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第8話 ハシュラ

ー/ー



 翌週、ナイリザがデスクの向かいから声をかけてきた。

「頼まれてた件、出てきたわよ」

 一枚の伝票のコピーを差し出された。
 帝国語で記された領収書だ。日付、金額、但し書き、受領者署名。
 至って普通の書式だ。

 金額は読める。銀貨にして五十枚ほど。
 採掘サイトの備品調達費としては、やや高い。
 但し書きには「請賃(うけちん)として」とある。何の請負代金なのかが曖昧だ。

「これがどうした」

「六か月前から五回、同じ相手に同じくらいの金額で支払いがある。それ以前にはないタイプの伝票よ」

 ナイリザは領収書をデスクの上に置き、署名部分を指先で叩きながら帝国語で読み上げた。
 イヤーバッズが訳す。

「『ギンネ=グアシェルの名の下に』」

 聞いたことのない名前だが、普通の現地の商人の名前に思える。
 グアシェルは屋号だろうか。

「そのギンネというのが発注先ということだろう」

「違うわ」

 ナイリザはかぶりを振って答えた。

「『名の下に』は、こちらの商慣習の表現よ。匿名の誰かの代わりに名を貸したってこと。こいつはただの斡旋人ね」

「わざわざ発注先を追えない形にしているということか」

「さあ? ただ職人が仲介屋に上前をはねられてるだけかもしれないわね」

 ナイリザはカップの蓋を開け、安酒の匂いをデスクに(ただよ)わせた。

「でも、時期は一致する」

 半年前。人員の損耗が増え始めた時期。
 何かの対価を、帳簿に載せられない形で支払っている。

「これ以上は経理の仕事じゃないわ」

 ナイリザは椅子の背にもたれ、カップを傾けた。それでおしまい、という態度だった。

 * * *

 このギンネ=グアシェルが何者か、確認する必要がある。
 ヴォルグに聞けば一発だろうが、抜き打ちで調べている以上、現場に気取られるわけにいかない。

 採掘サイトの備品を仕入れている商人に当たりをつけた。
 今回はナイリザに同行を頼まなかった。
 中継局の一件がまだ未返済だ。これ以上貸しを増やしたくない。

 日本租界のバザール周辺に店を構える雑貨屋や金物屋の何軒かは、ヤシマとの取引実績がある。
 帳簿に名前が載っている店なら、別の用事を装って立ち寄れる。そこで「ギンネ=グアシェル」がどこの誰かくらいは聞けるだろう。

 昼過ぎに事務所を出た。
 雨季の曇天はいつもどおり低く垂れ込めているが、今日はまだ降っていない。
 バザールの大通りを抜け、商人が店を構える一角へと進んだ。

 日本租界の中心部を離れると、街並みが変わる。
 プレハブと漆喰壁のモザイクが途切れ、現地様式の低い建物が密集する路地に入る。
 通りを行き交うのはゴブリンの行商人やドワーフの職人が中心で、日本人の姿はほとんどない。
 看板の文字も帝国語ばかりになり、耳に飛び込む会話の量も密度も増える。
 イヤーバッズの翻訳が追いつかない速度で情報が流れていく。

 目当ての出入り商の店を探してうろついていると、狭い路地に入り込んでしまった。
 通り抜けられると思って進むと大回りをさせられる。
 区画整理されていない地域の街歩きは現代日本人にはハードルが高い。

 建物と建物の間に無理やり通された裏道で、二人がすれ違うのがやっとだ。
 その先が行き止まりだとわかったのは、角を曲がった後だった。

 漆喰の壁。雑多に積まれた木箱。
 上は二階の物干し竿。左右は建物の側面。戻るしかない。

 戻ろうとしたとき、背後から足音が飛び込んできた。
 振り返る間もなく、小柄な影が俺の脇をすり抜け、行き止まりの壁際に駆け込んだ。

 少年、いや、少女だった。
 褐色の肌。短く切った黒髪が揺れる。薄汚れたオーバーサイズのパーカー。Tシャツの胸元には、アルファベットで「Spreme」と印字されている。
 フードの隙間から、長い尖った耳が覗いていた。
 足元は靴底が剥がれかけたスニーカー。エアマックスの、たぶん偽物だ。

