01
ー/ー 動かなくなった侍女。
大理石の床に血が広がり、鉄の匂いが鼻を刺す。
どうでもいいと、息をつく。
その場に似つかわしくない声が、落ちた。
「ねぇ、僕と駆け落ちしない?」
それが、全ての始まりだった。
☾
全てが始まる数時間前。
駱駝が引く車が、砂漠の街に列を成している。
それは大きな宮殿を目指していた。
「あれが有明姫様か? 顔はあまり見えんが、髪が夜空みたいで綺麗だなぁ」
「あの方が十二歳の頃から、皇太子殿下が恋してやまないそうだが……」
「えっ、皇太子殿下ってもう三十を超えるのでは……? 姫様は十八だよね?」
「うわっ……大恋愛の末の結婚とか言われてたけど、嘘くさくない?」
「余計なことを言うな。投獄されるぞ」
人々の視線は、ただ一台の車に集まっていた――その姫が何を選ぶかも知らずに。
揺れる車の中、有明姫――アリィは顔を伏せていた。
(お父様、お母様、お兄様……昔はアリィって呼んでくれたわよね。また呼んでもらうどころか、最後まで見送りもなかったわ)
涙が溢れそうなのをぐっとこらえ、記憶の中にある家族との思い出に浸る。
外から人々の声が聞こえてくるが、彼らが何を言っているのかは分からなかった。
「姫様、背筋を伸ばしなさい。いい御縁ではないですか。身分を剥奪されても、おかしくなかったんですよ」
向かいに座る侍女の喜代古が、ニヤついたまま、言葉を押し込むように言った。
どっしりと巨体を沈ませ、顔を歪ませてアリィを睨みつけている。
「……ごめんなさい、喜代古」
アリィは言葉を呑み込み、背筋を伸ばす。
(嫌に決まってるわ。お父様と少ししか変わらない相手なのよ……最初の妻も、その次の妻も、死んだって聞いたわ)
少し顔を上げ、白い肌を蒼くさせ、儚げな桜色の唇を縛った。
氷のように、光を受けるたびに色を変える双眸。
今はそれも翳ったまま、動かない。
花嫁衣装を着ていながら、ひとつも幸せそうではなかった。
「皇太子様の妃だなんて、姫様には勿体ないくらいですよ。バカで不細工で役立たずの、ユオシェム皇子の方がお似合いだったのでは?」
他に誰もいないのをいいことに、喜代古はバカにするように笑う。
(皇族のことを、侍女ごときが好き勝手言うなんて……許されないわ。だけど、私には何も発言権はない……)
アリィは身を縮ませるばかりだ。
「皇太子殿下と結婚すれば、あの皇后陛下が義母になられますもの。姫様の母君なんかよりも、よほど人ができていますしね!」
喜代古は一方的に捲し立てるが、皇后を心から礼賛しているわけでもない。
引き合いに出して、王妃であるアリィの母親をこき下ろしたかっただけだ。
(皇后陛下は、マザー・エイプリルと呼ばれた……星慧教団の聖母様よね。教団の結婚式なんて、最悪だわ。死んでしまいたい……)
喜代古の長々とした話を聞き流し、アリィは別のことを考える。
星慧教団――世界中に広がりつつある、気味の悪い新興宗教。
結婚が決まれば、すぐに挙式。
そして――神官たちに見届けられる初夜。
乙女でなければ、結婚は許されない。
カナン帝国は、アリィが憧れていた国だ。
その国が教団の聖女を皇后に迎え、蝕まれていく姿は、見るに耐えなかった。
(大嫌い……星慧教団も、世界政府も、あの皇太子も)
雨のように降り注ぐ嫌味を聞きながら、アリィは窓の外を眺めて手を握りしめた。
☾
世界が闇に包まれた頃、馬車は宮殿に到着した。
熱い砂漠の中に聳える清廉な印象の宮殿は、白を基調とした大理石で作られている。
独特な玉ねぎのような形の屋根は、アリィがかつて神話で知ったものだった。
