1話処刑された瞬間、なぜかあなたの顔だけ思い出せなかった
ー/ー処刑された瞬間、なぜかあなたの顔だけ思い出せなかった
首に冷たい刃が触れた瞬間、私は泣くより先に、あなたの名前を忘れた。
群衆は私を悪役だと叫んでいるのに、処刑台の下で微笑む義妹だけが妙に静かだった。
そして死ぬ直前、私は気づいてしまった。
この光景を、私はもう九百九十九回見ている。
「罪人エリシア・ラヴェル」
刑吏の声が、冬の空に硬く響いた。
雪は降っていなかった。
けれど息は白く、指先は感覚を失っていた。
私は両手を縛られ、膝をつかされていた。
見上げた空は、驚くほど青かった。
死ぬ日に空が綺麗なのは、神様の嫌がらせだと思う。
「王家への反逆、聖女候補への毒殺未遂、偽証、民衆扇動」
並べられる罪状は、どれも身に覚えがない。
けれど、誰も私の言葉など聞かない。
一度目の人生では、私は最後まで叫んだ。
違う。
私はやっていない。
信じて。
お願い。
誰か。
でもその叫びは、石畳に落ちた血より早く乾いた。
二度目の人生では、私は逃げようとした。
三度目では、義妹を避けた。
四度目では、父に縋った。
十度目では、証拠を集めた。
百度目では、自分から悪女を演じた。
五百度目では、誰とも関わらないようにした。
九百回を越えた頃には、死ぬことより、生き直すことのほうが怖くなっていた。
そして今。
999回目の処刑台で、私はもう何も言わなかった。
「最後に言い残すことはあるか」
刑吏が問う。
その問いが形式だけだと、私は知っている。
ここで何を言っても、剣は止まらない。
止まったことなど、一度もない。
私はゆっくりと視線を上げた。
広場には人が溢れていた。
罵声。
憎悪。
好奇心。
そのすべてが、私に向けられていた。
石を投げた少年の顔も。
ハンカチで涙を拭う貴婦人の顔も。
口元だけ笑う神官の顔も。
私は覚えている。
何度も見たから。
何度も殺されたから。
だけど。
処刑台の正面。
王族だけが立つ白い階段の上。
そこにいるはずの人の顔だけが、なぜかぼやけていた。
第一皇子レオンハルト。
私の婚約者だった人。
優しい声で名前を呼び、最後には必ず私を見捨てる人。
愛そうとするたび、私を殺す側に立つ人。
私は彼を憎んでいるはずだった。
憎まなければ、耐えられなかった。
なのに。
輪郭だけが滲んでいる。
金色の髪も、夜明け色の瞳も、何度も私に差し伸べられた手も、思い出せない。
死の恐怖より、そのことが怖かった。
どうして。
どうして、あなたの顔だけ。
「姉様」
静かな声がした。
処刑台の下。
白いドレスに包まれた少女が、祈るように両手を胸に当てていた。
義妹のリリアだった。
私より一つ年下。
父が後妻と共に屋敷へ連れてきた、可憐で、弱くて、誰からも愛される少女。
この国では、彼女を聖女と呼ぶ者さえいた。
「どうか、来世では優しい人になってください」
泣きそうな声だった。
でも涙は一粒も落ちていない。
その目だけが、私を真っ直ぐ見ていた。
999回分の悪意を込めて。
私は笑いそうになった。
優しい人。
私がいつ、優しくなかったのだろう。
幼い頃、義妹が夜中に泣けば、私は毛布を持って行った。
食事を残せば、母に怒られないよう自分の皿へ移した。
父が私を見なくなっても、義妹のせいではないと思おうとした。
レオンハルトが彼女に微笑んだ時も、胸の痛みを飲み込んだ。
だって、私が嫉妬したら、本当に悪役になってしまうから。
私は何度も自分に言い聞かせた。
私が我慢すればいい。
私が強くあればいい。
私が笑えば、全部うまくいく。
その結果が、これだった。
「リリア」
声を出すと、喉が裂けるように痛んだ。
「あなたは、いつから知っていたの」
リリアの睫毛が、ほんの少し揺れた。
周囲には聞こえないほど小さな声で、彼女は言った。
「最初からです」
空気が止まった気がした。
「姉様は、何度生まれ変わっても姉様でした」
リリアは微笑んだ。
「だから嫌いなの」
その瞬間、胸の奥で何かが折れた。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
もっと静かで、取り返しのつかないもの。
ああ。
やっぱり。
この子は知っていた。
私が巻き戻っていることを。
私が死に続けていることを。
