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第3話|誰もいないオフィスと、三十五歳の現在地

ー/ー





 ターン。


 指先が、機械的に電卓のキーを叩き続けている。左手で一枚めくり、チェック項目を目で確認して、右手で入力して加算する。それをただ繰り返していた。


 二十時を過ぎた頃に空調が止まって以来、室内の温度は少しずつ下がっている。靴を脱いでいるのに、ストッキングの先がじんわりと痺れていた。人差し指の第一関節に、紙の端で切った細い赤い線が二本走っている。電卓のキーを押すたびに、チクリと鳴く。


 私の机の上だけを照らすスタンドライトの青白い光が、山積みのアンケート用紙に濃い影を落としていた。


 


 二百四十一、二百四十二。


 テンキーの上で指先が止まった。


 今入力したアンケート用紙の右下、小さなロット番号の羅列。「三十代女性」の束ではなく、「四十代男性」に混入していたイレギュラーな用紙だった。


 息を小さく吐いて、赤い「クリア」ボタンを押す。


 液晶に表示されていた四桁の数字が、一瞬で「0」に戻った。


 三十枚ほど前まで遡って、やり直し。


 昨夜のマクロなら、三秒で終わっていた処理だ。


 ターン。


 また一枚、めくる。


 アンケート用紙のざらついた感触。インクの匂い。筆圧によって生じた微かな凹凸が、指の腹に残る。強く塗りつぶされたチェックボックスの丸。裏までインクが滲んで、紙が波打っているもの。鉛筆で薄く、消したような跡があるもの。こういうものを、昨夜組んだプログラムはどう処理したのか。座標が近ければ「1」、遠ければ「0」。それだけだ。


 では、この強い筆圧は。


 ターン。


 また一枚。


 


 机の端のスマートフォンは、静かなままだった。画面は、数時間前から一度も光っていない。


「……でも、結局」


 カサカサの唇から、掠れた声が出た。


 その先は、出てこなかった。


 ターン。


 また一枚、めくる。


 


 スリープ状態になったモニターの視界を締め付ける黒い縁取りに、自分の顔が映っていた。


 誰だろう、と一瞬思った。


 バッグの中から、べっ甲柄の丸メガネを取り出す。コンタクトレンズを指の腹で無理やり剥がし、ゴミ箱へ捨てた。眼球が直接空気に触れ、微かな痛みの後に、ふ、と息が入る感覚が来た。丸メガネを鼻筋に乗せると、視界の端が少し歪んだ。


 再びモニターを見た。


 さっきの顔とは、少しだけ違う顔が映っていた。


 ターン。


 また一枚。


 


 壁の時計が二十二時十五分を指していた。


 明日の午前中に必要な地域別の集計データだけは、かろうじて形になった。午後の会議で使う年代別データまでは、もう指先が動かなかった。手計算では、今夜が限界だった。


 やりかけのアンケートをクリップで厚く留めて、机の端に寄せる。


 電卓を叩くのをやめると、オフィスが静かになった。


 本当に、静かだった。


 ふと気づく。


 さっきまで「ターン」という音が聞こえていたのに、それが消えた途端、静寂というものがこんなに重いものだったかと、少し驚いた。


 机の下からすり減った黒いパンプスを引き出し、冷え切った足を押し込む。硬い合皮が、足の甲にかぶさる。いつからこんなに底が薄くなっていたのか、記憶にない。


 椅子に掛けてあったウールのコートを手に取り、羽織った。雨の湿気を吸ったコートは重くて、少しも温かくならなかった。


 襟元を直そうとしたとき、指先が肩口の何かに触れた。


 細い一本の毛。


 茶色と黒の、縞模様。


 ジークの抜け毛だった。


 そっとつまんで、しばらく見つめた。光の加減で、オレンジがかった茶色に見えた。


 ジークは何も解決しない。答えも出さない。ただそこにいて、私の帰りを待っている。


 それだけのことが、なぜか今夜は、ひどくまともに思えた。


 パチン。


 壁のスイッチを押すと、フロアの照明が落ちた。非常灯だけが、薄い緑の光を床に落としている。


 暗くなった自分のデスクを、最後に一度だけ振り返る。


 昨夜、冷めた弁当をつつきながら半日かけて作ったマクロの集計表が、クリアファイルに挟まれたまま、そこにあった。誰の目にも触れないまま、ただ置かれている。


 完璧なはずの数字が、ただの紙の束として沈黙していた。


 歩き出す。


 すり減ったパンプスのヒールが、暗いフロアに乾いた音を立てた。


 胃の奥に、まだ終わっていない作業の重さがある。明日、九条先輩にどう報告するか、言葉はまだ何も浮かんでいない。


 口角は、まだ上がったままだった。


 


 雑居ビルのエントランスを抜けると、外は底冷えのする雨だった。


 春の雨というものは、もう少し穏やかなものだと思っていた。アスファルトに打ち付ける無数の雨粒が、街灯のオレンジ色の光を乱反射して白く煙っている。カバンの底から、骨が一本だけ不自然に曲がった透明なビニール傘を取り出し、バサリと開く。


