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#6 Blue

7/11





 レイネはあれから一階のアトリエによく来るようになった。彼女にとっては絵という文化さえも鮮烈に感じられるのだろう。  ある日彼女が二階から降りてきて、朝からずっと池の絵の仕上げをしているフィリオに尋ねた。 「え、いつできるの?」 レイネは答えた。   「んー……いつ出来上がるかは僕にも分からないや」 「わからない?」 「うん。絵は人みたいなもんで、描いて育てていくたびに表情が変わるんだ。でも、完璧な状態で作品を作りたい。そこはこだわっておきたいんだ」  そう言ってる間も、フィリオは筆を止めなかった。彼の真剣な表情を見たレイネは、彼の邪魔をしてはいけないと思ったのか、ただ黙って彼の姿をじっと眺めていた。 「……」  彼は黙々と絵を見つめ、苦しそうな表情を浮かべながら足を揺すった。 「……」  フィリオの筆はずっと止まっている。 「……」  彼は黙り込んだまま、左手をゆっくりと下ろした。 「どうしたの?」  レイネが心配した様子で尋ねる。 「んー……やっぱ違うな」  フィリオはそう言いながら筆を床に落とし、短い黒髪を掻いた。 「あー、こんな時は次だ次! 別の絵の題材探し!」  フィリオはそう言って立ち上がった。彼が座っていた椅子が彼の足に当たって後ろにずれた。レイネはその音に驚いて目を丸くした。 「レイネ、こういう時は気分転換だ! 今からどっか行こう!」 「あ……うん」  フィリオは絵の制作に行き詰まり悩んだ時にはすぐ散歩に出かける。思い切って気分転換する目論みだ。彼はさっきとは打って変わり、開き直って晴れやかな表情をして、池の絵の仕上げに使っていた筆達を水バケツに入れて洗った。それから彼は急いで洗い終わった筆をポケットに入れ、真っ白なキャンバスといつもの画材達を持ってレイネに言った。 「さぁレイネ、今から散歩行くけど、来るか?」  フィリオは少し早い口調でそう言った。 「……わかった……いく」  レイネは頷いた。  二人が街に出ると、頭上には綺麗な青空が広がっていた。フィリオは空を見上げて深呼吸をした。空にはゆったりと白い雲が流れている。  そして彼は歩き出した。 「ちょっとまって……」  レイネはそう言ってフィリオを追いかけた。  二人は街を歩いた。止まらずに歩き続けた。  ここも違う。  ここも違う。  レイネはフィリオの後ろをずっと追いかけて、その細い脚を動かし続けていた。  二人の息が荒くなってきた。疲れが見え始める。  どうしたものだろうか。フィリオはなかなか良い題材が決まらないまま、レイネと共に街を一周して家の前まで来てしまった。 「つか……れた」  レイネが地面にしゃがみ込んだ。 「……ごめんレイネ。僕ちょっと焦ってたみたいだ……焦っていても何もいい事はない。分かっていても、中々うまくいかないものだな」  そう言ってフィリオはもう一度空を見上げて深呼吸する。風の音がどこからか聞こえてくる。 「そうか。空か」  彼はふと、ある大切な人を思い出した。それは彼が十歳の頃に遡る。  フィリオは両親を幼い頃に病気で亡くし、それから身寄りのない彼はジタンという男とその妻に引き取られた。フィリオは彼を「父さん」その妻を「母さん」と呼んだ。ジタンは油絵画家を生業としていた。「フィリオ、空を見てごらん。空ってのはいつも俺達を見守ってくれる。そして時間によって表情を多様に変える。自然が生み出した最高の芸術だよ」彼はいつもフィリオにそう言っていた。彼はジタンの描く絵が大好きだった。  ある日フィリオは、街角で絵を描いているジタンに尋ねた。「どうしていつもこの街の絵を描くの?」と。彼は答えた。「この街が、この世界が好きだから」そう言う彼にフィリオはいつしか憧れを抱くようになり、それから彼はジタンに油絵を教わるようになった。  