それでも、毎回私をこの場所へ導いていた。
「どうして」
九百九十九回も死んで、まだ私はそんな言葉を口にした。
本当に愚かだ。
理由なんて、いつも後から作られる。
愛されなかったから。
奪われたかったから。
姉が邪魔だったから。
可哀想なふりをしていれば、世界が自分に優しくなると知っていたから。
どれも本当で、どれも嘘なのだろう。
リリアは首を傾げた。
「だって姉様は、愛されてはいけない人でしょう?」
群衆の声が遠のいた。
剣が持ち上げられる音だけが、妙に近く聞こえた。
刑吏の影が私の上に落ちる。
私は最後にもう一度、白い階段を見た。
ぼやけた人影。
レオンハルト。
あなたは今、どんな顔をしているの。
私を憎んでいるの。
哀れんでいるの。
それとも、また優しいふりをしているの。
何度も何度も、私はあなたを信じようとした。
一度目の人生で、あなたは私に言った。
「君だけは、私が守る」
その言葉を、私は宝石みたいに抱きしめた。
二度目の人生で、私はあなたに助けを求めた。
あなたは苦しそうに眉を寄せて、それでもリリアの手を取った。
50回目の人生で、私はすべてを話した。
ループのことも、毒のことも、偽の手紙のことも。
あなたは最後まで聞いてくれた。
そして言った。
「疲れているんだ、エリシア」
172回目の人生で、私はあなたを愛さないと決めた。
なのにあなたは、その回に限って私の髪飾りを拾ってくれた。
「君には青が似合う」
その一言で、私はまた壊れた。
300回目の人生で、あなたは私を庇って死んだ。
次に目覚めた時、私は一週間泣いた。
けれど400回目では、あなたは私に剣を向けた。
500回目では、私を地下牢に閉じ込めた。
600回目では、私の無罪を信じかけて、リリアの涙で戻っていった。
700回目では、あなたの手が私の頬に触れた。
800回目では、その手が処刑命令の書類に印を押した。
900回目からは、もう数えるのをやめた。
愛とは、何だったのだろう。
信じるとは、どこまで自分を傷つけることだったのだろう。
「執行」
声が降った。
剣が落ちる。
私は目を閉じた。
その瞬間。
「エリシア!」
誰かが叫んだ。
その声だけは、忘れていなかった。
名前は思い出せないのに。
顔は霞んでいるのに。
声だけが、胸の奥の一番柔らかいところを裂いた。
やめて。
もう呼ばないで。
その声で呼ばれると、私はまた生きたいと思ってしまう。
次の瞬間、世界が白く弾けた。
痛みはなかった。
代わりに、落下する感覚があった。
深い水の底へ沈むように。
あるいは、母の胎内へ戻されるように。
遠くで誰かが泣いていた。
それが誰なのか、私は知りたくなかった。
まぶたの裏に、数字が浮かぶ。
一〇〇〇。
私は息を吸った。
甘い花の匂いがした。
柔らかな寝具。
薄いカーテン越しの朝日。
鳥の声。
私は目を開けた。
見慣れた天蓋。
見慣れた壁紙。
見慣れた、十二歳の自分の手。
細く、傷跡のない指。
また。
また戻った。
喉の奥から、笑いとも悲鳴ともつかない音が漏れた。
何度目でも、目覚めた直後だけは体が震える。
死の記憶は、肉体に残らない。
けれど心には残る。
首を斬られた感覚。
毒で喉が焼けた夜。
塔から落とされた風。
炎に包まれたドレス。
地下牢で凍えた指。
それらが一斉に蘇って、私は布団を握りしめた。
「お嬢様?」
扉の向こうから侍女の声がした。
マリア。
この屋敷で最初に私を裏切る使用人。
1度目は信頼していた。
23度目で、彼女がリリアに私の手紙を渡しているのを見た。
86度目で、彼女の弟がリリア側の医師に雇われていると知った。
110回目で、私は彼女を追放した。
その回、私は階段から突き落とされた。
犯人は別の使用人だった。
つまり、誰を排除しても同じだった。
網は屋敷全体に張られている。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか」
「入らないで」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
扉の向こうで、息を呑む気配。
「かしこまりました」
足音が遠ざかる。
私はベッドから下りた。
鏡の前に立つ。
十二歳のエリシア・ラヴェル。
銀色の髪。
薄い紫の瞳。
まだ頬に幼さが残っている。
