195. 小さな重み

ー/ー



 この国の人々は、あの天蓋(キャノピー)の下で、エアモンと共に笑い、共に歩み、共に人生を過ごしているのだろう。それが、この国の「日常」なのだ。

 なんという豊かさだろう。

 なんという幸福だろう。

 妖精は、レスター三世の表情の変化を敏感に感じ取り、その小さな手でレスター三世の頬をそっと撫でた。

 皺だらけの、老人の頬を。

 「大丈夫だよ」と言うかのように。「いつでもまた会えるよ」と言うかのように。

 その仕草があまりにも優しくて、レスター三世は喉の奥が詰まるのを感じた。

 レスター三世は、その小さな手に自分の手を重ねた。

 (ふし)くれだった、老人の手を。

 胸の奥の温もりが、ほんの少しだけ熱くなった気がした。


      ◇


 従者たちも、それぞれに眼鏡を渡されていた。

 騎士団長は、妖精を見た瞬間に剣の柄に手をかけ、次の瞬間には呆然と口を開けていた。

 枢機卿は、膝から崩れ落ちて祈り始めていた。

 若い従者は妖精に話しかけ、話が通じたことにおののいていた。

 誰もが、それぞれの形で衝撃を受けている。

 ミーシャは、その光景を微笑みながら見守っていた。

 ――かつての自分も、初めてこの光景を見たときは、きっと同じ顔をしていたのだろう。

 そう思いながら、彼女は静かに呟いた。

「ようこそ、大アルカナ王国へ」

 その声には、心からの歓迎が込められていた。


        ◇


 レスター三世は、眼鏡をかけたまま、もう一度この国の景色を見渡した。

 花びらが舞い、妖精たちが踊り、天に向かって青い炎が脈動する世界――。

 美しかった。

 あまりにも美しかった。

 しかし今は、その美しさの中に、別の感情が混ざっていた。

 羨望。

 そして――慚愧(ざんき)

『冒険者の作った貧民の国』そう嗤っていた自分の姿が、脳裏に蘇ってきた。

 あれは、いつのことだったか。大アルカナ王国の噂を初めて耳にした時、レスター三世は鼻で笑った。「冒険者崩れが国を作った? そんなものは長続きせん。内政なめるなよ?」と。側近たちも同調した。

 誰も、この国の本当の姿を知ろうとはしなかった。

 知らないまま見下し、嗤っていた。

 なんと愚かだったことか。

 涙が、滲んできた。

 悔恨の涙だった。

 思い返せば、数十年王国を率いながら、自分は何をやっていたのか?

 どこまでも続く権力闘争。貴族たちの陰謀、派閥の駆け引き、暗殺の噂。毎日毎日、誰かを蹴落とし、誰かに蹴落とされまいと足掻いていた。

 そして、奪い取った権力で実現していく豪奢な暮らし。金糸の(にしき)宝玉(ほうぎょく)の冠、山海(さんかい)の珍味。民が飢えていても、王宮の宴は絶えることがなかった。

 ただ、それだけだ。

 それだけの人生だった。

 何を成し遂げた? 何を残した? 何を創り上げた?

 ――何もない。

 そんな先の見えない生活で心をすり減らし、気づけばでっぷりと太った醜い身体で老醜をさらすばかり。

 鏡を見るたびに、そこには父の面影も、若き日の精悍さも見当たらなかった。ただ、脂肪に埋もれた小さな目と、二重三重に垂れ下がった顎があるだけだった。

 それが、六十年の成果だ。

 それが、王としての自分だ。

 レスター三世は、拳を握りしめた。

 レスター三世は今回の訪問で何かを持ち帰らねばと心を新たにした。

 このままでは終われない。

 終わってたまるものか。

 妖精が、心配そうにレスター三世の顔を覗き込んでいた。「どうしたの?」と言わんばかりに、小首を傾げている。

 レスター三世は、無理やり笑みを作った。

 ――大丈夫じゃ。ワシは、まだ終わっておらん。

 何とかこの若造たちに一矢報い、何かを得て凱旋せねばならなかった。

 それは、国のためだけではない。

 自分自身のためだ。

 六十年の人生を、無駄ではなかったと証明するために。

 まだ、何かを成し遂げられると信じるために。

 レスター三世は、天蓋(キャノピー)を見上げた。

 あの巨大な構造物は、かつての自分には理解できないものだった。しかし今は違う。あれは、誰かの夢の結晶なのだ。誰かが「こんな世界を作りたい」と願い、その願いを形にしたものなのだ。

