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ダミアン:順化する(1/5)

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 日差しから逃げるようにしてダミアンは小道に駆け込んだ。ポカポカとした日差しは日に日に強さを増し、夏期の熱で照らし始めている。植物たちも鮮やかな緑の枝葉を広げ、さながら小さな太陽のように眩しく反射していた。  道ゆく人も薄手の衣類や、つばの広い帽子が多くなり、濃い色はアクセント程度に白や淡色のものを多く見かけるようになった。ダミアン自身も青系統の淡い色味を好むうえ、あまりファッションにこだわりはない為、この季節は清潔感だけ気にしてあとは似た色とシルエットの衣類が多くなる。  濃い影に塗りつぶされた小道に入ると、するりと通り抜ける潮風が汗ばむ肌から心地よく熱を奪っていく。空気も熱気を含んでいて、影に入れば息継ぎするように深く息を吐いた  ベルティナに来て間も無くはこの潮風にすら感動したものだが、ややベタつく感覚に慣れてしまってからはあんまり好ましく感じていない。それでも今日は無風よりも大歓迎であった。  小脇に抱えているのはヒバルの事務所へ届ける書類やその他の封筒。たまに金属製の甲高い音が聞こえるので、何らかの金属製品が入っているのかもしれない。  例えば……硬貨とか? ここは知らない気づかないで過ごしていいだろう。  ダミアンはいま、執筆活動の傍らで引き受けた雑務のために港町ベルティナを歩き回っている。  自らの体験を執筆して出版することを目標にしていても、コンピューターを駆使するだけでは収入にならない。執筆活動が収入になるのは遥か先だし、それが売れるかどうかもまた別の話なのだ。ダミアンには不名誉なレッテルも貼られている。さらに自分を売り込む営業力も持っていない。しかし何より書き上げなければその先に到達することはできないのだ。  流行作家だったのは過去の話である。現在はヒバルの小間使いのような立場であった。不満はない。  都会暮らしの頃の蓄えで早速困るようなことにはなっていないものの、貯金を切り崩す生活というのは落ち着かないものだ。家賃も納めなければならないし、そのほか光熱費や水道、通信費だって必要だ。それにあの洋上賃貸に何かあれば、今度は自費で修繕しなければならないだろう。金はあった方がいい。  などと不安の種を浮かべて並べてみても、ダミアンの出費は実に面白味に欠ける。たまに衣類を買い替えたり家具や小物を新調するかどうか程度のものでしかない。シドーと食事に行ったり、シアンと過ごすのにそこまで大きな金は必要ない。そもそもベルティナには大金が必要になるほどの商品が少ない。  都会ならばこれを貧しさというのだろうが、ダミアンにとっては実に満たされた世界であった。  しかし唯一の家族である母だけが常に気掛かりであった。  自分で解決するつもりで疎遠になり、商業都市バスティドニアを離れる際にも会話もそこそこに出て来てしまった。このことだけは毎日欠かさず胸を刺している。  エミリア・サンダースに負けぬと意固地になって、あの鉄と油と金のジャングルに居続けたならば、ゴシップ好きの者たちの撮影フラッシュや囁き声にたちまち参っていたことだろう。今は外に出て歩き回って、多くの人とすれ違い挨拶をして、なんとも健康的な生活を送れている。性格的にも都会は肌に合わなかったのかもしれない。生きていることくらいは伝えた方がいいだろうか。  ベルティナはほとんど変わり映えのしない日々を繰り返す。ダミアンにとっては、これこそが平和であった。  それがシドーからの声掛けで一変しようとは思いもしなかった。思わず上擦った声でおうむ返しに声が出てしまっていた。 「語学教師ですか?」  出先でヒバル宛の預かり物を抱えたダミアンが不動産事務所に入った時だった。褐色肌をした顔馴染みの不動産屋はひょいと肩をすくめて涼しい顔をしている。  皺のないきちんとした襟と袖のシャツ。折り目がまっすぐに入った濃いグレーのパンツ。彼はこの田舎の港町に暮らし、ダミアンよりも若い顔つきをしているが身なりはきちんとして洗練されている。 「そんな大層なものではないですけどね。できそうですか?」  ダミアンが小説家になる前は語学教師を務めていた。都会に住む十歳にも満たない子どもたちに文字の読み書きや発音など基礎的なことを教え、もう少し歳を重ねた少年少女たちが次の学科に進むための学習塾でも語学を専任で教えていた経験がある。  当然、あの頃の教員資格は失効しており、再度教鞭を手に教卓に立つためには資格の手続きからしなければならない。それはこの港町ベルティナではできないだろう。  それらの懸念をダミアンは話したが、シドーは首を横に振った。 「それは都会の学校で教師やる時の話ですよね? そうじゃなくて、ベルティナに住む社会人に向けたものなんですが」 「社会人に向けた? ええと……詳しく聞きたいので、まずは預かり物をお届けしてからでもいいですか?」 「あー、今日はそれでこっちに来たんですか。わかりました。晩飯空いてます? 仕事の話なんで、あのシェアハウスに来てください」  言って、シドーは自分の仕事に戻っていった。教師だなんて言葉を久々に聞いたダミアンにとって、小説家としてではない『ラムラス先生』になるのかと思わずにいられなかったが、シドーからの頼みなら聞くくらいはした方がいいだろう。  ダミアンにとって彼は、既に頭の上がらない人物の一人であった。