まだ、誰にも悪役と呼ばれていない顔。
けれど私は知っている。
この顔は、あと六年で憎悪の的になる。
この手は、触れてもいない毒杯の罪を背負う。
この唇は、真実を叫びすぎて血を吐く。
そしてこの心は、もうほとんど残っていない。
机の引き出しを開ける。
そこには小さな鍵付きの日記帳があった。
一度目の人生で、母からもらったものだ。
まだ母が生きていた頃。
「辛いことは紙に預けなさい。紙は怒らないから」
そう言って笑った母の顔だけは、どの人生でも薄れなかった。
私は日記帳を開く。
最初のページには、過去の私が書いた幼い文字。
今日はお母様と庭でお茶をした。
レオンハルト殿下に会うのが楽しみ。
胸が詰まった。
楽しみだったのだ。
私は、あの人に会うのが楽しみだった。
何も知らない私は、未来を信じていた。
白紙のページを開く。
ペン先を置く。
そして、震える字で書いた。
一〇〇〇回目。
最後にする。
その下に、もう一行。
誰も信じない。
書いた瞬間、部屋の空気が少し冷えた気がした。
窓の外で、庭師が薔薇の手入れをしている。
今日は義妹がこの屋敷へ来る日だ。
何度も何度も繰り返した日。
父が再婚相手を連れて帰り、その娘であるリリアが私の妹になる。
一度目の私は、緊張しながら玄関ホールに立っていた。
母を失った寂しさと、新しい家族への期待を抱えて。
リリアは小さな白い花束を持って現れた。
「お姉様と呼んでもいいですか」
その声に、私は泣きそうになった。
妹ができる。
もう一人じゃない。
私はそう思った。
馬鹿だった。
本当に、救いようがないほど。
支度を終える頃、父から呼び出しがあった。
玄関ホールへ向かう廊下は長い。
壁にはラヴェル家歴代当主の肖像画が並んでいる。
その視線はいつも、私を裁いているようだった。
幼い頃は怖くて、早足で通り抜けた。
今は何も感じない。
玄関ホールには、すでに父が立っていた。
ラヴェル公爵。
私の父。
血のつながった、誰より遠い人。
彼は私を見ると、わずかに眉を寄せた。
「エリシア、顔色が悪いな」
「問題ありません」
「今日は大切な日だ。無礼のないように」
心配ではなかった。
注意だった。
私は浅く頭を下げた。
「承知しております」
父の目が一瞬だけ揺れた。
十二歳の娘にしては、声が硬すぎたのかもしれない。
けれど、取り繕う気力はなかった。
扉が開く。
春の風が流れ込む。
そして、あの子が現れた。
淡い金髪。
蜂蜜色の瞳。
小さな体。
白い花束。
何も知らない人なら、守ってあげたくなるだろう。
リリアは私を見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「お姉様」
その呼び方に、背中が粟立つ。
けれど私は逃げなかった。
九百九十九回逃げても、何も変わらなかったから。
リリアは私の前まで来て、花束を差し出した。
「今日から家族になれるのが、とても嬉しいです」
私は花束を見た。
白いリナリア。
花言葉は、この国では「私の恋に気づいて」。
初回の私は、それを知らなかった。
50回目で植物図鑑を読んで知った。
100回目で、この花がレオンハルトの母妃の好きな花だと知った。
200回目で、リリアがわざとこれを選んでいたと知った。
彼女の執着は、最初から皇子へ向いていたのか。
それとも、皇子に愛される私へ向いていたのか。
今でも分からない。
「ありがとう」
私は花束を受け取らなかった。
リリアの手が空中で止まる。
父が咳払いをした。
「エリシア」
「花粉で少し気分が悪くなりますので」
嘘ではない。
この香りを嗅ぐと、処刑台の血の匂いまで思い出す。
リリアの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
けれどすぐに、悲しそうに微笑む。
「ごめんなさい。私、知らなくて」
周囲の使用人たちの空気が変わる。
可哀想なリリア。
冷たいエリシア。
いつもの構図。
たった一つ花束を受け取らなかっただけで、物語はもう動き始める。
私は静かにリリアを見た。
「知らないなら、謝らなくていいわ」
リリアが瞬きをした。
「え……」
「悪意がないなら、罪ではないでしょう」
父が戸惑ったように私を見た。
使用人たちも黙る。
リリアだけが、笑顔を少し崩した。
