ダミアン:順化する(5/5)
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言い合いで熱くなってしまった頭をカフェで冷やしてから歩く帰り道。日はとっぷりと暮れて星空が広がりつつあった。 そんな時間になっても、もはや当たり前のようにシアンが待っている。洋上賃貸の玄関に通じる桟橋に腰掛け、フラフラと両足を遊ばせて空を見上げたり町の様子を眺めたりしている。それが彼女の待機する姿勢なのだ。 ダミアンの姿を見て顔をほころばせると、シアンはすぐに立ち上がって歩み寄ってくる。今日の衣類はよく見かけるセットだ。浅葱色をした、柔らかそうな素材の無地のワンピースに青緑色の薄手の上着。白い指先に明るい青緑色をした爪、同じ色をしたサンダル。 浮浪者であることを忘れてしまう。確かに全身を単色でまとめた、ある種異様なコーディネートだが、その衣類はもちろん肌にも傷や汚れはないのだ。 「おかえりなさい。最近はよく、町に行くのですね」 「ええ、仕事のために……」 ふと、ダミアンは思いついた。シアンも社会に参加させられるのではないかと。 いつまでも浮浪者として生きていられるわけではない。安易に同居を勧めるわけにもいかない。彼女にある程度の社会性を身につけさせ、その上でシアンという人物を公的な証明書で保護しなければならない。シアンに所有者がいる可能性はあるものの、それならば探しに来てもいいはずだ。 身分を証明できなければ基本的な生活の保護やサービスも受けられない。その理由が所有者から逃げたためだというなら、シアンに自立を促した方がいいのではないか。 簡単なことではない。だがやらないよりは。 「シアン、勉強をしてみませんか?」 「べんきょう……学習、修練、履修……」 ぶつぶつ、シアンは何事か口の中で呟いていたが、程なくして渋い表情をしてみせた。『勉強』というものは恐らくやったことはないのだろう。だがそれが面倒くさいというか、楽しくはないものだという理解をしてしまっているようだ。 その印象は所有者が与えたものだろうか。知識を与えないために? 考えすぎだろうか。 「私がやろうとしていることは、極めて強いエゴイズムです」 あれ? 「私が『良い』と、『その方がいい』と思っていることを一方的に人に与えようとしている。知識人であることや、以前のように一段高いところで話す優越感を思い出そうとするかのように」 違う。そんなことが言いたいのではない。 なのにダミアンの口も声も止まらない。 「一人の人間がができることなんて、たかが知れてる。まして、僕、は……」 なんだ? どうして。 ダミアンは右手で口を、左手で喉元を押さえた。舌を掴んでしまいたかった。喉を締めて息を止めたかった。 なのに止まらない。吐き出している言葉は確かに自分のものだが、望まないのにそれが表に出ている。まるでそれらを、強引に引きずり出されているかのようだった。 ガクッと力が抜けて、ダミアンは膝立ちになる。 「大きなことを言ってしまった。結果なんて分からない……やり切れるかどうかも分からないのに」 吐き出す言葉の量に合わせて気持ちがしぼんでいくのを感じた。吐き気が喉の奥に来ていて、舌の根本にはあるはずのない異物感がある。 サンダースの勝ち誇った顔。実績を積み重ねてきた屈強な男たち。有力者にして大柄で逞しいヒバル。やるべきことを理解して粛々と処理するシドー。出来ることを探して怪獣襲撃に備えるロックナンバーとサーディ。 大きすぎる。急に彼らがとても大きな存在に思えてきて、自分がひどく矮小な人間であると突きつけられた気がして息ができない。目の前にある桟橋に視界が埋められていくようなイメージが浮かんだ。小さくなった自分がそこに四つん這いになってしがみついている。潮風にすら飛ばされそうになる。 「やらないよりもやった方が良い、なんて都合のいい言葉だ。ほとんどの物事はやらない方が安全なんだ。