02
ー/ー 追手は当然のように現れた。
だが――ユオはアリィを抱えたまま、足技だけで兵士たちを蹴落としていく。
砂埃が舞い、鎧が転がる音が夜に響いた。
そうして追手は少しずつ減っていき、街の外れに来た頃には、もう誰もいなくなっていた。
「お姫様、大丈夫かい?」
改めて、二人の視線は交差する。
(この人……お兄様と並んでも遜色ない美男子だわ。不細工というのは、誰が広めたの?)
アリィには兄がいる。
この六年間は、遠くから眺めるばかりだったが――身内でありながらも、相当な美青年だ。
そんな兄に、この人も負けていないと感じる。
優しげな目元と、淡い色の睫毛。
笑うと、どこか無防備に見える顔だった。
背が高いし、腕も太くて逞しい。
どうしても、男なのだと感じてしまうほどに。
「はい。ありがとうございます。まさか、本当に逃げ出すなんて。何とお礼をしたらいいか……」
結婚を回避できたのはいいことだが、アリィは何も持っていない。
この皇子が何を求めているかも分からない今、体は強張ったままだった。
「それなら、敬語はやめてよ。今はそれだけでいいや」
「そんなことで……?」
「僕にとっては、とっても大事なことなんだ」
「そう……分かったわ」
アリィが敬語をやめた途端、屈託なく笑うユオ。
過剰にすら見えたが、アリィは少し肩の力を抜いた。
しばらく走り、二人で街外れまでやってくる。
街路樹にもたれかかるよう、ユオはゆっくりと丁寧にアリィを下ろしてやった。
「大丈夫? こんなに遠くまで来て、疲れたよね?」
彼の目的は分からないが、視線はアリィを捕らえて離さない。
(この人は、他の男と違う……)
そう感じた時、過去の記憶が蘇る。
祖国は本来、王族も学校に通うが、アリィは家庭学習で大学卒業の課程を修了した。
両親いわく、小さな頃から不審者に狙われていたから、だそうだ。
その実感はなかったが、十二歳の頃に思い知った。
カナンと祖国の交流があり、皇太子――シドゥルに抱きつかれ、卑猥な言葉を囁かれたことからだ。
今思い出しても、しばらく身震いしてしまうほどに。
(あの時は最悪だったわ。あんな人と結婚したくない……そう言えば、閉じ込められたのはあの時からだった)
当時、泣きそうになっていたアリィを助けたのは、他でもなく兄だった。
だが、何も言わずにアリィを閉じ込めたのも兄だ。
(きっと……ふしだらだと思われて、嫌われたんだわ)
離れにある古い城に閉じ込められてから、家族は誰も会いにこなかった。
嫌われた理由を探ると、その事件のせいではないかと考えるばかりだ。
「私は大丈夫よ。貴方の方が疲れているでしょう。行き先はあるの?」
「砂漠に避難所があるんだ。そこに行こう。ひとまず、着替えなきゃね」
「砂漠って、結界はあるの?」
「ないよ。魔物は出る。でも、僕なら大丈夫さ」
運動神経こそ鈍いが、アリィはさほど疲れていない。
むしろ先ほどの逃走劇によって、頭も冴えてしまっていた。
(この人が強いのは分かったけど……魔物は怖いわ。この国は、人里に結界が張られてるだけだもの)
祖国では全土に結界が届いているので、アリィは見たことがなかったが――ここにくるまでに見かけた魔物は、どれも恐ろしかった。
駱駝車に結界を張る装置があったので、襲われずに済んだのだが。
「近くまで行くから、抱っこしていい?」
「必要に迫られた時なら、許可はいらないわ」
ふざけているようで律儀なユオの問いに、アリィはそれだけ返した。
どうせいつか捕まるという諦観があったから――。
「そっか、嫌じゃなさそうでよかった」
そんなアリィの憂鬱もよそに、彼はまた嬉しそうに抱え上げた。
まるで、それが当然であるかのように。
街の警備の目を盗み、とうとう砂漠に出て行ってしまう。
アリィは無意識に、ユオの服を握りしめていた。
「魔物が怖いのかい? 魔力の残滓から発生する、ただの害獣なのに」
「そうだけど……貴方は星慧教団の信者じゃないの? 星慧教団では、魔物は試練の存在なのでしょう?」
