、ちょうど花が盛りだから、とカイウォル殿下に誘われました。一緒に散策でも、と思われたのでしょう。――けれど、あいにく、私には足場の悪い遊歩道なんて、とても無理。なのに、あろうことか、あの庭園は全体的に起伏のある、なだらかな坂の地形なのです」
 ハオリュウは、含み笑いをしながら、ゆっくりと瞳を巡らせる。
「そう申し上げて、会食の会場になっている奥の館まで、『車』を乗り付ける許可をいただきましたよ。本来なら、臣下は門で、車を降りるべきところを、ね」
 護衛と同様、車も門まで。
 門から先は、摂政の領域であるから――。
 ……それを、『足が悪い』という不幸を利用して、覆す。
「――!」
 ルイフォンは、はっと猫の目を見開いた。『車』の意味を解したのだ。ハオリュウの柔軟さに舌を巻く。
「なるほど。考えたな、ハオリュウ……」
 ルイフォンの感嘆の声に、「さすが、ルイフォン。分かりましたか」と、ハオリュウが重々しく頷く。
「後部座席の下に、人が隠れられるような細工をします。近衛隊も、摂政殿下に招かれた|貴族《シャトーア》の車なら、チェックも甘いでしょう。――『車』に注目されないために、『付き添いの介助者』のほうを強調して、話を通しましたからね」
「つまり……」
 ルイフォンに遅れて理解したリュイセンが、興奮に顔を上気させた。気持ちは高ぶり、声には震えすら帯びる。
「〈|蝿《ムスカ》〉捕獲要員は、車の中に隠れて、姿を見られないようにして庭園内に侵入する、ってことか……!」
「そういうことです」
 ハオリュウの腹黒い笑顔が広がった。
 華麗に披露された作戦の全貌に、一同は水を打ったように静まり返り、ひと呼吸置いて、沸き立つ。
「ハオリュウ、凄いな! これで〈|蝿《ムスカ》〉を捕獲できるぞ!」
 リュイセンが目を見開き、諸手を挙げて称賛する。
「ええ。ですが、条件がふたつあります」
 ハオリュウは、厳しい声で言い放ち、わずかに眉を曇らせた。
「車に隠れられるのは、せいぜいふたりです。たったふたりで〈|蝿《ムスカ》〉の私兵を退け、〈|蝿《ムスカ》〉を捕獲しなければなりません」
「戦力なら、俺ひとりで充分だ。あとは、監視カメラからの情報を得たいから、ルイフォンをつけてくれればいい」
『神速の双刀使い』リュイセンは、無用の憂慮と笑い飛ばす。すっかり彼とルイフォンで行くつもりのようだが、妥当な人選といえよう。
 ハオリュウもこの流れは読んでいたのか、特に異論はないようだった。しかし、次の条件を言う口は重かった。
「そして、もう一点。申し訳ないのですが、私にできるのは、たったふたりの人間を『館の中まで連れていく』ことだけです。脱出については、斑目タオロン氏が協力してくれることに賭けるしかありません」
「それで充分じゃないか?」
 なんの問題があるのだと、生真面目な顔でリュイセンが尋ねる。
「ですが、無責任でしょう?」
「そんなことはねぇぞ、ハオリュウ。俺たちが困っていたのは侵入方法だけだ。〈|蝿《ムスカ》〉さえ捕まえれば、タオロンは味方になってくれるはずだ。奴は信用できる」
 ルイフォンも、にやりと笑う。
 タオロンは、娘のファンルゥのために、誰よりも強く外の世界を望んでいる。
 ルイフォン自身、あの元気で優しい女の子を自由にしてやりたいと思う。そのためにも、この作戦は必ず成功させる必要があった。
「〈|蝿《ムスカ》〉の捕獲は、夜を待って行動に移す。摂政もハオリュウも帰ったあとだ。――余計な人間がいないほうが安全だし、ハオリュウが加担したと疑われることもない」
 手引きしてくれるハオリュウのことは、絶対に危険に晒さない。
 この場合の危険というのは、身体の危機ではなく、摂政の不興を買い、藤咲家に害が及ぶことだ。ハオリュウの双肩には家運が掛かっている。
「それまで俺たちは隠れていて、暗くなってから侵入したふうを装い、〈|蝿《ムスカ》〉の寝込みを襲う。〈|蝿《ムスカ》〉を捕獲したあとはタオロンに協力を願い、あいつの運転する車で脱出する。俺たちと〈|蝿《ムスカ》〉の姿は見えないようにして、私兵のタオロンだけ顔を出せば、近衛隊は通してくれるはずだ」
 猫の目をすうっと細め、ルイフォンは口の端を上げた。そして、リュイセンと無言で頷き合う。
 兄貴分は、覇気に満ちた、いい顔をしていた。それはきっとルイフォンも同じだろう。
〈|蝿《ムスカ》〉の件はうまくいく。その自信がある。
 だが――。
 ルイフォンは、ちらりとイーレオを見やった。
 先ほどと変わらない、泰然とした狸寝入り。はらりと掛かった長髪が、絶世の美貌を半分ほど隠す。
 ルイフォンの気配を察したのか、イーレオは静かに瞼を開いた。さらさらとした黒髪から垣間見える瞳は、海の底よりも深い闇色をしている。
 その目を見た瞬間、ルイフォンは確信した。
 イーレオもまた、ルイフォンと同じことを危惧している。それでいて、この場では静観……いや、そうではない。ルイフォンに任せているのだ。
 父の意を悟った彼は、ハオリュウに向き直る。
「ハオリュウ。〈|蝿《ムスカ》〉は必ず捕らえて連れてくる。大船に乗ったつもりでいてほしい。――けど、それより、お前のほうが心配だ」
 ルイフォンの硬いテノールが響いた。
 メイシアが花の|顔《かんばせ》を強張らせながら、彼を後押しするように頷く。
 彼女はルイフォンの懸念を知っている。むしろ、彼女のほうが先に気づいていた。
 この『不自然な状況』から考えられる、『最悪の事態』について――ふたりで推測を交わし、ハオリュウに警告すると決めていた……。
「どうしたんですか、ルイフォン? 私が心配……?」
 きょとんと首をかしげる仕草は、歳相応の少年らしい、あどけなさが演出されていて、可愛らしくも見える綺麗な作り笑顔だった。
「ああ、心配だ」
「大丈夫ですよ。私は、カイウォル殿下と食事をするだけです。作法なら、物心つく前からきちんと……」
 にこやかに答える声を、ルイフォンが「誤魔化すなよ」と鋭く遮る。
「摂政は、あの庭園に〈|蝿《ムスカ》〉を|匿《かくま》っている。――そんな場所に、お前を招いた。これは偶然なんかではあり得ないだろ?」
「……」
「必然のはずだ。『そこに〈|蝿《ムスカ》〉がいるから』こそ、摂政は、お前をあの庭園に呼んだ。――つまり、摂政との会食は、ただの食事会なんかじゃない。……『罠』だ!」