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それから、宿舎の場所や、簡単な日程の説明があって、正式に匠が代理コーチを引き受けるという話がまとまると、利玖はリュックサックを背負って立ち上がった。 「あれ、もう帰るの?」 利玖は頷く。 「この後、人と会う予定がありまして」 「へえ、珍しいね。誰だっけ……、そうだ、阿智さんって子?」 「いえ」 この予想は外さないだろうと思っていたので、匠は驚いたが、続く利玖の言葉に危うく口に含んだコーヒーを噴き出しそうになった。 「熊野史岐と食事をしてきます」 「うっ」 むせる匠を見て、汐子の目がわずかに大きくなる。それは、彼女がこの研究室に来てから初めてはっきりと感情を露わにした瞬間だった。 約束の時間が迫っているのか、利玖は、コーヒーカップを持ったまま呆然としている匠を残してさっさと研究室を出て行った。 「えっと……」 まだ椅子に座っている汐子と目が合うと、突然、匠は立ち上がった。 研究室に備え付けの流し場に行って、蛇口に掛かった布巾を取り、水道水で濡らして絞ると、それを持って再び汐子の前に戻ってきて、実験台を拭き始めた。 「汐子さん、煙草は吸う?」 「いえ」 「あ、そう……」 一定のリズムで左右に動いている自分の手を見ながら、これは一体どういう事か、と考える。ウェブページの読み込み中に表示される単純な円運動に近い物かもしれない。 「じゃあ……、悪いけど、ちょっとここで待っていてもらえるかな。暇だったら、その辺に貼ってある発表会のポスターとか、見ていていいから」 汐子は、こくっと頷いた。 匠は、すすいだ布巾を元の場所に掛け直すと、煙草とライターを持って研究室を出た。
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