私はその表情を見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
この子は、私が怒ると思っていた。
私が冷たく突き放して、周囲に悪印象を残すと思っていた。
でも私は怒らない。
泣かない。
説明もしない。
ただ、罠に名前をつけて返す。
「これからよろしくね、リリア」
私は一歩近づき、彼女の耳元で囁いた。
「今回は、あなたの望む悪役にはならない」
リリアの肩がわずかに震えた。
私はその反応だけで十分だった。
やはり覚えている。
少なくとも、何かを知っている。
彼女が顔を上げた時には、もう無邪気な妹の顔に戻っていた。
「はい、お姉様」
その声は甘かった。
毒のように。
その日の午後、私は庭園にいた。
リリアとの歓迎茶会から逃げたわけではない。
逃げれば逃げたで、また噂になる。
だから正面から欠席した。
「体調が悪いので休みます」と父に伝えただけだ。
リリアはきっと、寂しそうに微笑むだろう。
使用人たちは、私の冷淡さを噂するだろう。
構わない。
好かれようとすると、必ず死ぬ。
嫌われようとしても、必ず死ぬ。
ならば今回は、評価を捨てる。
庭の奥にある古い温室へ向かう。
ここは母が生前使っていた場所だった。
今ではほとんど人が来ない。
私は温室の扉を開けた。
湿った緑の匂いがした。
蔦の絡まるガラス屋根。
水の張った鉢。
枯れかけた青い薔薇。
そして、その前に人がいた。
私は足を止めた。
ありえない。
この時間、この場所に彼がいることなど、一度もなかった。
「……エリシア?」
少年が振り返る。
金色の髪が光を拾った。
夜明けのような瞳。
まだ十四歳の、第一皇子レオンハルト。
胸が、嫌な音を立てた。
思い出せなかった顔が、そこにあった。
処刑台では霞んでいたのに。
今はあまりにも鮮明で、痛いほどだった。
「なぜ、ここに」
私の声は掠れた。
レオンハルトは少し困ったように笑った。
その笑い方を、私は知っている。
何度も好きになった。
何度も憎んだ。
何度も、忘れようとして失敗した。
「君に会いに来た、と言ったら怒る?」
普通なら、胸が高鳴る言葉だった。
でも私には刃物に聞こえた。
「怒りません」
私は一歩下がった。
「恐ろしいだけです」
レオンハルトの表情が固まった。
言い過ぎたと思った。
けれど取り消す気はなかった。
優しさに怯えることを、もう隠せない。
彼が差し出す手の先に、何度も処刑台があった。
「私は、君を怖がらせた?」
レオンハルトが静かに問う。
十四歳の少年とは思えない声だった。
そこに、疲れた大人のような響きが混じっている。
私は息を止めた。
まさか。
「殿下」
「その呼び方、嫌いだ」
彼は小さく笑った。
「前は、名前で呼んでくれた」
体の芯が冷えた。
前。
前と言った。
私はレオンハルトを見つめた。
「いつの前ですか」
彼は答えなかった。
ただ、青い薔薇に視線を落とした。
「昨夜、夢を見たんだ」
「夢?」
「君が死ぬ夢」
心臓が跳ねた。
「何度も」
温室の中で、水滴が葉から落ちる音がした。
ぽたり。
ぽたり。
まるで秒針のように。
レオンハルトは続けた。
「処刑台で、君が僕を見ていた。でも僕は動けなかった。叫んでいるのに、声が届かない。君はいつも、最後に僕を見る」
やめて。
聞きたくない。
「そして目が覚めると、胸が痛い」
レオンハルトは自分の胸に手を当てた。
「僕は君を知っている気がする。まだ今日、初めて会うはずなのに」
私は笑った。
笑うしかなかった。
運命は、どこまで残酷なのだろう。
1000回目にして、彼も記憶の欠片を持っている。
私が一番欲しかったもの。
誰かに分かってほしかった証。
それを、今さら。
今さら差し出されても。
「都合がいいですね」
声が震えた。
「え?」
「私が何度も助けを求めた時には、あなたは信じなかった」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
「エリシア」
「私が違うと言っても、疲れているんだと言った。私が証拠を見せても、もう少し調べようと言って時間を失った。私が殺される直前になって、いつもそんな顔をする」
言葉が止まらなかった。
本当は、最初から言いたかった。
一度目の処刑台で。
100回目の夜で。
