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【3】③

ー/ー



 もしあのとき、怜那が食い下がって来ていたら。いったいどう対応しただろう。
 補習のあとも残った仕事を片付けて、沖は家に帰って一息ついたところでさっきの怜那とのやりとりについて思いを巡らせていた。

「生徒に私的な情報は教えない」「生徒のそういう情報も保持しない」、そして「生徒と個別に連絡を取り合わない」。

 改めて念を押されるまでもない、特に今の時代の教員としては常識なのだろうと思う。生徒に対しては。
 けれど怜那は、沖にとってただの生徒ではない。
 もちろん生徒であることには違いはないが、それだけではない、特別な感情がある。お互いに。しかもそれを伝え合ってしまっているのだ。

 彼女に連絡先を知りたいと言われて断ったのは、教員としての沖には当然の行為だとは思っている。
 宮崎に聞かされた例の他校の事件がなかったとしても、もともと禁止されていることだ。そして沖自身、そのことに異を唱える気もない。
 怜那も詳細はともかく、そういうルールもあり得ることをわかっているから、(あらが)うこともしなかったのではないか。

 そうだ、彼女は「いい子」だ。
 一見やる気がなさそうだったり、従順とは言い難かったりしても、やっぱり優しいいい子なのだ。
 怜那は自分の希望よりも、沖の立場を考えて引いてくれたのだろう。それくらいわかっている。
 ……十六歳の教え子が、ずっと年上の、教員である自分を思いやってくれているのだ。

 ──俺はなんで、また。また同じようなことで迷ってるんだ。……全然、開き直れてないじゃないか。

「後悔だけはしない」
 確かに自分で決めた筈なのに、ことあるごとに揺らぐ、心。
 自覚するか否かに(かか)わらず、沖はずっと他人の目を気にして生きて来たのだと今にしてわかる。

 勉強は、子どもの頃から好きだった。難しい問題が解けることに、()も言われぬ喜びを覚えていた。
 真面目にルールを守って生きることに、苦痛を感じたこともない。疑問さえ覚えたことがなかった。

 「お堅い」「融通が利かない」と嘲笑されても、正しいことをしているのだから、と別に気にもならなかった。絵に描いたような『優等生』だった自分。
 数学という学問も、教師という職業も、自分に相応しいとも天職だとも思える域には達していない。そこまで言い切る自信は、沖にはまだなかった。
 それでも、道を間違えたと感じたことは幸いなことに皆無だ。

 正面から堂々とぶつかって来た怜那に、沖は改めて気付かされた。
 多数派(majority)であり続けるために、目を瞑り耳を塞いで及び腰になっていた姑息な己を。

 ──姑息であることが、悪いとは言い切れない大人としての生き方を。

 七歳も年下の十六歳の少女に、逆に教えられ背中を押されてばかりいる。自分で出した答えさえ貫き通す自信のない人間が、どんな顔で生徒たちの前に立つつもりなのか。
 沖はもう一度覚悟を決めて、心の中でひとつの結論を出す。

 ──これは俺が有坂を想って、俺自身が下した決断だ。誰のせいにも出来ない。

 するつもりも、ないけれど。

「有坂、ちょっといいかな」
 次の補習のあと、沖は怜那に声を掛けた。

「あ、じゃあ、お先に失礼します。怜那、今日は俺ひとりで帰るから。気ぃ付けろよ」
 空気を読んだ大翔が、怜那に笑顔を向けて素早く教室を出て行く。
 その後姿を見送って、沖は彼女に向き直った。

「有坂、スマホある?」
「? はい」
 意図はわからないようだが、怜那は素直に沖に対してスマートフォンを差し出して来る。

「あぁ、そうじゃなくて。自分でやってくれればいいから。通信アプリの連絡先交換ができるようにして」
「え、え?」
 いきなり展開が変わって、彼女は混乱しているようだ。

「ダメなんじゃなかったの?」
「ホントはダメなんだよ。でも、お前は『ただの生徒』じゃないから」
 そう言って沖は笑いながら、通信アプリを開いて怜那に見せた。

「……俺、これ一応使ってはいるけど、自分で交換した覚えがないんだよな。いつも相手にお任せだったから。元々あんまり使う方じゃないし。だから、どうやるか教えてくれよ」
 いつも一方的に教わるばかりで、自分が沖に教えられることがあるなんて考えてもみなかったらしい彼女は、沖の頼みに一瞬きょとんとしたもののすぐに笑ってスマートフォンに目を落とし操作を始めた。