 少女は壁に背をつけ、とび色の瞳でこちらを睨んだ。息が荒い。
 年は十三、四くらいか。

「おっさん。匿って。盗賊ギルドに追われてる」

 低い声。切迫しているが、泣きはしない。
 推し量っている目だった。この日本人が使えるかどうかを。

 答える前に、路地の入口から足音が二つ響いた。
 少女が跳ねるように動き、木箱の影に身を隠す。
 現れたのは大柄な男と、細身の男だった。
 どちらもダークエルフだ。黒檀色の肌に銀の短髪。
 大柄な方は首筋から顎にかけて刺青が入っている。細身の方は二の腕に。
 どちらも蜘蛛だった。

 大柄な男が呼吸を整えながらこちらに近づいてきた。
 行き止まりの路地に、日本人が一人。
 木箱の裏で息を潜める小さな影には、まだ気づいていないようだった。

 大柄な男が帝国語で何か言った。イヤーバッズが訳す。

「この辺でスリがあった。ナヒリグムのガキを見なかったか」

 スリか、と思った。
 追われていた理由はそういうことらしい。
 『ナヒリグム』という現地語は訳されなかったが、混血を指す蔑称だろうとあたりをつける。
 白い肌がエルフで、黒檀色の肌はダークエルフ。
 褐色はハーフ。どちらの社会からも爪弾かれるカースト底辺層。
 それくらいは知っている。

「知らない」

 帝国語の語彙が限られているのが、こういうとき都合がいい。
 短い否定文に余計なニュアンスが乗らない。
 ガキは見たがスリかどうかは知らない。
 関わり合う気もない。

 大柄な男が一歩踏み込んできた。
 行き止まりの路地だ。この先には壁しかない。
 俺が「知らない」と言ったところで、通り過ぎたガキがどこかに隠れていることは自明だった。
 男の目が俺の肩越しに壁際を探る。