しかし約一年後、ジタンは病気でこの世を去ってしまった。フィリオはそれでも悲しみを乗り越え、絵を描き続けた。彼もまたこの街を、この世界を愛していたからだ。 「そうだ。僕はこの世界が好きだったんだ。この頃ずっと絵に縛られて、大切な事を忘れてた。よし! 今日はこの青空を描こう」  フィリオはそう言って笑顔を空に送り、荷物を置いて腕を目一杯上に伸ばした。 「今日は海も綺麗だな……そうだ、どっちも描いてやるか!」  そしてフィリオとレイネの二人は海にやってきた。空と海。青く広がり続ける両者は、それぞれ違う青を映し出している。フィリオはそんな風景に惹かれてここへやってきた。レイネは疲れからか、大きく息を吐いてその場に座り込んだ。 「レイネ、今日は本当にごめん。結構無理させちゃったな」  フィリオがそんなレイネの姿を見て謝る。 「うみ……」  レイネが呟く。ここは二人が出会った、あの砂浜だ。 「そっか、ここは僕たちの出会いの浜辺か。最近の事なのに、もう随分と昔の事みたいだな……どこを聞いて回っても君についての情報は一個も出てこないし……しばらくはうちに居ることになるのかな」  フィリオがイーゼルを立てながら言った。   「いっしょに……いたい」 「……」  レイネの突然の発言にフィリオは言葉が出なかった。フィリオはキャンバスをイーゼルに置いて、空を眺めて言った。 「レイネ、出会いがあれば……いつかは別れが来る。みんなそうなんだ……だから、いつまでも一緒にはいられない」  フィリオは悲壮な顔をして言った。 「わかれ?」 「離れ離れになるって事さ。別れは突然やってくる。だから今と言う時間を大切に生きていくのが大事なんだ」  彼はそう言ってから、ポケットに入れた筆を取り出した。 「さ、描きますか」  波の音だけが二人を包む。  彼の描く線は、彼の愛した世界を映し出していった。



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 レイネはあれから一階のアトリエによく来るようになった。彼女にとっては絵という文化さえも鮮烈に感じられるのだろう。  ある日彼女が二階から降りてきて、朝からずっと池の絵の仕上げをしているフィリオに尋ねた。 「え、いつできるの?」 レイネは答えた。   「んー……いつ出来上がるかは僕にも分からないや」 「わからない?」 「うん。絵は人みたいなもんで、描いて育てていくたびに表情が変わるんだ。でも、完璧な状態で作品を作りたい。そこはこだわっておきたいんだ」  そう言ってる間も、フィリオは筆を止めなかった。彼の真剣な表情を見たレイネは、彼の邪魔をしてはいけないと思ったのか、ただ黙って彼の姿をじっと眺めていた。 「……」  彼は黙々と絵を見つめ、苦しそうな表情を浮かべながら足を揺すった。 「……」  フィリオの筆はずっと止まっている。 「……」  彼は黙り込んだまま、左手をゆっくりと下ろした。 「どうしたの?」  レイネが心配した様子で尋ねる。 「んー……やっぱ違うな」  フィリオはそう言いながら筆を床に落とし、短い黒髪を掻いた。 「あー、こんな時は次だ次! 別の絵の題材探し!」  フィリオはそう言って立ち上がった。彼が座っていた椅子が彼の足に当たって後ろにずれた。レイネはその音に驚いて目を丸くした。 「レイネ、こういう時は気分転換だ! 今からどっか行こう!」 「あ……うん」  フィリオは絵の制作に行き詰まり悩んだ時にはすぐ散歩に出かける。思い切って気分転換する目論みだ。彼はさっきとは打って変わり、開き直って晴れやかな表情をして、池の絵の仕上げに使っていた筆達を水バケツに入れて洗った。それから彼は急いで洗い終わった筆をポケットに入れ、真っ白なキャンバスといつもの画材達を持ってレイネに言った。 「さぁレイネ、今から散歩行くけど、来るか?」  