 きっとそれは国王なのだろう。新たな国のリーダーとして旗を掲げた冒険者レオン――。

 くっ、見事だ……。

 自分にも、できるだろうか。

 今からでも、遅くはないだろうか。

 その答えは、まだ分からない。

 しかし、問いかけることはできる。

 それだけで、今朝までの自分とは全く違うのだから。

 妖精が、レスター三世の肩にそっと降り立った。

 小さな重みが、不思議と心強かった。

「さあ、参りましょうか」

 ミーシャの声が、物思いを破った。

「まだまだ、ご案内したい場所がたくさんございますの」

 その言葉に、レスター三世は頷いた。

 この国にはまだ見ぬもの、学ぶべきことが、山ほどあるのだろう。

 老いた身体に鞭打って、すべてを吸収してやる。

 そして――何かを、持ち帰る。

 必ず。



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 この国の人々は、あの|天蓋《キャノピー》の下で、エアモンと共に笑い、共に歩み、共に人生を過ごしているのだろう。それが、この国の「日常」なのだ。
 なんという豊かさだろう。
 なんという幸福だろう。
 妖精は、レスター三世の表情の変化を敏感に感じ取り、その小さな手でレスター三世の頬をそっと撫でた。
 皺だらけの、老人の頬を。
 「大丈夫だよ」と言うかのように。「いつでもまた会えるよ」と言うかのように。
 その仕草があまりにも優しくて、レスター三世は喉の奥が詰まるのを感じた。
 レスター三世は、その小さな手に自分の手を重ねた。
 |節《ふし》くれだった、老人の手を。
 胸の奥の温もりが、ほんの少しだけ熱くなった気がした。
      ◇
 従者たちも、それぞれに眼鏡を渡されていた。
 騎士団長は、妖精を見た瞬間に剣の柄に手をかけ、次の瞬間には呆然と口を開けていた。
 枢機卿は、膝から崩れ落ちて祈り始めていた。
 若い従者は妖精に話しかけ、話が通じたことにおののいていた。
 誰もが、それぞれの形で衝撃を受けている。
 ミーシャは、その光景を微笑みながら見守っていた。
 ――かつての自分も、初めてこの光景を見たときは、きっと同じ顔をしていたのだろう。
 そう思いながら、彼女は静かに呟いた。
「ようこそ、大アルカナ王国へ」
 その声には、心からの歓迎が込められていた。
        ◇
 レスター三世は、眼鏡をかけたまま、もう一度この国の景色を見渡した。
 花びらが舞い、妖精たちが踊り、天に向かって青い炎が脈動する世界――。
 美しかった。
 あまりにも美しかった。
 しかし今は、その美しさの中に、別の感情が混ざっていた。
 羨望。
 そして――|慚愧《ざんき》。
『冒険者の作った貧民の国』そう嗤っていた自分の姿が、脳裏に蘇ってきた。
 あれは、いつのことだったか。大アルカナ王国の噂を初めて耳にした時、レスター三世は鼻で笑った。「冒険者崩れが国を作った? そんなものは長続きせん。内政なめるなよ?」と。側近たちも同調した。
 誰も、この国の本当の姿を知ろうとはしなかった。
 知らないまま見下し、嗤っていた。
 なんと愚かだったことか。
 涙が、滲んできた。
 悔恨の涙だった。
 思い返せば、数十年王国を率いながら、自分は何をやっていたのか?
 どこまでも続く権力闘争。貴族たちの陰謀、派閥の駆け引き、暗殺の噂。毎日毎日、誰かを蹴落とし、誰かに蹴落とされまいと足掻いていた。
 そして、奪い取った権力で実現していく豪奢な暮らし。金糸の|錦《にしき》、|宝玉《ほうぎょく》の冠、|山海《さんかい》の珍味。民が飢えていても、王宮の宴は絶えることがなかった。
 ただ、それだけだ。
 それだけの人生だった。
 何を成し遂げた? 何を残した? 何を創り上げた?
 ――何もない。
 そんな先の見えない生活で心をすり減らし、気づけばでっぷりと太った醜い身体で老醜をさらすばかり。
 鏡を見るたびに、そこには父の面影も、若き日の精悍さも見当たらなかった。ただ、脂肪に埋もれた小さな目と、二重三重に垂れ下がった顎があるだけだった。
 それが、六十年の成果だ。
 それが、王としての自分だ。
 レスター三世は、拳を握りしめた。
 レスター三世は今回の訪問で何かを持ち帰らねばと心を新たにした。
 このままでは終われない。
 終わってたまるものか。
 妖精が、心配そうにレスター三世の顔を覗き込んでいた。「どうしたの?」と言わんばかりに、小首を傾げている。
 レスター三世は、無理やり笑みを作った。
 ――大丈夫じゃ。ワシは、まだ終わっておらん。
 何とかこの若造たちに一矢報い、何かを得て凱旋せねばならなかった。
 それは、国のためだけではない。
 自分自身のためだ。
 六十年の人生を、無駄ではなかったと証明するために。
 まだ、何かを成し遂げられると信じるために。
 レスター三世は、|天蓋《キャノピー》を見上げた。
 あの巨大な構造物は、かつての自分には理解できないものだった。しかし今は違う。あれは、誰かの夢の結晶なのだ。誰かが「こんな世界を作りたい」と願い、その願いを形にしたものなのだ。
 きっとそれは国王なのだろう。新たな国のリーダーとして旗を掲げた冒険者レオン――。
 くっ、見事だ……。
 自分にも、できるだろうか。
 今からでも、遅くはないだろうか。
 その答えは、まだ分からない。
 しかし、問いかけることはできる。
 それだけで、今朝までの自分とは全く違うのだから。
 妖精が、レスター三世の肩にそっと降り立った。
 小さな重みが、不思議と心強かった。
「さあ、参りましょうか」
 ミーシャの声が、物思いを破った。
「まだまだ、ご案内したい場所がたくさんございますの」
 その言葉に、レスター三世は頷いた。
 この国にはまだ見ぬもの、学ぶべきことが、山ほどあるのだろう。
 老いた身体に鞭打って、すべてを吸収してやる。
 そして――何かを、持ち帰る。
 必ず。