(カナンは闇天将様の場所なのに……こんな形で来たくなかったわね)
幼い頃の初恋は、神話の登場人物だった。
この砂漠の国を守った、闇を司る青年――幼い頃に、母に聞かせてもらった話だ。
そんなものは、とうに捨てた。
それでも皇太子の妻になるのは、砂漠でも凍えそうなほどの寒気がした。
いざ現実が近付いてくると、アリィの足は止まってしまった。
夜の砂漠の冷えた空気が、彼女の心を映しているかのようだ。
「姫様、グズグズしないでくださいますか?」
すると、喜代古に背中をぐっと押されてしまう。
それを見ていた宮殿の侍女たちは、即座に振る舞い方を決めたようだ。
クスクスと笑い、異国の姫に頭を垂れることすらしなかった。
花嫁の衣装を更に整えるためにと、アリィは別室に連れて行かれる。
けれども、それは式典が始まるまでの時間潰しであり、喜代古によるいつもの虐待が目当てであった。
「うちの姫様はのろまでね。見た目も不細工だし。母親と一緒で、体で皇太子殿下を誘惑したんですよ。皇太子殿下に申し訳ないわ」
宮殿の侍女が二人付き、喜代古は彼女たちに我が物顔で自らの主人を貶し始める。
アリィは無意識に胸を押さえた。
思春期を超えた頃から、低い身長と豊かになった胸がコンプレックスだったから――。
それを刺激するように、喜代古は六年かけて彼女を不細工と罵ったのだ。
(私が美人なら、もう少しマシな人のところに嫁げたのかしら)
今やアリィは、鏡を見るのも気が引けてしまう。
「やだー。出鶴の王妃って、体で王を落としたんですかぁ?」
「皇太子殿下も有明姫に一目惚れって話だし、娘も色目を使ったんでしょ」
喜代古に同調し、二人の侍女たちも礼儀など弁える気はないようで、アリィの目の前でひどい悪口を言った。
瑠璃色の絹のような髪をわざと引っ張ったり、似合わない化粧をしたりして――。
アリィはふと、鏡越しに櫛を見る。
(あれを奪って、自分の首をつけば……)
今日で命を終わらせよう、と決意した。
控室の外から物音が近づいてくる。
今の彼女には、どうでもいいことだ。
すると、その気配の主なのか――控室の扉が開かれた。
「皇子殿下? ここは娼館じゃないですよ?」
侍女が軽い口調で、侮蔑を込めて言った。
鏡の前で向き合ったままのアリィは、侵入者に興味もなく――ぼんやりとしたまま、鏡の前で俯いていた。
(皇太子かしら)
違和感はありながらも、今夜にも死ぬ覚悟のアリィにはどうでもいいことだ。
時間が過ぎるのを待った。
鏡越しに見えたのは、どす黒い煤のような何かだった。
真っ黒な闇の塊が、侍女たちの顔を覆っている――。
先程までアリィの髪を引っ張っていた侍女は、櫛を持って距離を取った。
真っ黒な塊は消えていたが、明らかに様子がおかしい。
(あれは、魔法……?)
異様な雰囲気に思わず目を丸くするが、振り向く気はなかった。
「私は……死を持って償います……」
侍女は虚空に向かってブツブツ呟くと、自分の首を櫛で滅多刺しにし始めた。
アリィから距離を取ったため、その返り血は飛んでこない。
まるで、そう命令されていたかのように。
大量の血と共に、どさりと倒れる音がした。
「ひ、ひいぃ……あんた、誰なのよ……!?」
それで喜代古が顔を真っ青にし、鶏のような声で叫んだ。
入ってきた人物に対して、言っているかのようだ。
「これは法に則った罰だよ。侍女ごときが、貴族を侮辱した。カナンだと、その場で裁いていい案件なんだ」
優しげな口調でありながら、どこか機嫌の悪そうな低い声がそう言った。
(もしかして、ユオシェム皇子……?)