「まさか。皇后が勝手に決めただけで、女神様を信じてるよ」
星慧教団の信者は祖国にも増えていて、皆が何かに取り憑かれているような印象だ。
ユオはそうでないから不思議だったが、その言葉で腑に落ちる。
「星慧教団は、女神様を邪神だって……」
「あんなの嘘さ」
ユオは微笑み、余裕そうに砂漠を歩いていく。
アリィがいくら小柄でも、人をひとり抱いて歩くだけでもかなり疲れるはずだ。
それでも、彼は息ひとつ上げていなかった。
(出鶴の王家は、星慧教団の信者からバカにされてきたわ。この人はそうじゃなくて、よかった)
アリィはそんなユオに、静かに身を委ねる。
と言ったそばから、巨大な蠍のような魔物の姿が見えてきた。
「きゃっ……!」
アリィは見ないようにして、ユオの服にしがみつく。
だが――巨大な蠍はユオを見るなり踵を返し、逆に逃げて行ってしまった。
「ほら、魔物の方が僕を怖がってるんだ」
理論は謎だったが、確かに魔物はユオを見て方向転換したように見える。
その後も、魔物が現れても、ユオを判別するや否や逃げて行く始末だ。
(どういうこと? 結界とも違うみたい。魔物避けの魔法道具なんて、開発されたのかしら……)
魔物の生態については、よく分からない。
それでも一斉に引いていくので、アリィは見たものを信じるしかなかった。
しばらく歩いた頃、急にアリィは我に返った。
(死ぬよりも、まずいことをしたかも知れないわ)
自暴自棄から、一種の高揚に入っていた。
思い返せば、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
みるみるうちに青ざめていく彼女に、ユオははっとする。
「大丈夫かい? もしかして寒い? 夜の砂漠は冷えるからね……ちょっと待っててね」
的外れながらも心配はしているようで、ユオは一度アリィを下ろす。
かと思えば、自分の上着を脱いで彼女に着せようとしていた。
下に着ている服は、体のラインがくっきりしていて、筋肉質な体が浮き彫りになっている。
「ち、違うの。出鶴が心配で……立場が弱い国だから。私の行いのせいで、多くの人がまた苦しむんじゃないかって……守ってくれた貴方には、感謝してるわ。だけど、後で考えたら怖くなったの」
男慣れしていないアリィは、男性の体を見るだけでも恥ずかしくなって目を逸らした。
自分のことだけを考えて行動してしまったことに、罪悪感が込み上げてくる――。
(私がここに来たのは、自業自得だったじゃない。禁書なんかを読んでしまったから……)
アリィは嫁がされることになった理由を思い出していた。
祖国は敗戦以来、ずっと世界政府の実質的な支配下にある。
王族は飾りのようなもので、外交以外の仕事はさせてもらえない。
離れの古城に閉じ込められるまでは家族は暖かかったが、それからは孤独だった。
専属の侍女として付いた喜代古は、そうなる前からアリィを家族に見えないところで虐待していた人。
古い城の中、喜代古が訪れるのは憂さ晴らしのみ。
他にすることのなかったアリィは、少し前くらいから地下の図書室で本を見つけた。
それは世界政府が禁じた、女神に関する書物。
本来、焚書されるべきものだ。
世界政府が燃やし忘れたものだと、それを見た時にすぐに分かった。
それでも好奇心は止まらず、何度もこっそり読んでいた。
あまりに面白かったから、一字一句覚えてしまうほどに。
神代文字という、出鶴の王族にしか読めないもので書かれていたから――大丈夫だろうと油断していた。
数ヶ月前、それが怪しい本だと喜代古に取り上げられてしまった。
あろうことか、彼女は国王ではなく、世界政府に直に通報した。
正確には、世界政府と繋がっている王家の政敵に。
結果――世界政府からひどく激昂され、矯正のためにカナンへ嫁がせるよう命じられたのだ。
(この結婚は、きっと厄介払いのようなものだったのよ)