 駅への大通りは、黒や濃紺や灰色の傘で埋め尽くされていた。色とりどりの花というよりは、感情を持たない何かが群生しているような、重苦しい光景だった。


 その中に、私の骨の歪んだ透明な傘も、加わった。

挿絵3話


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 ターン。
 指先が、機械的に電卓のキーを叩き続けている。左手で一枚めくり、チェック項目を目で確認して、右手で入力して加算する。それをただ繰り返していた。
 二十時を過ぎた頃に空調が止まって以来、室内の温度は少しずつ下がっている。靴を脱いでいるのに、ストッキングの先がじんわりと痺れていた。人差し指の第一関節に、紙の端で切った細い赤い線が二本走っている。電卓のキーを押すたびに、チクリと鳴く。
 私の机の上だけを照らすスタンドライトの青白い光が、山積みのアンケート用紙に濃い影を落としていた。
 二百四十一、二百四十二。
 テンキーの上で指先が止まった。
 今入力したアンケート用紙の右下、小さなロット番号の羅列。「三十代女性」の束ではなく、「四十代男性」に混入していたイレギュラーな用紙だった。
 息を小さく吐いて、赤い「クリア」ボタンを押す。
 液晶に表示されていた四桁の数字が、一瞬で「0」に戻った。
 三十枚ほど前まで遡って、やり直し。
 昨夜のマクロなら、三秒で終わっていた処理だ。
 ターン。
 また一枚、めくる。
 アンケート用紙のざらついた感触。インクの匂い。筆圧によって生じた微かな凹凸が、指の腹に残る。強く塗りつぶされたチェックボックスの丸。裏までインクが滲んで、紙が波打っているもの。鉛筆で薄く、消したような跡があるもの。こういうものを、昨夜組んだプログラムはどう処理したのか。座標が近ければ「1」、遠ければ「0」。それだけだ。
 では、この強い筆圧は。
 ターン。
 また一枚。
 机の端のスマートフォンは、静かなままだった。画面は、数時間前から一度も光っていない。
「……でも、結局」
 カサカサの唇から、掠れた声が出た。
 その先は、出てこなかった。
 ターン。
 また一枚、めくる。
 スリープ状態になったモニターの視界を締め付ける黒い縁取りに、自分の顔が映っていた。
 誰だろう、と一瞬思った。
 バッグの中から、べっ甲柄の丸メガネを取り出す。コンタクトレンズを指の腹で無理やり剥がし、ゴミ箱へ捨てた。眼球が直接空気に触れ、微かな痛みの後に、ふ、と息が入る感覚が来た。丸メガネを鼻筋に乗せると、視界の端が少し歪んだ。
 再びモニターを見た。
 さっきの顔とは、少しだけ違う顔が映っていた。
 ターン。
 また一枚。
 壁の時計が二十二時十五分を指していた。
 明日の午前中に必要な地域別の集計データだけは、かろうじて形になった。午後の会議で使う年代別データまでは、もう指先が動かなかった。手計算では、今夜が限界だった。
 やりかけのアンケートをクリップで厚く留めて、机の端に寄せる。
 電卓を叩くのをやめると、オフィスが静かになった。
 本当に、静かだった。
 ふと気づく。
 さっきまで「ターン」という音が聞こえていたのに、それが消えた途端、静寂というものがこんなに重いものだったかと、少し驚いた。
 机の下からすり減った黒いパンプスを引き出し、冷え切った足を押し込む。硬い合皮が、足の甲にかぶさる。いつからこんなに底が薄くなっていたのか、記憶にない。
 椅子に掛けてあったウールのコートを手に取り、羽織った。雨の湿気を吸ったコートは重くて、少しも温かくならなかった。
 襟元を直そうとしたとき、指先が肩口の何かに触れた。
 細い一本の毛。
 茶色と黒の、縞模様。
 ジークの抜け毛だった。
 そっとつまんで、しばらく見つめた。光の加減で、オレンジがかった茶色に見えた。
 ジークは何も解決しない。答えも出さない。ただそこにいて、私の帰りを待っている。
 それだけのことが、なぜか今夜は、ひどくまともに思えた。
 パチン。
 壁のスイッチを押すと、フロアの照明が落ちた。非常灯だけが、薄い緑の光を床に落としている。
 暗くなった自分のデスクを、最後に一度だけ振り返る。
 昨夜、冷めた弁当をつつきながら半日かけて作ったマクロの集計表が、クリアファイルに挟まれたまま、そこにあった。誰の目にも触れないまま、ただ置かれている。
 完璧なはずの数字が、ただの紙の束として沈黙していた。
 歩き出す。
 すり減ったパンプスのヒールが、暗いフロアに乾いた音を立てた。
 胃の奥に、まだ終わっていない作業の重さがある。明日、九条先輩にどう報告するか、言葉はまだ何も浮かんでいない。
 口角は、まだ上がったままだった。
 雑居ビルのエントランスを抜けると、外は底冷えのする雨だった。
 春の雨というものは、もう少し穏やかなものだと思っていた。アスファルトに打ち付ける無数の雨粒が、街灯のオレンジ色の光を乱反射して白く煙っている。カバンの底から、骨が一本だけ不自然に曲がった透明なビニール傘を取り出し、バサリと開く。
 駅への大通りは、黒や濃紺や灰色の傘で埋め尽くされていた。色とりどりの花というよりは、感情を持たない何かが群生しているような、重苦しい光景だった。
 その中に、私の骨の歪んだ透明な傘も、加わった。