身体的にも、精神的にも」 人の生活圏から出れば怪獣に遭遇するかもしれない。襲撃者と呼ばれる武装集団に襲われる可能性もある。備えがなければ隣町や施設に到達できずに行き倒れることもあるだろう。食料や水を失うことも考えられる。 町中とて安全とは断言できない。あくまで、人の生活圏はその規模に応じた安全レベルが維持されているに過ぎない。 ダミアンは旧時代の人々の生活を羨ましく思ったことが何度もある。その時代、コンピューターや通信技術の発達によって、人は自室にいながら仕事をし、買い物すら終えていたのだという。火を使わない調理器具は今でも都市部で使われるが、ベルティナのような片田舎ではなかなか手に入らない。だが当時はどの家庭にもあった。映像デバイスも用途に応じて複数持っていたそうだ。 それが一般的だった。人の生活が一歩も外に出ずとも完結する時代。あまりにも羨ましくて、生まれてくる時代を誤ったのだとすら思ったこともある。 「やらなければ失敗もしない……」 変わらぬ日常こそ、ダミアンの最も望ましい世界だ。死に迫る危険もなく、突き抜けて有頂天になれるような幸福もない。それでいいのだ。 死の恐怖。信頼を破り捨てられる痛み。姿の見えない糾弾。いつも逃げてきた。それなのにまた、何かを始めようと言うのか? 「ダミアン」 その声に顔をあげた時、シアンの細い指がダミアンの頬に触れた。ひんやりと冷たい彼女の指先がダミアンの歪んだ認識から現実に引き戻す。 「私はあなたに会いに来ました。とても難しいことでした」 その言葉の意味を探ろうとしたが、ダミアンには全く心当たりがなかった。シアンは確かに洋上賃貸の近くで遭遇した。それ以上のことは何も知らないのだ。 商業都市バスティドニアからの旅路は旅行車両と客船だけ。そのエリアには身分の証明が出来ない者は立ち入れない。 シアンはどこでダミアンを見かけたのか? それとも所有者に染められたから分からないだけか? 困惑するダミアンをそのまま、シアンは笑みかける。 「失敗は確かにありました。たくさん、ありました。でも、今はこうしてダミアンの近くにいます。私はそれでいいです。一人で過ごすのはもう飽きました」 「ははは……」 乾いた笑いがダミアンの口から漏れた。シアンの言葉は事実なのかもしれない。だがそれはダミアンをさらに卑屈にさせようとしている。 やらないよりもやった方がいい。なぜなら、私はそれで成功したからだ。 そういう言葉が言えるのは成功した者だからだ。何も考えてなさそうなシアンの表情に、自嘲の声がダミアンから漏れ出る。 「あなたは幸運なのですね」 「幸運……ラッキー、良いこと、吉兆。そうですね。私はきっと『みな』よりも幸運です」 そういうところも、成功者がよく見せる態度だ。自分は幸運だったのだと、彼らは口を揃えて言う。それらの話を聞いていて面白いと感じたことは、ただの一度もなかった。 事実は小説よりも奇なり、だと? その成功談や体験談こそ、小説じみたものなのではないか。何気なく対話した相手が実は大企業の会長で、実は格調高い身分の者で……そんなことがあると本気で思っているのか? 信じると思うのか? ダミアンはゆっくり立ちあがろうとした。ネガティブな思考にもなんだか疲れてしまって、ようやくシャワーとベッドが恋しくなってきた。また卑屈になって動けなくなる前に家に入って横になろうと考えた。 そんな時だった。 ぐらり、とダミアンの体がバランスを崩す。力が入らず、方向感覚も分からなくなっていた。思考が定まらないばかりか、見えている視界すらぐらついている。 「え、ぁ……?」 舌が痺れて何も言葉が出ない。似た症状を経験したことがある気がしたが、考えが形にならない。立っているのか、倒れ込んでいるのかすら分からない。 シアンだけが変わらずそこにいる。 (何が起こってるんだ? 私は、今? どうなっている?) 地に。桟橋に。足が。ついていない。 ダミアンの足は何にも触れていない。