【1】
ー/ー
「『お母さん』を探すのを手伝って欲しいの」
唐突な藍の台詞に、目の前の婚約者は一瞬言葉を失ったように見えた。
「……え、と。君のお母さんて亡くなってるよね? あ、もしかしてお母さんの想い出を辿る旅とかそういう意味?」
ようやく口を開いた貴幸は、藍の真意を量りかねているらしく探るように返して来る。
「ううん、違う。亡くなった母とは別に、──私には『本当のお母さん』がいるんじゃないかって。夢を見たのよ」
「夢って」
「真面目に聞いて! 夢、だけじゃないの」
笑い混じりで彼が言い掛けるのに、藍は強い調子で言葉を被せた。
「ごめん。茶化したわけじゃなくてあんまり突拍子もなかったから、つい。……だけど藍が真剣なのに失礼だったね」
謝ってくれる貴幸に、藍も慌てて頭を下げる。
「……私も突っ掛かるみたいな言い方してごめんなさい。聞いてもらえる?」
「もちろん」
「夢の中で私はまだ小さくて、……たぶん幼稚園に上がる前とかそんな感じ。母じゃない人の膝に抱っこされて『母ちゃん』って甘えてる、みたいな」
ひとつひとつ思い返すように話し始めた藍に、貴幸が疑問を呈してきた。
「『母ちゃん』って、藍のお宅にはあまりにもそぐわない気がするんだけどなぁ。昔観たホームドラマなんかと混同してるとか、じゃなくて?」
「……確かにそうね。親のことは『お父さま、お母さま』だし。でも──」
貴幸の問いに答えて、藍は言葉を繋いだ。
「夢見て目が覚めてから、急にぱーっと思い出したの。その抱っこされてる時だけじゃなくて、他にもいろいろ。私が『母ちゃん』て呼んだら、その人は『藍ちゃん』て返してくれるのよ。だから実際にあったことなんだと思う」
どうして忘れていたのか不思議に感じるくらい、一気に蘇った彼女に纏わる一連の記憶。
鮮明とは言えず曖昧な部分も多いのだが、すらりとした長身だった母とは似ても似つかない、小柄でふくよかな、気の良い笑顔の『小母さん』。
脳裏に浮かぶ彼女は常にエプロン姿だ。
母とは掛け離れた、家庭的な印象の女性。
「貴幸さんの言うとおり、私の家で『母ちゃん』なんて言葉を使わないのは間違いないわ。テレビくらいでしか聞いたことない。だから、──その、言葉は悪いけどそういう家で生まれて、今の両親に引き取られたんじゃないのかな、って」
「……藍。自分が何言ってるかわかってるよね?」
窘めるような貴幸の声にも、気分を害することはなかった。藍自身、後ろめたい思いを拭いきれていない。
「そういえば、藍パスポートは当然持ってるだろ? 高校の修学旅行もアメリカだったって言ってたし。パスポート取るときって戸籍が要るんだ」
それ以上藍を責めることはせず、貴幸は角度を変えて話題を振って来た。
「パスポートは子どもの頃から持ってるし、手続きもずっと親がやってくれてたから。……戸籍なんて見たことないわ」
「本気ではっきりさせたいんなら、戸籍確認してみる? 藍はもう成人してるんだから自分で取れるよ」
「……うん」
より現実を見据えている貴幸の提案を、藍は少しの逡巡の末に承諾した。
藍の自宅を管轄する区役所を、二人で目指す。
「ちょっとごめんね」
移動する電車の中で、貴幸が藍に断ってスマートフォンを手にした。
戸籍の取り方でも調べているのだろうか。普段藍と会っているときは、端末を取り出すこともない彼にしては珍しいと思いつつ、藍は無言で車両の窓ガラスを見つめていた。
大学四年生になる今まで、藍は役所を訪れたことなどはない。温室育ちの自覚は十分にあった。さすがに社会人三年目の貴幸は、そこまで世間知らずではないだろうが。
区役所に着き、藍は貴幸に教えてもらいながら交付請求書を作成した。彼の指示に従い、窓口の職員に提出してロビーのソファに座って待つ。
「七番でお待ちの新藤さん」
呼ばれて窓口に出向き、藍は出来上がった個人事項証明書を手数料を払って受け取った。敢えて手の中の書類から顔も気も逸らして、足早に貴幸の待つソファに戻る。
彼の横に腰を下ろし、藍は証明書の両親の欄に恐る恐る目を走らせた。
────
父 新藤 俊博
母 新藤 紫子
続柄 長女
────
「……お母さま」
母親の欄に記載されているのは、紛れもなく亡き母の名だった。知らず止めていた息を大きく吐く。
安心したのか、それとも内心信じていなかったための衝撃か。それさえも判別できないままに、藍は身体に力が入らない状態で、腰掛けていたソファから立ち上がることもできない。
貴幸に支えられるようにして区役所を出て、すぐ傍のカフェに落ち着いた。
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「『お母さん』を探すのを手伝って欲しいの」
