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第7話|眠れる銀色の箱

ー/ー



 

 五年ぶりに持ち上げられたアルミニウムの天板は、想像していたよりもずっと重かった。ヒンジの関節が微かに軋む音を立てる。
 真っ暗な液晶ディスプレイには、薄く均一に降り積もった埃の層が、部屋の薄暗い電球色の光を乱反射して白く濁っていた。私はグレーのスウェットの袖口を無意識に手の甲まで伸ばし、黒いガラスの表面をゆっくりと拭き取る。冷え切った金属とガラスのひんやりとした感触が、手首の静脈を伝って全身へと広がっていく。

 キーボードの右上にある、小さな丸い電源ボタン。
 指先をその上に乗せたまま、私は小さく息を止めた。これを押し込めば、途切れていた時間が再び動き出してしまう。三十歳の誕生日に抱いた焦りと、それを維持できずに投げ出した自分自身の挫折の記憶が、この銀色の箱の中には圧縮されている。
 私は、丸メガネの奥で一度だけ強く瞬きをし、指の腹でその小さな円をぐっと深く押し込んだ。

 カチリ。
 微かなプラスチックの手応え。
 数秒の完全な沈黙の後、ノートパソコンの奥深くから「ブーン」という低いモーター音が鳴り始めた。長い冬眠から無理やり叩き起こされたことを不服に思うような、重々しく、鈍いファンの駆動音。続いて、長年基盤の上に溜まっていた埃が微かな熱を帯びて焦げるような、特有の機械の匂いが漂ってくる。
 真っ暗だった画面の中央に、見慣れたメーカーのロゴが白く浮かび上がった。

「……生きてる」

 掠れた声が口から漏れていた。
 ロゴの下で、小さな白い点が連なり、くるくると円を描いて回り始める。起動するのを待つ間、私はローテーブルの上に置かれたほうじ茶のマグカップを両手で包み込んだ。すでに完全に常温まで冷めきっているが、それでも何かを握っていないと、指先の微かな震えを抑えきれそうになかった。

 しかし、白い点はいつまで経っても単調な回転を続けていた。
 やがて、画面の背景が鮮やかなブルーへと切り替わり、そこに絶望的な白い文字列が浮かび上がる。

『Windows の準備をしています。コンピューターの電源を切らないでください』
『0% 完了』

 私は、静かに天を仰いだ。
 五年間という空白の時間は、決して伊達ではない。クローゼットの暗がりで放置されていた間に世界で更新され続けてきた膨大なアップデートプログラムが、今ここぞとばかりに一斉にインストールを開始したのだ。
 パーセンテージの数字は、一分が経過しても「0%」からまったく進まない。
 回転し続ける白いドットを見つめていると、九条先輩の眼鏡の奥の冷たい視線が、なぜか不意に脳裏に浮かんで消えた。

 パソコンの排気音が徐々に大きくなるのを聞きながら、私はローテーブルの端に伏せて置いていたスマートフォンに手を伸ばす。
 冷たいガラスの画面をタップし、ブラウザのアプリを起動した。検索窓の中央で、チカチカと点滅する縦線が、私に早く何かを入力するよう急かしてくる。
 私は少し迷ってから、不器用なフリック入力で、二文字を打ち込んだ。

『副業』

 入力して、一度バックスペースで全て消す。
 自分がひどく身の程知らずなことをしているような気がして、画面から目を逸らした。
 それでも、また指が動く。

『副業 初心者』

 エクセルのマクロが少し組めるくらいで、デザインができるわけでも、プログラミングができるわけでもない。そして何より、平日は深夜まで残業し、休日は泥のように眠るだけの生活の中で、まとまった作業時間を確保することは不可能に近い。
 私は、現在の自分の情けない現状を、もう一語だけ追加した。

『副業 初心者 時間がない』

 検索窓に並んだ三つの単語。
 私は右手の親指で「検索」のボタンをタップした。

 画面が切り替わり、無数の検索結果がずらりと並ぶ。
 一番上に出てきたのは、「広告」の小さな文字がついたサイトだった。

『スマホで一日五分! 誰でも月十万稼げる秘密のメソッド!』
『スキルゼロから一ヶ月で脱サラ! 自由な人生を手に入れる!』

 極彩色のバナーと、空虚な言葉の羅列。
 そんな甘い条件が存在するなら、あの獣の匂いの満員電車はとうに消滅している。私は眉間に薄くシワを寄せ、胡散臭い広告のリンクを親指で弾き飛ばした。
 ブログ運営、データ入力、動画編集、Webライター。
 比較的堅実そうな記事をいくつか開いて読み進める。しかし、どれも「最初は時給換算で数十円からのスタートです」「毎日三時間は作業時間を確保しましょう」と、私の現在の生活を真っ向から否定し、さらなる過労を要求する条件ばかりが並んでいた。
 スマートフォンの発光画面を見つめる私の目が、再び濁り始める。
 やっぱり、私みたいな人間には無理なのだろうか。