300 回目に彼が死んだ朝で。
800回目に署名された処刑命令を見た瞬間に。
「あなたは優しかった」
私はレオンハルトを睨んだ。
「だから一番残酷だった」
彼の唇が震えた。
「僕は……」
「覚えていないなら、謝らないでください」
私は遮った。
「覚えているなら、もっと許せません」
沈黙が落ちた。
温室の外では、春の鳥が鳴いている。
こんな穏やかな日に、私は十四歳の少年へ九999回分の憎しみを向けている。
滑稽だ。
彼はまだ何もしていない。
でも、していない彼と、してきた彼を、私の心は分けられなかった。
傷は時間を越える。
恨みも、恋も。
レオンハルトはゆっくりと息を吐いた。
「それでも、僕は君を助けたい」
胸が痛んだ。
その言葉は、何度も聞いた。
何度も信じた。
何度も裏切られた。
「助けなくていいです」
「エリシア」
「私を助けようとしないで」
私は自分の手を握りしめた。
「あなたが助けようとするたび、私はあなたを信じたくなる」
レオンハルトが黙った。
「信じたら、期待してしまう。期待したら、失った時にまた死ぬ」
本当は、死ぬのは肉体だけではなかった。
信じるたびに、心が死んだ。
名前を呼ばれるたびに蘇って、また殺された。
それを愛と呼ぶには、あまりにも痛すぎた。
「だからお願いです」
私は頭を下げた。
皇子にではなく。
かつて愛した人に。
「私に優しくしないでください」
言い終えた瞬間、視界が滲みそうになった。
泣かない。
泣く資格なんてない。
私はもう、少女ではない。
999回死んだ亡霊だ。
レオンハルトは長い間、何も言わなかった。
そして、低い声で言った。
「それはできない」
私は顔を上げた。
「なぜ」
彼の瞳が、泣きそうに揺れていた。
「君に優しくしなかった未来を、僕はたぶん知っている」
息が止まる。
「そして、そのたびに君を失った」
温室の空気が重くなる。
記憶ではない。
でも、感情だけが残っている。
彼もまた、どこかで苦しんでいたのかもしれない。
そう思った瞬間、自分が嫌になった。
同情したくない。
理解したくない。
彼にも理由があったのだと考えたら、憎しみの置き場所がなくなる。
私は憎んでいたい。
そうでなければ、あの処刑台の私が報われない。
「失ったのは、私です」
「分かってる」
「分かっていません」
「分からせてほしい」
その言葉に、胸の奥が激しく揺れた。
ずるい。
本当にずるい。
一度目にそれを言ってくれたら。
百回目に、信じてくれたら。
五百回目に、私ではなくリリアを疑ってくれたら。
私はまだ、あなたを愛せたかもしれないのに。
「遅いです」
私は呟いた。
「全部、遅い」
レオンハルトは唇を噛んだ。
その顔を見て、少しだけ胸が痛んだ。
まだ好きなのだと思った。
憎しみの下に、燃え残った恋がある。
九百九十九回も死んだのに、消えなかった。
それが一番、惨めだった。
その時、温室の扉が開いた。
「お姉様?」
甘い声。
リリアだった。
彼女は私とレオンハルトを見比べ、驚いたように目を丸くした。
「殿下もいらっしゃったのですね」
白い花のような笑顔。
けれど、その目の奥で何かが凍った。
私は理解した。
この出会いは、彼女にとって予定外だったのだ。
1000回目。
何かが変わり始めている。
リリアは可愛らしく膝を折った。
「初めまして、レオンハルト殿下。リリアと申します」
レオンハルトは彼女を見た。
その瞬間、私は無意識に息を止めた。
いつもの未来なら、ここで彼は優しく微笑む。
リリアは頬を染める。
私は胸の痛みを隠す。
すべての始まり。
何度も見た、破滅の種。
けれどレオンハルトは笑わなかった。
ただ、静かに彼女を見つめた。
「君が、リリア」
その声には温度がなかった。
リリアの笑顔が一瞬だけ揺れる。
「はい」
「君のことも、夢で見たよ」
リリアの指が、スカートを握った。
「まあ、光栄です」
「君はいつも泣いていた」
レオンハルトは言った。
「泣きながら、エリシアを追い詰めていた」
温室の中が静まり返った。
リリアの瞳から、色が消えた。
私は動けなかった。
こんな展開は、一度もなかった。
彼が初対面でリリアを疑うことなど。
彼女の仮面に、最初から傷をつけることなど。
「殿下」
私は咄嗟に声を出した。
なぜ止めたのか、自分でも分からない。
リリアを庇いたかったわけではない。