アリィの生死など、誰も気に留めていないものなのだと――ずっとそう思ってきた。
(私が死んだとしても、きっと誰も悲しまないわ)
ユオが上着を着直している間、アリィの感情はまた急降下していた。
せっかく浮いてきたと思ったら、また沈んでいく。
死を選ぶべきかと、再び迷い始めていたほどに。
「今回の結婚では契約書を交わしてる。それには、誰と誰の婚約とは書いてないんだ。あくまで国婚……国と国の縁を結ぶものだという契約だよ」
ユオはアリィの不安を察し、視線を合わせた。
「お姫様が僕と結婚しても、出鶴も契約違反じゃないってことだね。僕が皇族じゃなかったら、ちょっとまずかったけど」
「それなら、私のせいで出鶴の人たちが苦しめられたりしない?」
「契約上、むしろ出鶴を攻撃した方が分が悪くなるね。まっ、カナン国内では追われる身になるだろうけど。この際だし、君は自分の人生を生きればいいじゃん」
「生きる、だなんて……」
祖国に関しては安堵した。
それでも、アリィはこれから生きていく自分を、うまく想像できなかった。
逃げたとして、一体どんなことをすればいいのか分からない。
「実は、君のお兄さんに頼まれたんだ。妹を助けてくれってね」
ここで言うべきか迷いながらも、ユオは静かにそう言った。
「お兄様に……? 嘘よ、お兄様は私なんか……それに、貴方に何のメリットがあるの? 何もしなければ、貴方は生き残れたでしょう。わざわざ初対面の私のために、こんなことに……」
当事者である妹には、にわかに信じられないことだった。
「混乱するよね。君がそんな様子だったって気付いたのは、僕らも最近だったから」
優しく目を細め、ユオは彼女の虚ろな顔を見つめる。
(自尊心も失ってるみたいだね……あの侍女か? 他にもいるのか? 全員、いつか殺してやるからね)
何を考えているかまでは分からずとも、ユオは笑顔で隠す。
決して口には出さなかった。
大昔に会っていたとしても、今の彼女はそれを知らないから。
衝動を抑えるかのように、人知れず拳を握りしめる。
「……ほら、あそこにある大きな岩が見えるかい? あそこまで歩くからね。お兄さんの話は、それからにしようか」
握った手を解き、ユオは朗らかな微笑みを維持する。
今その感情を出して、怖がらせたくはなかったからだ。
話題を変えるように、その隣に腰を少し落とす。
目線を同じにしながら、西の方角を指差した。
そこには大きな岩の影が、満月の光を背景にして聳えている。
(優しいのね。身を挺して助けてくれたし……私がここで死んだら、この人は助け損になるわ)
ユオがあまりに優しかったから、アリィは少し思い留まる。
死ぬのは簡単でも、彼はもう後戻りは出来ない。
一人で遺してしまうのは、理性が咎めるのだ。
「自分で歩くわ。ずっと抱えられてるのも申し訳ないもの」
アリィはヒールの高い靴で、一歩だけ進む。
砂は思ったよりも柔らかく、ヒールが埋まり、歩くのには不安定だった。
「分かったよ。歩きにくそうだし、ヒールを折ろうか?」
「うん、お願い」
「ちょっと待ってね……」
ユオはいとも簡単にアリィの靴のヒールを折り、砂漠に投げ捨てる。
「この方がいいよ。ほら、行こうか」
それでも少しだけ、足場が不安定だと感じたアリィ。
その気持ちを知ってか知らずか、ユオは大きな手を差し出した。
「だ、だめよ。手は繋げないわ。はしたないもの」
動揺しながら一歩進むが、やはり少し不安定だと感じ――仕方なく、ユオの袖を掴む。
「はしたないって……手を繋ぐだけなのに?」
「恋文も交わした仲でもないのに、異性と肌を合わせるのは嫌よ。皇太子と無理やり肌を合わせるなら、自分で死ぬつもりだったくらいなの」
「……そんなに結婚が嫌だったんだね」
ユオに寂しそうにそう言われ、アリィはどうして死にたいほど嫌だったのかと考える。
十二歳の頃の事件は、肌が粟立つくらいの思いだった。
星慧教団の儀式も嫌だが、皇太子の顔を思い出すだけで気分が悪くなる。