以前に聞いた皇太子の声ではない。
話に聞いていた放蕩皇子なのかと、アリィは予想した。
その間にも、もう一人の侍女も櫛を拾い、同じように自ら命を絶ってしまった。
否、そうするように洗脳され、仕向けられているような形だ。
「お、皇子殿下……? 嘘……顔が変わっ……」
喜代古は何を見たのか、喉の奥が詰まったかのように後ずさる。
「本当は君を一番に殺すべきだけどさ……異国の人間みたいだし、法適用が微妙だしなぁ」
皇子と思われる人物の声は、聞いている分には全く恐ろしいとは感じないものだった。
「まっ、ここから出て行こうか」
「ひいぃっ……!」
彼は喜代古の髪を掴むと、そのまま勢い良く窓から放り投げる。
ドスン、と鈍い音が響いた。
それからほどなくして喜代古の声が聞こえ、遠くなっていく。
バタバタと大理石を踏みしめる足音と共に――。
静まり返った中、アリィは放蕩皇子と思わしき人を振り返る。
彼は死体にテーブルにかけてあった布をかけ、見えなくしていた。
血だまりであるのには変わりなく、生々しい鉄の匂いが立ち込める。
ふわりとした質感の淡い金の髪。
首筋くらいまで伸ばし、前髪の片方を掻き上げている。
肌の色はこの国の人の特徴である褐色で、体はかなり引き締まっていた。
「貴方は……ユオシェム皇子ですか?」
虚ろな目で問いかけるアリィに、その青年はぱっと表情を明るくする。
侍女を見ていた冷たい目が、まるで嘘のように。
それでも一瞬だけ、悲しそうな目をしてアリィを見つめた。
「うん。僕はユオ! ユオシェム・オル・カナン、第三皇子だよ。君は有明姫様だね?」
またたびを見つけた猫みたいに、彼は上ずった声を出す。
あっさりとした自己紹介で出てきた名前は――予想していたとおりのものだった。
(闇天将様……)
緑がかったピーコックブルーの瞳に、アリィはなぜだか神話を思い浮かべた。
(カナンの皇族は、闇天将様の血を引くものね)
皇太子に対しては、そんなことを微塵も思わなかったのに。
「君をずっと待ってたんだ」
血だまりの中、深呼吸して彼は笑う。
「ねぇ、僕と駆け落ちしない?」
あまりに唐突すぎて、アリィは硬直した。
しばしの沈黙。
慌てるように目を泳がせるユオは、そっとアリィのそばに歩み寄って、腰を落とした。
「ほら、僕は皇太子よりもマシだと思うよ。嫌がることは絶対にしないから」
言葉は軽いのに、懐かしむように目を細める姿。
アリィはどこか重みを感じた。
「いいですよ」
どうせできないだろうと決めつけ、アリィは投げやりに返す。
(駆け落ちなんて……見つかったときに処刑されるだけよ。でも……処刑なら、皇太子と結婚しなくて済むかしら)
ちらり、とユオを見た。
「じゃあ、君を幸せにするために頑張るからね」
ユオは頬を紅潮させて、にこにこと笑う。
冗談で言ったわけでもないようで、本気でアリィの夫にでもなるかのようだった。
彼はゆっくり立ち上がり、鏡台に置かれていた口紅を取り出した。
「少し触れてもいい? 変なことはしないから」
「……はい、どうぞ」
微動だにしないアリィに断ったかと思えば、なぜかそれを首筋に塗る。
白い首筋に仄かな赤が差されると、まるで鬱血しているかのように見えた。
(変な人だわ。化粧品で遊んでいるのかしら……)
アリィはじっと彼の目を見ていると、視線がかち合う。
不細工だという噂なんて、吹き飛ぶくらい――彫りの深い男前。
優しげなタレ目に、髪と同じ色の睫毛も長い。
背も高くて、容姿だけなら完璧だと言えるだろう。
「抱っこしていいかな?」
ユオはまた確認を取るようにして、アリィの顔をそっと覗き込んだ。
(たぶん、侍女たちは魔法で自殺に追い込まれた……この人によって)
彼がアリィに対してだけ律儀に許可を得る姿に、拍子抜けしてしまう。
「構いませんよ」
アリィはもはや、(どうにでもなれ)と、頷くしかない。
「じゃあ、行くよ」
ユオはアリィを横にして、優しくそっと抱え上げる。
(大きい……)
ドレス越しに触れた手が大きくて、男を知らない彼女は驚いた。
すぐにユオが全力疾走していったので、何かを感じる暇すらなかった。
大理石の床を鳴らしながら走る。
使用人は式の準備で忙しいのか、誰にも会わなかった。
ユオは宮殿の中でも最も大きな、御殿のような扉の前に立つ。
アリィには、それだけでも新鮮だった。
「大丈夫だよ、安心してね」