 親指でさらに画面をスクロールし続けた時、ある個人のビジネス系ブログの記事に、不意にスクロールの指が止まった。

『時間がない会社員こそ、「生成AI」を味方につけろ』

「……生成、AI」
 静かな部屋に、私の呟きが落ちる。
 ニュースの特集で「十年後になくなる職業」という煽り文句とともに紹介される、人間の仕事を奪う遠いテクノロジー。私が持っていた知識はその程度のものだった。
 しかし、そのブログの記事には、こう書かれていた。

『文章を書くのが苦手なら、AIに書かせればいい。絵が描けないなら、AIに描かせればいい。あなた自身が汗水流して手を動かす必要はありません。優秀なAIという部下たちに的確な指示を出す、「ディレクター」になればいいのです』

 ディレクター。
 その五文字を目で追った瞬間、私の思考が一瞬だけ白く飛んだ。
 意味がわからず、もう一度同じ一文を読み返す。
「明日の会議で使うから、適当にまとめといて」
 昼間、小堀田部長に投げつけられた雑な言葉が蘇る。あれは、最悪の「指示」だったのだ。
 私はいつも、会社で指示を「受ける」側だった。九条先輩の手作業の強要に付き合わされ、小堀田部長の曖昧な丸投げに振り回され、波風を立てないための都合のいい事務員としてやり過ごしてきた。
 そんな私が、誰かに指示を出す。作業者ではなく、監督になる。

「……できるわけない」

 口に出して否定してみたけれど、息の吸い方が、いつの間にか数時間前よりも明らかに深くなっていることに気づいた。
 もしかしたら。
 時間がなくても、特別な才能がなくても、この見えない存在が、私という人間の不完全な余白を補ってくれるのだとしたら。
 その想像の広がりを自ら打ち消すように、私はスマートフォンをテーブルに伏せて置いた。
 期待して、また裏切られるのが怖い。

 気づけば、時計の針は小一時間ほど進んでいた。
 ジャーン。

 突然、目の前の銀色のノートパソコンから、小さく澄んだ起動音が鳴り響いた。
 画面の背景が、ブルーから鮮やかな風景写真へと切り替わる。
『100% 完了しました』の文字は消滅し、五年前と何も変わらない、アイコンが数個並んだだけの真っさらなデスクトップ画面が広がっていた。
 排気口から吐き出されるファンの音も、いつの間にか静かで安定した呼吸のようなリズムへと落ち着いている。機械は目覚め、静かに待っていた。

 ジークが、テーブルの下から顔を出し、私のすり減ったパンプスの上に前足を乗せた。彼はノートパソコンの画面を一瞥すると、小さく「にゃ」と鳴いて、また奥へと引っ込んでしまった。
 どうしろとも言わない。ただ、そこにあるものを示しただけ。

「……まあ、やってみるだけなら」

 誰に対する言い訳かわからない言葉を零し、私は丸メガネの位置を人差し指で押し上げた。
 そして、五年間眠っていたプラスチックのキーボードの上に、ゆっくりと両手を乗せる。
 マウスパッドをなぞり、ブラウザのアイコンをダブルクリックする。
 真っ白な検索窓の真ん中で、カーソルが点滅している。

かすかに震える指先で、まだパスワードさえ設定されていない空の検索窓に、カーソルを合わせた。
 不意に、レンズの裏側が熱くなった。拭う気力も、波風を立てないための反射的な愛想笑いも、今の私には出てこない。
 人差し指が、一瞬だけ宙に浮いた。

 『私は、古い鍬を持っています。土は休んでいる間も養分を蓄えていると聞きました。でも、私はもう、掘り方がわからないです』
 こんなポエムのような言葉を、検索エンジンに打ち込んでも「一致する結果はありません」と冷たく返されるだけだ。
 でも、もし、あの老婦人が言うように、相手が「私を急かさない存在」なのだとしたら。

 私は震える指先に力を込め、『ChatGPT』という七つのアルファベットを打ち込み、右手の小指でエンターキーを静かに叩いた。
ターン。
 昨日、誰もいないオフィスで叩き続けた電卓と同じ音が、静かな部屋に響いた。
 けれどそれは、私から時間を奪う音ではなく、止まっていた時間を動かす、始まりの音だった。
挿絵7話


