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#7 Red

8/11





 フィリオがレイネと出会ってから一ヵ月の時が過ぎた。二人の家の花壇に植えられた赤い薔薇はもうすっかり咲いている。春から夏に少しずつ変わっていく季節の中で、それは謙虚に、それでいて凛としていた。 「レイネ、どう?」  二人はしゃがんで、花壇の薔薇をひたすらにまじまじと見ていた。 「……きれい」  レイネは薔薇の花をやたらと気に入っている様子だった。 「そっか、君は薔薇が好きなのか。それじゃ、今日はそれを描くよ。君が綺麗って言ってくれた、この薔薇をね」  彼はそう言ってアトリエから道具一式を持ち出した。彼のポケットから、いくつもの筆が顔を覗かせている。 「さ、始めますか」  フィリオは繊細なタッチの絵を得意としている。溶き油を多めに使用して、徐々に、そして丁寧に色を重ねていく。それが彼のスタイルだ。 「絵ってのは、言わばモチーフとの対話だ。それを描くことで、性格や表情なんかが見えてくる。自分が知らなかった心の扉が開かれる事だってあるかもしれない。奥が深いもんだよ」 「たいわ?」 「そう、絵のモチーフと会話するんだ」 「ばら……しゃべれるの?」 「んー、なんていうか、僕が思うに、この世界のありとあらゆる物には魂が宿っていると思うんだ。これは僕の魂と薔薇の魂との、魂の会話。口で喋る会話とはちょっと違う」  こんな事を言いながら、彼は顔の大きさほどのキャンバスにどんどん下書きを描き進めていく。  暫くすると彼はモチーフに色を付け始めた。赤い絵の具をパレットに置いて、溶かしてからキャンバスに色を乗せていく。 「きれい」  レイネが呟いた。それは薔薇そのものに対してではなく、フィリオの絵に対しての言葉だった。 「……ありがとう、レイネ」    フィリオの育ての父ジタンは、ある時彼に言った。「絵は人の心を表すものだ」と。彼はその言葉を深く胸に刻んでいた。それ故に彼は、彼女の純粋な感想が妙に嬉しかったのだ。 「いろ、たくさん」    レイネは彼が右手に持つパレットに注目した。   「絵の具ひとつとっても面白くてさ、油とか石とかを混ぜて作ってある。筆は鹿の毛が使われてる」 「……んー」  レイネは分かった様な分からない様な、そんな顔をして、黙々と絵を描き続ける彼の姿を見ていた。  彼はパレットナイフで油絵の具を混ぜ合わせ、色を作っている。 「いろ、まざる……」   「興味あるか? レイネ。じゃあこれと、これを混ぜたら、どうなるでしょうか……?」 フィリオは赤と青の油絵の具をパレットに出した。 「ん……」  レイネは膝を抱えて座りながら、彼のパレットに釘付けになっていた。 「ほら、紫になった。どうだ?面白いだろ?」  フィリオは彼女に歯を見せて笑いかけると、彼女は二人が出会ってから一番の、とびきりの笑顔を彼に返した。 「……おもしろい」  二人の間になんてことない会話が繰り広げられた。  彼はこの時間が好きだった。なんてことない、この特別な時間が。 「レイネ、薔薇の匂いを嗅いでみな。いい匂いがするからさ」 「におい……」  レイネは恐る恐る自分の鼻を薔薇に近づけた。 「どう?」 「いい、におい」  レイネは薔薇の香りを感じて言った。その後も彼女は真紅の薔薇に見惚れていた。まるで薔薇の香りと言う名の魔法にかかってしまったかのように。  それから三日後の朝のことだった。その日は、フィリオがアトリエで早朝から薔薇の絵の仕上げの作業をしていた。 「レイネ、おはよう」  二階からレイネが階段を降りてくる音に気付いた彼が言った。 「そのえ……すき」  レイネがフィリオが仕上げている絵を指差して呟く。 「そう、それは良かった」  フィリオは誇らしげにそう言いながら、左手に持っていた丸筆をポケットに戻して、代わりにペインティングナイフを取り出した。  やがて、初めは純白だったキャンバスに鮮やかな赤色の薔薇が浮かび上がった。  無限に広がり、絶え間なく動くこの世界の中で、小さな街の小さな生命が、そこに切り取られた。それはこの薔薇にとって、確かにここに居たという生きた証でもあった。 「よし、と。あとは乾かすだけだ。レイネ、この絵は君にプレゼントするよ」  フィリオは鼻を指で擦りながらそう言った。彼は元々その絵をいつものように売ろうと考えていた。だが、レイネの薔薇の絵に対する気持ちを感じ取った彼は、それを彼女に渡すのが一番良いと思ったのだ。ジタンはある時、絵を描いているフィリオに言った。「いつかお前が絵描きになって生活する時が来たら、時が来たら、自分の絵を何よりも愛してくれる人に売りなさい」と。 「これ、くれるの?」 「うん。好きって言ってくれたし、君にはその絵が似合ってると思うから」 「……うれしい、ありがとう」  太陽の様な笑顔を見せるレイネ。それを見たフィリオは、自分が絵描きである事を誇りに思うのだった。