唐突な|藍《あい》の台詞に、目の前の婚約者は一瞬言葉を失ったように見えた。
「……え、と。君のお母さんて亡くなってるよね? あ、もしかしてお母さんの想い出を辿る旅とかそういう意味?」
ようやく口を開いた|貴幸《たかゆき》は、藍の真意を量りかねているらしく探るように返して来る。
「ううん、違う。亡くなった母とは別に、──私には『本当のお母さん』がいるんじゃないかって。夢を見たのよ」
「夢って」
「真面目に聞いて! 夢、だけじゃないの」
笑い混じりで彼が言い掛けるのに、藍は強い調子で言葉を被せた。
「ごめん。茶化したわけじゃなくてあんまり突拍子もなかったから、つい。……だけど藍が真剣なのに失礼だったね」
謝ってくれる貴幸に、藍も慌てて頭を下げる。
「……私も突っ掛かるみたいな言い方してごめんなさい。聞いてもらえる?」
「もちろん」
「夢の中で私はまだ小さくて、……たぶん幼稚園に上がる前とかそんな感じ。母じゃない人の膝に抱っこされて『母ちゃん』って甘えてる、みたいな」
ひとつひとつ思い返すように話し始めた藍に、貴幸が疑問を呈してきた。
「『母ちゃん』って、藍のお宅にはあまりにもそぐわない気がするんだけどなぁ。昔観たホームドラマなんかと混同してるとか、じゃなくて?」
「……確かにそうね。親のことは『お父さま、お母さま』だし。でも──」
貴幸の問いに答えて、藍は言葉を繋いだ。
「夢見て目が覚めてから、急にぱーっと思い出したの。その抱っこされてる時だけじゃなくて、他にもいろいろ。私が『母ちゃん』て呼んだら、その人は『藍ちゃん』て返してくれるのよ。だから実際にあったことなんだと思う」
どうして忘れていたのか不思議に感じるくらい、一気に蘇った彼女に纏わる一連の記憶。
鮮明とは言えず曖昧な部分も多いのだが、すらりとした長身だった母とは似ても似つかない、小柄でふくよかな、気の良い笑顔の『小母さん』。
脳裏に浮かぶ彼女は常にエプロン姿だ。
母とは掛け離れた、家庭的な印象の女性。
「貴幸さんの言うとおり、私の家で『母ちゃん』なんて言葉を使わないのは間違いないわ。テレビくらいでしか聞いたことない。だから、──その、言葉は悪いけどそういう家で生まれて、今の両親に引き取られたんじゃないのかな、って」
「……藍。自分が何言ってるかわかってるよね?」
窘めるような貴幸の声にも、気分を害することはなかった。藍自身、後ろめたい思いを拭いきれていない。
「そういえば、藍パスポートは当然持ってるだろ? 高校の修学旅行もアメリカだったって言ってたし。パスポート取るときって戸籍が要るんだ」
それ以上藍を責めることはせず、貴幸は角度を変えて話題を振って来た。
「パスポートは子どもの頃から持ってるし、手続きもずっと親がやってくれてたから。……戸籍なんて見たことないわ」
「本気ではっきりさせたいんなら、戸籍確認してみる? 藍はもう成人してるんだから自分で取れるよ」
「……うん」
より現実を見据えている貴幸の提案を、藍は少しの逡巡の末に承諾した。
藍の自宅を管轄する区役所を、二人で目指す。
「ちょっとごめんね」
移動する電車の中で、貴幸が藍に断ってスマートフォンを手にした。
戸籍の取り方でも調べているのだろうか。普段藍と会っているときは、端末を取り出すこともない彼にしては珍しいと思いつつ、藍は無言で車両の窓ガラスを見つめていた。
大学四年生になる今まで、藍は役所を訪れたことなどはない。温室育ちの自覚は十分にあった。さすがに社会人三年目の貴幸は、そこまで世間知らずではないだろうが。
区役所に着き、藍は貴幸に教えてもらいながら交付請求書を作成した。彼の指示に従い、窓口の職員に提出してロビーのソファに座って待つ。
「七番でお待ちの|新藤《しんどう》さん」
呼ばれて窓口に出向き、藍は出来上がった個人事項証明書を手数料を払って受け取った。敢えて手の中の書類から顔も気も逸らして、足早に貴幸の待つソファに戻る。
彼の横に腰を下ろし、藍は証明書の両親の欄に恐る恐る目を走らせた。
────
父 新藤 |俊博《としひろ》
母 新藤 |紫子《ゆかりこ》
続柄 長女
────
「……お母さま」
母親の欄に記載されているのは、紛れもなく亡き母の名だった。知らず止めていた息を大きく吐く。
安心したのか、それとも内心信じていなかったための衝撃か。それさえも判別できないままに、藍は身体に力が入らない状態で、腰掛けていたソファから立ち上がることもできない。
貴幸に支えられるようにして区役所を出て、すぐ傍のカフェに落ち着いた。