01:塔の鍵
ー/ー 左手に触れるのは、冷たくザラリとした石の壁だった。仄暗い螺旋階段を、もう何段上がっただろうか。荒くなった自分の呼吸が、やけに耳につく。
「大丈夫か?」
肩越しに振り返った父ジョゼフの顔に、アリセルは小さく頷いてみせた。
やがて行き当たった扉が開かれると、奥から強烈な臭気が流れ込んでくる。アリセルは思わず息を詰め、そのままロウソクの光に照らし出されたものへ目を凝らした。
そこにいたのは、両腕を鎖で縛り上げられ、頭を垂れたひとりの人間だった。辛うじて身に纏った布は汚れきり、覗く肌には生々しい傷がいくつも走っている。
死んでいるのではないか――。そう胸の内で息を呑んだ瞬間、見透かしたようにジョゼフが告げた。
「アリセル、紹介しよう。彼こそが前国王の嫡子。ルネ・サントレール様だ」
すぐ隣にいる筈の父の声が、どこかとても遠い所で聞こえたような気がした。
* * *
十七歳の誕生日に、アリセルが両親から贈られたものは、小花の刺繍が施された繻子のリボンと「役割」であった。
「お誕生日おめでとう」
アリセルの髪をリボンで結いながら、母、ミーシャは柔らかく微笑む。
十七にもなって、幼子のように髪を結われるのは少し気恥ずかしいが、甘やかされているようで嬉しくもある。アリセルは鏡越しに笑い返した。
「ありがとう、お母様。とても綺麗なリボンね」
「よく似合っているわ。この空色の生地が、あなたに映えると思ったの」
「はい、出来上がり」と告げられて、アリセルは鏡の自分をまじまじと見詰める。リボンを編み込ませながら結われた髪のせいか、もしくは誕生日という特別な日のせいか。鏡の中の自分は、いつもより少しだけ大人びて見える。
「アリセル、私にもよく見せてくれ」
ソファに座ったジョゼフに言われ、アリセルは相好を崩した。こちらに向かって広げられた父の両腕に飛び込む。
「すっかり大きくなって。お前も十七歳か、月日が経つのは早いものだ」
「私は遅く感じたわ」
「そうか。だがな、年をとるにつれて時は加速する。特に前国王の政権が崩壊してから、月日が経つのが早く感じられて仕方がない」
父の語尾は独りごとのようだった。
ふぅん、と呟くと大きな手が優しく頭を包み込む。例え何歳になったとしても、両親にこうやって愛され、甘やかされるのは嬉しい。そう思う自分は、まだまだ子供という事なのだろう。
「あの日から、この国は激動の変化を迎えているものね。今だって、決して良いものとは言えない。私たちだっていつどうなる事やら」
母が頬に手をあてがい溜息をつく。憂いを秘める両親に、しかしアリセルには今一つ「激動」の実感が沸かない。
確かに父の出張が多くなり、母はひっきりなしにやって来る客人のもてなしで忙しい。外は飢えや病、貧困が蔓延していると耳にする事はあるものの、アリセル自身は不自由を感じてはいない。
つまり、自分は恵まれているのだと思う。
愛情深い両親に温かい家、十分な食事に清潔な寝床、季節ごとに揃えられた衣服。都市部に大きな館を構える貴族のように、召使いこそいないが、家は欠けるものなく満たされていた。
「そう、いつどうなるか分からない。だからこそ今を大事に生きなければならない。……そこで、だ。アリセル」
母の言葉に繋げて、ジョゼフは言う。父の双眸に、ふと悪戯っぽい煌めきが宿ったのを、アリセルは見逃さない。何を言われるのだろうと身構えると、思いがけない言葉が耳を打つ。
「お前には、これから私の仕事を手伝って貰いたい」
「お父様の仕事を?」
ジョゼフの仕事とは、罪人の看守だった。法を犯した者の監督や警備を担っている…と、話では聞いているものの、実際に父の仕事場に行った事もなければ、そもそも罪人と接したこともない。具体的な所は何も分からないが、尊敬する父の言葉は、アリセルにとって絶対に等しい。
「もちろん。私で良ければ手伝うけど……」
「ありがとう。実はお前に、看守をして貰いたい人がいるんだ」
「その人は、どんな罪を犯したの?」
「何もしていない」
「何も?」
「親が罪人だったというだけで、幽閉された可哀想な子どもだよ」
「親の罪を子が背負うなんて変よ」
どうして出してあげないの? とアリセルは唇を尖らせる。率直な感想に、ジョゼフは痛ましげな笑みを向けた。
「皆がお前のような考えならば、あの御方も救われるだろう。だが世間はそれを許さない。罪人の子もまた罪人。罰を与えて当然だと思っているんだ」
「……そんなの間違っている」
呟くアリセルに、「私もそう思う」とジョゼフは頷いた。
「だからこそ、お前に彼を任せる。牢獄の中の彼が、せめて快適に過ごせるように尽力をつくして欲しい」
そう言った事ならば、と快諾したアリセルだが、「罪人の子」がどのような扱いを受けているのか、その時は想像だにしていなかった。
☆
「ルネ・サントレール様」
前国王の嫡子。
時代が時代ならば国王となる人物の名を、アリセルは反芻する。ジョゼフがルネを吊し上げていた鎖を解く。鎖はジャラジャラと重たい音をたてて床に落ちた。
「ルネ様、私はジョゼフ・エルヴァンと申します。こちらは私の娘、アリセル・エルヴァン。以後、お見知り置きを」
「初めまして、ルネ様。アリセルです、よろしくお願いいたします」
しかしルネは反応しない。困惑したままジョゼフを横目で見ると、彼は頷いた。
「今日から私の娘が貴方の世話をいたします」
聞こえているのか、いないのかすら分からない。ただ呼吸にあわせて微かに揺れる肩だけが、命ある事を物語っていた。