「よく考えたら、結婚自体が嫌ってわけじゃないわ。あの人との結婚がすごく嫌だったの」
「そっか。体面上は僕が婚約者だけど、それでよかったの?」
「いいわ。本来は結婚相手を選ぶなんて、贅沢は言えない立場だもの」
「嫌じゃないならいいや」
ユオは笑い、落ち着いた声で語りかけた後、真っ直ぐに岩の方を目指した。
「君も、〈ジェミリオン〉も……僕が守るから」
ユオは前を向いて、宣言するように呟いた。
誓いのようで、執着に近い言葉を。
「えっ……?」
聞き慣れない単語だったから、アリィは思わず彼を見る。
「さっ、行こうか」
ユオはそんなアリィを見下ろして、笑顔で言った。
先程までのペースではなく、明らかにアリィに合わせて、ゆっくり、ゆっくりと。
少し気まずくなって、アリィは下を見ながら歩いていた。
満月に照らされて、ふたり分の影が長く伸びていく。
ずっと昔に見た、遠い思い出のように。
(お兄様は、元気かしら)
小さい頃は、兄と手を繋いで月明かりの下を散歩したものだ。
引きこもり状態だった姫だが、アリィは元から体力だけはある。
歩きにくくても、さほど疲れはしなかった。
「着いたよ。追手は来てないみたいだね」
ユオは大きな岩の前で立ち止まり、岩を見上げて言った。
「ここで休むつもりなの?」
「いや、見てて」
と、アリィは不思議に思いながらその横顔を見上げる。
ユオは視線を感じて微笑み返すと、岩に手を触れてまた前を向いた。
「イフタ・ヤ・スィムスィム」
呪文のようなものを唱えた途端、岩は急に震え始める。
自然ではありえないような、きれいな断面を見せて――それは縦に割れたのだった。
その先は星空が広がっているかのようで、アリィは初めて見る光景に驚いてしまう。
「これは一体……」
「僕らが入れば、またこの扉は閉まるよ。行こうか」
「う、うん、分かったわ」
ユオに優しく誘導され、アリィは戸惑いながらも、その中に足を踏み入れた。
だが――ユオはアリィを抱えたまま、足技だけで兵士たちを蹴落としていく。
砂埃が舞い、鎧が転がる音が夜に響いた。
そうして追手は少しずつ減っていき、街の外れに来た頃には、もう誰もいなくなっていた。
「お姫様、大丈夫かい?」
改めて、二人の視線は交差する。
(この人……お兄様と並んでも遜色ない美男子だわ。不細工というのは、誰が広めたの?)
アリィには兄がいる。
この六年間は、遠くから眺めるばかりだったが――身内でありながらも、相当な美青年だ。
そんな兄に、この人も負けていないと感じる。
優しげな目元と、淡い色の睫毛。
笑うと、どこか無防備に見える顔だった。
背が高いし、腕も太くて逞しい。
どうしても、男なのだと感じてしまうほどに。
「はい。ありがとうございます。まさか、本当に逃げ出すなんて。何とお礼をしたらいいか……」
結婚を回避できたのはいいことだが、アリィは何も持っていない。
この皇子が何を求めているかも分からない今、体は強張ったままだった。
「それなら、敬語はやめてよ。今はそれだけでいいや」
「そんなことで……?」
「僕にとっては、とっても大事なことなんだ」
「そう……分かったわ」
アリィが敬語をやめた途端、屈託なく笑うユオ。
過剰にすら見えたが、アリィは少し肩の力を抜いた。
しばらく走り、二人で街外れまでやってくる。
街路樹にもたれかかるよう、ユオはゆっくりと丁寧にアリィを下ろしてやった。
「大丈夫? こんなに遠くまで来て、疲れたよね?」
彼の目的は分からないが、視線はアリィを捕らえて離さない。
(この人は、他の男と違う……)
そう感じた時、過去の記憶が蘇る。
祖国は本来、王族も学校に通うが、アリィは家庭学習で大学卒業の課程を修了した。
両親いわく、小さな頃から不審者に狙われていたから、だそうだ。
その実感はなかったが、十二歳の頃に思い知った。
カナンと祖国の交流があり、皇太子――シドゥルに抱きつかれ、卑猥な言葉を囁かれたことからだ。