と、ユオはアリィを気遣うように言うと、その扉を脚で蹴り倒す。
中は式の準備で、一度だけ会ったことのある新郎――皇太子が立っていた。
皇帝と皇后も、奥に鎮座している。
他にも現地の貴族や、星慧教団の聖職者などが集まる、厳かな会場。
アリィは突き刺さる視線に俯いた。
「何事ですか!?」
激昂するように、白い肌の皇后が声を上げる。
ユオはアリィを抱えたまま、彼女の首筋が見えるように少し持ち上げた。
悲鳴のような声まで響くくらい、おかしな雰囲気に包まれる。
それもそのはずだ――花嫁の純潔が疑わしいということになったから。
この時になって、アリィはようやく口紅の意味を理解する。
「この子に一目惚れしたので、ついさっき手を出してしまいました! あはは、この子はもう他の人と結婚できませんね! ってことで、僕らが結婚しようと思います!」
笑いながら大声でそう言ってしまうユオの姿は、誰の目にも正気には映らない。
アリィにはユオの顔を見ている余裕もなく、ただ俯いていた。
けれども、笑って許される問題でもなく――ユオとは何もかも似ていない皇太子は、特に怒り狂った様子を見せた。
「この馬鹿者が! 俺の花嫁に手を出しただと!? お前を生かしていたのが間違いだった! この愚弟を死刑にしろ!」
「そうですよ、国際問題ですわ。ユオシェム皇子には責任を取らせませんと」
皇太子は怒り狂い、皇后は静かに睨む。
虚ろな皇帝は何も答えず、じっとユオを見つめているだけだ。
髪と瞳は、ユオと同じ色だった。
ずっと人生を諦めていたアリィは、この時にようやく時計の針が動き始めた気がしてくる。
一人の少女を裁判にかける姿は――幼い頃に読んだ本のようだ。
とても恐ろしいはずなのに、アリィも夢の中にいるような気になってしまう。
「……ふふっ」
大の貴族たちがこんな嘘に踊らされて怒り狂う姿。
不思議の国の住人のように、滑稽なものに見えてくる。
何年かぶりに、笑ってしまうくらいに。
「何がおかしいか! 女は生け捕りにし、ユオシェムを殺せ!」
それが皇太子を余計に怒らせる結果になり――次の瞬間には、兵士たちがぞろぞろと音を立てて駆けつけてくる。
「逃げるよ。捕まっててね!」
ユオはアリィを片手で抱き、林檎くらいの大きさの土色の道具を投げた。
それはたちまち、結婚式場を煙だらけにして――混乱の中、満月の下へと駆け抜けた。
大理石の床に血が広がり、鉄の匂いが鼻を刺す。
どうでもいいと、息をつく。
その場に似つかわしくない声が、落ちた。
「ねぇ、僕と駆け落ちしない?」
それが、全ての始まりだった。
☾
全てが始まる数時間前。
駱駝が引く車が、砂漠の街に列を成している。
それは大きな宮殿を目指していた。
「あれが有明姫様か? 顔はあまり見えんが、髪が夜空みたいで綺麗だなぁ」
「あの方が十二歳の頃から、皇太子殿下が恋してやまないそうだが……」
「えっ、皇太子殿下ってもう三十を超えるのでは……? 姫様は十八だよね?」
「うわっ……大恋愛の末の結婚とか言われてたけど、嘘くさくない?」
「余計なことを言うな。投獄されるぞ」
人々の視線は、ただ一台の車に集まっていた――その姫が何を選ぶかも知らずに。
揺れる車の中、有明姫――アリィは顔を伏せていた。
(お父様、お母様、お兄様……昔はアリィって呼んでくれたわよね。また呼んでもらうどころか、最後まで見送りもなかったわ)
涙が溢れそうなのをぐっとこらえ、記憶の中にある家族との思い出に浸る。
外から人々の声が聞こえてくるが、彼らが何を言っているのかは分からなかった。
「姫様、背筋を伸ばしなさい。いい御縁ではないですか。身分を剥奪されても、おかしくなかったんですよ」
向かいに座る侍女の喜代古が、ニヤついたまま、言葉を押し込むように言った。
どっしりと巨体を沈ませ、顔を歪ませてアリィを睨みつけている。
「……ごめんなさい、喜代古」
アリィは言葉を呑み込み、背筋を伸ばす。
(嫌に決まってるわ。お父様と少ししか変わらない相手なのよ……最初の妻も、その次の妻も、死んだって聞いたわ)
少し顔を上げ、白い肌を蒼くさせ、儚げな桜色の唇を縛った。
氷のように、光を受けるたびに色を変える双眸。
今はそれも翳ったまま、動かない。
花嫁衣装を着ていながら、ひとつも幸せそうではなかった。