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 フィリオがレイネと出会ってから一ヵ月の時が過ぎた。二人の家の花壇に植えられた赤い薔薇はもうすっかり咲いている。春から夏に少しずつ変わっていく季節の中で、それは謙虚に、それでいて凛としていた。 「レイネ、どう?」  二人はしゃがんで、花壇の薔薇をひたすらにまじまじと見ていた。 「……きれい」  レイネは薔薇の花をやたらと気に入っている様子だった。 「そっか、君は薔薇が好きなのか。それじゃ、今日はそれを描くよ。君が綺麗って言ってくれた、この薔薇をね」  彼はそう言ってアトリエから道具一式を持ち出した。彼のポケットから、いくつもの筆が顔を覗かせている。 「さ、始めますか」  フィリオは繊細なタッチの絵を得意としている。溶き油を多めに使用して、徐々に、そして丁寧に色を重ねていく。それが彼のスタイルだ。 「絵ってのは、言わばモチーフとの対話だ。それを描くことで、性格や表情なんかが見えてくる。自分が知らなかった心の扉が開かれる事だってあるかもしれない。奥が深いもんだよ」 「たいわ?」 「そう、絵のモチーフと会話するんだ」 「ばら……しゃべれるの?」 「んー、なんていうか、僕が思うに、この世界のありとあらゆる物には魂が宿っていると思うんだ。これは僕の魂と薔薇の魂との、魂の会話。口で喋る会話とはちょっと違う」  こんな事を言いながら、彼は顔の大きさほどのキャンバスにどんどん下書きを描き進めていく。  暫くすると彼はモチーフに色を付け始めた。赤い絵の具をパレットに置いて、溶かしてからキャンバスに色を乗せていく。 「きれい」  レイネが呟いた。それは薔薇そのものに対してではなく、フィリオの絵に対しての言葉だった。 「……ありがとう、レイネ」    フィリオの育ての父ジタンは、ある時彼に言った。「絵は人の心を表すものだ」と。彼はその言葉を深く胸に刻んでいた。それ故に彼は、彼女の純粋な感想が妙に嬉しかったのだ。 「いろ、たくさん」    レイネは彼が右手に持つパレットに注目した。   「絵の具ひとつとっても面白くてさ、油とか石とかを混ぜて作ってある。筆は鹿の毛が使われてる」 「……んー」  レイネは分かった様な分からない様な、そんな顔をして、黙々と絵を描き続ける彼の姿を見ていた。  彼はパレットナイフで油絵の具を混ぜ合わせ、色を作っている。 「いろ、まざる……」   「興味あるか? レイネ。じゃあこれと、これを混ぜたら、どうなるでしょうか……?」 フィリオは赤と青の油絵の具をパレットに出した。 「ん……」  レイネは膝を抱えて座りながら、彼のパレットに釘付けになっていた。 「ほら、紫になった。どうだ?面白いだろ?」  フィリオは彼女に歯を見せて笑いかけると、彼女は二人が出会ってから一番の、とびきりの笑顔を彼に返した。 「……おもしろい」  二人の間になんてことない会話が繰り広げられた。  彼はこの時間が好きだった。なんてことない、この特別な時間が。 「レイネ、薔薇の匂いを嗅いでみな。いい匂いがするからさ」 「におい……」  レイネは恐る恐る自分の鼻を薔薇に近づけた。 「どう?」 「いい、におい」  レイネは薔薇の香りを感じて言った。その後も彼女は真紅の薔薇に見惚れていた。まるで薔薇の香りと言う名の魔法にかかってしまったかのように。  それから三日後の朝のことだった。その日は、フィリオがアトリエで早朝から薔薇の絵の仕上げの作業をしていた。 「レイネ、おはよう」  二階からレイネが階段を降りてくる音に気付いた彼が言った。 「そのえ……すき」  レイネがフィリオが仕上げている絵を指差して呟く。 「そう、それは良かった」  フィリオは誇らしげにそう言いながら、左手に持っていた丸筆をポケットに戻して、代わりにペインティングナイフを取り出した。  やがて、初めは純白だったキャンバスに鮮やかな赤色の薔薇が浮かび上がった。  無限に広がり、絶え間なく動くこの世界の中で、小さな街の小さな生命が、そこに切り取られた。それはこの薔薇にとって、確かにここに居たという生きた証でもあった。 「よし、と。あとは乾かすだけだ。レイネ、この絵は君にプレゼントするよ」  フィリオは鼻を指で擦りながらそう言った。彼は元々その絵をいつものように売ろうと考えていた。だが、レイネの薔薇の絵に対する気持ちを感じ取った彼は、それを彼女に渡すのが一番良いと思ったのだ。ジタンはある時、絵を描いているフィリオに言った。「いつかお前が絵描きになって生活する時が来たら、時が来たら、自分の絵を何よりも愛してくれる人に売りなさい」と。 「これ、くれるの?」 「うん。好きって言ってくれたし、君にはその絵が似合ってると思うから」 「……うれしい、ありがとう」  太陽の様な笑顔を見せるレイネ。それを見たフィリオは、自分が絵描きである事を誇りに思うのだった。



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