今思い出しても、しばらく身震いしてしまうほどに。
(あの時は最悪だったわ。あんな人と結婚したくない……そう言えば、閉じ込められたのはあの時からだった)
当時、泣きそうになっていたアリィを助けたのは、他でもなく兄だった。
だが、何も言わずにアリィを閉じ込めたのも兄だ。
(きっと……ふしだらだと思われて、嫌われたんだわ)
離れにある古い城に閉じ込められてから、家族は誰も会いにこなかった。
嫌われた理由を探ると、その事件のせいではないかと考えるばかりだ。
「私は大丈夫よ。貴方の方が疲れているでしょう。行き先はあるの?」
「砂漠に避難所があるんだ。そこに行こう。ひとまず、着替えなきゃね」
「砂漠って、結界はあるの?」
「ないよ。魔物は出る。でも、僕なら大丈夫さ」
運動神経こそ鈍いが、アリィはさほど疲れていない。
むしろ先ほどの逃走劇によって、頭も冴えてしまっていた。
(この人が強いのは分かったけど……魔物は怖いわ。この国は、人里に結界が張られてるだけだもの)
祖国では全土に結界が届いているので、アリィは見たことがなかったが――ここにくるまでに見かけた魔物は、どれも恐ろしかった。
駱駝車に結界を張る装置があったので、襲われずに済んだのだが。
「近くまで行くから、抱っこしていい?」
「必要に迫られた時なら、許可はいらないわ」
ふざけているようで律儀なユオの問いに、アリィはそれだけ返した。
どうせいつか捕まるという諦観があったから――。
「そっか、嫌じゃなさそうでよかった」
そんなアリィの憂鬱もよそに、彼はまた嬉しそうに抱え上げた。
まるで、それが当然であるかのように。
街の警備の目を盗み、とうとう砂漠に出て行ってしまう。
アリィは無意識に、ユオの服を握りしめていた。
「魔物が怖いのかい? 魔力の残滓から発生する、ただの害獣なのに」
「そうだけど……貴方は星慧教団の信者じゃないの? 星慧教団では、魔物は試練の存在なのでしょう?」
「まさか。皇后が勝手に決めただけで、女神様を信じてるよ」
星慧教団の信者は祖国にも増えていて、皆が何かに取り憑かれているような印象だ。
ユオはそうでないから不思議だったが、その言葉で腑に落ちる。
「星慧教団は、女神様を邪神だって……」
「あんなの嘘さ」
ユオは微笑み、余裕そうに砂漠を歩いていく。
アリィがいくら小柄でも、人をひとり抱いて歩くだけでもかなり疲れるはずだ。
それでも、彼は息ひとつ上げていなかった。
(出鶴の王家は、星慧教団の信者からバカにされてきたわ。この人はそうじゃなくて、よかった)
アリィはそんなユオに、静かに身を委ねる。
と言ったそばから、巨大な蠍のような魔物の姿が見えてきた。
「きゃっ……!」
アリィは見ないようにして、ユオの服にしがみつく。
だが――巨大な蠍はユオを見るなり踵を返し、逆に逃げて行ってしまった。
「ほら、魔物の方が僕を怖がってるんだ」
理論は謎だったが、確かに魔物はユオを見て方向転換したように見える。
その後も、魔物が現れても、ユオを判別するや否や逃げて行く始末だ。
(どういうこと? 結界とも違うみたい。魔物避けの魔法道具なんて、開発されたのかしら……)
魔物の生態については、よく分からない。
それでも一斉に引いていくので、アリィは見たものを信じるしかなかった。
しばらく歩いた頃、急にアリィは我に返った。
(死ぬよりも、まずいことをしたかも知れないわ)
自暴自棄から、一種の高揚に入っていた。
思い返せば、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
みるみるうちに青ざめていく彼女に、ユオははっとする。
「大丈夫かい? もしかして寒い? 夜の砂漠は冷えるからね……ちょっと待っててね」
的外れながらも心配はしているようで、ユオは一度アリィを下ろす。
かと思えば、自分の上着を脱いで彼女に着せようとしていた。
下に着ている服は、体のラインがくっきりしていて、筋肉質な体が浮き彫りになっている。