「皇太子様の妃だなんて、姫様には勿体ないくらいですよ。バカで不細工で役立たずの、ユオシェム皇子の方がお似合いだったのでは?」
他に誰もいないのをいいことに、喜代古はバカにするように笑う。
(皇族のことを、侍女ごときが好き勝手言うなんて……許されないわ。だけど、私には何も発言権はない……)
アリィは身を縮ませるばかりだ。
「皇太子殿下と結婚すれば、あの皇后陛下が義母になられますもの。姫様の母君なんかよりも、よほど人ができていますしね!」
喜代古は一方的に捲し立てるが、皇后を心から礼賛しているわけでもない。
引き合いに出して、王妃であるアリィの母親をこき下ろしたかっただけだ。
(皇后陛下は、マザー・エイプリルと呼ばれた……星慧教団の聖母様よね。教団の結婚式なんて、最悪だわ。死んでしまいたい……)
喜代古の長々とした話を聞き流し、アリィは別のことを考える。
星慧教団――世界中に広がりつつある、気味の悪い新興宗教。
結婚が決まれば、すぐに挙式。
そして――神官たちに見届けられる初夜。
乙女でなければ、結婚は許されない。
カナン帝国は、アリィが憧れていた国だ。
その国が教団の聖女を皇后に迎え、蝕まれていく姿は、見るに耐えなかった。
(大嫌い……星慧教団も、世界政府も、あの皇太子も)
雨のように降り注ぐ嫌味を聞きながら、アリィは窓の外を眺めて手を握りしめた。
☾
世界が闇に包まれた頃、馬車は宮殿に到着した。
熱い砂漠の中に聳える清廉な印象の宮殿は、白を基調とした大理石で作られている。
独特な玉ねぎのような形の屋根は、アリィがかつて神話で知ったものだった。
(カナンは闇天将様の場所なのに……こんな形で来たくなかったわね)
幼い頃の初恋は、神話の登場人物だった。
この砂漠の国を守った、闇を司る青年――幼い頃に、母に聞かせてもらった話だ。
そんなものは、とうに捨てた。
それでも皇太子の妻になるのは、砂漠でも凍えそうなほどの寒気がした。
いざ現実が近付いてくると、アリィの足は止まってしまった。
夜の砂漠の冷えた空気が、彼女の心を映しているかのようだ。
「姫様、グズグズしないでくださいますか?」
すると、喜代古に背中をぐっと押されてしまう。
それを見ていた宮殿の侍女たちは、即座に振る舞い方を決めたようだ。
クスクスと笑い、異国の姫に頭を垂れることすらしなかった。
花嫁の衣装を更に整えるためにと、アリィは別室に連れて行かれる。
けれども、それは式典が始まるまでの時間潰しであり、喜代古によるいつもの虐待が目当てであった。
「うちの姫様はのろまでね。見た目も不細工だし。母親と一緒で、体で皇太子殿下を誘惑したんですよ。皇太子殿下に申し訳ないわ」
宮殿の侍女が二人付き、喜代古は彼女たちに我が物顔で自らの主人を貶し始める。
アリィは無意識に胸を押さえた。
思春期を超えた頃から、低い身長と豊かになった胸がコンプレックスだったから――。
それを刺激するように、喜代古は六年かけて彼女を不細工と罵ったのだ。
(私が美人なら、もう少しマシな人のところに嫁げたのかしら)
今やアリィは、鏡を見るのも気が引けてしまう。
「やだー。出鶴の王妃って、体で王を落としたんですかぁ?」
「皇太子殿下も有明姫に一目惚れって話だし、娘も色目を使ったんでしょ」
喜代古に同調し、二人の侍女たちも礼儀など弁える気はないようで、アリィの目の前でひどい悪口を言った。
瑠璃色の絹のような髪をわざと引っ張ったり、似合わない化粧をしたりして――。
アリィはふと、鏡越しに櫛を見る。
(あれを奪って、自分の首をつけば……)
今日で命を終わらせよう、と決意した。
控室の外から物音が近づいてくる。
今の彼女には、どうでもいいことだ。
すると、その気配の主なのか――控室の扉が開かれた。
「皇子殿下? ここは娼館じゃないですよ?」
侍女が軽い口調で、侮蔑を込めて言った。
鏡の前で向き合ったままのアリィは、侵入者に興味もなく――ぼんやりとしたまま、鏡の前で俯いていた。
(皇太子かしら)
違和感はありながらも、今夜にも死ぬ覚悟のアリィにはどうでもいいことだ。
時間が過ぎるのを待った。
鏡越しに見えたのは、どす黒い煤のような何かだった。
真っ黒な闇の塊が、侍女たちの顔を覆っている――。
先程までアリィの髪を引っ張っていた侍女は、櫛を持って距離を取った。
真っ黒な塊は消えていたが、明らかに様子がおかしい。
(あれは、魔法……?)