ただ、怖かった。
運命が大きく変わることが。
変わった先に、またもっと酷い結末が待っていることが。
リリアはゆっくりと私を見た。
そして微笑んだ。
その笑顔は、十二歳の少女のものではなかった。
処刑台の下で見た、あの顔だった。
「お姉様」
甘く、冷たい声。
「今回は、殿下まで連れていくのですか?」
背筋が凍った。
レオンハルトが私の前に出ようとする。
私は反射的に彼の袖を掴んだ。
守られたくなかった。
でも、失いたくもなかった。
その矛盾に、吐き気がした。
リリアは私たちの手元を見た。
「いいですね」
小さく笑う。
「何度壊しても、また繋がるなんて」
「リリア」
私は彼女の名を呼んだ。
「あなたは何を覚えているの」
リリアは首を傾げた。
「全部ではありません」
「嘘」
「本当です。ただ、分かるんです」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「お姉様が幸せになりそうになると、ここが痛くなる」
幼い顔で、彼女は続けた。
「お姉様が愛されると、息ができなくなる」
その声には、憎しみだけではない何かがあった。
嫉妬。
孤独。
飢え。
誰かに選ばれたいという、剥き出しの欲望。
私はその感情を知っていた。
知りたくなかったのに、痛いほど分かった。
私も同じだったから。
父に見てほしかった。
母にもう一度抱きしめてほしかった。
レオンハルトに信じてほしかった。
誰か一人でよかった。
私だけを選んでほしかった。
「私はあなたから何も奪っていない」
私が言うと、リリアは笑った。
「いるだけで奪っているんです」
その言葉は、胸に刺さった。
「お姉様は、何もしなくても公爵家の娘でしょう。何もしなくても殿下の婚約者でしょう。何もしなくても、亡くなった奥様の思い出ごと愛されるでしょう」
「愛されてなんか」
「愛されていました」
リリアの声が初めて震えた。
「少なくとも、最初から席はあった」
何も言えなかった。
彼女の言葉は間違っている。
私は愛されていなかった。
父には遠ざけられ、屋敷では孤立し、民衆には憎まれた。
でも、確かに席はあったのかもしれない。
ラヴェル公爵令嬢。
皇子の婚約者。
亡き正妻の娘。
その席が、リリアにはなかった。
だからといって、私を殺していい理由にはならない。
けれど彼女もまた、壊れていた。
壊れた者同士が、互いの傷を刃にして刺し合っていた。
「リリア」
レオンハルトが口を開いた。
「君の痛みは、エリシアの罪ではない」
リリアの目が彼へ向く。
「殿下はいつもそう」
「いつも?」
「お姉様を見ている」
その声に、初めて年相応の泣きそうな響きが混じった。
「私が泣いても、倒れても、毒を飲んでも、最後の最後でお姉様を見る」
私は息を呑んだ。
レオンハルトもまた、表情を歪めた。
リリアは笑った。
「だから、殺すしかなかったんです」
あまりにも真っ直ぐな告白だった。
温室の中で、青い薔薇が静かに揺れている。
十二歳の少女が、未来の殺意を口にする。
それでも世界は何も起きていないかのように春の光を注いでいた。
レオンハルトが一歩踏み出す。
「君を止める」
リリアは彼を見上げた。
「止められませんよ」
「なぜ」
「だって、この世界はお姉様が悪役でいるほうが、みんな安心するんです」
その言葉に、私は膝から力が抜けそうになった。
分かっていた。
何度も見てきた。
人は分かりやすい悪を欲しがる。
可哀想な聖女。
冷たい悪役令嬢。
優しい皇子。
その物語に当てはめれば、誰も考えなくて済む。
私の涙も。
リリアの飢えも。
レオンハルトの迷いも。
全部、役割の中に閉じ込められる。
「でも」
リリアは私を見た。
「今回は少し、違いますね」
彼女の視線が、私の手に落ちる。
私はまだレオンハルトの袖を掴んでいた。
慌てて離そうとした。
けれど彼が、逆に私の手首を掴んだ。
優しく。
逃がさないように。
縛るのではなく、確かめるように。
「離して」
「今離したら、君は一人になる」
「一人でいい」
「嘘だ」
私は彼を睨んだ。
「あなたに何が分かるの」
レオンハルトは痛みを堪えるように言った。
「分からない。だから、今度は勝手に分かったふりをしない」
その言葉が、胸の奥の扉を叩いた。
開けたくない。
開けたら、また信じてしまう。