「大丈夫か?」
肩越しに振り返った父ジョゼフの顔に、アリセルは小さく頷いてみせた。
やがて行き当たった扉が開かれると、奥から強烈な臭気が流れ込んでくる。アリセルは思わず息を詰め、そのままロウソクの光に照らし出されたものへ目を凝らした。
そこにいたのは、両腕を鎖で縛り上げられ、頭を垂れたひとりの人間だった。辛うじて身に纏った布は汚れきり、覗く肌には生々しい傷がいくつも走っている。
死んでいるのではないか――。そう胸の内で息を呑んだ瞬間、見透かしたようにジョゼフが告げた。
「アリセル、紹介しよう。彼こそが前国王の嫡子。ルネ・サントレール様だ」
すぐ隣にいる筈の父の声が、どこかとても遠い所で聞こえたような気がした。
* * *
十七歳の誕生日に、アリセルが両親から贈られたものは、小花の刺繍が施された繻子のリボンと「役割」であった。
「お誕生日おめでとう」
アリセルの髪をリボンで結いながら、母、ミーシャは柔らかく微笑む。
十七にもなって、幼子のように髪を結われるのは少し気恥ずかしいが、甘やかされているようで嬉しくもある。アリセルは鏡越しに笑い返した。
「ありがとう、お母様。とても綺麗なリボンね」
「よく似合っているわ。この空色の生地が、あなたに映えると思ったの」
「はい、出来上がり」と告げられて、アリセルは鏡の自分をまじまじと見詰める。リボンを編み込ませながら結われた髪のせいか、もしくは誕生日という特別な日のせいか。鏡の中の自分は、いつもより少しだけ大人びて見える。
「アリセル、私にもよく見せてくれ」
ソファに座ったジョゼフに言われ、アリセルは相好を崩した。こちらに向かって広げられた父の両腕に飛び込む。
「すっかり大きくなって。お前も十七歳か、月日が経つのは早いものだ」
「私は遅く感じたわ」
「そうか。だがな、年をとるにつれて時は加速する。特に前国王の政権が崩壊してから、月日が経つのが早く感じられて仕方がない」
父の語尾は独りごとのようだった。
ふぅん、と呟くと大きな手が優しく頭を包み込む。例え何歳になったとしても、両親にこうやって愛され、甘やかされるのは嬉しい。そう思う自分は、まだまだ子供という事なのだろう。
「あの日から、この国は激動の変化を迎えているものね。今だって、決して良いものとは言えない。私たちだっていつどうなる事やら」
母が頬に手をあてがい溜息をつく。憂いを秘める両親に、しかしアリセルには今一つ「激動」の実感が沸かない。
確かに父の出張が多くなり、母はひっきりなしにやって来る客人のもてなしで忙しい。外は飢えや病、貧困が蔓延していると耳にする事はあるものの、アリセル自身は不自由を感じてはいない。
つまり、自分は恵まれているのだと思う。
愛情深い両親に温かい家、十分な食事に清潔な寝床、季節ごとに揃えられた衣服。都市部に大きな館を構える貴族のように、召使いこそいないが、家は欠けるものなく満たされていた。
「そう、いつどうなるか分からない。だからこそ今を大事に生きなければならない。……そこで、だ。アリセル」
母の言葉に繋げて、ジョゼフは言う。父の双眸に、ふと悪戯っぽい煌めきが宿ったのを、アリセルは見逃さない。何を言われるのだろうと身構えると、思いがけない言葉が耳を打つ。
「お前には、これから私の仕事を手伝って貰いたい」
「お父様の仕事を?」
ジョゼフの仕事とは、罪人の看守だった。法を犯した者の監督や警備を担っている…と、話では聞いているものの、実際に父の仕事場に行った事もなければ、そもそも罪人と接したこともない。具体的な所は何も分からないが、尊敬する父の言葉は、アリセルにとって絶対に等しい。
「もちろん。私で良ければ手伝うけど……」
「ありがとう。実はお前に、看守をして貰いたい人がいるんだ」
「その人は、どんな罪を犯したの?」
「何もしていない」
「何も?」
「親が罪人だったというだけで、幽閉された可哀想な子どもだよ」
「親の罪を子が背負うなんて変よ」
どうして出してあげないの? とアリセルは唇を尖らせる。率直な感想に、ジョゼフは痛ましげな笑みを向けた。
「皆がお前のような考えならば、あの御方も救われるだろう。だが世間はそれを許さない。罪人の子もまた罪人。罰を与えて当然だと思っているんだ」
「……そんなの間違っている」
呟くアリセルに、「私もそう思う」とジョゼフは頷いた。
「だからこそ、お前に彼を任せる。牢獄の中の彼が、せめて快適に過ごせるように尽力をつくして欲しい」
そう言った事ならば、と快諾したアリセルだが、「罪人の子」がどのような扱いを受けているのか、その時は想像だにしていなかった。
☆
「ルネ・サントレール様」
前国王の嫡子。
時代が時代ならば国王となる人物の名を、アリセルは反芻する。ジョゼフがルネを吊し上げていた鎖を解く。鎖はジャラジャラと重たい音をたてて床に落ちた。
「ルネ様、私はジョゼフ・エルヴァンと申します。こちらは私の娘、アリセル・エルヴァン。以後、お見知り置きを」
「初めまして、ルネ様。アリセルです、よろしくお願いいたします」
しかしルネは反応しない。困惑したままジョゼフを横目で見ると、彼は頷いた。
「今日から私の娘が貴方の世話をいたします」
聞こえているのか、いないのかすら分からない。ただ呼吸にあわせて微かに揺れる肩だけが、命ある事を物語っていた。
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