 そこで細身の男が大柄な方の腕をつかんだ。押し殺した早口で囁く。
 イヤーバッズが拾った断片。

「スリ一件でヤポンと揉めるな。上がいい顔をしない」

 大柄な男は舌打ちをした。
 それからこちらの顔をじっと見た。
 細身の方が俺の作業ジャンパーのロゴに素早く目を走らせて言った。

「騒がせたね。ヤシマの旦那」

 捨て台詞のように言い残すと、踵を返し、二人は来た道を戻っていった。

 蜘蛛の刺青。盗賊ギルド。
 レベル1の研修資料に写真入りで載っていた。
 関わるな、と書いてあった。

 路地が静かになってから、背後でガサリと音がした。

「……助かった」

 木箱の隙間から少女が這い出してきた。
 フードを被り直し、偽物のエアマックスのつま先で二、三回地面を叩く。

「あんた、話のわかる社畜だな」

 パーカーの埃を払いながら、少女はニッと笑って見せた。
 現地語で何といい、なぜ『社畜』と翻訳されたかはわからない。
 言った当人に悪気はなさそうに見える。

「庇っていない。揉め事を避けた」

 突き出す判断をする前に男二人が来て、来た時点で「いるぞ」と指差すのはギルドに協力することになる。

「どっちでも同じさ。アタシはハシュラ。おっさんの名前は?」

「加藤」

「カトウ。カトウね」

 改めて少女を見る。
 薄汚れた日本製品に身を包む。身軽そうなスニーカー。顔を隠せるフード付きパーカー。
 良家の子女には見えない。

「スリか」

「人聞き悪いな。『流通調整』だよ」

 ハシュラは悪びれた様子もなく嘯いた。

「ちょろそうなヤポンがさ、露店でもたもたしてたから、ちょっとポケットを軽くしてやっただけ」

 ヤポン。日本人。他社の常駐員か。帰還不能者かもしれない。
 いずれにせよこの界隈で日本人を狙うスリ。度胸があるのか、無謀なのか。

「で、見つかった」

「見つかったんじゃなくて、あいつらのシマで勝手にやったのがまずかったの。スリの上前は盗賊ギルドのもんだから」

 盗み自体より、ギルドを通さなかったことが咎められている。
 裏社会の縄張りの問題。関与しなくて正解だ。

「借りは返すよ」

 少女は胸を叩いた。

「何か用があってこの辺うろついてんだろ? ヤポンがスーツで来るとこじゃないし。女の店ならもっと大通り沿いだ」

 用事がなければ来ない場所だというのは事実だ。

「人を探している。ギンネ=グアシェル」

「グアシェル?」

 ハシュラの目が一瞬光った。
 この情報にどれだけの価値があるか計算しているのかもしれない。

「ああ、ギンネ爺さんね。蝋燭通りの雑貨屋の」

 ハシュラは行き止まりの手前を——横歩きでどうにか入れそうな隙間を——指差した。

「裏道でいけるよ。案内料はさっきの貸しと相殺ってことで」

 * * *

 建物と建物の隙間を抜け、勝手口が並ぶ側溝を跨ぐ。
 迷路のような裏道とやらを歩くうちに、ハシュラは勝手に喋り始めた。

「おっさん、ヤシマって言われてたよね。ネクタイつけてるから商社でしょ」

「……」

「このへんのヤポンは服装見りゃわかるよ。濃い緑は自衛隊。スーツがお役所。
 ネクタイ緩めてしてるのは大体商社の社畜だね」

 観察力というよりも、生存のために身につけた識別能力だろう。
 ハシュラはフードの奥で銀髪を揺らしながら、軽い足取りで路地を縫っていく。
 行き止まりに見えた壁の隙間を、猫のようにすり抜ける。この界隈の裏道を体で知っている。

 ふと、足元に目がいった。加水分解しかけのスニーカー。

「その靴」

「ん?」

 ハシュラは足元を見下ろし、にやりと笑った。

「いいだろ。ヤポンの靴。丈夫だし、軽い。魔法のブーツなんかよりずっと速く走れる」

「偽物」

 ハシュラはちらりとこちらの革靴を見て、鼻を鳴らした。

「走れりゃいいんだよ。ヤポンのモノはさ、誰が使ったって同じように動く。出自を聞いてこないから好きさ」

 出自を問わないのではない。
 それはただの大量生産された工業製品であり、履いている人間が誰であろうと知ったことではないだけだ。
 機能するかどうかも、物理法則と界差の機嫌次第にすぎない。

 だが、その事実をわざわざこの少女に説明してやる義理も語彙力もない。
 ギンネ=グアシェルに辿り着ければそれでいい。

「そうだな」

 俺が短く同意すると、ハシュラは満足そうに前を向いた。

 やがて蝋燭通りとやらに出た。
 名前の通り、蝋燭を商う店が何軒か並ぶ細い通りだ。

 その一角に、間口の狭い雑貨屋があった。
 軒先に吊るされた鉄製の看板に帝国語で店名が刻まれている。
 スマートフォンのカメラをかざし、翻訳モードで確認した。
 「グアシェル雑貨店 よろず仲介」。
 間違いない。