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 日差しから逃げるようにしてダミアンは小道に駆け込んだ。ポカポカとした日差しは日に日に強さを増し、夏期の熱で照らし始めている。植物たちも鮮やかな緑の枝葉を広げ、さながら小さな太陽のように眩しく反射していた。  道ゆく人も薄手の衣類や、つばの広い帽子が多くなり、濃い色はアクセント程度に白や淡色のものを多く見かけるようになった。ダミアン自身も青系統の淡い色味を好むうえ、あまりファッションにこだわりはない為、この季節は清潔感だけ気にしてあとは似た色とシルエットの衣類が多くなる。  濃い影に塗りつぶされた小道に入ると、するりと通り抜ける潮風が汗ばむ肌から心地よく熱を奪っていく。空気も熱気を含んでいて、影に入れば息継ぎするように深く息を吐いた  ベルティナに来て間も無くはこの潮風にすら感動したものだが、ややベタつく感覚に慣れてしまってからはあんまり好ましく感じていない。それでも今日は無風よりも大歓迎であった。  小脇に抱えているのはヒバルの事務所へ届ける書類やその他の封筒。たまに金属製の甲高い音が聞こえるので、何らかの金属製品が入っているのかもしれない。  例えば……硬貨とか? ここは知らない気づかないで過ごしていいだろう。  ダミアンはいま、執筆活動の傍らで引き受けた雑務のために港町ベルティナを歩き回っている。  自らの体験を執筆して出版することを目標にしていても、コンピューターを駆使するだけでは収入にならない。執筆活動が収入になるのは遥か先だし、それが売れるかどうかもまた別の話なのだ。ダミアンには不名誉なレッテルも貼られている。さらに自分を売り込む営業力も持っていない。しかし何より書き上げなければその先に到達することはできないのだ。  流行作家だったのは過去の話である。現在はヒバルの小間使いのような立場であった。不満はない。  都会暮らしの頃の蓄えで早速困るようなことにはなっていないものの、貯金を切り崩す生活というのは落ち着かないものだ。家賃も納めなければならないし、そのほか光熱費や水道、通信費だって必要だ。それにあの洋上賃貸に何かあれば、今度は自費で修繕しなければならないだろう。金はあった方がいい。  などと不安の種を浮かべて並べてみても、ダミアンの出費は実に面白味に欠ける。たまに衣類を買い替えたり家具や小物を新調するかどうか程度のものでしかない。シドーと食事に行ったり、シアンと過ごすのにそこまで大きな金は必要ない。そもそもベルティナには大金が必要になるほどの商品が少ない。  都会ならばこれを貧しさというのだろうが、ダミアンにとっては実に満たされた世界であった。  しかし唯一の家族である母だけが常に気掛かりであった。  自分で解決するつもりで疎遠になり、商業都市バスティドニアを離れる際にも会話もそこそこに出て来てしまった。このことだけは毎日欠かさず胸を刺している。  エミリア・サンダースに負けぬと意固地になって、あの鉄と油と金のジャングルに居続けたならば、ゴシップ好きの者たちの撮影フラッシュや囁き声にたちまち参っていたことだろう。今は外に出て歩き回って、多くの人とすれ違い挨拶をして、なんとも健康的な生活を送れている。性格的にも都会は肌に合わなかったのかもしれない。生きていることくらいは伝えた方がいいだろうか。  ベルティナはほとんど変わり映えのしない日々を繰り返す。ダミアンにとっては、これこそが平和であった。  それがシドーからの声掛けで一変しようとは思いもしなかった。思わず上擦った声でおうむ返しに声が出てしまっていた。 「語学教師ですか?」  出先でヒバル宛の預かり物を抱えたダミアンが不動産事務所に入った時だった。褐色肌をした顔馴染みの不動産屋はひょいと肩をすくめて涼しい顔をしている。  皺のないきちんとした襟と袖のシャツ。折り目がまっすぐに入った濃いグレーのパンツ。彼はこの田舎の港町に暮らし、ダミアンよりも若い顔つきをしているが身なりはきちんとして洗練されている。 「そんな大層なものではないですけどね。できそうですか?」  ダミアンが小説家になる前は語学教師を務めていた。都会に住む十歳にも満たない子どもたちに文字の読み書きや発音など基礎的なことを教え、もう少し歳を重ねた少年少女たちが次の学科に進むための学習塾でも語学を専任で教えていた経験がある。  当然、あの頃の教員資格は失効しており、再度教鞭を手に教卓に立つためには資格の手続きからしなければならない。それはこの港町ベルティナではできないだろう。  それらの懸念をダミアンは話したが、シドーは首を横に振った。 「それは都会の学校で教師やる時の話ですよね? そうじゃなくて、ベルティナに住む社会人に向けたものなんですが」 「社会人に向けた? ええと……詳しく聞きたいので、まずは預かり物をお届けしてからでもいいですか?」 「あー、今日はそれでこっちに来たんですか。わかりました。晩飯空いてます? 仕事の話なんで、あのシェアハウスに来てください」  言って、シドーは自分の仕事に戻っていった。教師だなんて言葉を久々に聞いたダミアンにとって、小説家としてではない『ラムラス先生』になるのかと思わずにいられなかったが、シドーからの頼みなら聞くくらいはした方がいいだろう。  ダミアンにとって彼は、既に頭の上がらない人物の一人であった。



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