ブランコを漕ぐ子供のようにぐらん、ぐらんと大きく揺れる。 ちゃぷ、と水面の跳ねる音が聞こえたが、振り返ることができなかった。身体中の感覚がない。自由が利かない。首に何かが巻き付いていて頭部を固定されている。腕も動かすことができない。 呼吸が荒くなってきた。汗が吹き出て体温が急激に下がっていくのも感じる。 なぜ気付かなかった? 何をされた? 何をされているのか? 自分は今、捕らわれているのだ。その受け入れ難い事実に声が出なかった。なにか大きな存在が近くにいる気配。逃げられない圧。助からないであろうと推測する無意識。 この感覚は感じたことがある。あの日。 あの日! 洋上賃貸にダミアンが引っ越して初めて、訪問者が来たあの日! 大きく錯乱したあの時と! 全く同じなのだ! 「し、あ」 声はすぐに出せなくなった。ダミアンは初めて『その』一部を視界に入れた。青く、緑がかった色をしている『それ』の一部を。異なる太さと厚みと、意志を持った『それ』を見た。一体いくつの『それ』に巻きつかれているのかわからない。『それ』はまるで遠慮も容赦もなくダミアンの口の中に入り込み、辛うじて呼吸だけを許しつつも発言と閉口は許さなかった。 「あぐ、ぐ……ぇ……」 声でなく、それは音だった。中に入りこんだそれは一つや二つなどではなく、喉やその奥まで入り込んで這い回る。身体は吐き出そうとする動きを繰り返して気分が悪くなる。えずく度に腹の中のものが浮き上がるのに、『それ』は人体の動きの一切を許さなかった。かろうじて認めているのは呼吸と心臓の動きだけ。 なのにシアンは、寧ろ恍惚すらしている様子でそこにいるのだ。 「ダミアン。わたしは、いま。とても」 一体、いつから。どこに。そのまま引きちぎられ潰されてしまいそうな恐怖と、身動き一つもできない絶望に絡め取られていた。生きるとか死ぬとか、それすら考えられなかった。明日に予定していたはずのことも、すっかり抜け落ちている。 どうしてシアンは無事なのか。 違う。その認識は根本から誤っているのだ。信じたくないだけで、頭では理解してしまっている。なぜなら今までもそれを疑うことがあったからだ。考えないようにしていた。そんなことはあり得ない。 いいや違う。そもそも、パターン化できる行動しか取れないなどと思うことが誤りだったのだ。 シアンが。 「もっと知りたい。学習します。ダミアン。教えてください。私を。あなたを」 ざぶん、と大きな水のうねる音がした。 ***** その桟橋は静まり返っている。 都会から来た小説家が住むことになった家屋、通称「洋上賃貸」は、港町ベルティナの中心地から少し外れたところにある。元は海の櫓や灯台のような役割を持たせた建築物であり、町の敷地内ではあるが隣接する家屋や施設はない。 怪獣は一般的に水場には集まらず、また外れとはいえ町の敷地内でもあることから襲撃者集団にも狙われることが少ない。港町である都合、深夜と早朝にも明かりが灯り、人の目が向くのも理由である。 小説家の「洋上賃貸」もまた同様であった。一時は怪獣騒ぎの中心にあったが、今は愛すべき静音の中にある。 「コロロロ……」 どこかから、水が転がるような音がわずかに水面を揺らしていった。異なる水の流れの隙間に生まれるような、泡が深海から浮かび上がっていくときのような、そんな軽やかな音だ。 「クルル……カロロロロ」 その音を聞く者は周囲にはどこにもいない。あれほど海の怪獣に躍起になっていたはずの港町の者たちには、その音はあまりにも儚すぎて聞こえない。さざ波にすら打ち消されるような音など、誰も聞くことはできなかった。 そんな静かな海にブクブクブクと、不自然な気泡が浮かんでは弾けている箇所がある。程なくしてそこに大量の気泡が湧いて海面に破裂した。そしてまた、何もなかったかのように静けさが波間に訪れる。
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