 ハシュラが暖簾をくぐるように垂れ幕を押し上げ、中を覗き込んだ。

「ギンネ爺さん、客だよ」

 薄暗い店内の奥から、しわがれた声が返ってきた。

「客なら表から入ってこい。ガキは帰れ」

 無愛想な応答に対して、ハシュラは舌を出して返す。
 そしてこちらを振り返ると、小さく手招きをした。
 さて、ようやく伝票の主と対面だ。



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 翌週、ナイリザがデスクの向かいから声をかけてきた。
「頼まれてた件、出てきたわよ」
 一枚の伝票のコピーを差し出された。
 帝国語で記された領収書だ。日付、金額、但し書き、受領者署名。
 至って普通の書式だ。
 金額は読める。銀貨にして五十枚ほど。
 採掘サイトの備品調達費としては、やや高い。
 但し書きには「請賃(うけちん)として」とある。何の請負代金なのかが曖昧だ。
「これがどうした」
「六か月前から五回、同じ相手に同じくらいの金額で支払いがある。それ以前にはないタイプの伝票よ」
 ナイリザは領収書をデスクの上に置き、署名部分を指先で叩きながら帝国語で読み上げた。
 イヤーバッズが訳す。
「『ギンネ=グアシェルの名の下に』」
 聞いたことのない名前だが、普通の現地の商人の名前に思える。
 グアシェルは屋号だろうか。
「そのギンネというのが発注先ということだろう」
「違うわ」
 ナイリザはかぶりを振って答えた。
「『名の下に』は、こちらの商慣習の表現よ。匿名の誰かの代わりに名を貸したってこと。こいつはただの斡旋人ね」
「わざわざ発注先を追えない形にしているということか」
「さあ? ただ職人が仲介屋に上前をはねられてるだけかもしれないわね」
 ナイリザはカップの蓋を開け、安酒の匂いをデスクに|漂《ただよ》わせた。
「でも、時期は一致する」
 半年前。人員の損耗が増え始めた時期。
 何かの対価を、帳簿に載せられない形で支払っている。
「これ以上は経理の仕事じゃないわ」
 ナイリザは椅子の背にもたれ、カップを傾けた。それでおしまい、という態度だった。
 * * *
 このギンネ=グアシェルが何者か、確認する必要がある。
 ヴォルグに聞けば一発だろうが、抜き打ちで調べている以上、現場に気取られるわけにいかない。
 採掘サイトの備品を仕入れている商人に当たりをつけた。
 今回はナイリザに同行を頼まなかった。
 中継局の一件がまだ未返済だ。これ以上貸しを増やしたくない。
 日本租界のバザール周辺に店を構える雑貨屋や金物屋の何軒かは、ヤシマとの取引実績がある。
 帳簿に名前が載っている店なら、別の用事を装って立ち寄れる。そこで「ギンネ=グアシェル」がどこの誰かくらいは聞けるだろう。
 昼過ぎに事務所を出た。
 雨季の曇天はいつもどおり低く垂れ込めているが、今日はまだ降っていない。
 バザールの大通りを抜け、商人が店を構える一角へと進んだ。
 日本租界の中心部を離れると、街並みが変わる。
 プレハブと漆喰壁のモザイクが途切れ、現地様式の低い建物が密集する路地に入る。
 通りを行き交うのはゴブリンの行商人やドワーフの職人が中心で、日本人の姿はほとんどない。
 看板の文字も帝国語ばかりになり、耳に飛び込む会話の量も密度も増える。
 イヤーバッズの翻訳が追いつかない速度で情報が流れていく。
 目当ての出入り商の店を探してうろついていると、狭い路地に入り込んでしまった。
 通り抜けられると思って進むと大回りをさせられる。
 区画整理されていない地域の街歩きは現代日本人にはハードルが高い。
 建物と建物の間に無理やり通された裏道で、二人がすれ違うのがやっとだ。