異様な雰囲気に思わず目を丸くするが、振り向く気はなかった。
「私は……死を持って償います……」
侍女は虚空に向かってブツブツ呟くと、自分の首を櫛で滅多刺しにし始めた。
アリィから距離を取ったため、その返り血は飛んでこない。
まるで、そう命令されていたかのように。
大量の血と共に、どさりと倒れる音がした。
「ひ、ひいぃ……あんた、誰なのよ……!?」
それで喜代古が顔を真っ青にし、鶏のような声で叫んだ。
入ってきた人物に対して、言っているかのようだ。
「これは法に則った罰だよ。侍女ごときが、貴族を侮辱した。カナンだと、その場で裁いていい案件なんだ」
優しげな口調でありながら、どこか機嫌の悪そうな低い声がそう言った。
(もしかして、ユオシェム皇子……?)
以前に聞いた皇太子の声ではない。
話に聞いていた放蕩皇子なのかと、アリィは予想した。
その間にも、もう一人の侍女も櫛を拾い、同じように自ら命を絶ってしまった。
否、そうするように洗脳され、仕向けられているような形だ。
「お、皇子殿下……? 嘘……顔が変わっ……」
喜代古は何を見たのか、喉の奥が詰まったかのように後ずさる。
「本当は君を一番に殺すべきだけどさ……異国の人間みたいだし、法適用が微妙だしなぁ」
皇子と思われる人物の声は、聞いている分には全く恐ろしいとは感じないものだった。
「まっ、ここから出て行こうか」
「ひいぃっ……!」
彼は喜代古の髪を掴むと、そのまま勢い良く窓から放り投げる。
ドスン、と鈍い音が響いた。
それからほどなくして喜代古の声が聞こえ、遠くなっていく。
バタバタと大理石を踏みしめる足音と共に――。
静まり返った中、アリィは放蕩皇子と思わしき人を振り返る。
彼は死体にテーブルにかけてあった布をかけ、見えなくしていた。
血だまりであるのには変わりなく、生々しい鉄の匂いが立ち込める。
ふわりとした質感の淡い金の髪。
首筋くらいまで伸ばし、前髪の片方を掻き上げている。
肌の色はこの国の人の特徴である褐色で、体はかなり引き締まっていた。
「貴方は……ユオシェム皇子ですか?」
虚ろな目で問いかけるアリィに、その青年はぱっと表情を明るくする。
侍女を見ていた冷たい目が、まるで嘘のように。
それでも一瞬だけ、悲しそうな目をしてアリィを見つめた。
「うん。僕はユオ! ユオシェム・オル・カナン、第三皇子だよ。君は有明姫様だね?」
またたびを見つけた猫みたいに、彼は上ずった声を出す。
あっさりとした自己紹介で出てきた名前は――予想していたとおりのものだった。
(闇天将様……)
緑がかったピーコックブルーの瞳に、アリィはなぜだか神話を思い浮かべた。
(カナンの皇族は、闇天将様の血を引くものね)
皇太子に対しては、そんなことを微塵も思わなかったのに。
「君をずっと待ってたんだ」
血だまりの中、深呼吸して彼は笑う。
「ねぇ、僕と駆け落ちしない?」
あまりに唐突すぎて、アリィは硬直した。
しばしの沈黙。
慌てるように目を泳がせるユオは、そっとアリィのそばに歩み寄って、腰を落とした。
「ほら、僕は皇太子よりもマシだと思うよ。嫌がることは絶対にしないから」
言葉は軽いのに、懐かしむように目を細める姿。
アリィはどこか重みを感じた。
「いいですよ」
どうせできないだろうと決めつけ、アリィは投げやりに返す。
(駆け落ちなんて……見つかったときに処刑されるだけよ。でも……処刑なら、皇太子と結婚しなくて済むかしら)
ちらり、とユオを見た。
「じゃあ、君を幸せにするために頑張るからね」
ユオは頬を紅潮させて、にこにこと笑う。
冗談で言ったわけでもないようで、本気でアリィの夫にでもなるかのようだった。
彼はゆっくり立ち上がり、鏡台に置かれていた口紅を取り出した。
「少し触れてもいい? 変なことはしないから」
「……はい、どうぞ」