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 五年ぶりに持ち上げられたアルミニウムの天板は、想像していたよりもずっと重かった。ヒンジの関節が微かに軋む音を立てる。
 真っ暗な液晶ディスプレイには、薄く均一に降り積もった埃の層が、部屋の薄暗い電球色の光を乱反射して白く濁っていた。私はグレーのスウェットの袖口を無意識に手の甲まで伸ばし、黒いガラスの表面をゆっくりと拭き取る。冷え切った金属とガラスのひんやりとした感触が、手首の静脈を伝って全身へと広がっていく。
 キーボードの右上にある、小さな丸い電源ボタン。
 指先をその上に乗せたまま、私は小さく息を止めた。これを押し込めば、途切れていた時間が再び動き出してしまう。三十歳の誕生日に抱いた焦りと、それを維持できずに投げ出した自分自身の挫折の記憶が、この銀色の箱の中には圧縮されている。
 私は、丸メガネの奥で一度だけ強く瞬きをし、指の腹でその小さな円をぐっと深く押し込んだ。
 カチリ。
 微かなプラスチックの手応え。
 数秒の完全な沈黙の後、ノートパソコンの奥深くから「ブーン」という低いモーター音が鳴り始めた。長い冬眠から無理やり叩き起こされたことを不服に思うような、重々しく、鈍いファンの駆動音。続いて、長年基盤の上に溜まっていた埃が微かな熱を帯びて焦げるような、特有の機械の匂いが漂ってくる。
 真っ暗だった画面の中央に、見慣れたメーカーのロゴが白く浮かび上がった。
「……生きてる」
 掠れた声が口から漏れていた。
 ロゴの下で、小さな白い点が連なり、くるくると円を描いて回り始める。起動するのを待つ間、私はローテーブルの上に置かれたほうじ茶のマグカップを両手で包み込んだ。すでに完全に常温まで冷めきっているが、それでも何かを握っていないと、指先の微かな震えを抑えきれそうになかった。
 しかし、白い点はいつまで経っても単調な回転を続けていた。
 やがて、画面の背景が鮮やかなブルーへと切り替わり、そこに絶望的な白い文字列が浮かび上がる。
『Windows の準備をしています。コンピューターの電源を切らないでください』
『0% 完了』
 私は、静かに天を仰いだ。
 五年間という空白の時間は、決して伊達ではない。クローゼットの暗がりで放置されていた間に世界で更新され続けてきた膨大なアップデートプログラムが、今ここぞとばかりに一斉にインストールを開始したのだ。
 パーセンテージの数字は、一分が経過しても「0%」からまったく進まない。
 回転し続ける白いドットを見つめていると、九条先輩の眼鏡の奥の冷たい視線が、なぜか不意に脳裏に浮かんで消えた。
 パソコンの排気音が徐々に大きくなるのを聞きながら、私はローテーブルの端に伏せて置いていたスマートフォンに手を伸ばす。
 冷たいガラスの画面をタップし、ブラウザのアプリを起動した。検索窓の中央で、チカチカと点滅する縦線が、私に早く何かを入力するよう急かしてくる。
 私は少し迷ってから、不器用なフリック入力で、二文字を打ち込んだ。
『副業』
 入力して、一度バックスペースで全て消す。
 自分がひどく身の程知らずなことをしているような気がして、画面から目を逸らした。
 それでも、また指が動く。
『副業 初心者』
 エクセルのマクロが少し組めるくらいで、デザインができるわけでも、プログラミングができるわけでもない。そして何より、平日は深夜まで残業し、休日は泥のように眠るだけの生活の中で、まとまった作業時間を確保することは不可能に近い。
 私は、現在の自分の情けない現状を、もう一語だけ追加した。
『副業 初心者 時間がない』
 検索窓に並んだ三つの単語。
 私は右手の親指で「検索」のボタンをタップした。
 画面が切り替わり、無数の検索結果がずらりと並ぶ。
 一番上に出てきたのは、「広告」の小さな文字がついたサイトだった。
『スマホで一日五分! 誰でも月十万稼げる秘密のメソッド!』
『スキルゼロから一ヶ月で脱サラ! 自由な人生を手に入れる!』
 極彩色のバナーと、空虚な言葉の羅列。
 そんな甘い条件が存在するなら、あの獣の匂いの満員電車はとうに消滅している。私は眉間に薄くシワを寄せ、胡散臭い広告のリンクを親指で弾き飛ばした。
 ブログ運営、データ入力、動画編集、Webライター。