「これでできた、のか?」
「見せて? うんだいじょーぶ、OK」
 さっと画面を確認して、怜那が沖に笑みを向けた。

「先生、やり方わかるんだよね? なんか送ってみてよ」
 そう言われて、沖は少し考えて簡単なメッセージを打ち込み、送信する。すぐに小さな通知音ともに、目の前の怜那に届いたようだ。

《これからもよろしくな。》

 そんな素っ気ない文字列を見て、怜那が笑ってディスプレイを見せてくる。

「ホラ、ちゃんと来た」
 そして彼女も何やら入力しているようだ。すぐに沖のスマートフォンに、新しいメッセージが表示される。

《ありがとう、先生。》

「うん。じゃあ、いつでも連絡してきていいから。ただ、すぐには返せないかもしれないけど」
 沖は、改めて怜那にそう告げた。

「これ、通話もできるだろ? 通話は無理なときも多いと思うけど、それでもよかったら掛けて来ていいよ。出られなかったらそれはゴメンな」
「ありがと。でもなるべく我慢する。先生忙しいもんね」
 彼女は嬉しそうに、それでも沖を気遣ってくれる。

「だからこれは『お守り』にするんだ。どーしても! って時はメッセージ送るし、もしかしたら電話もするかも。でも先生も、無理だったら無理! ってちゃんと言ってよね。その方が、私も遠慮要らないしさ」
「お前って……。ホントに結構いい子なんだよなぁ」
「それ、どういう意味よ! 先生、私のことなんだと思ってたわけ?」
 けらけらと笑い合いながら、沖と怜那は束の間の二人だけの楽しい時間を過ごした。


    ◇  ◇  ◇
 今は、これだけでいい。これで十分、満足だ。
 沖に別れの挨拶をして、怜那はひとりで家に向かう帰り道で、アプリのトークルームを確かめてみた。

《これからもよろしくな。》

 ……このメッセージは保護しておこう。寂しくなったらいつでも見られるように。すぐに沖にメッセージを送ったりしなくていいように。
 怜那は、少しだけデータの増えたスマートフォンを握りしめて思う。