「エリシア」
彼は私の名前を呼んだ。
「僕を信じなくていい」
私は目を見開いた。
「でも、君が一人で死ぬ未来だけは、もう許さない」
リリアが小さく笑った。
「愛の言葉みたい」
「愛だよ」
レオンハルトは迷わず言った。
私は呼吸を忘れた。
「たぶん、ずっとそうだった」
彼の手が震えている。
「でも僕は間違えた。守るという言葉に酔って、君の言葉を聞かなかった。信じるべき時に疑って、疑うべき相手を慰めた。優しさの向け先を間違えた」
それは謝罪だった。
記憶のない彼からの。
それでも、九百九十九回分の私へ向けられた。
「ごめん」
たった三文字。
あまりにも遅くて。
あまりにも足りなくて。
それなのに、胸が壊れそうになった。
私は泣かなかった。
泣けば、許してしまいそうだった。
「謝らないでと言ったはずです」
「覚えているなら許せないんだろう」
「はい」
「なら許さなくていい」
レオンハルトは静かに言った。
「僕は許されるために君のそばにいたいんじゃない」
その言葉に、リリアの顔が歪んだ。
「やっぱり」
彼女は笑った。
「やっぱり、殿下はお姉様を選ぶ」
その瞬間、温室のガラスが軋んだ。
風もないのに、天井の蔦が揺れる。
世界が反応している。
私は日記に書いた数字を思い出した。
1000回目。
最後。
もしかして、この回で本当に終わるのか。
終わらせなければならないのか。
「リリア」
私は一歩前に出た。
レオンハルトの手が離れる。
今度は、自分で立った。
「私はあなたを許さない」
リリアの目が細くなる。
「でも、あなたの痛みをなかったことにもしない」
彼女の唇が震えた。
「何それ」
「あなたは私を殺した。何度も。私はあなたを憎んでいる」
言葉にすると、不思議と心が静かになった。
「でも、私もあなたを見ていなかった」
リリアが固まる。
「あなたが何を欲しがっているのか、考えなかった。奪われることばかり怖がって、あなたが何も持っていないことを見ようとしなかった」
「同情ですか」
「違う」
私は首を振った。
「決別よ」
リリアの表情が消えた。
「私はもう、あなたの悪役にならない」
声が震えなかった。
「あなたを救うために自分を差し出すこともしない。あなたを憎むために人生を使うこともしない。レオンハルトを愛するかどうかも、あなたに決めさせない」
初めて、はっきり分かった。
私はずっとリリアに縛られていた。
憎しみで。
恐怖で。
役割で。
そしてレオンハルトにも縛られていた。
愛で。
期待で。
未練で。
でも、1000回目の私は、そのどちらでもない場所へ行きたかった。
愛されるためではなく。
復讐するためでもなく。
ただ、自分を自分のものにするために。
「今回は、私が選ぶ」
温室のガラスに、ひびが入った。
リリアは私を見つめたまま、ぽつりと言った。
「そんなの、ずるい」
その声は幼かった。
本当に、迷子の子供のようだった。
「私には、選ぶものなんてなかったのに」
胸が痛んだ。
それでも、私はもう手を伸ばさなかった。
差し出した手を何度も噛み千切られて、それでも差し出すことを優しさとは呼ばない。
それは依存だ。
相手を救うふりをして、自分が必要とされたいだけの弱さだ。
私は、ようやくそれを認めた。
「これから作ればいい」
リリアが笑う。
「できると思います?」
「知らない」
私は正直に言った。
「でも、私を殺しても手に入らなかったでしょう」
その言葉に、リリアの瞳が揺れた。
初めてだった。
彼女が本当に傷ついた顔を見せたのは。
レオンハルトが私の隣に立つ。
近すぎない距離。
触れない距離。
それが今はありがたかった。
「エリシア」
彼が言った。
「僕は待つ」
私は彼を見た。
「何を」
「君が僕を許す日じゃない」
彼は少しだけ笑った。
「君が、誰かを信じたいと思える日を」
その優しさは、まだ怖い。
怖くて、痛くて、疑わしい。
でも、以前のように甘い鎖ではなかった。
選べる距離に置かれた灯りのようだった。
近づくかどうかは、私が決めていい。
それだけで、息が少し楽になった。
リリアは背を向けた。
「終わったと思わないでください」
その声は震えていた。
「私は、お姉様みたいに強くない」
「私も強くない」
思わず答えた。
リリアが振り返る。
「強かったら、九百九十九回も同じ人を愛して苦しまない」