 その先が行き止まりだとわかったのは、角を曲がった後だった。
 漆喰の壁。雑多に積まれた木箱。
 上は二階の物干し竿。左右は建物の側面。戻るしかない。
 戻ろうとしたとき、背後から足音が飛び込んできた。
 振り返る間もなく、小柄な影が俺の脇をすり抜け、行き止まりの壁際に駆け込んだ。
 少年、いや、少女だった。
 褐色の肌。短く切った黒髪が揺れる。薄汚れたオーバーサイズのパーカー。Tシャツの胸元には、アルファベットで「Spreme」と印字されている。
 フードの隙間から、長い尖った耳が覗いていた。
 足元は靴底が剥がれかけたスニーカー。エアマックスの、たぶん偽物だ。
 少女は壁に背をつけ、とび色の瞳でこちらを睨んだ。息が荒い。
 年は十三、四くらいか。
「おっさん。匿って。盗賊ギルドに追われてる」
 低い声。切迫しているが、泣きはしない。
 推し量っている目だった。この日本人が使えるかどうかを。
 答える前に、路地の入口から足音が二つ響いた。
 少女が跳ねるように動き、木箱の影に身を隠す。
 現れたのは大柄な男と、細身の男だった。
 どちらもダークエルフだ。黒檀色の肌に銀の短髪。
 大柄な方は首筋から顎にかけて刺青が入っている。細身の方は二の腕に。
 どちらも蜘蛛だった。
 大柄な男が呼吸を整えながらこちらに近づいてきた。
 行き止まりの路地に、日本人が一人。
 木箱の裏で息を潜める小さな影には、まだ気づいていないようだった。
 大柄な男が帝国語で何か言った。イヤーバッズが訳す。
「この辺でスリがあった。ナヒリグムのガキを見なかったか」
 スリか、と思った。
 追われていた理由はそういうことらしい。
 『ナヒリグム』という現地語は訳されなかったが、混血を指す蔑称だろうとあたりをつける。
 白い肌がエルフで、黒檀色の肌はダークエルフ。
 褐色はハーフ。どちらの社会からも爪弾かれるカースト底辺層。
 それくらいは知っている。
「知らない」
 帝国語の語彙が限られているのが、こういうとき都合がいい。
 短い否定文に余計なニュアンスが乗らない。
 ガキは見たがスリかどうかは知らない。
 関わり合う気もない。
 大柄な男が一歩踏み込んできた。
 行き止まりの路地だ。この先には壁しかない。
 俺が「知らない」と言ったところで、通り過ぎたガキがどこかに隠れていることは自明だった。
 男の目が俺の肩越しに壁際を探る。
 そこで細身の男が大柄な方の腕をつかんだ。押し殺した早口で囁く。
 イヤーバッズが拾った断片。
「スリ一件でヤポンと揉めるな。上がいい顔をしない」
 大柄な男は舌打ちをした。
 それからこちらの顔をじっと見た。
 細身の方が俺の作業ジャンパーのロゴに素早く目を走らせて言った。
「騒がせたね。ヤシマの旦那」
 捨て台詞のように言い残すと、踵を返し、二人は来た道を戻っていった。
 蜘蛛の刺青。盗賊ギルド。
 レベル1の研修資料に写真入りで載っていた。
 関わるな、と書いてあった。
 路地が静かになってから、背後でガサリと音がした。
「……助かった」
 木箱の隙間から少女が這い出してきた。
 フードを被り直し、偽物のエアマックスのつま先で二、三回地面を叩く。
「あんた、話のわかる社畜だな」
 パーカーの埃を払いながら、少女はニッと笑って見せた。
 現地語で何といい、なぜ『社畜』と翻訳されたかはわからない。
 言った当人に悪気はなさそうに見える。
「庇っていない。揉め事を避けた」
 突き出す判断をする前に男二人が来て、来た時点で「いるぞ」と指差すのはギルドに協力することになる。
「どっちでも同じさ。アタシはハシュラ。おっさんの名前は?」
「加藤」
「カトウ。カトウね」
 改めて少女を見る。