 ──電話とかメッセージのやり取りとか、ずっと何かで繋がってないとすぐに切れちゃうような関係じゃないんだよ、私たちは。きっと。

 ねぇ、そうだよね? 沖先生。


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 もしあのとき、怜那が食い下がって来ていたら。いったいどう対応しただろう。
 補習のあとも残った仕事を片付けて、沖は家に帰って一息ついたところでさっきの怜那とのやりとりについて思いを巡らせていた。
「生徒に私的な情報は教えない」「生徒のそういう情報も保持しない」、そして「生徒と個別に連絡を取り合わない」。
 改めて念を押されるまでもない、特に今の時代の教員としては常識なのだろうと思う。生徒に対しては。
 けれど怜那は、沖にとってただの生徒ではない。
 もちろん生徒であることには違いはないが、それだけではない、特別な感情がある。お互いに。しかもそれを伝え合ってしまっているのだ。
 彼女に連絡先を知りたいと言われて断ったのは、教員としての沖には当然の行為だとは思っている。
 宮崎に聞かされた例の他校の事件がなかったとしても、もともと禁止されていることだ。そして沖自身、そのことに異を唱える気もない。
 怜那も詳細はともかく、そういうルールもあり得ることをわかっているから、|抗《あらが》うこともしなかったのではないか。
 そうだ、彼女は「いい子」だ。
 一見やる気がなさそうだったり、従順とは言い難かったりしても、やっぱり優しいいい子なのだ。
 怜那は自分の希望よりも、沖の立場を考えて引いてくれたのだろう。それくらいわかっている。
 ……十六歳の教え子が、ずっと年上の、教員である自分を思いやってくれているのだ。
 ──俺はなんで、また。また同じようなことで迷ってるんだ。……全然、開き直れてないじゃないか。
「後悔だけはしない」
 確かに自分で決めた筈なのに、ことあるごとに揺らぐ、心。
 自覚するか否かに|拘《かか》わらず、沖はずっと他人の目を気にして生きて来たのだと今にしてわかる。
 勉強は、子どもの頃から好きだった。難しい問題が解けることに、|得《え》も言われぬ喜びを覚えていた。
 真面目にルールを守って生きることに、苦痛を感じたこともない。疑問さえ覚えたことがなかった。
 「お堅い」「融通が利かない」と嘲笑されても、正しいことをしているのだから、と別に気にもならなかった。絵に描いたような『優等生』だった自分。
 数学という学問も、教師という職業も、自分に相応しいとも天職だとも思える域には達していない。そこまで言い切る自信は、沖にはまだなかった。
 それでも、道を間違えたと感じたことは幸いなことに皆無だ。
 正面から堂々とぶつかって来た怜那に、沖は改めて気付かされた。
 |多数派《majority》であり続けるために、目を瞑り耳を塞いで及び腰になっていた姑息な己を。
 ──姑息であることが、悪いとは言い切れない大人としての生き方を。
 七歳も年下の十六歳の少女に、逆に教えられ背中を押されてばかりいる。自分で出した答えさえ貫き通す自信のない人間が、どんな顔で生徒たちの前に立つつもりなのか。
 沖はもう一度覚悟を決めて、心の中でひとつの結論を出す。
 ──これは俺が有坂を想って、俺自身が下した決断だ。誰のせいにも出来ない。
 するつもりも、ないけれど。
「有坂、ちょっといいかな」
 次の補習のあと、沖は怜那に声を掛けた。
「あ、じゃあ、お先に失礼します。怜那、今日は俺ひとりで帰るから。気ぃ付けろよ」
 空気を読んだ大翔が、怜那に笑顔を向けて素早く教室を出て行く。
 その後姿を見送って、沖は彼女に向き直った。
「有坂、スマホある?」
「? はい」
 意図はわからないようだが、怜那は素直に沖に対してスマートフォンを差し出して来る。
「あぁ、そうじゃなくて。自分でやってくれればいいから。通信アプリの連絡先交換ができるようにして」
「え、え?」
 いきなり展開が変わって、彼女は混乱しているようだ。
「ダメなんじゃなかったの?」
「ホントはダメなんだよ。でも、お前は『ただの生徒』じゃないから」
 そう言って沖は笑いながら、通信アプリを開いて怜那に見せた。
「……俺、これ一応使ってはいるけど、自分で交換した覚えがないんだよな。いつも相手にお任せだったから。元々あんまり使う方じゃないし。だから、どうやるか教えてくれよ」
 いつも一方的に教わるばかりで、自分が沖に教えられることがあるなんて考えてもみなかったらしい彼女は、沖の頼みに一瞬きょとんとしたもののすぐに笑ってスマートフォンに目を落とし操作を始めた。
「これでできた、のか?」
「見せて? うんだいじょーぶ、OK」
 さっと画面を確認して、怜那が沖に笑みを向けた。
「先生、やり方わかるんだよね? なんか送ってみてよ」
 そう言われて、沖は少し考えて簡単なメッセージを打ち込み、送信する。すぐに小さな通知音ともに、目の前の怜那に届いたようだ。
《これからもよろしくな。》
 そんな素っ気ない文字列を見て、怜那が笑ってディスプレイを見せてくる。
「ホラ、ちゃんと来た」
 そして彼女も何やら入力しているようだ。すぐに沖のスマートフォンに、新しいメッセージが表示される。
《ありがとう、先生。》
「うん。じゃあ、いつでも連絡してきていいから。ただ、すぐには返せないかもしれないけど」
 沖は、改めて怜那にそう告げた。
「これ、通話もできるだろ? 通話は無理なときも多いと思うけど、それでもよかったら掛けて来ていいよ。出られなかったらそれはゴメンな」
「ありがと。でもなるべく我慢する。先生忙しいもんね」
 彼女は嬉しそうに、それでも沖を気遣ってくれる。
「だからこれは『お守り』にするんだ。どーしても! って時はメッセージ送るし、もしかしたら電話もするかも。でも先生も、無理だったら無理! ってちゃんと言ってよね。その方が、私も遠慮要らないしさ」
「お前って……。ホントに結構いい子なんだよなぁ」
「それ、どういう意味よ! 先生、私のことなんだと思ってたわけ?」
 けらけらと笑い合いながら、沖と怜那は束の間の二人だけの楽しい時間を過ごした。
    ◇  ◇  ◇
 今は、これだけでいい。これで十分、満足だ。
 沖に別れの挨拶をして、怜那はひとりで家に向かう帰り道で、アプリのトークルームを確かめてみた。
《これからもよろしくな。》
 ……このメッセージは保護しておこう。寂しくなったらいつでも見られるように。すぐに沖にメッセージを送ったりしなくていいように。
 怜那は、少しだけデータの増えたスマートフォンを握りしめて思う。
 ──電話とかメッセージのやり取りとか、ずっと何かで繋がってないとすぐに切れちゃうような関係じゃないんだよ、私たちは。きっと。
 ねぇ、そうだよね? 沖先生。