レオンハルトが息を呑んだ。
私は苦笑した。
言ってしまった。
一番言いたくなかった本音を。
リリアは私を見つめた。
そして、何も言わずに温室を出て行った。
扉が閉まる。
世界のひびは、それ以上広がらなかった。
ただ、青い薔薇の花びらが一枚落ちた。
私はその場に立ち尽くした。
足が震えている。
今さら怖くなった。
変えてしまった。
1000回目の最初の日を。
もう、前と同じ未来には戻れない。
でも、それが救いなのか破滅なのかは分からない。
「エリシア」
レオンハルトの声がした。
私は彼を見ないまま言った。
「さっきの言葉は忘れてください」
「どれ」
「九百九十九回も愛したとかいう、愚かな告白です」
「忘れない」
即答だった。
私は睨んだ。
「最低ですね」
「うん」
彼は困ったように笑った。
「でも、忘れたら君がまた一人になる気がする」
その言葉に、胸がまた痛んだ。
私は窓の外を見た。
庭では、使用人たちが何事もなかったように動いている。
屋敷のどこかでは、父が新しい家族の未来を信じている。
リリアはきっと、泣くか、笑うか、次の罠を考えている。
そして私は、生きている。
首はつながっている。
手は震えている。
心は傷だらけで、まだ誰も信じられない。
それでも、生きている。
「殿下」
「名前で呼んでほしい」
「嫌です」
「そっか」
寂しそうな声だった。
少しだけ、いい気味だと思った。
その自分に、少しだけ安心した。
まだ私は怒れる。
まだ私は嫌だと言える。
まだ私は、自分の心を捨てきっていない。
「レオンハルト」
小さく呼ぶと、彼が驚いたように私を見た。
私は彼を見ない。
「一度だけです」
彼は何も言わなかった。
ただ、息を詰める気配がした。
「私はあなたを信じません」
「うん」
「あなたを許しません」
「うん」
「あなたの優しさを疑います」
「それでいい」
「それでも」
言葉が喉に引っかかった。
言えば、何かが始まる。
また間違えるかもしれない。
また殺されるかもしれない。
また、この人を愛してしまうかもしれない。
怖い。
本当に怖い。
でも、処刑台で名前を忘れた時。
私は分かってしまった。
忘れたかったのではない。
忘れられなかったから、心が守るために隠したのだ。
「それでも、今度は」
私はゆっくり息を吸った。
「私が死ぬ前に、ちゃんと私の言葉を聞いてください」
レオンハルトの瞳が揺れた。
「約束する」
私は目を閉じた。
約束なんて嫌いだ。
破られるためにあると知っている。
でも。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
その言葉を、今日だけは捨てずに持っていようと思った。
温室の外で、鐘が鳴った。
歓迎茶会の始まりを告げる鐘。
物語がまた動き出す。
悪役令嬢と呼ばれる未来へ。
義妹に奪われる運命へ。
皇子に愛され、疑い、裏切られ、壊れていく道へ。
でも、一つだけ違う。
私はもう、処刑台で終わるために生きない。
愛されるためだけにも生きない。
誰かを恨むためだけにも生きない。
1000回目の人生で、私は初めて、自分の足で温室の扉を開けた。
背後でレオンハルトがついてくる気配がする。
振り返らなかった。
手も取らなかった。
それでも、置いていかれたとは思わなかった。
春の光が眩しい。
その眩しさに、少し泣きそうになった。
けれど涙は落とさない。
まだ早い。
泣くのは、すべてが終わったあとでいい。
あるいは、もう二度と処刑台へ戻らなかった時でいい。
私はドレスの裾を握り、屋敷へ向かって歩き出した。
遠くの窓辺で、リリアがこちらを見ていた。
その目には、さっきまでの可憐な妹はいない。
けれど私も、もう優しい姉ではいられない。
視線が重なる。
彼女が唇だけで何かを言った。
聞こえなかった。
でも、分かった。
また殺してあげる。
私は小さく笑った。
今度は、その言葉に怯えなかった。
胸は痛む。
未練もある。
怖さも消えない。
愛も、憎しみも、まだぐちゃぐちゃに絡まっている。
それでも。
私は心の中で、初めて彼女に返事をした。
やれるものなら、やってみなさい。
私はもう、あなたのために死なない。
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