 薄汚れた日本製品に身を包む。身軽そうなスニーカー。顔を隠せるフード付きパーカー。
 良家の子女には見えない。
「スリか」
「人聞き悪いな。『流通調整』だよ」
 ハシュラは悪びれた様子もなく嘯いた。
「ちょろそうなヤポンがさ、露店でもたもたしてたから、ちょっとポケットを軽くしてやっただけ」
 ヤポン。日本人。他社の常駐員か。帰還不能者かもしれない。
 いずれにせよこの界隈で日本人を狙うスリ。度胸があるのか、無謀なのか。
「で、見つかった」
「見つかったんじゃなくて、あいつらのシマで勝手にやったのがまずかったの。スリの上前は盗賊ギルドのもんだから」
 盗み自体より、ギルドを通さなかったことが咎められている。
 裏社会の縄張りの問題。関与しなくて正解だ。
「借りは返すよ」
 少女は胸を叩いた。
「何か用があってこの辺うろついてんだろ? ヤポンがスーツで来るとこじゃないし。女の店ならもっと大通り沿いだ」
 用事がなければ来ない場所だというのは事実だ。
「人を探している。ギンネ=グアシェル」
「グアシェル?」
 ハシュラの目が一瞬光った。
 この情報にどれだけの価値があるか計算しているのかもしれない。
「ああ、ギンネ爺さんね。蝋燭通りの雑貨屋の」
 ハシュラは行き止まりの手前を——横歩きでどうにか入れそうな隙間を——指差した。
「裏道でいけるよ。案内料はさっきの貸しと相殺ってことで」
 * * *
 建物と建物の隙間を抜け、勝手口が並ぶ側溝を跨ぐ。
 迷路のような裏道とやらを歩くうちに、ハシュラは勝手に喋り始めた。
「おっさん、ヤシマって言われてたよね。ネクタイつけてるから商社でしょ」
「……」
「このへんのヤポンは服装見りゃわかるよ。濃い緑は自衛隊。スーツがお役所。
 ネクタイ緩めてしてるのは大体商社の社畜だね」
 観察力というよりも、生存のために身につけた識別能力だろう。
 ハシュラはフードの奥で銀髪を揺らしながら、軽い足取りで路地を縫っていく。
 行き止まりに見えた壁の隙間を、猫のようにすり抜ける。この界隈の裏道を体で知っている。
 ふと、足元に目がいった。加水分解しかけのスニーカー。
「その靴」
「ん?」
 ハシュラは足元を見下ろし、にやりと笑った。
「いいだろ。ヤポンの靴。丈夫だし、軽い。魔法のブーツなんかよりずっと速く走れる」
「偽物」
 ハシュラはちらりとこちらの革靴を見て、鼻を鳴らした。
「走れりゃいいんだよ。ヤポンのモノはさ、誰が使ったって同じように動く。出自を聞いてこないから好きさ」
 出自を問わないのではない。
 それはただの大量生産された工業製品であり、履いている人間が誰であろうと知ったことではないだけだ。
 機能するかどうかも、物理法則と界差の機嫌次第にすぎない。
 だが、その事実をわざわざこの少女に説明してやる義理も語彙力もない。
 ギンネ=グアシェルに辿り着ければそれでいい。
「そうだな」
 俺が短く同意すると、ハシュラは満足そうに前を向いた。
 やがて蝋燭通りとやらに出た。
 名前の通り、蝋燭を商う店が何軒か並ぶ細い通りだ。
 その一角に、間口の狭い雑貨屋があった。
 軒先に吊るされた鉄製の看板に帝国語で店名が刻まれている。
 スマートフォンのカメラをかざし、翻訳モードで確認した。
 「グアシェル雑貨店 よろず仲介」。
 間違いない。
 ハシュラが暖簾をくぐるように垂れ幕を押し上げ、中を覗き込んだ。
「ギンネ爺さん、客だよ」
 薄暗い店内の奥から、しわがれた声が返ってきた。
「客なら表から入ってこい。ガキは帰れ」
 無愛想な応答に対して、ハシュラは舌を出して返す。
 そしてこちらを振り返ると、小さく手招きをした。
 さて、ようやく伝票の主と対面だ。