 比較的堅実そうな記事をいくつか開いて読み進める。しかし、どれも「最初は時給換算で数十円からのスタートです」「毎日三時間は作業時間を確保しましょう」と、私の現在の生活を真っ向から否定し、さらなる過労を要求する条件ばかりが並んでいた。
 スマートフォンの発光画面を見つめる私の目が、再び濁り始める。
 やっぱり、私みたいな人間には無理なのだろうか。
 親指でさらに画面をスクロールし続けた時、ある個人のビジネス系ブログの記事に、不意にスクロールの指が止まった。
『時間がない会社員こそ、「生成AI」を味方につけろ』
「……生成、AI」
 静かな部屋に、私の呟きが落ちる。
 ニュースの特集で「十年後になくなる職業」という煽り文句とともに紹介される、人間の仕事を奪う遠いテクノロジー。私が持っていた知識はその程度のものだった。
 しかし、そのブログの記事には、こう書かれていた。
『文章を書くのが苦手なら、AIに書かせればいい。絵が描けないなら、AIに描かせればいい。あなた自身が汗水流して手を動かす必要はありません。優秀なAIという部下たちに的確な指示を出す、「ディレクター」になればいいのです』
 ディレクター。
 その五文字を目で追った瞬間、私の思考が一瞬だけ白く飛んだ。
 意味がわからず、もう一度同じ一文を読み返す。
「明日の会議で使うから、適当にまとめといて」
 昼間、小堀田部長に投げつけられた雑な言葉が蘇る。あれは、最悪の「指示」だったのだ。
 私はいつも、会社で指示を「受ける」側だった。九条先輩の手作業の強要に付き合わされ、小堀田部長の曖昧な丸投げに振り回され、波風を立てないための都合のいい事務員としてやり過ごしてきた。
 そんな私が、誰かに指示を出す。作業者ではなく、監督になる。
「……できるわけない」
 口に出して否定してみたけれど、息の吸い方が、いつの間にか数時間前よりも明らかに深くなっていることに気づいた。
 もしかしたら。
 時間がなくても、特別な才能がなくても、この見えない存在が、私という人間の不完全な余白を補ってくれるのだとしたら。
 その想像の広がりを自ら打ち消すように、私はスマートフォンをテーブルに伏せて置いた。
 期待して、また裏切られるのが怖い。
 気づけば、時計の針は小一時間ほど進んでいた。
 ジャーン。
 突然、目の前の銀色のノートパソコンから、小さく澄んだ起動音が鳴り響いた。
 画面の背景が、ブルーから鮮やかな風景写真へと切り替わる。
『100% 完了しました』の文字は消滅し、五年前と何も変わらない、アイコンが数個並んだだけの真っさらなデスクトップ画面が広がっていた。
 排気口から吐き出されるファンの音も、いつの間にか静かで安定した呼吸のようなリズムへと落ち着いている。機械は目覚め、静かに待っていた。
 ジークが、テーブルの下から顔を出し、私のすり減ったパンプスの上に前足を乗せた。彼はノートパソコンの画面を一瞥すると、小さく「にゃ」と鳴いて、また奥へと引っ込んでしまった。
 どうしろとも言わない。ただ、そこにあるものを示しただけ。
「……まあ、やってみるだけなら」
 誰に対する言い訳かわからない言葉を零し、私は丸メガネの位置を人差し指で押し上げた。
 そして、五年間眠っていたプラスチックのキーボードの上に、ゆっくりと両手を乗せる。
 マウスパッドをなぞり、ブラウザのアイコンをダブルクリックする。
 真っ白な検索窓の真ん中で、カーソルが点滅している。
かすかに震える指先で、まだパスワードさえ設定されていない空の検索窓に、カーソルを合わせた。
 不意に、レンズの裏側が熱くなった。拭う気力も、波風を立てないための反射的な愛想笑いも、今の私には出てこない。
 人差し指が、一瞬だけ宙に浮いた。
 『私は、古い鍬を持っています。土は休んでいる間も養分を蓄えていると聞きました。でも、私はもう、掘り方がわからないです』
 こんなポエムのような言葉を、検索エンジンに打ち込んでも「一致する結果はありません」と冷たく返されるだけだ。
 でも、もし、あの老婦人が言うように、相手が「私を急かさない存在」なのだとしたら。
 私は震える指先に力を込め、『ChatGPT』という七つのアルファベットを打ち込み、右手の小指でエンターキーを静かに叩いた。
ターン。
 昨日、誰もいないオフィスで叩き続けた電卓と同じ音が、静かな部屋に響いた。
 けれどそれは、私から時間を奪う音ではなく、止まっていた時間を動かす、始まりの音だった。