「ち、違うの。出鶴が心配で……立場が弱い国だから。私の行いのせいで、多くの人がまた苦しむんじゃないかって……守ってくれた貴方には、感謝してるわ。だけど、後で考えたら怖くなったの」
男慣れしていないアリィは、男性の体を見るだけでも恥ずかしくなって目を逸らした。
自分のことだけを考えて行動してしまったことに、罪悪感が込み上げてくる――。
(私がここに来たのは、自業自得だったじゃない。禁書なんかを読んでしまったから……)
アリィは嫁がされることになった理由を思い出していた。
祖国は敗戦以来、ずっと世界政府の実質的な支配下にある。
王族は飾りのようなもので、外交以外の仕事はさせてもらえない。
離れの古城に閉じ込められるまでは家族は暖かかったが、それからは孤独だった。
専属の侍女として付いた喜代古は、そうなる前からアリィを家族に見えないところで虐待していた人。
古い城の中、喜代古が訪れるのは憂さ晴らしのみ。
他にすることのなかったアリィは、少し前くらいから地下の図書室で本を見つけた。
それは世界政府が禁じた、女神に関する書物。
本来、焚書されるべきものだ。
世界政府が燃やし忘れたものだと、それを見た時にすぐに分かった。
それでも好奇心は止まらず、何度もこっそり読んでいた。
あまりに面白かったから、一字一句覚えてしまうほどに。
神代文字という、出鶴の王族にしか読めないもので書かれていたから――大丈夫だろうと油断していた。
数ヶ月前、それが怪しい本だと喜代古に取り上げられてしまった。
あろうことか、彼女は国王ではなく、世界政府に直に通報した。
正確には、世界政府と繋がっている王家の政敵に。
結果――世界政府からひどく激昂され、矯正のためにカナンへ嫁がせるよう命じられたのだ。
(この結婚は、きっと厄介払いのようなものだったのよ)
アリィの生死など、誰も気に留めていないものなのだと――ずっとそう思ってきた。
(私が死んだとしても、きっと誰も悲しまないわ)
ユオが上着を着直している間、アリィの感情はまた急降下していた。
せっかく浮いてきたと思ったら、また沈んでいく。
死を選ぶべきかと、再び迷い始めていたほどに。
「今回の結婚では契約書を交わしてる。それには、誰と誰の婚約とは書いてないんだ。あくまで国婚……国と国の縁を結ぶものだという契約だよ」
ユオはアリィの不安を察し、視線を合わせた。
「お姫様が僕と結婚しても、出鶴も契約違反じゃないってことだね。僕が皇族じゃなかったら、ちょっとまずかったけど」
「それなら、私のせいで出鶴の人たちが苦しめられたりしない?」
「契約上、むしろ出鶴を攻撃した方が分が悪くなるね。まっ、カナン国内では追われる身になるだろうけど。この際だし、君は自分の人生を生きればいいじゃん」
「生きる、だなんて……」
祖国に関しては安堵した。
それでも、アリィはこれから生きていく自分を、うまく想像できなかった。
逃げたとして、一体どんなことをすればいいのか分からない。
「実は、君のお兄さんに頼まれたんだ。妹を助けてくれってね」
ここで言うべきか迷いながらも、ユオは静かにそう言った。
「お兄様に……? 嘘よ、お兄様は私なんか……それに、貴方に何のメリットがあるの? 何もしなければ、貴方は生き残れたでしょう。わざわざ初対面の私のために、こんなことに……」
当事者である妹には、にわかに信じられないことだった。
「混乱するよね。君がそんな様子だったって気付いたのは、僕らも最近だったから」
優しく目を細め、ユオは彼女の虚ろな顔を見つめる。
(自尊心も失ってるみたいだね……あの侍女か? 他にもいるのか? 全員、いつか殺してやるからね)
何を考えているかまでは分からずとも、ユオは笑顔で隠す。
決して口には出さなかった。
大昔に会っていたとしても、今の彼女はそれを知らないから。
衝動を抑えるかのように、人知れず拳を握りしめる。