フィリオは少し早い口調でそう言った。 「……わかった……いく」  レイネは頷いた。  二人が街に出ると、頭上には綺麗な青空が広がっていた。フィリオは空を見上げて深呼吸をした。空にはゆったりと白い雲が流れている。  そして彼は歩き出した。 「ちょっとまって……」  レイネはそう言ってフィリオを追いかけた。  二人は街を歩いた。止まらずに歩き続けた。  ここも違う。  ここも違う。  レイネはフィリオの後ろをずっと追いかけて、その細い脚を動かし続けていた。  二人の息が荒くなってきた。疲れが見え始める。  どうしたものだろうか。フィリオはなかなか良い題材が決まらないまま、レイネと共に街を一周して家の前まで来てしまった。 「つか……れた」  レイネが地面にしゃがみ込んだ。 「……ごめんレイネ。僕ちょっと焦ってたみたいだ……焦っていても何もいい事はない。分かっていても、中々うまくいかないものだな」  そう言ってフィリオはもう一度空を見上げて深呼吸する。風の音がどこからか聞こえてくる。 「そうか。空か」  彼はふと、ある大切な人を思い出した。それは彼が十歳の頃に遡る。  フィリオは両親を幼い頃に病気で亡くし、それから身寄りのない彼はジタンという男とその妻に引き取られた。フィリオは彼を「父さん」その妻を「母さん」と呼んだ。ジタンは油絵画家を生業としていた。「フィリオ、空を見てごらん。空ってのはいつも俺達を見守ってくれる。そして時間によって表情を多様に変える。自然が生み出した最高の芸術だよ」彼はいつもフィリオにそう言っていた。彼はジタンの描く絵が大好きだった。  ある日フィリオは、街角で絵を描いているジタンに尋ねた。「どうしていつもこの街の絵を描くの?」と。彼は答えた。「この街が、この世界が好きだから」そう言う彼にフィリオはいつしか憧れを抱くようになり、それから彼はジタンに油絵を教わるようになった。  しかし約一年後、ジタンは病気でこの世を去ってしまった。フィリオはそれでも悲しみを乗り越え、絵を描き続けた。彼もまたこの街を、この世界を愛していたからだ。 「そうだ。僕はこの世界が好きだったんだ。この頃ずっと絵に縛られて、大切な事を忘れてた。よし! 今日はこの青空を描こう」  フィリオはそう言って笑顔を空に送り、荷物を置いて腕を目一杯上に伸ばした。 「今日は海も綺麗だな……そうだ、どっちも描いてやるか!」  そしてフィリオとレイネの二人は海にやってきた。空と海。青く広がり続ける両者は、それぞれ違う青を映し出している。フィリオはそんな風景に惹かれてここへやってきた。レイネは疲れからか、大きく息を吐いてその場に座り込んだ。 「レイネ、今日は本当にごめん。結構無理させちゃったな」  フィリオがそんなレイネの姿を見て謝る。 「うみ……」  レイネが呟く。ここは二人が出会った、あの砂浜だ。 「そっか、ここは僕たちの出会いの浜辺か。最近の事なのに、もう随分と昔の事みたいだな……どこを聞いて回っても君についての情報は一個も出てこないし……しばらくはうちに居ることになるのかな」  フィリオがイーゼルを立てながら言った。   「いっしょに……いたい」 「……」  レイネの突然の発言にフィリオは言葉が出なかった。フィリオはキャンバスをイーゼルに置いて、空を眺めて言った。 「レイネ、出会いがあれば……いつかは別れが来る。みんなそうなんだ……だから、いつまでも一緒にはいられない」  フィリオは悲壮な顔をして言った。 「わかれ?」 「離れ離れになるって事さ。別れは突然やってくる。だから今と言う時間を大切に生きていくのが大事なんだ」  彼はそう言ってから、ポケットに入れた筆を取り出した。 「さ、描きますか」  波の音だけが二人を包む。  彼の描く線は、彼の愛した世界を映し出していった。



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