ヒバル:歴史の塵(1/3)
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小説家、ダミアン・ラムラスが溺死寸前で救出されたのは昨日夜のことである。 連絡を受けたリョースケの動きは早かったが、病室に入ることができたのは翌日のことだった。部下の一人であるシドーが「洋上賃貸」付近の海に異物が浮かんでいるのを発見、それがダミアン・ラムラス氏本人であった。 急ぎ救出の上、応援要請。のちにベルティナの救急病院に搬送され、翌日。つまり今日の早朝に意識を取り戻した。以前ほど耳目を集めることはなかったが、関係者以外の見舞いは全て遮断させた。 ラムラスは海の怪獣に襲われた唯一の人間だ。そのうえほとんど無傷で生還した人間でもある。 今回のことも繋げて考える者が現れることは想像に難くない。事実、リョースケの訪問にもすかさず取材を求めてくる声が追いかけてきたし、見舞いと称して金銭を握らせようとする者もいた。 それらを蹴散らしてリョースケはその大柄な身体を病室に入れた。 「ヒバルさん? わざわざ来てくださったんですか」 小説家は思っていたよりも元気そうだった。以前のように気落ちしてしまって、わけの分からないことを口走っているのかと思っていたところだが、ひとまず胸を撫で下ろすことができた。あの時に比べれば遥かにマシではあるからだ。 手放しで喜ぶことはできないが。 「肝を冷やしましたよ」 何を思っていたとしても、リョースケがここで疑念を表に出すことはない。 リョースケは壁に掛けられた折り畳み椅子をベッド横まで運び、組み立ててそこに腰掛けた。その体躯の重さに椅子はギリッと抗議の軋みを上げたが構わず言葉を続ける。 「ラムラスさんが生き辛そうな人だということはシドーから聞いていましたが、まさかこんなに早くその兆候を耳にするとは思いませんでした」 冗談に聞こえるような口調で言ってみたところ、ラムラスはまるで気にした様子も見せずにこう返した。 「ご心配をおかけしてしまってすみません。昨日は疲れてしまったみたいで……よく分からないのですが、疲れてふらふらしていたところ、桟橋から落ちてしまったみたいです」 事実だったとしても、それを確認することはできない。もう少し確認のしようがある証言を引き出したかった。リョースケは話を続けてみる。 「昨日、というと……部下の話では、シドーが恫喝していたと聞いています。おそらく、それはあなたに対してだと。躾が届いておらずすみませんでした」 「恫喝などではありませんよ。あれは私が悪かったのです。怒らせることを言ってしまったので……」 ラムラスにシドーほどの闘争心はない。シドーもまた、ラムラスほどの落ち着きは持ち合わせていない。怒りを露わにするきっかけだけならシドーの方が多い。思い通りに行かなくて癇癪を起こすような人間ではないが、余所者を、特に都会人や知識人を嫌う素振りを見せたことは少なくない。 犯人探しをしようというつもりはない。 ただラムラスが『海に落ちて溺れ死にかけた』という事実をもう少し洗って確認したかった。部下を疑いたくないと思いつつ、皆が訳ありで真っ当な出自ではない。それはシドーも同じだ。 海に浮かんでいたらしいラムラスを発見したのはシドーであり、その直前には事務所でラムラスと過ごして怒声をあげていたことは複数人が話している。 警察なんていう組織はベルティナにはない。近隣の村や町とで連携する自警団がある。彼らに先を越されてしまうとシドーが縄にかかってしまうかもしれない。 「もし良ければでいいのですが……」 この件は既にシドーからの報告を受けてはいるものの、ラムラスからも話を聞く必要があると判断している。 「シドーを怒らせたというのは、どういった理由で?」 「ああ……ええと、なんというか……。気に入らないことがあると、不満で机を叩いてしまうようだったので。仕事の話をするのに感情的になったら机を叩くように、ヒバルさんに指導されたのですか、と……。煽るようなことを言ってしまいました。すみません」 「こちらこそ、部下がご迷惑をおかけしました。あいつには二度とするなと言っておきます」 ラムラスの話はシドーからも聞いている。机を叩いて怒声を、というのも別の部下から聞いた話と一致していた。その前からシドーには何か不満を抱く何かがあったということか。我慢強く忍耐強いのはシドーの強みの一つでもあるものの、爆発するような不満を顧客の小説家なんていう立場に向けるようなことがあったのか。 もう一度シドーから話を聞く必要がありそうだ。細かいところを気にしている場合でもないが、人の出入りと情報のやり取りが増えてきたベルティナを万全にするためには、手元の部下に疑念を抱いている場合でもない。 とはいえ、ラムラスから聞ける話も、もうなさそうだ。 「退院はいつになりそうか、医者と話しましたか?」 「明日にはできそうです。怒られましたよ。いい歳にもなってふらついて海に落ちるなんて、と……。その直前のこともあんまり覚えてないんですけどね」 「……覚えてない?」 そういえば入室時にも曖昧なことを言っていたようだが。 ラムラスは言いづらそうに、困ったような笑みを浮かべて言った。 「そうなんですよ、実は。溺れてしまった時のことも全然思い出せなくて……。シドーさんと別れて、帰宅しようとしていたのは覚えているんですけど。 玄関に繋がる桟橋を見ながら歩いていたのは覚えています。ですがその後のことは……気がついたらこのベッドの上です」 ラムラスは着衣状態で海に浮かんでいたという。 リョースケには溺水状態に陥った経験がない。溺れるとどうなるのか、意識状態などは。それも分からない。 救出行動に参加したことはある。その際には救出対象への事情聴取が行われていたのを覚えている。対話ができる状態まで落ち着いてからだったが、ほとんどの人間は何が起こったのかをゆっくりと話すことができた。 (ダメだ。俺までそんなこと考えてんのか?) ラムラスがまた海の怪獣に襲われたのではないかと思っている。 現状、それを否定できる証拠がない。この件はラムラスの不注意であったことと、本人は無事であることからそのまま流れてしまいそうになっているが、そんなにシンプルな話ではないと感じていた。 そうではないとしたら、野暮な連中が探ることになったときに疑いの目がシドーに向いてしまうことになるだろう。 第一発見者が疑わしいと彼らはよく言う。 シドーは怒りの腹いせに海に落として溺れさせたと得意げに推理するのが目に浮かぶ。溺死寸前でシドーが救出できたことにも繋がるし、夜間にあの場にいた説明も出来てしまう。彼は戦闘の技術も経験もある。武器や格闘なら痕跡が残るが海に落ちてしまえばそれはない。 可能性の一つだ。考えたくないと思っているだけで、もし本当にそれが真実であるなら責任者として必要な判断を取らねばならない。覚悟はしなければならないだろう。
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