「……ほら、あそこにある大きな岩が見えるかい? あそこまで歩くからね。お兄さんの話は、それからにしようか」
握った手を解き、ユオは朗らかな微笑みを維持する。
今その感情を出して、怖がらせたくはなかったからだ。
話題を変えるように、その隣に腰を少し落とす。
目線を同じにしながら、西の方角を指差した。
そこには大きな岩の影が、満月の光を背景にして聳えている。
(優しいのね。身を挺して助けてくれたし……私がここで死んだら、この人は助け損になるわ)
ユオがあまりに優しかったから、アリィは少し思い留まる。
死ぬのは簡単でも、彼はもう後戻りは出来ない。
一人で遺してしまうのは、理性が咎めるのだ。
「自分で歩くわ。ずっと抱えられてるのも申し訳ないもの」
アリィはヒールの高い靴で、一歩だけ進む。
砂は思ったよりも柔らかく、ヒールが埋まり、歩くのには不安定だった。
「分かったよ。歩きにくそうだし、ヒールを折ろうか?」
「うん、お願い」
「ちょっと待ってね……」
ユオはいとも簡単にアリィの靴のヒールを折り、砂漠に投げ捨てる。
「この方がいいよ。ほら、行こうか」
それでも少しだけ、足場が不安定だと感じたアリィ。
その気持ちを知ってか知らずか、ユオは大きな手を差し出した。
「だ、だめよ。手は繋げないわ。はしたないもの」
動揺しながら一歩進むが、やはり少し不安定だと感じ――仕方なく、ユオの袖を掴む。
「はしたないって……手を繋ぐだけなのに?」
「恋文も交わした仲でもないのに、異性と肌を合わせるのは嫌よ。皇太子と無理やり肌を合わせるなら、自分で死ぬつもりだったくらいなの」
「……そんなに結婚が嫌だったんだね」
ユオに寂しそうにそう言われ、アリィはどうして死にたいほど嫌だったのかと考える。
十二歳の頃の事件は、肌が粟立つくらいの思いだった。
星慧教団の儀式も嫌だが、皇太子の顔を思い出すだけで気分が悪くなる。
「よく考えたら、結婚自体が嫌ってわけじゃないわ。あの人との結婚がすごく嫌だったの」
「そっか。体面上は僕が婚約者だけど、それでよかったの?」
「いいわ。本来は結婚相手を選ぶなんて、贅沢は言えない立場だもの」
「嫌じゃないならいいや」
ユオは笑い、落ち着いた声で語りかけた後、真っ直ぐに岩の方を目指した。
「君も、〈ジェミリオン〉も……僕が守るから」
ユオは前を向いて、宣言するように呟いた。
誓いのようで、執着に近い言葉を。
「えっ……?」
聞き慣れない単語だったから、アリィは思わず彼を見る。
「さっ、行こうか」
ユオはそんなアリィを見下ろして、笑顔で言った。
先程までのペースではなく、明らかにアリィに合わせて、ゆっくり、ゆっくりと。
少し気まずくなって、アリィは下を見ながら歩いていた。
満月に照らされて、ふたり分の影が長く伸びていく。
ずっと昔に見た、遠い思い出のように。
(お兄様は、元気かしら)
小さい頃は、兄と手を繋いで月明かりの下を散歩したものだ。
引きこもり状態だった姫だが、アリィは元から体力だけはある。
歩きにくくても、さほど疲れはしなかった。
「着いたよ。追手は来てないみたいだね」
ユオは大きな岩の前で立ち止まり、岩を見上げて言った。
「ここで休むつもりなの?」
「いや、見てて」
と、アリィは不思議に思いながらその横顔を見上げる。
ユオは視線を感じて微笑み返すと、岩に手を触れてまた前を向いた。
「イフタ・ヤ・スィムスィム」
呪文のようなものを唱えた途端、岩は急に震え始める。
自然ではありえないような、きれいな断面を見せて――それは縦に割れたのだった。
その先は星空が広がっているかのようで、アリィは初めて見る光景に驚いてしまう。
「これは一体……」
「僕らが入れば、またこの扉は閉まるよ。行こうか」
「う、うん、分かったわ」
ユオに優しく誘導され、アリィは戸惑いながらも、その中に足を踏み入れた。
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