微動だにしないアリィに断ったかと思えば、なぜかそれを首筋に塗る。
白い首筋に仄かな赤が差されると、まるで鬱血しているかのように見えた。
(変な人だわ。化粧品で遊んでいるのかしら……)
アリィはじっと彼の目を見ていると、視線がかち合う。
不細工だという噂なんて、吹き飛ぶくらい――彫りの深い男前。
優しげなタレ目に、髪と同じ色の睫毛も長い。
背も高くて、容姿だけなら完璧だと言えるだろう。
「抱っこしていいかな?」
ユオはまた確認を取るようにして、アリィの顔をそっと覗き込んだ。
(たぶん、侍女たちは魔法で自殺に追い込まれた……この人によって)
彼がアリィに対してだけ律儀に許可を得る姿に、拍子抜けしてしまう。
「構いませんよ」
アリィはもはや、(どうにでもなれ)と、頷くしかない。
「じゃあ、行くよ」
ユオはアリィを横にして、優しくそっと抱え上げる。
(大きい……)
ドレス越しに触れた手が大きくて、男を知らない彼女は驚いた。
すぐにユオが全力疾走していったので、何かを感じる暇すらなかった。
大理石の床を鳴らしながら走る。
使用人は式の準備で忙しいのか、誰にも会わなかった。
ユオは宮殿の中でも最も大きな、御殿のような扉の前に立つ。
アリィには、それだけでも新鮮だった。
「大丈夫だよ、安心してね」
と、ユオはアリィを気遣うように言うと、その扉を脚で蹴り倒す。
中は式の準備で、一度だけ会ったことのある新郎――皇太子が立っていた。
皇帝と皇后も、奥に鎮座している。
他にも現地の貴族や、星慧教団の聖職者などが集まる、厳かな会場。
アリィは突き刺さる視線に俯いた。
「何事ですか!?」
激昂するように、白い肌の皇后が声を上げる。
ユオはアリィを抱えたまま、彼女の首筋が見えるように少し持ち上げた。
悲鳴のような声まで響くくらい、おかしな雰囲気に包まれる。
それもそのはずだ――花嫁の純潔が疑わしいということになったから。
この時になって、アリィはようやく口紅の意味を理解する。
「この子に一目惚れしたので、ついさっき手を出してしまいました! あはは、この子はもう他の人と結婚できませんね! ってことで、僕らが結婚しようと思います!」
笑いながら大声でそう言ってしまうユオの姿は、誰の目にも正気には映らない。
アリィにはユオの顔を見ている余裕もなく、ただ俯いていた。
けれども、笑って許される問題でもなく――ユオとは何もかも似ていない皇太子は、特に怒り狂った様子を見せた。
「この馬鹿者が! 俺の花嫁に手を出しただと!? お前を生かしていたのが間違いだった! この愚弟を死刑にしろ!」
「そうですよ、国際問題ですわ。ユオシェム皇子には責任を取らせませんと」
皇太子は怒り狂い、皇后は静かに睨む。
虚ろな皇帝は何も答えず、じっとユオを見つめているだけだ。
髪と瞳は、ユオと同じ色だった。
ずっと人生を諦めていたアリィは、この時にようやく時計の針が動き始めた気がしてくる。
一人の少女を裁判にかける姿は――幼い頃に読んだ本のようだ。
とても恐ろしいはずなのに、アリィも夢の中にいるような気になってしまう。
「……ふふっ」
大の貴族たちがこんな嘘に踊らされて怒り狂う姿。
不思議の国の住人のように、滑稽なものに見えてくる。
何年かぶりに、笑ってしまうくらいに。
「何がおかしいか! 女は生け捕りにし、ユオシェムを殺せ!」
それが皇太子を余計に怒らせる結果になり――次の瞬間には、兵士たちがぞろぞろと音を立てて駆けつけてくる。
「逃げるよ。捕まっててね!」
ユオはアリィを片手で抱き、林檎くらいの大きさの土色の道具を投げた。
それはたちまち、結婚式場を煙だらけにして――混乱の中、満月の下へと駆け抜けた。
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